アメツチ 『古事記神代の巻 の読み方』  6。

アメツチ 『古事記神代の巻 の読み方』 6。

13-7。腹母音。「片手の音」。半母音。

今回は受動側から見たものです。半母音。

白隠が修行者たちを前にしてこう言った。

「隻手声 (せきしゅのこえ)あり、その声を聞け」 (大意:両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか。その片手だけ の音声を聞け。)

実際にやってみれば出来ませんが、音にこだわるならば指を鳴らせば音は簡単にでます。両手でなく片手を床なり腿なり適当な対象と合わせれば音がでます。また両手を叩いて音を出した後に記憶に残して片手で音を出しているつもりにもなれます。

数十年前におぎゃーといった自分の泣き声は非常に微弱になっているとはいえ未だに宇宙をさまよっています。人の足を踏んでしまい痛いと言われて顔を見つめあったときの運命の初恋の声はいまでも聞こえます。

頓智や物理学や記憶などで答えればそれぞれなるほどとなります。それらに知識の釉薬や仏教の専門用語を塗れば結構な文章になるでしょう。

感性とか心で聴けとか、片手では音はでないから無音だとか、色眼鏡の言葉での判断を捨て分別を捨てこだわりを捨てて聞け、なんていうところが坊さんたちの解答らしい。勿論分別を捨てた判断解答をするということ自体はどうなる、とつつかれますからそこは以心伝心無音を聞くという風に逃れていきます。まあ、頭の中ではその積りになれますからそれで安心もできますが。

白隠さんがどんな積りでどういったかは知りませんが、半母音からの解答です。

この問題は両手というのはわたしとあなた、主体と客体、見る側とみられる側、分別する方とされる方、等々対になっているものならなんでもいいのです。対、陰陽、表裏になっているけれどこだわりがあろうと囚われ偏りがあろうとあるまいと、現象としてそれらを見てしまわないということです。

主客の陰陽となっているものは別にこだわりや分別があって両面があるのではありません。

わたしとあなたが抱き合っています。あなたは座を外していなくなりました。わたしは一人であなたを抱いています。握手する練習をしているでもテレビを見ているでもどんな日常行為でも同じです。こっちとあっちで一つの円環 = 和・輪ができていることなら、その状態の如何にかかわらず成立する問題です。

その片方だけの声を聞けというのですから、こだわり分別を捨てる心で聞く感性で聞くなんて言い出したら駄目ピシャリと叩かれます。思慮分別を交へず見聞覚知を離れて聞く、というのが一つの自分と対象との行って帰る環状の上に乗っているものを既に分離しているものだからです。

行為してしまえば簡単に音は出ます。片手で師匠の頬を打てばいいのです。

問いではわざと主客の和・輪を成立させていないのです。輪が成立していないのに聞いてみろというのです。聞くに関しても本当は聞く側と聞かれる側があるのですが、聞く側の主体行為のことはこのシリーズの始めから述べてきていますので、まだ残っている聞かれる側 = 半母音を取り上げます。

両手があっても手が勝手に打ち合うわけではありません。意志の介在があります。この意志の介在があれば膝を打つ頬を叩いて音を出すでも構わないのですが、その時は質問が手を使わないで頬を叩けみたいになるので、白隠さんはそうしなかっただけです。同じ構造の問題です。

今までは主体側の母音も客体側の半母音も、その両者を介在する父韻もごちゃごちゃにした形で書いていました。これからはそうもいきません。(本当は分かっちゃいないのでうまくかけないだけですが。)

もう一度手を打って音を出すことの形を見てみましょう。一般的な形では、手が勝手に合わさるのではなく、叩くという意思の介入があります。そこで音が出る出ないは結果現象に関するものです。この過程だけでも細かく見ていけば様々な途中経過が在るのでそれを全部書くことは出来ないくらいです。

手を打って音を出すという意志行為を主にすれば、片手で音を出すのは簡単で、指を鳴らすでも、膝でも頬でも床でも机でも師匠でも叩けばいいだけです。音が出る手を主体側とすれば、意志行為が手の動きに乗るあるいは意志に従って手を打つことになります。問題は音を聞けということですから、手の受動側の相手は音になります。音の受容器官は耳です。客体側の耳は音を聞いても主体的に音を出す方ではないので、永遠にただ待つだけです。

通常は意志と両手と音(耳)の三者が揃って円環が整うわけです。片手で打つ音を聞けと白隠さんがいいました。ここで円環を主体的に誘う両手を片手に変更しています。それでも音を聞けというのですから、前に言ったようにすれば、音は幾らでも聞けるわけです。

音という現象、出来上がった現象、分別を捨てろという現象、感性で、心で聞くという現象に囚われれば全部アウトです。というのも、受動側で現象を創造するのは意思の働きかけとそれを受け持つ主体側がなければ何も成立しません。ですので現象の形態を幾らあれこれ述べ立てようともともと成り立つものではありません。

現象は主客、自他、わたしとあなただけでは成り立たず、その両者間を行き交うものがいります。この三者を神道では造化三神と言っています。

わたしとあなたがいるから目と目があって握手をしたのです。あなたがいなくて手が無ければ差し出した手を掴んでくれる人がいません。しかしあなたさえいれば、握手だけが意思の疎通を促すものではありません。

何故手を差し出す行為ができるのでしょうか。何故リモコンのスイッチを入れればオンになることを知っているのでしょうか。盛り合わせの寿司を御馳走しましょうといわれ、何故とっさに大好物のイカがあるか気になるのでしょうか。両手を叩けば何故音がすると知っているのでしょうか。

これらは公案風に言えば、手を出さず握手をしろ、電池を抜いたままオンにしろ、イカ抜きのイカの寿司を喰え、片手の音を聞け、という風になりますが、人の五感が働く時、記憶が出てくる時、按配選択をしようとするときその相手対象が無いのに主体側は自らの行為を遂行せよということです。

実際の行為で答えるなら上記の頓智みたいな答えになるし、心持ちで答えたければ、その時の相手対象が無い自分のこころもちが答です。白隠の問題は聴覚ですから、そのときの心持ちで聞いた音が答になります。しかし実際には自他、主客との往来はありませんから、心持ちで聞いたと言うことも無く、あるのは先天的に自分が得ることのできる相手対象のことになります。

この得ることのできる相手対象(客観、客体、あなた等相手対象をさす言葉)はその人自身、つまり自分自身にあるものだけしか自分の相手対象としません。自分の中に無いものは自分の相手にならないのです。握手を知らない人は相手がいても握手ができないのです。でも握手を教えれば誰とでも可能になります。つまり主客の円環を作ることは最初から無限の可能性の在る世界が作られています。

何にしろ、そのときの先天的な自分全体の受け取ることのできる統体が片手の音を聞くことの解答です。先天の半母音といいます。これは自分の中に先天的に客観的に成り立っているものです。主体的な母音側が見つけることができるのはそれに応じた自分の中にある客体側の半母音ということです。

ですのでその人だけに限っても答えはその人の主体側の能動意志に応じて、幾らでもあります。禅の方からは分別意識の囚われを主題にしたいようなので、分別妄想を打ち破る方向へ持っていこうとします。思い込み妄想を捨てろといいます。無い音だから無のことだといいます。

分別は別けて分かる、分けるから判ることを言います。でも分かったときは現象の現れが分かるということで、両手で叩けば音がするという現象を指しています。それを白隠さんは現象とその前提となるものをごった混ぜにするという公案の手口を利用しました。

ですので本来ならば禅の公案は解くものではなくて、設問の不備を指摘して正しい問い方に変えればいいものです。現象を生ずる両手の片方をもぎ取ったわけですから、現象方面のこと、音を聞くとか音が出るとかのことは放っておけばいいのです。それを坊主たちは真に受けて現象のことを考えるからとんちんかんになります。

では禅仏教において現象を生ずる以前の世界について教えているかといえば、悟れば分かるというだけです。そんなことに一生かけたり腕を切り落としたりするのですから、呪縛されるというのは余程のことなのでしょう。普通の日常では、現象を生じたければ簡単に解決しています。片手で師匠を叩けばいいだけのことで、坊主だけがそんなことは出来ないという分別の妄想を持っているわけです。

現象を生むには意思の介在がいりますが、意志のことを話さなくても存在する世界があります。それが母音世界と半母音世界です。母音世界は主体側の心と結ばれればすぐに現れてきますが、半母音の相手対象世界は主体側の働きかけが無ければあらわれません。それでも片手の音を聞けという無理な注文をしています。要するに注文の結果を持ち出すと埒が明かないので、注文できる根拠を示した方が早いことになります。

間違った設定をして質問しながら真面目な質問としてしまうわけですが、このトリックを明かせば、主体側の能動と客体側の受動とを取り違えることから起きます。手を動かし打つというのは、その結果どうなるのかという客体側の現象結果については、受動側が存在しなければ結果を出せません。そこで結果を示せと言われるわけですが、人間には結果側の世界が独自にあります。

この公案では音になっていて、音に関しては幾らでも喋れるわけです。この幾らでも喋れる音を主体側の能動行為と切り離して、音を出すとか聞くとかしてしまうとそこに主客の乖離した世界があらわれます。つまり受動側だけの世界を主張しろということになります。

古事記ではこれを受動側の「女人先立ちて言える」と表現していて、主体側の内容(霊・ひ)の流れ去った(流・る)現象創造(子・こ)で、蛭子を生むといっています。

ところが人間世界にこの蛭子の一般的な現象世界が在るために、簡単に通話が通じていくのです。(蛭子の世界で後述)

このように主体側、客体側それぞれの世界があり、能動主体側から客体側を見て在るけど結ばれない世界を空即是色といい、客体受動側から主体側を見て在るけれど結ばれない世界を色即是空といいます。フトマニ言霊学から見て不完全な世界ですからこれらは統合され、和を結ばねばなりません。仏教では般若心経に概念的な経文を載せていますが、フトマニでは古事記の冒頭十七神によって実質内容構造を示しています。

それには主客の間を取り持つ父韻というものを考えなくてはなりませんが、もう少し母音の話が続きます。

13-8-1。腹母音。不似と似。事実と内容。

こころを尋ね母音を尋ねてわけの分からないことを書いていくうちに悟り、空の話になってしまい、さらに混沌としていることと思います。その上さらにそれを混ぜ返すようなことが続きます。

本来なら簡単明瞭に図式にしてこうこうだと言ってしまい、後は読者に任せればいいのですが、お節介な余計な説明したい欲求が出てしまいそれに従っています。

数千年来、心とは何かと問われ追求され答えられてきましたが、終わりがありません。空とか悟りとかを知ることも心のほんの一部の働きでしかないけれど、前宣伝が大きすぎるためか一生をかけたり、そのことだけが獲得目標になったりして、そのために生涯を費やすことが起きています。

ネットで心の図式を探してみました。広辞苑は以下のようなものを挙げている。

・人間の精神作用のもとになるもの。

・人間の精神の作用そのもの。

・知識・感情・意思の総体。

・おもわく。・気持ち。・思いやり、情け。

・他に 趣き、趣向、意味、物の中心、等。

またあるブログでは「心は最広義では価値世界と概念世界の全てであり、広義では概念世界を指し、最も狭義では赤字(・)の部分を意味すると考える。」となっています。

価値世界 概念世界 事実世界

客観(間主観) ⇔ 心 ⇔ 実在

・信念 ・意志 思考(理性) 経験(知覚現象)

・規範 認識(意味の他者と言語による社会的認識:悟性)

・知覚(五感)

・感情 ・感覚(体性感覚。例えば痛み)

・記憶

(「心の哲学(4)円環運動」から引用)

こころにはこういうこともあります。物に心を託したけれど、ぞんざいに扱われるようなとき、その物に託された心はなんでしょうか。

それぞれ十人十色で引用すればきりがありませんし、それに手を貸せばわたしも溺れていくでしょう。どれをとってもそれぞれあることですし、それなりに正解ですから、後はお気に入りの選択だけになってしまう感じです。

このブログでは古事記の冒頭を心の原理としていて、神の系列だとか古事記の神だとかの話は出てきません。神という名の心の話です。

そこで心の原理を見取り図風に図式風にしたいのですが、図式の作り方が分かりませんので、

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/chart/chart.htm

を借りて心の構造の見取り図とします。

この図は人間の心の原理中の原理みたいなもので、大和日本だけでなく人間であることの原理を現した秘宝です。ただこの図式には、図式という制約上平面になってしまうのでこの原理が動いた立体的な姿は現れていません。また、原理というのは現代語ですが、わたしが勝手に言っているのではなく、古事記では「天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき」といい、その心の支柱と御殿をいったものです。

カタカナは古事記の冒頭の神に順番通り対応しています。対応の根拠は古代大和の聖人たちが何世代をもかけて研究したものですが、書き物として皇室の賢処に秘されています。これが公開されれば実質的な岩戸開きとなるでしょう。しかし民間では既に研究対象となっていて、このブログもアイウエオ五十音と神との対応を解説しようとするもです。

この図で原理というのは、例えば「あ」を発音しようとするとき、「あ」の準備をして「あ」と発音して「あ」と聞いて「あ」と了解して「あ」と記憶され「あ」の宇宙となるそのたったの一サイクル、「あ」だけの一サイクルを示したものです。ですのでこの古事記の原理に動き広がり流通する内容を加え理解しなければなりません。

ところがこの原理(支柱と御殿)の凄いところは、動き広がり流通する内容が原理の中に内包されていることです。回転こまの軸をこの原理とすれば、人の心は広がり大きくなるこま全体です。この回転は図で言えば、図の最後に在る上下のアイウエオ百枡全体が、先頭にある一つの「ウ」になる循環上昇関係(ウ=百)となります。

