よ 【天地の初発(はじめ)の時】1.

【 天地の≪古事記上巻の結論≫

『 心の原論と言霊の新釈古事記上巻 』

島田正路著 『古事記と言霊』 を拠り所として

古事記上巻は、天地の初発の時より始まります。

(原文)

『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、

【 言霊 ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神。 次に 、

【 言霊 ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 、

【 言霊 ワ】 神産巣日(かみむすび)の神。 この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。』

次に、国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

【 言霊 ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に、

【 言霊 オ】 天の常立(とこたち)の神。 この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。 』

次に成りませる神の名は、

【 言霊 エ】 国の常立(とこたち)の神。次に 、

【 言霊 ヱ】 豊雲野(とよくもの)の神。

この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。』

次に成りませる神の名は、

【 言霊 チ】 宇比地邇(うひぢに)の神。次に 、

【 言霊 イ】 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。

次に 、

【 言霊 キ】 角杙(つのぐひ)の神。次に 、

【 言霊 ミ】 妹活杙(いくぐひ)の神。

次に 、

【 言霊 シ】 意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に 、

【 言霊 リ】 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。

次に 、

【 言霊 ヒ】 於母陀流(おもだる)の神。次に 、

【 言霊 ニ】 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

次に、

【 言霊 イ】 伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に、

【 言霊 ヰ】 妹伊耶那美(み)の神。 』

---以上冒頭の十七神の引用。------------

ここでさっさと結論を出しておきます。古事記を神話、民話や伝承、歴史、未開な思想等としている方には全く別の分野の話のことになります。上巻は五千年以上も前に既に完成していた、人の心とは何か、の完璧な解答教科書として残されたものなのです。心の事を書いたものですから、人の行なう全ての事象に該当しています。

≪古事記上巻の結論≫

上巻には【 】内の言葉はありません。古事記の上巻はそもそも、【 】内の言葉(言霊)を説明し、その整理使用法を述べ、ひいては言霊を用いて歴史を運用する人間の精神行為の適応法を述べたものです。

上巻の結論とは、それぞれがかっこ内の言葉となり、それを使用する人間の心の構造となって、それを使用して創造していく歴史文明創造行為であり、それらを導いた「心とは何か」を明かして示し、今後の三千世界を導く事です。

全てが比喩的に語られ、今までの歴史上知っている人がいても誰もが語るのをはばかれたものです。

「 世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、この仕組 分りてはならず分らねばならず、なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。」(ひふみ。21)

「 知らしてはならず、知らさいでもならず、神は辛いぞよ」(大本お筆先)

「 我に付きたりしものどもに、真の事を言はざりけると思いて、佐渡の国より弟子共に内な申す法門あり

此は仏より後、迦葉(かしょう)、阿難(あなん)・竜樹(りゅうじゅ)・天親・天台・妙樂・伝教・義親等の大論師、大人師は知りて而もその心の中に秘めさせ給ひて、口より外に出し給わず、其の故は仏制して言ふ、我滅後末法に入らずば此大法言ふべからずとありし故なり。

日蓮は其使にはあらねども其時刻にあたる上、存外に此大法をさとりぬれば聖人の出でさせ給うまで、先づ序文にあらあら申すなり。

而るに此の大法出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は、皆日出でて後の光、巧匠の後に拙なきを知るなるべし。此時には正像の寺堂の仏像僧寺の霊験は皆消え失せて、但此の大法のみ一閻浮堤に流布すべしと見えて候。」(日蓮、三沢某への手紙)

神でさえ語るのがはばかれ、日蓮は自分の教えなど、意味のない存在(「皆日出でて後の光」)とまで言っています。

直接言うことを避け御告げの形がとられたひふみ神示では、このことが明かされる事を、「 二二(ふじ)は晴れたり日本晴れ」と言うことから始めました。「二二」とは「ニニギの命」のこととをさし、二の二のギ(技芸)のことで、つまり三次的な技芸の世界のことです。

