i 子様のための古事記の言霊百神 05

i 子様のための古事記の言霊百神 5

「 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、」の「天地」は「あ・め・つ・ち」と読み、

アの目が付いて地に成る、ことで、

わたし(我、吾、あ)の意識の目(め)が相手対象に付(つ)いて地(ち)に現象として成る、

ことの象徴表現であり、こころの動きの原理を現したものです。

この一文は人の意識行為の全てに当てはまります。テレビを見るとき、腹が減ったとき、さっきなんと言ったか思い出すとき、全て意識行為の原理的な表現です。

そのことを現象として在ると見ていけば分かりやすく、見て聞いて思って考えてという心の動きが、対象を見いだして相手を感知認識することになります。

ところが、その同じ構造が先天の意識活動にも在るという発見こそが、大和を世界から峻別する元となりました。

そしてその発見を自覚して現実社会生活に運用適用する方法を得て、世界を建設していきました。その、発現としての世界の人間歴史と精神がここ大和から始まったのです。

ということは大和による意図的な合目的的な世界歴史のことを言いますので、火の発見とか、石器の形状とかを云々する歴史のことではありません。

普通の当たり前の歴史は、石器や大坂城の石組を見て、誰かが(who)何時(when)何処で(where)何を(what)し、次に何故か(why)に至って、歴史の行き着く処は何処か、そして最後に将来の設計図を予知予測と付き合わせます。

しかし落ち着いて見ると、石器や大坂城の石組は過去にあった事で、現に見ているのはここにいるわたし、あなたです。また博物館にある石器が将来包丁になるかピストルに成るか、石垣がコンクリートになるか鉄骨になるか、そんな変化はまだ見られないので、将来の姿は実在していません。

いずれにしても、今ここにいるわれわれ各人のそれぞれの心が、過去はこうだ、未来はこうなるだろう、こうなったはずだと言っているだけです。言うからにはそれなりの過去知識と研究の成果があって、それらが充分に活用されているのですが、そこにあるのはものに対する記憶概念知識であって、その物を創造した意図目的ではありません。

意図目的は非常に見えにくいものです。はいどうぞと渡されたケーキが爆弾であるか健康成長を祝うしるしか、おいしいものを食べてもらいたいのか毒入りか、判別は難しい。石器にしても石垣にしても、何のためですこのためですと簡単に言う事ができない。こうですああですは後に仕入れた概念知識によって言わされたことで、その上に5Wが乗っています。

そのものを創った本人を差し置いて、歴史の知識と称するものがでかい顔をしているだけです。そこには創った本人の血も涙も温かみもありません。結局誰でもいいから工作人、労働者がいればいいというだけです。どんな人間がそこにいようと人の心は現れず、石の冷たさと科学的な知識が出てくるだけです。

もちろんそれらは重要な情報を提供するものです。過去の人と話が出来るわけがないのですが、そこにあった意志を等閑に付す事はできません。自分がそこで働いていたとしてみてください。自分に当てはめてみれば自分が鞭打たれ血を流して石垣を積んだことに、敵の攻撃を防ぐためなんて言うことはできないでしょう。自分の意志をくみ取ってもらえなければそれはとても哀しい事です。

ブログを読むことだって同じです。学校での国語の勉強みたいに先生の教え方は誰が読んでも構わないと言う態度です。書かれた事の内容の話しはしますが、読む方の生徒は一人一人感情考え感じ方が違うのです。それにとうとう現代はタブレット画面を与えておけばいいという時代にまでなりました。誰でもいいから読め、になってしまいました。

そして私たちは今ここのブログではそういった歴史の原初の、心と意識の初めの時点にいて、それを天の御中主の神、言霊ウという歴史の賜物を持っています。天の御中主の神とは何かと実体を指す言葉は持っています。それは言霊ウである。皇室の賢処に秘された書物があってそこに書いてある。既に民間にも流れ、言霊学では解説されている。

もしそれだけのことなら、石垣に染み込んだ汗を無視しています。天の御中主の神は言霊ウだというだけなら、誰でもよい、主体のない、意図も意志も見えない、単なる過去知識です。

自分が知ったとき、その時の知識が全てですが、知識概念は過去に向いていますから、過去の言い種も全てそこに含まれてしまいます。そこで自分に都合のよいことが次々と重ね合わされ、知らないことでも知っていたこととして後尾に連なってきます。こうして過去からの体系が自分のものになりますが、その初めの自分は小さなものでした。