上記に引用した心の二例は何処をとってもこのフトマニ言霊図のどこかに該当し、また恣意的に図として抽出し描かれたものとみることができます。今進行している腹母音の章はこの図では先頭の「ウ」の始まりを、この原理全体の流れに従って書こうとしているものです。

簡単に流れを追うと、こころの先天から始まり、それぞれのこころの領域を通過しつつ、心の要素を用いて表明しまた先天世界に帰るとなります。

この元に戻ったときにあらわれる姿を、日月神示の冒頭では「二二ははれたりにほんはれ」といっています。翻訳では富士は晴れたり日本晴れ、となっていますが、これは日月神示が心の内容を現したものであることを知らずに言葉を配当したためで、「二二」というのは富士ではなく、「不似・ふじ(似ていない)」のことです。

富士という訳ではせいぜい不二を連想して見事な山があるというだけで、心の内容はありません。それを「不似は晴れたり」にすると、心とその表現行為、思っていることと言っていることの「不似」という似ていないことが晴れて、全うな心持ちになるということになります。こころとそのあらわれの両者に如何に和をもたらすかというのが日月神示全体のテーマです。

古事記にはよく「国」と出てきますが、これも「クニ・組んで似せる」ことの象徴表現で、冒頭ではアの目が付いて地になる、あめつちのアの意識の目が、国若くふらふら浮かんだ油のようなものを、組み似せて固めていく過程を示すぞとなっています。

続いてすぐ、イザナギとイザナミのつまり自分の心のまず行う仕事として命令されたものが、「このただよえる国を修めつくり固め成せ」で、天津神に似たものを自分の心に構築せよとなっています。

似ていないものを似せる、それを似せて組んでいくことが心の動きになります。フトマニ言霊図では始めのわけの分からない「ウ」が心の過程を得て全様相が明らかになったとき、それは「う」となることを示していて、古事記の百番目の神である建速須佐之男が「海原」を治めるとなっています。海原というのは「う」の原ということです。御中主から建速須佐之男で、ウからウの一循環が完成するとなります。

さてもう少し「不似は晴れたり日本晴れ」について書きます。

ここでは日本晴れとなっていますが、これも本来は二本晴れが正しく「不似は晴れたり二本晴れ」がよりヒフミ神示の意に沿った訳です。しかし「不似は」なんていう訳はヒフミ神示の内容分かっていなければ、余計に混乱をもたらすものですから象徴的に「富士は」としておけば、聞き応えはいいものとなります。

不似というのは感じ考え思ったことでもそれを言いあらわすと、自分でも違ったニュアンスを得たり相手に対してはまるで反対の解釈をされることがある、ことからもわかると思います。この思っていることと言ったこととの間が両者にとって明瞭であれば不似は晴れたり、わたしとあなた、こっちとあっち、の二本もすっきり爽やかということですが、言葉を用いた表現は常にそうはならないというところがあります。

この表現の内容と示された事実との間に乖離があって十人十色ができてしまう構造を解決しようというのが古事記やヒフミ神示です。人はそれぞれというのが当たり前の前提としてあると思っていますから、そんなことを言えばとんでもないと思われるでしょうけれど、それができてしまったからこそ古代大和の五千年以上前からの、心人間の秘宝として伝承されているものです。

肝心なことは言葉の、頭の中の、心の、思いの、考えの、感じの、内容は事実ではないということです。禅問答で小僧に頬を打たれ師匠は「痛い」と言いました。丁度部屋の閉まった襖の向こうを歩いていた茶坊主がその師匠の「痛い」という声を聞いて、お師匠さんまた腰を痛めたかなと思いました。これで分かるように「痛い」の言葉の内容は事実を現していないのです。

言葉の内容をそのまま事実としてしまうと、茶坊主が聞いた「痛い」の内容は腰痛になってしまいます。人は普通自分の喋っている内容は事実として喋っているつもりです。しかし全然そんなことはないのは聞いている人の感想を聞けば、全部自分と違うと気づきます。

裁判などはわざと事実と内容を切り離したり、都合よくくっつけたりします。両者共に事実として認めても、私の内容としては認められない、なんていうことはざらです。これが「不似」で、似ていないことがそのままでは晴れない、今までの考え方認識の仕方では明らかにならないということです。

わたしでも誰でも一生懸命書いたりしていますが、書き上がったことが内容を現した事実と感じています。ところがそんなことは全然お門違いだというのは読み手の立場になれば分かります。良くも悪くも勝手に解釈され、理解もされず事実として通じてもいないということが起きます。

心を扱うのは直接その人の経験が扱えますから、喋っている内容をそのまま事実とし易い。事実と内容は似ていながら似ていないと言うより、内容は事実ではないのです。事実となる以前に内容があります。

これに対して馬鹿言うのじゃない、事実があって内容があるじゃないか、まず富士山があって、その内容を話すじゃないか、御来光があって、神がいて、自分の子供がいるからそれらのことを話すではないかと言うことでしょう。しかし落ち着いてください。

名は体を現す富士山があるから富士山といい、名は体を現す子供がいるから子供についてのおしゃべりができるというでしょう。では一言うちの子供はこうなのよと言ってみてください。それは事実ですか。先生の評価は、遊び仲間勉強友達の評価は、隣のおばさんはなんと言うか。

それに対して全部の事実とか一部の事実とか個人的とか言うこともあります。あくまで事実があって、部分的な事実ながら内容を指したものだと言うつもりです。これでは内容とはいつでも部分的で個人的なものになってしまいます。それでも事実としてあるのがまず先だと言う意見は変えません。それは部分的で個人的でないかのようです。

ここで主張されているのは事実とは実は事実ではなく、人間の向こう側にある何だか分からない客体側世界というだけです。人間の意識とは関係しないあっち側のことですので、喋りようがありません。富士山を知らない人に富士山と言えば、それを聞いた人は自分の知っているだけの記憶概念を総動員して答えるでしょう。「ああそれは蝶々のことだね」

それを聞いた地質学者は富士山と言うのは休火山なのだよといい、それを聞いた富士信仰者は神の住む山だと言い、それを聞いた画家は単純すぎるフォルムで絵にならないものだよといい、素人写真家は幾ら撮ってもまだこれぞというものは無い山といいます。

こうなってくると何処に事実があるのか分からなくなりそうですが、これらの発言の共通点が事実となります。こういうことです。

事実として山があるとか無いとかではなく、そう言った内容を持ったものが事実です。まず内容ができて出来上がった内容を表現するのです。ですのでその内容が事実とされるのです。

まず客観実在として富士山があるという主張に当てはめれば、客観実在としてある、というだけがじじつとなります。雄大だ、神々しいというときはそのそれぞれが事実となります。こうして事実となる前にまず内容ができて、その内容が事実となるのです。ないようは変化生成消滅していきますから、事実もそれに従っていきます。

人間の向こう側にある物に内容が与えられたときに事実となることができます。新しい現象の発見のときなどはまず、ある、ということだけが事実となっています。それから先のことはまだ事実不明なのです。内容がどんどん明かされるに応じて、どんどん事実に似てくるというわけです。

内容が事実となっていくことを次に探ってみましょう。

13-8-2。腹母音。心道。先天の半母音世界。ぅ(w)+母音。国=クニ=組んで似せる。

言葉の運用では喋っている内容が即事実ではなく、内容を持ったものを事実としていくのです。今わたしは上記の一文を書き上げましたが、書き上げた文章が事実ですが、事実が文章の内容ではではなく、内容を持ったものあるいは内容を持たした事実としたものです。火星に水があるというは、火星が水ではなく、水が火星でもなく、火星に水があるというのが事実で、水が火星の内容ではありません。意見主張というのは勝手なもので、喋った内容をそのまま事実としがちです。

意見交換論争討論などをみていれば分かる通り、それぞれ内容は出てきますがさっぱり事実となりません。政策提言などは最初から事実としないことを内容としている始末です。ではせっかくの内容があるのに事実と何故ならないのでしょうか。ここにも最後の一厘を超えるということが出てきます。第三者となって当事者間に了解されることです。このような当事者間から独立したかつ両者に了解される、第三者としての事実を作る存在が事実となるので、内容がそのまま事実となるのではありません。

では腹母音に戻って先天の半母音世界をみていきます。

わたしの相手のあなた、陽の相手の陰、主体の相手の客体、等々自分の片半分が半母音となりますが、どのようにして片割れを自分の相手と了解するのでしょうか。

現象を追うと、路傍の石を拾う、画面のスイッチを入れる、字を書く、明日の予定を考える、カレーを食べる、等々何でも全て自分のする行為の相手は物体物質と掛かり合うこと、概念知識と掛かり合うこと、感情情緒と掛かり合うこと、どうしようか迷い選択すること、意思決定にかかわり合う等のどれかに関係しています。

現象は自分ではありません。スイッチを入れても画面の絵や文字は自分ではなく、路傍の石を蹴飛ばしても、カレーを食べても、また書いた文字も自分ではありません。考えた思想概念もそれは言葉という借り物に乗っているものです。現象は概念も含め自分以外の客観物です。

喜怒哀楽の感情が自分のものと言えるものかもしれませんが、それを説明してしまうと、言葉概念が使用されますから自分から離れしまい、それかといって黙って感じているだけなら、誰も知ることがありません。自分の感情を説明できないもどかしさ、理解されないもどかしさはよくあることです。そんなことなら誰にも説明しないで黙って自分に仕舞い込んでいれば、常に自分を保つことができそうにも思えてきます。

ところがそれにも係わらず、この概念記憶の客観物がまるで自分のもの、あるいは自分自身であるとして扱われます。自分が創造した物に限らず拾った石も、食べたカレーも、感動も何ものかも自分自身の五感感覚で得たもので自分のものになり、自分の考え思いで得たもので自分の考え自分の思いになり、その他等々となります。

全くそんなことは普通な当然な日常的なことです。いったい何を考えることがあるのかというくらいにあたりまえのことだけです。自分が触って感じて考えればもう自分のものです。当たり前のことを書いて読まさせられると、またこんがらがってきます。

こんがらがったついでにさらに図を加えます。アイウエオ五十音図です。

能動主体の母音側--取り持つ律動とその現象---受動客体の半母音側

能動主体側 ア---カサタナハマヤラという律動---客体側ぅ(w)ア= アワの主体-客体。

能動主体側 イ---キシチニヒミイリという律動---客体ぅ(w)イ = イヰの主体-客体。

能動主体側 ウ---クスツヌフムユルという律動---客体ぅ(w)ウ = ウウの主体-客体。

能動主体側 エ---ケセテネヘメエレという律動---客体ぅ(w)エ = エヱの主体-客体。

能動主体側 オ---コソトノホモヨロという律動---客体ぅ(w)オ =オヲの主体-客体。

五十音図は両側に心の能動主体、受動客体の柱を置き、その両者を取り持つ律動と現象結果が中にあります。母音側の能動主体が中間の律動を通して相手側の半母音側に渡ると、その中に主客から作られながら、主客からそれぞれ独立した第三者の現象が生じる図です。それを人の行為として象徴したのが鳥居をくぐるという行為になり、わたしが相手対象に渡って真っ当な現象を生むということになりました。

カレーを食べることなら、わたしという主体側が、カレーという相手に向かって、食欲という律動を通して食べる現象を生むことになります。カレーを食べたというのが事実で、食べるというのはカレーの内容ではありません。主体が客体に渡って現象を生んで事実となるので、主体が客体に渡る相手はカレーに限らず無数無限に口を拡げて待っていて、正しくカレーに行き着いたときにカレーを食べた事実が産まれます。

またカレーを食べる前にも、食べる食べるあれだこれだと主体側は主張するでしょう。その主張を持ってこうすればこうなる、ああすればああなると主体側の律動によって結果さえ出したつもりになれます。しかし、相手対象となるカレーを射止めなければカレーを食べたという事実は得られないのです。

参照。惑わしたついでに。 まず鳥居の原型を見てください。『大神神社(三輪神社)』

( http://small-life.com/archives/10/04/1120.php )

わたしがあなたに渡って中をくぐると、私という現象を生む(神道徒になる)という図です。

現象したものを中心にして話すと以上のようになりました。さらに半母音側の世界に入りましょう。

主体アと客体ワの両柱を渡る能動の律動がしめ縄です。この中をくぐるとアワの主体客体によってできた現象です。今までの説明は平面上でした。

鳥居は立ってるじゃないかということでしょう。鳥居も象徴物象表現ですから心の主客を立てて表現できましたが、主客を分けるのは概念的に理解しやすいからです。ところが神道にはもう一つ最深奥の秘儀となっている象徴があります。アイウエオ五十音図と同じ、鳥居と同じ意味内容を持ったもので、伊勢神宮の忌柱(いみばしら)で、天ノ御柱・天ノ御量柱、心御柱 しんのみはしらです。心柱、こころの柱です。

五で割り切れる五尺の長さで、五分の二が埋もれていて、柱といっても床下にあって屋根を支えているわけでもなく、真上に舟形にヤアタの鏡を戴いています。

神霊の宿る柱ではなく自分の心が宿る柱です。主体と客体が一つの心のように一本になっています。

神道の最深奥も分かってしまえばなんと言うことも無いのですが、何ということも無い分かり方というのは単なる知識概念での分かり方です。つまり分かったいう事実の内容は概念でしかありません。心柱はアイウエオの五つに分かれていて分かったというのは単なる概念知識で了解した、フトマニで言えばオの次元のことでしかありません。全部の内容を解き明かすのはまだ先です。

