16- 千引(ちびき)の石(いは)

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「古事記と言霊」講座 その十六 <第百七十五号>平成十五年一月号

謹賀新年

古事記の神話のクライマックスである文章を先に進めます。

ここに伊耶那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還りたまふ時に、その妹伊耶那美の命、「吾に辱(はじ)見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遺(つかわ)して追はしめき。ここに伊耶那岐の命、黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち蒲子生(えびかづらな)りき。こを摭(ひり)ひ食(は)む間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、またその右の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄(う)てたまへば、すなはち笋(たかむな)生りき。こを抜き食(は)む間に、逃げ行でましき。また後にはかの八くさの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(たぐ)へて追はしめき。ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に引き返りき。ここに伊耶那岐の命、桃の子に告(の)りたまはく、「汝(いまし)、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、患惚(たしな)まむ時に助けてよ」とのりたまひて、意富加牟豆美(おほかむづみ)の命といふ名を賜ひき。最後(いやはて)にその妹伊耶那美の命、身みづから追ひ来ましき。ここに千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、その石を中に置きて、おのもおのも対(む)き立たして、事戸(ことど)を度(わた)す時に、伊耶那美の命のりたまはく、「愛(うつく)しき我が汝兄(なせ)の命、かくしたまはば、汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむ」とのりたまひき。ここに伊耶那岐の命、詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命、汝(みまし)然したまはば、吾(あ)は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。ここを以(も)ちて一日にかならず千人(ちたり)死に、一日にかならず千五百人(ちいほたり)なも生まるる。

かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神といへり。またその黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神ともいひ、塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。

先月号にて解説しました古事記の文章「ここにその妹伊耶那美の命を相見ましくおもほして、黄泉国に追ひ往でましき。……」より、今取り上げました「出雲の国の伊織夜坂といふ」までが、伊耶那岐の命が自らの主体内真理の自覚である建御雷の男の神という精神構造を、主体であると同時に客体的にも真理である事を證明するために、高天原から黄泉国に出て行き、其処で伊耶那美の命の主宰する黄泉国の整理されていない諸文化を体験し、その騒々しさに驚いて高天原に逃げ帰るまでの話であります。

以上の高天原の精神文明と黄泉国の物質文明との関係、伊耶那岐の命と伊耶那美の命との交渉という経緯を、古事記は物語的に「黄泉国」と題して叙述し、次にその経緯を純粋に言霊学による検討として「禊祓」と題して原理的に解明し、それによってアイエオウの言霊五十音布斗麻邇の学問の総結論を導き出して行くのであります。この作業によって人間の心の全構造とその運用法の全体が残る処なく解明され、三種の神器の学問体系が確立されます。以上順を追って解説して参ります。

ここに伊耶那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還りたまふ時に、

伊耶那美の命の身体に「蛆たかれころろぎて」という、黄泉国の国中に物質文化の発明の主張が我先に自己主張している乱雑さに驚いて、伊耶那岐の命は高天原に逃げ帰ろうとしました。ただ単に逃げ帰るのではなく、黄泉国での体験を基にして、如何にしたらその文化を高天原の建御雷の男の神という精神内原理で吸収し、世界人類の文明として生かして行く事が出来るか、を思考しながら帰って行ったのであります。主体内原理を適用して、それが客体的にも通用する絶対の真理となる為の検討をしながら帰還の道を急いだのです。

その妹伊耶那美の命、「吾に辱(はじ)見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遺(つかわ)して追はしめき。

「我をな視たまひそ」と言って伊耶那美の命は黄泉国の殿内に入りました。けれど伊耶那岐の命は待ち草臥(くたび)れて中を覗(のぞ)いて見てしまいましたので、伊耶那美の命は怒って「私に辱(はじ)をかかせましたね」と言って、黄泉醜女(しこめ)に後を追わせたのであります。醜女とは醜(みにく)い女、また女とは男の言葉に対して女は文字を表わします。黄泉醜女で黄泉国の合理的とは言えない文字の原理を意味します。美の命は黄泉国の文字の文化で岐の命を誘惑しようとした訳であります。

ここに伊耶那岐の命、黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち蒲子生(えびかづらな)りき。

縵(かづら)は鬘(かづら)とも書き、鬘(かつら)とは書き連ねるの意であり、また頭にかぶせる事から、五十音図の上段であるア段の横の列の事を指します。黒御縵の黒は白に対する色で、白は陽で、主体側の父韻タカサハを表わし、黒は陰で、客体側のヤマラナの事となります。主体側は問いかけ、客体側はその問に答える事でありますから、黒御縵全体で、五十音図の上段の客体側の列のこと、即ち物事や現象を精神である主体から見た時の結論という事となります。伊耶那岐の命は黄泉醜女の誘惑に対して、精神から物事を見た時の結論を投げ与えてやった、という訳であります。すると蒲子(えびかづら)が生(は)えた、といいます。蒲子(えぴかづら)とはエ(智恵)の霊(ひ)(言霊)を書き連ねたもの、の意であります。現象を観察・研究するのに有用な精神原理の事であります。尚、蒲子とは山葡萄(やまぶどう)の事です。

