i 子様のための古事記の言霊百神 03

i 子様のための古事記の言霊百神 3

古事記は神々の系譜がづらづらと出てきますが、読み進めていくと、国生みの後神生みがあります。神が神を生むわけですが、前に出てくる神と産まれた神とが同じ「神」という言葉使いです。

神についての説明はあまりにも広範囲に渡っていますので、こうこうだというよりウィキペディアを読んでもらった方が、手っとり早いのでそうしてください。

日本の神々はこうで、神道の神々はこうだということも一切抜きにして、このブログでは神様を産んでしまいたいと思います。古事記は高天原に神は成るというのですから、その通りに神を産んでみたいと思います。

赤ちゃんが乳を飲みます。

乳房をまさぐり乳首を探し、口と乳首が交わり合わさります

「口」と乳首が「交」わるで「咬」むで、咬みになり、咬み、神に成りました。

これが神の語源です。

これは神の語源を探ったものですが、実は取り扱い方が逆なのです。

つまり、「カミ、カム」という言葉を知っていて、その言葉の組み合わせを利用して作られた言葉の前提があるから、そういったことも言えるのです。

問題は、乳児が乳房に吸いつくそのことが「カ」と発音されることにあります。この生理的、生物的、人間的、超人的、神秘的、超歴史的、超空間的な出来事が「カ」に成ることを確かめることになります。

乳を吸う児を見るときには宇宙の崇高感があります。人が、男が、愛して止まない乳房への愛着があります。これが神の語源であり、語源の人間的な始まりであり、人間的な始まりの宇宙感情であり、宇宙感情への創造意思共感であります。

乳房を探してまさぐりのはどの児もどの動物も同じです。ほんの一瞬の行為ですが、吸いつく以前不安定な探す行為があります。その迷いを超えた後に確固とした、吸いつきが始まります。この迷いながら乳首を捕らえた瞬間が「カ」です。

この一連の過程を、古事記の冒頭は、

あめつちの、= アの目が付いて地に成る、赤子の主体が求めて乳房に達する、

その初めの時、、

高天原に、= 赤子の精神領域にそして直ちに現象領域に、

成りませる神、= 創造された宇宙意思共有領域ができる、

と述べています。

この初めの時の神と出来た後の神を同じ言葉で表現していたので、全世界史的な混乱がありました。

オノゴロ島の段落に、

古事記では初めの神を「天神」、

働く主体と働きかけられる客体(児と乳房)を「命( ミコト)」、

その結果を「神」と、

分けています。

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10-2。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

神は咬みと書いたからといって、蛇が咬み付くというような恐ろしい結果現象を思うのでなく、ことの初めの直前のこと、直前の心の出来事と捕らえてください。現象として現れた予兆でもなく、過去データーからの予想でもありません。

空即是色色即是空の空といったもので表現しやすいのですが、仏教の空はその後が全然続かないので、空とするのも適当でもないようです。

そこで「神」というのが一番いいようですが、数千年の歴史がこびりついてしまっていますから、神と言ってもその心は当分伝わらないでしょう。

ましてや赤子が乳に吸いつくその瞬間が神だ、と言っても理解できないことでしょう。しかしそこにある、言葉、言葉の指すもの、言葉の内容を了解する以前の、言葉の発せられる瞬間には、言葉以前の言葉、発せられる言葉以前の言葉があります。

「神」を発するには「かみ」と二語を発するのですが、カとミは連続した一語の神となる前に、「カ」を了解了承したカとミの連続です。連続はカを持って始まりますが、初めはどしてもカでなくてはならず、続きはミでなくてはなりません。

そうするとそこには発声以前に「カミ」であるものが内包されていないとカミにならないのです。その内包され前提されたカミは二語で構成されていますから、そのはじめのカを問題にしてみます。

前回は乳のみ行為を取り上げましたが、乳のみ行為が神ではなく、その行為に含まれている瞬発時の構造の中に神がいるということを示すためでした。つまり瞬発時の構造に「カ」があることを赤子が乳を吸い込むことにかけて、口と交わるで咬み、カミ、としました。

そこで今度は瞬発時の構造にある「カ」を捕らえることになります。心の動きの原理的な話なので、神に関心のあるいろいろな出来事現象理解体験があって、こうこうなのではという比較がなされるかとおもいます。

ここでは現象と現象間の比較解釈にまではまだまだ先の話なので、比喩みたいに出てくることが、稚児が咬むというような形ででてきますが、その直接の現象を指していません。そこで抽象される原理を探そうというものです。

古事記には「成りませる神」とあって、のちのちも一貫しています。現代では創造主という思いで神が前提になっていますから、成る神はなかなか受け入れられないでしょう。これをでんぐり返ししないと前に進めません。

神は人が考える通りに神になったのに、神が人を世界を作ったとか、神は自分は隠れているから勝手に人間に考えさせているとか、になっています。

逆立ちされた神という対象があちら側に建てられてしまい、それを拝んでいますから、人間側には何もやることがなく、せいぜい祈りと拝むことしかできません。成るりませる神ははそのような向こう側にいる神のことではありません。

ここでは向こう側にいる神からの降神、神体験、神秘感情等は扱いません。

誰でもが実証できて、自証できることが相手においても他証できる神を探そうとするものです。そのための原理を建てようとするものです。

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10-3。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は 、 天の御中主(みなかぬし)の神。』

いまここで冒頭の句を古事記の真意に沿って読みくだしてみましょう。

アの目が付いて地に(あ・め・つ・ち)なる始めの時、心の領域にできてくる相手世界の存在(神、カミ、噛み合う)に気付き,それが自分に始めて了解確認できてこうだと名付けられるものは(カ・ミと名付けられるものは)、先天の御中主の神です。

とんでもない読み下し文のようで、こんな下手な訳し方では誰にも理解できそうもない、ちょっとやそっとでは通じそうもない読み下し文です。

しかし古事記の冒頭はこうしか読めないというつもりでやっているのですが、それにしてもまずいですね。

神代の巻はこの冒頭の文が何回も繰り返されつつ上昇循環してゆき、複雑になっていくものです。ここさえ分かれば後は応用問題みたいなものとなっています。

ですので、このア・メ・ツ・チ・・・神代の巻きに、人間の全部、世界史の全てが凝縮されています。アの目が付いて地に成る=アメツチは人間の心と、その創造世界全部のことですので、心から分かってしまえばこんな風に分解解説など余計なものです。

書き始めれば世界に流れたと同じ時間だけが必要になり、当然そんなことはできません。

それでもそれをやってしまったのが古代大和です。どうやったかのかというと、大和言葉を発明し、『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は 、 天の御中主(みなかぬし)の神。』という文章を発明したことです。

注意したいのは、これは古事記の文章で千数百年前のものですが、それは表記されたものということであって、その伝承され実行されてきた考えは五千~八千年以前に発明されたものの伝承です。

何十万年前からの石器とか土器の使用とかは、物と物との作用反作用の学習修得の結果の伝承で、ラッコが石を使って貝を割り中身を食べても、言語によって社会を創造できないみたいなものです。

人の歴史は言語による人為的な社会創造から始まりました。主体的な意識のアの目が付いて、人為的な区別を世の中に創造しなければ人類の歴史とはなりません。物理の相互作用の発見利用は自然過程の延長です。

そんな歴史はどのように始まったかといえば、大和の日本語が成立してから世界に伝搬して歴史が始まりました。世界の言葉と日本語との関係はここが発信源です。

主語述語修飾語の構文が違っても、それらがあるということは意識の流れから世界のどの言語にも共通です。自然言語と呼ばれ対象指し示すものの取り入れ方が、約束事によって決められていきました。新しい約束事で作られた人工言語もありますが、言語規範の約束事があるという点では全ての言語に共通です。

ここでの唯一の例外としてあるのが、大和言葉の日本語です。大和言葉の日本語のみが、約束事として対象を取り入れるのではなく、対象の内容をそのまま指し示す言葉としています。

この世界唯一の言語規範である大和の日本語が出来上がったときに、世界の歴史が動き始めたのです。これは数万年の歴史を非常識なひいき目で見たものととらえられそうです。これ以上は強く主張しませんが、同じ構造で次のようなこともあります。

世界文化の発進源もここにあります。例えば世界宗教、世界の古代思想との共通性も大和のフトマニ言霊学の色々に伝搬された形です。

世界宗教が労苦で始まるのが特徴ですが、宗教以前、世界には民話、伝承、神話がありました。

宗教以前の話は非常におおらかで理想社会や幸福な生活をうたったものが多いのです。人々の直截な生活や思い、出来事を扱っていて、拝む要素がほとんどありません。民話伝承時代には、豊かさへの希求はあっても、明るい生き方は失われていません。

宗教思想はある特定の時期に以前の民話とは違った形で一斉に世界に配布されている形をとっています。宗教の場合はその頒布伝搬に必ず神が立てられています。その神の役割はほぼ決まっていて、人々の意気消沈を避けるため、拝むことで保証するものとなっています。

自然に楽しい生活からの変化があり、つまり、世界にはびこり始めた人々の意気消沈萎縮の原因を見抜いていたものがいて、この世界の流れを決めていた存在がいたということです。この歴史的史実を持った証明はそう簡単ではありませんが、いつか上記の方向がとられることでしょう。ここではこれ以上深入りはできません。

宗教以前の世界があったということに気付いてもらえれば、当然、宗教と共に神も創造されたものではないかという思いも出てきます。

現在は神様は元々いたということになっていますから、宗教も後からできたといっても、神はいたので、宗教は神が作ったということになっています。

つまり、民話、神話、伝承時代の何もなくても楽しく満足していた古代に使用されていた生活意識の大本は「カミ」と呼ばれていましたが、宗教時代になって人々の意気消沈萎縮を救うものも、古代からの「カミ」という名前を引き継いだということです。

その後は独自な名前やら神という漢字やらが配当され発達してきました。

ですので宗教時代から現代に至っても、神は古代神話時代の豊かなおおらかさも隠し持っているのです。

そこで神話時代から、宗教時代、現代までに至る神はその性格を拝む相手となるように変えました。意識の対象そのものの生きる力動因から、外にある拝む対象になってそこから生きる力動をもらうものになりました。

古代には、カのヒ(日、霊、火)を直接感じて戴いていたものが、それらを外部対象となった果実=カのミ( 実、身、 (体) )から力動をもらうことになってしまったのです。

その構成要素を残しているのが、世界で唯一の人の心を直接現わす神道=心道です。現代の解釈では民俗的な自然崇拝の宗教になっていますが、それは宗教時代に生まれた神信仰の宗教から見ただけのもので、ひとの心の生きていく動きからする本来の心の「カミ」の「宗教」です。

そこで現代までの宗教時代の「神」と神話時代から引き継がれた「カミ」と心の動きの「かみ」とが同じ言葉使いですので、この「かみ」を解明しなくてはなりません。

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10-4。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

宇宙や世界を作ったという話には神様は結構口出ししますが、宗教以前の民話神話伝承の世界、理想社会には口をつぐみます。歴史的にはここに、宗教が創造される以降の次元とは違う世界を人類は通過していました。

宗教と神が切り離せないように、宗教は人の心の外に神がいないと成り立ちません。現代は多くの人々の気付きによって、心の宗教というようなことが言われるようになりました。

その心に目を向けてそれを何と言うかというと、まだ言葉がありません。既成の宗教でもなく、宗教と呼んでいいのかも分からず、自分の心が神だと言い切る自身がまだありません。また社会もそこまで準備されていません。

歴史上ときどきあちこちでピカリピカリと強い意志が光りましたが、自らの心を神とするには至りませんでした。自らの光を語り自証のこととして教えていきますが、相手の心の中で証明しようとする他証の術を持たないからです。多くの教祖や教えや体験があっても、自分の体験内容に自分を収束するしか手本を示しません。光の道を歩めとは言っても、その実現は各人に任され将来の到達目標でしかありません。

しかし宗教の弱点に気付く兆候は既にあちこちにあります。いまのところは既成宗教、神、の無能無力との対比で現れてきているようですが、既成宗教、神、を否定することなく自分で乗り越えようとする方向にあるようです。

よく言われるように、神を必要とされる以前には、自然の威力を神格化して心の外部に置いたのではありません。心の創造物としてお話しを作ったのです。大昔、心と自然の威力との乖離はありませんでした。

自然の脅威は自然の脅威として心に現れたときには、心の外部にある脅威を減らす条件はそこにある自然しかないからです。所有物が多く物持ちで失う危険があるわけではなし、得られた知識が訂正されるわけでも、非常に多くある行動の選択肢に迷うわけでもありません。外部の力によって心の萎縮を助けてもらうだけの物質的条件が豊かにあったわけではないからです。

それでも精神的な不安恐怖はあったことでしょう。病気や外敵に襲われることもあったでしょう。そういった精神的な不安に対処するのは、科学技術があったわけでもなく、今度は自分の肉体以外ないのです。肉体を武装し保護するものが貧弱ですから、それら外部に頼るものへの依存への恐怖の転化はなく、自身の肉体の力量だけが頼りだったでしょう。現代にすれば医療処置医療保護に頼るといっても、自分の肉体と生きる意志への執着が心の不安を克服するものとなっているようなものでしょう。

ということで古代には自分の物質的精神的な不安萎縮を外部に求める条件が無いので、外部の威力である神を立てることが無かったと思われます。ですので拝跪し拝む対象でなく、お話し語り合う民話のような形となったのかと思われます。

