i 子様のための古事記の言霊百神 10

i 子様のための古事記の言霊百神 10

フトマニ言霊学では母音とか半母音とかいうので、音声そのままのこととされて理解されていることもあるようですが、調音された音声は音韻音声学の分野のことで、フトマニ言霊学での母音半母音のことではありません。

フトマニ言霊学は心の原理を扱いますから、心の意識の実体を音声に見立ていて、調音によってアを発声したから言霊アで、その響き音声に言霊が宿るというようなことではなく、意識の実体、あるいは意識の自覚体に言霊を当てているのです。そして意識の能動側主体を母音といい、受動側客体を半母音といっています。

同じ要領で古事記も構成されていて、ずらずらと出てくる神名は、古事記のそういった神様たちがいるということではなく、人間の意識に神という名を当てているだけで、古事記の神様というのは実際にいるということはありません。

神の名を解析すると人の意識のそれぞれの領域と段階に相当することが分かるようになっていて、それぞれの意識である神の名とその実体がまた見事に言霊と対応しているのです。

アイウエオは五十音しかないので言霊も五十しかなく、それに対応する神も五十神しかいません。これは基本的な要素が五十の言霊の神としてあることで、意識のそれぞれの次元はこの五十の変化変態変身したものです。そこで意識は無限無数ですから神も八百万となります。神とは言霊のことをいいます。

神とは言霊と覚えたところで何でもありません。神とは言霊という意見に反対逆上するようなこともあるでしょう。それぞれ神体験があり、人を超えた超権威なり超意識の経験もあることでしょうが、此処ではそれらについては触れないようにします。

フトマニ言霊学の心の内容を見ていきます。

言霊学上の半母音のワ行についてです。

発音された現象によって言葉の分析をしているのではなく、発音にいたる創生過程を求めているので現象が終着で始発ではありません。また相手対象となっている客体物質世界の分析が問題なのではありません。あくまで主体的な心が「天の橋立」を渡って相手を得ていくことで半母音が顔を出してくる、主体内の自覚体つまりこころの問題です。

言霊学上で半母音が問題になるのは、母音と同様に半母音の普遍の実在性に関してです。こころの内にある受動側の意識です。例えば今、画面上で「意識」という文字を見たわけですが、受動側にあるのは物理光学的なドットの光点の集合で、それ自体を指すのなら単なる物理学上生理学上の問題です。

そうではなくてその光点、その他のもたらす意識上の問題です。

「この世界を分けて主観世界と客観世界に分けられる」という意見がありますが、これは現象世界を単なる外界物質世界と、頭脳内精神世界に分けたというだけです。フトマニ言霊学は外界物質世界は科学的な経験概念の世界として一切手出しをしませんが、頭脳内精神世界に入り込んでくる、頭脳内での主体と客体の関係として取り組みます。

つまり頭脳内には主体側世界と客体側世界があり、この頭脳内世界の外に物質の客体世界があり、いわば純粋客体物質世界になります。ここで扱っているのは頭脳内での客体側世界の実体を探るもので、物質を探ったりその投影されたものを探るのではありません。

半母音を分かりやすいように書き直すとこうなります。ただし発音の上からこうなるというだけのことです。繰り返しますが発音を分析しているのではありません。

母音。 拗音+母音=半母音。

ア → ぅ(u)+ア = ワ。(神産巣日の神・言霊ワ)

イ → ぅ(u)+イ = ヰ。(伊耶那美神・言霊ヰ)

ウ → ぅ(u)+ウ = ウ。(天の御中主の神・言霊ウ)

エ → ぅ(u)+エ = ヱ。(豊雲野の神・言霊ヱ)

オ → ぅ(u)+オ = ヲ。(宇摩志阿斯訶備比古遅の神・言霊ヲ)

頭脳内の半母音世界が何故ワヰウヱヲになるのかを追求しなくてはなりません。

まず、半母音の作りを見ると拗音で現せる部分が、ぅ(u)になっています。発音表記で行けばW+母音ですが、発音そのものを問題にしているわけではないので、意識に与えられた半母音の実体を探していますので、ぅ(u)の表記になります。

この拗音、ぅ(u)=う、もまた母音だということが重要なことです。半母音を構成するのに他の母音でなく他の子音頭でなく ぅ(u)=う を用いて五十音図の最終行が作られました。何故でしょう。こんな質問は提起されたことはなく、自分でも思っても見ない成り行きです。やってみましょう。

主体側の意識が自分の中で結びつくには自分の中に主体側に対応したものがあることが不可欠です。これを通常は客体側として頭脳の外にある外界客体世界にしてしまい、例えば私がみている画面というように外界物質世界、あるいはその頭脳内への投影として画面のイメージを主体側の相手対象としていきます。

しかしそのようなものがあると固定してしまうのは客体側物質的世界があるということですから、頭脳内に物質なり物象なりが入り込むのはもともと不可能です。可能というのは頭をたたき割って物質を押し込むことです。また、イメージ物象として入り込むというときも感情感覚世界で出来上がったものをねじり込むことで、そんなことは不可能です。

とはいっても結果的に可能なとなってると感じ、普通に行為創造しイメージを伝達し合っているのでおかしな処を感じないくらいです。そんなところに問題は見えず観念だという非難さえあることでしょう。

普通にも、行為するときには、頭脳内において直ちに意識の起動が立ち挙がらなければ行動の用意が出来ません。頭脳内の半母音世界の形成と行為との関係は即時的ですので、このブログのようにそこに時間経過を見ることなど思いもつかないということもあります。しかし、この主体側に対応して主体を現すものが客体、ワ行の半母音です。

