2018.04 古事記の冒頭は精神現象学原論。 1


古事記の冒頭原文読み下し

古事記の冒頭いわゆる神話部分の内容は、驚くべきことに心とは何かを解明し古代スメラミコト達による世界経綸に対する精神的規範を与えるために考案されたものです。既に八千年以上前に完成され伝承され、それが千三百年前には古事記の神話という形で文字におこされました。というのも世界運用に見合う物質的精神的環境の完成を待つまでの間、その間での開示されるのにあたって時機に見合わないことを避けるため、真実を隠没した表現、神話形式を選んで伝承させました。しかしその間に真実である精神現象学の内容まで忘れられ反古にされないように「神」の物語のような体裁にしました。従って古事記の言う神様たちが実際にいるのではなく、相応する時機に伝え開示されるべく人の精神活動の隠没として暗喩で使用されたものです。古事記の神話は天皇の歴史でもなく古事の言い伝えでもありません。今ここで機能している人間意識の歴史、今という瞬時の歴史を解明したとてつもない大偉業の記録なのです。天皇スメラミコトという形式は古事記の内容を保持保護するためのものです。

現在は冒頭の一句「天地」の取り方により解釈が分かれる時代を経験しつつあり、まもなく古事記で言う「天地」はその読み方が「アメツチ」と確定した後に「ア・メ・ツ・チ」の内容も確定していくでしょう。(既に神話部の解読は島田正路氏によって成し遂げられました)

原文の解釈の違いにより意見が分かれるということではありません。事物心に沿った真実はひとつです。意見の相違がどのように出てくるのか、古事記そのものが原理的に説明してくれます。

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天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は

『天地(あめつち)』

古事記は古代スメラミコトが遺し、「心のアメツチ」を解明したもので、千三百年前に太安万侶が記しました。思ってもみない体裁をとってはいますが、精神現象学原理論を伝承した至高の存在です。人の精神生命、意識の活動要素の根源を明かしたものです。

あめつち(天地)

(ア)

(メ)

(ツ)けて

(チ)となす

と読み直し、精神生命の先天原理であり活動の端緒とします。

冒頭の天地は物質世界外界の天地ではなく、心とは何かを考えた時の心の内の天地(アメツチ)のことです。

テンチではなく、アメツチと読み、心という存在の時空、秩序、創造物、それぞれの小宇宙の拡がりを表し、それらを心の内に捕らえた時の心の実在とその根本要素と構造とその働きをあらわし、如何に心の創造物が現象するかを表したものです。それらの一致した表現を言霊(コトタマ)といいます。

天(アメ)

吾(ア)の眼(メ)

天アメは、吾(ア)の眼(メ)、つまり主体・私の意識を現し

吾(ア)は私であり私の宇宙であり、宇宙の私であり、「ア」の宇宙です。

従って私の意識は元々宇宙の先天性と共にしているのです。

地(ツチ)

付(ツ)けて知(チ)恵となす

地(ツチ)は、意識の働きを示し,相手対象に渡して付(ツ)けて、現して智(チ)恵となすことさしています。

天地(アメツチ)

意識現象の働きを現すあめつちの原理の隠喩で、

吾(ア)の 眼(メ)を 付(ツ)けて 智(チ)となし,そして地(チ)に付いた事柄が,とりもなおさずその人の天地世界となります。

また、吾(ア)の眼(メ)・主体・私の意識はその人の天地世界となる一方、『アのメ』であるという言語規範に従わなくてはならないので、その先天性も受け入れたものとなっています。吾の眼・主体・私の意識は、こうして個的であり同時に先天一般性でもあり、人は常にこの意識を付けて自分(吾の眼)を現す言霊循環の内にいるのです。

天地宇宙が人の産まれる前からあるように、アメツチ(ア・メ・ツ・チ)も産まれる前からあり、先天のアメツチ宇宙を創っています。

人の精神生命現象が吾の眼を付けて智恵となすように、精神生命もあめつちの原理に従います。

アは心が対象に向かうときに発生しますが、対象に心の元となるものがあってのことです。同様に心に対象となるものが載る(宣る)のは心に対象を載せる力があってのことです。

アメツチの構成

先天実在世界の主体側 ー 母音で現されます

先天実在世界の客体側 ー 半母音で現されます

先天の能動韻 ー イ段で現されます

先天の根元韻 ー イで現されます

後天の元素 ー 子音で現されます

上記の全てが[ン]に載(宣)ります

これらの平面見取り図が五十音図となります。

冒頭の一句を心の宇宙,人の精神生命と取ること、ここから古事記は始まります。それによってふるごとの古事記ではなく、日々創造活動を遂行していく人の創造現象である「子」を明らかにする子事記となるのです。今風に言えば精神現象学です。しかも、読み解けば、前人未到の至高の原理論教科書となっています。

これが為に未来の人類に古事記は残され、それを取り巻く様々な文化や皇室や伝え習慣や神社、そして何よりも大和の日本語が変わることなく伝承されてきているのです。

古事記はこの後百神が列記されますが、最初の五十神は意識の実在要素単位、後の半分は意識の運用要素となっています。

これは精神生命の構成を分析したものとなっていて,心の正体を明かしたものとなっています。分析の究極の根底にあ・め・つ・ち・吾(ア)の眼(メ)を付(ツ)けて智(チ)と成す・があります。

アメツチの客観性は人の生命現象に基づきます。物質の根源が元素に基づくように、精神生命も五十の精神元素に基づいています。スメラミコトはこのことの発見によってスメラミコトとなっているので、別に天から降りてきたわけではありません。

『初発(はじめ)の』

初発は意識の端芽(ハシメ)のこと。

一旦スメラミコトによる精神元素とその構造の発見以来、初発の気が心の奥に動く意識を得るようになりました。

意識の端芽が無いところには天地世界は産まれず、虚空の客観世界と呼ばれるものが、吾の眼の端芽として控えています。

古事記で言う初発は、すでに意識の初めであるそのまた芽の芽生えの,先天の機知のあるときのことで、宇宙の初めではなく、常に今此処での意識の初めです。

『天地の初発(はじめ)の』

初発には二つあって、一つは聖書やその他の神話にあるように「神は天と地を創造された」といい、無いものからの創造と、一つは古事記に独特の初めから初めがあるというものです。

先天の天地に初めがあるということは矛盾するように見えますが、ここに後天の吾の眼(私の意識)が係わるからです。

先天の天地は無限ですから中心は無くどの点をとっても中心となることができ、そこに係わる事のできるのが吾の眼(アメ)である私の意識です。吾の眼は何時でもどこでも、吾の眼を付けさえすれば中心であることを主張できます。

こうして初めができます。

言霊循環

無いはずの初めが始めからあるということによって、始めが初めとなることができ、ここに言霊循環と呼ばれる動き出す意識の循環ができます。

生命意識の動きが循環にあるように、古事記の冒頭百神もそのように読まなければなりません。冒頭に神名が百出てきますが、これは一神一神を併置羅列したのではありません。

低位から高位へ、全体から個別へ等々へ向かう循環として出てきます。他とは違う単なる個別神ではありません。例えば最初の神(御中主)は後進の神へと変身変態するように、百回繰り返されて三貴子になるようにです。

また相手に伝わる言葉も百の経過を経た後伝わるようにです。(古事記の冒頭百神は直接にこのことを示しています。かくして百神の循環を経た言葉も創造された後天現象のまま先天の地位になります)

吾(ア)というだけの意識が花を咲かし実をつけ種になるようにです。古事記は子事記です。

『時(とき)』

十(ト)の機(キ)、と読み下します。

過去現在未来の時間や長さではなく、現在の時を形成して意識となって現れる機敏機智が十あるということです。

時は色々な顔をしますが、元々は十の機(トキ)のそれぞれのあるいは複合された現れです。

時とは十ある機敏のうちいずれかの現れのことを指します。後述されます。

時は十(ト)機(キ)のことですが、あめつちの宇宙世界に係わるや否や係わり方の世界が現れる機敏が十あるということです。天地という実在に対する、働きという存在が十あると言うことです。

過去現在未来という考えには、時を全体として感じることと意志の上で得ることとの二者が欠けています。

『天地の初発の時、』

吾(ア)の 眼(メ)を 付(ツ)けて 智(チ)となす 意識の端芽(ハシメ)の 十(ト)の機(キ)が働く時、と読み下します。

ここまでで時空の係わりの内時間の係わりが明らかになりました。その係わりの内容は次々に出てくる冒頭十七の神名の内後半十神がヒントです。

古事記以外の神話あるいはそれを受け入れる思考では、無いものから始まるため、事物の実相は解釈によります。古事記では本源に事物の実相を先天として受け入れますから、精神生命の現象もそれに則ったものとなります。