ここでも二二は譬喩として語られ、人々に富士と読ますようにしています。もちろんそれでも言葉として通じますから、それで構わないのです。「知らしてならん仕組ぞ。」という半分がありますから。

「二二」の実際の内容は次の通りです。一は言霊原理、原理の次(二)の産物は言霊原理による言葉、つまり大和言葉、そして、二の二の世界(ふじと読まされている)は言葉において行為創造する人間の活動そのもののことです。こうして、その時が今ここに来たのだから原理に則って二本足で歩めということです。

二の二は三次的な事という意味は別の表現もできます。一は言霊原理、原理の次(二)の産物は言霊原理による言葉で、その次の事を二の二と言いますから、言葉による交流創造の次元、人間行為の次元のことになります。言葉の原理とその表現法は先天的に与えられています。その先天性によって人間の創造活動、つまり、後天活動が眼に見えるようになるというのが、二の二です。後天現象のことです。

これを数霊でしめしたのが、「ヒフミヨイムナヤコトタリ」で、ひふみ神示では、

「 マコトとは 一二三四五六七八九十と申してあろう、

そのうらは十九八七六五四三二一 で、合せて二十二であるぞ、

二二が真理と知らしてあろう、

二二が富士(不二、普字)と申してあろうが、まだ判らんか。

(紫金の巻 第三帖)」

「 フトマニとは大宇宙の法則であり秩序であるぞ、神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、 九十(マコト)の誠であるぞ、合せて二十二、富士(普字、不二)(フジ)であるぞ。神示の始めに示してあろう。二二(富士)は晴れたり日本晴れぞ。」

と、示されています。

この二つの表現は方や1~10×2で20、方や11+11で22で、「20」と「22」を両方とも「22、(二十二、二二、フジ)」と言っています。

ここに富士山が出てくるのは、訳者の無理解の上にぴったりヒットした表現で、別に富士山が晴れて立派に見えるなんてことは全然関係ない事ですが、そういう素晴らしいというか、現象として現れるという事をいいたい為の譬喩です。

「20」と「22」の両方が同じ意味を持つというのは次の通りです。

1~10というのは、訳しますと、1・23456789・10のことで、あいうえお五十音図の各段、母音(主体)・子音(8)・半母音(客体)の全部で10のことです。この主体側が、八音を通過して、客体側に達すると、現象となります。ここで現象となっものが0、例えば単音の言葉、で、その0の上に同じ構造が循環されて、次の0を、つまり1~10を産みます。

その時に始めの0(下0)と出来上がった0(上0)、上0は次の循環の為の下0になる、の二つを勘定すると二二なるというわけです。

これらは単なる数霊での表現で実体を持ったものではありませんから、囚われても意味の出て来るものではありません。それはフトマニ言霊学によってしかその内容を明かす事はありませんので、フトマニ言霊学の勉強がどうしても必要です。

当て漢字を用いたければ、息吹を「ふ」と読んで(吹だけでもいいですが)、「息吹(ふ)示(じ)は晴れたり日本晴れとなるでしょう。息吹は言霊による言葉のことで、息吹を示す事によって、これからは今までのような無自覚なフトマニ言霊を使用しなくても良い時代が到来したということです。(ひふみ神示、地つ巻き、34)

古事記の上巻は言霊を明らかに示し見せて運用する法を教えたものです。数霊、神示、譬喩に囚われる時代は終わりました。

運用する主体はわれわれ人間で、「明らかに(か)、示し見せる(み)」ことを、かみ(神)、と言い、神とはわれわれ人間のことで、神道では神を拝む(おろがむ、愚か者が拝む)ことはありません。拝むのではなく、「いつく」のが昔からの神道です。

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【 】内の言葉は古事記上巻に記載はありませんが、冒頭の神名五十神と、それに対応するアイウエオ五十音は別の書物として、皇室の御賢所に秘められています。人類史上至高の「賢い」場所というわけです。