古事記(心道、神道)は心を平面図上で、主客の分かれた形で、一本の柱の形でと心のあり方をそれぞれの場面に応じて説明しています。心は重なり合って成長肥大化していきますから、さらに立体的にも説明されなければなりません。平面上の説明にはよく原が使用されますが、立体となった心は山が使用されています。こころはころころ動き変化成長していきますから、活用運用する心の説明も必要になります。奇振嶽(くしふるだけ)奇しき心を振る振る運用する山です。

どれをとっても原理は同じで、心の主体側客体側とそれの仲介役が出てきますが、一言で言えば古事記冒頭の十七神が心の原理となっています。十七はひふみ神示によく出てきますし、主客を一本の柱にすると十四神になるので、十四もよく出てきます。さらにそれをよりコンパクトにすると三神になったりで、その時々の取り方で変幻自在です。全て冒頭の十七神の変身した姿です。

13-8-3。腹母音。先天の半母音世界。ぅ(w)+母音。国=クニ=組んで似せる。

以上が先天の半母音を説明する前提です。こんなにごちゃごちゃと書くということは、どうせこの後の説明もうまく出来ないだろうということですから、期待などしないで、各自それぞれ追体験し、自証した方が早いですよ。

何かをしていく時には自分の心が主体となって相手対象に向かうのですが、そこで相手対象を得た時のことについてです。

スイッチを入れて画面の文字を見た時、たった一つの主体の行為と見えても、これだけでも実に多くの連続した主体的な行動経過の流れがあります。一つ一つ区切って書き出せば百年経っても書き出せないくらいのものです。

この一つ一つ区切って存在していくことを古事記では国=クニ=組んで似せる、区切って似せる、といいます。組んで似せるのは、まず主体の意図に似せるのです。それには相手対象がいります。そして両者間を行き交う行動因が必要です。これが三位一体となっていくのがクニになります。クニの似は二二は晴れたりニホン晴れの不似(二二)のニ、アメツチのアの目が付いて地に成るのア、主体の意識が対象に付いて自分を似せて了解すること等と同じことになります。

主体に似せるのか相手に似せるのか、今のところは曖昧な書き方です。自分の考えが相手対象となるのか、相手対象から自分の考えが産まれるのか、こういったあっちかこっちかという知識了解の次元では埒の明かないものです。この両者を超えていくことを、ひふみ神示では○にチョンを入れるとか言っています。あっちとこっちの分裂を○にして、なおかつ主体のチョンを入れるということになります。

不似(二二)を晴らすことで、あっちとこっち、わたしとあなたの二本が晴れることでもあり、両者を組んで似せたクニを治めることでもあります。これはどちらかかの立ち位置にいる限りは解決できず、ひとまず意識の次元を上げて全体を見なければなりません。しかし能動的であるのは主体側ですから、主体から出発します。

主体から出発するといっても、朝、行ってきますと学校へ向かう主体行為がまずあるようですが、今日の一時限目は先生が風邪で休んで二時限目から始まるというように、主体意志からだけ始めると間違えるのです。主体側の意志行為は直接に自分のことですから、片手で音を出せとかいわれて、そうだと思ったこと考えたことを主体側だけでやろうとしてもうまくいきません。

主体側の意思意図が無ければ何も起きませんが、主体側が意図を持つということ自体は、主体が自分と自分の対象を分別したことです。この分別は直ちに起きます。しかし分別以前の○の統体があるからそこから始まるのに、自分を起動する以前の姿を忘れては上手い具合に行きません。

似る似せる似せられるは人の精神行為では創造に係わる本質的なことです。古事記ではアメツチから始めアのメが付いて地に成るというアの芽を地において似せて成ることをテーマにしていて、ヒフミ神示ではやはり冒頭を不似は晴れたりといって、似ていないことを似せることをテーマにしています。そもそもフトマニというのも二十間(真)似で二十の間(真)を似せる学問ということです。

古事記では、国(クニ、組んで似せる)という言葉の使用頻度は多いですけど、そのどれもが主体の心の領域を組んで似せて実現すると読み替えられます。国の古事記の本意は日本の国とか何々地方とかの国土のことではありません。そのように読まさせられているので、それはそれで今暫くは仕方のないことですが、古事記を心の現理論として了解していけば徐々に分かることです。

もちろん後段では話が進んで言って国土の意味にもなりますが、それでも原則となっている主体の心を組んで似せるという意味が貫徹しています。ですので地名とか場所とか探すのも捜し当てた歓びがあるでしょうが、二次的なことで、心と切り離された場所探しならもう意味はないことでしょう。心の現理論とは別の、精々名前の由来としてぐらいは考察されてもいいものになるでしょう。

組んで似せる相手側を半母音と言います。ここで半母音側を現象実在したものとして扱ってしまいますと、主体客体、主観と客勧、思考と存在、わたしとあなた等々の存在論の勇み足、はみ出しの見本となっていきますので注意してください。

というよりも面白いことに、必然のように人ははみ出していく、間違えていくというのが伊耶那岐やスサノオの動きで示されますので、意気消沈することもありませんが。

人とはまず間違うということが古事記では立派に保証されているのです。

妹伊耶那美が先に話しかけ、蛭子を産んで世界に広めたことからこの世を始めています。これは国を造ろうと言って最初の結果です。つまり社会集団の国の共通基盤の創造を指しています。どの立場の主体であろうと、主体達の交流を可能にする言葉の流通の基礎基盤の話をしているのです。主体が彼の意思に沿って組んで似せるには社会性を一般性を無視できず、この一般的な社会性の上に乗らないと個性社会性共に創造できない、その社会性基盤の創造のことです。

このように人の世界はまず個々の主体にとっての「生みし子良からず」を基盤として形成されていきます。つまりこれが自他ともに共通となる一般共通性となり、それをとおして話が通用するものとなっていきます。共通の国、組んで似せられたクニの中にいることになり、不似は晴れたりになります。そして個々の主体が活躍する場所にもなります。

古事記は完璧な心の原論ですからその共通の国を、先天の根拠として示しています。 主客の別の分別が出来た後に、造化三神の後、まず出てきた神が、

「次に、国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。【 言霊 ヲ】」

と説明されています。

古事記で「次に」というのは、前の全体を受けて、前全体を自身の内容として第三者として現れることです。

主体が自他との分別を知った後には、国=組んで似せることがアヤフヤな時に意識の中で用意されているのは半母音側の言霊ヲと言っています。人はまずこの範囲内で自らのこころの構築が始まります。

高御産巣日(たかみむすび)の神の主体側が登場し、次にそれを受けて神産巣日(かみむすび)の神の受動側が登場します。そこで一つの全体ができて、その全体という受動的なものが宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神となって、次に、それに向かう主体的な天の常立(とこたち)の神がでてきます。

このように能動受動がペアとなって、主側客体側が入れ代わりつつ次々に自分を創造していきます。

ですので、客体と主体とは一体ですが、一の統一体がある時と、二の主体が客体に向かう時と、三の客体が主体を待ち受ける時の三次元世界をもともと内包しています。

今までスイッチを入れて画面の字を見るとか言ってきましたが、ひふみ神示でいう○の世界も実はこの三次元世界をまとめて言ったものなのです。その世界は実在に先天的にあるというだけで、この後いわゆるチョンをいれる行為があります。しかもそれは八つに分類されますが後述します。

そこで半母音側の世界も元々三段階(三次元)ありますからそのように話さなければなりません。

前回はなした伊勢の最奥義となっている心の御柱とは人の心のことで、人類の心のことです。いつまでも日本の神道に留めておく理由はもう無いのですが、まだ暫くはこのままでしょう。伊勢の心の御柱は地球人類の心ですからいつまでも日本だ日本だといっている時代ではないのです。これはまだちょっと速すぎる言い方ですが、大和の日本からその方向へ言い出さないことには、世界は動きません。

宇宙の動きはオノゴロ(おのれのこころの)島の領域で人の心となれる天の御柱と八尋殿を打ち立てました。このうち、御柱はこころの世界の実在性の一般化を模したもので、八尋殿はこころの世界の動きを模したものとなり、これらが心の動きとなって現象創造行為、言葉の創造となっていくものです。

鳥居とか五十音図とか古事記の神代の巻きとかを全部ひとまとめにすると一本の柱、伊勢の御柱になります。何でもない、ただ心の事を話しているだけなのですが、比喩があれこれ入っていて平面とか立体とか、内容とか形式とか、主体能動とか客体受動で説明しているから、ごちゃごちゃした感じになります。

伊勢の御柱のように動かずここにあるこれだと、それを見つめて感得してしまえば全てです。全てですなんて言ういいかたはおかしいけれど、私たちそれぞれがおかしいので、心柱はそれだけのものです。少なくとも禅のように感得してしまえばそれを最低条件として、世界が動き出します。それまではいろいろとあれこれごちゃごちゃが続きます。

一本の柱なのに主体側と客体側があって、立体と平面があって、能動と受動があって螺旋上昇循環しているなど、いくら説明したってきりがありません。ハッと悟ってもらった方がいいのです。私も悟ってしまえばこんな分かってもいない説明をしなくても済みます。

この伊勢の柱の真実はこれまでの二千年間の人類の哲学の根本を象徴したものですから、もし分かったという暁には、人類史の曙となるものです。既に大和のスメラミコト達によって解明されていたものを再度追体験するだけですけれど、その後の二千年間誰一人として、宗教家も思想家も哲学者も解けなかった問題です。

今世紀になって初めて全貌が故島田正路氏によって明かされましたが、続く人がいません。主客の存在に関するどんな分野からの根本命題に答えることができる唯一の原理ですが、未だにこの心の原理を解せる次の人が出ません。

本来なら島田正路氏によってスメラミコトが復言(かえりごと)を受けて、古事記の原理を受け継ぐのですが、皇室においても全く用意ができていません。最近よく言霊学ということで個人的な記事を見ますが、世界朝廷まで見通している人はいないようです。

これは人間の心の構造を真似た言語を持っていないとできないことです。残念ながら大和言葉を受け継ぐ日本語にしかその構造が世界のどこにも残っていないので、必然的に日本語を知っている人の中からしか暁をおぼえ開ける人がでません。

i子様 出番ですよ。

13-9-1。腹母音。意識にある自覚体を名づけた。腹にある半母音。ぅ(u)+母音。

フトマニ言霊学では母音とか半母音とかいうので、音声そのままのこととされて理解されていることもあるようですが、調音された音声は音韻音声学の分野のことで、フトマニ言霊学での母音半母音のことではありません。

フトマニ言霊学は心の原理を扱いますから、心の意識の実体を音声に見立ていて、調音によってアを発声したから言霊アで、その響き音声に言霊が宿るというようなことではなく、意識の実体、あるいは意識の自覚体に言霊を当てているのです。そして意識の能動側主体を母音といい、受動側客体を半母音といっています。

同じ要領で古事記も構成されていて、ずらずらと出てくる神名は、古事記のそういった神様たちがいるということではなく、人間の意識に神という名を当てているだけで、古事記の神様というのは実際にいるということはありません。

神の名を解析すると人の意識のそれぞれの領域と段階に相当することが分かるようになっていて、それぞれの意識である神の名とその実体がまた見事に言霊と対応しているのです。

アイウエオは五十音しかないので言霊も五十しかなく、それに対応する神も五十神しかいません。これは基本的な要素が五十の言霊の神としてあることで、意識のそれぞれの次元はこの五十の変化変態変身したものです。そこで意識は無限無数ですから神も八百万となります。神とは言霊のことをいいます。

神とは言霊と覚えたところで何でもありません。神とは言霊という意見に反対逆上するようなこともあるでしょう。それぞれ神体験があり、人を超えた超権威なり超意識の経験もあることでしょうが、此処ではそれらについては触れないようにします。

フトマニ言霊学の心の内容を見ていきます。

言霊学上の半母音のワ行についてです。

発音された現象によって言葉の分析をしているのではなく、発音にいたる創生過程を求めているので現象が終着で始発ではありません。また相手対象となっている客体物質世界の分析が問題なのではありません。あくまで主体的な心が「天の橋立」を渡って相手を得ていくことで半母音が顔を出してくる、主体内の自覚体つまりこころの問題です。

言霊学上で半母音が問題になるのは、母音と同様に半母音の普遍の実在性に関してです。こころの内にある受動側の意識です。例えば今、画面上で「意識」という文字を見たわけですが、受動側にあるのは物理光学的なドットの光点の集合で、それ自体を指すのなら単なる物理学上生理学上の問題です。

そうではなくてその光点、その他のもたらす意識上の問題です。

「この世界を分けて主観世界と客観世界に分けられる」という意見がありますが、これは現象世界を単なる外界物質世界と、頭脳内精神世界に分けたというだけです。フトマニ言霊学は外界物質世界は科学的な経験概念の世界として一切手出しをしませんが、頭脳内精神世界に入り込んでくる、頭脳内での主体と客体の関係として取り組みます。

つまり頭脳内には主体側世界と客体側世界があり、この頭脳内世界の外に物質の客体世界があり、いわば純粋客体物質世界になります。ここで扱っているのは頭脳内での客体側世界の実体を探るもので、物質を探ったりその投影されたものを探るのではありません。

半母音を分かりやすいように書き直すとこうなります。ただし発音の上からこうなるというだけのことです。繰り返しますが発音を分析しているのではありません。

母音。 拗音+母音=半母音。

ア → ぅ(u)+ア = ワ。(神産巣日の神・言霊ワ)

