三種の神器の使用法。3

三種の神器の使用法。3

三種の神器の使用法。その12。心をどうぞ。

磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の国は 言霊(ことだま)の たすくる国ぞ ま幸(さき)くありこそ(巻13-3254)

磯城島(しきしま)が、歌に取り上げられたのは、本来の意味の伊耶那岐のことを暗示する為のもので、暗示出来ればどこから地名を持って来ようといいのです。現代では見つけられない地名とされているものがありますが、もともと暗示、呪示したものですから、あろうと無かろうと関係ありません。古事記、万葉集の地名探しは、フトマニ言霊に関しては全て間違いと言ってもよいものです。フトマニ言霊学が隠されて以来全大和の日本語が闇の中にあります。

磯城島・しきしま・・現在、磯城島は枕詞となって埋没して意味がとりませんが、言葉の由来は以下の通りです。

「し・き」は、四「し」の、「岐(伊耶那岐の岐)、き」で、「この島は身一つにして面四つあり」の「伊予の二名(ふたな)の島」のことです。「面四つ」を「四岐」、「しき」としたものです。

面四つ(しき)というのは、島名にあるとおり、伊予、伊耶那岐の予め、のこと。

精神領域(しまり、島)としての神名は、『【 言霊 ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神。 【 言霊 ワ】 神産巣日(かみむすび)の神。』です。 淡路の「アワ」です。

後にイザナギが展開されるオヲエヱの世界を予め指したものです。

この精神構造こそ世界で唯一の大和の日本語、よって、この後、世界を統一する原理となるものです。それを褒めたたえたもので、言霊にはパワーがあるとかいうようなものではありません。

ついでに言えば、「大和」と言うは、国境を持った日本や場所地名のことではなく、「八間戸」、八つの部屋の戸を開ける、ということです。詳細はしませんが、八つの間については前回に書きました。今回は「戸」を開けることです。

磯城島のやまとの国とは、イザナギの訪れる居間である国、です。

場所が分かったところで内容が知られることはありません。フトマニ言霊学の再興と共に、枕詞と大和言葉全てが明かになるでしょう。そればかりではありません。

ヒフミ神示等では「ひっくり返る」「目も鼻も開けていられない 事」とこれからくることが予言されています。「目と鼻」はもちろん三貴子のことです。初発の時の段階では、造化三神で、それほどの「ひっくり返る」ですから、ひふみファンの解釈なども全てひっくり返ることになります。

早く、フトマニ言霊学に気付きますように。「早やう改心して呉れよ。」

これは大和の日本語でしか出来ない学問なのです。この世界で唯一性を保持しているのが日本語なので、いろいろと現象になったものもありますが、それらも全て「ひっくり返る」ものです。わけの分からない解釈を施すヒフミ神示に付くということも「ひっくり返る」のです。ヒフミ神示では未だに「みたま」の内容を「知らす」ことはしていません。内容を解する規範を知らないからです。

ヒフミ神示を「開く」規範が必要です。

「天地(あめつち)の秋(とき)来てゐることは大方の人民には分って居りて、さあ建替へぢゃと申しても、肝腎のタマが分らんから成就せんのざぞ、神示読んでタマ早う掃除せよ、」

ここでいう「タマ」というのが、ヒフミ神示自身を指すのではなく、神示を読んでタマのあることを知り、コトタマ、つまり古事記の冒頭百神に至れということです。古事記冒頭を「早う掃除」して、手にしろ、ということです。

規範もなく、今ままで勉強してきて身に付けた知識で解釈するだけでは、「タマ」による解釈にはならず、勝手気ままなお気に入りの羅列になっていくだけです。ノアの方舟とか、宇宙戦争とか、精神次元が上昇するとか、の気に入ったことだけが表現されていきます。

神示は三種の神器の鏡ではありません。鏡の規範ではなく、また勾玉でもなく剣でもありません。つまり天照す次元での「タマ」のことを指してはいません。

ヒフミ神示自身は、伊耶那岐から与えられる御頸珠(みくびたま)を受け取ってはいないので、単なる判断調理材料でしかなく、物質的、霊(たま)的な、豊宇気毘売次元の、材料としての「タマ」となります。

繰り返せば、「 この神示解くのはタマでないと少しでも曇りあったら解けんぞ。」という、神示以外からくるものでは解けないし、神示から来るものでも解けないという「タマ」を入手することです。それは古事記の冒頭言霊百神のことです。