心に生まれた自然の威力やあるいは神体験や見神などを、心から追いやり外部に結びつけるのは心の成す技で、それなりの理由があるはずです。それらを外にある権威に結びつける条件が無ければ、意識の想話機能としてのお話しが残るだけではないでしょうか。

心の経験をそこで終わったものとして心を止めてしまい、心に内在している対象から、体験したという物象にしてそれを対象として扱い、心の外にあるものとして扱うようになると、自分の外に何かあるものが想定されていきます。

自分の心の中にある実を外部にある実としてしまうからです。心の実をものとして扱い出しますとどうしても、物としての対象比較の世界に移動していきます。比較の元は自分の心なのにそれを物扱いにしていますから、自分の心の不思議な動因に匹敵する相手は自然の力か神しかいません。

自然の力はそれなりには納得できますから、残る神の力が相手です。自分の力を外部に投影する構造がなければ、それを自分に受け取ることもできません。自分を超えた力を自分の中で計量するメカニズムがあって始めて外部の力を感じるのです。

自然の力と自分とは比べ物になりません。風が吹くのと息を吹きかけるのとでは格段の差がありますが、風が神になることはありません。そこに風の神が成立するには、自分が風となって風を起こす他者となったとき、風のようにできるかというところから、自分は風ではないが、自分の影である風を吹く外部の者を定立したギャップの感覚が必要です。

このギャップが外部に自律的に設定されると、自己との比較が可能になりますから、そこに自分の矮小さが感じられることになってきます。それらに色々な要素、物質生産、社会の拡大、知識の増長、交通の発達などで、修得習慣を得ていって、自分の外部の世界が拡がりその前に跪くことになります。

しかしそれにしても、自分の経験獲得した世界が自分を超えて外部に立ち上がる構造がどこかになければなりません。

そこで、自分に確固としたものがなければ神を設定できないのではないかとなります。

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10-5。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

そこで今回は自分に確固としたものがなければ神を設定できない、という話になります。不安不安定どうするか分からないから神にすがるのに、それは確固たるものがあるからだなどというわたしの言うことは、おかしなことを言っているように聞こえます。どういうことでしょうか。

前回は自分の中に外部に投影できる物があるのではないかというところで終わりました。各自が持っているこの自身の中にあるもの、その原理的な正体を探ってみたい。

それには、カミという言葉を分析してみるのが早いようです。

動物でも赤子でも乳を吸うときには、乳首を探します。手を使い鼻を使い口を使って乳房をまさぐり、捜し当てた後に乳首と口とがかみ合う(カミ、咬み、神、合う)事に成ります。古事記の冒頭の言葉を思い出してください。

『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は 、 天の御中主(みなかぬし)の神。』

赤子が乳を求める時、母と子の授乳の統合一致に成りませる様子を現わす名前は、天の御中主の神。

全くそのもののことと思いませんか。

動物と違って母親は乳首のある場所まで子供を導きます。(動物もゴロンと横になって吸いやすい姿勢をとりますが。)子供が乳首を探すように、母親は乳首を与えるとき、上手にうまく吸いついてくれるように乳房を与えます。ここに瞬間的にうまくいくか大丈夫だろうかという一抹の不安が生じます。

赤子はまさぐり探し、母親は与えようと惑いを起こします。この両者が一致して合わさったとき授乳が成立します。

この咬み合う瞬間に大げさに言えば電撃が走り幸せの雷光が輝き、咬み合う充実感が得られます。

ここまでは神(カミ、咬み)の生まれる前段階です。普通に行けば母親は自分に幸せを得ているので神様の出番にまで至りません。この段階でも神への感謝喜悦を得たり感じたりはありますが、話の進行上そこまではまだ話さないことにします。

いわばここまでではカミの「カ」を探っている段階です。瞬時の流れではありますがそれなりに時間の経過があります。咬み合う「カ」、神の「カ」の出現からそれを実在現象として得るまでは、まだある過程を経過しなくてはなりません。

乳を吸う場合ならここまでにくるには、子供の空腹感と母親の与えたい思いがまずありました。何々感と何々の思いというように当初は精神意識上のできごとです。それが乳首にめぐり合え与えた今は、乳の匂い、手のぬくもり、肌の感触、唇の吸引力等、両者ともに生理物理的な作用反作用として現れています。

母親の与えたいという思いが子供との生理的物理的な物象との接触に変化しています。この物象は乳を与えた、唇が触れた、吸いつかれた、吸われた、噛まれた等の一連の物理現象で現れます。母親は子を抱きながら一連の多くのまぜこぜの物理現象から授乳に適当な現象を選択しています。

一つ一つの物理現象の反応をまぜこぜで全部受け取っていきますが、そこには経験概念や修得知識、新しい疑問、等々の意識内のできごとや心のできごとが、乳首と唇という生理物理的な介在を通してまぜこぜになり、掻き回されていきます。

この段階では、意識と物象の撹拌が起こっています。

乳を与えたいと思っても、その思いだけでは何も生みません。また物理生理条件が整っていても、思いや欲望が無ければ何も生みません。

この過程をさらに抽象して行きますと、

天地の初発(はじめ)の時、

何事かの初めの時、

高天(たかま)の原(はら)に

自他の統体の領域の原っぱに

成りませる神の名(みな)は 、

後に現象となって生まれ出てくるかみ合わされたその状態状況を示す名前は、

天の御中主(みなかぬし)の神。

中心を持った全体という名の神。

とでもなるでしょう。

今度はこの冒頭の古事記の文章から外を見ていきますと、全ての人の行為、思い、感じ、考えること等の始まりのことに該当しているのが分かります。

ことの始まるその一瞬に立ち会ってみてください、パソコンのスイッチを入れる瞬間、画面を見つめる瞬間、何か字が書いてあるのを見る瞬間、あの人は何をいっているのかなと思いがよぎる瞬間、等々があります。このと切れのない連続した瞬間が日常生活となり、世界宇宙を相手とすることになっています。

わたしたちはこの原初の一点を得て、それはあるという確信を得ることから生きることを始めています。

その最初を何と言おうかということで、御中主と名付けました。御中主に関してはまだこの後の話ですのでまずはカミを先にします。

何かの初めの時、原初的な統一体があって、その何かがあるから何かが分かるという自分がいます。そこに何か分ければ分かるものがあって、分けるから分かるものがあります。

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10-6。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

ここでの話を授乳から始めて、古事記の冒頭に近づくように抽象しましたが、経験と冒頭の言葉を一挙に並べたようなので話の飛躍を感じられているかもしれません。そこでもう少し間をちぢめてみましょう。

カミの「カ」からその次に移ろうと思います。カミは二語ですからカの次はミと成りますが、では何故カとミが自然に続いていくのかといえば、カからミへの時空を通過することを了解しているからです。

この二語の間には一つの過程があって、話したり聞いたりする言葉ではほんの一瞬のできごとですが、書き出していくと百の行程にも及ぶ長い物語が出てきます。カとミは物理現象としては違った空気振動、異なった光点の繋がりです。神という一語の漢字を読むときでも、カとミの二語が使用され、音読する意識の流れの中にも明らかに移り行きの途中に相違があります。

物理的には様々な複雑な現れとなりますが、意識の中ではカ・ミで統一されています。カミと言うにしろ神にしろ、予見的な出来上がったカミの予兆を感じていて、このカミ、神と言わねばならないような全体的な統一された元締めが言霊です。

ですので現象となった言葉に宿る霊的なパワーとか、いい言葉悪い言葉というのはずっと後の出来事ですので、フトマニ言霊学ではそういった現象の香りを付けてしまっている言葉は原初の扱いの対象になりません。なぜなら単音において既に得られている予兆があるからです。

ところで、そんなことがあろうと無かろうと、そこから現れる物理的な作用反作用や創造の形に、断絶が現れたり、何事も無かったりして日常は過ぎていきます。ですが、それらの持続の流れに何らかの変化があると、カミが独立して自分の意識の領域から飛び出していくことがあります。

例えばもともと意識領域内にあるものは意識から出ることはできません。乳を与えたいという「思い」は意識の中にあるので、それが出るときには、物理的な乳房を与えるという物質世界の仕種へとなっていきます。

「思い」と仕種は連続していますが、別々の次元のものです。ここの事象にあることを見極めないと、全歴史上の混乱というか、人間意識上の渾沌というか、主体と客体、主観と客観、自己と自己の創造物、等のこの世の関係が、混乱したまま進みます。つまりその一つが神とは何か問題です。

乳を与えるとき、ちゃんと出るかな、ちゃんと吸ってくれるかなと一抹の不安が過ります。この不安は全ての人間行為に生じるもので、どの場面のはじまりにも出てくる天然自然の法則でもあります。ですので例を授乳にこだわる事ももうなく、確信するという意識行為も、自分に自明なことも、その直前においては惑いを自分に煮詰めて消化する事から始まっています。

フトマニ言霊学での「カ」の位置づけを見ると、予兆を構成する先天の活動が意識内で一つの考えにまとまり、そのまとまった考えが言葉に組み結ばれ、発声器官によって実際に物象の形をとり、物理的な形でのやりとりがあり(脳内化学物質、イオンのやりとり、音声を話す聞く等)、受動側に聞かれる形をとって、復誦検討されていきます。

この物象を復誦して自己に検討するところが「カ」になります。前段で物象となったものが自分に押し寄せてきて、自分に手にするのですが、その正体を特定するに至りません。ですので自分に物象としてあることは分かっていても、その現象を確定できていない状態です。

「カ」というのは与えられた何か分からないものが自分の手前にありますが、それを了解確認しようとして仮に掻き混ぜたり、掛けたり、借りたり貸したりして、内容を明瞭化しようとするときの音です。その関わりに時間空間的な変化もありますから、それぞれの区切られた場所でのカが作られます。

自分の目前にカなるものがあっても、それを現象として確定できないので、こんどはそれをあれこれいじ繰り回し掻き混ぜ、確証を得るため四方八方にから回し見をします。また比較の材料を投入して混ぜ合わします。そこでの心の動きの特徴は、確定に至らない事象に戸惑いまごつくことです。

意味内容に迷い振り回され、ああだこうだといいながら迷いは晴れません。了解する内容が見つかればいいのですが、その時は見つけ了解された内容をこうだと、名指し名をつけます。

しかし、はっきりしないまま、あるけど名指しできないまま、こんな風なものだというような不安定不特定なものをあるとしてしまうことがあります。確定できない内容をそのまま内実・身としてしまうことです。

こうしてここに不特定不確定なままの「カ」が身となることが起きます。

「カ」の心の内容である戸惑いがそのまま身となり実を立ててしまうことになりました。ここに「カ」と「ミ」が結ばれるようになります。

「カ」は自分の内容である戸惑いを明瞭化し納得してそれに名指しすることができないまま、その不特定内容を実体としました。「カ」の状態のままそれを実体としましたので、そのことを言うのに「カ」で済ますこと以上のことが付け加わったことになります。

通常ならば言霊発生の順序として「カ」の次に「マ」が来るのですが、「マ」が来るというのは、「マ」の次の「ナ」がくるから「マ」が立てられています。「カ」から「マ」にいかず、「カ」であるが続きを「マ」にしない戸惑いの内容を立てる言葉を探してそこに「ミ」を見出しました。

ややこしい言い方で申し訳ないですが、次の次元を表す言葉があるからそれが生きてくるのです。赤子は高次の青年成人に対していわれるもので、上位次元の範疇がなければ赤子を区別するものがありません。

このことは同様に神についてもいわれることで、神に対してそれ以上の上位の範疇を多かれ少なかれ知ってか知らずしてか持っているために、神ということができるのです。もちろん神を最高次元の規範としてそれ以上の言葉を考えられないというのも、あって結構ですがそうなるにはそのような形成過程をまだこれから通過していかねばならないのです。

ここまででは言葉の要素としてカの次にミが来たというだけで、カミという言葉の運用や意味や、カミが神になって持つようになる権威や威力感などにひれ伏す等のことまでにはいっていません。

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10-7。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

明瞭化する前にそのまま実体化してしまう「ミ」が付いてカミとなりました。

とはいっても神を信じる方、神の神秘体験のある方たちには神の実在は明瞭なこととしてあります。体験があるのだから迷うところ戸惑うところなどあるわけがないということです。

実際にあることあったことなので否定することも精神的な幻視だ幻想だということもありません。あると分かっていていると感じています。

ところでカのこころをよく見ると、あること感じていることはよく分かっているのに相手にはよく伝わっていないことがあります。というより、自分には自明なのに、相手に伝える手段を持たないことが普通です。一生懸命に神はいると主張しますが、自分の主張を他者において証明することができません。

自分の主張の根拠が自分に得た経験感覚にしかありませんから、自らには十分保証できても、相手にはさっぱりです。これは宗教家の最高位にいる方たちも同じことで、自分の信じる内容を「あなたの信仰があなたを救った。信ずる者は救われる。」等のように相手の現在での努力目標や未来への基本要求等にして、時の経過の中に放ちます。

そのため多くの矛盾が直ちに噴出してきて、信じる為に命を投げ出すことが美徳にまでなってしまっています。

つまり、自分で思い感じる神が最高位の範疇であるため、自他ともに説明する言葉を持てないのです。山頂の様子を見るには、山頂に昇り見渡すことが必要で、それによって様子のあれこれがわかるのに、自分にとっては登ったという感じだけでしゃべり、相手には理解への期待だけを投げかけるしかないからです。

