3-2 今とは一のこと、始めの全体

始めは1か0か

始めは何もないところから始まります。

何も無いの象徴は0ですが、時と所によって、予兆予知であったり、やる気意志であったり、条件状況であったり、欲望本能であったり、遺伝であったり潜在意識であったりします。将来との対比によりますから、現実的に当てはめると鳥が巣を作ったり、寝たり食事をしたりすることなども、0からの出発に当たるでしょう。

これらはあるものとあるべきものとの対比で、共に現象であるか現象となるものであるかを比べたものです。ですので、現象となった後で見比べていき、潜在していた方への指摘があれこれいわれます。

しかしそれ以前に、あるべきものとあるものの対比ならその対比を起こさせるものがあります。それが先天(先天構造)で、あるべきものあるものへの強制的な威力を発揮しています。先天構造からすればあるべきものもあるものも先天の絶対命令に従わなければ何も動けません。しかも現象に先立つ先天ということですから、形も影も見えません。形容の付けようがありません。そんなものは無いと言われようと気にしません。そのような発言もそうさせた根拠も全て先天構造から出てきたものだからです。

ではその出方とはどういうものかだけ前もって示しておきます。というのも、あるという先天を受け入れてもらわないと話が進まないからです。ただし現象として取り扱うのではないため、この先天構造、古事記の冒頭十七神、の形を変えることはできません。個人の考えの出てくる源泉ですから、考えは色々となりますがその出所は変わりません。

「いのり」、これが人が生きていく絶対命令を受け取るところです。「いのり」といっても祈りのことではなく、分けの分からない神仏、霊魂への祈りのことではありません。「イ宣(の)り」のことで、言霊イに載ることです。神仏への祈りはそういった意識現象の一つの現れです。先天構造はそれ以前にある根源的なものです。

ですので1で始めるか0で始めるかという話も象徴的な意味で使用しているだけのことで、その実相の先天構造が重要なことです。先天は眼に見えず現象で捉えられませんので、「イ」に宣(の)りの姿を最大限に真似することが必要となります。

始めは1でも0でもなく、イに宣(の)る、です。

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イに宣(の)るという始めの正体

泳ぐには水に入らないと泳げません。祈る事を現象として扱ってしまうと、祈る主体祈られる客体等、誰が何を対象として祈るのかと、問題になります。祈りを現象として扱うと、主客の双方にそれぞれの思いを寄せた祈りが出来てしまい、祈る者同士に衝突や、閉鎖的な同調共感が起こります。それらは現わされた祈りに載っているので、互いに相手との相違を克服できません。

水の中にいるそのことを見ましょう。祈っているその中に入りましょう。いのる、イ宣(の)るのイ、言霊イ、の見地に立たないと同義反復のような悪循環から抜けられません。心は身体に載っているからその人となりの現れになります。同様に神が人を相手にしか事を起こせないのは、人が神の見地に立っているからです。それをばらばらにして離すとどこかあっち側の世界にいるだろうという妄想に支配される世界にひっかかります。それでも総体を総合してみれば、その個別的な外見にもかかわらず人が神を人の活動する原理によって作っています。ですのでその神が人に働き掛けるのは人の活動原理に沿った法によるのです。

その立場に立ち、その土俵に入らねば始まりません。しかし、相手の立場に立つだけでは、自らを犠牲とする聖者になれるだけです。自他ともに同じ土俵に立った甲斐がありません。

イ宣(の)るは意識の実相体験として成るものです。それは全人類の共同実践の現れです。実体の場面で言えば、鼻が顔の正中線上にあるということで、その理由を見出すことは至難の業です。

イに載るというイノルことも、息して祈り生きていく、人類の生存への誘いとか依頼とか強制とかで色々と説明はしますが、その理由を正確に言い当てることも至難の技です。

ただそこにあるのは、大本としての、人類の共同実在と人類の共同実践です。各個人個人がそれらの大神主です。

元々生きることは、依頼を命令されているようなもので、依頼という強制を受取りながら依頼に主体的に選択同調していくようなものです。言霊イ、祈り、土俵、水中、神、等々何と言っても同じことですが、我々人間という実在に対して、依頼という形の命令を以て、土俵に上がれ、祈れ、水に入れとお願いしてくるのです。彼らのお願いは依頼命令ですが、我々の実在や働きに対してですから、我々人間がいなければ彼らも手も足もでません。そこで我々が主体的な選択を彼らに見せるのです。

そこで始めはイに宣(の)ること、土俵にのることですが、言霊イであろうと土俵であろうと神であろう我々人間側であろうと、そのように分け分かるようになっていては、既にそういったことが始まってしまっていることになります。

私がいてここに考えているとなったら、既に今いる結果が出ていることですので、「今」の始めとはなりません。「今」という言葉を使用してしまったらやはりそれなりの「今」現象をいうことになりますから、「今」の始まりとはなりません。そこで「今」という実在実体を産む両親が出てきます。

