i 子様のための古事記の言霊百神 11

i 子様のための古事記の言霊百神 11

聖書には禁断の果実の実とあり、古事記には黄泉の食事をしたとあります。両者とも智慧を得るということになっています。実は、記憶を得たということです。この記憶が全ての混乱の元、永遠の混乱の元となっていきます。

『主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。』(旧約聖書)

アダムもイブも善悪を知る木の実を食べる前には既に、神の言葉も蛇の言葉も聞いて知る知恵はありました。

また「きっと死ぬ」と言われて食べましたが死にませんでした。

ここでは肉体の死を指したものではなく、死んだ知恵が生きるという逆説を示したものです。つまり過去の記憶が生きた智慧に取って変わり、生きた智慧が死んで死んだ記憶に支配されるということです。

ひとたび実在を記憶してしまいますと、その実在の記憶を実在の内容とすることで、事実を記憶内容に置き換えてしまいます。自分の知っていること分かっていること等が自分の中にあってそれを固持していますから、そのことによって相手対象や向こう側の事実とかいうものを量り、それに取って替えようとするものです。

ですので喋ったことの内容や書かれたことの内容はかじった木の実でしかないけれど、それが自分の中にあるもので、またそれしか考えていませんから、その口をついて出てくるものが、相手対象であり事実であるとするのです。

事実というのは今此処の動きの上に載ったもので、過去現在未来の全体が同時に一体となって進行していきますから、実体化できるものではありません。

「何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。(ヒフミ神示)」、といわれる所以です。

智慧の木の実はそこにあるものとして立てられますから、それを当然のように実体化し実在と言い張り、記憶が保証していきます。観念概念知識記憶の次元では、無いものであっても平気で在ると言い張ることができます。

何故いつわることができるのでしょうか。あるいは喋ることはいつでもいつわりとなることができるのでしょうか。

「いつわり(偽り)」は五つを割ることで、もともと五層の全体であるもの(心)を、分解してしまいその一つを記憶に残して在るものとして立て、それでもって全体を現すものとして結果を装うからです。

実際の現れは、自覚があったり、考えに考えたり、流れのままに浮かんだものであったりいろいろですが、出てきた表現は多かれ少なかれその人の記憶に裏付けられ立てられていますから、その人にとってだけは充分に満たされているというだけのものとなります。

ですのでその人は自分には嘘偽りを着くことはしていないのです、というより、自分なりの真実を記憶保持しています。それは一部にしかすぎませんが、その記憶の自分なりの扱い方によって大きくも小さくもなっていきます。

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21-2。腹母音。こころの神代(かみよ)。我はアルファにしてオメガなり。

聖書は創世記で生命の木と善悪を知る木で始まり、最後の黙示録ではやはり命の木で終わっています。

また、「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」といわれていますが、「ワタシ」ガ誰なのか、何なのかはまだはっきりしていないようです。

他にも、「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」

「また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、乾く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる。』」ともいわれている。

このアルファとオメガの切り取り方の違いで多くの答えが出てきます。せっかくの回答例を気にせず脇に置いておいて、古事記と関連づけてみると、「わたしはアルパであり、オメガである」は、

「わたし(天の御中主の神)はアルパ(高御産巣日の神)であり、オメガ(神産巣日の神)である」となります。

説明なしでこんなことをいわれても思いつきのまやかしのだと受け取られてしまいそうです。ところが私の方にはさらに悪いことには、説明しなくても通じているはずだと言う想いが強くなってきています。ですので上記の造化三神はバリエーションの一つで、別の言い方もできますよと、小声で付け加えておきます。

これまでの説明では、「わたしはアルパであり、オメガである」を時間軸で取ったり、内容で取ったり、存在で取ったりしながら、目的から実践へと取ったり、宗教色や哲学色やらを加えて、現象と内容、存在と実体を自由に取り違えているのに、神に近づいていると称してきました。

(( しかし、何も知りもしない分野にたいして、数千年の心血を注いだ研究とその心持ちを無視したように、よくも平気でこんなことが言えるものかと、自分の頭の内容を常に疑っています。))