自分の欲望の充足、考え思い着いた事、どうするかの選択等が自分のものとしてそのまま出てくる構図の大本が ぅ(u) の半母音にあります。

注意して上の二つの文章を読むと、はじめに主体側に対応する半母音とあり、次には半母音から主側が出てくると取れる書き方です。鶏と卵みたいなものとなっています。

さらに混乱させれば、ワヰウヱヲを半母音と呼んでいますが、ワヰウヱヲそのものが半母音であるのではありません。

最初にも言ったように発音上の問題ではなく心の在り方を取り上げています。アイウエオもワヰウヱヲも単独に実在はするけれど現象として扱うものではないということです。母音も半母音も現象を現象足らしめますがそれ自体が現象となるのではありません。子供現象が産まれても子供は両親のどちらでもないみたいなものです。ですが、子供には両親の半母音側(母親側)が実在しているし、だからといって、子供の半母音側を母親ということはできないようなものです。

子供現象に対しては、母音半母音側はそれぞれ純粋に独立していて主体-母音側、客体-半母音側で隠れたままです。古事記では、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき、となっています。

また主体-母音側、客体-半母音側の対応は古事記に、然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ、とあって主体側の働きかけにだけ応じるけれど、一本の柱内に両者がいる関係です。(伊勢の心柱です。)この柱を平面にしたのが五十音図になっていきます。

五十音図上で書き現した場合にはワの最終行になるためそれを半母音といっています。ですので音韻音声上でのワ行半母音とは違います。

半母音は心の言霊学上は神名で説明されていて、神産巣日(カミムスビ)の神と呼ばれ、かみ合い(カミ)結ばれる(ムス)霊(ヒ)で現されています。結ばれる側の主体客体の関係を言います。

自分の中にこの相手対象となるカミムスビが無ければ一切の創造現象が起きてきません。主体意識の相手である自分の中のカミムスビは、自分の直接の対象です。それは直接自分に得る対象である事が必要なため、全面的に自分の中にウ、ぅ(u)、であることになるのです。つまり半母音頭は ぅ(u)、になるのです。

既に言霊ウは天の御中主(みなかぬし)の神であることは話しました。動き出す始めの全体です。この始めの全体の意識上の取り方は宇宙世界に対するはじめや、朝出掛けの始めや、食事前の始めの全体等、それぞれの切り口があります。どこにもその切り口の始めがありますから、宇宙として思えばその天の御中主(みなかぬし)の神、食事前として思えばその天の御中主(みなかぬし)の神、半母音として思えば天の御中主(みなかぬし)の神、が当然どこにも顔を出します。

そうするとそれぞれの意識の始めに対応する、宇宙全世界に対応する始めの

客体側の神産巣日(かみむすび)の神、それぞれの意識の切り口に対応する神産巣日(かみむすび)の神がいることになります。どこかにデンと構えた神というのは、始めの原理として与えられた場面での登場人物(神)ということになります。以下同様で、全ての神に該当します。

これは当面は当惑する事を聞かされた感じになるでしょうが、意識の上昇螺旋循環の繰り返しからは当然のことでしょう。そうでないと神さん達は祭り上げられたどこか上空の一点にポツンと留まるか、土着、民俗、自然崇拝信仰、意識希望の反映とか、出来事の神格化みたいなものでしかなくなります。

自分自身の直接の目標、自分が発して発したものを得る相手が神産巣日(かみむすび)の神という客体側です。ところがそれ以前に感じられることがあります。何となく後を振り向いて何かを見ているのか、何かがあると感じているのか、向こうに動くものがあるようにボヤーと感じている、その目覚めの始めが言霊ウの状態で、心の相手の向こうに何かがあるということが、ぅ(u)の半母音となります。

ぅ(u)という何か分からないけれど、分からないものを感じることによって主体の自分の存在を感じさせるもの、そこで感じた同時に何かあると主客の相対性が発生する、その時の主体内での相手意識が、客体側となっていきます。

ですのでそこで何かがある、あれは何かだ、という規定できるものによって了解してしまう以前に、自分の主体が向かう相手という全体があることになります。その全体のわけの分からないながらあるという規定されたものが、神産巣日の神の客体側ぅ(u)です。何々であると規定されたもので命名されてしまったものではありません。

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19-2。腹母音。意識にある自覚体を名づけた。ぅ(u)+母音。

このように主体側に規定される、相手側のまず最初はなんだか分からない全体から始まるのが重要なことです。そんなことを言われても物を見たり聞いたりすれば瞬時に相手を認識し判別します。到底、始まりは何だか訳の分からないものだといわれてもピンとこないと思います。

しかし、これは戸惑ったりつっかかったり引っかかったりするようなときに、自分の動きが止まり前に進めないことを感じるときなどにはっきり出てきます。全体的な始まりの世界があり、それが具体化していきます。

主体側によってまだ規定されないまずある全体世界の意識が半母音となり、その普遍性は瞬時に相手を判別している時にも基本として貫徹している半母音実在となっているものです。

この意識の主体がまず向かう半母音世界は訳が分からないがある世界で、その世界が主人公であり、無限であるか有限であるかも、過去であるか未来であるかも分からない、あるいはそれらを全部ひっくるめた今の全体を包含した世界です。それはまさしく天の御中主の神の世界です。

ここでは天の御中主という天地宇宙次元から、主体側の意識に対応した天の御中主になったのです。つまり天の御中主の神は神産巣日の神の内容となりました。この前承される神が次の神の内容という関係は古事記全体を通してかわりません。幼少年青年期、過去は現在の自分の内容となっているようなものです。

古事記では主体側を現す高御産巣日の神以前には天の御中主しかいませんから、主体側言霊アの高御産巣日が結びつくのは、言霊ウの天の御中主しかいません。ぅ(u)+ア→ワです。この両者が結ばれ産まれる子供が言霊ワの神産巣日の神となります。

古事記の神産巣日の神というのがいるわけではありません。御中主と高御産巣日の結合によって第三者として誕生します。そこでひとたび誕生してしまえば実体として相手対象となり、神産巣日の世界が存続していくのです。全体があって主体とそき関わりがあれば、主体のそれぞれの段階それぞれの次元に応じた神産巣日が無数無限に誕生していきます。原理上は一神の扱いですが、実体化されれば無限の扱い、その場その時に誕生する扱いになります。

