こころの原論。天照大御神の誕生。6

026 こころの原論。天照大御神の誕生。かた、たか。続き。天の岩戸開き。 ◎

・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・

・布刀玉の命(ふとたまのみこと)を召して、

・天の香山(かぐやま)の真男鹿(まおしか)(書紀には眞名鹿(まなか)ともある。)の肩を全抜(うつぬ)きに抜きて、

・天の香山の天のははか(はわか)をとりて、

・占合(うらえ)まかなわしめて、

・天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を

・根こじにこじて、

占合は裏合い、裏は形に見えないこころで、こころを表に出して合わし示すこと、主客の一致ですが、未だに「かた、肩」がしっくりとこない。秘密兵器を取り出してうまく行けばよし、駄目ならそのままにして次に進むことにします。その秘密兵器とは易占いです。

問う。肩とは何であるか。

得卦。乾為天初爻。

解。潜龍なり、用うるなかれ。

二爻になると見龍田に在り、となって、田(言霊五十音図)に現れてきます。

初爻では潜在しているままで、用いられるだけの現象の体裁を整えていません。

易の元となる思想はスメラミコトのフトマニ原理からもっぱら八父韻を抜き出して操作するように考案されたものですので、母音世界に対する配慮がありません。両者の構造図は全く同じですが、易は1-2-4-8-の8の部分を部分拡大したものです。1-2-4-の部分は別に儒教で五行、インド思想で五大として伝わりました。これが易はどのようにでも解釈できる理由となっていますが、父韻同士のやりとりとしてフトマニ原理を解していきますので、その限りではかなり有効なものです。

そこで有効というからには乾為天初爻を聴こうではないかとなります。しかしそれにしても乾為天など滅多にでないし、そのまた初爻というのですから驚きです。六十四卦の始めであり、そのまた始めで、現象以前のことであることをいいあてています。

こうなるとどうしても「肩」は父韻に関するものであるととらざるをえません。と普通の易者なら自分でもびっくりして見せて大当たりを宣伝することになるのですが、何故「カ、タ」であるのかを卦より解釈せよとなると手が出ません。前にも言ったように母音世界が一切欠如しているためです。古事記では次の文に「ははか」とあって、はは、母、母音行を選択してとあって、心の裏を合わせるとなっています。

前もってこの構造を頂戴しているのですが、卦を見て「肩」を言うのは至難の技です。易の大家なら出来るかというとやはりできません。フトマニ言霊に関する理解がないからで、通常なら占いの前にアウトラインを仕入れておくのですが、今回の問題では易の成立はフトマニのコピーだということを受け入れられないからです。結局自分の知っていることを確認しているだけとなる格好です。

でもまあ、本線はこれで良いというのが分かりました。もう少し行ってみましょう。六十四卦の始めのそのまた始めの爻を「カ、タ」に当てはめることにします。「カ」と「タ」は別々の言霊ですから始めを語る場合にはそのどちらかを語ることになり、二語一緒に発音できないようなものです。

「カ、タ」の言霊につては025前回に引用してあります。父韻は通常伊耶那岐のイ行で示し、チイキミシリヒニとなっています。岩戸の段の始めにあるイシコリドメのイでもあります。「カ、タ」を産むのはそれぞれ父韻「キ、チ」となりずっとキ、チを探していたのですが文脈内には見つかりませんでした。

そこで乾為天の初爻においては、潜龍を「カの潜龍」と「タの潜龍」とに配当できます。これが「肩を全部抜く」ということになります。また繰返しになりますが、言霊次元で解していくときは単音次元ですから、肩はカとタの二音になって根本的に別の、「カの潜龍」と「タの潜龍」となってでてきます。

赤ちゃん以前の潜龍が将来どうなるか、「カの潜龍」になるか「タの潜龍」になるかここで決まります。とはいっても、決まった形で出て来るのは天照が岩から出てきた時ですので、ここではより正確には、出てきた時の形に対応している形態姿態の裏側だけを見せています。次の文章に占合いとあって、占は裏で、見えない心のことです。形を取ってでてきた時にはそれに対応相当したこころ(裏)も同時に出て来るということです。

そこで今度はカ(キ)のこころの裏、タ(チ)のこころの裏となります。

始まりが「カの潜龍」のときのそのこころは、自分勝手な気づき、思いつき、疑問、欲望、関心事、テーマ等を知らず知らずのうちにこころの中心に打ち立て、それにこころが捕らわれている状態から始まります。早い話し善くも悪くも普通の始め方です。

一方「タの潜龍」のときの始まり方は、端緒の意識の始めが精神宇宙の全体を示してることが納得されています。そしてそのまま現象発現へと動きだします。

そんなことなら同じような始まりじゃないかと思われるかもしれません。「カ」の場合のパッと気付いたこと思いつきもそのまま次々に進行しているように見えます。ところが「カ」の場合には次に「タ」が来ます。そうすると「カ」の内容が一挙に「タ」の方へ引きつけられます。つまり今まで蓄積していた経験概念記憶の総体がでてきて、思いついたものは何かよぎったものは何かと自分の知っている限りの記憶を探りに掛かり、そこから答えを出そうとします。始めの「カ」に全てが掛かりきりになります。

「タ」で始まるとつぎには「カ」と続きます。「タ」という全体の中から関心のある「カ」にこころが引き寄せられていき、「タ」という全体の一部にかかわるだけとなります。

「カ」と「タ」の潜龍を天照としてまた仮に光とした場合、前者(カ→タ)では火打ち石の光から原子力の光まで知っている限りの光を掲げてその範囲内で天照とはこういうひかりだ、こんなひかりもあるぞということになり、経験知識量が競われることになります。後者(タ→カ)ではひかりの宇宙という全体が保持されていますから、その中の関心のある部分だけが引き寄せられることになります。