こうなるはずですから信じなさいと言われ、素晴らしいことが実現することもよくあることです。もちろんその反対のことも多い。自分の経験判断を他人には信でしか表現できないのが宗教です。しかし日常茶飯事でも信など相手にしていたら生きていけないことはそれこそ多くあります。

もし日常会話の世界に信を持ち込めば、直ちに会話が通じなくなり、一切の科学文明が立ち行かなくなります。それでも宗教が自らを主張するにはそれなりの生きていく上の根拠があるとしているからです。

それがおそらく「カ」「ミ」です。ただし「神」になるまではまだまだ先のことで、この時点ではカ・ミというだけです。

カの心はそこにあるのに、それが何だか分からないのでまだ名が付けられません。内実を示すことなく不安定なまま、仮想され構築されていきます。何だか分からないけれど自分に与えられているものがあることだけははっきりしています。主体的心理的には、相手を特定できない迷いが特徴的に出てきます。

古事記ではこの特徴を捕らえて「カ」の言霊を大戸惑子(おほとまどひこ)の神とよんでいます。大いなる惑いをどの戸を開けて安置しようかというものです。稚児の口が乳首のどこに安置されるかにも通じます。

こうしてみると文頭のアメツチ、アの目が付いて地になる、そのものをここに見れるでしょう。わたし、あなた、稚児が相手、乳房に向い、主体側の意図内容をはっきりさせようとすることに通じます。

アの目が付いて地に成る、主体の意図目標が付いて相手と結ばれる、というのは普通の日常のことです。つまり私たちは日々毎時毎秒「カ」を創造していることになります。「カミ」の「カ」を創造しているのは私たち自身なのでした。

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10-8。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

カミについての思いつきや気づいたことを書くだけになってしまい、まるでフトマニ言霊学の体裁をとっていません。そもそもその何とか学というものが分かっていないからこうなってしまうので仕方のないことです。

それでもやはり古事記という原理教科書があるのですから、少しは真似てみないと話になりません。カミの「カ」を生んでみようと真似てみましょう。

『天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、』

カミという時はカ・ミと言えるだけの条件が揃っていないと言葉になりません。

そして不思議なことにカミをどのように書くか知らなくとも、私たちはカミと謂われればカミのことを言っているのだなと了解できます。

カミと言おうとし出すその時、これが、天地の初発の時、です。まだカミと言い出す以前のことです。何か言い出して発せられて相手に向かう何者かがあるだろうそのような時、精神意識の領域に高天原と呼ばれる場所があります。その場所が働き始めます。現代的には脳髄のどこかの分野が働いてということになるでしょう。

そこに意識の目覚め、気になることが起きて知覚が揺り動かされます。潜在意識が顕在意識になるとか、深層心理の深海から意識の表層に沸き上がるものがあるとかというようにも語れるでしょう。

しかし、まだ意識とか知覚とか言っても、はっきりしたものとして指し示すものはありません。カミのカを発音しようとしているのですが、それが「カ」であることもまだはっきりしていないということです。何も無いけど何かある、空即是色色即是空の状態です。

カミという時、カミのカが発音されるのですが、そのカの潜在が顕在化するといえば簡単に理解できそうに思えます。ですが、では、どのような構造でどのような手順でとなると、脳髄に電極を差し込んでいるところですので、シナプスの信号を受け取るまでしばらくお待ちください、というのが現代科学の最先端でしょうか。

脳化学の最先端も、古事記の思想によって創造創設された既に一万年以上も前の言語によって表されていることに未だに気づいていないようです。一万年以上も前に創造された言葉が、最先端の発見発明を規定しているのです。時に応じた新語造語があるといっても、分解分析していったら言葉が足らなくなったというだけのことです。そこで分解した分とその総合分の新語ができていきます。これは古事記の黄泉国(よもつくに)の話しに既に書かれているので、一万年前からの既定路線なのです。

しかも分析分解後の名称を名付けても、名付け方も既定の言語体系から決められています。もちろんそのことも古事記に書かれています。

結局カミのカという時の脳内の動きに新しい発見があるため、新語による名付けが必要になりますが、発見に至る意識の動きも、発見したものに名付ける意識の働きも、ここには何も真の発見はありません。相変わらず同じ言葉と同じ論理構造で、一万年前以前の古事記の思想を無意識的に繰り返しているだけなのです。

新しい現象には対処していきますが、対応する意識の構造は大昔と変わっていないのです。大和の日本語という世界で唯一の構造になる言語を使用していくわけです。現象の変化は目まぐるしいものですが、その奥があります。

シナプスの動きも働きも生理学上の物質の作用反作用化学変化でしかなく、カミのカと言った時の脳内での電気信号とか化学物質の変化を追求できるでしょうが、意識上のことは何にも明らかになりません。

結局またもとに戻って、なぜカミのカと言えるのかを問うことになります。

その意識上の原理論が古事記の冒頭になっています。超世界的な大発見であったため今まで伝承されてきました。真の意味が分からず、神だ神話だといわれながらも、分からないながらも無数の傍証とともに現存しています。原意が分からないのですから、幾ら傍証があっても結局何も分からないのですが、分からないまま持ち越し伝承しなくてはならないと強く強制されているのが、大和の日本全体です。

これは日本に課せられた霊統とでもいうもので、陰に陽に世界歴史上輝くことが止まなかったものです。その大本は言葉にあり、言葉が大和語であるためにこうして果てしなく、さまざまな形で持続しているものです。

さて、カミのカと言う時の頭脳内の働きは科学者に任せて、ここでは心の動きとして見ていきましょう。カという時とミという時では脳髄内に違いが見つかるでしょうが、その場所をつついてもワンともニャーとも言いません。人がカと発生する時は全く別のことで、脳化学も脳内科学も意識は物質の運動だというのとも手を切らばなりません。

精神の完璧なあんちょこである古事記の冒頭があるから、世界人類は大船に乗ったつもりでいてもいいのですが、歴史はそうはならないように仕組まれています。もちろん誰かが五千年の後を見据えて仕組んだものです。まもなくその正体も明かされるでしょうが、現在に生きている我々はそこまでタッチできません。仕掛け人と同じ力量を持つ人なら可能ですが。

完璧な精神原論であるということはそれだけ抽象度も高いので、個別の事例に適応するには十分に消化できていないと、私のような訳の分からない書き方になってしまいます。そんなことを言いながらも楽しいので続けます。

カミのカという時、子が生まれる前に両親がいるように、カを生む両親がいます。両親は子供ではないので別の存在ですが、子供の実在の先天性を持っています。

ここで精神分析とか心理学とかでいう潜在、物理学でいうポテンシャル等を持ち出せば理解し易いように感じます。しかし、学問でいう潜在はあるものの潜在を追求していくので、本人の主体的行為によるあっちこっち、うろうろ、ふらふらする主体による創造、ころころ変わる心の自覚に対処できません。あったものの潜在という意味合いが強いものです。

フトマニ言霊学での先天性は、学問的な潜在性とは違って、子供は両親のDNAを持って物理的生理的心理的に受け継いだものを持っているというだけではなく、主体的な意思行為を込めることができます。子は両親からという既定の物理生理過程に人為的な創造行為が加わることができます。つまり、子は両親を選んで生まれるということが内包されているどころか、自分自身をも選んで自分を創造していきます。

カミのカを発音することに関してなら、学問的には、「カ」とあるものの過去にあった姿の系列と現在の姿と未来の可能性とがワンセットになって出てくるでしょうが、フトマニ言霊学ではそもそもの初めからうろうろの戸惑いがまといついた光輝いたりしていきます。

そこで古事記は特徴的な言葉遣いで上巻を始めることになります。

「あめつち(天地)の初発の時」と。

既に書いたごとく「天地(てんち)」と読めば学問体系の中に古事記は埋没していき何時かはおとぎ話となって消滅していくものです。

そうではなく、「天地(あめつち)」と読めば大和の日本語を知っている人がいるかぎり、ア・メ・ツ・チは生き続けます。

なぜなら、アメツチとは、ア(あ)の目(め)が付(つ)いて地(ち)に成ることを言ったもので、言葉の一つ一つが単音の要素となっているからです。

この単音要素が生きている限り大昔からのフトマニ言霊思想は不滅なのです。

そこで現代科学思想の発展にともなって神の居場所がなくなり、未来の希望の中にさえ置いておけなくなってきました。どの宗教思想も現代を取り込むことはできず返って個人の努力と奮闘の中に、最後といってもいい居所を見出したがっているところです。

それはカミを神としてしまっているからで、カミを「か・み」とすることを忘れて、「カ」が全く無視されているからです。

どういうことでしょうか。

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10-9。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

カミのカと言う時には、主体側客体側、自他両方の側にカであることが了解される条件があり、その条件の実行が双方向に可能でなければなりません。この一連の経過を語っていくのが冒頭の百神で、それを精神の心の動きの原理としたのが古事記の冒頭となっています。

もう既にこんな題目は何回か唱えてきましたが、実際にそれを示すことがなかったので、古事記が心の原理論といっても眉唾ものでした。ちゃんと示したいのですが、要するに私の力量では常識に敵わないのです。みなさんもこんなブログを読むだけでなくご自分で確かめてください。

カという時の潜在性とか前提とか言い、先天構造とか言っていますが、ここでカミのカを設定して考えてしまうと前に進めません。もちろん言葉の上では「カ」と言う前にカがあると了解されるのですが、設計図があって部品があって完成品があるみたいな感じで、一連の経過が既定路線でしかでてきません。

人の感じ思い行為することは、ころころうろうろ目茶苦茶変わりますから、既定の設計図から始めるとそれらのことが考慮されていません。ぜんぜん心の動きとなりません。

要するにカミのカという時にはカに包含される過去現在未来の時処位(時間空間次元)を全て表しているという言葉遣いが必要とされます。そうしないとこれは私の意見、それはあなた個人の考えということで終わってしまいます。了解したかしないか、分かったか分からないか、分かれば分かったでそんなものですか、ハイ、さようなら、で終わります。

人間精神の人類の秘宝である古事記の冒頭を前にしてそんなもったいないことはできません。(余計な感傷ばかりで中身無し、とまた言われそう。)

つまり、宇宙全体をひっくるめた初めの「カ」というものを設定するのか、

何かを始めようとするとき「カ」の宇宙全体が初めて出てくるのか、

この両者の違いが根本になります。

一見言葉遊びのように見えます。世間並みに哲学用語とか認識論での専門語を使えば返って分かり易くなるのかもしれませんが、そういった言葉も知らないし、特殊な言葉を使えば理解できるというものではないし、人類の秘宝が相手なのですから、じっくりと納得できるまで時間をかけていきます。

二つの比較している文章に宇宙全体などという言葉が出てくるから引っかかり易くなっています。例えば卵が先か鶏が先かで置き換えれば同じ問題になります。卵か鶏かの問題の回答はこうです。

まず出題者も回答者も鶏と卵を知ってるから、どちらが先が回答できないのです。卵も鶏も両方知っているというのは、時間経過を無視したものです。

両者を自然な時の流れ中に置いてみれば、初めは鶏か卵かどちらかしか知りません。鶏しか知らないときには鶏が生むのは卵です。

卵しか知らないときには、卵の孵るを待ってみると、出てくるのが、蛇だったりトカゲだったりペンギンだったりします。そして鶏が出てきたときに始めて、鶏を後で確認することになります。

鶏しか知らなかったときには、鶏は常に卵を生むしかありません。そしてその生まれた卵からまた鶏が生まれた時に親鳥が先にいたことを確認できます。

卵を始めに知った時には、卵から出てくるものは何だか分かりません。殻が破られてはじめて何がでるかを知ります。

自然の成長生成過程ならばこうなります。最初から卵も鶏も知っていてその相関関係を知っているということはありません。

後に習い覚えた知識があるために、鶏と卵を同列に置くことができるのです。そして同列に置くというのは単なる知識概念上の扱いでのことです。

では、人間の意識の、心の流れの中ではどうなるでしょう。

宇宙全体が先かカミの「カ」、または神、が先かとなりますが、誰ももともと宇宙全体も、神も知っていません。(宇宙全体といっていますが別に全体でなくても宇宙だけでも、単に世界といっても、客観とか外界とかでもいいのですが。)

ここでまた、鶏と卵を使用してもいいのですが、今回の場合は、意識の中での、心の中での、出来事になり、意識に与えられた卵と鶏の意味になります。目前にいる実物を指したものではありません。

宇宙にしろ鶏にしろ、意識に言葉が与えられるのは決まった順序はありません。鶏を先に知ったり、卵を先に知ったり、宇宙世界という言葉を先に知ったり神と言う言葉を先に知ったりで、先に知った方が先です。回答としてはこれだけでいいのですが、成長とともに様々な知識概念が入ってきますから、今度は過去概念とのまぜこぜを攪拌して仕上げることが問題となります。

この例でも分かる通り、後からやってきた概念が元ある知識と同じ釜(意識)の中に入れられるというだけのことです。神という言葉を先に覚えた人は後からくる科学知識や神概念と混ぜてうまい具合に料理を作らねばならないし、宇宙世界を先に覚えた人は、やはり後からくる科学思想や神体験と折り合いを付けなければなりません。