結論をまず挙げておきました。

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≪「物」と「者」。天地。≫

神道には八百万の神々がいて、万物に神が宿るといわれる。

自然物や自然現象、抽象概念の神格化、有能な者の神化、等々、やたらと神がいて、古神道は自然崇拝、精霊崇拝だなどといわれてもいます。

石ころにも神は宿るので、当然人間にも神が宿っており、神の子供となっています。

ところが、神は人間の身近にいて普段から神と共にいるといわれていますが、神は人の力を超えた有能者ですから、いつでも人間は置いてきぼりです。

山川石ころが神であるわりには、人間が、わたしが、あなたが、父母が、生きている誰でもが神であると断言する神道、神の道、がありません。

せいぜい、死ぬと神になるという程度の事か、神の魂が備わっているといわれるだけのようです。何とも寂しい限りですが、人間側が神を拝んでいる以上致し方ないことです。

人間を神としてしまう神さんの居場所が無くなるからでしょう。人は、神の子、神の魂が備わっているといっても、あからさまには、人は神である、とはいいません。生きている内に神であると、死んだ後に自分の神としての行き場が無いからでしょう。

不思議な事に、日本神道の基となっている古事記を読むと、拝む為の神さんなどどこにもいません。拝むでなく、いつくといわれています。神を自然の神格化というのも、概念の連想ゲームから来た当てつけがすべてのようで、幾らでも観念を取捨して取り替えたりできます。

それでも、千年を越える伝統的な解釈の力が強いですから、真偽というより、既成概念の歴史的保守がもっぱら重要なこととなっています。

明治天皇から始まる真実の神概念の元での言霊学の歴史も、昭和天皇の人間宣言という形で終了してしまいました。その替わり、神と言霊と人間を結び付ける学問は民間に流れ根付いていきました。

千数百年の古事記の上巻の理解の大勢は変わってはいませんが、

島田正路 『言霊百神』 「コトタマノマナビ-古事記と言霊講座」

http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/

によって、完璧に塗り替えられ、古事記は言霊原理の新しい教科書となりました。

そこから古事記を見ていくと、つまり、言霊思想の出来た五千年以上前の古代大和の当たり前な考えからすれば、神が天地を作ったなどという考えは出てきません。

【 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。】

冒頭の句は、神が天地を造ったなどとどうやっても読めませんが、千数百年間はそうやって通してきました。よせ集めた神話、民話、説話、伝承等を比較するとそうなるというだけのことです。古代人の知能程度からすれば古事記も同じだというだけです。

そこにはそのように解釈せざるを得ない人間側の問題が全く抜け落ちていて、いわれたままを信じてきた二十世紀もの、失われた真実の歴史があります。面白いことに真実の理解は失っても、実質である物質文明ははち切れんばかりの興隆の世紀となっています。

さらには、世界の歴史がこの古事記の上巻の思想から流れ出たものであると知る事になったらどうでしょう。に歴史とは人間の精神の動きの上に築かれます。では歴史を造った精神とはどこにあるのでしょうか。それは五千年以上前の古代の大和から発信されたというのが、古事記上巻から出てくる理解です。

それはあなたの勝手な解釈だという声が当然聞こえてきます。勝手な解釈だという心も多様ですが、それらがどのようにどうして出てきたのかを、上巻に沿って一つ一つ解き明かされていったらどうなるでしょう。全ての人の意見の出所が、バレバレになるということです。しかもその根拠がまたもや上巻にあるというのです。

最後の反論はそれは信仰だ信心だという事にまでなるでしょう。そして、最後の言葉は

「もしそれ然(しか)したまふ事を恨怨(うら)みて攻め戦はば」、

という感情の元に出てくるでしょう。

二十世紀の間守られてきた古事記の解釈をする側の最後の怨念が現れてきます。これはいままでの精神、物質両面の指導側の、全宗教指導者、政治経済側の指導者の怨念ともなります。

怨念は人が死んでも残る感情ともいわれるほど強いものですが、弱い立場の者が持つだけでなく、現代の全分野の指導層が持つことになるものですから、そのまま放っておけば世界の破滅に導かれるかもしれないものです。彼らにはせっかくしてあげたというプライドがあるので、それを無化されることに耐えられません。