(( それにしても、当然予想される反対意見や真の解釈とか、伝統的な考え方とかが出てくるでしょう。善悪を知る木の実を食べているから。でもそれらに対して反論の準備も用意もしていません。何故なら木の実の味を知ってはいるけれど、それしか知らないからです。))

((例え複数の木の実を味わっているとしても、せいぜいそれだけのものです。もともとの命の木と共に在る、善悪を知る木の生える土壌、環境、遺伝性質などを無視して直接舌に感じる味を指示していくからです。))

「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」は、「オメガ、最後の者」、「終わりである」で終わっています。

実はこれではまるで駄目なのです。私は終わりで、その後が続きません。つまり、終わりです。、

前例に続いて聖書を前にして、つまり神を前にして駄目などと言って、大変申し訳ないと思います。それなりの確信が私の方にあれば少しは助かるのですが、かいもくまるきり雲を掴むようなもので分かっているところがありません。ただ単に神のおおみごころと慈悲にすがって甘えさせてもらっています。

引用です。

『以上、日本皇室と言霊原理との関係についてお話して参りましたが、この神器の同床共殿の廃止による変化は皇朝ばかりでなく、日本の国民にとっても大きな変化をもたらすこととなりました。それは日本の国民が、自らの国柄の真実と同時に、自らが日頃使っている日本語の起源についても、またその日本語が一度それを聞く時、物事の真実はその言葉の中に明らかに示されていて、余す所がないのだ、という重要な事実についても忘却してしまったことであります。

十七の空相音と三十二の実相音によって造られた、かけがえのない真実を示す日本語と、それを使用する日本人の言語意識との間のギャップが大きく広がったことであります。私達日本人が日常使用する言語の中から「光」が消えてしまい、真実の光が言語の奥に潜在化してしまったことであります。真実と言語とのギャップは今日まで続いています。日本の国民の全体がこのギャップの総清算を迫られている時代が近づいていると申すことが出来ましょうか。』

「わたしはアルパであり、オメガである。」のような、「わたし」を主語にした文章は全て「総決算を迫られている」という理解があり、これをひじょうに強く感じています。

その後のことはまだ何もありません。挑戦です。

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21-3。腹母音。こころの神代(かみよ)。主語(わたしという主体)の位置。

主語とは何かに関して『ウィキペディア(Wikipedia)』には、

「専門的には日本語の主語について統一した見解は今のところなく、日本語学・言語学においては日本語の主語をめぐる議論が今も続いている」ということらしい。とりあえず切り口を定義しておいて、それにあったものを主語としている。

日本武道の合気道では、攻撃する主体側が倒れてしまうので、文の主語は攻撃者だが実体はひっくり返った者を言うことになりそうだ。またソクラテスに質問すると質問したものが主語の立場にいたはずなのに、いつのまにか受け身の側にいたりする。食物連鎖とか連結階段や網状のものなど、動いているものの中にあるものも、主語の取り方によっては一定せずくるりと交替するようなこともある。

べつに文の構造要素の話を他の事ですり替えているわけではないのですが、ここではわたしという主体の位置についてみてみる事にします。

手っとり早く、わたしはいるか、といえばわたしなどいません。ですので、わたしに類した、主体だとか、人格だとか、自我だとか、自覚だとか、能動側だとかも、ありません。こちら側が無ければ当然あちら側もありません。そこから派生して出てくる、私の考えだとか見解主張だとかもありません。

全くメチャメチャなことを言い始めたようですが、元に戻ってみましょう。

各自の生命の始め、自分の生物としての成り立ちをみてみてもすぐ分かる通り、自分という物質生物生命体は自分で造ったものではありません。父母と養分です。その物質の仕組みの上に載って精神意識はできていますから、自分の考え観念思考記憶概念等も自分で造ったものではありません。ですので当然それを使用運用する言葉も自分で考えたものではありません。

もしかしたら自分は(あなたは)星の王子かお姫様として生まれていたかもしれず、今頃日本語など知らず英語でぺらぺら喋っていたのかも知れないが、何のご縁かブログの書き手と読み手となっています。