こを摭(ひり)ひ食(は)む間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、またその右の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄(う)てたまへば、すなはち笋(たかむな)生りき。

「これはよい物がある」と、黄泉醜女が拾って自分のものにしようとしている間に伊耶那岐の命は高天原への帰還の道を急ぎました。醜女は尚追って来ましたので、岐の命は右の御髻(みみづら)に刺した湯津爪櫛を投げ棄(す)てましたところ、筍(たけのこ)が生えました。御髻とは以前にも出ましたが、頭髪を左右に分け、耳の所で輪に巻いたものです。顔を五十音言霊図に喩えますと、右の御髻は五十音図の向って左の五半母音の並びとなります。そこに刺している湯津爪櫛と言えば、湯津とは五百箇(いはつ)の意で、五を基調とした百音図のことで、また爪櫛とは髪(かみ)(神・言霊)を櫛(くしけずる)もので、湯津爪櫛全部で五十音言霊の原理となります。左の御髻は五母音であり、主体であり、物事の始めです。反対に右の御髻は五半母音であり、客体であり、物事の終りであり、結果・結論を意味します。そこで右の御髻に刺した湯津爪櫛を投げたという事は、伊耶那岐の命は醜女に言霊原理から見た時の客観世界の現象の結論を投げ与えた、という事になります。すると筍が生えました。笋(たかむな)とは田の神(か)(言霊)によって結(むす)ばれた現象の名という事で言霊より見た物事の現象の原理と同意義となります。筍(たけのこ)と読んでも同様であります。

実際に人類史上、物質科学研究が起こった初期の頃は、精神の原理を物質研究に当てはめた方法が用いられました。今に遺る天文学・幾何学・東洋医学等を見れば了解出来ましょう。また日本の一部で伝えられているカタカムナの学問も同様の事であります。伊耶那岐の命が「右の御髻に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄てた」という精神原理から見た物質現象の結論を黄泉醜女が取り入れて研究した、と解釈しますと、その消息が理解されます。

こを抜き食(は)む間に、逃げ行でましき。また後にはかの八くさの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(たぐ)へて追はしめき。

笋を抜いて食べている間に伊耶那岐の命は高天原への道を急ぎました。すると伊耶那美の命は黄泉国の文字を作る八種の原理に千五百の黄泉国の軍隊を加えて伊耶那岐の命を追わせました。八くさの雷神とは黄泉国の言葉を文字に表わす八種類の文字の作成法のことです。千五百の黄泉軍(よもついくさ)とは、先に千五百人の黄泉国の軍隊と書きましたが、それは古事記の文章の直訳で、実際では全く違ったものであります。三千を「みち」即ち道と取りますと、千五百はその半分です。三千の道の中で、その半分は精神の道、残りの半分は物質の現象を研究する道の事となります。また千五百(ちいほ)の五百(いほ)は五数を基調とする百の道理の意でもあります。五数を基調とする道理となりますと、主として東洋の物の考え方が考えられます。例えば、儒教の五行、印度哲学の五大もそうです。としますと、八くさの雷神と千五百の黄泉軍という事は西洋と東洋の物の考え方、即ち高天原日本以外の世界の思想のすべてという事となりましょう。その世界中の物の考え方が伊耶那岐の命を虜(とりこ)にしようとして追いかけて来たというわけであります。

ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、

世界中の客観的現象の研究の考え方が誘惑しようとして追って来ましたので、伊耶那岐の命は十拳の剣を抜いて後向きに振りながら逃げて来ました。十拳の剣とは、前にも出ましたが、物事を十数を基調として分析・総合する天与の判断力の事であります。この判断力を前手(まえで)に振ると、一つの原理から推論の分野を広げて行き「一二三四五……」と次々に関連する現象の法則を発見して行く、所謂哲学でいう演繹的(えんえき)思考の事です。伊耶那岐の命は十拳の剣を後手(しりへで)に振ったのですから、その反対に、物事の幾多の現象を観察し、そこに働く法則を見極め、それ等の法則が最終的に如何なる大法則から生み出されて行ったものであるか、演繹法とは逆に「十九八七六五……」と大元の法則に還元して行く、哲学で謂う帰納法の思考のことであります。伊耶那岐の命は十拳の剣を後手に振る思考作業によって、黄泉国の客観的に物事を見る種々の文化・主義・主張を観察し、その実相と法則を五十音言霊で示されるどの部分を担当すべき研究であるか、を見定め、それによって黄泉国の文化のそれぞれを人類文明創造のための糧(かて)として生かす事が出来るか、を検討し、その事によって自らの主観内に自覚されている建御雷の男の神という五十音図の原理が、黄泉国の文化全般に適用しても誤りない客観的・絶対的真理であるか、を確認しながら高天原に急いだのであります。

なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、

八くさの雷神と千五百の黄泉軍(いくさ)はなお追って来て、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に来ました。黄泉比良坂とは、比良は霊顕(ひら)で文字の事で、比良坂の坂とは性(さが)の意です。黄泉比良坂で黄泉国の文字の性質・内容という事となります。その坂本とありますから、黄泉国の文字の根本原理という事です。伊耶那岐の命は十拳の剣を後手に振りて、黄泉国すべての文化を高天原の言霊原理に還元してその夫々を人類文明創造の糧として生かす事が出来るかを検討し、その結果、黄泉国の文字作成の根本法則(坂本)に至りました。という事は、伊耶那岐の命が黄泉国の文化の根元を隅々まで知り尽くし、それを吸収し、揚棄して、人類文明に役立てる事が出来るという自覚に立ち至ったという事を意味するでありましょう。即ち伊耶那岐の命は自らの心の中に自覚した建御雷の男の神の音図構造が、如何なる外国の文化に適用しても誤りない客観的真理であること、そこで主観的真理であると同時に客観的真理でもある絶対的真理である事の證明を確立した事になります。

その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に引き返りき。

高天原日本以外の国々のすべての文化を十拳の剣で分析・総合し、黄泉国の文字の根本原理の内容を悉く知り尽くしました。黄泉国の文化の内容の全部の検討が終り、黄泉比良坂の坂本に到着したという事は、坂本が黄泉国と高天原との境界線になっているという事が出来ます。言い換えますと、此処までが黄泉国、ここから先は高天原となるという地点であります。となりますと、坂本に至ったという事は高天原への入口に到着した事ともなります。先に伊耶那岐の命は妻神を追って高天原より殿の騰戸(あがりど)から黄泉国に出て行きました。騰戸とは高天原の言霊構成図で半母音のワヰヱヲウの事と説明しました。殿の騰戸と言えば、高天原から黄泉国への出口であり、黄泉比良坂の坂本と言えば、黄泉国から高天原への入口という事になります。

黄泉比良坂まで逃げ帰った伊耶那岐の命は、坂本と境をなす高天原の五半母音の列(左図参照)の中のヱヲウの三言霊を手にとって、黄泉軍を撃ったのであります。言霊五十、その運用法五十、計百個の原理を桃(百[も])と言います。その子三つとは半母音ヱヲウの三言霊です。伊耶那岐の命は黄泉国より逃げ帰りながら、十拳の剣を後手に振って、黄泉国の文化の一切を人類文明に吸収処理する方法を確立する事が出来ました。その処理法には主として三つがあります。一つは黄泉国の五官感覚に基づく欲望性能より現出する産業・経済活動を処理する方策の結論である言霊ウ、次に経験知よりの主張を処理する結論である言霊ヲ、また、その次の総合運用法の処理法である言霊ヱの三つを「桃の子(み)三つ」と呼びます。この三つを持って八くさの雷神と千五百の黄泉軍を撃ちますと、「我々黄泉国の文化の客観的研究法からでは到底これ等の処理法を手にすることは不可能だ」と恐れ入って逃げ帰ってしまったのであります。

ここに伊耶那岐の命、桃の子に告(の)りたまはく、「汝(いまし)、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、患惚(たしな)まむ時に助けてよ」とのりたまひて、意富加牟豆美(おほかむづみ)の命といふ名を賜ひき。

伊耶那岐の命は桃の実に申しました。「お前が私を助けたように、この日本の国に住むすべての人々が、困難な場面に陥って苦しい目にあう時には、助けてやって呉れよ」と言って意富加牟豆美の命という名を授けました。意富加牟豆美とは大いなる(意富[おほ])神(加牟[かむ])の御稜威[みいづ](豆美[づみ])の意であります。御稜威とは権威とか力とかいう意味です。