さて、ここで、古事記の宣伝みたいなことをしているわたしの心をどうぞとなります。

神示でも八通りに読めるといっている、その八通りの心に挑戦してみましょう。

テーマは自分でもまだ分かっていない古事記の百神を宣伝したい、もっと多くの人に知ってもらいたいという心持ちです。ここでは、テーマとして古事記とか百神とかいっていますが、それらは思いの現象となったものですから、それを直接扱うのではありません。そのようなこころを出現させていく心の動きです。

下0。(アの芽) まず、 知らせたいと言う心の動きは、知らせる内容が高尚であろうと下品であろうと同じなのです。知らせたいと言う欲求の無自覚から出発します。繰り返しますが、表現される内容の知識を知らせるのではなく、そんな知識があろうと無かろうと知らせたいという欲求の動きとなるものです。

知らせたい相手のことは分かっていません。分かるのは統計や予測の範囲でしかありません。どのように受け取るかなど予測を超えています。

3。つまり自覚はないけれど、過去経験はあり概念予測はあります。角杙(つのぐひ)です。【 言霊 キ に成る心】。わたしは皆さんに知らせたいけれど、どうしたらいいのか迷います。反応を気にしたり、コメントを期待したり、どうせ分からないと思ったり、無視されていると感じたり、自分の気に入りの体験がかき集められます。その自分の心の中の欲望の一つをかき寄せます。

この段階で知らせるものは、あれもこれもそれもと定形もなく、なんでもかんでも持ち込むお知らせでしょう。

5。次いで、知らせたいと言う欲望の目的ができます。意富斗能地(おほとのぢ)です。【 言霊 シ に成る心】。自分の好き勝手な思いで気に入ったものだけが自分の成すべきこととして固定化されます。大いなる(あるいは慎ましやかな)目的が立ちました。

この段階で知らせるものは、自己主張の立場を固定した頑固な狭いものとなるでしょう。

1。次いで、心の動きに沿った現象がでてきます。宇比地邇(うひぢに)です。【 言霊 チ に成る心】 。ここでは個々人の勝手な思いから始まっているので、そこから出てくるものも個々人の知識、経験、信心、信条といったものの個人の全体が用意されてでてきます。

この段階で知らせるものは、知っていること考えていること等、知っていることは全部白状するようなお知らせでしょう。

8。次いで、用意されたものの中から自分に都合のよいものが集められ、それらを自分の名分として自分を立てます。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)です。【 言霊 ニ に成る心】。ここに心の内容が煮詰められ、これだというものが奥底で煮詰められていきます。

この段階で知らせるものは、自己の正当化のようになるでしょう。

7。次いで、内部にあるものが外へ表面へと出ていきますが、自他との接触面に来れば、それが他にも見え納得できる形が必要となります。於母(おもだる)です。【 言霊 ヒ に成る心】 。ここに自分を表現する都合のよい言葉が産まれ、他に表現を与え、自分を主張し

他の納得を得て、他からの指摘を受け入れる接点が産まれます。

この段階で知らせるものは、自他への選択を促すものとなるでしょう。

4。次いで、接触面にある内容は他に向かって行きます。妹活杙(いくぐひ)です。【 言霊 ミ に成る心】 。自分の内容が自分を超えた他においても実を結び、翻っては自分と一緒になって膨らみ続けようとします。

この段階で知らせるものは、表現対象、あるいは読者を自分に引きつけるものとなるでしょう。

2。次いで、自他との全体を得ているものとの自己了解の元に、心の全体の持続が経験知識選択智恵よりも直に現象に近いものとの、持続する弥栄感を持ちます。妹須比智邇(いもすひぢに)です。 【 言霊 イ に成る心】 。用意されていた部分的なお気に入りで表明されたものが、自他を含む全体的なものという自己完了に向かいます。

この段階で知らせるものは、独り合点で先へ先へと進むものでしょう。

6。次いで、心の内容が世界を得たものとの自己了解の元に、拡散進展していきます。妹大斗乃弁(おほとのべ)です。【 言霊 リ に成る心】 。こうして当初の意図、目的、選択等は自他を超えた他へ、端、はじへと、向かいます。

この段階で知らせるものは、将来共に変わらぬ自己主張、自惚れ、お山の大将でしょう。

上0。(地に成る) 自分の欲望の一つをかき寄せ自分として立てました。この心の動きの結果は、自他を超えた野辺に向かうものです。自分のものとして立て表現使用としていた目的は、最後においてまたもや次の発展の欲望の発端になったのです。

この段階で知らせるものは、自己内に完結を見いだせませんので、知らないことも話せるだろうという未来への流転となるでしょう。

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伊耶那岐(いざなぎ)の神。【 言霊 イ に成る心】 。心をいざなう。