ここから言えることは、わたし(あなた)の始まりである宇宙世界には主語がないけれど、そこに主語を持つ精神が生まれたというです。

主語とは何かについての定義づけもしていませんが、勝手に話が進んでいくようです。まず定義を出して主語とはどのようなものか説明してもらわないと、理解かできないという方もいるかもしれません。ですがもともと主語の無い世界から生まれているのですから、それを定義づけることはできません。要するに後付けに、主語に限らず、なってしまいます。

そして後付けを主張する主体が主語となるとでも言っておきましょうか。ですので学校などで自分の主張ははっきりさせましょう等といわれていますが、元をただせば非常に怪しげな教育となるでしょう。無いものをまずあると主張させる嘘つき人間と所有欲望人間を生産していくだけのようにもみえます。

無いものから始まっているのですから、無いから始めるのが当然です。主語を使用し主張するのはずっと後のことです。

それでも人による主語の使用は、主語の使用によって世界が始まり創造されるという想いを与えています。主語の使用者は世界の中心にいると思っています。このでんぐり返しはどこからくるのでしょうか。

わたし・あなたは主語を使用しますが、私たちが寄って立つ基盤の世界、宇宙には主語がありません。この主語の無い宇宙に自我とか本人意識を打ち立てるのですから、造ったもの勝ち、囲い込んだもの勝ち、言ったもの勝ち、強い者勝ち、要するに我を通す者勝ちの世界が出てきます。

主語の無かった世界に自我が生まれるのですから、こんな不思議なことはありません。世界宇宙の創造主がいるという意見があるとしても、それだけでは自己意識の出来上がる過程は明らかではありません。自我意識は気がついたら自分のものだ、自分が造ったもの考えたものと言っているだけのもので、大本は自我意識にはありません。

わたしはここで自分で考え造ったものを書いている積もりになっています。いい気なものです。ここから相手の人格否定や感情を害することや、言い合いから戦争の準備までしていくわけです。少なくとも自分を主張し保護し相手との違いを示したいと思っていることでしょう。双方とも誰もが、物質生理的にも精神意識的にも造られた存在であるにも係わらず、自分の我の存在を主張してしまいます。

自分を見つめ本当の自分を探すといって、今ある自分を本当の自分かと突き詰めていきます。今有る自分の何かを引き出して、それが本当の自分であると、現象分析とそれにまつわる全状況と歴史を提出したとします。しかし、過去概念の記憶に何か一つの見落としが見つかり、そこから自分を見るとまるで違ってしまう。さあどうするかです。

では元々無いものの上にどのように旗を立てるかみてみましょう。

自我など元々無いといっても元々わたし(あなた)は有るわけで、有るといっても自分で選択したものではありません。それでも自我は有る自己意識は持っているという思いは強く、自我意識の組み合わせでこの世が出来ているようなものです。

ただしそこを悪い見方をすれば、この世の悪いこと、弱肉強食も殺人も戦争も自我意識が元となって起きたものでしょう。我だけが通る日には世界がひっちゃかめっちゃかになってしまいます。また我を良い方からみれば、自我による無制限な野放しが、自我の範囲内に収まっているとも言えます。つまり当事者というものが出来ていきますので、他者にまでは手を出さないということでもあります。

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21-4。腹母音。こころの神代(かみよ)。主語(わたしという主体)以前の先天。

先天のわたし。

物理的にも生物的にも意識的にも精神的にも、わたしはここにいるといっても、本当のところ、わたしはわたし以前のものから成り立っているのが分かりました。一方普通にこうしている時には、わたし自分で感じ自分で思い自分で考えそして自分の行為をしていると思っています。

自分が自分以前から成り立っていることは、物理的生物的な経験世界が形を変えて、今現在のようになったと捕らえられますが、そうすると単なる変形成長、変態変異発展になってしまいます。物質的生物的にはそのように見えるところもあるでしょう。変形変移の時系列の以前の状態を先天ととるならいざ知らず、精神意識、心の内なるものも、動き成長発展ではどうなるのでしょうか。