物事の現象の変化が時の変化で、物事の実相の流れが十の相を持っているのが時の流れです。

言葉の魂である「ことだま」では魂の実相が解釈により、言葉が魂である「コトタマ」ではそのものズバリを指す相違がでてきます。

ですので次は空間の登場です。

『高天(たかあま)の原(はら)に』

原注、タカの下の天を読みてアマという。しもこれにならえ。

高(タとカ)j

高天原はもちろん地域地名ではなく、現代的に言えば頭脳内の意識の働く言語野ですが、ここでも十機(時、トキ)に対応していなくてはなりません。

高は「タ」と「カ」の対比のため二語を一つの漢字で表しました。高という一語からくるイメージを排することが重要です。その為にわざわざ原典に注が施されています。天はアマと読む。

たかは二語ともア段。吾の間。私の意識の居間。タの吾の間とカの吾の間のニ語のことです。精神生命に二語の対比される特徴があるということです。

ここはまだ初めです。精神意識の初めの段階での対比すべき特徴といえば、タではまだ詳細は不明なままだが明るい全体観を持つことと、カの方では個別的な経験的な内容を持った個別性という、違いがあります。そしてそれらの違いのあるまま吾の眼、私の意識となって進展していくことです。

つまり、私の意識である吾(ア)の眼(メ)は、一方では、精神意識は「タ」か「カ」で始まる吾の間(アマ、天、私の意識の居間)の心を開けることで、私の意識の準備の整った居間(区画の整った五十音図)が産まれます。

他方では、先天の高みにある吾の間(アマ、天)で、先天の働きを収めている吾(ア)の間(マ)が十あります。

漢語表現での天つまり、天地が「あめ」つちなのにたいして,高天原がたか「あま」なのは,吾の意識の先天構造内の活動のことか活動の場のことかによります。

原 (言の葉の羅列)

言の葉(ハ)の羅(ラ)列列挙される場所

原はこの十の意識運動を開始しようとする言語空間で、私の吾(ア)の意識が「タ」となって産まれるか、「カ」となって産まれるか、タで始まる意識か、カで始まる意識の脳髄で言えば頭脳中枢の言語野ということになります。

頭脳の生理機能のことは古事記とは関係ありませんから、ここでは機能の現れとなる平面図である五十音図のことです。つまり異なった音図が頭脳の機能の中にあるということです。

これは後にアワギハラを通して複数の五十音図となるものです。

同様に、先天に用意されている吾の間の原、働く場であり、吾の働きの起きる頭脳中枢の言語空間でです。頭脳中枢が働きますがその働き方は言葉によるものです。書いたり話したりする以前でも言葉の構成発声を目指して物凄い勢いで高天原を駆けめぐっています。

原は言の葉(ハ)の羅(ラ)列列挙される場所で、当面前五十音図を指しましたが、実は意識の次元に対応した複数の五十音図があります。と同時に初めの音図が幾重にも重なる柱(御柱)の礎石ともなります。

『天地の初発の時、高天原に』

吾(ア)の眼(メ)を付(ツ)けて智(チ)と成す端(ハ)し芽(メ)の十(ト)の機(キ)の活動するとき、た(タ)とか(カ)の吾(ア)の間(マ)の言の葉(ハ)の羅(ラ)列列挙される場所に

私の意識を相手対象に付けて地に智恵を形成する十の意識の初動がある時、私の全体観か個別意識かが具現現象化を用意している言語野に

かくして時空の整った先天のあめつち(天地)に時空の整った吾の眼(天)が載ることができます。当然続いて起ることは行為とその結果です。古事記が「子」事記、意識の子現象の事を記したものと言われるゆえんです。

『成りませる』

鳴りませる

頭脳中枢で成っているのは言葉です。成るは鳴るの隠喩です。実際の会話の言葉は時間がかかりますが、その時でも頭脳内では猛烈な勢いで言葉が形成されています。

タとカの吾の間の五十音図の原で、吾の眼を付けて智となす意識の初めの十の機の働きにより鳴り響くことで成り出てるのは、現象具現化する子音という意識の創造現象です。

但し、物事は先天から始まりますので、子音、子現象の創成には先天の存在を置かねばなりません。

そこで、「なりませる」の「なる」は現象創造の後天子(こ)現象創造については「成る」ですが、先天の働きについては「鳴る」で、これは鳴り響くことを止めません。谷神は死なずと古代中国に伝わり、母音のことです。

また、「なる」のは吾の眼が付いて智になるのですから、「なる」という働きもあります。父韻です。

さて、高天原には次のような区別があります。まず先天の生命を構成している根源の内容によって、母音、半母音、父韻、子音があります。

実際の現象となって現れてしまうと、音・インは音・オンとなり、ん音によって運ばれることができるようになります。母音はアイウエオ、半母音はワ㐄ウヱヲ、父韻はキシチニヒミイリ、子音は三十二音あります。

『神の名(みな)は、』

神(カミ,加実)

かくして隠れて見えない所にいる神様というものはなく、「成りませる」神がいることになります。これは後で神が成りませるということで、創造主である神とは違います。

しかしいずれにしても、かみという時には,その人なりの神の定義なり思いなり意識がその人の意識の実として加味されています。

神とは加味された意識のことで,名前のあるなしに係わりなく、吾の眼を付けられたものが 全てかみ(神)です。ということは意識に昇る万物が神ということになります。

名(ミナ,実(ミ)の名(ナ)

意識に昇る万物をどのように判別するのかといえば、名を付けることによってです。名が無ければ存在が確認できません。

名は精神生命の実在の仕方と動きによって名付けられますが、また一方約束事として名付けられることもあります。前者は名と実在が一致しているコトタマとなり、後者はコトダマとなります。

加(カ)実(ミ)の実(ミ)名(ナ),神の名

意識があっても名が無ければ伝わりません。

そこで、意識から伝わるまでの全過程経過を現したものが、古事記の冒頭百神なのです。頭脳内の経過から言葉となって相手に伝わり、伝わったものが先天に戻るまでを表しています。

脳内物質の信号の変化を百の神の名前を使って整理をしてあります。これが古事記の本当の姿です。神々の系譜ではなく、意識の加味された時に創造される現象の具現化となる意識の実が名となって現れるまでの経過を記したものです。

名(吾の眼)を付けられて初めて働く実体が智となります。(あめつち)

言葉となって成るには言葉が鳴りませることが必要で、先天の言語空間と利用可能な言語規範が必要です。

神は実体と働きを合わせたもの、特に働きのみを取り上げるときには命(ミコト)といいます。

天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は

この古事記の冒頭を要領よく手短に言いなおせば、

意識の初めて働く時,頭脳中枢に最初に昇る心の要素は

です。

ここまで冒頭を細かくどころか再三に渡って繰り返してきました。人間精神がそのような構造ですから当然です。次からは百神がずらずらと出てきますが、アメツチの構造を百の神名で言い表したものです。

意識の動きですから、自分を相手に検証できます。

天の御中主(あめのみなかぬし)の神。

最初の神です。つまり最初の意識です。

心の宇宙(天)の真ん中(御中)にいる主人公(主)である神(意識)

古事記は眼前する宇宙の未発達な知識と想像を表したものではなく、従って宇宙の創造主を天の御中主としたものではありません。心とは何かの構造と動きを示した完璧な精神現象学の原理論ですので、そこで語るのは神の名を借りた心の説明です。

百神の構造区分

ここから百神がずらずらと出てきますが単なる並置ではないので,まずその事について述べておきましょう。

意識は循環しているので,循環するだけ同じ神様名が出てきます。とはいっても神名が繰り返されるのではなく、循環して次元の異なった神として変身上昇した揚棄された神として出てきます。

重要なことは意識の各次元各段階の隠喩としての神様がいるとしても、そこが最初の始まりではないということです。御中主は最初の神ですがそれの最初を語る時には次元が変わります。

つまり、あめつち・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成すという定理が御中主の前に立ちます。ということは御中主はこの後に出てくる百神の始めに立っています。

循環上昇の構造は、意識の実在要素神五十と、意識の運用神五十の計百神が一つの全体となって、あめつち(吾の眼を付けて智となす)から始まって、例えば『か』という言葉を発声し理解に至るまでの運行に、百神が費やされます。

と同時に途中で出てくる神々は全て前段を背負っています。

意識の実在要素神五十の内訳は、例えば『か』を発音しその実在を確認するのに

零(0・あめつち)先天(天の御中主からイザナミ) ⇒ 後天(大事忍男からオオゲツヒメ) ⇒ 先天(0)零(カグツチ)

となって、先天から始まり止揚された先天まで循環します。

ついで、意識の運用神が三貴子までとなります。

生命意識の構造区分は国生み(島生み、意識の領域を産むこと)全面的にとりあげます。

天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、意識の初めて働く時、頭脳中枢に最初に昇る心の要素は、と記した通り心の初めの出来事です。