これを解決する人は今のところはどこにもいません。

ただ解決する道が残されているだけです。

古事記の上巻を読み込む事です。

「もしそれ然(しか)したまふ事を恨怨(うら)みて攻め戦はば」の言葉は、上巻最後の物語「海彦山彦」からのものです。世界の旧体制最後の在り方を示し、新体制への持っていき方、すなわち、現代の生き方を示したものです。

一方、このブログを読んだり、言霊学の勉強をして意見を主張していきますと、海彦の「恨怨(うら)み」を受けることもあります。

【故、爾(そ)れより以後(のち)は、稍兪(やや)に貧しくなりて、更に荒き心を起して迫め来ぬ。

攻めむとする時は、塩盈珠を出して溺らし、其れ愁ひ請せば、如此惚(なや)まし苦しめたまひし時に、】

と、対処の法が述べられていますが、今のところわたしの理解を絶しています。ことに、「塩乾珠を出して救ひ、」出すだけの用意がこちら側には無いからです。

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≪初発の意見を一言でいうと≫

古事記の解説をするはずなのですが、今回も「天地の初発」に関する事です。

上巻の出だしを、この世の宇宙世界のことの「初発」にするのは間違いである、と主張していくわけですが、既に千年以上も常識となっているものをどうするのかと、心配される方もいると思います。

コペルニクスのように客観世界を扱うのなら、学問的証拠を集め、、権威筋の脅迫を排除して、事実を集めて勝負できますが、上巻は心の原論の教科書であるということになると、そう簡単にはいきません。主観そのものと、過去の全歴史を扱うからです。

結局、こちら側が学識学問知識概念等を集めに集めても、その喋り方書き方がどのような形になるにせよ、相手の経験知識にしか訴えない事は自明の事です。そこから出てくるのが、賛成であろうと反対であろうと、知識概念での判断でしかありません。

そんな事は既に千年以上も続く間違った常識としてあるのを、またもや、違った概念知識の元で喋ろうとするだけのものです。学問的な新発見とか新研究とかいって、発表されるものをみれば、観点の移動しただけのものです。

今回の古事記の言霊学に関してはそういった事を繰り返すわけにはいかないのです。賛成されようと反対されようと、大したかわりは無いのです。いずれの人々も何も知ってはいないからです。

わたしもその口の一人です。何も知らずに受け売りをしているだけです。賛否いずれかの反応があればそれなりの応答もするのですが、せいぜい受け売りか、自分の頭を使ったか、いずれにしても、記憶概念のこね直しでしかありません。

もうそんな事をやっている時じゃないよと、多くの神示や予言が出現していますが、未だに誰一人として分かっている人がいません。ただいわれた事を白状しているだけで、それをみて、解説をする人たちがいるだけです。

解説は概念ですから、解説同士の戦争が終わりません。自分のお気に入りがあっちにあるかこっちにあるかだけの違いなのに、片足をあの世につっこんでいる事を悟りません。

少なくとも解説者は仏教の空の悟りぐらいは得ているのを、最低条件としたいくらいです。悟りが人生の目標だなんていう人たちは、悟りが最低条件でしかなく、そこから最初の一歩が始まる世界があるなんていうと、返って悟りを人生の目的として固執したくなる事に幸せを感じるのではないかと疑います。

初発を右に行くか左に行くか真っ直ぐ行くか斜めかで、行き着く先が違ってきて、結果も違います。時には止まったりとんぼ返りしたり放棄したりというのもあるでしょう。途中を飛ばして結果だけの見栄えを良くしたものもあります。

マラソンレースのゴールは同じなのに、同じ人類人間として産まれてきたのに、その結果は何故無数の変化違いがあるようにみえるのでしょうか。人の初発の時なんて、男女のまぐあいです。皆同じようなものです。、