イ → ぅ(u)+イ = ヰ。(伊耶那美神・言霊ヰ)

ウ → ぅ(u)+ウ = ウ。(天の御中主の神・言霊ウ)

エ → ぅ(u)+エ = ヱ。(豊雲野の神・言霊ヱ)

オ → ぅ(u)+オ = ヲ。(宇摩志阿斯訶備比古遅の神・言霊ヲ)

頭脳内の半母音世界が何故ワヰウヱヲになるのかを追求しなくてはなりません。

まず、半母音の作りを見ると拗音で現せる部分が、ぅ(u)になっています。発音表記で行けばW+母音ですが、発音そのものを問題にしているわけではないので、意識に与えられた半母音の実体を探していますので、ぅ(u)の表記になります。

この拗音、ぅ(u)=う、もまた母音だということが重要なことです。半母音を構成するのに他の母音でなく他の子音頭でなく ぅ(u)=う を用いて五十音図の最終行が作られました。何故でしょう。こんな質問は提起されたことはなく、自分でも思っても見ない成り行きです。やってみましょう。

主体側の意識が自分の中で結びつくには自分の中に主体側に対応したものがあることが不可欠です。これを通常は客体側として頭脳の外にある外界客体世界にしてしまい、例えば私がみている画面というように外界物質世界、あるいはその頭脳内への投影として画面のイメージを主体側の相手対象としていきます。

しかしそのようなものがあると固定してしまうのは客体側物質的世界があるということですから、頭脳内に物質なり物象なりが入り込むのはもともと不可能です。可能というのは頭をたたき割って物質を押し込むことです。また、イメージ物象として入り込むというときも感情感覚世界で出来上がったものをねじり込むことで、そんなことは不可能です。

とはいっても結果的に可能なとなってると感じ、普通に行為創造しイメージを伝達し合っているのでおかしな処を感じないくらいです。そんなところに問題は見えず観念だという非難さえあることでしょう。

普通にも、行為するときには、頭脳内において直ちに意識の起動が立ち挙がらなければ行動の用意が出来ません。頭脳内の半母音世界の形成と行為との関係は即時的ですので、このブログのようにそこに時間経過を見ることなど思いもつかないということもあります。しかし、この主体側に対応して主体を現すものが客体、ワ行の半母音です。

自分の欲望の充足、考え思い着いた事、どうするかの選択等が自分のものとしてそのまま出てくる構図の大本が ぅ(u) の半母音にあります。

注意して上の二つの文章を読むと、はじめに主体側に対応する半母音とあり、次には半母音から主側が出てくると取れる書き方です。鶏と卵みたいなものとなっています。

さらに混乱させれば、ワヰウヱヲを半母音と呼んでいますが、ワヰウヱヲそのものが半母音であるのではありません。

最初にも言ったように発音上の問題ではなく心の在り方を取り上げています。アイウエオもワヰウヱヲも単独に実在はするけれど現象として扱うものではないということです。母音も半母音も現象を現象足らしめますがそれ自体が現象となるのではありません。子供現象が産まれても子供は両親のどちらでもないみたいなものです。ですが、子供には両親の半母音側(母親側)が実在しているし、だからといって、子供の半母音側を母親ということはできないようなものです。

子供現象に対しては、母音半母音側はそれぞれ純粋に独立していて主体-母音側、客体-半母音側で隠れたままです。古事記では、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき、となっています。

また主体-母音側、客体-半母音側の対応は古事記に、然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ、とあって主体側の働きかけにだけ応じるけれど、一本の柱内に両者がいる関係です。(伊勢の心柱です。)この柱を平面にしたのが五十音図になっていきます。

五十音図上で書き現した場合にはワの最終行になるためそれを半母音といっています。ですので音韻音声上でのワ行半母音とは違います。

半母音は心の言霊学上は神名で説明されていて、神産巣日(カミムスビ)の神と呼ばれ、かみ合い(カミ)結ばれる(ムス)霊(ヒ)で現されています。結ばれる側の主体客体の関係を言います。

自分の中にこの相手対象となるカミムスビが無ければ一切の創造現象が起きてきません。主体意識の相手である自分の中のカミムスビは、自分の直接の対象です。それは直接自分に得る対象である事が必要なため、全面的に自分の中にウ、ぅ(u)、であることになるのです。つまり半母音頭は ぅ(u)、になるのです。

既に言霊ウは天の御中主(みなかぬし)の神であることは話しました。動き出す始めの全体です。この始めの全体の意識上の取り方は宇宙世界に対するはじめや、朝出掛けの始めや、食事前の始めの全体等、それぞれの切り口があります。どこにもその切り口の始めがありますから、宇宙として思えばその天の御中主(みなかぬし)の神、食事前として思えばその天の御中主(みなかぬし)の神、半母音として思えば天の御中主(みなかぬし)の神、が当然どこにも顔を出します。

そうするとそれぞれの意識の始めに対応する、宇宙全世界に対応する始めの

客体側の神産巣日(かみむすび)の神、それぞれの意識の切り口に対応する神産巣日(かみむすび)の神がいることになります。どこかにデンと構えた神というのは、始めの原理として与えられた場面での登場人物(神)ということになります。以下同様で、全ての神に該当します。

これは当面は当惑する事を聞かされた感じになるでしょうが、意識の上昇螺旋循環の繰り返しからは当然のことでしょう。そうでないと神さん達は祭り上げられたどこか上空の一点にポツンと留まるか、土着、民俗、自然崇拝信仰、意識希望の反映とか、出来事の神格化みたいなものでしかなくなります。

自分自身の直接の目標、自分が発して発したものを得る相手が神産巣日(かみむすび)の神という客体側です。ところがそれ以前に感じられることがあります。何となく後を振り向いて何かを見ているのか、何かがあると感じているのか、向こうに動くものがあるようにボヤーと感じている、その目覚めの始めが言霊ウの状態で、心の相手の向こうに何かがあるということが、ぅ(u)の半母音となります。

ぅ(u)という何か分からないけれど、分からないものを感じることによって主体の自分の存在を感じさせるもの、そこで感じたと同時に何かあると主客の相対性が発生する、その時の主体内での相手意識が、客体側となっていきます。

ですのでそこで何かがある、あれは何かだ、という規定できるものによって了解してしまう以前に、自分の主体が向かう相手という全体があることになります。その全体のわけの分からないながらあるという規定されたものが、神産巣日の神の客体側ぅ(u)です。何々であると規定されたもので命名されてしまったものではありません。

13-9-2。腹母音。意識にある自覚体を名づけた。ぅ(u)+母音。

このように主体側に規定される、相手側のまず最初はなんだか分からない全体から始まるのが重要なことです。そんなことを言われても物を見たり聞いたりすれば瞬時に相手を認識し判別します。到底、始まりは何だか訳の分からないものだといわれてもピンとこないと思います。

しかし、これは戸惑ったりつっかかったり引っかかったりするようなときに、自分の動きが止まり前に進めないことを感じるときなどにはっきり出てきます。全体的な始まりの世界があり、それが具体化していきます。

主体側によってまだ規定されないまずある全体世界の意識が半母音となり、その普遍性は瞬時に相手を判別している時にも基本として貫徹している半母音実在となっているものです。

この意識の主体がまず向かう半母音世界は訳が分からないがある世界で、その世界が主人公であり、無限であるか有限であるかも、過去であるか未来であるかも分からない、あるいはそれらを全部ひっくるめた今の全体を包含した世界です。それはまさしく天の御中主の神の世界です。

ここでは天の御中主という天地宇宙次元から、主体側の意識に対応した天の御中主になったのです。つまり天の御中主の神は神産巣日の神の内容となりました。この前承される神が次の神の内容という関係は古事記全体を通してかわりません。幼少年青年期、過去は現在の自分の内容となっているようなものです。

古事記では主体側を現す高御産巣日の神以前には天の御中主しかいませんから、主体側言霊アの高御産巣日が結びつくのは、言霊ウの天の御中主しかいません。ぅ(u)+ア→ワです。この両者が結ばれ産まれる子供が言霊ワの神産巣日の神となります。

古事記の神産巣日の神というのがいるわけではありません。御中主と高御産巣日の結合によって第三者として誕生します。そこでひとたび誕生してしまえば実体として相手対象となり、神産巣日の世界が存続していくのです。全体があって主体とそき関わりがあれば、主体のそれぞれの段階それぞれの次元に応じた神産巣日が無数無限に誕生していきます。原理上は一神の扱いですが、実体化されれば無限の扱い、その場その時に誕生する扱いになります。

以上は古事記の記述の配列を根拠としていますが、13章は腹母音の話なので、以上の原理を腹次元に適応しようというものです。

そこまでいけるかどうか分からないがもうすこし進んでみようと思います。

そこでは心が、主体側が、心の相手を見るなり欲するなり感じるなりするのですから、ぅ(u)-母音の場合は、心と心の相手は同じこととなります。発音で書けば、天の御中主のウと結ばれますから、ぅ(u)ア→ワ、ぅ(u)イ→ヰ、ぅ(u)ウ→ウ、ぅ(u)エ→ヱ、ぅ(u)オ→ヲでそれぞれの母音から半母音が産まれます。拗音は常にぅ(u)です。

主体側を欲望とすれば、欲望を得る場合は欲望の内容は自分が起こした欲望を自分が自分で得ることになります。これが発展していきますと産業経済物欲実現の社会創造になっていきます。

それは今ここの現在が今ここにないと気が済まない精神世界を作っていきます。

スイッチを入れる行為が納得できるのは自分側にスイッチを入れるとスイッチが入るという普遍性が獲得されていてそれを実現できるからです。犬猫がスイッチを踏むとか赤ちゃんがスイッチを叩くとかしておきる現象とは根本的に違います。

もし人にこの半母音宇宙が無いと自らのことを自らによって了解納得が出来ません。頭脳意識内に ぅ(u)という構造が無いと、主体側の意思行為の行き着く先がありません。赤ちゃんのおしっこうんこしたい放題でニコニコした世界になります。

肉体行動五感で現れる半母音世界は頭脳内意識の半母音の動きと較べられないくらいです。五感世界で現れる半母音は非常にゆっくりで意識でも整理分析ができるほどですが、頭脳内では原子の動くスピードでことが決していきます。見ることも考えることも出来ません。しかし頭脳内半母音の構造が設定されなければ意識活動も解明されません。

この頭脳内でのスピードは脳内科学が後代に明らかにするでしょうが、やはり一本の柱に主客が備わっている構造は変わりません。腹母音のウや ぅ(u)はどこにあるかといえば記憶の中にあるはずです。これは見えず分析できないことですが、実態的にあった場所を確定しないと観念論になるでしょう。

しかし大和の聖人はそれを解明してしまったのです。現代の知性がいくら寄ってたかっても適いません。追体験しようにもできません。われわれはただ古事記に示されたものを受け取る以外には出来ないでしょう。(ギブアップ)

(余計な推測。神武天皇以前までのスメラミコトには、継承されたそれらを感得する何らかの秘術秘策があるようにおもえます。思想や方法として個人が了解するようなものをはるかに超えた精神事業です。地位を受け取ればそのままできるというようなものではありません。全く余計な推測でした。)

大和の言葉では半母音はワ行で、その代表としてワという言葉で現しています。大和以外の国語には半母音の意味内容を持ったワはありません。ワという発音に何らかの意味を付加していくだけのものです。大和のワは自分の心の内容が向かう相手がそのままワ、ぅ(u)+ア=ワ(神産巣日の神)、になります。

どの半母音にも自分が行って帰るぅ(u)→ワが含まれているため、大和日本人の意識には何に対しても何処においても何をしても、和、輪、環、我、の意識が擦り込まれています。母音を使用するときには自動的に和が発動していきますから、これに沿った日本精神が形成されていくのです。

こうして人のどの性能も、自身の中にぅ(u)、ウ、を持っている為何でもないように自然に自分の次元活動ができるのです。

この全活用がワになれる五段によるイエウオア(ぅ(u)+イ=ヰ。ぅ(u)+エ=ヱ。ぅ(u)+ウ=ウ。ぅ(u)+オ=ヲ。ぅ(u)+ア=ワ。)の言語体系が大和の日本語です。

外国語の半母音は発音であれとこれとを判別するだけのようで、半母音には意味内容がありません。そのため主体の表明には常に主語が必要とされ、主語を日本語のように省略してしまうと通じない文章になります。大和の日本語では相手対象のことを話せば自動的に自分が入り込みますから、わざわざ主語を言う必要もないのです。

このことは、主客の一体となった形で全人類の秘密の象徴として五尺の忌柱となって伊勢神宮に立てられています。ですので神道は日本の宗教ということではなく、世界人類の精神原理として隠された形で創設されたものです。もうじき地球世界の岩戸開きが始まりますが、開かれた後には当然神道は全ての人のものになっていますから他の宗教と同じように消滅していきます。

いつまでも象徴のままで放っておいても何にもならないものです。心の発祥運用原理ですからここから発していけば何でもどんと来いというところですが、実用までにはまだ遠い。皆さんの協力が必要です。

大和人も日本人も世界の人たちも同じ人間で同じ性能、同じ次元世界を持っているので、これといって日本だけが偉いとか優秀とかいうものではありません。人種としての人間性能に代わりはありません。日本以外の人は残念なことに大和の言語体系を持っていないというだけのことで、いくらでも勉強して学ぶことが出来ます。(今後世界は再び大和の言葉が旧約聖書に書かれた通りになるでしょう。ここまで文化文明が進歩しているだから、言うのが早すぎるということもないでしょう。)