妹伊耶那美(み)の神。【 言霊 ヰ に成る心】 。いざなわれる。

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三種の神器の使用法。その13。知識。

前回その12、では知らせたい心持ちの動きでしたが、知らせたい内容にタッチしたものではありません。前記からは知らせた思い(欲望)のあれこれの現象になる形はでてきますが、知らせる内容がでてくることはありません。

もちろん心の動きはあっち行きこっちへ乗り換えふらふらころころ変わるものですから、知らせたい思い欲求が、知らせる内容になったり、知らせる内容を選択させたりにコロッと変わったまま主張を維持することなど普通のことです。そればかりか相手の無理解をなじることも当たり前です。それらは論争とか事実経過を共通認識にしようという、多少は論理的知性的あるいは科学的な場面においても見られます。

そこで今回は、知らせたい思い欲望ではなく、知らせる内容の動きを心はどう表しているかを見てみましょう。

八つの心の動きの神名に番号を打ちました。

1。宇比地邇(うひぢに)の神。【 言霊 チ に成る心】 。

2。妹須比智邇(いもすひぢに)の神 【 言霊 イ に成る心】 。

3。角杙(つのぐひ)の神。【 言霊 キ に成る心】 。

4。妹活杙(いくぐひ)の神。【 言霊 ミ に成る心】 。

5。意富斗能地(おほとのぢ)の神。【 言霊 シ に成る心】。

6。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。【 言霊 リ に成る心】 。

7。於母陀流(おもだる)の神。【 言霊 ヒ に成る心】 。。

8。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。【 言霊 ニ に成る心】。

上0。伊耶那岐(いざなぎ)の神。【 言霊 イ に成る心】 。心をいざなう。

下0。妹伊耶那美(み)の神。【 言霊 ヰ に成る心】 。いざなわれる。

上0、下0 は全部の神の動きを貫き律動を与える源律で、伊耶那岐の「い」、生(い)きる、命(いのち)の「い」のことで、この「い」が無くなれば、「息(いき)」が絶え、「イの道(生命)」が消えるというわけです。

ですので、この上0下0が1~8の動きになるということで、ギミの解説は現段階のさらにその奥の院となります。

1~8はギミの自然な展開です。それが欲望としての現れは、

上0-1-2-3-4-5-6-7-8-下0、言霊で表現すると、ア・チイキミシリヒニ・ワ、が、

上0-3-5-1-8-7-4-2-6-下0、言霊で表現すると、ア・キシチニヒミイリ・ワになり、

内容知識を表明する時には、

上0-1-2-3-4-5-6-7-8-下0、言霊で表現すると、ア・チイキミシリヒニ・ワ、が、

上0-3-1-4-7-5-8-2-6-下0、言霊で表現すると、ア・キチミヒシニイリ・ワ、になります。

参考の為、欲望と知識を並べます。

上0-3-5-1-8-7-4-2-6-下0、言霊で表現すると、ア・チイキミシリヒニ・ワ、(欲望)

上0-3-1-4-7-5-8-2-6-下0、言霊で表現すると、ア・チイキミシリヒニ・ワ、(知識)

八咫鏡(やたのかがみ)は中央にギミの神の「イヰ」があり、八角形ですから、「い」を廻転することで、伊耶那岐の発露を同心円上の心の律動の八神を探すのです。

( 上0-1-2-3-4-5-6-7-8-下0、というのは「ひふみ」で数霊として表現されています。実体は八神の動きのことです。)

心の動きの自然な状態ならば、上0「イ」の伊耶那岐の最初の発露は、物事全体がぱっと現われる形を取ります。1。宇比地邇(うひぢに)の神。【 言霊 チ に成る心】 がまず来ます。

ところが、欲望を示す時には、自分に引き入れてしまったものから事がはじまります。それが、 3。角杙(つのぐひ)の神。【 言霊 キ に成る心】です 。

では、知らせる知識の内容はどのような心の動きとなるでしょうか。

上に並べてある通り、欲望も知識も事の始まりと導かれる終わりは同じであることがわかります。では書いてみましょう。

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下0。(アの芽) まず、 知らせる知識内容は、その人が持つ人生経験から得た、そして記憶となって具わっている莫大な情報です。

知識の表明は、概念により記憶と共にでてきます。知識を表明すると言う心の動きは、知らせる内容が高尚であろうと下品であろうと、その人の人格、性格に係わらず同じなのです。知識自分の知ってしまっていることがでて来るだけですから、自覚するしないにも係わっていません。