始めて彼女を見た、始めて聖書を古事記を日月神示読んだ、始めてホノルル空港に着いた、始めてキーボード叩いた、あるいは、始めてこの世に生まれた、始めてパンダを見た、等々、日常生活はこれらの始めの総体で成り立っています。

この初めという総体は各人の世界全体宇宙となっています。

そこでこの初めてから、その初めてだけを取り上げるとどうなるか。例えば、初めてカレーラーメンを食べた時、そこには記憶知識によって選ばれたカレーラーメンがありましたが、知識は過去に創られていたものですから、一切消去します。ラーメンと名付けられ物が無くなります。

丼の中に湯気を上げている物が入っているのを見ます。匂いがしている。口に入れれば味がある。これは知的概念的な部分を取り去っても何かが残っていることを示したものです。味覚とか触覚とか嗅覚とか視覚ですが、それらを表現する概念を捨ててありますから、何の表現もありません。

ここには物理的生理生物的な反応作用があるだけです。そこから先は何も動くものがなく、自然過程の作用の連続が続きます。

つまりここには人の関わる歴史が生まれていないのです。つまり見るだけでは、大坂城の石垣にも、ピラミッドにも歴史はないということです。人は大部分の事物と自分との歴史的関係を結ばずに事を済ましていきます。

しかしそこに別の関係が現れていることがあります。感情です。この感情情感や威圧感、その他等はその初めの的時に生まれても、感情情感として生きていくことができます。つまり言葉として表現しなくてもいいし、できないこともあります。もちろんその場の感動を一言喋ろうとすれば過去概念のお世話にならなくてはなりません。

また、注意を集中することや意志を現すことも言葉なく行為することがあります。ここでも自身を現そうとするには言葉が必要になりますが、訓練された体験のコントロールなら一見、条件反射のような身体運動になることもあります。

さて今ここで示されているのは初めという総体です。記憶知識は元々過去のものですから、出番でないからまだ裾にいます。大事な記憶知識を脇に置いただけで、各人の成していることは一挙に惨めなすれっからし一文無しになった感じです。古事記には神とよく出てきますが、神に関する記憶を取り去ると、おやおや何が残りますか。

ところが同じ神という言葉でも、豊かな世界宇宙全体が在るという人もいます。あるいは生きる根本エネルギーが有るという人もいます。知識を持った人の貧しさと体験を持った人の豊かさという対比です。

( 次回はもう少し真面目に頑張ります。)

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12-2。天の御中主の神とは言霊ウ。

物を見る初め、考える初め、ブログを書く初め、幼稚園に行く初め、食べ始め、天地の初め、初めのことを考えるのは結構難しい。しち面倒くさいことなど考えず、ホイホイスイスイと行動をすればなんでもない。

初めがあって、次があって、その次を通して、その後の全部があるのですから、初めというのはすごいものです。初めがあって今があるといっても、今は初めと全く関係ないように見えることもあります。

古事記では「 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。」が初めですが、

「日月神示」には、次のような記述が見られる。

「あめのみなかぬしのそのまえに、あめゆづるひ、あめのさぎり、くにゆづるつき、くにのさぎりのみこと(天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊)あるぞ。○チョンの○チョンの○チョンであるぞ」

この長い神名は「先代旧事本紀」からとられたものです。

ところが竹内文書によるとさらに、そのさらに前があります。

01元無極躰主王 大御神(モトフミクライノミノヌシ_オオミカミ)

02中未分主 大神尊(ナカナシワカレヌシ_オオカミ)

03天地分主尊 大神(アメツチワカレヌシノ_オオカミ)

04天地分大底主 大神(アメツチワカシオオソコヌシ_オオカミ)

05天一天柱主 大神躰光神 天皇(アメハジメアメハシラノシ_オホカミ_ミヒカリノカミ_スミラミコト)

06国万造主 大神身光 天皇(クニヨロズツクリノシ_オホカミ_ミヒカリノ_スミラミコト)

07-1天御光 太陽貴王日 大御神大光日 天神(アメノミヒカリ_オホヒナカキオヒ_オホミカミオホヒカリヒ_アマツカミ)

07-2天御光 太陰貴王女 大神(アメノミヒカリ_オホインナカキオ_メオホカミ)

天地開闢の神のそのまた前の前の、といった感じで幾らでも戻っていきます。物理学が量子物理学となって、分子原子となって細分され、さらに素粒子へそれを崩壊させてその元へ迫ってとうとう半物質暗黒物質なるものまで想定されていきました。

こころを按配する古代には、パソコンのファンの音がうるさいと気にしながら画面の点滅に気を取られることもなく考えることができたので、心の細分化も構造の追求もその保存保持運用もおもいきりできたのでしょう。心と精神構造は既に解決してしまっていました。