以上は古事記の記述の配列を根拠としていますが、13章は腹母音の話なので、以上の原理を腹次元に適応しようというものです。

そこまでいけるかどうか分からないがもうすこし進んでみようと思います。

そこでは心が、主体側が、心の相手を見るなり欲するなり感じるなりするのですから、ぅ(u)-母音の場合は、心と心の相手は同じこととなります。発音で書けば、天の御中主のウと結ばれますから、ぅ(u)ア→ワ、ぅ(u)イ→ヰ、ぅ(u)ウ→ウ、ぅ(u)エ→ヱ、ぅ(u)オ→ヲでそれぞれの母音から半母音が産まれます。拗音は常にぅ(u)です。

主体側を欲望とすれば、欲望を得る場合は欲望の内容は自分が起こした欲望を自分が自分で得ることになります。これが発展していきますと産業経済物欲実現の社会創造になっていきます。

それは今ここの現在が今ここにないと気が済まない精神世界を作っていきます。

スイッチを入れる行為が納得できるのは自分側にスイッチを入れるとスイッチが入るという普遍性が獲得されていてそれを実現できるからです。犬猫がスイッチを踏むとか赤ちゃんがスイッチを叩くとかしておきる現象とは根本的に違います。

もし人にこの半母音宇宙が無いと自らのことを自らによって了解納得が出来ません。頭脳意識内に ぅ(u)という構造が無いと、主体側の意思行為の行き着く先がありません。赤ちゃんのおしっこうんこしたい放題でニコニコした世界になります。

肉体行動五感で現れる半母音世界は頭脳内意識の半母音の動きと較べられないくらいです。五感世界で現れる半母音は非常にゆっくりで意識でも整理分析ができるほどですが、頭脳内では原子の動くスピードでことが決していきます。見ることも考えることも出来ません。しかし頭脳内半母音の構造が設定されなければ意識活動も解明されません。

この頭脳内でのスピードは脳内科学が後代に明らかにするでしょうが、やはり一本の柱に主客が備わっている構造は変わりません。腹母音のウや ぅ(u)はどこにあるかといえば記憶の中にあるはずです。これは見えず分析できないことですが、実態的にあった場所を確定しないと観念論になるでしょう。

しかし大和の聖人はそれを解明してしまったのです。現代の知性がいくら寄ってたかっても適いません。追体験しようにもできません。われわれはただ古事記に示されたものを受け取る以外には出来ないでしょう。(ギブアップ)

(余計な推測。神武天皇以前までのスメラミコトには、継承されたそれらを感得する何らかの秘術秘策があるようにおもえます。思想や方法として個人が了解するようなものをはるかに超えた精神事業です。地位を受け取ればそのままできるというようなものではありません。全く余計な推測でした。)

大和の言葉では半母音はワ行で、その代表としてワという言葉で現しています。大和以外の国語には半母音の意味内容を持ったワはありません。ワという発音に何らかの意味を付加していくだけのものです。大和のワは自分の心の内容が向かう相手がそのままワ、ぅ(u)+ア=ワ(神産巣日の神)、になります。

どの半母音にも自分が行って帰るぅ(u)→ワが含まれているため、大和日本人の意識には何に対しても何処においても何をしても、和、輪、環、我、の意識が擦り込まれています。母音を使用するときには自動的に和が発動していきますから、これに沿った日本精神が形成されていくのです。

こうして人のどの性能も、自身の中にぅ(u)、ウ、を持っている為何でもないように自然に自分の次元活動ができるのです。

この全活用がワになれる五段によるイエウオア(ぅ(u)+イ=ヰ。ぅ(u)+エ=ヱ。ぅ(u)+ウ=ウ。ぅ(u)+オ=ヲ。ぅ(u)+ア=ワ。)の言語体系が大和の日本語です。

外国語の半母音は発音であれとこれとを判別するだけのようで、半母音には意味内容がありません。そのため主体の表明には常に主語が必要とされ、主語を日本語のように省略してしまうと通じない文章になります。大和の日本語では相手対象のことを話せば自動的に自分が入り込みますから、わざわざ主語を言う必要もないのです。

このことは、主客の一体となった形で全人類の秘密の象徴として五尺の忌柱となって伊勢神宮に立てられています。ですので神道は日本の宗教ということではなく、世界人類の精神原理として隠された形で創設されたものです。もうじき地球世界の岩戸開きが始まりますが、開かれた後には当然神道は全ての人のものになっていますから他の宗教と同じように消滅していきます。

いつまでも象徴のままで放っておいても何にもならないものです。心の発祥運用原理ですからここから発していけば何でもどんと来いというところですが、実用までにはまだ遠い。皆さんの協力が必要です。

大和人も日本人も世界の人たちも同じ人間で同じ性能、同じ次元世界を持っているので、これといって日本だけが偉いとか優秀とかいうものではありません。人種としての人間性能に代わりはありません。日本以外の人は残念なことに大和の言語体系を持っていないというだけのことで、いくらでも勉強して学ぶことが出来ます。(今後世界は再び大和の言葉が旧約聖書に書かれた通りになるでしょう。ここまで文化文明が進歩しているだから、言うのが早すぎるということもないでしょう。 )

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20-1。腹母音。半母音と母音。腹母音と父韻 ➀。鐘が鳴る。

世界の言語には大和の日本語以外に半母音に意味内容をもった言語はありません。つまり外国語では主体側の結びつく相手は主体側が勝手に作り規定した通りになるようにされています。主体側が権威をもって、相手をこうだとすれば相手はそうなるだけです。主語が欠かせないからです。

主体と客体、こっちとあっち、出発点と終着点があるだけで、もっぱら出発の仕方だけが問題になります。設定されてしまった目的目標に向かうことが重要で、選択手段は従属し、目的のためには手段を選ばずというようになってしまいます。もちろん出発点と終着点が固定していればそうなるのは当然でしょう。