タ→カとして天照が出て来るには宇宙全体が用意されていなければ出来ません。それが各言葉の上に「天の、天の」とついている理由です。天が現れて地が見えるということは、言霊五十音とその整理運用法五十音が現れるということで、古事記はそれぞれの時処位での父韻母音子音が解説されているわけです。

意識の表現は自分以外のものに一度変換されて相手に伝わります。会話をする時には空気振動の濃密さと発信受容器官が必要でこれらは全く物理的生物的なものです。また自問自答正座して考えている時でも、脳内を駆けめぐる言葉によってしか自分は表現できずその言葉は共同的に使用可能な他物です。このことからも天照が出て来る時も媒介する他物の用意が必要です。それは音であったり光であったり気であったり文字であったり、脳内の電気信号化学物質イオン交換であったりするわけです。このような媒介の位置づけとしても「カ、タ」は準備されていきます。

そこでこの媒介を介在しているものが必要となります。働きとか力動因とかいわれますが、古事記では「命(みこと)」としてあらわさているものです。それを神の名とすれば、ウイヂニの神から八神の父韻を示す神と伊耶那岐・美の神になります。それらをまとめて言うと思金の神になり、又の名は八意思金で、その働きを示すのが手力男の命です。古事記では同じ神でも場面が違い、働きが違い、次元が違えば別の名がつきます。八百万神というのは、御中主の神の八百万の顔ということになります。

イシコリドメの用意はこの八百万を用意することですが、簡単にいうと「カ、タ」の二つに分けるだけです。というのも気付く主体意識は二つのやり方しか知らないからです。一つは「カ」のやり方で気付いたものを自分の体験内容に結びつけようとすること、一つは「タ」のやり方で気付いた全体がそのまま現象へと発現していくやり方です。心理学とか精神分析とかありますが、もともとはこの二タイプだけです。では八つの父韻とは何なのかというと、先天次元での展開されたものです。これが64億の頭の数だけの現象となります。

「カ」で始まるか、「タ」で始まるかは意識の持ち方の次元できまってきます。いずれにしろそれだけの用意をしておくというのがこの段になります。前にでてきた「堅石」かたしは、からすると堅い確かなものを用意するイメージになりますが、全人類の思考に対応するものですから64億の堅いものだけというわてにはいかないでしょう。剛柔、正否の全てを含みます。

64億人分の剛柔正否の意識をどうやって保管して置くのかというのかは簡単なことです。天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を一つ作ればいいだけのことです。五十音図を一つ用意しておけば後はそれから無数の組み合わせがでてきます。

●「か、た」に関して今回もうまく行かなかったようです。

◎027 こころの原論。天照大御神の誕生。天の宇受売の命。天の岩戸開き。 ◎

天の宇受売の命(アメノウズメノミコト)まで飛びます。

ここの段は視覚的に音図をみてもらうとすぐ分かります。

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言霊太祝詞五十音図

ア・タカマハラナヤサ・ワ

イ・チキミヒリニイシ・ヰ

エ・テケメヘレネエセ・ヱ

オ・トコモホロノヨソ・ヲ

ウ・ツクムフルヌユス・ウ

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・天の宇受売の命、/=言霊ウですが、ウからスの全体のこと。

・天の香山の天の日影(ひかげ)を・/書く山の霊(ヒ)欠け。=日影、霊欠け、ひかけ、で言霊ワ行が欠けていること。欲望感覚の意識には発生と結果に対する自覚が無い。

・天の宇受売の命の一般解。

「天の宇受売の命 (アマノウズメ)

名義は「天上界の、髪飾りをした巫女」。

「宇受」は「髻華」(推古紀十一年十二月条)の文字を「うず」と訓むことの注がある。 「熊白檮が葉を髻華に插せ」、「嶋山に照れる橘宇受に插」(万葉、巻十九、4276)、「神主部が雲聚(うず)の玉かげ」 (同、巻十三、3229)等の例がある。 「うず」は「頭・かざし」(髪に插すもの。かんざし。髪飾り)で、常緑樹などの生命の木といわれる植物の 葉(時には橘の実の場合もある)をかんざしにして長寿と豊穣を願った。「神主部・はふりべ」がうずを插しているのもその 呪術性による。

天宇受売命は、記の叙述によると「まさきのかずら」をかんざしとしたのである。これらの植物は神霊の依代となるもので、これを つけた女は神懸りになることもできた。 天照大御神が天の石屋戸に隠った際、その前で神懸りして踊り、胸乳と陰部を露出する。邪気を 払う呪術である。

天照大御神が天の石屋戸の神事によって石屋戸から出るこの神話は、 十一月の冬至の頃が最も太陽の活力が衰えるときであったので、その 回復を願う祭儀の反映である。これを「鎮魂祭・みたましづめのまつり」と称し、十一月の虎の日と定めている。その初見は、天武紀十四年十一月丙寅(二十四日) の条である。「天皇の為に招魂(みたまふり)しき」とある。天皇と日神とは一体であるから、天皇の鎮魂祭(魂を振起する祭となるのである。) となるのである。このときに猿女君氏がこの秘儀にたずさわっており、その祖神が天宇受売命である。古事記上巻のこの条は、 猿女君氏の縁起譚となっている。」