また、知識は知らせる相手の記憶概念知識へと向かうわけですが、それに対する情報は皆無あるいは経験予測と言うだけのものとして持ち合わせています。

3。つまり自覚はないけれど、過去経験はあり概念予測はあります。角杙(つのぐひ)です。【 言霊 キ に成る心】。まず、知識の内容が出てくる形は、疑問質問関心を持つことから来ます。「三種の神器の使用法などと言っているが、地位の象徴なのに使用法などあるはずがないのでは、?」というような、自分でも自分の疑問の出所を特定できないけれど、出たものは所有所持ずるということになります。

何故そんな感じを持ったか、考えたか、疑問にしたか、振り返ってもはっきりした出所を掴めません。ところがそんなものの上に平気で、つまり無自覚に、乗っていくわけです。知らぬ内に出てきたものを、これまた知らぬ内に自分の疑問とします。後から反省が加わりますと、めりはりの付いた立派な疑問になります。(の場合もあります。)

ところが立派になろうと、ふざけた疑問であろうと、恥ずかしいと感じる疑問であろうと、無自覚に自分のものであると、奉ってしまうことに替わりはありません。

1。次いで、心の動きに沿った現象がでてきます。宇比地邇(うひぢに)です。【 言霊 チ に成る心】 。ここでは個々人の勝手な思いから始まっているので、疑問を持ってしまったものは自分の疑問ですから、それを自分のものすルため、自分の全経験知識、概念の色付け等の為今までの過去の蓄積を総動員していきます。

ここでは、いずれにしても持っているもの以上のものは出せませんから、自分のやることは最上最高となってしまいます。そこから出てくるものも個々人の知識、経験、信心、信条といったものの個人の全体が用意されてでてきます。

4。次いで、接触面にある内容は他に向かって行きます。妹活杙(いくぐひ)です。【 言霊 ミ に成る心】 。自分の内容が自分を超えた他においても実を結び、翻っては自分と一緒になって膨らみ続けようとします。それでも精神活動・行為等の動きは他者へ、あるいは自己内に想定された他者へ、向かうものですから、過去経験、今までの蓄積と、現状や今ある疑問等とは、自己内で統合止揚された自己唯一性、自己所有性を維持しなくてはなりません。

それができないとふにゃふにゃな意見となります。

7。次いで、内部にあるものが外へ表面へと出ていきますが、自他との接触面に来れば、それが他にも見え納得できる形が必要となります。於母(おもだる)です。【 言霊 ヒ に成る心】 。ここに自分を表現する都合のよい言葉が産まれ、他に表現を与え、自分を主張し、 他の納得を得て、他からの指摘を受け入れる接点が産まれます。

うまい具合に自己所有が維持できていけば、他者に向かい、自己の表面で、境界で輝く表記を求めるよう

になります。

5。次いで、自己表現の意図がありますから、知らせる知識の内容を確定しなければなりません。意富斗能地(おほとのぢ)です。【 言霊 シ に成る心】。自分の好き勝手な思いで気に入ったもの、自分の持ってしまった疑問から出発していますから、その範囲内での周囲の情報の構築を得て、他者向けの、自己以外用のためのものが、自分の成すべきこととして固定化されます。

ここでは自分にとっては正しいものだけが出てきます。

8。次いで、こうして、用意されたものの中から自分に都合のよいものが集められ、それらを自分の名分として自分を立てます。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)です。【 言霊 ニ に成る心】。ここに心の内容が煮詰められ、自分には、これだというものが奥底で煮詰められていきます。

2。次いで、相手対象の対他てきに名分を立てていますから、自他との全体を得ているものとの自己了解の元に、心の全体の持続が経験知識選択智恵よりも直に現象に近いものとの、持続する弥栄感を持ちます。妹須比智邇(いもすひぢに)です。 【 言霊 イ に成る心】 。用意されていた部分的な、自分にとっては統体としての、お気に入りで表明されたものが、自他を含む全体的なものという自己完了に向かいます。

6。次いで、心の内容が世界を得たものとの自己了解の元に、拡散進展していきます。妹大斗乃弁(おほとのべ)です。【 言霊 リ に成る心】 。こうして当初の意図、目的、選択等は自他を超えた他へ、端、はじへと、向かいます。

上0。(地に成る) 自分の知識の一つをかき寄せ自分として立てました。この心の動きの結果は、自他を超えた相手対象に向かうものです。自分のものとして立て表現使用としていた目的は、最後においてまたもや次の発展の知識、疑問の発端になっていきます。

疑問を出して、得る結論は自分の経験内で回るだけです。得た結論の元に新しい疑問が起こるという、結論が次の疑問の始まりを形成します。欲望と同様に二十日鼠みたいに廻り続けることでしょう。