それが天の御中主ですが、意識の始めにこの神名が現れることではありません。

ここで注意しなくてはならないのは、現にある意識の分析のはじめではなく、言ってみれば色不異空空不異色色即是空空即是色としての意識のことです。吾の眼を付けた時に始まる心の動きで、現にある意識という具体性をまだ持たないが後にそれらを表す先天の要素となる意識です。

色即是空では現にある意識と空の対比を揚げていますが、零(0・あめつち)の次元が欠けている、頭脳中枢で吾の眼が初めて動き出す時のことですので、吾の眼の色としての具体性を得る以前、主体としての吾の形成以前のことになります。

先天の吾の目覚めのようなものですので主体の意識の自覚も無く、従って客対相手側への意識もありません。そこにあるのは相手対象への意識ではなく、自分自身の意識でも無く、何も存在しない宇宙世界に何かが始まろうとする中心の主のようなもので、自分も相手対象もひっくるめた主人公観覚(ぬしかんかく)です。

例えば覚醒時とか瞬間的に見聞きしたものとか、突然に肩を叩かれ振り向いた瞬間の始めに得られる、後にそれらの全体を支配する意識となる主観覚です。

意識のレベルでいえば欲望の次元です。欲望には何々への欲望というように対象がありますが、繰り返しますがここでは「初発の時」のことです。有りて有るものへの欲望には欲望があるという以外に詳細はありません。

五十音図のあ行とわ行のウが同一です。そのわけは主体側あ行と客体側わ行には初発のときには両者の違いは無いからです。

意識の始まりはこのように、自分の意識である以前の分けの分からない曖昧模糊としたものから始まります。

そんてことはない、眼を開ければ机の上にあるりんごはりんごと理解できるじゃないかということですが、ではあなたの意識が表明したリンゴという言葉はどこからきているのでしょうか。古事記はあめつちの初発の時を問うています。

さらに有るものが何であるか確定する以前に有るものを有るとし、それを有らしめたいとする先天の欲望があります。見開いた眼はリンゴを見たいのか鉛筆を見たいのかはたまた机全体を見たいのか定かではありません。

あるものをあるとする意識とあるものをあらしめたいという意識の欲望が先天的にまずあります。

天の御中主は心の初めだとはいっても例を揚げた通り、主体意識として働いてはいません。ありてあるものの主(ぬし)というだけで、主客の別はありません。

また主として中心になりますが、宇宙の中心の一点に留まることもありません。主の意識が働くところはどこでもが宇宙の中心になれます。机上のりんごどころか埃が中心になることもできます。

人間の自我意識に取れば、これから自我として育つこととなる芽(主)です。中心となる芽ですのでどこでも此処が何時でも今が主です。

空即是色では空色の対比ですが、御中主はそれ以前のことで色眼鏡はありません。

次に

ここでの次にというのは前段を包含したうえでの、循環の上位段階ですが、それはそれで各々独自存在を名乗ります。

リンゴの種の成長を次々に見るには、発芽して若芽を出して苗木になって大きくなって花が咲いて実がついてまた地に落ちてと、見た目形態の違いを追って次々としますが、では一日ごとの違い毎時の違いなどには次々にとは、時々刻々と成長しているとはいえ、言いません。

古事記の百神の次に次にとは何を指しているものでしょうか。

それはアメツチの初発の時とあるように、意識の動き初めの瞬時の時のことです。

そうです、古事記は意識の一瞬の出来事を百コマの神名を借りて説明したものです。古代のスメラミコトがやった超スーパーマンの仕業です。その偉業を残すためと世界文明の発達のため天皇が創られたようなものです。

冒頭十七神の「次に」とその後の「次に」の違い。

吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成すあめつちの吾の内実は冒頭十七神全体です。つまり人の精神生命の全体です。その構成は以下のようです。

○天の御中主の神。 現行欲望の主客。それに言霊ウと名付けた。

○高御産巣日(たかみむすび)の神。 全体感情の主体側。それに言霊アと名付けた。

○神産巣日(かみむすび)の神。 全体感情の客体側。それに言霊ワと名付けた。

○宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。 過去知識の客体側。それに言霊ヲと名付けた。

○天の常立(とこたち)の神。 過去知識の主体側。それに言霊オと名付けた。

○国の常立(とこたち)の神。 未来選択の主体側。それに言霊エと名付けた。

○豊雲野(とよくも)の神。 未来選択の客体側。それに言霊ヱと名付けた。

以上は実在への意識。以下は意識の働き。

●宇比地邇(うひぢに)の神。 現に有りて有る働きの主体側。それに言霊チと名付けた。欲望に対応。

●妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 現に有りて有り続ける働きの客体側。それに言霊イと名付けた。欲望に対応。

●角杙(つのぐひ)の神。 過去に有りて有り続ける働き。それに言霊キと名付けた。主体側知識に対応。

●妹活杙(いくぐひ)の神。 過去に有りて有る働き。それに言霊ミと名付けた。客体側知識に対応。

●意富斗能地(おほとのぢ)の神。 未来に有りて有る働き。それに言霊シと名付けた。主体側選択に対応。

●妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 未来に有りて有り続ける働き。それに言霊リと名付けた。客体側選択に対応。

●於母陀流(おもだる)の神。 全体に有りて有る働き。それに言霊ヒと名付けた。主体側全体に対応。

●妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 全体に有りて有り続ける働き。それに言霊ニと名付けた。客体側全体に対応。

●伊耶那岐(いざなぎ)の神。 意志に有りて有る働きの主体側。それに言霊イと名付けた。主体側意志に対応。

●妹伊耶那美(み)の神。 意志に有りて有り続ける働きの客体側。それに言霊ヰと名付けた。客体側意志に対応。

通常は物質に対する意識、気を精神としていますが、古事記では上記の通りです。

あめつちの吾は上記の全体を先天萌芽で保持しています。

以上が「高天原に成りませる神」精神生命の先天十七神、です。先天と呼ばれからには説明も規定もできず、具現化していないので意識には捕らえられないものを言うはずですが、古代スメラミコト・太安麻侶のお蔭で表記の秘密を読み取ることができます。詳細は各神の項目を参照。

その後の次々は「更に神をみたまひき」とありますから、具現化した後天の神々です。

先天の十七神は当初から独立して存在しながら次々と現れるという二重に規定された神です。吾の眼を付けるという主体行為のお蔭です。「付ける」という根幹から発して同じ根幹に戻りそこから「次に」いきます。十七神が一つの全体をなしているからです。神道では心柱と呼ばれ後段に出てきます。

一方後天の神々は一つ一つ独立していますが、独立するには後天の全神を通過しないとできないという成立の仕方をします。

古事記はそれぞれ最小の表記で示していますが、その筆運びは厳密です。ここでは解説が交じるため前後したり、言霊循環の予備知識が挿入されたりしています。

神名に言霊が配当されている件について。

古事記は精神現象学の原理論で精神の子現象創造を明かした子事記です。後天子現象は名を付けられて初めて確認できるようになり、そのため古事記は同時に言霊学の原理論ともなっています。

言葉の発音発声は無数に有りますが、心を表す精神生命を表す発声は五十しかありません。物質の元素数が極限られていながらこの世の物質文明があるようなものです。

また精神元素数が限られているため温故知新のような通常の学問態度が役立ちません。新知識や経験知識は無力です。イマココで循環創造されていく心に対して、イマココを自覚しなくてはなりません。

神名に対しても同様です。一つには宗教信仰の対象になってしまうのと、他方では神名を言霊の呪示された解説名としていけば、その内容やそれに付随して顕われる人類文明に参加する機会を与えられる事になるでしょう。

では五十神に言霊をどのように名付けたのでしょうか。古事記には直接の記載はありませんが、『「天の御中主の神」という神名に、宮中賢所秘蔵の言霊原理の記録は「言霊ウ」と名付けたのであります。』ということがあります。それの研究者たちの異議が無いこととと、その結果による事物の見方に不明が無く実相が現れるという事と、自分なりの適応に感心してしまうことによります。

しかしこれらは成った後つまり言霊として名付けられた後での確認です。確かに例え五十神といえども、無数にある発音発声の中から心を表す適当な音を配当するのは困難なことです。

これを完遂した為にスメラミコトとなったと思われるほどです。

詳細は分かりませんが、心が音であり音が心であるものを探したと思われます。しかし心は直接には音で現せませんから、仲介となる音韻の世界が同じく感じられる身体の同調の仲介を通して求められたことでしょう。脳内意識の身体への外在化を精神レベルによって分類したことでしょう。顔の表情では感覚なのか感情なのか分かりません。そこで身体の共感レベルは腹に反映するところにまで降りて行ったことと思われます。(泣沢女の神のハラバイ=腹映え)