音図上ではう~すはウスで濁らないが、ウズと読めと指示している。これは天照を前にしてひっくり返した桶の五十音図が二つあるということで一つは言霊の五十の要素で、一つはその整理運用に関する五十の要素で、ウ~スが二カ所あるのをウズとしたわけです。

・手次(たすき)にかけて、/・タ~ス。=天津太祝詞音図のタとスを結ぶ斜めの直線でたすき掛けとなる。主体の自覚と結果への自覚が無い。ア行ワ行を除かれていること。

・天の真折(まさき)を鬘(かづら)として、・/マ~サ。=ア段マからサを頭にかぶること。ア段タ、カに対する自覚が無く、欲望のままにマから始まる意識に任されること。欲しいと思うこと、頭に浮かんだこと、思いついたことがそのまま発現していく、理性判断の無い。

・天の香山の小竹葉を手草(たぐさ)に結いて、・/手は左右にあって、それをタと読ませているので、五十音図の両側のこと(母音半母音)。手に笹葉の飾りを付けて、母音から半母音へ結ぶ、結論結果を結ぶこと。

・小竹葉、/サワサワ。=笹がさわさわ、ざわざわでア段の最後のサがワ行へ結ばれいたく騒ぐこと。自分勝手な結論結果を着けること。

ここまでで、音図全段が網羅される。

・天の岩屋戸に、/五十葉戸、=五十、い。は、言霊。と、戸、こころの宇宙が現象となって出てくるところ。一八十。五十葉戸。天照大御神の正統な言霊エの音図に対しての意。

・うけ伏せ・/=暗黒中にいる天照の前に受け台を備えること。豊受けの神のことと通じる。

=うけ(桶)。ここまでいろいろ準備して桶の中に入れてきたことの全部。直接にはウズメのひっくり返された言霊ウの音図。天照にこれで充分な整理が出来ているかを伺うところ。材料を準備提供して判定を乞う。

・うけ(桶)伏せ。鳥居の形をひっくり返せば桶の形になる。従って音図もひっくり返す。そうすると底が上になる。音図ではウ段は下にあったが反転すると上になる。(鏡でみられると元に戻る作用のため)

ここでのうけ(桶)は二つの音図を伏せるということで、鳥居の上に乗るという事。実際に考えると裏返したたらいの上に乗って踊るのだが、ここでは「香山」という言葉の後に出てくるのを考慮して、山と関連づける上には言霊要素の天津太祝詞音図(たかまはらなやさ)がきて、下には同じ運用の天津太祝詞音図がひっくり返って組み合わされる。そうすると中央でウ段がくっつき「ふる」と「ふる」がきて、それを持って引き上げると山型になる。(くしふる岳のこと)その頂上の「ふるふる」にてウズメは踊ったという事になる。

だが、踊りは物語上での表現で、実際には暗闇中の天照の意識を揺する事。暗闇中の意識に対応するものを、造り出したという事。ザワザワ、フルフルによって天照の注意を喚起する。礼拝上での鈴を振る行為の起源。神宮に五十鈴川が流れる起源。ここは音が耳に達して鼓膜を打つところである、野椎(のづち)神が闇戸の神の耳垢に到達する部分と重なる。

大山津見、野椎と続き、ついで二神によって新たな神が生れます。大山津見は主体とは独自の媒介現象、例えば言葉、で野椎は媒介を受け取る受容器官に相当します。

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「かた、肩、堅」の「かた」が今、分かりました。

桶は箍(たが)でバラバラにならないように留めてある。伊耶那岐の大神は淡海の多賀に座すなり、の「たが」のことです。岩戸開きの話は伊耶那岐の主観精神内での話になります。

スサノオは母のいる「根の堅洲国」に行きたいとだだをこねますが、ここにも「堅洲国」の「堅」があります。母の伊耶那美は客観世界、現象界を統括しています。スサノオは命令された高天原での言霊ウの生産産業活動を客観現象世界でも通じるか物凄い勢いで確かめたく思いました。それはちょうど発見発明をした研究者が自分の分野以外でもあるいは自分の分野での限界を超えようとして、頭脳内、主観内、意識の中に留めておかないで実験をしてみたくなるようなものです(原爆もそのひとつ。気付いた考えついたことをぶっちゃけて書き綴るブログもおなじです)。

その精神分野とその対極にある客観分野をそれぞれ主客の片方づつ指した言葉として、つまり「かた」一方を示すものとしてのカタです。岩戸の始まりは高御産巣日から、つまり主体側の働きから始まってその主体の子である思い金の主体活動が述べられていきます。ここの岩戸開きは一貫して主体精神内での出来事なのですね。

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◎028 こころの原論。天照大御神の誕生。神懸かり。天の岩戸開き。 ◎

・踏みとどろこし神がかりして、=天照の五感感覚欲望次元に訴えかけること。どんどこ音を轟かす。

踏みとどろこし。実際にはひっくり返された桶でも太鼓でも上に載って踊っても音はでないだろう。振動板の上に乗れば体重で振動が止まってしまうため、音が出ているとするなら両足が離れていなくてはならないだろう。なのでとどろこしという表現を音を出すとするのはおかしい。もちろん踊るのならいいだろう。踊りを取って舞踏の神様に仕上げていくか、音を取るかになる。さあどうしよう。

余計なことを言わないで言霊学を続けてください。

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ウ次元の欲望の実現はとてもやかましく騒がしく勝手気ままでエゴの塊です。どの五感感覚を取り上げてもその無自覚な喧しさは変わりません。