さて、天地の初発とは何かです。

ここで面白い事を言ってみましょう。

いままで初発に関していろいろと書いてきましたが、それらを一言でいうと何でしょうか。

途中で賛成反対馬鹿らしい等々いろいろあったでしょうけど、そういった反応も全部ひっくるめて、いままでの事を一言で表現して下さい。

死後とか霊魂とかの話をすると、あれこれ、小さい経験大きい経験、わたしの意見あなたのいけん人それぞれの意見、等々とどこまで行くのか分からなくなるほど拡がります。

天地の初発に関してもそんな感じでしょう。物理世界、宇宙世界のあれこれ、精神主観世界のあれこれが、天地の初発になっていました。

ついでにいままでの事と死後霊魂のそれぞれの意見も味噌胡麻にひっくるめて一言でいうとなんというでしょうか。

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≪初発の半分≫

世界最高の精神の教科書である古事記の上巻の、始めに書かれた言葉を間違えたら、世界最低の理解となります。出だしを間違え、出発する方向を間違えたら目的地に着きません。

しかし、当初に間違えるようにさせられていたらどうなるでしょう。間違える事が当然で百パーセントの人たちがそれで納得している図です。宗教を信じて神がいるとか、あの世があるとか、霊魂は不滅とか、間違わされていたらどうでしょう。

間違いを保証するかのように、大昔から、言い伝え神話説話として神霊魂あの世の話をしておき、それを記録記憶し残し、大小様々な経験を神霊魂あの世に結び付けるようにさせられていたらどうでしょう。

どんな不幸があっても、どんな災難があっても、魂がうちひしがれないように、神霊魂あの世が用意され、希望を失わないように神霊魂あの世からの返答が、全部はきけないけど半分聞かれるようになっていたらどうでしょう。

全部を聞きたいのに許されず半分しか聞けません。その半分というのは信じればということで、努力すればということで、経験すればということで、与えられればということです。そのような仕組みの中に、人は生きていくようにさせられていたらどうでしょう。

誰がそんなことをするのですか。神ですか。創造主がですか。

その返答に一言付け加えてみませんか。「人間」という言葉を。

神のような人間がした、創造主のような人間が計画したと。

神霊魂あの世に問いかけると半分は神霊魂あの世自体が答えてくれます。これは誰にでも共通です。全部答えてくれないので正解ということができません。何故そんな半分の仕組みがあるのですか。

答えてくれた半分は、人の基本的な生き方の要求であったり、未来の目標であったり、いまここでは手に入れることのできないものの提示であったりして、これも誰にも共通です。何故そんな半分の仕組みがあるのですか。

ここまで聞いてくると神とはこの半分を与えるものという感じがしてきませんか。どのような難しい問いにも簡単な問いにも、問いかけた人にはその力量に応じて必ず半分は答えてくれます。残りは本人次第なのか神様次第なのかわからない、未来への時の経過の中に置かれます。

この半分答えるものが神であるとしてみましょう。

そこで突然にここで古事記が出てきます。

古事記の上巻は総てを答えます。どのように答えるかというと、

【 この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、

「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」

と詔りたまひて、】

とこのように、子を産んだことに満足します。子とは結果を得たこと、答えたこと、現象を創造したこと、です。

宗教の神さんが半分しか答えないというのとは大変な違いです。さらに、結果を得たことに「大(いた)く歓喜(よろこ)ばして」、しかもその答は丁重に三つにわけて答えられます。

キリスト教も愛による歓喜の恩寵を語ります。しかしそれはすぐ人知れず隠され個人の聖域に秘められてしまいます。決して社会政治の運営、産業文明創造に与しません。

【 すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、

天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、 言依(ことよ)さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。

次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を知らせ」と、言依さしたまひき。

次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原(よなばら)を知らせ」と、言依さしたまひき。】

高天原の精神原理と、精神の文化文明感情と、精神を元とした学問産業方面に分けられる、人間の全性能に対応する答です。

古事記の思想によってできるのに世界の大宗教ができないというのは、おかしいと思いませんか。

実は世界の大宗教は古事記の思想(フトマニ思想)によってできたものです。また世界の歴史もフトマニ思想を適用したもので、古代大和のスメラミコトがユダヤのモーゼを指名して世界建設にあたらせたものです。巷で言われるようにその逆ではありませんが、そんなことは歴史的な証拠が出てくれば済むことです。