ですので、ここでの問題は、神が先か宇宙が先かとはならないのです。いずれにしても、神にしろ宇宙世界にしろその言葉がやって来たということがまずあるのです。

冒頭ではこういっています。

『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は 、 天の御中主(みなかぬし)の神。』

『 神にしろ宇宙にしろ何でもいいからそういった言葉が初めに来た時、高天原という意識の領域に、心のあり方の対象がなり出てくる、それをまずは天の御中主といっておきましょう。』

卵を先に覚えるか鶏か、神を先に覚えるか宇宙世界か、そんなことは人それぞれなのです。

しかし、その何を先に覚えるかによらず、覚えて始まる意識と心の運動は全く同じ原理に従っているというのが、古事記の主張です。

このことを象徴的に「あめつち」といって暗喩呪示された表記では「天地」とかき、わざわざアメツチと読ませているのです。

そしてそのアメツチの心は、

ア(あ)の目(め)が付(つ)いて地(ち)に成る

ということです。ア(あ)というのは主体の心ということです。

アという主体の心(宇宙実在にしろ神にしろ、どちらが先にしろ)が動いて意識に昇った時に、心の精神領域に問題課題に立ち向かう高天原という、領域ができます。この領域が神の領域で、そこに出てくるものを神といいます。

ではそれを何故、カ・ミと言うのかが問題となります。

こうして一応、神が先か鶏かという以前に、古事記のフトマニ原理があるということになります。

古代においてはこの原理を神といっていたのです。神といっても鶏といっても、それらを名付ける心の動きが無ければ何事も始まらないことを知っていました。この物事を名付け、そしてそこから始まる力動を持つ人の心、自分の心をカミと言っていました。そして後にこの力動が変質して行って、神ということが始まりました。

でもそれはまだまだ後の話です。

しかし、大昔から昔話民話神話伝承には神が最初から出てくるじゃないかといわれることでしょう。

大昔の民話伝説時代と宗教の神支配の時代とではかなりの年代差があるので一緒にはできません。昔話民話時代の神と宗教時代の神は、一緒の性格性質とは言えないように、大昔の神話に出てくる神を宗教時代と同じように見ることもできません。

そこで言えるのは人の持つ想話機能があって、神、カ・ミをなるものを作りそう名付けたということです。この心の原理こそいつの時代にも変わらない、カ・ミであるということでしょう。

古事記の冒頭にそって「カ」の流れを見てみましょう。

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10-10。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

「カ」と言う時の流れ。

言葉を喋る、何かを考える等の初めの時、例えばカミのカを言い始める時、それはそれはほんの一瞬の出来事ですが、それを説明して書き出すと、百の手順になることが、一万年前に発見されました。現代のノーベル賞受賞者が何人かかろう真似のできない偉大な出来事でした。瞬時の出来事を百の過程に分析解説しただけではありません。この百の過程を人間の意識、心の動きの原理と見抜きました。つまり、人間の成すこと社会経済国家を造ること等が全てこの百の過程を経過していることを明きらかにし、その運用法を示しました。そして、ついには人間の歴史に適用して、現世紀の次に来るべき世界を示しておいたのです。

それは人間の心の原理に則っているため、預言や予想ではなく、こうなる世界として示されました。どこにそんな証拠があるのか。夢か戯言か大嘘か、せいぜい預言というぐらいまでなら許されるでしょうけど、心の原理に則ったこうこうこうなる世界だという耳など誰も持たないでしょう。

しかしそれが、古事記の上巻神代の巻きとして呪示されているのです。呪示というからには、それは解釈によるだろうと思われることでしょう。特殊な解釈ならそうなるだろう謎解きというわけですが、謎解きをしようという言葉そのものが心の原理によって作られていると知ったらことはでんぐり返しとなるでしょう。そして実際に大和の日本語はそのとおりのことを示しているのです。

カミという時の「カ」の流れを見ることで示してみましょう。

カと言う時その言う前があります。ものがある時そのものを有らせるなにもない場所があるように、カが出てくる場所があります。色即是空空即是色みたいなものです。しかしそこにカを有らしめるのは人においては意思の力動因になります。この当初の何も無い処にカが意思によって出てくる、そういった全体の世界のあり方が、あめつち(天地)といわれます。

意思の動因が主体主観となって客体客観に向かい、自己を実現します。この時のそれぞれ要素が冒頭の十七神です。つまりカという前に十七の神の領域の準備段階があるというわけです。意識とか認識論とかで語れば、カ以前の潜在的なカがある、で済ましてしまいそうですが古事記はここに十七の領域を見ています。

この十七の領域がj統体となって、主体客体の世界と主観客観の世界全体と、主客を取り結ぶ意思行為の全体を現し、その現象想像を現していきます。

ここでいう世界全体というのは、人は神を必要としているという以前に、神は人を必要としているということの両方を統合した姿です。それを歴史の動きの中に置いていき、これからの創造の方向に置き直していくことも含まれています。

例えば人が神の「カ」というとき、そのカのなかには様々な知識と概念に飾られたカであったり、何時か体験経験した神のカであったり、うれし楽し悔しい苦しの感情情緒の神のカであったり、どの神かの選択を躊躇し決定しようとしている時の神のカであったりします。

これらの統体が人の感じ考えられるだけの神と言うときの神です。人はそのどれかをもって、そのどれかに、宇宙全体をひっくるめた初めの「カ」というものを設定していき、またそのように体験を解していきます。

それに対して、前回にはそのもう一方にある、何かを始めようとするとき「カ」の宇宙全体が初めて出てくる立場を加えておきました。かみのカというときに、カの内容を最初から持っていないがそのカの内容か成長創造されるかみのカを持っているという立場です。

考えたこと知っていること感じたこと等自分にあるものを全部あるとして、あるだけのものをカとするか、

膨らみ始める元の小さい風船を大きく創造していき、際限の無い拡張ができるとするカの立場との二者があります。

この二者があるといっても、それらが運用される意識上の原理があり、それが冒頭十七神となっています。

カミのカと言うときには、言う側にも聞く側にもカであることが了解できる先天の時処位が共通に存在していないと結果がでません。「くう」と言ったとき、ここに先天性が同一でないと、一人は腹が減って「喰う」を思い、他方は無門関の「空」について思っているようなもので、話が合いません。

ことの始まりにはまず、ことの先天性があります。それがアメツチ(アの目が付いて地に成る)のアです。それは先天的なものですから何も説明できるものも、規定できるものもありません。しかしそれが無いことには両者間に会話も成り立ちません。それを現代語では宇宙とか世界とか次元とか言っています。

あるのがはっきり分かっていながらまだ無く、無いからといってそれから逸脱することはできず、掴めないままはっきり見入っているが、どこを見るのか戸惑う、その瞬間の動きが始まりにはあります。

時間的には今で空間的には自分のいるここです。もしカと言おうとするときに考えてしまうと、そこに出てくるのは過去の概念と交渉を持ったなんらかの説明可能なカとなります。意識の流れはこんなことにはお構いなしで、何を細かいことをつついていると感じることでしょう。

しかし、これから出て始まるカを既知既存のカとしてしまうと、そこからは道は開けず解釈しか出てこなくなります。これがいろいろな場面で起きるときには、大問題を起こしたり悲劇をもたらしたり無駄なことをする羽目になったりしていきます。

古事記はここで事の初めには「成りませる神」がいるというだけです。成りませる神となっていますが、神さんがこんにちはと出てくるのではなく、か・み、カとなったミ、カをミしたもの、カのミが成りませるということです。その心の構造にちょうどよい漢語にあったのが神という言葉で、それを借りてきて「カミ」と読ましました。漢語の発音ではカ・ミからは遠いもので(ジン、シン、シェン)、そう読んでしまっては、心の構造が現れてこないので、どうしてもカ・ミと読ますようにしてあります。

そこで、どうしても、カ・ミを追求していくことになります。漢字の意味合いで神をもらい、こころの構造動きではカ・ミとなるものを探すことになります。

そのまず初めが、天の御中主の神が出てくる以前の「あめつちの初発のとき高天原に成りませる」ということです。

カ・ミという心の出てくる以前ですから、そんなものは何もありません。空ですが、空即是色の空です。仏教では空を悟るのに大変なのに、古事記では空、空即是色からスイスイと始めていきます。

古事記は人類未踏の最高の精神性を持ったものですが、誰も気づかずどこを読んでもそう見えないというのも驚きです。これは、古事記に係わる人にだけ映る鏡だからでしょうか。古事記との縁を切った昭和天皇はまことにもったいないことをしたように思えますが、古事記の精神の霊統から切れたわけではないので、何時かまもなく元に戻るでしょう。

すぐ話がずれてしまいます。

何も無いところに空のカ・ミのカを言おうとするとき「高天原に成りませる」とありますが、この高天原は心にある意識場、精神場ということですので、どこか山の彼方の高原を探しても見つかりません。何故高天原というのかといえば、空に対する相手はこれまた空でないと相手にならないからです。とはいっても、何もない空の高天原ということではなく、清浄無垢純粋な心のある場でないと、空の相手ができないという意味の高天原です。

高天原とは清浄無垢な意識場ということになります。よく言われるように赤子の心ということです。人は本来赤子であろうと成人であろうと、清浄無垢で空な高天原を所持しているので全て人に関すること世界宇宙に関することを受け入れることができます。ことの初めはそうなのですが、過去概念記憶の垢がすぐ出てくるので曇らされてしまいます。とはいっても古事記のフトマニ原理はこの瞬時の意識の流れに百神を見ていきます。

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10-11。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

高天原を意識場とするのは、原を場所として語呂合わせをしただけのものです。高天原はア・タカマハラナヤサ・ワという五十音図のア段の省略形です。つまり、空による受け取り方のこちら側主体側の原型です。(始めからわけの分からないことを言い出して申し訳ない)

事を受けるときに、自分は何々だ何に関心があり何に詳しいのだとか、自分の感情はこうで、こうしたい選択目標があるとかになると、最初から相手の全体世界を受け止めることができません。また体験経験を全面に出すと、自分の体験はこうであなたはそうなのかで、ハイさようならになってしまいます。

つまり受け取りの形その方法が自分の中で固定しています。それをア段の母音の並びで現した一例が、ア・カサタナハマヤラ・ワ、です。みてお分かりの通り、アワを挟んで中身が違います。

アという主体の心の動きが、タで始まるか、カで始まるかして、同じ主体の受動側であるワで了解される形の違いを現しています。

このア段の並びはまだ他にもあって、つまり五十音図は一つではないということ、例えば、感情情緒を表明するときのア段の並びは、ア・タカラハサナヤマ・ワになります。まだあるこれら心の動きを現した多くの五十音図の原理を貫いているのが、冒頭の百神になります。

ですので、ア・カサタナハマヤラ・ワの心の動きでカミのカをいうときと、ア・タカマハラナヤサ・ワの心の動きでカミのカをいうときでは、両者の時処位が違いますので、二人が話し合うと通じ合わないことになります。

ところで私の書いているこのブログは単なる知的な関心が主体です(情けないことですが今のところは仕方ありません)ので、知的概念の扱いの違いはもちろん、もともと、書いてあることが分からないという人や、分かりきったことをだらだら書いていると思う人もいます。同じ心の動きである同じ五十音図の言葉の並び方を使用していないからです。

古事記は原理ですから誰にしろ有無を言わせず従わなければなりません。そこでは扱い方解釈の違いが出てくるのじゃないかと当然なことのように意見が出ますが、その扱い解釈の違いを現していくのが大和の日本語という同じ原理に沿ったものなのであることを忘れています。

どっち向き、どっち側の意見を述べるにせよ古事記の記述と同じ原理で創造された大和の日本語のなかにいるのに気づきません。古事記はこの根本原理を扱っていますから、解釈の違いがあるとか無いとか言う前に、自分の表現原理が古事記によって生かされていることを知るべきです。

とはいっても古事記はそんな事は全然気にかけないように書かれていますから、私たちは自由に解釈しているように感じます。その実、古事記から自由を与えられてるのですが、それに気づくのも無視するのも自由というわけです。身体は自然の過程で自由に空気を取り入れるように作られましたが、大和の日本語は古代の聖人たちによって人工的に作られ、人々の言葉が自由に取り入れられるようになっています。

そこでカミのカというときには、カに自由の種が最初から乗ってしまっていると後に論争戦争になります。それを無くそうと仏陀とその弟子たちは二千年かけて悟りの技術を開発してきました。勝手に自由を乗せないための今今を切り取る技法を追求してきました。ところがそのことを悪く言うと、それができたとしても、せいぜい悟ったというだけに過ぎないのです。一生をそんな悟りを得るために消費しているだけなのです。ですので、現実からは浮いています。

古事記はそんな悟ることは当たり前の前提であるかのように、アの目が付いて地になる、あ・め・つ・ちだよ、ここから始めだよといいます。お釈迦様も実際びっくりしたことでしょう。こんなすごい思想が既にあったことを知って。(釈迦は大和のスメラミコトに教えを問うたという竹内文献があります。)

わたしが言い出すと無内容な宣伝みたいですのですぐ止めておきます。後に論争となるような種をわざわざ蒔くことはありません。

といってわたしがちゃんとしたことをできればいいのですが、そううまくは行っていないようです。タで始めるか、カで始めるかなど、そこに人間意識の根源の問題を見るだけの力量がわたしにないので、何かこじつけをごちゃごちゃ書いているようなものです。

カミのカと言い出して既に長いこと経ちますが未だにカを言い出していません。先天構造だ空だと言っているだけです。申し訳ない。

今回からはカと言いだすのに、ア・タカマハラナヤサ・ワの心の動きからのカだとか、ア・カサタナハマヤラ・ワの心の動きからカだとか、その他だとかを区別しなくてはならなくなりました。原理があるといっているのにわざと余計な問題を作っているみたいです。