こうして成ったのが母音世界です。上記及び、 https://sites.google.com/site/ametutinokagami/ya-1/fu-mu-yinnitsuishi 参照。

精神生命の根源要素は五十の言霊元素からなります。五十の元素というからには五十の独立した元素の集まりのように思われますが、その各々がまた五十の要素で構成されていて、それ自身で循環した構造を成しています。御中主はそれ自体で独立した一神ですが、自らが五十神を通過した時に自身を現します。ですので御中主とは何かということは、この後の四十九神を解説して初めて御中主となります。他の神々も同様の構造です。

天の御中主の神。次に

天の御中主は言霊ウという実在です。他の神々と同様それ自体で独立していますが、それが動いたり歩いたり何かを産んだりはできません。机上の本が自分でページをめくることはできないようにです。現に有りて有るだけです。

実在がそれだけで完全であるのに「次に」とはどういうことでしょうか。本ならば次に次にとページをめくられて次の実在ぺーじを現すことでしょう。天の御中主ではそういうわけにはいきません。「次に」はありません。しかし「次」があります。

「あめつち」の意識の精神宇宙に何かが起きる兆しが産まれました、と書くと、「あめつち」でなくとも御中主と書いても同じことと思えます。それどころかどのような固有名詞を当てはめても同じととれます。そうです、「次に」というのは「次に」の動きを持ち来らす「次に」という神のような動かす動因を指しています。本のページがめくれるのもこの「次に」という動因のお蔭です。

古事記はこの動因を先天実在神を載せた後で十神で声明してくれます。上記先天十七神の●部分。

この十神の分は父韻と呼ばれ働きを示すところです。

天の御中主の神。次に

高御産巣日(たかみむすび)の神。次に

神産巣日(かみむすび)の神。

造化三神です。言霊はそれぞれウ、ア、ワです。

中国に渡って老子の「道は一を生じ一は二を生じ二は三を生じ三は万物を生ず」になりました。一は天の御中主の神、二は高御産巣日(たかみむすび)の神、三は神産巣日(かみむすび)の神ですが、二回目の三は三神全員のことです。冒頭部を数霊で述べたものでそれをわざわざまた文章に直しても仕方ないことです。

高御産巣日(たかみむすび)の神。次に、神産巣日(かみむすび)の神。

高御産巣日(たかみむすび)の神と神産巣日(かみむすび)の神は漢語表記は違いますが、タを除いて同じ読みです。また高天原のタの吾の間とカの吾の間に対応しています。

意識においてこのような関係にあるのは、意識が物事に対応するときの主客の関係です。

見るものを見る主体(主体宇宙)と見られものを見られる客体(客体宇宙)では主体側の見る行為以外は同一です。見たものを見た主体(主体宇宙)と見られたものを見られた客体(客体宇宙)では主体側の見た行為以外は同一です。考えるものを考える主体(主体宇宙)と考えられたものを考えられた客体(客体宇宙)では主体側の考える行為以外は同一です。等々。

両者は心の何を現しているのでしょうか。

両者の読みが同一ですから、同一でありながらタの一言が多いものです。心の先天宇宙内での主体側と客体側を示しています。

意識の先天実在を示していますが、動きはありません。本のページが自分ではめくれないのと同じことです。

ただしひとたび現れたならば動くことも無く消えることも無くなります。天の御中主の神は言霊ウとして、

高御産巣日(たかみむすび)の神は言霊アとして、神産巣日(かみむすび)の神は言霊ワとしてあり続けます。母音の特徴です。母音は一旦発声されたら同じ音が続きます。

言霊母音の特徴

言霊ウの宇宙世界あめつち・・現在を獲得したい。欲望を獲得する構造と同じ。おっぱいが飲みたい、お金が欲しい、大臣になりたい。五感に采配される。自己主張。

言霊アの宇宙世界あめつち・・自我を前面に出す。喜怒哀楽の感情を表現する。感嘆にうたれる。宗教芸術活動が出てくる。自己主張。

言霊オの宇宙世界あめつち・・過去を振り返る。学問知識、原因結果の世界とそれらの記憶運用。自己主張。

言霊エの宇宙世界あめつち・・未来を覗き見る。自己主張の選択整理按配。選ぶ現象。

言霊イの宇宙世界あめつち・・力動に支えられ、上記四例に力動を与える人間意志の世界。

高御産巣日(たかみむすび)の神。神産巣日(かみむすぴ)の神。

言霊ア、ワ。広い宇宙の一点に何か分からないが、ある事の始まりの兆しとも呼ぶべきものが生れます。それに対し太安万侶は天の御中主の神という神名を付けました。言霊ウです。次にそれが何であるか、の問いかけが人の心に生じる途端に、言霊ウの宇宙は言霊アとワの両宇宙に分かれました。安万呂はその両宇宙に高御産巣日の神、神産巣日の神の名を付しました。言霊ウの宇宙が言霊アとワの両宇宙に分かれる事は、意識の対象として、即ち現象として捉え得る事ではありません。飽くまで心の中の実在の活動であり、意識によってではなく人の内観・直観によってのみ捉える事が出来る事でありますので、これを宇宙剖判と申します。剖判の剖は「分れる」であり、判は「分る」です。分れるから分る、分かれなければ分らない。分るとはこういう事であり、それが同じであることを言葉が示しています。日本語の妙であります。

人は自分に対するものを見聞きした時、自らの存在、即ち自我を意識します。その現象は言霊ウの宇宙から言霊アとワの宇宙が剖判した事の一つの説明になります。それとは逆に、自我を意識している自分から、その自分に対立して存在するものがなくなることによって、自意識が次第に消えて行ってしまう。自意識が消えてしまうと、仰いで見入っていた空が自分を呑み込んでしまったのか、自分が空になってしまったのか、全く何だか分らない状態、即ち「天地の初発の時」の言霊ウになってしまう。それは言霊ウから言霊アとワが剖判する消息を、逆に言霊アとワとの対立から、対立が消えて初めの対立のない、禅でいう一枚の言霊ウに戻って行く事で証明するという事が出来ます。

言霊半母音の特徴

言霊半母音の宇宙世界あめつち・・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す客観の方向に局限された純粋の客体。

主体・客体、自・他、吾・汝、見るもの・見られるもの、吾の眼を付けるもの・吾の眼を付けられたもの、等々の関係。

三は万物を生ず

天御中主 ・ 心の宇宙の主 ・ 潜在の火

ヒ ・ 陽霊 ・ 主の火

スヒ ・ 巣洲零

ムスビ ・ 蒸す結び火

ミムスビ ・ 実蒸す結び火

カミムスビ ・ 火噛み加味蒸す結び火 ・ 客体の火

タカミムスビ ・ 田鷹高見噛み加味蒸す結び火 ・ 主体の火

そして現象の火

心の何かが動き出す兆しが現れました。意識の中心に意識の主が目覚めました。何かはっきりしないものの霊(ヒ)の輝きがあります。そこで更に目覚めてくると、そこに何かがあるような潮の満ち引きで現れる中州のような、大事なものを育てる巣のような、それが主の形なのか形の納まる形式なのかはっきりしません。そうこうするうちに、陽に蒸されて固まるように産まれる意識の形が出来てきているようなものがあります。塊は何かの意識の塊のようで、または意識が創った実のある塊のようなものです。そうなってくるとますます火を見るような明らかなものとなり、意識が作った実であるのか実であるものを意識しているのか、両者の噛み合い噛み結び合いで、意識している実の塊と実の塊を意識しているのとの分かれ目がますますはっきりしてきます。するととうとう天高くから獲物を目掛けて降下する鷹のように、産まれて蒸し上がった火の塊に突進します。

分かれるから分かる

こうしてとうとう意識するものと意識されるものとの違いが分かるようになります。ところで違いが分かるようになっている自分に気がつくと、気がついた自分を気付かされる産まれて蒸し上がった火のような塊に突き動かされていたことに気付きます。この塊は後に「タ」として整然たる田(意識の田)になります。

分かれる以前を経過して分れるから分る、分かれなければ分らないのですが、この段階ではまだ現象として分かる分からないということではありません。

次いで後に現象が起こります。

造化三神

初め心の宇宙から言霊ウが芽生え、それが剖判して言霊アとワの宇宙に分かれます。そしてその言霊ア(主体)と言霊ワ(客体)の感応同交によって人間に関する一切の出来事(現象)が生れ出て来ます。人間の一切の行為の元はこの言霊ウ、アワの三言霊から始まります。これが人間の心の重要な法則でありますので、言霊ウ・ア・ワ即ち天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神を造化三神と呼ぶのであります。