そこで新しい疑問が起きます。神さんが今までしてくれた半分だけの答とはなんだったのか、です。それが月読みの答られた半分ということになります。

全世界の宗教の神さんたちの返事というのはこの月読みさんの答の半分側なのです。古事記というのは、全世界の宗教の神さんたちに半分だけは答えるように指導したものなのです。

世界の教典、神話、伝承を読み直せば、それらの内容の実相がフトマニ思想にあるはずです。何故なら、世界中の教典、神話類はある実相を元とした譬喩を概念的に述べたものですが、古事記の上巻は実相そのものの表現となっているからです。

天地の初発の、天地が何故実相そのものであるか不思議に思うでしょう。それは遅れてやってきた中華の言葉の影響下にいるからです。

「あめつち」

古代の大和の言葉使い「アメツチ」に戻してみれば、アの芽がツーッと結ばれて地に着くことを、あ・め・つ・ち、と表現したのです。

ものごとの始めは「あっ」という全体感が喚起され(芽)、それがわたしの意識と相手対象に結ばれ(つーっ)、付き合わされる(ち)ことで実際に始まりことが起きます。

パソコン画面の文字列を読む場合でも、スイスイと文章を読んでいるつもりですが、その読んでいる始めの始めの時には、文字列を見て「パソコン」の「パ」と判断する以前には、「パ」と意識の相互の感応があって、「パ」意識が「パ」と納得する過程とその連続が存在します。

このような意識、心の始まりを了解しないと心の動きが全部宙ぶらりんになってしまいます。古代に心の原理が発見され、フトマニ言霊はその法則なのです。

上巻は一見譬喩のように書かれていますが、そこで使用されている言葉は、言葉そのものの実体を示しているのです。

「はじめ」

「始め」も同様で、葉によって示された芽、ということで、ものの出てくる始めを指し、葉という出て来た現象の立場を示すために「し」に濁点をつけて過去になっている事を現し、ことの始めの芽が現存していることを示しています。

始めは初めとも書きますが、これは中華の言葉を使用しているから、言葉が違うから、漢字が違うから、内容も違うだろうというようなものですが、分けたければ先天構造内での初めと、後天現象での始めになります。しかし、その大和言葉の心の構造は同じです。

それを表現の違い、言葉のよってきた違い等の現象を突つきだし始めると、この千数百年間の結果が導かれるのです。こうして意見の違いが起きます。

古事記上巻の一字一句はこのように書かれているので、神話のように説明概念を使用したものではありません。概念を使った譬喩ではなく、指示、呪示、指し月の指、です。指のその先にある、「あっ」と意識が芽生えたその地中にあるものが、古事記の上巻です。

表現の違いが心と主張の違いになるのが知識の特徴です。

表現は違っても同じ思いになれるのが感情の特徴です。

宗教というものは神さんの答が半分しか得えられないものなのです。古事記のフトマニ言霊思想によって三千年間にわたって神さん自身がそのように指導されていたものです。

つまり指導したのはフトマニ言霊思想を造った人です。聖(ひじり)と呼ばれ、霊(ひ)知りのことです。政治社会指導者としてはスメラミコト、実言(ミコト)によって統一する(スメル)、といわれました。

世界宗教の創造者たちが古代大和に教えを請いに来ていましたが(竹内文書)、スメラミコトはフトマニ原理の全部を知らせませんでした。精神原理を教えても物質条件がそろっていないからです。そこで宗教は半分だけ答える事を仰せつかったのです。

ですので、「天地の初発」を字句を解説してきた今までの千数百年年間は、古事記を奉った後の半分だけを示したものです。フトマニ思想の実質内容からすれば全く間違ったものですが、内容を理解する言葉になるためには必要な解釈でした。