しかし、保存保持には物質の形をとらないと可能ではなく、伝承口伝えも言葉という物象が必要となっているので、どうしても精神=物質の形を創るには問題がでてきます。そこで古代大和の聖人たちが創造したのが、精神=物質を限りなく同じものとなるように真似て似せる言語体系を創ることでした。

言葉、その表現がそのまま物質を現すような革命的な言語の体系を目指しました。それが大和言葉で日本語の元となっているものです。古代ではフトマニといっていました。フトマニは占うというこことして古事記にも出てきますが、占いというのはこちらとあちら側の二つの何か(問いと答え)を、物を使って両者間に真似て似せたものを創ることです。

それは心と言葉が限りなく同じだというところから来ています。フトマニのフは二つ、こちらとあちら、心と言葉、占いの問いと答え等の主体と客体、フーと相手に息を吹きかけるときの、ほこりを吹き払うときのフで、わたしの心が相手対象側と同じになる心持ち。

トは十、心の全部のことで相手対象側に全体が動き働きかけること、この働きかけ働きかけられる関係の現れが言葉として、真似られ真似て出来たのがフト真似(マニ)です。心が言葉に真似られ、言葉が対象に真似られ、対象が言葉となって、言葉が心に載ってくる全部の循環を指して言います。

相手対象と言葉が何処までも近い真似られた言葉を使用しているということで、後々にその言葉には何らかの力、霊が有るとされました。実はそのように大和の聖人たちが言葉を創ったのです。それは五十の単音でした。つまり心の要素は五十しかないということです。物質の元素も限られているようなものです。

物質とは何かで、元へ元へと戻っていく現代物理の世界のように、古代には、精神と心がありその心は何処から来ているのか、と元へ元へと戻っていきました。

現代において究極の物質に到達しつつありますが、古代においては究極の心に到達してしまっていました。これは現代の心理学者や深層心理や脳科学者をもってしても、いまだに成し得ないものです。

心の構造の完璧な表現が古事記の神代の巻ですが、到底そうは見えないところが難点というかわざとそうしました。さらには書き残越された多くの書物があり、それぞれの著者によって、解釈を挿入してしまいますので、いろいろと差異がでてきます。古文献の相違はその多くが神代、つまり、意識(神で表徴した先天部分)を扱ったものに集中しています。

事象事跡を扱う物質世界とは違って各人の心で確認していくものだからです。最終的には古事記の冒頭を心の原理として天皇が確認しましたが、古事記外の文献に違いがあっても冒頭の形成過程とその後の拡散もかなり自由だったようです。

古事記の冒頭は心の原理ですから、朝廷の運営にも、朝廷内の各部署の運用にも使用され、それぞれの責任者による解釈が混入していきました。冒頭が心の原理であることはスメラミコトだけが知るものとして隠されていましたから、暗喩呪示としてもらいられた神の名前も自由に使用できたようです。こうして神代(心)を扱う多くの文献が残されました。

心が初めて成るその実体を神として、まず天の御中主の神を創りましたが、引用のように他の文献では、それ以前を、あるいは以前の以前をあげています。これは意識が元は何かと探すときには当然起きることです。父母の以前その前前と際限なく元へ戻ります。アフリカまで行くか三葉虫か単細胞か、お気に入りの気が済むまで続けられます。

このきりがない循環することを避けるため古事記は次のように発現しました。曰く「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時」です。この一言で同じことのくり返しとなる無駄な思考を回避しました。つまり、

あ・め・つ・ち=アの目が付いて地になる、で、

わたし(我、吾、あ)の意識の目(め)が相手対象に付(つ)いて地(ち)に現象として成る、を現し、

ア(吾)の意識が相手に向かう限り対象にしていけることを言い現しました。

ア(吾)の意識は時空、時代、環境、興味関心によってそれぞれ勝手に変化しますから、その目のつき方に従うということです。ですので前の前の前のということも、それぞれ関心なり、事実なりの取り入れ方により、吾の目が付いて地に成る、ということになります。

そこで古事記は天の御中主の神が最初ですから、それ以前の神は関心に応じて対応すればいいことになります。ただし吾の目に含まれていることが条件で、吾の目に入りきらないものは、古事記と関係ありません。

神と名をつけているから関係あるように見えますが、その神を客観事物としてしてしまった場合には、全てが古事記の真意から外れます。

例えば農耕用の石器があってもその石器自体は吾の意識とそれを解説する古事記とは関係しませんし、天照す大御神を太陽としたり、月読みの命を月の神としたり、石土毘古の神を岩や土の男神としてしまう場合には、物理事象の研究分野になります。当然、天の御中主の神を創造神とするなら、大工として働いてもらうことになります。