先天とは現象と成る以前のことで、後天に対応したものです。物質世界なら原油からプラスチィックが出来たり、タンパク質を食して筋肉となったりというような経過を辿ることも出来ますが、現れる心の先天はどのように導くのでしょうか。

環境とか影響、勉強の道筋から記憶をたどっていくこともできるでしょうが、それらの表現であり現れ現象と成っている言葉の先天はどこからきているでしょうか。教えられる言葉があって、それが新たな誰かの頭脳に住み着いたでは、そこに有ったものが住処を移したようなもので、そこに有るものの先天を説明したものとはなりません。

現象の成り立ちを以前の現象で説明するのでは何時までたっても、現象の変化を追うだけのことで、先天にはならいが、それでは、それら以外の先天はどこにどのようにあるのかといわれると、答えに窮するのも事実です。なんとも情け無い話です。心の問題を扱っているのですから、現象の先天というのは、物質的な潜在のことで、精神意識の先天とはならないようです。

そこで、心の潜在ではなく、心の先天を見いだしに行くことになります。ところが心の先天は現象以前の意識を探すことになりますが、現象になる以前の意識などとは意識でないもののことですから、なんともはや矛盾した言いかたになります。意識に現れていないのが先天になりますから、そのようなものは表現できません。

それにもかかわらず古事記では何故それが表現できてしまっているのでしょう。例えばそれが出来ている人には名前まで付いています。

『天津日嗣天皇(アマツ・ヒツギ・スメラミコト)。

‘天津アマツ’、天の道理、先天の道理と申し上げてもいいですね、人間の持っている精神の先天部分の道理を

‘日嗣ヒツギ’、受け継いだ

天皇(スメラミコト)の‘スメラ’はスメル(統べる)統一する、‘ミコト’言葉。』(引用)

これは心の内側に有る問題として確かめなければ口に出せないのですが、既にそれを全て明らかにしてしまった方がいて、上記の引用のように平然と書き残してくれているわけです。しかし、読むだけのこちら側のわれわれ連中はまず文章を読んで記憶と混ぜあわして、解釈なり理解なりをしようとしています。

先天は現象を生み出していきますから、説明されるべき先天を現象の言葉では語れないことになり、現象の先天ではなく、潜在を語った積もりにしかなれません。そこでどうするかといえば、個々の現象を離れざるを得ません。そこから現象に成る先天を探すことになります。

そこで出て来るのは経験感情、実際に得られた感情を語ることになるでしょう。しかし、感情はその人にははっきりしていて、自由奔放な了解をもたらしますが、他者を意識した交流流通がありません。

あるいは、言いたいことがあるけれど言葉にならない、こんなことあんなことを思ってはいるらしいが自分でも現せられない、実際に頭の中がグルグル廻っていて何かが出てきそうで出てこない、そんな状態があります。

それらの時にいる状態から何らかの言葉が出てきて、自分を語り、思っていること感じていることを喋ることになりますが、そこで見いだしたことは、語ったことの潜在、前段、過去、前世等ではなく、先天から押し出されたものです。過去とか潜在とかは先天が出てきた時の一つのありかた、過去の記憶との結びつき方の現象となっものとなります。

先天を時系列と結んだり、あるいは先天が時系列と結ばれたり、空間の居場所となったり、異なった次元にそれぞれ立ったりしていき、各人の意識考えなるものが表明されます。そうしてそれらは別々の欲望や選択の違いなどになり、別々の知識の解釈になっていきます。

この何だかわけの分からない段階を通って、知らぬ間に自分の思い考えと称するものがでてきます。頭に浮かび出てきた時点では既に自分の色が塗られているので、そこにあるものは自分のものと主張していきます。しかしその内実はわけの分からないもので、感情的には全体感を得ているものでしょう。

出てきた時には自分のものとなっていますが、先天の時には海のものとも山のものとも分からず状態ですから、出てきた時に自分でも、おやっとしたり、ハッとしたり、なるほどと思ったりすることもあります。