この三つを経過してから全ての現象が出てくるのですが、それ自身が活動して産むのではありません。現象を生ずる母体を提供するだけで、活動をし促すのは父韻と呼ばれるものです。

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。

同じ言葉がこの後も繰り返されます。つまり冒頭の七神が三・二・二で区切られることを示しています。精神意識上のことで、配偶神や系譜を持たないことではありません。系譜を意識の目覚めと取れば、厳密に意識の目覚めは古事記の通りに行なわれます。ただし創造する神神としてでなく実在を展開する母胎を提供する神としてです。

最初の三神は現有神として、二番目の二神は過去が現有となる記憶神として、そして最後の二神は現有が未来に選択されるだろう神としてそれぞれの母胎を提供していきます。

独神(ひとりがみ)に成りまして

独神は永遠の昔から独りでいることではなく、成った後に単独にあるいは単独に成ることです。つまり一旦産まれたからには死は無いということです。人の死も神の死も同様で、物理生物的な単体としては破壊崩壊無化しますが、意識に昇った死は不滅です。

また独りとは他に比べるものが無いということですから、それだけでそれ自身の世界を構成しています。それだけのことなら他の神々と同様ですがここでは精神生命のことを話していますから、先天意識の階層の独自性をいっています。言霊はそれぞれウアワで独自であると同時にそれが持ち来らす世界である欲望次元の言霊ウは感情次元の言霊アとは違うことを指しています。

それにもか係わらず、一二を生ずるとか次にとかはどのように可能になるのでしょうかというと、先天構造の最後を示すイザナギによります。

身(み)を隠したまひき

身・実を隠すのですから残るのは、影、気、先天等です。ここまででは現象の話はしていませんので、影もありません。感覚、感情、意識でさえ捕らえられないものです。意識でさえ捕らえられないものなのによくも文章になるなと感心してしまいますが、これも日本語という言語規範が先天的にあるお蔭です。

神様たちが易々と解説されたり性格が描写されたりはしません。そもそも現象界に身を示すことは無いのです。空即是色以前の直覚世界での先天性を感じ取ることです。

次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に

天の常立(とこたち)の神。

この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

上(かみ)の件(くだり)の五柱の神は別天(ことあま)つ神。

次に国稚(わか)く、

常に精神意識内の出来事ですので、天地創成とか国土のことではありません。

次に、というのはこれまで出てきたアメツチと三神の次にということです。アメツチでは予兆のようなものが現れ、御中主では予兆の現に有りて有る姿が見え、と同時に有る主体が現れ有る客体も現れました。

意識にはまだここまでのことでしかありません。残りが確定されるのは言霊百神の完成する先の話です。ですので国稚(わか)く、ということです。

何が若いのかといえば国(くに)ですが、クニとは精神意識の実在と働きを組(ク)んで似(ニ)せる、区切って似せることです。

ここで持っているのは三神つまり欲望と感情だけです。言い換えれば現に有るものと、現にあものへの相手対象意識の主体と客体だけです。何が何で何を等、何ら際立つものを持ちません。各項目の説明も同じです。分かるように説明したい思いだけがあって、内容がまだ無いということです。

それでも現に有るものを有るとする主張はできるので、独立独歩の体裁はあるというわけです。人の赤ちゃんのように欲望と感情だけは立派に発揮できます。

欲望(言霊ウ)と感情(言霊アと言霊ワ)だけでは幼く幼稚に見えますが、この世界はそれだけで幾らでも成長していきます。大臣になりたい金持ちに成りたいで一生を生きる方もいます。この若さだけの次にくるのが以下のことです。

国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして

浮かんだ油の浮遊は不安定なものですが、欲望と感情意識も同様である事を示しています。

ことに自覚に関しては、自覚して欲望を生み、自覚して感情を産み分けることができません。

脂は沈めようにも沈まず並べようにも並べません。吾(ア)の意識は浮(フ)遊して羅(ラ)列させられます。欲望や感情を組(ク)み換え思い通りに似(ニ)せようにも可能となりません。

水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、

ですので吾の意識は明白な構成の形体をなしていません。まるでくらげ(暗気)の中を漂っているような時に、

葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

あしかび(吾止火霊)

暗気の中、吾(ア)の中で留められ止(シ)められていた脂のように浮遊する意識でした。そこに枝芽から次々と芽を出し、何処が元で何処が末だか分らない程分かれた枝芽を出したものに火(ヒ)がつきました。そこに、吾の意識(ヒ)として浮かび揚がってくるものがあります。

そのように暗気の中から成りませる意識は記憶です。

意識はウ、ア、ワの言霊として進展してきました。私の意識の中で私の主体らしき者が、私の相手対象らしきものを見ることができましたが、確固たるものではありません。未だに影も形もあるものではありませんが、水母のような浮遊しているものです。それは私、吾、とは別物のようです。

意識において記憶は多くの場所を占めますが、ほとんどはまずは私、吾、とは別物です。ですがそれは直ちに私のものとして同化されます。

記憶は思いだそうと思って思いだすものとなりません。記憶を主体的に制御できません。暗気の中から何かの脈絡ありそうでなさそうなものに勝手に火か付き燃え上がってきます。記憶に関する行為は後から着いてくるのです。

宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に

言霊ヲです。

言霊は主体の働き掛けに応じてワ行の半母音が反応します。ですので主体側母音あ行の言霊オの天の常立がまず説明に来るように思えます。

しかし記憶の特性として記憶を自覚的主体的に扱うことはできません。出てくる記憶は意思して出てくるものではありません。前段にもあるように暗気の中から勝手に燃え上がってくるものです。

宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議なの意

阿斯訶備(あしかび)とは葦の芽のこと。

比古遅(ひこぢ)は、辞書に比古(彦)は男子のこと、遅(ぢ)は敬称とあります。男子(おとこ)とは音子で言葉の事

宇摩志阿斯訶備比古遅の神と古事記が指月の指として示した実体は、人間の記憶が納まっている心の空間(宇宙)のことであります。これが言霊ヲです。一つ一つの記憶は独立してあるものではなく、それすべてに何らかの関連をもっています。その関連が丁度葦の芽生えの複雑な形状に似ているために、太安万侶はこの神名を指月の指としたのでありましょう。

アシ・すがそ五十音図

記憶は一度感覚感情によって経験されたものしか思いだせません。それが産まれた初めから積み重なっていきます。この蓄積は人間に特有で、記憶の宇宙世界としてその人のものとなります。精神生命の先天の意志ともいうべきものとなっていき、それを精神意識の原図である五十音図(天津管麻音図、言霊イの音図)に書き表すと、主体側ア行の始まりがアとなり、主体行為の終わりの現れがシになります。アからシを結ぶ全体それがその人の意識の領域の全ての言葉の元となります。

ですのでこの初めと終わりをとってアシとして、適当な漢語を充て(葦、阿斯)、意識領域のそもそもの大本としました。

天の常立(とこたち)の神。

言霊オ。

天の常立(とこたち)の神とは相手対象を分けた吾の眼が恒常に(常)成立する(立)実在(神)といった意味であります。宇摩志阿斯訶備比古遅の神が記憶そのものの世界(言霊ヲ)であるとするならば、天の常立の神・言霊オとは記憶し、また種々の記憶の関連を調べる主体となる世界という事が出来ます。またこの世界から物事を客体として考える学問が成立して来ます。

記憶が出てくるには記憶されたものが用意されていなければなりません。

高御産巣日が自らの主体を神産巣日に見出すと同時に神産巣日は客体となり、その全客体を記憶として燃え上がらすことができます。それは恒常的にそこに控えているからです。

常立。

常立と名の付く神が続けて出てきます。次の国の常立は天の常立と一字違いでしかないのに対ではありません。また、別天神五神に入れられていません。何か本質的な違いがあるようです。高御産巣日と神産巣日のような関係にあるのでしょうか。

両者の常立にはどのような原理的な違いを持つ共通性があるのでしょうか。

常(トコ)。恒常。十子(十の子現象)。

立(タチ)。建ち。立ち。断ち。絶ち。経ち。太刀。

表記は異なりますがそれぞれの共通性が異質な神の共通項です。

この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

上(かみ)の件(くだり)の五柱の神は別天(ことあま)つ神。

ここでも上記二神が対になっていることが記されています。

同時に上記五神が一塊のグループでもあります。

構成図は後でまとめて示します。

次に成りませる神の名は、

国の常立(とこたち)の神。次に

豊雲野(とよくも)の神。

この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。

国の常立(とこたち)の神。言霊エ。

豊雲野(とよくも)の神。言霊ヱ。

トコタチ(常立)を時間の流れで見ると分かり易い。

天の常立--吾の眼を常世の過去世から断ち切り恒常的に現在世へ向かう。過去を断ち切り現在に立てる。太刀と剣(タチ、ツルギ)。

国の常立ーー組んで似せた常世の現在世を建ちあげ恒常的に未来世へ向かう。現在を断ち切り未来に立てる。太刀と剣(タチ、ツルギ)。

天も国も現在の吾の眼を立てるのに次元の切り分けをしてそれぞれ自己主張をしていく。

十子立ち(トコタチ・常立)