13-10-1。腹母音。半母音と母音。腹母音と父韻 ➀。鐘が鳴る。

世界の言語には大和の日本語以外に半母音に意味内容をもった言語はありません。つまり外国語では主体側の結びつく相手は主体側が勝手に作り規定した通りになるようにされています。主体側が権威をもって、相手をこうだとすれば相手はそうなるだけです。主語が欠かせないからです。

主体と客体、こっちとあっち、出発点と終着点があるだけで、もっぱら出発の仕方だけが問題になります。設定されてしまった目的目標に向かうことが重要で、選択手段は従属し、目的のためには手段を選ばずというようになってしまいます。もちろん出発点と終着点が固定していればそうなるのは当然でしょう。

相手側半母音を実体的にみればそこにある形を作ることが主たる主体の活動ですが、実際のあり方は活動しつつ組み立てられ成りゆくものです。そこでは時処位の変化があります。それを考慮しなければ半母音側の実際の姿はありません。

今までは相手側と「わ、和、環」を作るといってきましたが、それは何分にも実体的な相手の設定を立てていたことでした。実際には時処位に沿った半母音側があります。半母音側が立てられたということですから、条件状態材料等が半母音側の時処位に沿うように集められていなければなりません。(ついでに古事記で言われる神名はこの段階の神を辺疎(へさかる)の神という。客体側半母音に咲かせて落ち着かせる。)

何でもかんでもが相手側と和を結ぶということにはならないのです。過去から今を満たすため、今そのものを満たすため、今からこれからを満たすための材料選択が必要です。材料があるだけ、和を満たすという希望の掛け声だけでは何も成りません。 (辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神、差を繋ぐ。)

さらに、あちら側終着点側に到達するには主客の差を繋ぐばかりでなく両者間の間隙を少なくしていき、一体化していくことになります。(辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。間隙を減らし一体化する。)

これら客体側の三者の動き(主・客側からの動きがあるので本当は六者の動き)がうまく働くことで相手側目標に一致した姿に近づきます。この三者(主客で六者)の働きによって出るものが出揃い出て、働くものが働き働いて成るものが成りたってきます。

目標に近づき意図が実現に向かいことが成り満足と喜びが得られることになるでしょう。ところがここに問題が起きています。日常的には人生目的を持って生きなさいと言い換えられ、誰も反対できない強い言葉になっていますが、意図目標を持つことで安心あるいは不安を得ることがあります。用意周到に按配を重ねてきたにも係わらず、手持ちの札駒では最期の喜びまでは保証できていません。もちろんこれから来ることを保証して安心させるのは大変なことです。

相手対象とのワを作ろうとしているのにその意志と全材料だけでは不十分なのです。全部出揃ってるのに不十分とは狐に摘まれたようなものです。何故でしょうか。

全部用意しなければ不十分であることは分かります。全部揃ってしまうとそれも不十分というのですから、どうしょうもない感じになります。

考えられるだけのことをして、意志を立て目標を立てるのですから、自分に安心はできます。自分の立場主体側から出発することに関しては、用意はできて安心はできるのですが、相手側到達側に立った時に不安があり、その不安が自分に返ってくると、出発に安心はできてもワを結ぶのに自他に立命はできないということが起きます。

自分に安心だが自他に立命でないのです。これは相手対象に関して詳細を考慮に入れていても起きることで、要するにまだ無いことを考えているだけのことだからです。相手対象側の詳細とはまだ現象となっていない時にはいくら案を練り考えても、一般概念で現される多少でしかないのです。

それらの基盤には一般意思があり、そこに起きるのは、一般的な掛け声や、原則だけのものや、大志希望の吐露、やる気だとか意志を鼓舞したものものだけでは何もならないという姿と同時に、現象と成る以前の詳細も未だ確認されることはなく後回しになるのですから、一般的であれ個別的であれ適用して誤れる事なきを得るというわけには行かなくなります。

半母音世界は主体側から規定され作られるとはいえ、そう滅多なことではハイハイとは言わない強情さを持っているようです。古事記で言う禊祓えはここから真の禊の段階となります。ここまででは、自己の主体の明瞭な確立、安心を得ることでしたが、そのことからは自他の立命は得られませんでした。半母音世界が禊できていないからです。

では続いていきましょう。母音世界に近づきましょう。

試してください。

ウオアエイと母音の発声音を出すたびに腹の緊張位置は変化していきます。ウの腹の緊張する位置ではウの口の形ができ、オの腹の緊張する位置ではオの口の形ができます。その他同様で、発声は口の形だけから作られるわけではありません。

ウの腹の緊張を保持したままウ以外のオアエイ、あるいはオの腹の緊張を保持したままでオ以外のウアエイを出してみてください。その他も同様で、そんなことにすると、おかしなヘンテコな母音ができます。変な母音の音は、その母音の音に従って腹の緊張が引き戻され正常化することでしょう。

ついでに子音も加えてやってみてください。ア段ならアのタカマハラナヤサの発声時の腹の緊張はみな同じです。他の母音行の子音を混ぜると変化がよく出ます。

でもそれは単なる発音発声での生理的な関係です。それにはまだまだ胸郭とか手足の緊張とか身体の皮膚の収縮緊張とかも加わり、発声の生理学みたいになるでしょう。

音声に霊が宿るとかいう言霊はそういったあやふやな事を基盤にしているようです。霊が宿る言霊学とか言うものは、大和日本語の発声が固定確定していることを最初から受けいれているから安心していられるのですが、基礎的なことがらがないがしろにされています。そこで霊が宿る言霊学では霊とか言霊がどうしても出てきてしまいます。

フトマニコトタマ学では、心の中での出来事ですから音声そのものを問題としているわけではありません。心の外にあるどこからか侵入してくる霊を問題にすることもありません。

音声だけが問題なら、腹を除いて胸声帯横隔膜だけで発声することはできますが、声は出ていても、つまり声と舌の位置からは日本語の発音の真似はできても、心のこもった大和の日本語になっていないということになります。

それでも時間が経てば外国人の場合なら自国式の腹母音が矯正され、日本人もビックリするような上手に話す外国人も沢山でてきています。外国人が日本語の学習中の時と、まるで日本人みたいに話すといわれるようになったときを比べると、本当に態度も日本人のようになっています。

彼らの自国で築いた習慣、常識、意識が変わったわけではありません。それでも子供の魂いつまでもの自国での態度、習慣の違いによる戸惑いを超えた大和の意識が付加されているように思えます。

何故そんなことが起きるのかといえば大和の腹母音の習得ということになるでしょう。誰かにこの問題を明らかにしてもらいたいものです。大和の音声の習得ではなく、大和の腹の習得にかんして、大和の武道が何か役立つことになるかもしれません。

腹母音の腹の緊張の位置だけ変えてもアイウエオの変化はあるかといえばそんなことはできません。呼気が伴っていないからです。しかし実際には腹母音の位置を確認するのも結構むずかしいものです。呼吸による胸の上下、声帯の緊張に邪魔されます。

しかしここに、音が出ていないのに母音に対応している腹があるのです。アの音がでた時のアの腹、ウの音がでた時のウの腹等が音に先立って、先天的に実在していることを発見しました。それが前に紹介した「葡匐(はらば)ひて哭(な)きたまふ」、つまり腹這い、腹-映え、腹がこころに映えることでした。

そこで今回はその腹がこころに映える様子についてです。

古事記はここに泣沢女(なきさわめ)の神という父韻の働きを持ったものがあることを示しています。同様に泣沢女(なきさわめ)という(男)神は心の領域で小豆島(あずきじま)またの名を大野手比売(おおのでひめ)という説明があります。これを参考にしますと、こうなります。

まず、用語からいくと、

小豆-あずき、は明らかに続く気・言霊ということです。間違わないでください、豆の小豆がそうだというのではありませんよ。古事記で用いられている当て漢字の読解です。

大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。ひめと言ってもお姫様ではなく秘め隠されていることです。

音として発音されていないのに泣沢女(鳴き騒ぐ)ものとして在り続け、一度鳴き始めたら鳴きっ放しのものが腹の中に有るということで、その在り方をよく見ると明らかに続く気であり、後にアイウエオ母音の各横の段に成っていくものとしてあるが今は先天の中に隠されているということです。

以下は引用です。

「 お寺の鐘がゴーンと鳴ります。

人は普通、鐘がその音を出して、人の耳がそれを聞いていると考えています。

正確に言えばそうではありません。

実際には鐘は無音の振動の音波を出しているだけです。

では何故人間の耳にゴーンと聞こえるのでしょうか。

種明かしをすれば、その仕掛人が人間の根本智性の韻である八つの父韻の働きです。

音波という大自然界の無音の音が、人間の創造智性である八つの父韻のリズムと感応同交(シンクロナイズ)する時、初めてゴーンという現象音となって聞えるのです。

ゴーンという音を創り出す智性のヒビキは飽くまで主体である人間の側の活動なのであり、客体側のものでありません。

鐘の音を聞くという事ばかりではなく、空の七色の虹を見るのも、小川のせせらぎを聞くのも同様にその創造の主体は人間の側にあるという事であります。

八つの父韻の音図上の確認の締まりを泣沢女の神という理由を御理解願えたでありましょうか。」

引用ここまで。

13-10-2。腹母音。半母音と母音。腹母音の永続。神の起源。

重要な引用でした。

鐘が鳴っているのではありません。鼓膜が聴いているのでもありません。それらは物理生理の生体科学の作用反作用、電気信号の交換、電荷の移動でしかありません。その内容は科学による解明に任せられています。というより科学思想の独占場です。

この鐘の例では無言の音波、無音の振動と聴覚鼓膜の関係のように思えますが、心の音はそれらの事実の上にさらに心が乗った上で展開されていきます。心が物質あるいは物質的なものあるいは物質的な象徴を介在媒介されなくては現せないという、単なる物理上の制約にあるというだけのことです。

ですので心の問題は科学のいう事は全部受けいれます。しかし科学のいう事はどこまで行っても単なる物理作用交換の解説を出る事も無いのです。心の物理面を明かす事はできても心にまでは到達できません。

ではここでいわれているこころと、母音を発する心とは何でしょう。横隔膜、声帯はどれだけ解剖しても心は現れてきませんが、またそれらなくしては心を表現できません。

アという音、アという字はインクのしみドットの輝き空気の濃淡です。それに心が乗るといいますがそれは外国の、大和日本語以外の言葉には言えますが大和日本語には該当しません。大和の日本語はアそのものが心となる構造にあります。

勿論今の日本語は外国語と同様なシステムで作られた言葉が大量に混じっていますから、新しい言葉のことではなく、古代から伝わってきた大和の日本語のことを指し、日本語の元になっている大和言葉の事です。

心が乗るというと当然降りるもあるわけで、乗り物があり、それとは別の実体が乗ったり降りたり離れたりしていくのが外国の言葉です。ところが、大和の日本語は乗り物が実体であるような、どのような言語学上の法則をもっしても説明も類似性も見いだせないで、お手上げ状態であるような、言葉というのが本当のところです。

その理由は簡単です。

他の言葉はものを示す為に作られています。お札同様こっちの紙は百円、こっちの紙は千円と、そういうふうにゼロの数が書き込まれているからそういう約束になっているだけというものです。大和の日本語は約束事が言葉の上に乗っているのではなく、こころそのものが言葉という表現に成っているのです。もともとまるで違うものでした。

その根本にある実在の根拠が腹にあります。

その実在の人間的な根拠を腹の緊張に見つけそれが腹-映えて心になるというところまできました。腹-映えの形跡は人として多かれ少なかれ見いだせるもので、外国語においいても同様にあります。しかしここで古代大和の聖人達は物凄い事を始めたのです。

約束事を沢山作ってこれはこうだあれはああだ、こう言うのだということを一切切り捨てました。数字の1の後に幾ら0が付いている紙幣であろうとヤギに与えればウメェーーです。言葉の指示と内容が別々になる、またそういった言葉の説明や、付け加えた規則そういった構成に成っている言葉の体系を一切放棄したのです。

その代わりアという時はアの心が現れるからアと言い、エと言う時はエの心持ちがあるからエという前代未聞の言葉の体系をつくりました。それが大和の言葉であり、その続きである日本語であり、言葉の不思議を感じ心が言葉に成っている事を確認できる大和言葉です。

ものを示すのでなく、心を示すのです。今更こんな事をいわれてもピントきませんが、大和言葉を受け継いだ日本人はもともと次元空間が違う言語空間に住んで、社会、関係、生産を営んでいる人たちなのです。これは国民という事ではなく、大和の日本語を使用している人という意味です。

母音の違いによる腹の緊張の違いがあり、発音と関連しているのが分かりました。しかしそれぞれ生理的物理的な部位が違いますから、それぞれが独自に動き、問題として提起でき、突っ込みや閃きが出てきます。

母音に対応する腹があるというのも、それらの閃きの中の一つで、いくらでも別の突っ込みができるでしょう。

さて母音と心です。母音各段での腹の緊張は子音に関わりなく同じであることが分かりました。母音は鳴りやまず永続することは、腹の緊張にも当てはまり、子音が一回ごとに腹を替えてくのに対して、母音のときの腹は永続します。

息苦しくなって母音の発声が止まっても、その母音の腹は変わらず存続していきます。再び同じ母音を発音していくのは簡単ですが、他の母音は載ってきません。ここには腹の母音の半母音側があると見ることができるでしょう。発音をしなくても母音の腹を作っておけば、発音する主体側の音声は容易にこの腹の半母音と結ばれることができます。