自然諸力の神格化というのは非常に怪しげな表現で、科学の進歩で多くの神は殺されたニンマリする科学者もあります。同様なことは科学者でなくても古事記を研究するひとも、古文献を研究する人にもいます。

こういったのは神という言葉は使用してませんが、科学的と称する規定された意見を神格化しているので、よくある抽象性や観念性を与えられた神と同様に客観概念を自分の外に投影した神と同じで、それを崇拝しているのです。つまり、アの目が形を変えただけで同じ構造です。

次回はなんとか天の御中主の神に挑戦してみたいものです。

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12-3。天の御中主の神とは言霊ウ。

感覚を受け取るだけなら動物と同じ生理的物理的自然の過程を経るだけです。人も生物ですから、生物的自然過程で了解するものです。従ってこの過程に関わるものは全て自然の客観的な視点からの科学思考の対象になりえます。

ア(吾)の目で見ることは、これらを生物と同様の自然過程をベースとしていますが、根本的に違い、意志と意図の介入の元に行われます。見たから見えたというだけなら、光と眼球の問題ですが、見ようとする意志があるとないでは、全く違いここから人間の問題が起きてきます。

ここで注意してもらいたいのは、意志と意図のある介入から人間の問題となるといっても、あれば人間的、無ければ人間じゃない、などと有る無しを言っているのではありません。

簡単な見るという行為も、反復共通性の原理を求める科学思考ではなく、フトマニ言霊学ではその本人の心の内だけの問題です。他人の心の中に同じ生物的物理的な過程を探っても、自分の真相は把握できません。外的な科学的法則が見いだされることでしょうが、当人のこころは置いてきぼりです。

また、ふとまに言霊学が人の心の内だけを対象にしているからといって、人はそれぞれ別別だから、法則はなくバラバラというのではありません。それどころか、心の原理という法則が古代大和において八千から一万年前前後には発見され、社会政治に応用されていました。

このバラバラ個人でありながら原理原則で統一されている言語体系をもって、社会政治を運用しているのが世界で唯一の大和の日本です。もちろん現代は復元不可能なほど壊れ去っていますが、古事記の冒頭とそれによって創られた神道や皇室や文化、行事が残っている限り再生の道はあります。

客観的な社会条件と大和を理解できる主体側の世界変革の意志の条件がそろい、その働きが軌道に乗り次第変革再生の道は開けます。外的な条件に強制されるだけでなく、主体側自分側に頼りになる力能を自覚することが必要で、それを訓練して獲得しなければなりません。

そこで、意志の目が付いて見ること、それが自我意識に育っていく事を見てみたい。

仏教では生々流転、成住壊空、という生命の原則があるといいます。世界そのものの生滅変化を現したようで、お釈迦様が言ったかどうかは確認していません。変化して流れ散り、また再生するというのが主眼となっていて、事の創造生成はないがしろにされている感があります。

これからここでは、天の御中主の神を生んで喜びを分かち合おうとするのに、仏教式の寂滅を主にするのはふさわしくないようです。

古事記は生む喜びを得るのが主体ですのでその方向から扱ってみます。天の御中主の神は初めの初めの神さんで、その始まりに挑戦しようというものです。

・ 天の御中主の神。言霊ウ。

始まってしまえば現象となりますが、出来た現象を始めるものがあります。現象を成り立たせる先天構造があります。

先天の構造があっても人の意志意図がなければことは起きませんが、意志があっても働きかけの実践が有効でなければ、何も起きません。

ここにある意志意図と現象をおこす先天の構造と働きかけの全体があって事が起きますが、その事の起きる前の全体を含んだ実体を天の御中主の神と名付けました。

「 天の」は先天の、まずある心の宇宙の、ということで、「御中主」はその心の宇宙の現す意識の中心にあって、自身が活動のおおもととなる、「神」はそういう実体ということで、世界宇宙とそれを意識する主体となる働きかけの主人公本人としての実体、となります。

このようなわたしという意識体が、自分のことを指して言う場合はどうなるかです。ことの初めですが始まってしまった初めではなく、始まろうとしている初めです。

その初めは始まろうと言う意識があるが、始まってしまった相手を意識する処まで言っていません。これから行こうとするところで、どのような実践行為になるか選択は決定されていません。このようなとき、自らを名付けるとなんと言うかというのが問題です。