これを発展として捕えていくと歴史は発展しているとなりますが、それ自体で完結したものを見いだせません。歓びのないまま馬車馬の歴史となるものです。

欲望の充足も、知識の探求も、歓びは束の間です。これを超えてみんなが喜べる道はあるのでしょうか。

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三種の神器の使用法。その14。たかまはらなやさの五十音図。

長いこと連載が続いていますが、未だに三種の神器の使用法は書けていません。

「え、それじゃ今までのは何なの?」

「何なのって言われたって、あんなものは何でもありません。何かあると思ったら間違いです。はったりでしかありません。もし何かを書けていたら、今頃国連総長ぐらいになっています。」

ということで、根本的には駄目な状態が続きます。皆さん、こんな他人のブログを読むより自省した方が早いですよ。

さて今回は、たかまはらなやさ。

たかまはらなやさは不思議な言葉でどこからでてきたのかはっきりしません。

高天原は、天上のどこかの原っぱとか、地上の高原とかではないので探すだけ無駄なことです。

古事記冒頭には「訓高下天云阿麻下效此」とあり、天は「アマ」と読むように指定がある。高天原のよみは「たかあまはら」になります。しかしそれとは別の「たかまはら」としなければならない読みがあります。

たかあまはらは、「た」と「か」の「アの間」の「原」のことで、原は五十音図のことです。「高」を「た」と「か」に分けましたので、

「た」の「アの間」の五十音図と、た・あま・原、

「か」の「アの間」の五十音図と、か・あま・原、の二つができます。

五十音図は、実は人間の精神性能に合わせた五つの異なったアイウエオ五十音図があります。

あ・かさたなはまやら・わ・・・欲望を主体とした金木音図

い・きしちにひみいり・い

う・くすつぬふむうる・う

え・けせてねへめえれ・ヱ

お・こそとのほもよろ・お

あ・かたまはさなやら・わ・・・知識を主体とした赤玉音図

い・きちみひしにいり・ヰ

お・こともほそのよろ・を

う・くつむふすぬゆる・う

え・けてめへせねえれ・ヱ

い・ちきりひしにいみ・ヰ・・・感情を主体とした宝音図

え・てけれへせねえめ・ヱ

あ・たからはさなやま・わ

お・ところほそのよも・を

う・つくるふすぬゆむ・う

あ・たかまはらなやさ・わ・・・選択を主体とした天津太祝詞音図

い・ちきみひりにいし・ヰ

え・てけめへれねえせ・ヱ

お・とこもほろのよそ・を

う・つくむふるぬゆす・う

あ--------わ・・・創造意思を主体とした天津すがそ音図

お--------を

う--------う

え--------ヱ

い--------ヰ

音図はあ行の心の能動主体側から、わ行の客体側、わたしからあなた、へ心が渡る形式を示したものです。心の性能次元が五つあるのに応じて五つの運用音図があります。

心の性能はそれぞれ実在世界に係わる度合いが違いますので、中心に来るものが違ってきます。天津すがその創造意思の世界は自由奔放な世界ですので、その現われ方が制限されない為、点々にしてあります。

「あま(天)原」の「あま」、「アの間」は、アの間の原で、ア段の各アを母音とする段のことで、段を横に移動していく為には、アがカに、カがサに、サがタに等々となりますが、それぞれが持つ他の言葉へ移動していくときの、言葉と言葉の間隔を指します。

何故どうして、あか、かさ、さた、たな、、、というように他の言葉に移動できるのか、渡る事ができるのか、ということで、「原」を付けて、いざ、いざ、移動できる「原」ここにあり、五十音図ざぞ、とくとご覧あれ、ということになります。

二つ、それ以上、の言葉が何故繋がるかなどと、どこの言語論も言及したこはないでしょう。古事記の冒頭はその秘密を述べています。

あめつち、アの芽が付いて地と成るです。

「たかまはらなやさ」は天津太祝詞音図のあ段そのものです。

また、あ(能動主体の動き始め)段を見てもらうと、あの次は「た」か「か」で始まります。

つまり音図で示される精神世界全体を示すのに、「あ」の能動主体の働きの動きを取り上げ、「た」と「か」で代表させました。

さらに心の世界全体を指す時には、「あ」の一語(能動主体の暗示)で示しました。

それが古事記の冒頭では、「アメツチの初発の時高天原に」、なりました。

漢語表記は「天地」ですががその意味を取り込むと、全て間違いから出発せざるを得なくなります。必ず訓読み、大和ことばの読みを探し、漢語の意味解釈から離れる為にまずはひらがな(カタカナ)にしてください。