神掛かりして。--神が神懸かりするというのもおかしいが、暗闇にいるわたしの意識を叩き起こすには、一点突破や選択された攻略目標を目指すより、全体を用いてわけの分からないメチャメチャをする方がよい。その方が始めの目覚めさせたいという目的は相手に届いた時、相手は目覚める事そのものの状態となる。これで当初の目的そのものが、相手客体側に生じる。

一人寂しくラーメンをすするのが何故やかましいのか、乳を吸いながら寝ている赤ちゃんの何処が騒がしいのか、バラの香りを嗅ぎたい、夕焼けが見たいという思い

を何故エゴの塊というのか。金儲けがしたい企業を大きくしたいと日夜命を削ってでも努力する姿勢が何故やかましいのか。

ウ次元の精神の動きとその反抗。

(キ)まず彼ら自身の欲望を充足するためには、自らの欲望を鼓舞して持続していかなくてはなりません。欲望は無数の対象を持っていますがどれを選ぶかはその人自身も知らないその時の五感感覚によります。選ばれた欲望は例えば腹が減ったから腹が減っているという以外の説明ができません。その持続が途切れるようなことになるとか、欲望のあることそのものを否定されると彼らの反撃は物凄いものが始まります。、

(シ)欲望はまず総体的に顔を出してきますが自分自身にとっても明瞭化され、固定されこころの中心を締めていくようにしないと自分を制することができなくなります。こうして欲望がより自我となっていくのが分かります。欲望の個別化自分の欲望であることがはっきりしていきます。この自我欲望の形成の過程に邪魔が入ったり否定されると非常に不機嫌になり邪魔なものを排除しにかかります。

(チ)自我欲望の形成は自分の経験信条の蓄積の上に行なわれ自分の所有物所有知識を自分として押し出してきます。また自分の欲望となったものを自己の経験概念過去記憶等で補強していきます。これが傷付けられるようなことがあると、自分の人格が傷付いたように感じ非情な警戒態勢と反撃を開始します。

(ニ)ここでは欲望をどうするのかが、見るのか聞くのか食べるのか等が決められていきます。そして上手い具合に自我欲望が煮詰まり選択条件が明かされていくようになります。ここでは自分で育てていき自分で主張し自分を表現しようと煮詰まる大事な状態で、どの方面からも介入を嫌います。

(ヒ)こうして煮詰まり何が、何を、とかの自分にとっての欲望の対象に名前が与えられてきます。ここで与えられる名前は自分の欲望から発したことなので、名前で指し示されているものは自分の創生したものという感じでいます。自分で選んだ言葉で表現し自分の経験した思いが籠もっています。ところが名前は社会的媒体的なもので、そこに自他との乖離をも含む矛盾を抱えなければならなくなります。そうすると、不快な思いが入り込んだり誤解が強制されたりしてそれへの対処が試みられます。

(ミ)しかしその人の表現は対象を指し示し社会性を共同性を帯ざるを得ません。欲望としてはあくまで自分のものでその表現も自分のもので、相手に伝えるものも自分のものの積りでいます。ここでは自我であるはずのものと社会性との葛藤が始まります。

(イ)しかし、そんなことを言ってはいられませんので、自分の欲望を措定し主張し取得するための行為へ向かいます。この行為が取得と結び付いていけば満足を得ることになります。しかし取得と結ばれない時にはとても自分で打ち立てた欲望の柱を巡ってフラストレーションの塊となっていきます。

(リ)欲望は取得されました。ところがその満足を保障するものは、止めども無い自我欲望を取得したいという欲望を基盤としています。その基盤は自分に明確であることが必要で、常に過去経験によるバックアップを受けなくてはなりません。適切に配慮が受けられれば、欲望の内容がはっきりして、対象として指示出来るようになり、それを使用して、取得に動き、獲得を自己に取り込んでいきます。

この取り込みがどこまで行き何処で終わるかは本人の自覚は無く、取り込みの循環が自分の満足か外からの強制かからで断ち切られるまで待たねばなりません。

このように(リ)の段階で取得して手にしても、そのことへの自覚が不足しているのでさらにまた元へ戻って循環を繰返し、目的として取得されたものが発端となって始まりに転化してしまいます。

この構造は欲望の実現に関しては場面にかかわらず同じです。これが「踏みとどろかし」ということです。欲望を自覚的に終える事ができず、常に繰り返される律動に支配されています。そしてこの欲望取得の循環が犬が自分の尻尾を喰わようとくるくる廻るように、その奇妙な姿を神がかりといっています。

始めも終りも知らず、その行為をしている間は脇目もふらず、人の言うことも社会の言うことも聴かない。欲しい欲しいしたいしたいの世界の人となります。だだをこねる餓鬼から経済企業人、権力が欲しい欲しいの政治家まで同じ精神です。

知識学問、芸術宗教の次元でもその担い手が言霊ウの欲望次元に引き下げられると、自分の成果結果結論が一番、これしかない、世界はここを中心にして廻っているというような主張が起こってきます。主張の成果と主張をしたい思いが出たり入ったりしてきます。

このように書いて来ると、それはウズメのしていることで、岩戸の前でやる意味が何処にあるのかと問われなければなりません。どの場面でも繰り返されるウズメの行為なら上記の説明でいいでしょう。ここには隠れた天照がいてその御前での出来事です。

それが次にくる段で、何故ウズメはこういうことをするのか、どんな役割をもっているのかが扱われます。ウズメの準備は整いました。

・胸乳(むなじ)をかきいで

・裳緒(もひも)をほとにおし垂れき・(時置師)