(自己分析。きっと原理を語るだけの準備ができていない、自分でも理解していないものを語る自信がないからだ。

いや、原理を語ってしまったら、どこの誰でもそれに従うことになるのが当たり前なのに、そんな姿は見えそうに無く、語った自分のふがいなさに意気消沈してしまいそうだからだ。)

いずれにしても私たちはカミのカと言います。そうです。言ってしまいましょう。

しばし、沈黙。

「カ」。

私たちは準備された先天構造内に生きています。

冒頭十七神で、カと言えるだけの先天構造がある(カの先天構造)、

人は自分の心で主体的に考え動きます。

おのごろ島で、自分の心に先天構造を乗せるだけの心の領域ができます。(カの先天性が心で締める領域が確保される)

自分の心に先天構造を乗せるだけのこうぞうがなければなりません。

それが蛭(霊流)子と淡(アワ)島で、心の領域には先天構造に対応して普遍的に了解できる心の先天構造が作られます。(先天のカと自己の心内でのカが同一であることが確かめられる)

ここまでは先天の出来事で、自分でどうこうするものではありません。

そこで自分に感触を得られる現象を創造することになります。

島生みで、先天構造を自己の心の領域に移し替ていき、感触を与えていきます。(確保された領域内でカが出し入れができる)

ここに物象の形をとった後天現象が現れます。

こうして先天構造が心に用意された意識に乗ってくるようになります。

その過程は五十音言霊神で象徴されていきます。それぞれの心の領域を通過して後天物質性を帯びて交流可能となります。

神生みで、意識による表現となるための頭脳内でのイメージ形成が行われる(カのイメージができる)、

ついで、イメージが言葉と組まれていくイメージがカという言葉に結ばれる)、

ついで、組まれた表現となった言葉は了解されるための形をとる(結ばれたカが普遍的な物象性を持ったカになる)

ここまでで冒頭の五十神、カという形が出来てそれはカであるという要素の自己主張の基盤が出来ました。しかしそれは他者においてもカであることが証明されたわけではないので、その運用が続きます。

この後天現象を生むことは主体である自分にとっては同時に自分を生むことです。

そこには自分の不確定さに戸惑い、確かめ生んでいく姿が生命となっています。

この自らを確かめる自覚は後天現象を生んだ後に、はっきりと二方向に分かれます。

黄泉(よもつ)国と高天原とにです。

黄泉国は客観現象に安住した自分をそこに見るという自覚の仕方で、高天原は禊を通して洗う、アを祓う、選択をする自覚を得ることに分かれます。

そこでは、物象となったカは心内での自証であるカを他証であるカにしていきます。(自他合一の証明を求めて客観世界にカが出て行く)

出来上がった客観世界に留まりそこで自己主張と確認をこととすれば、黄泉国の住人であり、他者他物との和を求めれば高天原に昇っていきます。

この物象化されたカが客観世界の黄泉国(よもつくに)となり、それの選択運用が高天原になっていきます。

ついで、カの整理運用の自覚的な準備が始まります。ここからは意識の覚醒による自覚によるあ・め・つ・ちの始まりです。自覚の無い場合には、同じ過程が固定された自己主張となる過程になります。

どの場合でも原理経過は同じですから、光にも影にもなる仕方は同じです。

そのように言うと、自覚の有る無しが原理の上にあるように思えますが、その自覚というのがあ・め・つ・ちのアの目で、既に冒頭を飾っているものです。

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10-12。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

前回大急ぎでカミのカを巡って後天現象のカを作り、黄泉国(よもつくに)に留まる場合と高天原にいく場合とに分けました。高天原に行くときの特徴は他者との和の選択創造にあります。

そこでカミのカというときも同様で、「カ」は他者との和の選択創造の中にいなくては、次の「ミ」と調和できません。心においてカは創造されましたが、個人の意識上のことですから、これを一般において共有する過程があります。

ここに社会的な言葉の規範の創造が始まります。カと言った場合に社会的に通用するカであることが確かめられます。それにはカの社会性次元の相違とカで網羅する世界全体が含まれます。先天構造内に誰にでも通じるカの構造があることになります。

そしてまずは自己中心から始まりますが、自分が扱う材料は社会性を持った要素です。自分がカというカは先天から取られ、自分が使うカは先天と同じであることが自分に了解できています。

この段階では、自分から見ていく社会の方向ですから、その最終段階に出来るのは自証された規範です。自己主張、自己規範、自己体験経験、悟り、とかの自己を中心とした他者において証明する手だてがない事柄を打ち立てることです。

自己内で要素を扱う時には個人的な体験なのに、扱われる要素は社会的なものです。ここに個人的に扱い執着を持つ要素が社会性を持っているという、個と全体という問題が内包されているのが現れてきます。「愛しき我が汝妹の命を、子の一木に変えつるかも」。

自分はまず先天、そして社会的なカを了解しましたが、それの他者での了解はまだ知りません。またここに自分一人しかいない場合なら、自分の言う「カ」が社会性を持ったことをどのように知るのでしょうか。

いくら先天構造を真似たからといって、それだけで他者との社会的な関係は出てこないのです。一人で大声を出して、カカカミミミ、カミカミと言ったところでカミのカになりません。

誰かがカと言うとき、カはその人のカで、自証可能なカ以上には出ません。

しかし、このまま通用させてしまうことができるのが共同体社会です。印刷した紙にゼロを一つ多く付けたり、いろんなゼロを付けた紙を印刷して明日からはこれが通用する新貨幣としたり、このものにはこう名付けられたから、こう言えと強制されます。世界の言語は権威と強制によって自然発生性の上に社会契約が結ばれたことによって構築されたのでしょう。

その世界唯一の例外が完璧な人造言語である大和の日本語です。どの言語とも比較できどの言語とも比較するものがない、絶対独自な言葉となっています。その秘密は大和言葉の創造構成が古事記の冒頭通りに出来上がっていることにあります。

言葉は発音され聞いて了解された内容は指示された名を得ることですが、大和言葉は了解された内容がその事物の実相です。名は物理的な物象としての形をとりますが、心の中のイメージから来て、イメージは己の心の領域内に作られた先天世界から来ています。先天世界はただそこにある物としてだけならただの客観物ですが、主体が関わることによって始めて心と関係ができてきます。

このただの客観物と心との関係を時処位を通して語っていくのが古事記の冒頭です。その特徴は心に捕らえられた事物の実相がそのまま心で名付けられるところにあります。神を godや,dieu 等と言っても心の中の神意識とgod,やdieu等の発音とは別なものです。

しかし大和言葉では、カの意識のミとなったものがカミなのです。ゆっくりじっくり反省しながらカカカカの・ミと唱えると、それはカのミとなったものという意識が出てきます。とはいってもそう簡単ではないですが、ゴゴゴのゴッド等といっても、ディゥーディゥーといっても、意味は分かっても意識の実体は感じられません。

現代の日本語でも同じようなものですが、それでも、かき混ぜのカ、?くのカ、頭にカッカとくるのカ、囲うのカ、かっかと燃える火のカッカのカッカッカ、カーミーさん神さんカミさんのカ等を口ずさんでいると、そこにカで現されるものがあるように感じてきます。

カミのカと言うとき、カという意識の目が付いて地に成ったのがカですから、地にあると思われるものをこのように並べ立てると、そこにカの共通した意識実体みたいなものが、あちら側にあるように感じてきます。そしてまたカと言っている自分にもカの実相が感じられているような印象を得ます。

これはカの実相を感じる体験的なものですから、様々ですが、その様々な心の動きの原理を抽出してくれているのが古事記で言う、大戸惑子(おほとまどひこ)の神・言霊カです。じぶんにあることはあるのですが内容を確定するのにとまどう直前の姿です。こうして古事記の神の名を借りた援助を得ると、確かに掻き混ぜるカでも、神のカでも、囲うカでもそういった気がしてきます。

そんな気にさせる古事記は本物か、気にする自分は本物か、両方とも本物か、というところで次に進みます。

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10-13。神とは 咬み、噛み。神々の誕生。

神を火水(カミ)とする記述がよくあります。

立ち上る炎、流れ拡がる水の、縦横の経綸、輝き熱い陽気を持った火と冷たく刺す陰気な水の陰陽に神の交わる働き創造力を見たものでしょう。

また、火(か)という霊(ひ)、水(みず)という実(み)、というように霊・気と実・在にかけたものでもあるでしょう。

神は火と水だといっても象徴的な意味しか持たず、霊と実としてもその実相はまだ解けません。日月神示には次のように示されている。「世の元と申すものは火であるぞ、水であるぞ」。ここから言葉の連鎖で神とは世の元で、それは火と水だというようになってしまう。しり取り遊びにしかならないが、それなりに連絡しています。

神、かみ、をひっくり返すとミカで、甕(みか)になり、神名に甕速日神(ミカハヤヒ)や建御雷神 【紀】武甕槌神(タケミカヅチ)があり、焼き物では瓶になりますが、古代天火干しの時代なら粘土細工の干し物、より正確には皇室の成人式での壺切りの儀式の壺の中入っている粘土板で象徴される、五十音の粘土板のことでしょう。

神を火(か)水(み)のように書くように、甕(みか)も、かを火、霊(ひ、ほ)として、稲穂の穂(ほ)の字を配当すると、水(み)穂(ほ)になって、みずほができます。神の対極にあるみずほは、豊葦原の水穂国、日本の古名となります。霊とその実でできた国です。くに、霊を組んで似せたクニ、ヒを元とする日の本です。

霊(火か)と実(水み)の組合わせのことが、カミ神になりそうですが、それでもここまで書いてきたことは語呂合わせにしかなっていません。

というのも「カ」の実相体験から「カ」を創造してきていないからです。これは私のことで読者は既に「カ」の体験からカの追認実証をしているかもしれません。わたしの場合は概念知識の疑問を持つことから入っていますので、体験を軽視しがちですがそんなことは言っていられません。

知識概念から入ると最初にあるものは、過去の経験概念です。それを学んで知識を増やして消化して、土台を作っていきますが、土台が出来たときは自分の過去概念を固めたということで、過去に過去を継ぎ足しただけになります。

今までいろいろとカミについて書いてきましたが、知っていることを披露しているだけで、過去概念の風呂敷を拡げただけです。

それに反して、そういった知的な語呂合わせに入りきれない実在世界にいるのが、体験経験を持ってそこから動じないでいるひとたちです。何を言われようと自分の体験に合わなければ受け入れることが出来ません。

その替わり自分の体験も経験も他の人には伝えることが出来ずにジレンマを持つか孤高の人となるかになってしまっています。

その他にも経験の有る無し、知識の有る無しを欲しているだけの人もいます。それらの人は欲したものが手に入ればいいだけのものです。

ですのでこれら三者の間には和が成り立たず、お互いそれぞれの主張をしていくだけになります。神の神秘体験者は神はこういうものだといい、学識知識を探すものは、アリストテレスとパスカルの神の違いが気になり、知りたいと欲しているものは提出した疑問を知れば後は気にしません。

そこで古事記の原理を学ぶものはこれら三者を統一止揚すくい上げ全体の輪を提出できねばなりません。悟った坊主に頼んでも、学者に頼んでも、自分の領域以外はノータッチで、励ましの虚しい言葉しか返ってきません。

またそれぞれが自分の領域だけに住んで他のこと省みようとしませんし、しようとしてもそこに輪をもたらす方法手段、智慧の選択肢を提供できません。現代は全体会議とか世界フォーラムとかが盛んですが、そこではいつも未来の目標、到達努力の方向としてしか提案が出来ません。

ひつく神示というのがあって、それを古事記の冒頭の副読本とするといろいろ分かって来ることがあります。「足許から鳥が立つぞ、十理(トリ)たちて、暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ」と書いてあるところがあります。

足元(あし・もと)というのは、天津太祝詞音図・タカマハラナヤサ・のア段イ段の下のエオウの三段のことで、ここから三貴子を飛び立たせようというものです。

豊葦原の水穂国(日本の古名)のアシとその社会の運用原理を指していて、人々の生活をそのように導く方針となっているものです。

そこでカミのカをいうときも同様です。全体の輪を求めるには足元から「カ」を飛び立たせなければなりません。しかしそれぞれの立場で飛び立たせ方が違います。カミと神秘的なコンタクトをしたという人と学問的に概念を追求している人とは思うところが違います。それでも同じ言葉使いで表現していくのですから、そこには共通の意識構造があります。

そこのところをつく事で何か出てくるかやってみましょう。

誰かが、わたしが、「カ」というときそこにあるものはどんなものでしょうか。

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10-14。神とは。伊耶那岐の大神。

わたしが「カ」というとき、まず意志、意欲、意図、等自分が生きる度量の大きさの基盤が現れます。それは自覚の多少となってその人の現れとなります。

聞き知ったばかりの言葉をおうむ返しに意志も自覚もなく繰り返すことがあります。学者が時間をかけて研究して整理分析の結果の言葉にもまるで自覚のない事はよくある事です。神と交流があるという神秘体験もその時その場の与えられた向こうからの何かを得てそれを自覚と言い換えているだけの事があります。

いずれにしてもそこに自分というものを思ったものか考えたものか感じたものかかして立てていきます。自覚の有る無し多少に関わりなく、自覚と言われるものの全体を打ち立てていきます。経験的に知った言葉である「カ」の全体です。