「あめつち」は心(あ)の芽が地に付いて成る、ことで、心が対象と一体となり、対象において心が表明される、対象と一体になっものが心の地(生地)となることです。

心の生成成立では、地に付くと言っても、物質的な地面に付くことだけでなく、精神の当初の現れは頭脳内にありますから、古事記の始めも、この頭脳内の地のことを行っています。それをそちの五十音図の一覧原っぱを先取りして、高天・原というわけです。

心の世界が動き始める時に、頭脳内の精神意識の世界に出てくるものは、となります。高天原はこの頭脳内の精神意識世界ということになります。意識はこの原で踊ることになります。

岩戸の段での天の宇受売の踊りのことです。

何故ここに岩戸の話が出てくるのか不思議に思うかもしれませんが、ことばが次の言葉に渡って繋がるには、常にその間にある古事記の冒頭百神を経過しなくてはなりません。

この経過と言うのは、古事記の三貴子までの百神の話全体のことを指します。ですのでこの冒頭の話のどこを引っ張り出してもいいのです。

岩戸は百神の外にありますが、神代の巻き全体が応用問題ともなっていますから、百神の原理から発した話となっています。元は泣き沢女の神の段落となります。

この百神の循環を経過することを言霊循環と言います。べつの言葉で言えば「アの間」のことで、真の意味での「あま」です。

た・か・ま・は・・・・と続いていく時、その・・・に各百神の経過が完了納得された後、次の言葉になっていくという、前代未聞の世界の秘密を古事記で暗示しているというわけです。

と同時に、自覚的な心の運用時の五十音の配列は、あ行では「たかまはなやさ」になるので、自覚的な心を完成させる配列でもあることを示しています。

その後、高天原は、地名なり場所なりに転用されました。そこにある高天原は秘密のあることさえ意識されない、単なる地名となりました。

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三種の神器の使用法。その15。ひふみのたかまはら。

自覚的なたかまはら音図を使用できなくては話にならないのですが、できませんので、話になりません。残念です。

しかし、世界の100パーセントの人たちは知るものがあることさえ知らずに暮らしています。幸せと不幸、愛と殺戮が同居している世界にいます。この世界の特徴を、ひふみ神示。生みの巻き、第十五帖、では次のように述べています。

「 学や智や金がチラチラ出る様では、マコトが磨けては居らんのぢゃ、今の法律でも、教育でも、兵隊でも、宗教でも、この世は建直らんぞ、新しき光が生れて世を救ふのぢゃ、新しき光とはこの神示ぢゃ、この神ぢゃ。七つの花が八つに咲くぞ、此の神示八通りに読めるのぢゃ、七通りまでは今の人民でも何とか判るなれど八通り目は中々ぞ。一厘が、かくしてあるのぢゃ、かくしたものは現はれるのぢゃ、現はれてゐるのぢゃ。何でもない事が中々のことぢゃ、判りたか。

一厘が、 かくしてあるのぢゃ、」

言霊学からすれば、この神示でいうことは、既に解読されてます。ちょっとやってみましょう。

「七つの花が八つに咲くぞ、」

七から八になっています。七とは冒頭七神のこと。

【 言霊 ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神。(金、兵隊)・・母音)

【 言霊 ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神。(宗教、)

【 言霊 ワ】 神産巣日(かみむすび)の神。

【 言霊 ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。(学、教育、)

【 言霊 オ】 天の常立(とこたち)の神。 (学、教育、)

【 言霊 エ】 国の常立(とこたち)の神。(智、法律)

【 言霊 ヱ】 豊雲野(とよくも)の神。(智)

以上が七つの花。人民でも何とか判る。(母音世界のこと)

【 八 】新しき光、八通りに読める。

【 一厘 】が、かくしてあるのぢゃ、かくしたものは現はれるのぢゃ、現はれてゐるのぢゃ、

引用文は全くひふみ用に書き直された、古事記の冒頭十七神のことを指しています。

八というのは下記の八神のことで、数字でいう七の次の八ではありません。八神全体をいいます。(父韻のこと)

【 言霊 チ】 宇比地邇(うひぢに)の神。次に ・・・父韻。

【 言霊 イ】 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に

【 言霊 キ】 角杙(つのぐひ)の神。次に

【 言霊 ミ】 妹活杙(いくぐひ)の神。次に

【 言霊 シ】 意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に

【 言霊 リ】 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に

【 言霊 ヒ】 於母陀流(おもだる)の神。次に

【 言霊 ニ】 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 』

八通りに読めるというのは、このシリーズ、その12、その13で例を挙げてあります。

隠してあるのは一厘ではなく、「イ-ヰ」です。伊耶那岐、伊耶那美の「い」のことです。この八神を動かすのが「い」、「い」の一体(一厘)で動かします。いのち、いきる、いる、いき、、、。