この腹の緊張の半母音世界はどこにあるかというと、腹に出来ますが、それは永続しているとは言えません。腹の緊張はしょっちゅう変わり変化しています。いつまでも続くとか永続しているとか言えるにはそれなりの条件がいります。

この腹の緊張が作る半母音世界があるといい、永続しているといいますが、文字通りに永続ということはもちろんありません。人がいなくなり自分がなくなるのに永続などと言えるわけがありません。それでも半母音(母音)世界は常にあるという、この不思議を止揚しないとなりません。

これは神という言葉にも言えることですが、まだおおっぴらに言える段階でないので、そんなこともあるという程度のものにしておきます。まず、半母音世界が何処にどのように永続した形であるかを尋ねてみます。

相手側半母音世界は実在主体側(母音世界)の働きと働きかけがあると同時に産まれ、それによって出来た現象の中に隠されます。そこでひとたび現象がしまえば、その主体が消滅しても現象と現象の中に隠れた形で永続するということになります。

アを発声してアという発音現象を創造します。アを発して適当なところで止めてみると止めたところに、アの腹の緊張がアの発音現象がなくても存続していきます。そこから、発音無くしてアの腹の緊張だけを作ることができてきます。ちょっと難しいですが、というのもどうしてもアの口の格好をしないと最初はうまくいかないのですが、それでも、発音しないでアの腹の形だけができるようになるころには、アの腹の形を借りていると感じるようになります。

つまり発音されるア以前に永続してきたアの腹を見付けた感じです。

そこで声帯からの発声が加わりアが発音されると、そのアも昔からあるアの音が蘇った感じをもちます。永続していたアを今掘り起こした感じです。

そういった感じをもとにアを意識して、主体能動側のアと区別するためその意識にアという半母音(母音)をあて、客体受動側のアの意識の自覚体に「ワ・ぅ(u)+ア」という半母音があると名づけると、そこにたちまち、アの半母音世界である「ワ」が永続して出現してきます。

例えば自分で書いたもの作ったもの発音したものに関しても、ひとたび現象したものとして扱われると永続性が感じられるようなものです。今此処という時間を生きているにもかかわらず、自分が現象させたものは、永遠の過去から取り寄せたようにさえ感じ、また、永遠に放出したもののように思えます。

ここにおもしろいことに、借り物の半母音世界から出てきたにもかかわらず、自分で隠したものを自分で探し出したような錯覚が生じています。静かに収まっていた半母音世界を起こしたのが主体である自分だからです。

腹の緊張次元で言葉の発音以前にこれらのことも起きています。

注意してください、能動主体側の働き以前には半母音世界はありません。主体側の働きと共に受動側の世界も起きてきます。そこに半母音側の世界が出現してきます。そして半母音世界と名付けられるや否やそこに永続性が成り立ちます。

そこに名付けが完了するや否や永遠が成立するのです。

人間の精神が実在する以前には世界も宇宙も存在していないのです。ただしその存在を人間とは関係のない絶対客観世界があるとするならばそのようなものとしてあります。人間と関係ない相手対象ですから、人があるとか無いとか言うことも無い何でもないものです。ということも無い相手対象とならないものです。

何故そのような自己撞着する矛盾した事を平気で言えるかといえば、昔々の大昔に誰かが人の外にあるウチュウがあると自覚してそれを宇宙とか世界とか名付けてしまったからです。そしてそれ以来宇宙は永遠に存在するものとなったのです。

ということで、もう気付いていることと思われますが、神というのも同じことです。 宇宙を造った神などというものはいなかったし、古事記の神もヒフミの神も世界の思惟、宗教の神も元々はいませんでした。ある時ある人がカミの属性を自分に自覚してそれに神という名を与えたときに、そのような意識の自覚体に神と名付けられたために、腹母音(半母音)と同様なことが起こり永遠化したのです。

その永続の根拠が自分の腹にあり、自分の腹の形に永遠を確証していますから、それに続く人たちも同様に自証でき、ここに自他との自証他証の一致を見いだし物神化していったものです。

動物や幼児にも権威威信恐怖畏敬の念があり、感情感覚的に誰でも経験して自証できているようですが、それは生理的な感情次元での保身や自己防御の運動に至るもので自他を巻き込んで和・輪を造る他証を創造していません。

つまりそこにカミが隠れて(収められて)いるということを主体的な活動で明かしたのではないということです。他の人と輪・和を結んで他証を完成していることにならず、共感同交された言葉を共有していません。

ですので、大和の神道を自然崇拝だとかアニミズムとか人や物や諸力の神格化にしてしまうのは後世に始まった解釈内のことですので、古事記の神々の内容とはなりません。

とうとう神の起源を喋ってしまいました。

そして物質世界と同様にひとたび事が成立してしまえば、今度は物質側の属性が顔を出し、大きな顔でのさばり出します。神の、半母音の、宇宙の世界の成立後の属性はその物質化の時代毎に変化しますから、それぞれに応じた規定をうけることになり、また他それについての論証反証等の考察が行われていきます。

しかし、本当のことを言えば、神について語るのは、小さな声でですが、後の祭りなのです。

13-10-3。腹母音。腹母音の永続。永遠の神。

前回に神の起源を喋ってしまい、そうすると宇宙創造の神さんでなくなるので、今回はやはり永遠の神をテーマにせざるを得ません。永遠の生命とも、永遠に君を愛すとも、永遠の若さをとも、人はそれぞれ勝手なことを言うようです。永遠の類語もまた多く、人が永遠を喋ると自分なりの条件限定を棚上げして、永遠の方だけに目が向くようです。

概念で考えると永遠永劫久遠等々何か勇ましくかっこよく見えますが、大和の古語にすると、ひさし、ひさかたで、枕詞となって天、空、月、雲、雨、光、夜、都などにかかるとなっています。漢の言葉との性格の相違でしょうか、大和では優しい言葉になっています。枕詞はもうその語源が分からないものが多く、ひさかたのというのも久しい方、久堅のように当て漢字を用いて、天などの無限性とか、天を久しく堅いものとして現しているということです。

普通は意識を自分のものとして扱っています。自分で感じて考えて自我を形成していると思っています。ところがそんなことでは全然ないのです。自我は自分の事で自分で造ったものだというのは全くの幻想です。個性的な自我というのも存在しません。これは生物的な自分の誕生を見れば生物生理的には自分で造ったものなどないし、物心付いて言葉を操ることができるころには全ての言葉は既成のものから与えられたものでしかないので、それにのっかかった精神活動も自我が造ったものではありません。自我というのは他者というベースの上に乗っかりひっ掛かった状態から後でできたものです。

ひさかたの天(あめ)の何々というのはこの状態を指したもののように思えます。久しい方、久しく堅いではなく、霊(ひ)のサとなっている御方による私のアの目の意識、ということのように思えます。これは私という意識の由来は言葉の霊がまだ活動を開始していない静かな霊(ひ)の授かりによるという意味のようです。

音信不通のような遠いあちら側にいるいる御方が今までの静けさを破って私に寄り添ってきた、そんな状況のようです。そこで出来た状況をあちら側にとるかこちら側に取るかで、それぞれ言葉が変化していったのでしょう。

そこから派生して久しい御方が実体化されあちら側に立てられ、その御方の授けた依頼なり命令なりが各人に受けいれられることになり、そこから自我の活動が始まります。こちら側に主体自我が立てられ、あちら側に天、神が立てられました。

ひさしい御方はあちら側にいて何でも授けてくれますが、それは私である主体が主体側の意識に沿ってその現象を生むことによっておきます。信仰はそれを神の恩寵賜物としますから立場が入れ替わります。神様が何かしたのではなく、自分が感じたり成したりしているのに天上の向こう側に預けてしまっているのです。

天の向こうにいるのは自分なのに、まさか自分がいるとは思えないので拝んでしまって安心しているのです。天とか神とかがあっち側にあって久遠となるには、天も神もを抽象化され昇華されて単純になり具体性、個性を削ぎ落とされていかないとなりません。具体的であれば比較によって概念が入り込み過去の履歴のあら探しが行われてしまいます。

そこであちら側の最高者は名前だけになり、それも象徴性を帯びた抽象的な名だけになっていきます。あるいは神の名をみだりに唱えるなということで、神を讃える所作の名称が神変わりになっていきます。

そこで今度はあちら側の抽象度の高いもの、創造者、神などが、個別的な人間に降りてこなくてならないことになります。またそこでは全知全能の全体性を付与されていますから、人間側に実在する根拠を尋ねることになり同交共感が起こらねばなりません。

ところが残念ながら私たち一般人が書くこと喋ることはここまでしかいきません。ここから先はあちら側の世界を把握することが出発点となります。私のいるここが宇宙世界の中心であることは割合理解されやすいものです。過去現在未来の御中主とは自分のことで、それをあちら側に投影すると天、神、創造主になることまでは掴めます。そしてあちら側に御中主が立ちます。

ここにいる私たちが御中主なのにあちら側にいる御中主に取って代わられて、拝み命を受けるような関係になってしまう。それなりにこちら側に原因があるからですが、こちら側の世界に左右されずに一致してしまう受け取り方があります。

家庭の次元でも、社会の次元でも、宗教神の次元でも、自然の中においても起きます。その世界では当初、御中主がどちらにいるか分かりません。

という分からないところで今回は止めておきます。

ここからが神道の出発点で、今までは単なる整理整頓です。

13-10-4。腹母音。腹母音の永続。永遠の神。ひふみの霊人。

神の永遠は私たちの心の何に、何処に対応しているのでしょうか。私たちの心が神の永遠性を感知して初めてそれが了解できます。しかし人の心は何処から見ても有限であるように見えます。一体どこに無限を了解することのできる心があるのでしょうか。私たちに死なない生命がなければ、神の無限も了解できないはずです。それなのに神の無限を了解して自らをも死なない生命の持ち主という人がいます。

その人たちは誰でもが永遠の生命を持つといいます。 とはいっても理解は様々で死んで産まれて死んでまた産まれるというのや、来世で永遠に生きるとか、人類としては永遠とか、永遠の命の希望のことだとか、キリストにある永遠の命に繋がるとか、信じればとか、霊は永遠性を持つからとかで、直接にか間接にかよく分からないし、条件がついたり付かなかったりで迷うところなどもあります。

生きているうちには現象として永遠の命を体験することはできませんが、そのような主張は多くあります。普通に考えても自然の状態には永遠はないのですから、それさえもあると主張するには余程の体験があってのことでしょう。

一方生きているのは有限ですが死の方から見れば死んでしまえば、簡単に永遠が続くように見えます。死んでしまっているから永遠という感じも得られないでしょうが、生きている間に永遠の死が訪れとる感じる人は多いでしょう。

このようにどっちに付いていいか分からないのが普通ですが、死とか生命とかを実体としてここにあるものとしていくと、捕らえ所が無くなるようです。そこで、死と生とを相手にするのではなく、死と成るもの、生と成るものを相手にしたらどういうことになるでしょうか。

私は生きていますが、私が生きていることを実体として捕らえるのではなく、私を生かしているものを捕らえ、そのものが成り行く姿が私であるという風に捕らえるのです。私を学校に通う小学生にしたもの、こんな考えを書き散らしている私にしたもの、という風に成り行く姿を得ようとするのです。

ここまではヒフミ(日文)神示でいう 「存在は、必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。創造されたものならば、永遠性はあ り得ない。二日んの巻。第一帖」に相当するでしょう。

問題はその後の「宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつあ る。」「神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあ る」とあるところを、神の行為=自分の行為とするところにあるでしょう。

フヒミ神示は神の立場から人間へ与えられたもので、「神の歓喜をそのまま受け入れる霊人」という書き方になっています。霊人をいろいろの段階に分けていますが、同じ人(わたしならわたし、あなたならあなた)の精神次元の相違のことで、霊界のあっち側いる様々な霊のことを示したものではありません。

ついでにまとめると、次のようになります。

日の霊人が神の歓喜を内的にうけ入れる霊人、日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取る。

月の霊人が神の歓喜を外的にうけ入れる霊人、月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。

両霊人は「互に交通し得ないのであ る。この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。」

人間には誰も分からないような書き方で、何故書き知らすのか私には疑問ですが、少数の人間においても人間の立場から、上記と全く同じことを了解行為している人がいます。その人の場合には次のように表現されています。

「「私」という概念、「私」という自我意識を離れますと‘ア・エ・イ’という次元に意識で左右することができない性能にも恵まれている、支えられているということが意識できます。

そうしますと「私」という‘ウ’と‘オ’という観念から自分自身の全働き、全生命を観ていた「私」というものの束縛からパァーと消えます。すると‘ア・エ・イ’という性能もハッキリ自分に与えられている。直接意識は出来ないけれど完全に与えられているということに気が付きます。

これに気が付いた時には自分と言うものの性能が即人類、人という生物の類と同じになる。ちょっとややこしいのでお分かりになりますかな。自分と決め込んでいるのは、こうやって触る肉体、理屈を言って「こうこうだから、憎らしい」とか言っている自分。

自我意識とは‘ウ’と‘オ’であるということを論点においた考え方。この考え方をフッと脇に置きますと、無くなってしまうと死んでしまいますので、無くなることはありませんが脇に置きますと、‘ア・エ・イ’も事実であることが分かってくる。(引用ここまで)」

こちらの方もそう簡単ではないと発言者自身が言っているくらいです。

要するにここは意識の大回転が必要で知識を増やそうと概念を操ろうとそういった次元では解決できない場面です。

今回はここまで。

13-10-5。腹母音。腹母音の永続。永遠。

朝起きて顔を洗い歯を磨き、鏡を見て笑いありがとうと言い、腕立て伏せして屈伸運動して、と日常を始めますが、別にそうでなければならないことではないのです。ワァーと叫んで走り出しても、歯磨き前に経を読んでもいいわけです。