相手側半母音を実体的にみればそこにある形を作ることが主たる主体の活動ですが、実際のあり方は活動しつつ組み立てられ成りゆくものです。そこでは時処位の変化があります。それを考慮しなければ半母音側の実際の姿はありません。

今までは相手側と「わ、和、環」を作るといってきましたが、それは何分にも実体的な相手の設定を立てていたことでした。実際には時処位に沿った半母音側があります。半母音側が立てられたということですから、条件状態材料等が半母音側の時処位に沿うように集められていなければなりません。(ついでに古事記で言われる神名はこの段階の神を辺疎(へさかる)の神という。客体側半母音に咲かせて落ち着かせる。)

何でもかんでもが相手側と和を結ぶということにはならないのです。過去から今を満たすため、今そのものを満たすため、今からこれからを満たすための材料選択が必要です。材料があるだけ、和を満たすという希望の掛け声だけでは何も成りません。 (辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神、差を繋ぐ。)

さらに、あちら側終着点側に到達するには主客の差を繋ぐばかりでなく両者間の間隙を少なくしていき、一体化していくことになります。(辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。間隙を減らし一体化する。)

これら客体側の三者の動き(主・客側からの動きがあるので本当は六者の動き)がうまく働くことで相手側目標に一致した姿に近づきます。この三者(主客で六者)の働きによって出るものが出揃い出て、働くものが働き働いて成るものが成りたってきます。

目標に近づき意図が実現に向かいことが成り満足と喜びが得られることになるでしょう。ところがここに問題が起きています。日常的には人生目的を持って生きなさいと言い換えられ、誰も反対できない強い言葉になっていますが、意図目標を持つことで安心あるいは不安を得ることがあります。用意周到に按配を重ねてきたにも係わらず、手持ちの札駒では最期の喜びまでは保証できていません。もちろんこれから来ることを保証して安心させるのは大変なことです。

相手対象とのワを作ろうとしているのにその意志と全材料だけでは不十分なのです。全部出揃ってるのに不十分とは狐に摘まれたようなものです。何故でしょうか。

全部用意しなければ不十分であることは分かります。全部揃ってしまうとそれも不十分というのですから、どうしょうもない感じになります。

考えられるだけのことをして、意志を立て目標を立てるのですから、自分に安心はできます。自分の立場主体側から出発することに関しては、用意はできて安心はできるのですが、相手側到達側に立った時に不安があり、その不安が自分に返ってくると、出発に安心はできてもワを結ぶのに自他に立命はできないということが起きます。

自分に安心だが自他に立命でないのです。これは相手対象に関して詳細を考慮に入れていても起きることで、要するにまだ無いことを考えているだけのことだからです。相手対象側の詳細とはまだ現象となっていない時にはいくら案を練り考えても、一般概念で現される多少でしかないのです。

それらの基盤には一般意思があり、そこに起きるのは、一般的な掛け声や、原則だけのものや、大志希望の吐露、やる気だとか意志を鼓舞したものものだけでは何もならないという姿と同時に、現象と成る以前の詳細も未だ確認されることはなく後回しになるのですから、一般的であれ個別的であれ適用して誤れる事なきを得るというわけには行かなくなります。

半母音世界は主体側から規定され作られるとはいえ、そう滅多なことではハイハイとは言わない強情さを持っているようです。古事記で言う禊祓えはここから真の禊の段階となります。ここまででは、自己の主体の明瞭な確立、安心を得ることでしたが、そのことからは自他の立命は得られませんでした。半母音世界が禊できていないからです。

では続いていきましょう。母音世界に近づきましょう。

試してください。

ウオアエイと母音の発声音を出すたびに腹の緊張位置は変化していきます。ウの腹の緊張する位置ではウの口の形ができ、オの腹の緊張する位置ではオの口の形ができます。その他同様で、発声は口の形だけから作られるわけではありません。

ウの腹の緊張を保持したままウ以外のオアエイ、あるいはオの腹の緊張を保持したままでオ以外のウアエイを出してみてください。その他も同様で、そんなことにすると、おかしなヘンテコな母音ができます。変な母音の音は、その母音の音に従って腹の緊張が引き戻され正常化することでしょう。

ついでに子音も加えてやってみてください。ア段ならアのタカマハラナヤサの発声時の腹の緊張はみな同じです。他の母音行の子音を混ぜると変化がよく出ます。

でもそれは単なる発音発声での生理的な関係です。それにはまだまだ胸郭とか手足の緊張とか身体の皮膚の収縮緊張とかも加わり、発声の生理学みたいになるでしょう。

音声に霊が宿るとかいう言霊はそういったあやふやな事を基盤にしているようです。霊が宿る言霊学とか言うものは、大和日本語の発声が固定確定していることを最初から受けいれているから安心していられるのですが、基礎的なことがらがないがしろにされています。そこで霊が宿る言霊学では霊とか言霊がどうしても出てきてしまいます。

フトマニコトタマ学では、心の中での出来事ですから音声そのものを問題としているわけではありません。心の外にあるどこからか侵入してくる霊を問題にすることもありません。

音声だけが問題なら、腹を除いて胸声帯横隔膜だけで発声することはできますが、声は出ていても、つまり声と舌の位置からは日本語の発音の真似はできても、心のこもった大和の日本語になっていないということになります。

それでも時間が経てば外国人の場合なら自国式の腹母音が矯正され、日本人もビックリするような上手に話す外国人も沢山でてきています。外国人が日本語の学習中の時と、まるで日本人みたいに話すといわれるようになったときを比べると、本当に態度も日本人のようになっています。

彼らの自国で築いた習慣、常識、意識が変わったわけではありません。それでも子供の魂いつまでもの自国での態度、習慣の違いによる戸惑いを超えた大和の意識が付加されているように思えます。

何故そんなことが起きるのかといえば大和の腹母音の習得ということになるでしょう。誰かにこの問題を明らかにしてもらいたいものです。大和の音声の習得ではなく、大和の腹の習得にかんして、大和の武道が何か役立つことになるかもしれません。