余談を申しますと、梅若の狂言にある「桃太郎」では、仕手[しで](主役)の桃太郎は自らを意富加牟豆美の命と名乗ります。おとぎ話の桃太郎は川に流れてきた桃の実から生まれ、お爺さんとお婆さん(伊耶那岐の命・伊耶那美の命)が育てる。桃とは言霊百神の事であり、百神の原理より生まれた太郎(長男)と言えば、三貴子(みはしらのうづみこ)天照大神、月読命、須佐之男命の一番上の子、即ち天照大神のこととなります。古事記神話の桃の子三つとは五十音言霊図の一番終わりの列(五半母音)の結論を表わします。そのヱヲウの三音が桃の子(み)三つという事になりますから、意富加牟豆美の命と天照大神とは同じ内容であることが分ります。

最後(いやはて)にその妹伊耶那美の命、身みづから追ひ来ましき。

黄泉国の言葉から作成する八種の文字原理全部と高天原以外の外国の文化すべてが、伊耶那岐の命が手にした桃の子三つの真理には遠く及ばない事を知って引き返してしまいましたので、黄泉国には高天原の言霊原理に太刀打ちする事が出来るものは一つもなくなりましたので、黄泉国の文明創造の責任者・主宰者である伊耶那美の命自身が自ら伊耶那岐の命を追いかけて来ました。いよいよ高天原と黄泉国の両総覧者が向い合って力比べをする事となります。

ここに千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、その石を中に置きて、おのもおのも対(む)き立たして、事戸(ことど)を度(わた)す時に、

ここまでは黄泉国、これから先は高天原という境界線が黄泉比良坂です。その高天原と黄泉国との境界線に千引の石を、越す事ができないものとして据え置いて、その千引の石を中にして伊耶那岐の命と伊耶那美の命とは各自向き合って立ち、言葉の戸(事戸)を境界線に沿って張りめぐらす時に、の意味となります。事戸を度す事を日本書紀では「絶妻の誓し」(ことづまのわたし)と書いております。即ち夫婦の離婚の宣言という事になります。事戸または言戸を夫婦の中に置きわたす事とは、夫と妻とが双方の関係を絶って(事戸)、今まで共通していた言葉に戸を立て、話が通じなくなってしまう事も同様に夫婦離婚という意味と受取られます。高天原を構成する言霊五十音を伊耶那岐・美の二神は協力して生んで来ました。それなのに今になって離婚する事態に立ち至ったのは如何なる訳でありましょうか。

先ず千引(ちびき)の石(いは)の解釈から始めます。千引の石の千引とは道引き、または血引きと考えられます。石(いは)は五十葉(いは)で五十音言霊の事です。字引きとは字の意味・内容を示す書の事です。千引を道(ち)引きととれば、道である物事の道理・原理である五十音となります。千引を血引きととれば、伊耶那岐の命と伊耶那美の命両方の血を引いて生れた言霊五十音、特にその中の三十二個の言霊子音の事と解することが出来ます。

伊耶那岐の命は妻神伊耶那美の命を追って客観世界研究の領域である黄泉国へ行き、その文化を体験し、その不整備・雑然さに驚いて主観世界の整備された高天原へ逃げて来ました。その高天原への帰途、追いかけて来る黄泉国の一切の客観世界の文化を、十拳の剣を後手に振る事によって分析・検討し、その上に自己内に自覚した建御雷の男の神という原理を投入し、その原理によるならば、一切の黄泉国の文化を摂取して、人類文明の創造の糧として役立たせ、所を得しめる事ができる事を證明したのであります。その検討・分析の結果の一つとして、黄泉国の客観世界研究の方法は、伊耶那岐の命が完成・自覚した高天原の主観世界の研究方法とは全く異質のものであり、黄泉国の研究とその成果は、少なくともその研究の究極の完成を見るまでは、高天原の精神文明の成果と比較・照合・附会(ごじつける)する事が出来ないという事がはっきり分ったのであります。その為に伊耶那岐の命は黄泉国の一切の主義・主張・研究・言語・文字の内容を確認し終り、高天原へ帰還する直前に、黄泉国と高天原の境界線である黄泉比良坂に於て、言霊五十音、特にその奥義である言霊子音三十二個を以て言葉の戸を立て廻らし、黄泉国の思想が決して高天原には入って来られない様に定め、伊耶那岐の命は伊耶那美の命に事戸の度し、日本書紀で謂う「絶妻の誓し」(ことづまのわたし)なる離婚宣言をする事となります。古事記の中のこの「事戸の度し」は単なる岐美二神の離婚の物語として述べられておりますが、言霊学上の「事戸の度し」は、人類の文明創造上の厳然たる法則として、精神界の法則と物質界の法則とは、その研究途上の法則にあっては、決して同一場に於て論議することの出来ないものであるという大原則を宣言したものなのであります。古事記の編者、太安万侶が完成された精神文明と、発展し続け、遠い将来に於ての完成が望まれる物質科学文明との双方にわたりかくも深い洞察力を持っていた事を思う時、畏敬の念を新たにするのであります。

(以下次号)