・ここに高天原動(とよ)みて

・八百万の神共に笑いき。

実際言霊ウの世界は自分が中心となる世界です。しかし言霊ウを直接表現した御中主と違ってウズノメは主体的働きかけ内での言霊ウを受け持っています。他の次元に口出すことなく自らの規範も打ち立てました。しかし天照のいない暗黒の世界でどのようにしていくのがいいのかが見えません。

そこでやってみるのがまず、騒ぐことで桶をひっくり返します。通常は下の位置にいるのに一番上に躍り出ます。その上で自分なりの規範を作って踊ります。ところが同一箇所をグルグル廻りするだけで、出口が見えません。なるべく騒いで見せ驚かせます。相手の注意を引くためにですが、自分なりに作った規範を実行するためにでもあります。知識より感情より道徳的選択より欲望を上においてこの世を欲望第一の世界にしようとします。(個別的にはというより、基本的には人生とはこういったものだとしていこうとします。)

そこでウの次元を第一とする世界の創造を試みます。

・胸乳(むなち)をかきいで、/六七(むな)、ち(父韻)、ア・かさ・「タナハマヤラ・ワ」(カギ括弧内が六七)

・裳緒(もひも)をほとにおし垂れき・/(裳は時置師に出て来る)、裳(スカートみたいな衣裳)、紐(両端に付いている、あ行とわ行)、ほと(霊止、子供の生れるところ、現象子音を創造するところ。

全部で、現象子音を、ウの精神事象を創造するために父韻と母音の交流が必要ですが父韻全部を使用せず途中から始めたり途中で終わったりして、そのまま事象を産んで行こうと、不規則な父韻の使用をする事です。

お腹が空いて箸で茶碗を叩く子は減ったお腹、早く食べたいという表現をしていますが、音を出しても聴いても空腹を直接表現してはいません。お母さんはうるさい止めなさいと注意しようと振り返ると、実は子供ではなくテレビのバラエティー番組でのことでした。とか、主張を伝えたいけど肝心な部分を強調し過ぎて、そこだけが浮きでたり目に付いたりで結局何も伝わらないこともおきます。

桶にウズメ自身が乗るという事はウズメの考え創造した成果「ウ次元を第一にする世界」を桶の上に載せることと同じです。そしてその成果を持って天照に判定して貰おうというわけです。日常生活では全く普通のことです。テーブルに座って箸で茶碗を叩くことなどそっくりじゃないですか。

自分の気に入った思いつきを強調したいためにその箇所に色を変えたり字体を変えたりする事も同じでしょう。悪態をついてより注意を引くというのもあります。

・胸乳(むなち)をかきいで、

父韻の並びは両側に主体ア行、客体ワ行がきて主体から客体へ渡る事を示し、その中間に八つの父韻がきます。五十音図の横の段です。全部で十あるので、古事記では十(と)を戸とした暗示が頻繁に用いられています。岩戸の戸も同様です。各十ある五段の戸を全部開けて完全な規範が出て来る場所となっています。

ウズメは相手の注意を引く事が重要ですので、横の十の戸をはしょって自分ア、自分のできあがった姿ワ、その途中にある六父韻だけを使用して表現しようとします。表現し終わった時、客体ワを加えて七になります。それを胸、むなと読ませ、六七の暗示としています。

この原始的な不完全な創造の仕方とその成果をオノゴロ島の時点では蛭子と淡島と言っていました。ひるこは、霊流子で、父韻が流れて骨の無い現象を創造したこと、淡島は主体と客体がダイレクトに渡り合う創造現象の作り方とその成果の話でした。

古事記の話も進歩していきますので、ここでのウの次元はウなりの規範造りができる処まで進んできています。その得意の成果を天照に見てもらおうというわけです。

ではウの次元での完全な扱いはどこになるかというと、ヤハタノオロチの段になります。ここでのスサノオはやはり言霊ウの命ですが、同じウの次元でも自分自身の最高規範を造り出す事ができるまでに進歩しています。オロチはここでも八つの頭があり、スサノオは八父韻を渡って客体の尾まで行きます。正統に順よく頭を切り落とし尾を裂いていくと正統な客体を獲得した褒美の宝物(剣で象徴された判断力)を得ます。そして清々しい心持ちを得て菅の宮の造営となります。

ところで、上に書いた例の、ウ次元の精神の動きとその反抗は、言霊ウ次元の働きをあ・カサタナハマヤラ・わを父韻、キシチニヒミイリ、で書き換えたものです。例えばウズメは自分であるア・の次にくるカサを飛ばしてタナハマヤラの順でやって客体結果を得ようとします。

お母さんが子供が叩くやかましい音がテレビからきていたと間違えたように、子供は腹の空いた事を知らせたつもりでも伝わらず小言を喰らう事もあります。言霊ウの正統な規範の準備が中途半端だからです。

それでも天照が顔を出すのは、まだまだ途中の話が、行程があるからです。

・ここに高天原動(とよ)みて、/

・八百万の神共に笑いき。/

◎029 こころの原論。天照大御神の誕生。胸乳。裳緒。天の岩戸開き。 ◎

ウズノメとは音図下段ウ行の始めのウと終りのスを結んだもの、本来うずめのウ(主体)からスまでの父韻の八行を通過しなくてはならないが、不正なままで騒いでいる餓鬼の状態。