つまり出てきたものは自分のものと多かれ少なかれ威張って主張しますが、その大本はわけの分からないものです。これを自我とか人格とは自己責任とかに置き換えますと、もともとそんなものは無いということになります。知らんてる間に出てきてしまったものに後から自我とか自己責任とかの名前を付けて、そういうものがあるとしたのです。

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22-1。腹母音。こころの神代(かみよ)。先天と潜在。

先天と後天、潜在と顕在、本質と現象、等々、対になっている言葉をまとめると、隠れと現れになったり、天津と国津であったり、あるいは、天と地、心と精神だったり、神と人だったりになって、ではそれらはどうなると考え出すともう見当がつかなくなっていきます。

隠れんぼごっこや手品なら、どこかにある物体を探したり場所を移動したりするだけですが、心の現れとなる言葉は心という物体が現れることではありません。潜在的にある心という物体ではなく、心という精神が物体となって表象される関係です。

現代物理学を利用して物質の波動性と心の波動性を結びつけるようですが、古代大和にはそんな知識はありません。それでも音魂がありますから、音霊の波動をを感じていたかもしれません。しかしそうなると音霊の一方的な方向しか出てないので、言葉の創造にはなり難い気がします。

心という精神が物質でしか表現できない、心を物象化する構造を明かしたのが古事記の冒頭百神ですが、単に心が現れる構造原理としてではなく、心の現れ方がそのまま理想的な精神が現れてくるような、整理分析することがそのまま運用法となっているのがミソというか凄いところです。

数千年の間には、思想論とか認識論とか実在論とか心と精神の関係論とか、神とは何か論とか宗教論とか創話機能論とかがでてきましたが、古事記の神代記においてしか人間の心が原理としてと同時に活用運用論として明かされたことはありません。

世界の精神宗教哲学思想をかじってもいないのに、こんなことを言ってしまっては誇大妄想にとりつかれ、頭を乗っ取られた神がかりのようなものです。実際に誰かを改心させたことも無く導いたこともありませんが、どのような神の話しも、教義も、哲学も、精神思想も古事記の右に出るものは無いとはっきりしていて、そこにしか現実は無いとというのが実際の話です。

もちろん一生懸命勉強して考えても、このブログを見れば分かる通りうまくいってはいません。信仰のように思い込んだところで、活用運用することとは別ですが、宗教や他の思想のように思い込んで気に入ればそこにはまり込んでしまうしまうことが無いという特徴があります。何しろ自分の考えを放棄するところから始めるのですから、他の人には頼りなく相手にならず、自分の主張を主義としないのですから、相手にも理解されません。

宗教のもろもろの教祖たちは皆自分の意見を吐かず、言わされる立場書かされる立場でした。これらは半分妄想の中でや、行ずるという形の中で強制を受け取り得られたものです。この経験は強烈ですから、本当に神の声を聴くように行われたのでしょう。

しかしこれでは神や創造主による犬や動物の調教と同じです。内容は高貴な精神次元の話ですが、全て一方通行で得られたものです。神が与えるのですから文句を言うこともありませんし、それが望みでしたので本望でしょうけれど、何故ここに自覚的に追求する道が無いのでしょうか。

これを追求し、ついに人によってその道筋を付けたのが古代のスメラミコトたちでした。神と対話して神の言葉を記していると主張する教祖たちも尻尾を巻くくらいのものです。そこでは、今から見れば完全などんでん返しですが、人の立場から見れば当然の努力の成果で、今の立場にいるわれわれの方がひっくり返っているのです。

つまりこれはこういうことになります。当然な心の運用において現在のひっくり返った世界を作り出したということです。私たちは古代の正常な世界において、ひっくり返るように造られそれを数千年維持するようにされているということです。

モーゼもキリストも釈迦も孔子も古代のスメラミコトの命を受けた思想を広めていることになります。こんなことを言うと、これも神がかり的な盲信から喋っていると受け取られるものです。証明も出来ないくせにいい加減な事をいうなというとこでしょうが、既に証明はされていて、皆さんが知らないだけです。そしていつか知ったとしても、時代の波がまだ寄せ来ないなら、信じることも出来ないものです。