聞きかじりであろうと研究成果であろうと神より与えられたと主張しようと、その人が自分が主張できる場が用意できているのです。その場に則り自他ともに交流流通し合える、(鳥が行き交う)安定した場があります。

その場のとり方で、いろんな場面が現れますが、そうなるまでの過程を古事記に沿ってみてみましょう。

・ 伊耶那岐の大神。 (自他合一規範の創造へ)

自分の意見を主張する場を保障しているのが、大和の日本語という言語場です。この上に各人の自覚と意志が乗っています。

まず各人のそれぞれの思い立った経験や概念をこの言語場へ投げ入れ自分が正当である事を確かめます。思い立ち発表したいものがあるからといって、自分を保障してくれない他の言語場へは行く事ができないのです。自己主張のよりどころを見ているとはいっても、実のところ、向こうから規制されていてそれに合わないものを自分でそぎ取り出さないだけなのです。

そこで自他との合一が保障されていることが分かれば、自分の心をその言語場へ運び入れます。カミの「カ」と言いたい、言える条件環境状況にあるかが確かめられます。(相変わらず普通に喋れば一秒にも満たない時間内のことを敷衍しているところですので。)

・道の長乳歯(みちのながちは)の神。(関連性と連続性)

そこで自分の主体側と客体側の合一が了解されれば、次の動きが始まります。「カ」というものの全時間空間次元の位置づけが、今自分が持っている時点で正確なものかが確かめられます。

ここで何も自覚なく聞きかじったものを繰り返すだけの場合でも、それなりの、自分が聞いたそのくらいは判断できるだから自分の意見ともなれるというような所有感の中にあります。自覚があればそれに越した事はありませんが、自覚がない場合には、自分の言葉の次元が分かりませんから、他者も自分と同じ次元だが分けの分からないことを述べているとなります。

ここでは経験次元のカなのか、感情次元のカなのか、概念のカなのかが自覚とともに振り分けられます。道理として自分が主張できるかが納得されると、「カ」といってもカの何なのかカのどこなのかと言うようなあり方が探されます。

・時量師(ときおかし)の神。(時処位の検討)

当初はカミのカ一般であったものが、知らず知らずのうちに自分でも、意義付けとか意味連関を加えている事がよくあります。より具体化していく過程になります。時処位など気にしていなくても、規制された言語場に既に入っていますからそちらの方から強制されてくることになります。気づかないまま、自分の考えが深まったように感じることもありますが、自覚的なものは何もありません。

すると面白いことがことが起きてきます。言語場(これを竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)といいますが。)から、無意識的に強制、無自覚的に創造したに過ぎなくとも自分なりの創造現象という感覚が得られますので、それを保持保守しようとしていきます。これが行き過ぎれば頑固者となりますが、多かれ少なかれ他者を排除したくなります。

・道俣(ちまた)の神。(分枝点方向の明瞭化)

自然の強制として自分でそのようなことを設定していきますので、そうある道の方向と別の方向との選択を各人が行うようになります。カミのカを喋っている場合なら自分で言っていることの、正否表裏左右の選択を自ら決定していきます。

・飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。(実相を明らかに組む)

そこで発音された「カ」は自分の作った自分のものという感じを帯びていますので、自分にとっては明らかなものとなっていきます。

こうして自分がカミのカというのは自分に正しく正当であることが自分には了解されてきて、最終的に「カ」と発音されます。(もっと後ですけど)

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今回のこの流れは、

[運用 24] 伊耶那岐の大神 (自他合一規範の創造へ)

[運用 25] 衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。』・・(自己主張の拠り所)

[運用 26] 道の長乳歯(みちのながちは)の神。』 ・・(関連性と連続性)

[運用 27] 時量師(ときおかし)の神。』 ・・(時処位の検討)

[運用 28] 煩累の大人(わずらひのうし)の神。』 ・・(曖昧性の排除)

[運用 29] 道俣(ちまた)の神。』・・(分枝点方向の明瞭化)

[運用 30] 飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。』 ・・(実相を明らかに組む)

をその順序のまま利用したものです。

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10-15。神とは。奥疎(おきさかる)・辺疎(へさかる)・の神。

飽咋の大人(あきぐひのうし)の神で、自分に経験があろうと無かろうと、知識概念に満ちていようと無かろうと、自分なりに主張できる神が出てきました。

飽咋の大人(あきぐひのうし)の神は仏教でいえば悟りを得た状態だし、他の宗教ならば神秘な見神の体験であるし、芸術の分野なら一匹の龍が吠えたところです。そんな大げさことを言わなくても、これは自分の思ったことだと言い張る強い主張を持つときなどにも該当するでしょう。

古事記はこれらの体験をこの後、「汚れ・けがれ)」として禊祓する道をしめしています。古代において、釈迦、モーゼ、キリスト等に教えを授けただけあって、彼らの限界も既に全部折り込み済みで教えを与えたようです。

なぜなら、見神や悟りで終わってしまうなら、あまりにも社会的に何にも役立たないものと思え、古事記の原理はそんなはずではないと見えるからです。

( こんなことを書いてもわたしが体験し、理解していてそれを実践止揚しているのではありません。この方向が正しいだろうとそう読み込んでいるのです。何しろ世界唯一の秘宝を解こうとするものですから、そう簡単ではありません。)

前回示した以下の七神は、

「伊耶那岐の大神 (自他合一規範の創造へ)

衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。』・・(自己主張の拠り所)

道の長乳歯(みちのながちは)の神。』 ・・(関連性と連続性)

時量師(ときおかし)の神。』 ・・(時処位の検討)

煩累の大人(わずらひのうし)の神。』 ・・(曖昧性の排除)

道俣(ちまた)の神。』・・(分枝点方向の明瞭化)

飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。』 ・・(実相を明らかに組む)」でした。

自分が主張した内容の実態を示すとこの七神のように分析されるというものでした。と同時に自分の主張する内容はこのように形成されているというものでした。

この過程のさいごに明らかに現れてくるのが、自分には当然明確であるところの自己主張の言葉です。それは宗教次元なり、芸術次元なり、知的な次元なりでそれぞれの言いかたになります。五感感覚の欲望次元では一般的に「経験、体験」と呼ばれるものです。

ですので今回はこの自己に明らかに与えれ組まれたもの(悟り、龍、体験等々)が穢れ(気枯れ)となる方向を見ていくものです。

カミのカと言うところですが、言うべきことは「カ」であることが自分には明瞭になった段階です。

せっかく自分にはカッカと明らかになって、誰にも有無を言わせずこうだと主張できるようになりました。

ところが明らかに自分のものであることを喋っているつもりでも、それを逆から見ると自分の意見に取り巻かれ巻き付かれ身動きができない状態でも或るのです。古事記はその巻き付かれることを手首飾りに巻き付かれるものという「手纏(たまき)」と表現しています。たまきは左右二つ、つまり発信側の母音列と受信側の半母音列になります。

前もってその部分を示しておくと、

・次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、

奥疎(おきさかる)の神。 ・・(主体側の出発整理)(エ次元の選択創造)

奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神。 ・・(主体側の選択創造性)

奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。』 ・・(主客の間隙を減らす)

・次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、

辺疎(へさかる)の神。 ・・(客体側の到着整理)

辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。 ・・(客体側の結果選択創造性)

辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。』 ・・(客主の間隙を減らす)

となって、六神が配当されています。

これが、人がこれは自分のものだと主張するその実態を創造して行った経緯を示したものです。元は借り物であっても、ちらりと閃いただけのアイデアであっても、どんな意見もそれなりに自信満々に主張されていくことができます。

自分の主張の始めから終わりまでを、自分のものとしてしまうものです。

カミのカというとき、どうしてもカ以外ではあり得ないその構造の説明ともなります。与えられた五十音図の中の一つの単語でありながら、誰もが「カ」であると、自信満々になって従わざるを得ないことになってしまうものです。その癖自分の発明発見したような自分に所有権があるような気持ちにさせるものです。

自分の語ろうとすることは他人の引用であれ自覚の有る無しに関わりなく自分の言葉として語ってしまうはめにさせられるその構造が示されます。自分では自分の創造物自己所有物という扱いになってしまうものです。

他人のものであれ盗んだものであれ自分のものという構造がここでできあがりますので、この各人の思い考えたことに関してそれぞれが自己所有感を持ってしまっています。そこで関係の無い次元からの、感情や気持ちが傷つけられることも、自分のこととして受け取りとてもまずい関係ができることさえあります。各人は五十音図から与えられ自分で創造したものなどなにもないのに、自己所有欲の虜となるからです。

先の六神はここではペアになっていて、

「次に投げ棄つる左(右)の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、」という前文とともに三者の「おき」と「へ」になっています。

おき(奥)は朝起きて始めるの「おき」のことで、へ(辺)は船の舳先、山の辺の一番端っこの終着点の「へ」です。五十音図の母音行と半母音行にあたります。

既に飽咋の大人(あきぐひのうし)で自分に明らかな喋りたいことを持ったのに、今更なぜまた五十音図の始めと終わりに(ア-ワ)にもどるかというところが要です。

ここ古事記では伊耶那岐の大神という自覚に成り立った神の系列が語られていますが、ブログでは自覚の有る無しに関わりなく行きます。その違いは語る内容を照らす規範の有る無しになります。

さて、自分に語るものがあるとはどういうものか。思いつきや閃きや沈思黙考、何かを見たり聞いたりして意識内に、自分が語るもの話したいものができてきました。

では感じたこと考えたことなどはどうして自分は話したくなり書きたくなりなどしてしまうのでしょうか。相手他者がいないときなどは独り言をしてまで喋ることもあります。自分の頭に到来したものを出したいとはどういうことでしょうか。あるいは病的に出さないことも起きます。

感じ考え思ったことを出すことも出さないことも、どうやらここに同じ構造の表出されるか留まるかの違いがあるようです。出さないときは出さないことで満足しています。相手他者との交流はなくても本人には不満の表情はみえません。出す人は出す人でどんな意見でも構わないので出していれば満足しています。(この場合は他者との交流がありますので反応ができますが、それは後の時間のことですので。)

この意識上の構造を示しているのが、 奥疎(おきさかる)の神以下のことになりそうです。

奥疎(おきさかる)の神。次に

奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神。次に

奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。

次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、

辺疎(へさかる)の神。次に

辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。次に

辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。

が配当されています。

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10-15の二。神とは。奥疎・辺疎の神。

別に喋らなくても言いものをしゃべってしまう、話したくないともないけど話す、というようなことは、社会生活交流の維持に規制されていなくてもよく起こることです。そもそもブログを書くことなどその典型的なものでしょう。病的な独り言のように相手構わずあることないことを書き綴っていくのです。「徒然草」も美文名文調を脇に置いておけばきっと同じ構造でしょう。

ここでの要点は頭脳内心の世界に黄泉国(よもつくに)を持ち込むところからきています。古事記の前段までの世界は客観物象世界と主体主観の対比を創造して構築してきました。ですので物象となった客体と主体との関係ができていました。

ここからは、頭脳内心そのものの時処位における、主体側と客体側の関係です。つまり心の中に黄泉国(よもつくに)を作ってしまうことがテーマとなります。

その端的な例は経験体験です。神との神秘体験であろうと、考えた末の創造していく体験であろうと、欲望実現の体験であろうと、他者相手と自分との関係が自分の頭脳内で、固定してその繰り返しを求めていきます。

ここには相手との物理的な関係の繰り返しの物理面と、それを受けいれ実行させていく頭脳内意識上での主体客体の精神的な関係ができています。

いままで哲学的にも主客の問題は扱われていましたが、ここからは主客を問題とする頭脳内が問題となります。主客の問題を扱うのではなくて、主客の問題を扱う頭脳の働きそのものをあつかうのです。

非常にややこしくいままで提起もされなかったような問題です。心理学や脳内科学などで「脳は何故考えることができるのか」などと問うことがありますが、それの物理科学生理的な研究は任せておいて、心の働きそのものとして見ていきます。

これをカミのカをいうことに関していうと、カミのカを見つけて言い出すそのカの由来や時処位や語源を説明するのではなく、カミのカというのが自分にできてしまったことを何故自分はいうのか、ということになり、カの意味内容形象とかには直接関係しなくなります。

こころを表明する言葉が心とは直接に関係の無い空気振動や光点の集まりやインクの染み方等の物象を創造するように、心の中においても同じプロセスが進行していきます。ここは頭脳内ですから、空気振動や光点を作ることにはなりません、それに代わる物があるはずです。

それが、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神がいつきたつ元となる、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)という精神音図です。この人間本来が所有している物象となっている精神音図があるがために、これに取りつかれ巻かれるのです。

しかしそれでもここを通過しないと、自分はどんな言葉の一つも発音しないのです。

ここの構造は黄泉国(よもつくに)のことが分かっていないと進めません。黄泉を死後死者の国としていてはぜんぜん古事記の真意は取れません。黄泉国(よもつくに)の説明も無くそれが前提になるというのはひどい矛盾した話です。ここは思案のしどころです。

心の中に、黄泉国(よもつくに)を作りそれを扱う神々として、

次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、

奥疎(おきさかる)の神。次に

奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神。次に

奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。

次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、

辺疎(へさかる)の神。次に

辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。次に

辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。

が配当されています。

心の中に思うことは、その思いが成り立つよりどころがなければなりません。心の拠り所は通常一つのフレーズとか体験で得た全体であったりしますが、時間空間的に元に戻りますと単音での拠り所が無ければならなくなります。「大志を抱け」にしても、単語を構成している単音が有効になっていて連結し合っているから単語になっているので、元を質せば単音での拠り所の問題です。