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全人類の共同実践と共同実在の全体

足が二本あるので自転車のペダルは二つだし、耳は感じる範囲内だけを音波として捉えています。そ

ういった身体生理の制約があってそれに載るように人の活動が有ります。人は超音波を発音できない

し、テレビの電波を見ることは出来ません。

「今」を捉えるのも同様で人の全実在の全機能働きによって捉えることになります。

何で捉えたと分かるかと言えば、言葉です。体感や殺(察)気や恩寵等は個人的なもので社会性はなく言語による表現を持ちません。

人の全部で捉えるといいますが、一つには社会的な統一体であり一つには個人の統一体です。社会

や個人といってもある名前を持った社会や個人の統一体ではなく、社会や個人をも含んだそれらに共

通した統一体のことです。

そんなものは抽象であって観念だという方もいます。しかしその観念の実体がなければ観念さえもが

成り立たないものがあります。その世界宇宙を問題としています。

ところが全機能の統一体で捉えるといい、機能には制約があるといいますが、機能があっても働かす

ことがなければ存在もしません。夕飯のカレーにこだわり作り続けているときには寿司もスパゲッティも

無いのです。それらがあってもあるわけではないのです。客観的にはあるのだといったところで、主体

側が生理的心理的機能を動かすことがなければありません。言霊学に関心がない方には言霊学は存

在しません。

そして関心を持って相手を受け入れるようになって初めて、受け入れの機能の大小や質においてそ

の存在の姿が現れてきます。

古事記の冒頭の通り、吾の眼を付けて智となるアメツチが動くとなります。

関心を持たなければ存在せず、関心を持って初めて動くといいますが、その存在し動くありかたが、

古事記の冒頭のようになっているということです。

その経過は、

一、まず「今」の関心のあるものが全体として現れ、

二、それがあるとない、主客と分かれ、

三、あったものをあるとして、あるものをあり続けるだろうとして、

四、それらのあるものに、動因が働き、

五、ある、という現象となってそのことの全体となる。ここにある、という「今」の要素が現れます。ついで運用が始まります。

六、「今」の要素は主客に結ばれ、

七、その結ばれ方の名を現わし、

八、その全体とされるものを提示し、

九、それを「今」として(子現象として)

十、今までの全体があらわれる。

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「今」が現れる大雑把な流れ。

「今とは何か」を考え思う始めのとき、意識中枢たる心の世界に成り出てくるのは、

「今」の先天と、「今」とされるこの世界の中心にあって全ての「今」の意識活動の主(ぬし)としての実体です。

今という主であるまとまった一つの全体は、

先天十七神の言霊表記「うあわ・をおえヱ・ちいきみしりひに・いヰ 」、

「今」には三様がある。

今のありさま ・ 今のいきさま ・ 今のなりさま。

そしてそれの全体が子現象として現れ「今」となる。

今あるものは、

今全体の元に、(今全体 ・ アワ)

過去から来たものであり、(過去-今 ・ ヲオ)

それは今にあり、(今-今 ・ ウ)

今が未来に向う、(今-未来 ・ エヱ)

の四態を包含した中今の主人公としてある。

今あるものは、それぞれ、

今あるものの全体動因、(ヒニ)

過去の今が今あるものの動因、(キミ)

今あるものが今ある動因、(チイ)

今あるものが未来へあるだろうという動因、(シリ)

を持っている。

そして、動因を引き寄せ与える、

過去現在未来の動因を与えいざなう大本、(イ)

過去現在未来の動因を受けいざなわれる大本、(ヰ )

の根源があります。

以上が先天の「今」が成り立つものです。

「今」に関心を持ち考え始めようとする時に頭脳中枢に成り立っているものです。これはイマココの瞬間において全てが同時に成り立っていて、この全体があることが「今」のあることです。

しかし、「今」があり「今」があるようにあるといっても、あるものがあるだけで「今」が動き「今」を現わし「今」に成ろうとしている働きを示したものではありません。前もってあるというだけのことです。

ですのであるものを有らしめるもの、主体側の活動する誘導因がなければ動きません。この動因のあることが万人に無色透明無味無臭の存在を十人十色に染め上げるものです。

歩くのに足を使うように、考えるには上記を使用しています。つまり頭を使う元となるものですが、元があってもそれをつかう主体側がなければなりません。主体側とは私たち自身のことです。

主体側は先天の実在側がなければそこに載れませんが、主体側が載って初めてそこに実在が現れま

す。そこに一般的な言い方である客観実在があるじゃないかとという見解をもってきますと、話の順序が逆立ちしてきます。

客観実在というものはまだこの段階では産まれていません。何故なら、ここまでで話してきたことは先天の実在だけなので、まだ主体が出てきていません。

つまり先天の実在に対応する先天の主体が無いのに、一般的な客観実在は無いのです。古事記はその間の事情をオノコロ島でのマグワイの話で象徴しています。

そこでは、私たちの脳髄は産まれなければなりませんが、産まれたからといって正確に原理が使用できる分けでもありません。それどころか、正当な原理を得た上で、一般性を産んで逸脱をするように作られています。不正とか間違いとかではなく、急がば廻れ式の必然の逸脱をするようになっています。