それをそのまま天照に采配を乞ている。

・胸乳をかきいで

・裳緒(もひも)をほとにおし垂れき

騒いでいる餓鬼やミーチャンハーチャン、流行を追って自分を表現しようとする者達、権威や多数によって拠り所を見たいもの達、伝統の固執に埋没し安心している者達、固定した教理を繰り返していれば安らかでいられる者達、等々もそれなりの自己主張の規範があり、それに則って創造活動を進めているのですから当然取り上げられ掬い上げられなければなりません。がしかし、ここでは当面は彼らの創造活動は、高天原の面々からは、それぞれの観点からしか見られず、その観点視点との隔たりに動揺をきたしています。

それでもウの次元の努力、狂信的な態度は脇目を振らず必死になりますから、ウの次元なりにやってのけようとします。外から見て、ウの次元の動作は奇怪しさとして写ります。ウの次元は天津太祝詞音図では最下位にありますが、ウズメはひっくり返して欲望の世界がまず世界第一位だと主張しまくりました。その行為はウ次元以外からは奇怪しいと思われ笑われましたが、否定されたのではありません。欲望次元は生の基盤で最重要なものです。

ただその主張の排他性、エゴイズムが笑われたのです。ことに「裳緒(もひも)をほとにおし垂れき」というように、母音行を強制してものを創造しようとする行為です。言霊母音行は実在世界ですが母音行自らが動いてものを生産することはありません。天津太祝詞音図母音行はウオエイアでウは最下段に位置しています。

ウの次元を中心にするというのは通常の行為で普通の五十音(金木音図)ではアイウエオの順でウが中心にきています。この音図を使用していけば通常のウの欲望次元の創造行為が普通に行なわれるわけです。

ウズメは腰巻きの両端の紐を操作して欲望の実現を計ろうとします。ウズメは欲望の主体的意思ですから、自分の意思がある、意思がある、欲しい、欲しい、会社を大きくした大きくしたい、社長に成りたい成りたいと、鳴く訳です。声を大に、仕種を大に、手に物を取り、身なりを変えたりして欲望の大きさを強調しだします。やるぞやるぞと自分の身体を鞭打ちだします。やればできるぞ何て言う書籍を何冊も買いまくるかもしれない。

実際の勉強はしないでするぞするぞとわめくだけで勉強が進んでいくと思うようなものです。これらに類することは幾らでもあり、「裳緒(もひも)をほとにおし垂れき」状態にすれば儲かるとか言われ乗せられることもあります。

そんな状況を見ていると、

・ここに高天原動(とよ)みて

・八百万の神共に笑いき、

です。

ウの次元での自己主張行為は様々で、テロ、無差別轢き殺しや発砲だったり茶碗を叩くことであったりするわけで、その表現において自分以外の他人他の分野まで巻き込みます。それが自分を超えた高天原まで飛び火し、世界中が関心を持つということになります。

・ここに高天原動(とよ)みて

=そこで不完全さを見せられ、聞かされ、それなりに主観宇宙と客観宇宙の両方がエネルギーに満ちるてくること。欲望次元だけでなく全体が動く事。

前段にある通り、天の児屋の命太詔戸(ふとのりと)言ほきまおして、つまり子供は「お腹空いた早く食べターい」と言うことになります。自分の欲望を主張するには言葉を持ってするだけでなく、それが当然正統なものであることも主張していくことです。古文書の祝詞のことではありません。欲望次元の主張の正当性に変わる普遍性を持った表現ということです。言霊アの管轄。

ついで発現の内容を理解するのが、判断を示す言霊オの布刀玉の命太御幣(ふとみてぐら)と取りもちて、ときます。空腹の声が感情となって聞こえてきますが、その内容の判定です。

こうして高天原全体(その精神世界)が動き事件は大きくなって行きます。しかし欲望の内容をアの次元やオの次元で表現しても、欲望の内容と直接一致している訳ではありません。内容は無いこともあるわけです。実例を挙げれば八百万というわけで、単に普通にしていることでもあります。そこに一度言霊オの布刀玉が顔をだすとワイワイガヤガヤはさらに増幅され、欲望そっちのけのこともあります。

八百万の神共に笑いき。こうしてウズメの行為は不完全不正であるかどうかも分からず、他の客観宇宙も取り込む準備ができました。そして自分を含む他の宇宙の関心も引き寄せ動かすこともできました。

ウズメの態度が笑いを誘ったということは、ウの次元以上のオアエイの次元の八百万の事象の笑いも誘ったということです。下位にいる者が上位の者に理解されたということです。しかしそれはヘンテコナ独り善がりとしてです。

・ここに天照大御神あやしとおもほして、

・天の岩屋戸を細めに平きて、

・内より告(の)りたまわく、

・「吾が隠(こも)りますによりて、天の原自ずから闇(くら)く、また葦原中国も皆闇(くら)からむとおもふを、

・何の由(ゆえ)にか天宇受売は楽(あそび)をし、また八百万の神諸々笑へる」とのりたまひき。

ここで天照は最高規範として上位にいる者しか分からないはずなのに、上位者の笑いが混じっているのを聴きます。ウズメの真剣な探求の行為は知識や概念、感情や宗教心、道徳や政治をするこころからは見透かされ失笑を買うわけです。天照に匹敵する者まで笑いに加わっているのがどうも奇怪しいということになります。

これは何故かというと、既に準備段階でイシコリドメが全て完全な規範の準備をしていたからです。

天照は自分と同じ者が笑っているその声が聞こえると奇しく思います。高いところから下が丸見えになるのは当然として、何故自分と同等の者の笑い声が聞こえるのかですが、後に岩戸から出てきた時に自分と同次元のものだけを選択することではありません。というのは天照自身が引き出される方にいるからです。でもこれはもう少し後の話。