【 言霊 イ】 伊耶那岐(いざなぎ)の神。 ・・・親韻。

【 言霊 ヰ】 妹伊耶那美(み)の神。

ということで、後は、「い」を了解することです。

といっても、ひふみ神示にはどこにも「い」を「現はれるのぢゃ、」の方法は書いてありません。ところどころにわかりやすいお話があるので、乗りやすいのですが、肝心のことは「かくしてあるのぢゃ」。

「何でもない事が中々のことぢゃ、判りたか。」

隠してある場所は一厘の「い」の中にと指示しているだけです。ですので、古事記の神代の巻きの「い」の伊耶那岐の物語を読まなくてはなりません。

一厘というのは何でもない当たり前の普通のことですから、この世の100パーセントの人々が知らず知らずに暮らして行けるのです。

検索したらこんなものもありました。

至恩の巻。第十五帖

神の申すことは一分一厘違はんのであるぞ、今度言ふことを聞かねば大変な気の毒となるぞ、地(智)の下になって了ふのであるぞ、12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910が【マコト】と申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の五ぢゃ、二二(ふじ)は晴れたり日本晴れぞ、判りたか。

「神の申すことは一分一厘違はん」でいいのですが、われわれ人間側はそれ以上のわざと間違い、間違わさすことをします。現代はそうはいかないことが多くなったので、ヒフミ神示みたいなものを開けているのです。

「12345678の世界」とは言霊ウの欲望産業経済社会、言霊オの知識学問社会のこと。始めと終わりに自覚のない思惟意識での行為世界のこと。

それが、

「12345678910の世となりて、」 十拳の剣を得て、判断規範を得て、

「012345678910の世となるのぢゃ、」 始めと終わりの自覚判断が出来る世となる、です。0 は伊耶那岐、1~8 は父韻八神、9 は伊耶那美、で10 は現象世界、子音、子供で、前の引用では、直接「学や智や金、宗教、学、法律、、、」となっています。

二十二というのは、現象世界実現のための精神要素と精神の運用要素が10+10で、二は伊耶那岐と伊耶那美のことです。

ニニの五は、五を利用運用表現したニニで、二十二ではなく、ににぎの神のニニです。二の二、二の次の二という意味で、三次的なということです。一は、原理、二は原理の表現である言霊、その二の次ということで、言霊を運用して活動するこの世のわれわれとその表現、普通に言えば創造された現象、歴史のことです。

五は、人間の性能次元の五層(アイウエオ)のことですので、この世の現象創造を指します。つまり、世界歴史創造がこれから、言霊の使用によってころっと変わるぞよ、といっています。

「判りたか」なんて言っても誰も判りゃしません。明治天皇は言霊を研究しましたが解くに至りませんでした。既に江戸時代からの研究でも解明はできなかったのです。神さん同士が連絡し合って順番を決めていたのかもしれません。こんな文を見つけました。

「今まで他に出て居たのは皆、神示先(ふでさき)ぢゃ。ここは神示(ふで)ぢゃ。キの神示ぢゃ」(カゼの巻第六帖)

いままでひふみ神示はネットで引用文を探すだけでしたが、等々決定的な断片を見つけました。

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キの巻き。第三帖 (二六〇)

雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神様にお祈りすれば、この世の地震、荒れ、逃(のが)らせて下さるぞ、皆の者に知らしてやりて下されよ、この方 イの神と現われるぞ、キの神と現われるぞ、シチニの神と現はれるぞ、ヒの神と現はれるぞ、ミの神と現はれるぞ、イリ井の神と現はれるぞ、五柱の神様 厚くおろがめよ、十柱の神 厚くおろがめよ。

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よくよく注意してください。ここにあるカタカナを抜き出すと、

キ、イ、シチニ、ヒ、ミ、イリヰ、

とあります。

言霊学でいう、父韻、チイキミシリヒニ、が揃っているではありませんか。

これは、わたしにとっての大発見ですね。

「キが元ざと申してあろがな、」ここでいう「キ」は父韻のキではなく、能動主体を示す伊耶那岐のキが元ということです。

確かに他は「神示先(ふでさき)ぢゃ。ここは神示(ふで)ぢゃ。」ふでになったことが認められます。

「ふで」というのは、『 天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。』のことを言います。

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「今まで他に出て居たのは皆、神示先(ふでさき)ぢゃ。ここは神示(ふで)ぢゃ。キの神示ぢゃ」というひふみ神示の解説をしてみたくなりそうです。