奇妙な当て漢字ですが、豊雲野の神にも共通して十が入っています。

豊(トヨ)・・十四

雲(クモ)・・組む

野(ノ)・・領域、分野

豊雲野の神・・十四を組む領域の実体。

○ 先天十七神

先天意識内で働く実在神(1-7)と実働(現象を起こさせる)神(8-15)と両者を兼ねた親神(16-17)

1 天の御中主の神。言霊ウ

2 高御産巣日(たかみむすび)の神。言霊ア

3 神産巣日(かみむすび)の神。言霊ワ

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。

4 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。言霊ヲ

5 天の常立(とこたち)の神。言霊オ

この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

上(かみ)の件(くだり)の五柱の神は別天(ことあま)つ神。

6 国の常立(とこたち)の神。言霊エ

7 豊雲野(とよくも)の神。言霊ヱ

この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。

(先天父韻)

次に成りませる神の名は、

8 宇比地邇(うひぢに)の神。言霊チ

9 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。言霊イ(ヤ行)

10 角杙(つのぐひ)の神。言霊キ

11 妹活杙(いくぐひ)の神。言霊ミ

12 意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ

13 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊リ

14 於母陀流(おもだる)の神。言霊ヒ

15 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。言霊ニ

次に

16 伊耶那岐(いざなぎ)の神。言霊イ

17 妹伊耶那美(み)の神。言霊㐄

上の件の国之常立神より下、伊耶那美神より前を、併せて神世七代と称ふ。

○ 別天(ことあま)つ神・・先天実在現有神。

五柱の神は別天(ことあま)つ神。

一 天の御中主の神。感覚と共に現に有る主客同一。

二 高御産巣日(たかみむすび)の神。感情の主体と共に現に有る。

三 神産巣日(かみむすび)の神。感情の客体と共に現に有る。

(この三柱の神は、みな独神。感覚と感情はそれぞれ異なった意識の階層をなしていて、この三者があって初めて自他の進展が可能となる。)

四 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。記憶の客体と共に現に有る。

五 天の常立(とこたち)の神。記憶の主体と共に現にある。

(この二柱の神は、みな独神。記憶の意識階層が加わることで意識実体の現有が現れる。)

神世七代・・実働神によって立ち上げられる選択実在神(一-二)と実働神そのものの現れ(三-七)

上の件の国之常立神より下、伊耶那美神より前を、併せて神世七代と称ふ。

一 国の常立(とこたち)の神。選択の主体と共に未来に立てる。

二 豊雲野(とよくも)の神。選択の客体と共に未来に立てられる。

(この二柱の神は、みな独神。この二者は選択按配の実体として意識の媒体内にのみ実在している。)

父韻。

三(1) 宇比地邇(うひぢに)の神。次に

三(2) 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に

四(3) 角杙(つのぐひ)の神。次に

四(4) 妹活杙(いくぐひ)の神。次に

五(5) 意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に

五(6) 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に

六(7) 於母陀流(おもだる)の神。次に

六(8) 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

次に

親韻。

七(9) 伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に

七(10) 妹伊耶那美(み)の神。

((1・2)(3・4)(5・6)(7・8)(9・10)は主客、原因結果等のそれぞれ一対の働きの因子・韻子で、一二、国の常立と豊雲野)の意識の媒体内でのもの、選択按配道徳智、から現象を生ずる。)

(9)・(10)は前記全神、1-15、の実在と働きの先天の因子。

トコ(十子、常)・・子現象を起こさせる上記(1)-(10)

トヨ(十四、豊)・・言霊母音アイウエオ五神、言霊半母音をワで代表、父韻八神の計十四。子現象を起こす。(古事記は子事記)

次に成りませる神の名は、

ここからはまた別の先天意識の階層が加わります。父韻といいます。

前記の実在、有り様、に対して、働き、生き様です。

次いで、成り様が次の段落、オノコロ島、にきます。

数詞の八に関する古事記神道の事柄は全てここから、ウヒヂニからアヤカシコネまでの八神、から来ています。

八父韻。

宇比地邇(うひぢに)の神。言霊チ

妹須比智邇(いもすひぢに)の神。言霊イ(ヤ行)

角杙(つのぐひ)の神。言霊キ

妹活杙(いくぐひ)の神。言霊ミ

意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊リ

於母陀流(おもだる)の神。言霊ヒ

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。言霊ニ

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父韻

・あめつち・吾の眼が付いて智になるときの話です。何故どのように吾の眼が付くと智が地に成るのでしょうか。それを解き明かしたのが父韻八神です。つまり子現象の成り方を記した子事記である古事記の核心をつく部分です。

人の生命意識が発動されると人はそこに自分の片割れを見出します。腹が減ったなと思えば空腹な自分を、この人は何を言っているのかと疑問を持つ時にはそれを掻き寄せている自分を、明日からまた仕事だと気を張っている時には道徳的な選択をしている自分を、等々と立てて自己意識の子現象を創造しています。

普段は別にそんなことを意識しなくても自然と行なわれていきます。古代のスメラミコトはここに現象を起こす意識の動因を八つ見つけました。父韻はそれ自体は姿を現しませんので、動因といっても原因や動因とは違って形がありません。動韻というべきでしょう。

父韻自体が他者の何者かによって急かされ動かされます(御中主と連携)。と同時に主客が開陳され(高御産巣日、神産巣日と連携)、言霊ウ・アワ・ヲオ・エヱの四次元(世)への選択意志が働きます。ここに父韻が現れます。父韻は見えないとはいっても働く韻ですから、何らかしらの実体の上に載っかからねばなりません。それがウアオエイの五次元世界です。そこでまず出来るのが、自分の立ち位置を示す領域です。

自分の立ち位置が出来ると今度はそこから自分の領域や締まりを作り出します。まず自分のものとしての四次元(世)を見立てて、自分のものとしての父韻の働きを起こします。こうして己の心の締まりをつけます。前段では父韻が他者の何者かによって動かされましたが、ここからは自分としての父韻の働きになります。いずれにしても父韻の内容は同じです。

理解し易いようにするため父韻という働きを現すために自分の立ち位置に、この世の実体の全体を現すウアオエイの五次元世界を一本の杭か柱を立てましょう。すると今度はその柱の廻りに父韻がまといつき姿を現してきます。