ここで何をしてもよいし何を感じても考えてもいいことで、要するにそこには個々の様態に縛られない、「日の霊人が神の歓喜を内的にうけ入れる霊人」である「‘ア・エ・イ’という次元」にいる自分がいることに気づきます。

そこでは「私はこうする」という束縛のない、全方向に向かうことが自由な生命を与えられていることに気付きづきます。

朝起きて裸で駆け出したら病院行きだという前に、各自よく反省してみると、何度かそれらしい兆候やしてみたい思いなどがあったことが、誰にでも思い出せると思います。さらに思い出していくと、何らかしらのとてつもない自由な気分がえられたような微かな記憶が浮かんできます。

別の言葉で言えば目茶苦茶をやろうとする以前に、ふっと得られる広大無辺な自由意志があります。小説映画などでは犯罪者が犯罪を行う直前に得られる宇宙から開放された自由感を悪魔(神)にそそのかされたという形にしたり、差し込む光と共に神の声が聞こえたりとしています。

へんてこな例をあげましたが各自省みてください。

ここで意識の大回転が無いと次に進めないようです。

前回の霊人とか、‘ア・エ・イ’とか、意識を記憶概念、経験知識で捕らえて喋るからこうにしかならないのです。しかし、概念知識を放棄しては自分を現せず交流もままに成りませんから、知識の束縛に従わざるを得ないのです。そこで神と交流したとか見神があったとか空を悟ったとか坊主たちが私たちに語る語り方になるというわけです。

誰でもが同じ次元に立つのは出来ず、人は成長して成るようになっていますからそれぞれの道を進まざるを得ません。その道案内が古事記の神代の巻ですが、やはりその人なりにしか読めませんし、その人の理解して了解していることがその人の今となっているだけです。

そこで私の場合は今までのらくらと書いてきたような状態ということです。

結果として現された文章がこうして残っていくわけですが、何にしろ、文章にしろ、そのものとしては存在していないというか、結果現象の物理客体現象存在しか残っていません。

「何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。(ヒフミ神示)」

産まれた結果現象を産まれてしまった存在から見ていくと、産まれる以前はその存在はありませんから、現在の現象は存在していないことになります。一方、現象してしまった存在の方からでなく成りつつ生まれつつある方面から見ますと、常に弥栄えつつ生まれに生まれゆくと見られます。

つまり存在と内容を同一視するか、しないかで全然別の方向への答えが出てしまいます。人はひとたび考えたり書いたりして結果現象を創造してしまうと、その存在と内容を同一視します。つまり、考え書いたことは、その内容と同一だとします。ところが残念なことはそれはその人の世界にとってだけのことです。その人の今までの成果が上がったというだけのことです。

決して考え書かれたことの内容が示されたことではないのは、いくらでも追加や賛否が付け加えられることから、不十分な内容であることが判ります。この不十分さは過去現在未来に渡る歴史的なもので、何処に実体があるのか判明しないけれどいつでも何処でも誰でもが口を出してくるものです。

時処位的に誰でも介入参加できるがその実体が無いという不思議なものです。もちろん実体がなければ介入も出来ませんからそこにはあるものがあることになりますが、よく見るとそこにあるものは与えられた名前、流通する「体は名を現す」という言葉です。人はこの言葉を得てそれを実相としたり、実体としたり、内容としたりしているわけです。

例えば人とは神とは何かという場合、過去現在未来に渡ってそれぞれの人がそれぞれに実体とはこうがだと言うことでしょうし、そう言ってきました。ところが誰もが未完成で不十分であることを白状しているだけです。厳としてあるのは言葉だけです。誰もが成功しないのに言葉だけはあり続けます。

13-11-1。腹母音。こころの神代(かみよ)。禁断の木の実。

聖書には禁断の果実の実とあり、古事記には黄泉の食事をしたとあります。両者とも智慧を得るということになっています。実は、記憶を得たということです。この記憶が全ての混乱の元、永遠の混乱の元となっていきます。

『主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。』(旧約聖書)

アダムもイブも善悪を知る木の実を食べる前には既に、神の言葉も蛇の言葉も聞いて知る知恵はありました。

また「きっと死ぬ」と言われて食べましたが死にませんでした。

ここでは肉体の死を指したものではなく、死んだ知恵が生きるという逆説を示したものです。つまり過去の記憶が生きた智慧に取って変わり、生きた智慧が死んで死んだ記憶に支配されるということです。

ひとたび実在を記憶してしまいますと、その実在の記憶を実在の内容とすることで、事実を記憶内容に置き換えてしまいます。自分の知っていること分かっていること等が自分の中にあってそれを固持していますから、そのことによって相手対象や向こう側の事実とかいうものを量り、それに取って替えようとするものです。

ですので喋ったことの内容や書かれたことの内容はかじった木の実でしかないけれど、それが自分の中にあるもので、またそれしか考えていませんから、その口をついて出てくるものが、相手対象であり事実であるとするのです。

事実というのは今此処の動きの上に載ったもので、過去現在未来の全体が同時に一体となって進行していきますから、実体化できるものではありません。

「何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。(ヒフミ神示)」、といわれる所以です。

智慧の木の実はそこにあるものとして立てられますから、それを当然のように実体化し実在と言い張り、記憶が保証していきます。観念概念知識記憶の次元では、無いものであっても平気で在ると言い張ることができます。

何故いつわることができるのでしょうか。あるいは喋ることはいつでもいつわりとなることができるのでしょうか。

「いつわり(偽り)」は五つを割ることで、もともと五層の全体であるもの(心)を、分解してしまいその一つを記憶に残して在るものとして立て、それでもって全体を現すものとして結果を装うからです。

実際の現れは、自覚があったり、考えに考えたり、流れのままに浮かんだものであったりいろいろですが、出てきた表現は多かれ少なかれその人の記憶に裏付けられ立てられていますから、その人にとってだけは充分に満たされているというだけのものとなります。

ですのでその人は自分には嘘偽りを着くことはしていないのです、というより、自分なりの真実を記憶保持しています。それは一部にしかすぎませんが、その記憶の自分なりの扱い方によって大きくも小さくもなっていきます。

13-11-2。腹母音。こころの神代(かみよ)。我はアルファにしてオメガなり。

聖書は創世記で生命の木と善悪を知る木で始まり、最後の黙示録ではやはり命の木で終わっています。

また、「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」といわれていますが、「ワタシ」ガ誰なのか、何なのかはまだはっきりしていないようです。

他にも、「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」

「また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、乾く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる。』」ともいわれている。

このアルファとオメガの切り取り方の違いで多くの答えが出てきます。せっかくの回答例を気にせず脇に置いておいて、古事記と関連づけてみると、「わたしはアルパであり、オメガである」は、

「わたし(天の御中主の神)はアルパ(高御産巣日の神)であり、オメガ(神産巣日の神)である」となります。

説明なしでこんなことをいわれても思いつきのまやかしのだと受け取られてしまいそうです。ところが私の方にはさらに悪いことには、説明しなくても通じているはずだと言う想いが強くなってきています。ですので上記の造化三神はバリエーションの一つで、別の言い方もできますよと、小声で付け加えておきます。

これまでの説明では、「わたしはアルパであり、オメガである」を時間軸で取ったり、内容で取ったり、存在で取ったりしながら、目的から実践へと取ったり、宗教色や哲学色やらを加えて、現象と内容、存在と実体を自由に取り違えているのに、神に近づいていると称してきました。

(( しかし、何も知りもしない分野にたいして、数千年の心血を注いだ研究とその心持ちを無視したように、よくも平気でこんなことが言えるものかと、自分の頭の内容を常に疑っています。))

(( それにしても、当然予想される反対意見や真の解釈とか、伝統的な考え方とかが出てくるでしょう。善悪を知る木の実を食べているから。でもそれらに対して反論の準備も用意もしていません。何故なら木の実の味を知ってはいるけれど、それしか知らないからです。))

((例え複数の木の実を味わっているとしても、せいぜいそれだけのものです。もともとの命の木と共に在る、善悪を知る木の生える土壌、環境、遺伝性質などを無視して直接舌に感じる味を指示していくからです。))

「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。」は、「オメガ、最後の者」、「終わりである」で終わっています。

実はこれではまるで駄目なのです。私は終わりで、その後が続きません。つまり、終わりです。、

前例に続いて聖書を前にして、つまり神を前にして駄目などと言って、大変申し訳ないと思います。それなりの確信が私の方にあれば少しは助かるのですが、かいもくまるきり雲を掴むようなもので分かっているところがありません。ただ単に神のおおみごころと慈悲にすがって甘えさせてもらっています。

引用です。

『以上、日本皇室と言霊原理との関係についてお話して参りましたが、この神器の同床共殿の廃止による変化は皇朝ばかりでなく、日本の国民にとっても大きな変化をもたらすこととなりました。それは日本の国民が、自らの国柄の真実と同時に、自らが日頃使っている日本語の起源についても、またその日本語が一度それを聞く時、物事の真実はその言葉の中に明らかに示されていて、余す所がないのだ、という重要な事実についても忘却してしまったことであります。

十七の空相音と三十二の実相音によって造られた、かけがえのない真実を示す日本語と、それを使用する日本人の言語意識との間のギャップが大きく広がったことであります。私達日本人が日常使用する言語の中から「光」が消えてしまい、真実の光が言語の奥に潜在化してしまったことであります。真実と言語とのギャップは今日まで続いています。日本の国民の全体がこのギャップの総清算を迫られている時代が近づいていると申すことが出来ましょうか。』

「わたしはアルパであり、オメガである。」のような、「わたし」を主語にした文章は全て「総決算を迫られている」という理解があり、これをひじょうに強く感じています。

その後のことはまだ何もありません。挑戦です。

13-11-3。腹母音。こころの神代(かみよ)。主語(わたしという主体)の位置。

主語とは何かに関して『ウィキペディア(Wikipedia)』には、

「専門的には日本語の主語について統一した見解は今のところなく、日本語学・言語学においては日本語の主語をめぐる議論が今も続いている」ということらしい。とりあえず切り口を定義しておいて、それにあったものを主語としている。

日本武道の合気道では、攻撃する主体側が倒れてしまうので、文の主語は攻撃者だが実体はひっくり返った者を言うことになりそうだ。またソクラテスに質問すると質問したものが主語の立場にいたはずなのに、いつのまにか受け身の側にいたりする。食物連鎖とか連結階段や網状のものなど、動いているものの中にあるものも、主語の取り方によっては一定せずくるりと交替するようなこともある。

べつに文の構造要素の話を他の事ですり替えているわけではないのですが、ここではわたしという主体の位置についてみてみる事にします。

手っとり早く、わたしはいるか、といえばわたしなどいません。ですので、わたしに類した、主体だとか、人格だとか、自我だとか、自覚だとか、能動側だとかも、ありません。こちら側が無ければ当然あちら側もありません。そこから派生して出てくる、私の考えだとか見解主張だとかもありません。

全くメチャメチャなことを言い始めたようですが、元に戻ってみましょう。

各自の生命の始め、自分の生物としての成り立ちをみてみてもすぐ分かる通り、自分という物質生物生命体は自分で造ったものではありません。父母と養分です。その物質の仕組みの上に載って精神意識はできていますから、自分の考え観念思考記憶概念等も自分で造ったものではありません。ですので当然それを使用運用する言葉も自分で考えたものではありません。

もしかしたら自分は(あなたは)星の王子かお姫様として生まれていたかもしれず、今頃日本語など知らず英語でぺらぺら喋っていたのかも知れないが、何のご縁かブログの書き手と読み手となっています。

ここから言えることは、わたし(あなた)の始まりである宇宙世界には主語がないけれど、そこに主語を持つ精神が生まれたというです。

主語とは何かについての定義づけもしていませんが、勝手に話が進んでいくようです。まず定義を出して主語とはどのようなものか説明してもらわないと、理解かできないという方もいるかもしれません。ですがもともと主語の無い世界から生まれているのですから、それを定義づけることはできません。要するに後付けに、主語に限らず、なってしまいます。

そして後付けを主張する主体が主語となるとでも言っておきましょうか。ですので学校などで自分の主張ははっきりさせましょう等といわれていますが、元をただせば非常に怪しげな教育となるでしょう。無いものをまずあると主張させる嘘つき人間と所有欲望人間を生産していくだけのようにもみえます。

無いものから始まっているのですから、無いから始めるのが当然です。主語を使用し主張するのはずっと後のことです。

それでも人による主語の使用は、主語の使用によって世界が始まり創造されるという想いを与えています。主語の使用者は世界の中心にいると思っています。このでんぐり返しはどこからくるのでしょうか。

わたし・あなたは主語を使用しますが、私たちが寄って立つ基盤の世界、宇宙には主語がありません。この主語の無い宇宙に自我とか本人意識を打ち立てるのですから、造ったもの勝ち、囲い込んだもの勝ち、言ったもの勝ち、強い者勝ち、要するに我を通す者勝ちの世界が出てきます。

主語の無かった世界に自我が生まれるのですから、こんな不思議なことはありません。世界宇宙の創造主がいるという意見があるとしても、それだけでは自己意識の出来上がる過程は明らかではありません。自我意識は気がついたら自分のものだ、自分が造ったもの考えたものと言っているだけのもので、大本は自我意識にはありません。