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三種の神器の使用法。その16。寄り道、ひふみ。

ひふみ神示の位置づけを御柱を立てたところにおいてもよさそうですが、(その15。)、古事記の冒頭に立っただけのことです。黄泉の国を通過することなく禊祓はないのですから、まだまだ先は長い。

どんでん返しと世の建て替えも、御柱を立てたと言っても、その意味を知る方がいないのですから、どうしようもないですね。

このまま静かに続けましょう。と、勉強するほうは静かですが、現実は物騒で不安な世の中です。

前回は文献に同じことが書いてあることを見つけて、少々騒ぎました。

ひふみ神示も古事記を補完するものとしてあることが分かりました。

ひふみ神示の文章を読んでいると、言霊学で勉強したことの謎解き用の教本みたいな感じになります。

----寄り道。--------------------------------

「黄金の巻。第四十六帖

今度の仕組、まだまだナルのぢゃ。なってなってなりの果てに始めて成るぞ。生むぞ。先づ金が無ければと申してゐるが、その心まことないぞ。キがもととあれ程申しても未だ判らんのか。役員どうどうめぐり」

ナルは鳴る、発声する、金は神音(かね)、キは伊耶那岐のこと。現象と源動因のこと。

「第三十七帖

集団(マドイ)は天国の組織同様にせよ。横にはウクスツヌフムユルウの十柱ぞ。縦にはアイウエオの五柱、結構ぢゃなあ。横だけでもかたわ、縦だけでもかたわ、この方 見えんアであるぞ。顕れは神示ぢゃ。よく相談し合って結構致しくれよ。弥栄えるぞ。秘文読めば判る。神業奉仕すれば自らめぐり取れるのぢゃ。めぐりないもの一人もこの世には居らん。」

五十音図のウ段による説明。父韻と母音のまぐあいによる子音(現象)創造のこと。アは創造主体、アメツチのア。

「第三十九帖

見渡せば 見事咲きたり 天狗の鼻の。

二人でせよと申してあるのは裏表合せて一つぞ。二人で一人でせねばならん。統一ないところ力生れんぞ。」

自覚が無く心の中で自己完結できない、ウとオ(欲望と知識)のこころの現われ。

二人というのはア行とワ行(ギミの命)、一人というのは伊耶那岐の大神となったギミ。

「第四十帖

何うにも斯うにも手つけられまい。この世は浮島ぞ。人民の心も浮島ぞ。油断禁物。ひふみの食べ方 心得たら、今度は気分ゆるやかに嬉しウレシで食べよ。天国の食べ方ぞ。一切は自分のものと申してあらう。上も下も右も左も皆自分のものぞ。自分ぞ。其処にまこと愛生れるぞ。」

ここはわたしの為に。天国の食べ方の紹介。

----寄り道、終わり。---------------------------

----また寄り道。白銀の巻 。第一帖。--------------

「時、所、位に応じて色々」

普通は、時空、時間と空間で済ましてしまいますが、「位」が入っています。人間性能の五次元のことです。

「そなた達は父と母と二人から生れ出たのか。さうではあるまいがな。三人から生れ出てゐること判るであらうがな。」

三番目は行為のことで、「八つの世界」のこと。

いろいろおもしろいことが書いてあります。判らないところもありますが、原理判断規範と現象の扱いを述べています。

「各々の世界の人がその世界の神であるぞ。この世ではそなた達が神であるぞ。

あの世(人の創造した現象世界のことで死後のことではない。)では、そなた達の心を肉体としての人(創造意思が形に成ること)がゐるのであるぞ。それがカミと申してゐるものぞ。

あの世の人(創造現象)をこの世(意図、意思)から見ると(心引かれる)神であるが、その上から見ると人であるぞ。

あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって限りないのであるぞ。

裏から申せば、神様の神様は人間様ぢゃ。

心の守護神は肉体ぢゃと申してあらうがな。肉体が心を守ってゐるのであるが、ぢゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。何処迄も下に従ふのぢゃ。順乱すと悪となるぞ。」。

「裏から申せば、神様の神様は人間様ぢゃ。」

早く皆が神とは人間のこと、と言えるようになれば、いいのですが、まだまだ「神」を語った方がことが簡単に片づくようです。

神示も、神とは人のこころぞよ、もう、神などといわんでもよいぞ、ぐらいのことを記してあればいいのですが。、、、。

----寄り道、終わり。---------------------------

今日は、寄り道だけ。

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