こういった類の話はあちこちに出回り、増えてきています。統体で覗けばそういった時代の波を受けているからです。どの話が本物でどれが嘘だというのではありません。自然淘汰されて本物が残るというのでもありません。これからの世界はそんな嘘とか本当とかを探ったり自然淘汰を待ったりするような、自覚の無い行き方ではなくなります。だからといってもちろん全ての人が自覚するというのでもありません。

どういうことかといえば、心を知りたい次元のことならば、今までなら科学思想の発展、こころのミクロマクロの世界の分析によってより多くの観念概念知識の収集集積によって、知りたいという思いを満足させてきました。それは現代も続いていて、新技術新発見新理論による新たな展開を喜ぶ心持ちを植えつけられています。

これは科学の進歩の向かう方向ですからさらに進化していくものですが、これまで進化進歩といわれるものの延長上に心(その他何でも)を置いてきた成果には、その時代の成果教義が反映していくだけで、何時まで経っても本質真実は見いだせないと気付くようなものです。

幸せを求めるのに金を積めば得られると教えられ金のためには手段を選ばなくて良い風潮が蔓延して来ましたが、ではその金とはどういうものかといえば、新聞広告と同じゼロの数の違う種々の印刷物でしかないと気付くようなものです。

今後はみんなの生きる世界を思う場合、これらのもの、知識とか金とか、をどうしましょうかというだけの時代になっています。科学思想が幾ら発達しても真実には到達できず、使い道の無い富を蓄えた世界の大富豪たちは、自分達にもっと税金を掛けるように自ら主張してくるようになりました。

それに答えるように物象世界の富や自然現象や大災害を精神世界に翻訳しようと世界中が、宗教指導者や道徳家や政治家達が駆け回っています。しかし誰もどこも世界のみんなを導くことに成功はしません。その一方個人では自己意思の発奮が大きく問題となる時代になりますが、世界のみんなを相手にすることには身が縮こまってしまいます。

誰もその精神原理を持っていないからです。自己主張による意見なら身の安全を賭ける位のところまでなら、多くの人が犠牲を省みずに試みています。また陰に陽に自由とか人権とか生命の尊重とかの抽象的な概念を掲げてその価値を現そうとしています。

それらの行為の内奥にはこの二千年間の宗教とそれらが主張してきた神々への不信があります。宗教組織と無力な神を宛にしませんから政治政府行政に目が向いていってしまいます。そこでは解決策として力とか反権力への意志とかになっていきます。みんなが生きる世界のためにまたもや抽象概念を正義とした闘争を持ち込んでいきます。

これらは起きるべくして起きているし、弾圧する側も反抗する側もみんなが生きる世界を持ち来らす原理を持っていないけれど、それを探し求めようとしている現れとなっているものです。世界中でこの欲求は急速に高まっています。

この高まりを感じ世界への目の向け方を変えようというのが、次々に出てきています。しかしどこにも指導原理は無く、価値概念の実現を待ち望みか、適当な指導要項や神の言葉とかで少数の指導者集団を形成しようとするしかないようです。みんなが生きる世界を抱き抱えるのに耐えられるだけの原理がないので、どの考え方もどこか臆病風を吹かせています。

ところが素晴らしく恐ろしいことには、このような人間の心の方向を造っておいた方がいたというのが、大和のスメラミコト達の残した古事記と心道(神道)です。

ですが、その説明には大和の日本語でしか現せないというのが問題であり、未だ現し方を知ったスメラミコトが出現していないという問題なのです。

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22-2。腹母音。こころの神代(かみよ)。各次元の先天。

先天は五感では得ることが出来ないといっておきながら、探ってみようといいます。手に触れることの出来ないものを探り寄せることはできるでしょうか。

やってみるしかありませんという前に、既に疑問があります。出来ないと判っていてやろうとは何か、です。さらにその疑問自体には、次の疑問が付いています。何故出来ないと判っているのか、です。

まるで卵と鶏になりそうですが、出来ないと分かるということも何時か何処かで何に関して分かるなり分からないなりの判断が得られていたのかの、それぞれの歴史過程があります。