天の御中主の神というかたちで始まりの姿を説明しても、その初めの姿を言語を使用する自覚体である人間はなんと言えば良いのかです。これは世界の人々が端緒の姿をとるときに単一の言葉があるという発見が元となっています。

現代のバラバラな世界の言語状況からは不可能な疑問に見えますが、それをなし遂げてしまったのが古代大和でした。宣伝文句みたいなことばかり言わないでやってみましょう。

とは言うものの非常に難しい追体験です。実際には不可能です。と、早くも白旗をあげておきます。本来なら日本語の言葉の要素五十に対して一つ一つ、言葉の自覚の形をあげるべきです。

わたしたちに残されているのは古事記の神の名を借りた、意識の自覚体の暗示呪示です。意識が初めの端緒にあるとき、その端緒の自覚体を神名では天の御中主の神といいますが、発音発語でなんと言うかは自分でやってみないと分かりません。

自分の心の宇宙の最初の姿をとって自分が中心となって、世界に対する主人公であるときの発語は何になるかです。

現在この日本に古事記が与えられていると同時に、古事記の冒頭の神五十神をあいうえおの言葉の要素に対応させたものがあります。公開はされていませんが皇室の賢処に保管されています。写しが民間に流出していますが、了解できる人がほんの少数ですので、誰も知らないのと同じ状況です。皇室にいる保管者も何の関心も示していないようです。

わたしたちのここでやっていることは、単に対応しているといって神名と言葉を写しているだけですから、何の意味も持ちません。私の今までの態度も写すだけのことでした。天の御中主の神は言霊ウだというだけで、あっちにあった記述をこっちに移動しただけです。

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12-4。天の御中主の神とは言霊ウ。

人の意識を天の御中主の神の中に見るとき、何をさして人というのでしょうか。

この切りとり方受けいれ方によって、喧々諤々になり締まりが付かないことがおきますが、喧々諤々も知識概念次元での話ですので、人を知識概念記憶を持つ者としたときのことになります。

それに対しては、人は欲望をもって始まるや、感情情緒畏敬を根源とするとか、実践行為の選択こそが人と言えるものとなる、とかがあるでしょう。要するに何を指して、何を以て人とするかの出だしが曖昧です。

古事記のいうところは、そのように何かをもって始めるのではなく

「 天地の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名(みな)は、天(あめ)の御中主(みなかぬし)の神。」 その言霊をウという。

ですから、

あ(吾、わたし)の目(芽、め)が付こうとするとき、高天原という意識領域に出来てくる何ものかから始めます。その時の目(意識)が欲望であるか、概念知識であるか、感情であるかは人それぞれですから、それらの全てを含みます。何かを以て始まるというのではなく、あめつち、アの目が付いて地に成る時、成り出てくると言う始まり方です。

問題は「天地・あめつち」の「あめ(天)・アの目(メ)」で、それがツーと相手対象に付くことですが、アメツチの初めの時ですから、ツーと相手に付いてしまう以前にあるアの目です。それを天の御中主の神、言霊ウと言っているわけです。では、何時まで初発(はじめ)にこだわっているのかというと、始めしかないから始めのことしか語ることができない、終わりまで始めを語り通す、という始めを語ることになります。

このことはよく言われるような、終わりが始めとなってまた始まる、という円環のことではなく、始めの連続しかないので終わりはないといってもいいものです。終わりというのは始まりを実体として切り取ったスナップショットになったものですから、どの始めでもスナップ写真にしてしまえばそこで終わりという姿が現れます。

ぐるっと廻って始めに戻るには、始めがあって、途中経過があって、起承転結なり生々流転なり、輪廻カルマ、ゆく河の流れは絶えずして、諸行無常、色即是空空即是色みたいになって、なにか寂しい隠滅に向かう様子が見られます。古事記のように終わり(三貴子)に、どこにも歓喜を現すものが見えません。

確かに生物の一生と取ればそのように見えます。一方、少年老い易く学なり難しや、一寸の光陰軽んずべからずや、散る花を見る等の心境になるには、終わりに近づかないとなれないと言うように切り取られたスナップ写真にはそれぞれの場所での、言い回しがあります。

そうすると、このブログでも百神を一巡すると言っていますが、本当はどの時点においても天の御中主の神しかいません。後の神々はそれぞれのスナップ写真です。どの場所のスナップ写真でも、天の御中主の神ですが、名前が違うのはその場その時の神であり、次になるための神であるからです。わたしは何処でもわたしですが、赤ん坊であったり青年であったり中年になり老人になれるようなものです。