= = == = = = = = = == = = = == = = =

直訳。

【宇比地邇(うひぢに)の神。 言霊チ

直訳・・『宇は地に比べて近い。』

【妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 言霊イ。ヤ行。

直訳・・『須らく・ぜひともしなければならないことは智に比べて近い。』

角杙(つのぐひ)の神。言霊キ

直訳・・『触覚を出して杭(喰い)とする。』

妹活杙(いくぐひ)の神。言霊ミ

直訳・・『行くことを喰いとす』

意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ

直訳・・『大いなる(意富)量り(斗)のはたらき(能)の地。』

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊リ

直訳・・『大いなる量り(大斗)のわきまえ(乃弁)。』

於母陀流(おもだる)の神。言霊ヒ

直訳・・『 於母 (おも)はおもて、表面。、 陀流 (だる)は足るで充足、完成すること。心の表面に言葉が完成する。 』

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。言霊ニ

直訳・・『阿夜・ああ。感嘆するほど賢い音(ね)。』

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今こことの関係

【宇比地邇(うひぢに)の神。 言霊チ

今こことの関係・・『今ここに現在有りて有るものを有るとする動韻。言霊ウの意識。』

【妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 言霊イ。ヤ行。

今こことの関係・・『今ここに現在有りて有り続けるものを有り続けるとする動韻。言霊ウの意識。』

角杙(つのぐひ)の神。言霊キ

今こことの関係・・『過去にあったものを今ここに開陳する動韻。言霊オの意識。』

妹活杙(いくぐひ)の神。言霊ミ

今こことの関係・・『過去にあったものを今ここで実が結ばれようとする動韻。言霊ヲの意識。』

意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ

今こことの関係・・『今ここにあるものを未来に鎮めようとする動韻。言霊エの意識。』

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊リ

今こことの関係・・『今ここにあるものを未来に広めようとする動韻。言霊ヱの意識。』

於母陀流(おもだる)の神。言霊ヒ

今こことの関係・・『今ここにある全体を表面に出そうとする動韻。 言霊アの意識。』

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。言霊ニ

今こことの関係・・『今ここにある全体を中心に煮詰めようとする動韻。言霊ワの意識。』

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今の時間の流れ。

【宇比地邇(うひぢに)の神。 言霊チ

今の時間の流れ・・『今ここに現在そのまま有りて有るとする動韻。今ここに有るか無いかを現象させる動韻。』

例。欲望欲求を持つこと。五感感覚に見入る聞き入る等。

【妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 言霊イ。ヤ行。

今の時間の流れ・・『今ここに現在有りて有り続けるものを有り続けるとする動韻。今ここに有るものを有り続けさせる動韻。』

例。持ってしまった五感感覚。

角杙(つのぐひ)の神。言霊キ

今の時間の流れ・・『過去にあったものを今ここに開陳する動韻。過去にあったものを今ここにかき集める動韻。』

例。学問、知識。

妹活杙(いくぐひ)の神。言霊ミ

今の時間の流れ・・『過去にあったものを今ここで実が結ばれようとする動韻。過去にあったものを今ここに実が成ったとする動韻。』

意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ

今の時間の流れ・・『今ここから未来に向かい収まり鎮まる動韻。今ここに有るものを未来に収め鎮めようとする動韻。』

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊リ

今の時間の流れ・・『未来に今ここを受け取らせ拡張伸張させる動韻。今ここに有るものが未来から来て流布されているようにする動韻。』

於母陀流(おもだる)の神。言霊ヒ

今の時間の流れ・・『 今ここの全体を開き表面に開花する動韻。今ここの全体から始まろうとする動韻。 』

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。言霊ニ

今の時間の流れ・・『今ここの全体を受け取り中心部に収束する動韻。今ここの全体が煮詰まろうとする動韻。』

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意訳と解説。

宇比地邇(うひぢに)の神。次に 今有るか無いかを現象させる力動韻

妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に 今有るか無いかの現象を持続させる力動韻

角杙(つのぐひ)の神。次に 今から過去の現象に結び付られようとする力動韻

妹活杙(いくぐひ)の神。次に 過去の現象を今に結び付けようとする力動韻

意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に 今から未来に向いそこで収まり静まる力動韻

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に 未来に今を受け取らせ拡張伸張させる力動韻

於母陀流(おもだる)の神。次に 今全体を開き表面に開花する力動韻

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 今全体を受けとり中心部に収束する力動韻

今現在という一点は父韻からすると八方向から見ることができ、次いで意識に昇ることと意識に昇ったことの二方向が付け加わります。人の立っているこの一点が十人十色に分かれるのは父韻のお蔭です。

一点というのは常に以下の構図の全体がまとめられたものです。

一、今現在有る

二、今現在有り続ける

三、今現在は過去からきた

四、過去からきた今現在に結び付く

五、今現在は未来へ行く

六、今現在は未来へ結び付く

七、今現在は過去現在未来が統合されている

八、統合された今現在は煮詰まる

そして。

九、意識に昇る

十、意識に昇ったものと成る

父韻はそれぞれ実体に結ばれなければ現れませんから、それぞれが言霊の性質を持った世界と結ばれます。

一、今現在有る。言霊ウ世界と結ばれる。主客同一。神名を宇比地邇(うひぢに)という。

二、今現在有り続ける。言霊ウ世界と結ばれる。主客同一。神名を妹須比智邇(いもすひぢに)という。

三、今現在は過去からきた。言霊ヲ世界と結ばれる。客体側。神名を角杙(つのぐひ)という。

四、過去からきた今現在に結び付く。言霊オ世界と結ばれる。主体側。神名を妹活杙(いくぐひ)という。

五、今現在は未来へ行く。言霊エ世界と結ばれる。主体側。神名を意富斗能地(おほとのぢ)という。

六、今現在は未来へ結び付く。言霊ヱ世界と結ばれる。客体側。神名を妹大斗乃弁(おほとのべ)という。

七、今現在は過去現在未来が統合されている。言霊ア世界と結ばれる。主体側。神名を於母陀流(おもだる)という。

八、統合された今現在は煮詰まる。言霊ワ世界と結ばれる。客体側。神名を妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)という。

九、意識に昇る。言霊イ世界と結ばれる。主体側。神名を伊耶那岐(いざなぎ)の神という。

十、意識に昇ったものと成る。言霊㐄世界と結ばれる。客体側。神名を妹伊耶那美(み)という。

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以下に意訳と解説を試みますが、古事記の作者である太安麻侶は最小限度の指示を神名に託しています。解説したところで長くなるだけだし、どうせ指し月の譬えからは出られないので気に入ったところまでとします。

宇比地邇(うひぢに)の神。 言霊チ

宇霊地似・・・宇の意識は地に似るようになる

主霊智似・・・主の意識は智に似るようになる

意訳・・「こころの意識宇宙は相手対象である地に比べて近くに成る働きを持つ実体。

吾の眼(わたしの意識)の全体はそのまま相手対象に直接向かうといういとなみを持つはたらきとなる。」

こころの内容がそのまま全体となって現れて表面となる。

宇比地邇(うひぢに)は、宇宙の実在は地に較べて近いで、意識した頭脳内の実在は意識された対象実在と同じ程のものだということです。あるというだけの実在を意識においてあるとするだけの時に、宇宙という意識に宣(の)った実在は、意識が自分を観た時に物理実在と較べて余程近いものということです。

ウの次元では宇比地邇(うひぢに)は欲望世界の全体がそのまま出てくる力動になり、妹須比智邇(いもすひぢに)では出てきた欲望世界が持続するかしないかになります。

言霊アの次元では宇比地邇(うひぢに)は感情情緒の全体がそのまま相手対象に向かって出てくる力動になり、妹須比智邇(いもすひぢに)では出てきた感情表現が持続するか途切れるかになる。

言霊オの次元では宇比地邇(うひぢに)は過去概念知識の全体がそのまま相手対象に向かって出てくる力動になり、妹須比智邇(いもすひぢに)では出てきた記憶が持続するか途切れるかになる。

言霊エの次元では宇比地邇(うひぢに)は按配選択の実践智の全体がそのまま相手対象に向かって出てくる力動になり、妹須比智邇(いもすひぢに)では出てきた按配選択の実践智が持続するか途切れるかになる。

・父韻は独り神で身を隠している主客の両者を取り持ち結び合う力動韻なので、父韻によって両者の共通項が提供されます。ここでは父韻によって全体全身が出てくる出てこない、全身があるない、全体で続く続かないという初発のあり方を示します。

吾の眼、わたしの意識が相手対象に向かう時、その意識は相手の全体をとらえている物ならその意識も全体として出てきて、捉えた対象を全体として意識に相当、似た物として立てていきます。

意識の力動韻がこのように働くので、実際に全体を捉えていなくても、意識(あめ)とその相手(つち)はういぢに、すいじにでは全体を主張する物として出てきます。

・両者は今ここにその同等の全体があるかないかの現われとなる欲望実現次元の性格を持っています。

【妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 言霊イ。ヤ行。

意訳・・「こころの現われと成る言葉は知識智恵を表す概念に比べてより実体を忠実に表すものとならなくてはならないという働きを持つ実体。」

妹須比智邇は、すべからく意識上の実在は智の実在に較べて近い近付けられているです。こちらの方は実在してあるものの持続を確認した時に、意識に宣った実在は当然対象となっている実在と較べて同じものであるという、循環されて元のものを確認できているです。

さて、あってあるものであるものが持続してあることが確認されると、その持続の同一性の今という時間内に過去から今現在にもち来らせた過去の意識が発生しています。そこで次に過去と今を明かす二神が登場します。

今あるものが過去からのものだという意識についてです。

今あるものが存在と持続の二方面から見られるように、過去の意識は自分の持つ今現在の意識に対して、過去へ探しに行ったものと過去からやってきたものとの違いを見ることができます。

角杙(つのぐひ)の神。言霊キ

意訳・・「こころにあるものあったものを外在する対象から自分に掻き寄せ 自分のものとする 。相手側の実体(体、言葉)を自らのものとする為、働き(霊、言葉の内容)に変換して取り入れる。」