そこで単音での拠り所が頭脳内にあるということになります。これが客観世界での黄泉国のように心内での黄泉国になります。

この黄泉国(よもつくに)は各人および社会を従える大帝国ですからそう簡単には扱えません。

「次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる」をよく読むと、投げ捨てた向こうに落ちている手首飾りに成るとあります。つまり頭脳内での客観的なものの意味です。伊耶那岐の大神の、私の主体の活動はそこにあってその対極に捨てられたたまきというものに規範が成っているというものです。

わたしもあなたも自分の書くことは当然分かっているように書きます。ところが実は本当のところは分かっていないのです。自分の書くものは自分が所有していることは分かっているように思って書き話しているだけです。所有しているものを理解しているものとして、両者は別のことですが、脳内の次元でのすり替えが普通に起きてるのです。

後に各神を個別的に解説することになりますのでここでは大まかにいきます。

物象表象の仕方、表現、が八神(カグツチの頭からの)あるように、黄泉国(よもつくに)である客観世界の物象のあり方にも八神(八の雷神)あります。そして、古事記には書かれていませんが、というより、古事記は原理としての記述なので、いちいち繰り返したりしないで、エッセンスだけで綴られています。ですので、一回言ったことはそれがそのまま有効となっていて、書かなくても自動的に繰り返される物となっています。古事記の全体は冒頭のあめつちの一言と同じことです。冒頭でアメツチといったことは、終わりまで繰り返されているのです。

(あめつちは、アの目が付いて地に成る、とわたしは読んでいます。)

(天皇の言葉も一回言ったら取り返しができないというのも古事記の原理からきています。)

伊耶那岐の大神は黄泉国(よもつくに)の客観世界から出てきましたが、そこで暮らした黄泉国(よもつくに)の頭の運用法から、禊を済ませていないときにはまだ抜けでてはいません。身体を禊ぎして、今度は頭を禊祓えする番です。

オキサカル以下の神たちの直前はアキグイノウシです。この神は「次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神」で、帽子で象徴していますが、頭、感情情緒のア段のことです。その頭内でまといつている黄泉国で得てしまったので、その思考法を捨てたということです。

頭の中の黄泉国(よもつくに)は脳内科学でいけば、電気信号化学物質などのスイッチ移動でしょうが、心においては、先天の思考規範がそれに相当します。

そもそも伊耶那岐は物質世界を判断するにはもってこいの規範を持って黄泉国(よもつくに)に入ったのでした。その創造成果を見れば「愛しき我が汝妹の命」と間違うような客観物質文明文化を称賛し執着したものでした。しかし、その物質成果面でなく精神面に見入ったときにウジだらけの我良しの主張をする世界を見いだしたのです。

そこで将来を見越した恐れから清浄な高天原に戻ることにし、その原因を追求しながら帰還してきます。黄泉国での最大の欠陥は和の統合創造でした。

伊耶那岐の大神はこの世はウジたかれる世としましたが、何故そのような判断ができたのかといえば、先天の高天原の判断規範があったからです。それは全ての人が誰でも持っているあめつちのアの目です。どんな状態状況にいようと自分の目、アの目で見ればいいだけのものです。(言うのは簡単ですが、和の統合創造を元としたアの目を持つのは訓練がいります。どのようにどうするかなどというのはまだわたしでは恥ずかしいので伏せておきます。)

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10-15の三。神とは。奥疎・辺疎の神。 黄泉国(よもつくに)。

今回は精神界に黄泉国(よもつくに)を作ってみましょう。

普通に普通のことをやればそのまま心に黄泉国はできるので、特別にすることもないのですが、普通だ日常的なことだと納得するのはそう簡単ではないです。

こういったブログを書いていること自体が私の黄泉国(よもつくに)を作っていくことです。誰でも日々毎時毎分黄泉国の創造者です。

つまり判断の加わった創造をすることはそのまま黄泉の創造ということです。通常は自分の肯定的な方向から見ているので、自己意識の実現と思っていて、そのまま自分の創造者としての権利主張をしていきます。単に自分の意見を述べると言うときも同じです。では、その裏を、ウジのたかっている面を見てみましょう。

しかし、そのことは知的な概念次元には賛成反対があってそれぞれの裏を見るということではありません。五感感覚の体験次元から神秘経験まで全部ひっくるめてしまいますが、体験の構造や体験から得たものを検討するのでもありません。体験を基盤として自分の知識意識を形成するのは普通のことですが、自分の意識としてしまうそのことそのものについてです。

風呂敷を拡げすぎというか、話が飛びすぎか脈絡がないか、弁当の隅をつつき過ぎというか、自分でもそんな気はしていますが、やらせてみてください。何しろ古事記の冒頭は、アと発音して了解するだけの一秒の十分の一の時間に百神も用意してくれているので、少しは真似て使ってみたいと思うわけです。

精神意識内で誰もが自然と作ってしまうものについてです。

画面を見てそこに「画面」という字を確認します。そうするとそれを「画面」と固定します。その固定してしまう心持ちが黄泉国を作るということになります。字を知っている人は「がめん」と読まざるを得ず、それを当然と思う心持ちについてです。つまりカミのカというとき、それをカと主張してしまう心についてです。

馬鹿なおかしなことをことを言っているとお思いでしょうが、このような前提がないと次の禊祓えの出番がないのです。この連続した前提を欠いているというのも黄泉国の特徴です。神とは何か、禊とは何か、その他とは何かで、前提がなければその主張はどこへでも飛び交うことができます。つまり、うじたかれこころきてる主張になるのです。

改まってどういうものかと分析していくのはしんどいものを感じますがやってみましょう。

(なにしろ古事記という精神原理があるので、それに黙って当てはめるだけで誰でもできるのですから。とはいってもこれは小声で、そして、自分自身にも何の保障も無く。そしていまだに成果も無くと付け加えてもいいですけど。でも、不気味な地鳴りのような変化が世界中で始まっているのが聞こえませんか。)

主体である各人の、わたしの意識が何かに向かうとき、それぞれの意識次元の状況が現れます。腹減ったなとかあれなんだとかさあどうしようか、わぁきれいだなとか。

しかし、意識が何かに向かうその前に、何か意識が向かうことを保障している先天の全体構造や状況がなければなりません。わたしが存在している前に両親がいるようにです。

この同じ原理構造が、意識内において、腹減ったとかあれはなんだ、カミのカと言いたいとかの、意識上の先天の構造と状況が準備されています。

両親によって子供ができる要素が、父と母とその両者を結ぶ行為の三要素があって、現象結果として子が生まれます。

同様に今意識内にあるのは投げ捨てられた手首飾りとカミのカと言おうとしている心です。カと言おうとしても言おうとするだけの土俵を見つけなければなりません。それが父母の全体を象徴しているたまき(田巻き・田の言語場から巻き取り入れること)になります。ですのでここでは左右のたまきと言っており父母が揃っていなければならないと同時に、父から母へ渡す行為の道筋が揃ってなければなりません。

古事記の前段(衝き立つ船戸から飽咋の大人まで)を既に経過しているので、カミのカを言いたい人のカの内容の時処位は既に明らかになっています。つまり自分はこういうつもりでカミのカというもの、があります。

普通ならばそのままカと言えばいいのですが、そこまでで用意されているカは、物理物象発音次元までで用意されたものです。言う方の本人にとってはカといって間違いのない自分のカなのですが、他者に向けられたときに成立するものか有効なものなのかまだ不明なものです。

よく自分だけ納得している話といいますが、そんなものです。もちろん自分だけは納得了解していなければ話はできません。

ところがここに自分だけしか納得了解していないではないか、という世界に立ち止まっている状況が創出されています。そして自分だけが了解できる構造を作っているだけなのです。さらに自分だけは了解できなければ、自分が話しだす意味を見いだせなくなります。

つまり他者に話しかけるにも、その心の内は他者などどうでもいいという世界を確立しようとしています。もちろん現象的にいろいろなことがありますが、ここでは当面原理上の話、ことに単音での話をしています。いろんな現象になるにはこの後まだ通過する過程がありますので。

ここで自分のものであるという世界を作り出し、その世界からしか出てこれないことが、精神界での黄泉国(よもつくに)というわけです。内面的な真理や確信を確立することは、それに捕らわれ自らの真理判断だけが規範となっていきます。自分の経験から得られた判断や概念を唯一のものとしてしまい、そこを出発点とさぜるを得ませんが、そこからしか出発できなくなります。

客観的な主張、客観的な証拠、等の客観性を持ち出しても同じことです。ここでの問題は客観性ではなく客観性にしろ何にしろそれらを取り入れる心の構造を探っています。客観的だから客観的だとか、正しいとかではなく、独りよがりにしろ偏屈にしろそのような心持ちを各人は持てるし持っていること、意見主張の内容に関係なく自分のものとしてしまう必然の構造の問題です。

ですのでここでは、前段からのせっかくの生きた時処位を示す判断が、全て確立固定し動きのとれないとらわれの身となって死んでしまいます。自分の真理を確立するとは自分が死ぬこと、とはひどい言い方ですが仕方ありません。

左右のたまきは五十音図の母音側と半母音のことです。投げ捨てるというのはごみ箱行きではなくて、母音側、主体側の判断、半母音受動側の判断を投入するです。そうすると、六神の判断規範が出てくるです。

それぞれが奥(おき)と辺(へ)、奥津(おきつ)、辺津(へつ)の、疎(さかる)、那芸佐毘古(なぎさびこ)、甲斐弁羅(かいべら)のペアです。

物象世界の黄泉国を出てその時空次元全世界状況を得たにもかかわらず、そこには実践的な自他の統合された和の創造世界がありませんでした。

ところがそのことをよくみると、見ている自分の判断そのものに、実践的な自他の統合された和の創造世界が、意識内で作れていないことに気づきます。

富士山はきれいだというとき、その判断を自分の頭に持ち込むとその判断自身が一人立ちして自分を追いかけてくるのです。奥疎(おきさかる)の神が目覚めます。

この神が一度起き出すと、富士山はきれいだという言葉が絶対命令のような支配力を持ちます。富士山はきれいという立ち上がった言葉が他のことの上に君臨していきます。あるいはそこから続きの事象が引き出されるようになります。奥・津那芸佐毘古(つなぎさびこ)の神。自分の意識につながれてしまうのです。

ついで、意識は相手対象に向かうものですから、当初の奥(おき)た意識の元と相手対象となっている様々な事象との間の隔たりを無くして、自分の主張の正当性を確かめることです。富士はきれいだという自分の言葉が一番だということになります。

奥(おき)と辺(へ)のペアですから、辺(へ)の場合はわ行の受動側終着点側からになります。

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10-15の四。神とは。奥疎・辺疎の神。 甲斐と日月神示。

日月神示と呼ばれるものがあります。これは古事記冒頭のふとまに精神原理の解説副読本として読むと非常に参考となります。日月神示も古事記の冒頭同様に暗喩呪示で書かれてますからそのまま読んでも分かりませんが、全編が古事記冒頭の運用実用面も含めた暗喩となっていますから、原理解読に非常に役立ちます。

日月神示と表記されてますが、古事記のあめつちのアの目が付いて地に成ると同じように、ひつく、霊付く、言霊の付きかたを示したものです。ただし古事記がスメラミコトのために書かれていて、付いた霊(ひ)が地に成ることを示しいるのに反して、日月(ひつく)神示は民間人に降ろされているため、地に成る方策までは示されてはいません。

教えはこうだから黙って従えというように、教えの内容やその導き方は平俗な直接的な指示暗喩によっています。一般には率直簡単なミタマ磨きだけで十分で、禊祓えまで到達する高次な精神規範を用意することまでは求められていないからのようです。

その日月神示に奥津甲斐弁羅(かいべら)の神、辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神の甲斐についての言及があります。

一例だけしめすと、

「今迄の事は皆型でありたぞ、江戸の仕組もお山も甲斐の仕組も皆型ぞ、鳴門とうづうみの仕組も型して呉れよ。尾張の仕組も型早よう出して呉れよ。型済んだらいよいよ末代続くまことの世直しの御用にかからすぞ。」というのがあります。

型を早く切り出して片づけてくれといい、その一つに甲斐を含めています。 型と甲斐について述べ、型が済んだらまことの世直し、といっていますので、型とみられる事情を一つの全段階の次元に置いています。

字面上は難しい言葉もないし読めますが、そのまま読むと現代語で通じる単語の繋がりで読み込んでしまいます。熱心な日月神示ファンがいるようですが、現代語で通じる解釈に取りつかれたように制約されていて、せっかく言霊の精神原理を示していることに気づこうとしていないようです。

しかし、この神示の次元では、禊祓えの記述をわざと省いていますからもともとそのように導いているともみえます。普通に通用する現代語で理解できた範囲で魂を磨くようになっています。

それでも所々に出てくる暗示された言葉がありますので、そちらの方に目覚めるように下準備もされてもいます。つまり古事記の冒頭に関心を向けるためのものですが、全く自由に任されていて、古事記を読めとも言っていません。そんな中に出てくる甲斐ですので、無理して古事記を原典とするように気づかすこともないのですが、引用ついでに甲斐と型について述べてみます。