ということは、ここにいつでも、スナップ写真に成れる、スナップショットに成る構造があるわけです。これが神道で言われている造化三神です。

造化三神は国土造成の特別な神でもなんでもなく、光と光の変化欠如による影を創る、始めと始めの変化によって差異になる終わりを創る、心の構造を指したものです。哲学風に言えば時間、空間論の原理、存在論の原理です。

前に、天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊(あめゆづるひ、あめのさぎり、くにゆづるつき、くにのさぎりのみこと)という長たらしい名前の神さんを出しましたが、この仮名で読む部分の「ゆずる」に注目してください。神名全体は陰陽作用反作用主体客体能動受動をまとめて表現したものです。ここでの「ゆずる」は「揺する揺すられる」の象徴暗示で、ことの成り出る始めの胎動をいったものです。

意識の始まり以前に意識に登ってくるものをよく表解しているでしょう。これがアの目の始めとなって、高天原という意識場に成ると、天の御中主の神という自分の意識の主人公である自分という意識も開けてくるのです。自分とか自我とかを最初からあるものとして扱うことが多いですが、実はその一歩手前があります。(ここはおのごろ島の段落で述べられます。)

また日月(ヒフミ、ひつく) 神示や竹内文書でいう御中主の神以前にも在ったものという実体として神がいますが、それをスナップ写真を固定するのではなく、あ(吾)の意識が御中主の神の先天性に向いたときに出てくるものです。古事記の冒頭のようにあめつち(吾の目が付いて地になる)の初発の時といっておけば足りることです。

ちなみに日月神示の表現では以下のようになり、

「ひふみの火水とは結ぞ、中心の神、表面に世に満つことぞ、ひらき睦び、中心に火集ひ、ひらく水。神の名二つ、カミと神世に出づ。」

中華式では、一、二を生じ、二、三を生ず、三は万物を生ずる、となっています。

ですので当初の吾(あ)の目が付いて地に成る時には、自分の吾(あ)の目という全体があります。こうだああだとあるものとして自分を表出して当然のよう見えますが、その大事な過程の前段が隠れているのです。その隠れた処を見ないままに自分だわたしだと言っているわけです。

閃きから言葉として出てくるまでの時間は0,1秒に満たない短時間ですから、通常は気づきません。そこを得ようと禅でも今の自分の本当の姿を求めて、我を忘れて今に成りきろうとしていきます。心の我を切り取って真の心の出てくる処、今今今、に到達しようとしています。

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12-5。天の御中主の神とは言霊ウ。

では、始めの連続はどのようにフトマニ言霊学=古事記の冒頭では保証されていくのでしょうか。

スナップ写真として取ってしまえばそこで断絶がおきますが、そのまま続けるのはどうなっているのでしょうか。

これは始めの神である天の御中主の神が続いて、(2) 高御産巣日(たかみむすび)の神、次に、(3) 神産巣日(かみむすび)の神へとなっていく構造はどうなっているかというものでもあります。また、あ・め・の・み・な・か・・・・とどうして続くのかということにもなります。

あるいは、一万年の人間の歴史や137億光年の宇宙の歴史として、何故意識していけるかということでもあります。

簡単に言えば、記憶に残るからです。

前段の始めが記憶として残り、終わりの形を創ります。このまま仕舞い込まれれば終わりですが、今の問題は、あ・め・の・み・・・・という連続はどうしてかということです。あ・め・・・・でも、神名でも、歴史でも、宇宙でも、このブログでも、読むことでも、連続していく場合にはその意識は同じ構造をもっています。前段の記憶が次段の元となってつながっていきます。

大雑把に追ってみましょう。

一つの単語でも文章でも発音したり読んだりするには時間はかかりませんが、いずれも文頭語頭は既に過去になっており、それでも全体として一つであることが了解できます。記憶があるからだというのは分かりますが、語と語が何故意味あるものとして繋がっているのか分かりません。記憶があって繋がっているだけでは、分かるようで分からない回答です。

文章を書く場合などにはよく書き直されたり、破棄されたり、主張や意見が自分でも反対になったり、途中で止まって出てこなかったり迷い込んだりします。早い話目茶苦茶で、こうなるものがああなったというような文章を、わたしも多く書きます。

どちらかというとこれらの場合には記憶が足りないというより、次の場面のことが全段階の記憶を押し退けて自分を主張して、書き始めの意見が途中で別の方向へさまよったり、新しい牽引車になったりしています。これらの方向転換短絡無視等が何故平気で起きてしまうのでしょうか。同じ主題を扱っていながら、途中からぶっ飛ぶこともあります。