腹母音の腹の緊張の位置だけ変えてもアイウエオの変化はあるかといえばそんなことはできません。呼気が伴っていないからです。しかし実際には腹母音の位置を確認するのも結構むずかしいものです。呼吸による胸の上下、声帯の緊張に邪魔されます。

しかしここに、音が出ていないのに母音に対応している腹があるのです。アの音がでた時のアの腹、ウの音がでた時のウの腹等が音に先立って、先天的に実在していることを発見しました。それが前に紹介した「葡匐(はらば)ひて哭(な)きたまふ」、つまり腹這い、腹-映え、腹がこころに映えることでした。

そこで今回はその腹がこころに映える様子についてです。

古事記はここに泣沢女(なきさわめ)の神という父韻の働きを持ったものがあることを示しています。同様に泣沢女(なきさわめ)という(男)神は心の領域で小豆島(あずきじま)またの名を大野手比売(おおのでひめ)という説明があります。これを参考にしますと、こうなります。

まず、用語からいくと、

小豆-あずき、は明らかに続く気・言霊ということです。間違わないでください、豆の小豆がそうだというのではありませんよ。古事記で用いられている当て漢字の読解です。

大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。ひめと言ってもお姫様ではなく秘め隠されていることです。

音として発音されていないのに泣沢女(鳴き騒ぐ)ものとして在り続け、一度鳴き始めたら鳴きっ放しのものが腹の中に有るということで、その在り方をよく見ると明らかに続く気であり、後にアイウエオ母音の各横の段に成っていくものとしてあるが今は先天の中に隠されているということです。

以下は引用です。

「 お寺の鐘がゴーンと鳴ります。

人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。

正確に言えばそうではありません。

実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。

では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。

種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。

音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。

ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。

鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。

八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。」

引用ここまで。

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20-2。腹母音。半母音と母音。腹母音の永続。神の起源。

重要な引用でした。

鐘が鳴っているのではありません。鼓膜が聴いているのでもありません。それらは物理生理の生体科学の作用反作用、電気信号の交換、電荷の移動でしかありません。その内容は科学による解明に任せられています。というより科学思想の独占場です。

この鐘の例では無言の音波、無音の振動と聴覚鼓膜の関係のように思えますが、心の音はそれらの事実の上にさらに心が乗った上で展開されていきます。心が物質あるいは物質的なものあるいは物質的な象徴を介在媒介されなくては現せないという、単なる物理上の制約にあるというだけのことです。

ですので心の問題は科学のいう事は全部受けいれます。しかし科学のいう事はどこまで行っても単なる物理作用交換の解説を出る事も無いのです。心の物理面を明かす事はできても心にまでは到達できません。

ではここでいわれているこころと、母音を発する心とは何でしょう。横隔膜、声帯はどれだけ解剖しても心は現れてきませんが、またそれらなくしては心を表現できません。

アという音、アという字はインクのしみドットの輝き空気の濃淡です。それに心が乗るといいますがそれは外国の、大和日本語以外の言葉には言えますが大和日本語には該当しません。大和の日本語はアそのものが心となる構造にあります。

勿論今の日本語は外国語と同様なシステムで作られた言葉が大量に混じっていますから、新しい言葉のことではなく、古代から伝わってきた大和の日本語のことを指し、日本語の元になっている大和言葉の事です。

心が乗るというと当然降りるもあるわけで、乗り物があり、それとは別の実体が乗ったり降りたり離れたりしていくのが外国の言葉です。ところが、大和の日本語は乗り物が実体であるような、どのような言語学上の法則をもっしても説明も類似性も見いだせないで、お手上げ状態であるような、言葉というのが本当のところです。

その理由は簡単です。

他の言葉はものを示す為に作られています。お札同様こっちの紙は百円、こっちの紙は千円と、そういうふうにゼロの数が書き込まれているからそういう約束になっているだけというものです。大和の日本語は約束事が言葉の上に乗っているのではなく、こころそのものが言葉という表現に成っているのです。もともとまるで違うものでした。

その根本にある実在の根拠が腹にあります。

その実在の人間的な根拠を腹の緊張に見つけそれが腹-映えて心になるというところまできました。腹-映えの形跡は人として多かれ少なかれ見いだせるもので、外国語においいても同様にあります。しかしここで古代大和の聖人達は物凄い事を始めたのです。

約束事を沢山作ってこれはこうだあれはああだ、こう言うのだということを一切切り捨てました。数字の1の後に幾ら0が付いている紙幣であろうとヤギに与えればウメェーーです。言葉の指示と内容が別々になる、またそういった言葉の説明や、付け加えた規則そういった構成に成っている言葉の体系を一切放棄したのです。

その代わりアという時はアの心が現れるからアと言い、エと言う時はエの心持ちがあるからエという前代未聞の言葉の体系をつくりました。それが大和の言葉であり、その続きである日本語であり、言葉の不思議を感じ心が言葉に成っている事を確認できる大和言葉です。

ものを示すのでなく、心を示すのです。今更こんな事をいわれてもピントきませんが、大和言葉を受け継いだ日本人はもともと次元空間が違う言語空間に住んで、社会、関係、生産を営んでいる人たちなのです。これは国民という事ではなく、大和の日本語を使用している人という意味です。

母音の違いによる腹の緊張の違いがあり、発音と関連しているのが分かりました。しかしそれぞれ生理的物理的な部位が違いますから、それぞれが独自に動き、問題として提起でき、突っ込みや閃きが出てきます。

母音に対応する腹があるというのも、それらの閃きの中の一つで、いくらでも別の突っ込みができるでしょう。

さて母音と心です。母音各段での腹の緊張は子音に関わりなく同じであることが分かりました。母音は鳴りやまず永続することは、腹の緊張にも当てはまり、子音が一回ごとに腹を替えてくのに対して、母音のときの腹は永続します。