現在は、それなりの考えたり書いたり出来る知識と記憶の集積の上で事が進行していますが、それらにはそれぞれの段階があることでしょう。先天など考えたことも無いとしても、既にその言葉を知っているし聞いたことはあるし、初めて聞くとしてもそれに何かの反応対応の準備もできています。

ですので急いで辞書を開いて初めて先天の項目を見ても、各人の手持ちの知識概念や記憶観念との兼ね合いが直ぐ出てくるように頭の作りはなっていますから、辞書を読めば読んだなりに取り込むことができます。

そこでは取り込む前と後の違いが出てきますが、その一連の経過過程を見ると同じことの繰り返しになることがわかります。初めて知ることにしろ別の誰かの意見を調べるにしろ、あちら側にある記録知識がこちら側に取り寄せられてきます。

では五感で探ることのできない、経験以前の先天を探ってみましょう。

経験以前の世界を探るのですから、そこに有るとか無いとか言えるだけのものは実体としては把握できません。質問にある先天と何かは、先天として有ると何かとか有るとした先天とは何かとか先天という実体は何か、という質問と同じことです。

つまり、有る(無い)事を前提とした疑問を作っていて、先天を求める疑問のでき方に不正があります。そこで疑問の形は変えられなければならず、先天に成る道を問うことになります。

ここでは何々とは何かというかたちで何々の潜在を前提としていません。成り出てくるように解いていこうと思います。

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【 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、 天の御中主(みなかぬし)の神。】

この冒頭の一句が全ての始まりとなります。ここで成りませるのは「先天」ですから、天の御中主(みなかぬし)の神を書き換えると次のようになります。

【 天地の初発(はじめ)の時】、今の私の心の中に起きる出来事が現れ出ようとする兆しの瞬間の時、

【高天(たかま)の原(はら)に】、それが事の始めとなるがまだ何もない心の世界に、

【成りませる神の名(みな)は】、その出来事が起こる以前の心の働き、形として現れない働きが分かるようになると、

【天の御中主の神】、それを「先天」と呼びます。

解説風に書くと返って分からなくなるので、原文通り覚えた方がいいです。

「先天」とは何かを解説しようとするものですが、その始めは何もない心の世界に何ものかが動き始めていってやがては「先天」になるというものです。

やがてとは言っても意識の中では瞬間的な出来事ですが、全体的に見ていけば「先天」という意識の発展していく過程にあり、ここでは原初的な発生時にあたります。

「先天」の成り現れる原始的な意識としての「先天」で、生成変化変態の過程のことですから、それらをこういうものだと切り取りスナップ写真にしてしまってはなりません。原始的な意識の始まりで有る「先天」はやがては、五感感覚上の「先天」となり、次いで学的知的な概念上の先天となり、宗教上の感情での先天というように形を変えていきます。

そのそれぞれの次元での先天のあり方様子が違ってきますが、各次元内での構造は同じ姿をしています。何も無い心に「先天」の意識が生まれてくるのと、宗教上の神の先天感情が生まれてくるのとは、その姿は大いに異なりますが、生まれてくる構造は同じ構造原理(=古事記の冒頭)を持っています。

原初の始まりには何も無い全体の「先天」から始まりますが、それの発展過程上での始まりは、それぞれの過程で得られたそれまでの全体の「先天」を持って始まります。現れ出てくる「先天」からすれば、それらの始まりはいつでも無い全体から始まるということです。

ここでは「無い全体」という言い方をしていますが、古事記では

原初の始まりに、「あめつち」・アの目が付いて地に成るのアという意識、

先天構造原理の始まりに、天の御中主(みなかぬし)の神、

先天自己の心の始まりに、ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、

先天自己領域の始まりに、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)

後天自己領域の始まりに、十四島、

後天現象要素の始まりに、大事忍男(おおことおしを)の神

後天現象の運用の始まりに、金山(かなやま)の神

後天現象適用の始まりに、和久産巣日(わくむすび)の神

客体側世界の始まりに、子の一木(ひとつき)、

客体側世界の主体化に、泣沢女(なきさわめ)の神

主体内規範の確立の始めに、建御雷(たけみかづち)の男の神

黄泉(後天現象)世界での始まりに、黄泉戸喫(へぐひ)