・ここに天照大御神あやしとおもほして、

ここに、表現されたものに対して「おかしい、奇怪(おか)しい、可笑(おか)しい」という同意と不同意の両方が両立している状況が出現します。始めてのことを納得承認する時に必ず出て来ることです。準備ができていていざやろうとする直前、物を産み出すその直前に顔を出します。そちらの方向が強調されてくと逡巡、しり込み、ためらいとなってしまいます。

何故直前に「あやし、奇し、怪し、妖し」の思いが出るのでしょうか。それは、

・この種々(くさぐさ)のものは

・布刀玉の命太御幣(ふとみてぐら)と取りもちて・

・天の児屋の命太詔戸(ふとのりと)言ほきまおして、

のせいです。

ここまではイシコリドメの正統な準備の中に入っていました。自分の納得承認できる全ての準備は隠れた状態で成立していたのです。ところがそれはウズメの騒ぎを借りないと承認主体である天照の関心を得られないのです。ウズメは下位の次元にいますから、承認次元オ、アまで挙げるには桶をひっくり返させ上に持ち上げた訳です。そしてそこでウズメに好き勝手なことさせましたが、生命の次元の違いを超えることはできません。ウズメは懸命になりますが、上からは妖しく思われます。

しかし外の様子は穴の中の天照には分かりません。音なり震動なりは伝わってきますが雑多な中に自分と同じ者まで混じっていることを聞き分けています。これが同意と不同意の起源です。

ここは丁度、

天の闇戸の神。次に国の闇戸の神。言霊ノ、ネ 。

闇戸(くらど)とは文字通り「暗(くら)い戸」で、耳の中の戸、即ち聴覚器官の事でありましょう。耳の中へ入り込んで行った言葉はこの闇戸に当って、そこで更めて復誦されます。言霊ノネは「宣(の)る音(ね)」に通じます。ここでも天の闇戸は霊を、国の闇戸は音を受け持ちます。闇戸で復誦されることによって空中を飛んで来た神名が再び真名に還元されて行きます

大戸惑子の神。次に大戸惑女の神。 言霊カ、マ 。

耳の孔に入って来た言葉は復誦され、次にその意味・内容は「こうかな、ああかな」と考えられます。掻(か)き混(ま)ぜられ、次第に煮(に)つめられます。煮つめの道具を釜(かま)と呼びます。この作業で言葉の意味・内容が明らかにとなり、有音の神名は完全に真名に還ります。大戸惑子の神は霊を、大戸惑女の神は音を受け持ちます。

に相当します。

鳥の石楠船の神、またの名は天の鳥船、 言霊ナ。大宜都毘売の神、 言霊コ。

言霊コができる直前に、戸惑いが来ています。

古事記の神代の巻は端から端までこころの原理を解きあかした世界最高の人間知性の作品だとまだ気付きませんか。

欲望の世界がまず第一という、ウズメの世界を裳緒(もひも)をほとにおし垂れて作ってみたい。はたしてそれがここに高天原動(とよ)みて八百万の神共に笑いきとなるか。

岩戸開きを「秘密が開かされる原論」として読見返してみると、自分の頭をぶん殴られたぐらいの古代大和の人達の知力知性の素晴らしさを感じます。次の段落に挿入されている「細めに開きて」など、このチラリ行為を書いておくところなど全くもって関心に耐えない。

考古学上の発見、失せ物の発見、真理の発見、ノーベル受賞者の新事実の発見、物理等科学上の発見、すべてこのたわいもないチラリ行為から出現しています。

古事記の秘密がこうして解かれているのも同様です。古事記を解くことで八千年の大和の歴史と数千年の神武天皇以来の歴史、皇室と神道の秘密はすべて開かされてしまいました。後は世界運用のため誰が立ってどのように運営していくかです。

・天の岩屋戸を細めに平きて、

・内より告(の)り立つわく、

・「吾が隠(こも)りますによりて、天の原自ずから闇(くら)く、また葦原中国も皆闇(くら)からむとおもふを、

・何の由(ゆえ)にか天宇受売は楽(あそび)をし、また八百万の神諸々笑へる」とのりたまひき。

◎030 こころの原論。天照大御神の誕生。あやしとおもほして、。天の岩戸開き。 ◎

・ここに天照大御神あやしとおもほして、

・天の岩屋戸を細め開きて、

・内より告(の)りたまわく、

・「吾が隠(こも)りますによりて、天の原自ずから闇(くら)く、また葦原中国も皆闇(くら)からむとおもふを、

・何の由(ゆえ)にか天宇受売は楽(あそび)をし、また八百万の神諸々笑へる」とのりたまひき。

・ここに天照大御神あやしとおもほして、

この文章の現していることは天照大御神にとっての天の御中主の神、言霊ウがまかり出たということです。天の岩戸というのは実は淡路の穂の狭別の島だったということになります。こういった言い方は今のところは説明しても誤解しか産まないので、記録しておくだけにします。

誤解を避けるというとおおげさですが、理解することを、考えて頭を使って理性的に理解するとすれば、古事記はいつまで経っても理解に到達しません。精々考古学上の裏が取れて推理が進むというようなもので、問題の廻りをうろつくばかりです。知的なのが好みのかたは公案をあれこれ言うが目的にさえなってそれが楽しみとなってしまいます。物事の納得には経験概念によらない、別の方法、別の真理への近づき方があるといいます。