これでも始めの連続しかなく、 終わりが記憶を通して始めとなってまた始まる、という円環を創っているのでしょうか。

前もって記憶が出てくる形を探っておくと、既にある手持ちの記憶が自分を主張している場合には、全て同じことでしょう。途中から新しい意見がでてきたように感じて、文章の方向が転換しても忘れていた手持ちの記憶が入れ代わりを主張しているだけなら、新しいことを考え創造したのではありません。在った記憶の再出現です。

ここにある記憶が在った、記憶が在るというものが続いてでてくる場合と、一方、語や単語が繋がり新しい言葉となるときには、そこに在る記憶が出てくるのではなく、記憶に成って行くものが出てきます。「記憶に在る」と「記憶に成る」との違いがあるように思えます。

普通は一応自分の考えを書いているつもりで、そのため何かの異論や反対に遭うと自己否定感を伴うことがあります。感情を害され、自己所有が侵害されたようにも感じます。ところが実際には、過去概念記憶の再構築に過ぎませんから、自分で新たに創造したものなのはないのです。このように真似をしただけのものでも、自分が考えたものだ自分のものだという思いとの乖離が普通に発生してしまう構造がどこかにあります。

まず、語頭あるいは文頭の一語が発音され聞かれ確認されて記憶されました。そして次です。次も発音されてしまえばもう繋がったものです。しかし、その間があります。ここを突いてみたい。繋がった現象が起こる以前に現象としてこうだと言う以前の姿です。

何故そんなことをするのかといえば、本当に自分で考えているのかみるためです。出来合いの記憶概念の再構築でないものを得たいからです。しかし注意しなければならないのは、自分の考えといっても、使用する言葉は一万年も前の大和言葉からきた日本語を使わざるを得ません。新しい現代的な単語があったとしても構文が一万年も前のものに依存していますから、はたした自分の考えとはどこまでのものかは分からないでしょう。

何処までが自分の考えた物か分からないけれど、各人はそれぞれ自分の考えだと主張できます。これも共通したことで別に新しいことを考えた物ではないが、自分の頭に到来して自分が喋ったというだけで自分のものとなっていく、何らかの構造がやはりどこかにあるでしょう。

何か文例を提出してみたいのですが、ということで、これをそのまま使ってみましょうか。

今、「何か文例を提出してみたい」と書き、そのまま使うと書きました。この文章には主語がありません。主語が無ければ文章じゃないという外国語からすればバッテンですが、この日本語には主語がありませんが、充分に通用しています。

日本語には主語が有りませんが別に必要とせずに通しています。自分にとっては書いているわたしは明白ですし、読者にはわたしが書いていることが明白です。主語を必要としないと見えない外国人にはそうはいきません。

何故主語が無くても通じるかといえば(あるいは何故通じなく疑問が出るかと言えば)、わたしと(吾・あ)とあなた方(我・わ)が同じ土俵に載っているからです。ここは言葉の連続の問題ですから前の言葉と後の言葉が同じ土俵にあるということです。

文例では「何か文例を提出して見たい」の文頭「何か」とその後が同じ土俵上にあるということです。結果としてはこれが表現される文になりますが、「何か」と表現された後の言葉は未明ですから同じ土俵に上がることは出来ません。単語で扱えばこうなりますが、単語の要素からみても同じです。「何か」は「な・に・か」で「な」と言ったときには「・に・か」はまだ未明です。

これが何でもなく普通に話せるには、何か別のことが必要になります。それを一応記憶であるとしていましたが、記憶があったところで、次の語なり単語なりが出てきて繋がる保証があるわけではありません。つまり記憶という土俵上で次のものを繋げる糊が必要となります。

これは人の意識内のことですから、糊は比喩で、糊のように接着力を持つものとは、人の意志意図が相手対象に向かうということになるでしょう。ここでまた思い出してください。あめつちのアの目が付いていくことになるでしょう。

アの目は原初の全体的なものですから、「な・に・か」、あるいは、「何か・文例を」の語頭の次が記憶の最初に発音された「名」「何か」という土俵に乗ったことになります。しかし、それは「に」「文例を」として乗ったのではありません。接続したかしないかはまだ確認されていないからです。「に」と発音されるものかどうかも決まっていないのです。単に次の全体が乗ったというだけです。

次の全体というのは宇宙世界全体のことです。結果から言えば「に」が発音されるのですが、そんなことはまだ分かっていないのですから、そこにあるものとは、その人の宇宙全体です。もしそうでなければ、とんでもない方向へ間違うこともできないわけです。「な」の次は「に」と限ったことではないのですから、次に出てくるものは宇宙世界全体の中のどれか一つということですから。