黄泉世界での主体の始めに、男柱一箇(をはしらひとつ)

自覚的な禊ぎの始めに、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)

自覚的な禊ぎの運用の始めに、 衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神

理想的な創造規範の始めに、三貴子、

というように、それぞれの各次元段階から新たな「先天」が現れ出てくることに成っています。

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22-3。腹母音。こころの神代(かみよ)。先天の原理構造。先天母音世界。

人は親であり子供であることができるように、それ自身が先天でありそれの先天を持つことができます。別に言えば、それは後天でありながら先天であることができるということになります。これは表現する上での言葉の綾ですから、時空の流れの中に置き直せば、普通に前後関係として出てきます。

かくれんぼごっこや手品のように有ったものの場所の移動だったり、活動次元の変移であったり、成長変態であったり、階段の上がり下がりのようなものであったりしますから、様子の現れからすれば様々な形があります。

また先天を厳密に捕らえ、経験以前の先験、五感意識では捕捉できない前意識のように捕らえることもあります。そのような場合には無意識から意識が、空から色が、無から有が出てくるように捕らえられることでしょう。

かくれんぼ等の場合ならちょっと手が加われば犯人たちの変装とか隠遁とかになり、出てきた時との相違もそれぞれ大きなものがあったりなかったり、下手だったり見事に裏を書かれたりといったことが起きるでしょう。

いずれにしてもそこには時間的な差から来る認識の違いが大なり少なり得られるでしょう。そこで古事記ではその時間差から来る前後の違いを、【みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。】といっています。前の状態や実体はそれ自体だけで存在していて、後天的顕現している現象からは身を隠している、顕現した現象の特徴や具体性はまだ現れていないということになります。

もちろんひとたび身を現せば相違比較の対象となりますから、過去から持ち来った特徴や変化を見ることになるでしょう。かくれんぼで同じ身体が出てくるとしても、その時間差からすれば前と後では違いがあります。出てきた瞬間にはその人であることが確かめられなくてはなりません。そこには確認以前と確認後の主客の関係、先天後天の関係が成り立っています。

先天構造の先天実在、母音世界、(先天への働きかけ(父韻世界)は後ほど)

先天の構造は次の通りです。

先天という一つの統体は五層の次元で構成されています。まず、静的に見ると。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の構造関係の中での先天。

二、産まれようとしてあったものが今ある、といういわば、 過去-今の構造関係の中での先天。

三、それら上記二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の構造関係の中での先天。

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の構造関係の中での先天。

の四態があります。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志を喚起する先天のが今の全てを貫いています。いわば、今の持続の中の先天。

これが現実に流れている今の中にあるスナップショットで、先天を言う場合にはこの五つに分かれます。

このそれぞれ次元の違う五つは、主体側から見られた今の中にある先天に成っている、先天に成っていく先天があるという関係です。

これはいわば、今において先天が成り立つ世界です。

それに対して、主体側に対応した受動側の客体側から見られた先天があります。

今そこにある世界で、今そこにあった先天が了解される世界です。

いわば今において過去が成り立つ世界です。

一’、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係の中にあった先天。

二’、産まれようとしてあったものが(今あった)今ある、といういわば、 過去-今となった関係の中にあった先天。

三’、それら二態が一挙に俯瞰された状態、今ある-あったいわば、今-全体となった関係の中にある先天。

四’、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、今ある今あるだろうといういわば、 今-未来となった関係の中にあった先天。

の四態があり、

五’、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志を喚起すま先天が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続の中にあった先天。

これで先天の過去-現在の実在は揃いますが、先天はそのままでは出てきません。

つまり先天の創造出現にはまだ至っていないということです。

上記十項目だけでは先天はまだ出現していないということです。

上記は「先天」ではなく、今の先天世界に実在している「先天」なのです。

後にこれらに父韻が加わりますと、先天が動きます。

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