さて、前回の「 いままで初発に関していろいろと書いてきましたが、それらを一言でいうと何でしょうか。」の解答です。

それは、一言でいうと、知識です。

頭の中にあるときは、記憶で、でてきて表現されると概念です。

頑張って研究して勉強して整理されていけば、学問になります。

知識を持っている人は知者になり、学者になり、学者馬鹿になります。

知識に類する言葉は沢山あり非常に重要な人間性能です。しかしそれだけのものです。

勉強ばかりして頭でっかちで役立たずとは母親の言葉です。とっさの判断が必要な時にあれはなんだ何故かどうしてかなどと考えていたら車に轢かれます。学問知識は飢えた子供たちの何なのか、科学者というのは情けが無く人の心が理解できない、と言われます。

天地の初発を知識で解していけば、知識で終わります。知識次元のことだからと断って置かないと、知識の無能力、無気力、無効が露呈します。

古事記の上巻は心の原理となっている教科書ですから、そんな次元で留まっているわけにはいきません。

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≪機縁。縁起≫。

始めが肝心なので「始めとは」何かについてついて調べていたら、仏教の縁起、機縁、十二支縁起なるものを見いだしました。

「釈迦は縁起について、

私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。」(ウィキ)なんていうのもありました。

十二支縁起の要素 をウィキから。

無明(むみょう、) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。

行(ぎょう、) - 志向作用。

識(しき、) - 識別作用

名色(みょうしき、) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。

六処(ろくしょ、) - 六つの感覚器官。

触(そく、) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。

受(じゅ、) - 感受。

愛(あい、) - 渇愛。

取(しゅ、) - 自分の求めるもののために馳求する位。

有(う、) - 存在。

生(しょう、) - 生まれること。

老死(ろうし、) - 老いと死。

記録されている仏陀の言葉は聞く方に都合良くなるように編集されていて、仏陀がこれだけは語っているらしいという事で、もちろん仏陀の本音を現したものではないのは、どの仏教書においても同様です。

記録者は相変わらず、(無)意識領域と、五感感覚領域と、情動感情領域とを分類しているようです。それが理解できる範囲内にあったからです。神示とか、神の言葉とか、キリストが語ったとかいうのも、もちろんそのものずばりを全部記録しているわけではありません。

これらのものをそのまま書かれたものとして受け入れ、「始め」なら「始め」として、そこから出発するのが大衆と僧と学者たちの態度で、釈迦はその事を「 私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。」と言っています。

取り上げられている十二を良く見ますと、結局は総て経験領域のことを指しているだけのことです。つまり、釈迦の言葉と教えをを聞く方の、弟子の都合の良い事だけを記録しているだけのようにみえます。

その他にまだ言っていない事がある、隠れた言葉があるというのではありません。一を語ればそれが総てを語る事になるのですから、不足な部分などあるはずがありません。経験領域で語れないものがあるけれど、経験として現象しないから語らないだけで、もともと、大衆、弟子僧、学者たちは語れないものを語る相手になっていないということです。

ですので十二支縁起のどれかを取り上げて、そこから話を始めると、話題を提供したり、いい話を聞いたり、勉強になったり、これからの研究の材料にはなるでしょうけれど、伊耶那岐の大神の『吾は御身おほみまの祓はらへせむ』とのりたまひて、のようになりません。

始めとは何かを語ろうとして、何かの始めなるものを持ってきます。それは動機であったり、目標であったり、準備であったり、前世であったり、語る人の立場をそれぞれ表明するだけです。それらは、学者の論文になったり、聖職者のお説教になったり、犯人探しの立脚点になったり、ブログの感想になったり、それぞれの形を取ります。

個々の現実にあたっては立派な成果が得られるものですが、意識という現実に対しては、始めとは何ですか、には答えられていません。それらの態度から答えようとすると返って、ぶつかり合い主張のし合いになって収拾がつかなくなります。

「はじめ」が肝心で、始めを語るのに始めに頭にきたった、感覚なり思いが始めになっているようです。起承転結や正反合、帰納とか演繹を好んだり、ダイレクトが大好きというその人の好みに応じて、「はじめ」もいろいろです。