息苦しくなって母音の発声が止まっても、その母音の腹は変わらず存続していきます。再び同じ母音を発音していくのは簡単ですが、他の母音は載ってきません。ここには腹の母音の半母音側があると見ることができるでしょう。発音をしなくても母音の腹を作っておけば、発音する主体側の音声は容易にこの腹の半母音と結ばれることができます。

この腹の緊張の半母音世界はどこにあるかというと、腹に出来ますが、それは永続しているとは言えません。腹の緊張はしょっちゅう変わり変化しています。いつまでも続くとか永続しているとか言えるにはそれなりの条件がいります。

この腹の緊張が作る半母音世界があるといい、永続しているといいますが、文字通りに永続ということはもちろんありません。人がいなくなり自分がなくなるのに永続などと言えるわけがありません。それでも半母音(母音)世界は常にあるという、この不思議を止揚しないとなりません。

これは神という言葉にも言えることですが、まだおおっぴらに言える段階でないので、そんなこともあるという程度のものにしておきます。まず、半母音世界が何処にどのように永続した形であるかを尋ねてみます。

相手側半母音世界は実在主体側(母音世界)の働きと働きかけがあると同時に産まれ、それによって出来た現象の中に隠されます。そこでひとたび現象がしまえば、その主体が消滅しても現象と現象の中に隠れた形で永続するということになります。

アを発声してアという発音現象を創造します。アを発して適当なところで止めてみると止めたところに、アの腹の緊張がアの発音現象がなくても存続していきます。そこから、発音無くしてアの腹の緊張だけを作ることができてきます。ちょっと難しいですが、というのもどうしてもアの口の格好をしないと最初はうまくいかないのですが、それでも、発音しないでアの腹の形だけができるようになるころには、アの腹の形を借りていると感じるようになります。

つまり発音されるア以前に永続してきたアの腹を見付けた感じです。

そこで声帯からの発声が加わりアが発音されると、そのアも昔からあるアの音が蘇った感じをもちます。永続していたアを今掘り起こした感じです。

そういった感じをもとにアを意識して、主体能動側のアと区別するためその意識にアという半母音(母音)をあて、客体受動側のアの意識の自覚体に「ワ・ぅ(u)+ア」という半母音があると名づけると、そこにたちまち、アの半母音世界である「ワ」が永続して出現してきます。

例えば自分で書いたもの作ったもの発音したものに関しても、ひとたび現象したものとして扱われると永続性が感じられるようなものです。今此処という時間を生きているにもかかわらず、自分が現象させたものは、永遠の過去から取り寄せたようにさえ感じ、また、永遠に放出したもののように思えます。

ここにおもしろいことに、借り物の半母音世界から出てきたにもかかわらず、自分で隠したものを自分で探し出したような錯覚が生じています。静かに収まっていた半母音世界を起こしたのが主体である自分だからです。

腹の緊張次元で言葉の発音以前にこれらのことも起きています。

注意してください、能動主体側の働き以前には半母音世界はありません。主体側の働きと共に受動側の世界も起きてきます。そこに半母音側の世界が出現してきます。そして半母音世界と名付けられるや否やそこに永続性が成り立ちます。

そこに名付けが完了するや否や永遠が成立するのです。

人間の精神が実在する以前には世界も宇宙も存在していないのです。ただしその存在を人間とは関係のない絶対客観世界があるとするならばそのようなものとしてあります。人間と関係ない相手対象ですから、人があるとか無いとか言うことも無い何でもないものです。ということも無い相手対象とならないものです。

何故そのような自己撞着する矛盾した事を平気で言えるかといえば、昔々の大昔に誰かが人の外にあるウチュウがあると自覚してそれを宇宙とか世界とか名付けてしまったからです。そしてそれ以来宇宙は永遠に存在するものとなったのです。

ということで、もう気付いていることと思われますが、神というのも同じことです。 宇宙を造った神などというものはいなかったし、古事記の神もヒフミの神も世界の思惟、宗教の神も元々はいませんでした。ある時ある人がカミの属性を自分に自覚してそれに神という名を与えたときに、そのような意識の自覚体に神と名付けられたために、腹母音(半母音)と同様なことが起こり永遠化したのです。

その永続の根拠が自分の腹にあり、自分の腹の形に永遠を確証していますから、それに続く人たちも同様に自証でき、ここに自他との自証他証の一致を見いだし物神化していったものです。

動物や幼児にも権威威信恐怖畏敬の念があり、感情感覚的に誰でも経験して自証できているようですが、それは生理的な感情次元での保身や自己防御の運動に至るもので自他を巻き込んで和・輪を造る他証を創造していません。

つまりそこにカミが隠れて(収められて)いるということを主体的な活動で明かしたのではないということです。他の人と輪・和を結んで他証を完成していることにならず、共感同交された言葉を共有していません。

ですので、大和の神道を自然崇拝だとかアニミズムとか人や物や諸力の神格化にしてしまうのは後世に始まった解釈内のことですので、古事記の神々の内容とはなりません。

とうとう神の起源を喋ってしまいました。

そして物質世界と同様にひとたび事が成立してしまえば、今度は物質側の属性が顔を出し、大きな顔でのさばり出します。神の、半母音の、宇宙の世界の成立後の属性はその物質化の時代毎に変化しますから、それぞれに応じた規定をうけることになり、また他それについての論証反証等の考察が行われていきます。

しかし、本当のことを言えば、神について語るのは、小さな声でですが、後の祭りなのです。

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20-3。腹母音。腹母音の永続。永遠の神。

前回に神の起源を喋ってしまい、そうすると宇宙創造の神さんでなくなるので、今回はやはり永遠の神をテーマにせざるを得ません。永遠の生命とも、永遠に君を愛すとも、永遠の若さをとも、人はそれぞれ勝手なことを言うようです。永遠の類語もまた多く、人が永遠を喋ると自分なりの条件限定を棚上げして、永遠の方だけに目が向くようです。