岩戸の段での言葉を使えば、布刀玉の命太御幣(ふとみてぐら)と取りもちてが経験知識によるもの、ついで、天の児屋の命太詔戸(ふとのりと)言ほきまおしての一挙に感情によって全体理解に達するもの、そして、天の宇受売の命による踏みとどろこし神がかりして、自己の欲望内では間違いなく自己理解に達しているもの、これらのそれぞれの次元の違いによる理解があります。

どうしてそのようなことが可能になるのかといえば、玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、八尺(やさか)のまがたまの五百津(いおつ)の御統の珠(みすまるのたま)を作っておいてくれたからです。造り置いて準備があっても何故それが動き始めるのか、何故係わりを持てるのかの根拠がなければ始まらずそれを提供するのが、伊斯許理度売命(いしこりどめ)におおせて鏡を造らしめ、という自他ともに見つめ合うことが可能となるのです。

天照はこれらの全体としてでてきますから、世界を見るのに何一つ不足するものがありません。この天照の立場での理解が理想的ですが、普通はそうも行かず、大多数は低次の次元に生きそれに付随する楽しみと苦しみを得るわけです。

天照大御神は「あやし」と思った瞬間に、自分の意識が自己意識と他者意識に分かれていくのを感じます。静かな暗闇の向こうの存在に気付いたわけです。気付かせたのはウズメですが天照の気付いた相手は向こう側全部です。正確には自己意識となる他者意識の全部、全次元全時間全処空間ですが、この段階では淡路の穂の狭別状態です。生命として全宇宙を相手としますが何にも具体的ではありません。

向こうに何かあると気付いたことが、何かと分かってそれが分かるわけですが、天照側には既に天照の自己意識を形成する判断規範があります。向こう側のものもそれに対応する他者意識を形成する判断規範が天照の次元において用意されています。簡単に言えば主体側母音行と客体側半母音行の両者が用意されていることです。

哲学思想問題で言えば、客観、客体とは何か、主観と客観の関係とは何かの全回答がここにあります。古事記は千数百年前に記されたものですが、その思想は五千~八千年以上前からスメラミコト集団によって受け継がれてきていました。主客とは何かの問題は現代の哲学者が未だに解決できないでいる問題ですが、実は既に解決し尽くされていて、歴史の運営上二千年間隠されていただけのものです。

古事記の冒頭を単純になぞっていけばそこら辺の哲学思想は既に簡単に超えられていくものですが、古事記の記載方法が暗示呪示暗喩象徴ですのでその解読者の了解する力量に左右されていきます。

そしてその了解された力量の範囲内で語ることが問題の種になり、それを巻き始めると例の学問知識の悪弊から抜けることができません。現代人の思考の操り方も既に解説されています。つまり古事記は学問知識の次元のあり方、その限界と超え方までも指示しています。またそのための一大教科書でありこころの原理を記載した書ともなっているものです。

凄いですね。まるで宣伝文のようですね。宣伝する者(わたし)が分かっていないのにここまで言わされてしまいました。この愚かさも今後への一段階なのです。わたしはこの後もっともっと騒ぎたくなるでしょう。ある時が来るまで。もちろんその保障は何も無いですが。

私自身が餓鬼でミーチャンハーチャンなのです。何か感じた何か分かったというたったそれだけでしかないものを、全部と思ってタスキにかけ、気付いたものをカヅラとして、ザワザワさわさわとささやきかけ、どんどこ踊りをするわけです。ウズメです。

・天の岩屋戸を細め開きて、

天照は「細め」にしか開きません。時間空間的に始めの状態なので細めということもあるでしょう。主体的には始めに行なう状態に恥じるなり自信のないことなりが重なることもあるでしょう。これは黄泉の国で伊耶那美が「我をな視たまひそ」といってその結果「吾に辱見せつ」となる客体側の態度と主体側の伊耶那岐の「見かしこみて」と同じ構造が感じられます。

また物事の発見、考古学上での発見もそれに至る過程を見ると、始めに何からかの指示を示すものが恥ずかしげに細く姿を現すことから始まっています。アイデアが閃くというのも、同じようなものでしょう。ウズメの欲望の次元でも、知識の次元でもこの後はどんちゃん騒ぎになります。両者とも与えられてしまったものから出発して結果から出発していくからです。それでもノーベル賞ぐらいももらえることもあります。天照は大人ですからそのような態度は示しません。結論を出す前に現実を反省します。

・内より告(の)りたまわく、

・「吾が隠(こも)りますによりて、天の原自ずから闇(くら)く、また葦原中国も皆闇(くら)からむとおもふを、

・何の由(ゆえ)にか天宇受売は楽(あそび)をし、また八百万の神諸々笑へる」とのりたまひき。

しかし、全ては未だに「あやし」と思う範囲内にあります。

前回に現象子音が生れる直前の言霊、天の闇戸の神、次に国の闇戸の神、言霊ノ、ネ 、大戸惑子の神、次に大戸惑女の神、 言霊カ、マ、を引用しました。その字面にある「闇、惑、」など全く同じことが繰り返されているのが分かると思います。

あやしというのはもちろん天照の自分の最高規範である意識に働きかけるものがあるからです。ウズメの欲望だけ、フトダマの知識だけなら天照が出て来るまでもありません。岩戸の前で用意されたものはイシコリドメの鏡の上に載っているものです。さらに逆さにされた伊耶那岐の大神である桶の上にあります。つまり向こう側の騒ぎはすべて天照の最高規範と通じています。これを仏教でいう衆生は既に悟っているという言い方にしても通じます。赤ちゃんは既に杖を着いて歩くという頓智でもいいでしょう。