そこで頭脳内では記憶の土俵に載っている「な」と次にくるものの、時空次元が同一でしかも連絡の付くものが探されます。連絡が付いても前後の調和が必要ですので曖昧さの無い次が求められています。

そこで調和するものが見つかってもそこで終わるのかまだ続くのかをはっきりさせなくてはなりません。つまり三番目が必要かどうかが判断されます。その判断というのは、「な・に」と二つくっついたものが、明らかにいいたい意図意志に合致しているかが検討されるということです。

こうして全てにゴーサインが出れば頭脳は「な」の次に「に」を選択して取り入れ「なに」を形成して記憶の土壌に新たな形となった「なに」をおきます。そしてまた一からやり直していき「何か」という単語が創られます。

それを単語単位でいえば、「何か」「文例を」「提出して」「みたい」のそれぞれが、共通の世界宇宙の土俵の上で、関連、連続性をみられ、時処位の同一が求められ、調和が確認され、さらなる次の準備が必要か検討され、当初の意図に明らかに合致するものが、選択されていくというわけです。

ですので頭脳内では超超高速で一つの言葉の要素と宇宙全世界が繰り返し繰り返し混ぜ合わされていくことになります。

以上の事を一応、始めの連続、としておきましょう。

次はこの始めの連続の範囲内で、天の御中主の神が続いて、(2) 高御産巣日(たかみむすび)の神、次に、(3) 神産巣日(かみむすび)の神へとなっていく構造をみたいと思います。

さらに、言霊ウとなることについても、探りたいと思います。

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12-6。天の御中主の神とは言霊ウ。

前回は単語、文章次元での連続をみました。

今回は、(1)天の御中主の神が続いて、(2) 高御産巣日(たかみむすび)の神、次に、(3) 神産巣日(かみむすび)の神へとなっていく構造です。

古事記には独神(ひとりがみ)とありますから、神の連続を語るには抵抗があるかもしれません。もともと神は何らかの実体という意味合いを持ちますから、続いていると見るのはおかしいといえるかもしれません。八百万とも言われ一つ一つ個々別々じゃないのかといわれそうです。しかしわたしは小学生、中学生、高校生であり赤子、少年、青年、中年、老人であってもわたしです。

それぞれ個別であるが連続している姿を現すのに、古事記はそれに対して命(みこと)という別名が用意されています。オノゴロ島の段落ですぐ出てきて、伊耶那岐は神と記された後、次の文には命で登場します。

このミコトについては、ひつく神示では上手いこと説明があります。いわく、「口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。」というものです。これは現象を言ったものですから、ここでは本質内容が捕らえられれば、自然に現象も説明されるでしょうから口心行のことは触れません。

まずミコトと神の違いを見てみましょう。

ミコトは、自らの上位次元へ行為する人、行為行動の内容を表現した言葉で、行為主体の動きを切り取った意味合いが強く、 神は、その行為行動を導き照らす原理原則や法則としての存在となっているものの意が強い。

命である行為主体は意図目的とそれを完遂する力能と一応見渡された対象があって、心によって動きます。一方神である意図目的原則法則は行為する主体側の指針となりますが、自ら働きかけることは無く動くときは命をもって動きます。

神も命も精神的な次元を上下できます。仏教でいえば修業中の菩薩は如来仏陀という行動指針の元に修業を積んでいますが、日常のわたしたちも朝になれば学校へ会社へ行かねばならないという神の掟の元に早起きをしているわけです。自分の精神次元の上昇か勉学か生活費稼ぎかテーマはいろいろですが、同じあ(吾)の目を地につけて自らが成そうとする構造は同じでしょう。

目的に到達するまでの姿はそれぞれ変化していきますが、一貫して原則原理に従っています。では、天の御中主の神という一神が終点に到達した姿は何に成るかといえば、三貴子と呼ばれる、

(48) 天照らす大御神。

(49) 月読(つくよみ)の命。

(50) 建速須佐の男の命。

に成り食べて考えて行動するという人の性能を象徴したものとなります。ですので三貴子としては一体の神ですが、それぞれの役割がある別々の神となっています。

ここまでに到達する途中のも同様に、天の御中主の神の自己変化したそれぞれの時空場面での神となっています。

さて、天の御中主の神を言霊ウとすることに取り掛かります。今までの論理は言霊ウにも当てはまります。言霊ウは五十音図では一つの単音ですが、端緒のウとして全五十音を含んだウでもあります。

次回へ続きます。

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