こうなると確かに始めはあるけれど、いろいろあって「はじめ論」などとんでもないというようなことになりそうです。それでもビッグバンなど、未だに通用しているようで、科学的観察によるといえばそれが通る事もあります。

客観世界なら観察と経験から正しいとか間違っているとかいう事もありますが、主観世界のことになるとなかなかそうはいきません。宗教による対立はうまくいかない最たるもので、宗教感情を持つという事では納得し合っても、ではその始めを何々の神にするとなると、たちまち始めの神さん同士の戦争が始まり、相手側を殲滅しようとさえしています。

結局、哲学も宗教も思想、学問も科学も、それらを元にした解釈も、自らの依って立つ基盤とそこからの主張と、もしできれば相手を打ちのめす腕力を構築しているだけです。こうした言い方が不満なら論理とかも付け加えておきましょうか。

一つのことを始めようとしているのですがなかなかうまくいきません。

それもそのはずです。誰にとっても始めの始めがいい加減だからです。始めてしまったことに対しては人はそれは自分が始めたのだ、始めて始めたのだから、特許だとか独占権だとか自分の唾をつけて囲い込む事に熱心になります。

それらは一見現象として、造った人がいて造った物があるからですが、では、その元をただされたらどうなるでしょう。例えば、人は言葉で考え言葉を出して考え行動します。出来たものも言葉で評価し言葉を交えて理解し合います。

全ての始めは言葉といっても言い過ぎにはならないくらいです。例えば全ての始まりは神さんからという人もいますが、神さんという言葉はどこから来たかと問うと、神さんからという言葉になります。

人はこのように、多かれ少なかれ無視している言葉から出発していますが、自分が係わり造ったものに関しては、自分が始発だというわけです。始めの動機も、目標も、準備も、自分自身が、自我が、自己意識なり感覚なりが、始めだと主張していきます。

日記だブログだなどといって毎日意見を発表しているわたしなども、自分の考えを書いている積りになっています。真面目であろうとなかろうと、内容があろうとなかろうと、自分のものであるという積りに変りはありません。

全員が全員、何時どこでどのように与えられたか分からない言葉によって、気付いた時には英独仏語ではなく日本語をしゃべっていただけです。本当に自分の造ったものでしょうか。全員が日本語環境の中にいるのだからそれでいいと言っている時代でもありません。

聖書には大昔言葉は一つだったと記載されています。聖書を信じる人も神は信じても、こういった一つの言葉などと言う事実関係をみる場合には信じない事もあるでしょう。ところがこれは二重の意味で真実で、まもなく三番目の意味も加わるでしょう。

一つ目は人の性能から見ていく場合があります。あっ、空を見ろ、スーパーマンだ、隕石だ、という場面を考えてください。この時上空のわけの分からないものを識別する以前、あっ、という時のアッ、にはその時の状況が全部含まれている感情表現となっています。

次にある人は、オッ、という声をあげ、オッ、スーパーマンと言います。この時にはその人は何らかの識別が出来て、アッ、という驚きから、オッ、という対象の判別を表現しています。

オッ、スーパーマン、を聞いたそばにいる人は、スーパーマンとは何だか確かめる為に自分の記憶を探り、あれじゃないこれじゃないと選別して、エッ、スーパーマンといいます。

アッ、は自分を超えた崇高な、わけの分からない感動、不思議な思い、明らかな全体性に通じているので、アッラー、アーメン、阿弥陀様、等のアとアッ、スーパーマンのアッ、とは皆同じ世界共通語です。

もしこの人間性能から言葉が出来ていれば、言葉は一つです。アは世界語です。

二つ目は実に、この人間性能からできた言葉の体系があり、大昔はそれが共通語となってました。それは日本の大和言葉です。そのために比較言語学によって収拾された日本語が世界のあちこちに散らばってるのです。

そして三番目には、今後の世界は、日本語に統一されるということではなく、日本語の大和言葉の構造から指導が行き渡るようになるでしょう。

始めとはを巡って、人の性能と大和言葉というキーワードを得ました。