わたしはここで自分で考え造ったものを書いている積もりになっています。いい気なものです。ここから相手の人格否定や感情を害することや、言い合いから戦争の準備までしていくわけです。少なくとも自分を主張し保護し相手との違いを示したいと思っていることでしょう。双方とも誰もが、物質生理的にも精神意識的にも造られた存在であるにも係わらず、自分の我の存在を主張してしまいます。

自分を見つめ本当の自分を探すといって、今ある自分を本当の自分かと突き詰めていきます。今有る自分の何かを引き出して、それが本当の自分であると、現象分析とそれにまつわる全状況と歴史を提出したとします。しかし、過去概念の記憶に何か一つの見落としが見つかり、そこから自分を見るとまるで違ってしまう。さあどうするかです。

では元々無いものの上にどのように旗を立てるかみてみましょう。

自我など元々無いといっても元々わたし(あなた)は有るわけで、有るといっても自分で選択したものではありません。それでも自我は有る自己意識は持っているという思いは強く、自我意識の組み合わせでこの世が出来ているようなものです。

ただしそこを悪い見方をすれば、この世の悪いこと、弱肉強食も殺人も戦争も自我意識が元となって起きたものでしょう。我だけが通る日には世界がひっちゃかめっちゃかになってしまいます。また我を良い方からみれば、自我による無制限な野放しが、自我の範囲内に収まっているとも言えます。つまり当事者というものが出来ていきますので、他者にまでは手を出さないということでもあります。

13-11-4。腹母音。こころの神代(かみよ)。主語(わたしという主体)以前の先天。

先天のわたし。

物理的にも生物的にも意識的にも精神的にも、わたしはここにいるといっても、本当のところ、わたしはわたし以前のものから成り立っているのが分かりました。一方普通にこうしている時には、わたし自分で感じ自分で思い自分で考えそして自分の行為をしていると思っています。

自分が自分以前から成り立っていることは、物理的生物的な経験世界が形を変えて、今現在のようになったと捕らえられますが、そうすると単なる変形成長、変態変異発展になってしまいます。物質的生物的にはそのように見えるところもあるでしょう。変形変移の時系列の以前の状態を先天ととるならいざ知らず、精神意識、心の内なるものも、動き成長発展ではどうなるのでしょうか。

先天とは現象と成る以前のことで、後天に対応したものです。物質世界なら原油からプラスチィックが出来たり、タンパク質を食して筋肉となったりというような経過を辿ることも出来ますが、現れる心の先天はどのように導くのでしょうか。

環境とか影響、勉強の道筋から記憶をたどっていくこともできるでしょうが、それらの表現であり現れ現象と成っている言葉の先天はどこからきているでしょうか。教えられる言葉があって、それが新たな誰かの頭脳に住み着いたでは、そこに有ったものが住処を移したようなもので、そこに有るものの先天を説明したものとはなりません。

現象の成り立ちを以前の現象で説明するのでは何時までたっても、現象の変化を追うだけのことで、先天にはならいが、それでは、それら以外の先天はどこにどのようにあるのかといわれると、答えに窮するのも事実です。なんとも情け無い話です。心の問題を扱っているのですから、現象の先天というのは、物質的な潜在のことで、精神意識の先天とはならないようです。

そこで、心の潜在ではなく、心の先天を見いだしに行くことになります。ところが心の先天は現象以前の意識を探すことになりますが、現象になる以前の意識などとは意識でないもののことですから、なんともはや矛盾した言いかたになります。意識に現れていないのが先天になりますから、そのようなものは表現できません。

それにもかかわらず古事記では何故それが表現できてしまっているのでしょう。例えばそれが出来ている人には名前まで付いています。

『天津日嗣天皇(アマツ・ヒツギ・スメラミコト)。

‘天津アマツ’、天の道理、先天の道理と申し上げてもいいですね、人間の持っている精神の先天部分の道理を

‘日嗣ヒツギ’、受け継いだ

天皇(スメラミコト)の‘スメラ’はスメル(統べる)統一する、‘ミコト’言葉。』(引用)

これは心の内側に有る問題として確かめなければ口に出せないのですが、既にそれを全て明らかにしてしまった方がいて、上記の引用のように平然と書き残してくれているわけです。しかし、読むだけのこちら側のわれわれ連中はまず文章を読んで記憶と混ぜあわして、解釈なり理解なりをしようとしています。

先天は現象を生み出していきますから、説明されるべき先天を現象の言葉では語れないことになり、現象の先天ではなく、潜在を語った積もりにしかなれません。そこでどうするかといえば、個々の現象を離れざるを得ません。そこから現象に成る先天を探すことになります。

そこで出て来るのは経験感情、実際に得られた感情を語ることになるでしょう。しかし、感情はその人にははっきりしていて、自由奔放な了解をもたらしますが、他者を意識した交流流通がありません。

あるいは、言いたいことがあるけれど言葉にならない、こんなことあんなことを思ってはいるらしいが自分でも現せられない、実際に頭の中がグルグル廻っていて何かが出てきそうで出てこない、そんな状態があります。

それらの時にいる状態から何らかの言葉が出てきて、自分を語り、思っていること感じていることを喋ることになりますが、そこで見いだしたことは、語ったことの潜在、前段、過去、前世等ではなく、先天から押し出されたものです。過去とか潜在とかは先天が出てきた時の一つのありかた、過去の記憶との結びつき方の現象となっものとなります。

先天を時系列と結んだり、あるいは先天が時系列と結ばれたり、空間の居場所となったり、異なった次元にそれぞれ立ったりしていき、各人の意識考えなるものが表明されます。そうしてそれらは別々の欲望や選択の違いなどになり、別々の知識の解釈になっていきます。

この何だかわけの分からない段階を通って、知らぬ間に自分の思い考えと称するものがでてきます。頭に浮かび出てきた時点では既に自分の色が塗られているので、そこにあるものは自分のものと主張していきます。しかしその内実はわけの分からないもので、感情的には全体感を得ているものでしょう。

出てきた時には自分のものとなっていますが、先天の時には海のものとも山のものとも分からず状態ですから、出てきた時に自分でも、おやっとしたり、ハッとしたり、なるほどと思ったりすることもあります。

つまり出てきたものは自分のものと多かれ少なかれ威張って主張しますが、その大本はわけの分からないものです。これを自我とか人格とは自己責任とかに置き換えますと、もともとそんなものは無いということになります。知らんてる間に出てきてしまったものに後から自我とか自己責任とかの名前を付けて、そういうものがあるとしたのです。

13-12-1。腹母音。こころの神代(かみよ)。先天と潜在。

先天と後天、潜在と顕在、本質と現象、等々、対になっている言葉をまとめると、隠れと現れになったり、天津と国津であったり、あるいは、天と地、心と精神だったり、神と人だったりになって、ではそれらはどうなると考え出すともう見当がつかなくなっていきます。

隠れんぼごっこや手品なら、どこかにある物体を探したり場所を移動したりするだけですが、心の現れとなる言葉は心という物体が現れることではありません。潜在的にある心という物体ではなく、心という精神が物体となって表象される関係です。

現代物理学を利用して物質の波動性と心の波動性を結びつけるようですが、古代大和にはそんな知識はありません。それでも音魂がありますから、音霊の波動をを感じていたかもしれません。しかしそうなると音霊の一方的な方向しか出てないので、言葉の創造にはなり難い気がします。

心という精神が物質でしか表現できない、心を物象化する構造を明かしたのが古事記の冒頭百神ですが、単に心が現れる構造原理としてではなく、心の現れ方がそのまま理想的な精神が現れてくるような、整理分析することがそのまま運用法となっているのがミソというか凄いところです。

数千年の間には、思想論とか認識論とか実在論とか心と精神の関係論とか、神とは何か論とか宗教論とか創話機能論とかがでてきましたが、古事記の神代記においてしか人間の心が原理としてと同時に活用運用論として明かされたことはありません。

世界の精神宗教哲学思想をかじってもいないのに、こんなことを言ってしまっては誇大妄想にとりつかれ、頭を乗っ取られた神がかりのようなものです。実際に誰かを改心させたことも無く導いたこともありませんが、どのような神の話しも、教義も、哲学も、精神思想も古事記の右に出るものは無いとはっきりしていて、そこにしか現実は無いとというのが実際の話です。

もちろん一生懸命勉強して考えても、このブログを見れば分かる通りうまくいってはいません。信仰のように思い込んだところで、活用運用することとは別ですが、宗教や他の思想のように思い込んで気に入ればそこにはまり込んでしまうしまうことが無いという特徴があります。何しろ自分の考えを放棄するところから始めるのですから、他の人には頼りなく相手にならず、自分の主張を主義としないのですから、相手にも理解されません。

宗教のもろもろの教祖たちは皆自分の意見を吐かず、言わされる立場書かされる立場でした。これらは半分妄想の中でや、行ずるという形の中で強制を受け取り得られたものです。この経験は強烈ですから、本当に神の声を聴くように行われたのでしょう。

しかしこれでは神や創造主による犬や動物の調教と同じです。内容は高貴な精神次元の話ですが、全て一方通行で得られたものです。神が与えるのですから文句を言うこともありませんし、それが望みでしたので本望でしょうけれど、何故ここに自覚的に追求する道が無いのでしょうか。

これを追求し、ついに人によってその道筋を付けたのが古代のスメラミコトたちでした。神と対話して神の言葉を記していると主張する教祖たちも尻尾を巻くくらいのものです。そこでは、今から見れば完全などんでん返しですが、人の立場から見れば当然の努力の成果で、今の立場にいるわれわれの方がひっくり返っているのです。

つまりこれはこういうことになります。当然な心の運用において現在のひっくり返った世界を作り出したということです。私たちは古代の正常な世界において、ひっくり返るように造られそれを数千年維持するようにされているということです。

モーゼもキリストも釈迦も孔子も古代のスメラミコトの命を受けた思想を広めていることになります。こんなことを言うと、これも神がかり的な盲信から喋っていると受け取られるものです。証明も出来ないくせにいい加減な事をいうなというとこでしょうが、既に証明はされていて、皆さんが知らないだけです。そしていつか知ったとしても、時代の波がまだ寄せ来ないなら、信じることも出来ないものです。

こういった類の話はあちこちに出回り、増えてきています。統体で覗けばそういった時代の波を受けているからです。どの話が本物でどれが嘘だというのではありません。自然淘汰されて本物が残るというのでもありません。これからの世界はそんな嘘とか本当とかを探ったり自然淘汰を待ったりするような、自覚の無い行き方ではなくなります。だからといってもちろん全ての人が自覚するというのでもありません。

どういうことかといえば、心を知りたい次元のことならば、今までなら科学思想の発展、こころのミクロマクロの世界の分析によってより多くの観念概念知識の収集集積によって、知りたいという思いを満足させてきました。それは現代も続いていて、新技術新発見新理論による新たな展開を喜ぶ心持ちを植えつけられています。

これは科学の進歩の向かう方向ですからさらに進化していくものですが、これまで進化進歩といわれるものの延長上に心(その他何でも)を置いてきた成果には、その時代の成果教義が反映していくだけで、何時まで経っても本質真実は見いだせないと気付くようなものです。

幸せを求めるのに金を積めば得られると教えられ金のためには手段を選ばなくて良い風潮が蔓延して来ましたが、ではその金とはどういうものかといえば、新聞広告と同じゼロの数の違う種々の印刷物でしかないと気付くようなものです。

今後はみんなの生きる世界を思う場合、これらのもの、知識とか金とか、をどうしましょうかというだけの時代になっています。科学思想が幾ら発達しても真実には到達できず、使い道の無い富を蓄えた世界の大富豪たちは、自分達にもっと税金を掛けるように自ら主張してくるようになりました。

それに答えるように物象世界の富や自然現象や大災害を精神世界に翻訳しようと世界中が、宗教指導者や道徳家や政治家達が駆け回っています。しかし誰もどこも世界のみんなを導くことに成功はしません。その一方個人では自己意思の発奮が大きく問題となる時代になりますが、世界のみんなを相手にすることには身が縮こまってしまいます。

誰もその精神原理を持っていないからです。自己主張による意見なら身の安全を賭ける位のところまでなら、多くの人が犠牲を省みずに試みています。また陰に陽に自由とか人権とか生命の尊重とかの抽象的な概念を掲げてその価値を現そうとしています。

それらの行為の内奥にはこの二千年間の宗教とそれらが主張してきた神々への不信があります。宗教組織と無力な神を宛にしませんから政治政府行政に目が向いていってしまいます。そこでは解決策として力とか反権力への意志とかになっていきます。みんなが生きる世界のためにまたもや抽象概念を正義とした闘争を持ち込んでいきます。

これらは起きるべくして起きているし、弾圧する側も反抗する側もみんなが生きる世界を持ち来らす原理を持っていないけれど、それを探し求めようとしている現れとなっているものです。世界中でこの欲求は急速に高まっています。

この高まりを感じ世界への目の向け方を変えようというのが、次々に出てきています。しかしどこにも指導原理は無く、価値概念の実現を待ち望みか、適当な指導要項や神の言葉とかで少数の指導者集団を形成しようとするしかないようです。みんなが生きる世界を抱き抱えるのに耐えられるだけの原理がないので、どの考え方もどこか臆病風を吹かせています。

ところが素晴らしく恐ろしいことには、このような人間の心の方向を造っておいた方がいたというのが、大和のスメラミコト達の残した古事記と心道(神道)です。

ですが、その説明には大和の日本語でしか現せないというのが問題であり、未だ現し方を知ったスメラミコトが出現していないという問題なのです。