相手対象を判断や頼りになるものとして自らのほうへ掻き寄せ、 喰って取り入れる はたらきの実体。

・角は出して立てると 杙同様判断の寄りしろの意味を表すようになる。

・杭、 杙、くい、は境界、判断、寄りしろとなる智恵で能動側の判断を行うまたは受動側の判断を受ける物。

・角杙の 杙 はくい、喰い、自分に取り入れるの意になるように読み替える。つまりここでは角は 杙 の象徴になり、 杙は、くい、喰いにする。

今ここから過去の子としての現象に結び付られようとする動韻

こころの内容が表面と見立てた過去を取り入れて表面とする。

ツノグイは、

・・ 例えばテレビがあるという実態を、テレビを見る・聞く・いる・ある・食べる・という働き・動詞の動きに変換する。自分に結び付ける。

次にその逆の妹背の関係、イクグイは、

・・ 例えばテレビを見る・聞く・いる・ある・食べる・という働き・動詞の動きを、 テレビがあるという実態 に変換する。自分が結び付く。

角杙(つのぐひ)の神は、角で突き刺し当てるように、自分の持つあるものという実在を主体的にその形成出所を探るものです。ここでは自分にある、あるものに対する判断規範が軸となっていますから、いわばうひぢにの出生を取り寄せるようにします。その実在は天の常立(とこたち)の神に負っています。

妹活杙(いくぐひ)の神。言霊ミ

意訳・・「テレビを見る場合なら、見る行為を喰うとそこで見る行為が喰われて、見たという行為が実体化します。あるものあったものに結ばれて、行為、働きが実体化されて形を取るようになる。」

食う動きを実体化し残すはたらきの神と呼ばれる実体。

・イクは能動的な感触を得ますが、言霊がミであらわされるように、固まり実となる方向に向かいます。ですので、行って喰うのではなくツノクイとは反対に、行くこと、行く動きを喰うになります。

意訳・・「テレビを見る場合なら、見る行為を喰うとそこで見る行為が喰われて、見たという行為が実体化します。あるものあったものに結ばれて、行為、働きが実体化されて形を取るようになる。」

過去の子としての現象を今ここに結び付けようとする動韻

こころの内容を見立てることが表面となる。

・両者は今ここでその過去(の記憶)を今現在にして過去からの流れを実体化するか、実体化するはたらきを過去に結び付けるかの、記憶概念次元の言霊オの性格を持っています。

妹活杙(いくぐひ)の神は、ツノグイが過去へ向うのに対して、イクグイは過去のものが今に結び付いてこようとするものです。過去のものとは、もたらせられた記憶概念知識等のことですから、その実在を宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神に負っています。

あるものが過去から来たものであることを了解しますと、その時間の流れの中に過去完了形や未来完了形を形作る選択按配等の分配の流れがあることが了解されます。あるものがそれになったとして定立されることで起こります。

ウヒヂニ、スヒヂニは現にあること持続することに関わっていましたが、あるものに関することなのでこれから在らしめようとする、選択を配置しようとすることには係わりません。がしかし大量の過去事象からそれが選ばれたり、現在の事象からそれが選ばれたりします。そこには選ぶということで現在を出て未来へ向う方向が出てきます。

意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ

意訳・・「こころの働きの内、これからのことを決定実行し選択する大いなるこころの動韻の事で、押し開く行く手の戸(斗)を選択し智恵の識別する働きの地盤を固める。量りを用いて開く戸を選択し、こころの落ち着く地盤を相手対象と共に固める。」

大きな識別(斗)の働き(能)が土台と成るように静まること。

今ここから未来に向いそこで子として収まり静まる動韻

こころの内容の選択していくことが表面となる。

・こころの中に意識が全面的に浮かび出て(チ)、出てきたものを自分のほうに掻き寄せ(キ)、ここで引き寄せたものを選択し受け入れ(シ)、最後に納得了解します(ヒ)。

・その妹背の働きは、

・意識に出てきたものがあり続け(イ)、出てきたものを自分のものとし(ミ)、ここで自分のものとしたものが意識の元で発展拡張し(り)、最期に了解煮詰まって事が成ります(ニ)。

意富斗能地(おほとのぢ)の神は、大いなる(意富・おほ)度量天秤をかける(斗・と)働き(能・の)の地盤(地・ち)です。

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神は、大いなるはかりの弁え、物事の違いを見分けることです。

両神は、選択実行に伴う意識の初めの動きで、今という時処位から一歩踏み出す動韻となるもので、そのバネの選択の地盤となっているものです。「古池や蛙飛び込む水の音」に見られる、決意決定する直前の瞬間を構成する未来を選び識別の土台となる普遍的な地です。

全世界を足下に控えた静まり返った待ちわびる時処位たちを選びはかり取る地となるものであり、一方では、うごめき主張しのべ合う時処位たちを選びそののべるところを受け入れる地となるものです。

動くも退くも、静まるも離れるもこの両者によります。

次いで、どういう方向に向うかが決定されます。

オホトノベ、オホトノヂは全世界を目前にした選択をしますが、その後のことは次の二神によります。といっも時間の流れの別々の切り口に現われるのではなく、今という瞬間に内蔵されているものです。

選択の方向が決まると、あるものがあって、それが持続していて、過去から来たもので、過去へ結ばれて、今および未来を選択する地を確認して、選択して、そしてここで落ち着く結果を見ることになります。開いて咲くか身ごもって煮詰まるかです。その次元を新たな神で表現すれば次になります。

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊リ

意訳・・「広がり拡大するのはその行為ではなく、行為の内容で、主体側の行為を伸展広げるのではなく主体側行為の内容と成っている客体側で鎮め統一しようとします。」

未来に今ここを受け取らせ子として拡張伸張させる動韻

こころの内容で選択された行為を表面とする。

・両者は今ここでその過去(の記憶)を今現在(言霊オヲの世界)を選択置こうとして、今現在から未来への流れを実体化する(地とする)か、実体化するはたらき(のべる)かの、按配選択配分次元の言霊エの性格を持っています。

於母陀流(おもだる)の神。言霊ヒ

意訳・・「こころに現われ出てきてこころに結び付き邇部に引き寄せてそれを表面に押し出して完成する。」

こころに思ったことを表現として表面に輝かせ完成し納得する韻の働きをする実体。

於母 (おも)はこころに思うことの面、表面で、 陀流 (だる)は足るで充足、表れ完成すること。心の表面に言葉が完成する。 』

今ここの全体を開き表面に子として開花する動韻

こころの内容を表立たせることが表面となる。

於母陀流(おもだる)の神。面に足るで表面に完成する。精神的な安定に満足して安心することでしょう。 意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとするので自己の確認に安心していられます。

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。言霊ニ

意訳・・「あや(吾夜・こころの隠れている意識)を煮詰めて行くことを賢明なこととして得体を納得得心する働きの韻の実体。」

あやにかしこき音で、吾(私の意識)夜(こころの奥に隠れている内容)が賢い賢明な内容に成るこころの韻を煮詰めていく働きの実体。

今ここの全体を受けとり子として中心部に収束する動韻

こころの内容を煮詰めることを表面とする。

・この両者はこころの表面と内面があることの現れですが、父韻はあることのありさまではなく、あろうとするいきさまについてです。

・ですので表面に成ろうとすること自体に次のような全体で八通りの韻の展開がでてきます。

・両者は今ここでその選択された今現在をもの事の表面に実体化するか、実体化するはたらきを未来に結び付けるかで、表面にあらわれた納得感情次元の言霊アの性格を持っています。

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。その反対に怪しみ心の畏まった鳴り止まない重低音の不安定感を固めることでしょう。煮詰まり種子化していくことに不安な先の見えない夜を過ごす感触を得ることでしょう。

次に 実在要素と動韻要素の揃った後に

チイキミシりヒ二によってウアワヲオエヱが意識了解されますが、この了解する働きを起こす元がイヰの伊耶那岐(いざなぎ)の神、妹伊耶那美(み)の神にあります。

伊耶那岐(いざなぎ)の神。言霊イ

妹伊耶那美(み)の神。言霊㐄

伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に 実在と働きを誘い、子として現象を結ぶ先天の根源韻。

いざなう気の神。

妹伊耶那美(み)の神。 実在と働きに誘われ、子として現象を結ばれる先天の根源韻。

いざなう気の実となる神。

【 伊耶那岐(いざなぎ)の神。 言霊イ。

直訳・・

『イザ行かんと言葉(名)の気(意思の創造力)が奮い立つ。

生きる居るのイのさなぎ(蛹)が働き出す。

イの間(今)を指して実体(名・な)と働き・霊気(キ)を結ぶ。

生きる働きと実体の一般性としての名前概念を生み実在を示す。 』

意訳・・「イルとアルの大本のはたらき。いきさまとありさまを統括する。」

【 妹伊耶那美(み)の神。 言霊ヰ。ワ行。

直訳・・『いざなぎを実体側客体側からみたもの。』

意訳・・「いざなぎを実体側客体側からみたもの。」

古事記は子事記としてどのように子現象ができるのかを先天の要素をもって説明してきました。ギミの神はその根源韻として全要素を統轄します。その最も的確な表現が創造意志としてのギミの神です。全ての実体要素も働きの要素も創造意志にいざなわれて意識に昇ります。全ての子現象の親神です。

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2018.04 古事記の冒頭は精神現象学原論。 中へ続く。