概念で考えると永遠永劫久遠等々何か勇ましくかっこよく見えますが、大和の古語にすると、ひさし、ひさかたで、枕詞となって天、空、月、雲、雨、光、夜、都などにかかるとなっています。漢の言葉との性格の相違でしょうか、大和では優しい言葉になっています。枕詞はもうその語源が分からないものが多く、ひさかたのというのも久しい方、久堅のように当て漢字を用いて、天などの無限性とか、天を久しく堅いものとして現しているということです。

普通は意識を自分のものとして扱っています。自分で感じて考えて自我を形成していると思っています。ところがそんなことでは全然ないのです。自我は自分の事で自分で造ったものだというのは全くの幻想です。個性的な自我というのも存在しません。これは生物的な自分の誕生を見れば生物生理的には自分で造ったものなどないし、物心付いて言葉を操ることができるころには全ての言葉は既成のものから与えられたものでしかないので、それにのっかかった精神活動も自我が造ったものではありません。自我というのは他者というベースの上に乗っかりひっ掛かった状態から後でできたものです。

ひさかたの天(あめ)の何々というのはこの状態を指したもののように思えます。久しい方、久しく堅いではなく、霊(ひ)のサとなっている御方による私のアの目の意識、ということのように思えます。これは私という意識の由来は言葉の霊がまだ活動を開始していない静かな霊(ひ)の授かりによるという意味のようです。

音信不通のような遠いあちら側にいるいる御方が今までの静けさを破って私に寄り添ってきた、そんな状況のようです。そこで出来た状況をあちら側にとるかこちら側に取るかで、それぞれ言葉が変化していったのでしょう。

そこから派生して久しい御方が実体化されあちら側に立てられ、その御方の授けた依頼なり命令なりが各人に受けいれられることになり、そこから自我の活動が始まります。こちら側に主体自我が立てられ、あちら側に天、神が立てられました。

ひさしい御方はあちら側にいて何でも授けてくれますが、それは私である主体が主体側の意識に沿ってその現象を生むことによっておきます。信仰はそれを神の恩寵賜物としますから立場が入れ替わります。神様が何かしたのではなく、自分が感じたり成したりしているのに天上の向こう側に預けてしまっているのです。

天の向こうにいるのは自分なのに、まさか自分がいるとは思えないので拝んでしまって安心しているのです。天とか神とかがあっち側にあって久遠となるには、天も神もを抽象化され昇華されて単純になり具体性、個性を削ぎ落とされていかないとなりません。具体的であれば比較によって概念が入り込み過去の履歴のあら探しが行われてしまいます。

そこであちら側の最高者は名前だけになり、それも象徴性を帯びた抽象的な名だけになっていきます。あるいは神の名をみだりに唱えるなということで、神を讃える所作の名称が神変わりになっていきます。

そこで今度はあちら側の抽象度の高いもの、創造者、神などが、個別的な人間に降りてこなくてならないことになります。またそこでは全知全能の全体性を付与されていますから、人間側に実在する根拠を尋ねることになり同交共感が起こらねばなりません。

ところが残念ながら私たち一般人が書くこと喋ることはここまでしかいきません。ここから先はあちら側の世界を把握することが出発点となります。私のいるここが宇宙世界の中心であることは割合理解されやすいものです。過去現在未来の御中主とは自分のことで、それをあちら側に投影すると天、神、創造主になることまでは掴めます。そしてあちら側に御中主が立ちます。

ここにいる私たちが御中主なのにあちら側にいる御中主に取って代わられて、拝み命を受けるような関係になってしまう。それなりにこちら側に原因があるからですが、こちら側の世界に左右されずに一致してしまう受け取り方があります。

家庭の次元でも、社会の次元でも、宗教神の次元でも、自然の中においても起きます。その世界では当初、御中主がどちらにいるか分かりません。

という分からないところで今回は止めておきます。

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20-4。腹母音。腹母音の永続。永遠の神。ひふみの霊人。

神の永遠は私たちの心の何に、何処に対応しているのでしょうか。私たちの心が神の永遠性を感知して初めてそれが了解できます。しかし人の心は何処から見ても有限であるように見えます。一体どこに無限を了解することのできる心があるのでしょうか。私たちに死なない生命がなければ、神の無限も了解できないはずです。それなのに神の無限を了解して自らをも死なない生命の持ち主という人がいます。

その人たちは誰でもが永遠の生命を持つといいます。 とはいっても理解は様々で死んで産まれて死んでまた産まれるというのや、来世で永遠に生きるとか、人類としては永遠とか、永遠の命の希望のことだとか、キリストにある永遠の命に繋がるとか、信じればとか、霊は永遠性を持つからとかで、直接にか間接にかよく分からないし、条件がついたり付かなかったりで迷うところなどもあります。

生きているうちには現象として永遠の命を体験することはできませんが、そのような主張は多くあります。普通に考えても自然の状態には永遠はないのですから、それさえもあると主張するには余程の体験があってのことでしょう。

一方生きているのは有限ですが死の方から見れば死んでしまえば、簡単に永遠が続くように見えます。死んでしまっているから永遠という感じも得られないでしょうが、生きている間に永遠の死が訪れとる感じる人は多いでしょう。

このようにどっちに付いていいか分からないのが普通ですが、死とか生命とかを実体としてここにあるものとしていくと、捕らえ所が無くなるようです。そこで、死と生とを相手にするのではなく、死と成るもの、生と成るものを相手にしたらどういうことになるでしょうか。

私は生きていますが、私が生きていることを実体として捕らえるのではなく、私を生かしているものを捕らえ、そのものが成り行く姿が私であるという風に捕らえるのです。私を学校に通う小学生にしたもの、こんな考えを書き散らしている私にしたもの、という風に成り行く姿を得ようとするのです。

ここまではヒフミ(日文)神示でいう 「存在は、必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。創造されたものならば、永遠性はあ り得ない。二日んの巻。第一帖」に相当するでしょう。

問題はその後の「宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつあ る。」「神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあ る」とあるところを、神の行為=自分の行為とするところにあるでしょう。