人が意見を表明するのは十人十色となっていますが、いずれも同じ原理を所有しているから相手の言うことに同調批判や逸脱誤解が可能なのです。

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「今」の主体側、自我は本来無い。だけどある。

今あるものは、それぞれ、今あるものの今の全体が現れ動き、過去から来てイマココに現れ動き、そのように持続してイマココに現れ動き、そのある今がイマココで未来に向おうとして現れ動こうとするそれぞれを不可分に含んでいます。「今」というのはそれらの全体ですが、全体を全体として一発一機に表明説明できません。全体は全体の分野で全体的に表明することになります。

説明を開始すれば必ずどこかどれかの一部分から始めざるを得ません。

古事記ではアメツチ(天地)の「あ」で始め、「アの眼(アメ・天)」と続けます。宗教や禅などでは一般性で表記してその内実を取るようにさせます。

知識や科学などはあったものを整理して概念を付け加え、欲望などはそこにある欲望しか見ません。

そして政治等ではそこにあるものを選択し分配していきます。

意識の次元が異なると意識の運用も相違してくるため、両者に跨がった運用に混乱が起きることもあります。一般性が個別的なものとされ、欲望が知識とされ、知識が選択とされ、選択が欲望とされるように入れ違いに気付かずあるいは平然と主張し、自分の言葉が見つからずもどかしい思いなどもします。

人は子の意識次元の移動は自由自在ですから、混同や移動や相違なども知らず知らずの内に起き

ることもあります。

そして、それらのあったものとあるものとは、あらしめる働きによってお互いに誘い合う関係にあります。

「今」というのはそれらの全ての統合態で、統一されている分離できないものですが、それは全体という意識の中でのことです。

表現表記する時点で意識が停止なり分離などしていけば、それに沿った表現へと直ぐに変化します。

意識の当初の全体は自分の意識の全体として脳髄にありました。しかしその表記に至る段階で分かれ分類されてしまいます。

何故かといえば、各人は自分を表明する五十の言霊要素を既に持っていて、それを使用するから使用にあたって目移りが始まってしまうからです。

つまり、我々は既に何かを持ってしまっているからで、その何か既得のあるものが自分の意識を借りて主張するようなものです。

その姿は、まず受胎の始まる以前の巣を用意する親鳥の止むに止まれぬ行動のように、心に入り込

みます。思ってはいるが表現できないといわれるその人の主が宿ります。表明以前のその人の全体があります。それらは感情として捉えられ気が察知されます。

ではそれらは何処から来たのでしょうか。

身体の血液も細胞も何日かすると入れ替わるといいます。要するに我々の身体はじゃがいもや人参が元ということになります。精神とて同じ事でしょう。自我も同様でしょう。

では精神や自我において何が元となっているのでしょうか。肉体のじゃがいもに取って代わられる精神のじゃがいもとは何でしょうか。

遺伝子とか血統血脈、気性、身の回り環境とかいわれています。科学的には物理身体方面での解明に向っているので、脳内の電気信号の伝達だとか科学物質の分泌だとかになっています。しかし、言語生活を営む我々には精神のニンジンじゃがいもがあります。

それが記憶であり概念です。

脳内科学としては記憶や概念運用時の脳内物質の変化は明かされますが、記憶概念の運用そのものはいつまでも人間本人のものです。

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精神の元、先天のじゃがいも。

「今とは何か」と問題が提起されますと、それ自体がその人の今までの背負ってきた「今」を自覚的にか無自覚的にか現わしています。「今」と言ったとたんに、今あるものの今の全体が、過去から来てイマココにあり、そのように持続してイマココにあり、そのある今がイマココで未来に向おうとしてあるそれぞれを不可分に含んでいます。

それを考えたり記述していけば分割して表現されることになりますが、心の中では統一され持続しています。

ここに「今」の心の現れが、全体として現れるのか(感情)、過去から来たものとして現れるのか(記憶)、未来へ行こうとして現れるのか(選択)、そこに留まり現れるのか(欲望)、見えない動因として現れるのか(意志)、の五つのうちどれか一つのあらわれとなります

ここで記憶が途絶えたり意識が眠ってしまうとそれで終りですが、思い出す意識が持続していくと、提起された「今」が客観要素なって動いていきます。

身体肉体的にはじゃがいもニンジン摂取の繰り返しで維持されていきますが、心、精神は記憶、概念を摂取しているのです。

考えるというのはあたかも自分で何かを自分が作り出しているように思えます。しかしそこにある考える材料を見ますと自分で作り出したものは何一つありません。考えることはそもそも言葉を使用しています。どこの誰でもが個人で作った言葉を使用していたら通じ合いません。考える全ての要素は出来合いです。

感情も欲望もそれ自体は言葉や概念ではありませんが、言葉にならない言葉として頭脳内を超高速で駆けめぐった挙げ句に、表出される時には言葉となります。あるいは超高速で言葉が駆けめぐってその締めとして一つの言葉になります。発した本人には頭脳内を一巡した後の言葉ですので、自分の思いの沢山詰まったものとして自分が産んだ言葉のように見えます。

しかし対他的、社会的には一般的な出来合いの言葉に頼らざるを得ません。全く自分独自の言葉では言葉の意味をなしません。

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