フヒミ神示は神の立場から人間へ与えられたもので、「神の歓喜をそのまま受け入れる霊人」という書き方になっています。霊人をいろいろの段階に分けていますが、同じ人(わたしならわたし、あなたならあなた)の精神次元の相違のことで、霊界のあっち側いる様々な霊のことを示したものではありません。

ついでにまとめると、次のようになります。

日の霊人が神の歓喜を内的にうけ入れる霊人、日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取る。

月の霊人が神の歓喜を外的にうけ入れる霊人、月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。

両霊人は「互に交通し得ないのであ る。この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。」

人間には誰も分からないような書き方で、何故書き知らすのか私には疑問ですが、少数の人間においても人間の立場から、上記と全く同じことを了解行為している人がいます。その人の場合には次のように表現されています。

「「私」という概念、「私」という自我意識を離れますと‘ア・エ・イ’という次元に意識で左右することができない性能にも恵まれている、支えられているということが意識できます。

そうしますと「私」という‘ウ’と‘オ’という観念から自分自身の全働き、全生命を観ていた「私」というものの束縛からパァーと消えます。すると‘ア・エ・イ’という性能もハッキリ自分に与えられている。直接意識は出来ないけれど完全に与えられているということに気が付きます。

これに気が付いた時には自分と言うものの性能が即人類、人という生物の類と同じになる。ちょっとややこしいのでお分かりになりますかな。自分と決め込んでいるのは、こうやって触る肉体、理屈を言って「こうこうだから、憎らしい」とか言っている自分。

自我意識とは‘ウ’と‘オ’であるということを論点においた考え方。この考え方をフッと脇に置きますと、無くなってしまうと死んでしまいますので、無くなることはありませんが脇に置きますと、‘ア・エ・イ’も事実であることが分かってくる。(引用ここまで)」

こちらの方もそう簡単ではないと発言者自身が言っているくらいです。

要するにここは意識の大回転が必要で知識を増やそうと概念を操ろうとそういった次元では解決できない場面です。

今回はここまで。

ここからが神道の出発点で、今までは単なる整理整頓です。

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20-5。腹母音。腹母音の永続。永遠。

朝起きて顔を洗い歯を磨き、鏡を見て笑いありがとうと言い、腕立て伏せして屈伸運動して、と日常を始めますが、別にそうでなければならないことではないのです。ワァーと叫んで走り出しても、歯磨き前に経を読んでもいいわけです。

ここで何をしてもよいし何を感じても考えてもいいことで、要するにそこには個々の様態に縛られない、「日の霊人が神の歓喜を内的にうけ入れる霊人」である「‘ア・エ・イ’という次元」にいる自分がいることに気づきます。

そこでは「私はこうする」という束縛のない、全方向に向かうことが自由な生命を与えられていることに気付きづきます。

朝起きて裸で駆け出したら病院行きだという前に、各自よく反省してみると、何度かそれらしい兆候やしてみたい思いなどがあったことが、誰にでも思い出せると思います。さらに思い出していくと、何らかしらのとてつもない自由な気分がえられたような微かな記憶が浮かんできます。

別の言葉で言えば目茶苦茶をやろうとする以前に、ふっと得られる広大無辺な自由意志があります。小説映画などでは犯罪者が犯罪を行う直前に得られる宇宙から開放された自由感を悪魔(神)にそそのかされたという形にしたり、差し込む光と共に神の声が聞こえたりとしています。

へんてこな例をあげましたが各自省みてください。

ここで意識の大回転が無いと次に進めないようです。

前回の霊人とか、‘ア・エ・イ’とか、意識を記憶概念、経験知識で捕らえて喋るからこうにしかならないのです。しかし、概念知識を放棄しては自分を現せず交流もままに成りませんから、知識の束縛に従わざるを得ないのです。そこで神と交流したとか見神があったとか空を悟ったとか坊主たちが私たちに語る語り方になるというわけです。

誰でもが同じ次元に立つのは出来ず、人は成長して成るようになっていますからそれぞれの道を進まざるを得ません。その道案内が古事記の神代の巻ですが、やはりその人なりにしか読めませんし、その人の理解して了解していることがその人の今となっているだけです。

そこで私の場合は今までのらくらと書いてきたような状態ということです。

結果として現された文章がこうして残っていくわけですが、何にしろ、文章にしろ、そのものとしては存在していないというか、結果現象の物理客体現象存在しか残っていません。

「何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。(ヒフミ神示)」

産まれた結果現象を産まれてしまった存在から見ていくと、産まれる以前はその存在はありませんから、現在の現象は存在していないことになります。一方、現象してしまった存在の方からでなく成りつつ生まれつつある方面から見ますと、常に弥栄えつつ生まれに生まれゆくと見られます。

つまり存在と内容を同一視するか、しないかで全然別の方向への答えが出てしまいます。人はひとたび考えたり書いたりして結果現象を創造してしまうと、その存在と内容を同一視します。つまり、考え書いたことは、その内容と同一だとします。ところが残念なことはそれはその人の世界にとってだけのことです。その人の今までの成果が上がったというだけのことです。

決して考え書かれたことの内容が示されたことではないのは、いくらでも追加や賛否が付け加えられることから、不十分な内容であることが判ります。この不十分さは過去現在未来に渡る歴史的なもので、何処に実体があるのか判明しないけれどいつでも何処でも誰でもが口を出してくるものです。

時処位的に誰でも介入参加できるがその実体が無いという不思議なものです。もちろん実体がなければ介入も出来ませんからそこにはあるものがあることになりますが、よく見るとそこにあるものは与えられた名前、流通する「体は名を現す」という言葉です。人はこの言葉を得てそれを実相としたり、実体としたり、内容としたりしているわけです。

例えば人とは神とは何かという場合、過去現在未来に渡ってそれぞれの人がそれぞれに実体とはこうがだと言うことでしょうし、そう言ってきました。ところが誰もが未完成で不十分であることを白状しているだけです。厳としてあるのは言葉だけです。誰もが成功しないのに言葉だけはあり続けます。

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