型はカタで、古事記には奥、辺津甲斐弁羅(おき・へつかいべら)の神がカタとは出てきません。ひつく神示はこういった指摘の宝庫で、翻訳された現代語でそのままタマミガキもできれば、高次な禊祓えに向かう、古事記の真意に向かう、ヒントも含まれているものです。

タカマハラナヤサというア段の運びがあります。小学校ではアカサタナハマヤラワのア段の運用を習っています。これは生活上の五感感覚よりする欲望充足、経済産業社会創造用につくられた、言葉の運用表である五十音図のア段です。

これに対して欲望充足を補佐してくれる経験知識概念を運用する言葉の運びがあります。たかまはらなやさの言葉の運びを学校では習いませんが、この過去概念の言葉の運びも習いません。それのア段が、あ・かたまはさなやら・わ、です。あかたまで始まる赤玉音図です。

先程の神示の引用は、今までの知識概念の応用に因った社会の運用は、それの片づいた後、実践的な智慧による自他の統合された和の創造世界になるというものです。もちろん人間主体側の介入によるもので、祈り待ち望めば成るというものではありません。

この時に必要とされる言葉の運用が、あ・たかまはらなやさ・わです。

カタというのは上記の赤玉音図のア段の母音を除くと、ア・カタマ、、、が、カタではじまることになっています。この概念知識の始まりかたの始めである「カタ」をとって、神示は型という漢字を当てはめて型といってしゃれたものです。形式の何年型という意識を持つ場合でも、過去概念知識のカタとして通用しています。

カタで始まる運用が済んだら世直し用の、あ・たかまはらなやさ・わ、の言語運用規範になるぞということにとです。

ちなみにひふみ祝詞には、ソヲタハクメ、カ、ウオエニサリエテ、とあり、それをタハ・、田葉(言霊音図の言霊)に組んで、そこにできる明らかな「カ」を「ウ」「オ」「エ」の各次元に区別しなさい(奥疎(おきさかる)辺疎(へさかる)・奥、辺津甲斐弁羅(つかいべら))と言っています。

甲斐だけなら、へだたりということですが、ひつく神示では古事記の六神全体をまとめて甲斐の仕組みと言っていっているようです。

カタの日常規範をタカマハラナヤサのタカにでんぐり返ししようということです。

カタを作ってしまうあ段。あ・かたまはさなやら・わ (概念知識の運用)

タカに作り替えるあ段。あ・たかまはらなやさ・わ (天照すの運用規範)

欲望表現のためのあ段。あ・かさたなはまやら・わ (欲望充足経済発展の運用規範)

ひつく神示では甲斐の仕組みといってペアになった六神全体のことのようです。カタ、型は固定された現象形式を示すように、カタで始まる意識の運用も心の中に固定した動きのないものを生んでしまいます。型という他と区別されたものが、古事記では、さかる-つなぎさ-つかいべら(疎、さかる-次に津那芸佐、つなぎさ、次に津甲斐弁羅、つかいべら)のように進行、創造されていくとされます。

意識内では甲斐、へだたり、をつくると同時にへだたりを無くすことで自分の主張ができてきます。あなたの見ているのはテレビだと主張したとき、主張する人はそれでいいのですが、そばにいる人はそうはいきません。テレビでなく天気予報だ、アナウンサーだ、音楽を聴いているだけだと、テレビを見ていると主張した人とは違う意見がでてきます。

これが「カ」という本人には全く明らかなことで、その場の全部をいっているつもりの言葉の運び方の「カ」です。

これは当人が喋る場合には当然そうでなくてはならないのですが、そこに誰か他者がいるとたちどころに反故されてしまうものです。当人は心の内的な努力によって、へだたりを無くそうと全状況時処位を取り入れようとしますが、すればするほど個人的独善的個別的になっていきます。

カタのカから始めるとそうならざるを得ませんが、古事記ここで頭脳内の主体側の判断規範と投げ込まれた主体側の言葉という対比で、六っつの過程があるといっているわけてです。

「カ」というのはそれほど強力な今後を決する力量を内包するものです。もちろんこのカは神、カミ、のカと同じカです。

自分の心の中に黄泉国をつくるとして書いていましたが、つくれたでしょうか。

全く通常のことでどこが黄泉だと感じているかもしれません。

そうです。黄泉国というの全く通常なことで、神のカということが黄泉国の創造のことなのでした。

今度はこの同じ「カ」を使って黄泉国とは反対の高天原の神の「カ」に作り替えないとなりません。その方策が、タから始める「カ」の運用方であるあ・たかまはらなやさ・わの習得、つまり禊祓えをすることです。 それによって智慧による実践的な自他の統合された和の創造世界が可能となります。

参考となる引用。

「ウの世界の音図を天津金木と申しますね。オの世界の音図を赤玉音図と申します。

古事記を見てごらんなさいませ。

「赤玉は緒さへ光れど」と出ていますよ。

「赤玉は緒さへ光れど」というのは、この赤玉音図のことを、よく表しているのです。

ものごとが過ぎ去ったあとに、その過ぎ去ったものを現在に思い起こして、それで研究する学問。

しっぽの光だけで研究する。それで古事記には、「赤玉は緒さへ光れど」とございます。

(島田正路)」

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10-16の一。神とは。 成りませる神。

古事記の冒頭の一文「天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は 、 天の御中主(みなかぬし)の神』を巡って、神とは何かの「カ」について長い間うろうろしてきました。数千年の歴史が相手ですのでここで進展があったなどとしたら大変なことでしょう。ノーベル賞の百個ぐらいもらわないと釣り合わないくらいです。しかし既に島田正路さんの努力によって真の道は明かされました。

「言霊百神」

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/

ところがおもしろいことに、ノーベル賞の百個の値打ちがあっても、「言霊百神」の値打ちはノーベル賞の百とか千個とかの値打ちを超えたところにありますから、一個づつしか授与できな人たちにはそんなものは無いに等しいのです。

それに島田氏を継ぐだけの頭脳が輩出されていませんので、このままの歴史がつづくでしょう。カミの「カ」をいう側の主体性は完了していても、客体側はさっぱり反応しないというところでしょうか。ガリレオが地球は動くといっても弾劾裁判をしてしまうのが人の歴史です。

それでもこうしたことも含めて「地球は動く」という人たちの地球世界規模での動きがやはり、古事記の冒頭百神の記述どおりとしたら驚かれることでしょう。(というより驚くだけの客観条件がまだないので、言うだけ無駄ですが。)

つまりこういう状態では、ガリレオも島田氏も人類の真理情報を発信していくことがほぼ独り言に等しいのです。また語る相手、理解者がいないのでそれを強制されるとも言えます。西行は「何事 の おはしますかは 知らねども かたじけなさの」と感じ涙を流し、日蓮は釈迦の教えや自分の教えなど太陽が昇った後のろうそくのと灯火みたいなものと、分かっていました。明治天皇は物理的な証拠を確認しました。現在は島田氏によって全解明は終了しましたが、つづいて読める人がいません。

ごうを煮やしたのか、出口なお女史や岡倉天明とかに神示を降ろしましたが、やはり肝心なところは明かしませんでした。ただ将来のためにすそ野を用意しておいたのでしょうか。どんちゃん騒ぎは暗闇の中でより多くの効果をもたらすでしょうから。

この間の先進的な事情を示した古事記の神たちは、前回の甲斐の仕組みの六神につづく八十禍津日(やそまがつひ)の神、次に 大禍津日(おほまがつひ)の神のことになります。これは穢れ(気枯れ)から生まれた災禍、凶事を示す神と原典にありますからそういっておけば、ここまでの時代なら言う側と聞く側は仲よくできるわけで、ここにふとまに言霊学はこうだと言い出すと波がたちます。また言ったとしても独り言にされてしまう時代ですので、今しばらくは静かに語りましょう。

甲斐の仕組みで成立したのは主体側にとっての完璧な主張、真理、経験概念等です。神の御言葉を聞け悔い改めよと述べ伝え歩いた人も当初はきちがい扱いでした。空を悟ったことを証明するのは信じてもらうことだけでした。

なぜなら神を語り空を悟りを語る人たちは、自らの位置づけは他者相手一般に対しては抽象的な次元にしかいないからです。あるいは異常に強い意志の表明をするだけでした。この両者が八十、大禍津日の神です。

原則的な強い意志の表明は他者にはあまりにも役に立たない口先だけの弱々しく力の無いものに映ります。また神とか真理とか悟りとかの言葉はそのままでは激しく強く、他者には心休まるものではないのです。ふとまに言霊学の真理を発信することも同じです。今のところは抽象的な独善として無視されるものです。「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」です。

さて、カミのカというときに当てはめればどうなるでしょうか。

実はここには絶対的な次元の断絶があって、そのまま続けることができません。寝た状態から起きる、立った状態から一歩歩きだすように、その前後には全く違う状態が出現します。

ここまでの神の出現を見ますと、たぐりに成る、頭に成る、杖に成る、たまきに成る等、いろんな神の出現の仕方がありましたが、これらは言語規範音図上の能動母音側か受動半母音側か、その間を結ぶ行為にあるかでした。

甲斐の仕組みの神たちも音図上から出てきて、主体的な心の内容をまとめることができました。自分に満足して自分に明瞭な自ら創造したとする真理を語るのですから、これほど喜ばしいことはありません。自分を高く掲げて自分を表明するのですから最高の高見に登ったようなものです。

自分に関するだけならここまでで充分です。自分に納得了解している真理、あるいは単なる考えを語るのですから。

しかし、他人がいて相手がいて社会の人々がいます。ここに自分一人がいて自分が最高であると思っているときに、相手が出てきたらどうなるでしょうか。そして社会生活では相手がいるのに自分の意見を主張するものです。またそのように仕向けられます。和をもらたす以前に自己主張をさせられます。

そこでは、自分の水準を維持するために自分の最高を自分だけの最高を示して自己顕示欲を満足させねばなりません。そこで語ることは自分だけには明瞭で最高の自分のためだけの言葉になります。そのままの自分を相手にぶつけるのが社交となっています。これが禍となるのは相手との交流の和が築けないからです。最初に智慧による実践的な自他の統合された和の創造世界を目指していないため、自分で作り上げたものが自分を邪魔していくのです。

ここからは他者、他物に成るのではなく、自分自身になるものを自覚していくことになります。

今までの神は五十音図の象徴物によって成った神でした。しかしここからは全く違って自分自身において成る神の話になります。自分で作る最高が、最高の邪魔者となるのです。このように黄泉国の采配者となります。

カミのカと言うとき各人の心に以上のような思いが染み込んでます。多くの知識や経験や感情などを経験していますからそのまま現れているわけではないですが、まず始めのカ、単音のその人のカをカミのカというときには自分がカということに間違いは感じていません。(カミを肯定しようと否定しようと同じ構造です。)

自分の言い出すカが強いとか弱いとか欠陥があるとか知っていながら話すことはないので、そのままカの発音になります。そしてここにカミのカが発音されることでしょう。

発音されたカは自分の了解の元にありますが、その後はどこに行くのでしょうか。紙に書かれて残るのか、周囲の雑音にかき消されるのか、発音を記憶している間だけ存在しているのか、いったいどこにいるのでしょうか。

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10-16の二。神とは。 成りませる神。

何とかカミのカは生まれたように思われますが、では「ミ」はどうしてどう繋げてカミにするのか。カと言った後カはどうなるのか。カを言ったことを記憶しているならその後にミが来て、カとミを繋げることができますが、そのときはカにミが付くのか、過去になったカとは関係なくミだけが誕生するのか、あるいはあるいはカ+ミではなく、カミという新しい言葉が誕生するのか。

時間の流れではカとミでは違った時間が流れますが、意識内では「カミ」という一体のものとなっています。この一体性から見ると、カミのカと言って来ましたが、実は、カミのカだったのか、カ・ミのカだったのかはっきりしません。

言葉が一つ増えただけでもうこんがらがってきます。カミというときカに何らかの差し障りがあって、カが聞こえずミだけ聞き取れることがあります。この時言った本人は分かっていますが聞く方に通じていません。物理的な通信流通が阻害され通じませんでしたが、本人ははっきり言いました。

この片ちんばのカはどこに行ったのでしょうか。

実は今書いている、どこに行ったかというのは、物理現象についていわれたものです。物理事象のそれぞれのとり方によって、ああだこうだこうなった、あるいは記憶となって脳髄に仕舞われた等となります。しかし脳髄の記憶へ仕舞われたのなら頭をちょん切れば記憶も無くなり何もかも終わりになります。

しかし、終わったのはその個人に関してだけで、相手他者から、社会からカミのカが消滅したのではありません。いつでもどこでも、聞き取れなかった相手の人にも蘇り現れてくるのです。ではカミのカはどこへ行ったのかと言えばいいのでしょうか。

カと言ってしまえば、それは物理法則に則ってことが運びます。カと言うことが物理的生理的なことですから、聞く方もそれに対応して作用反作用があります。カと聞こえなければ言った側か聞く側か媒体側かのどこかに支障があったのです。

しかし意識にとってはカと言われる前にカが準備され前提されていました。

カという前にカの現象は実在しませんが、カとならなくてはなりませんから、カとなる以前のカがあります。

しかし注意して下さい。そこに物理的に隠れていたリンゴが現れるように見ると、あったはずのものが現れたという潜在意識に解釈されます。潜在では自覚されていないがあるもの、心の深層にあるもの、潜んでいるものということで、後から「こんばんわ」とそのままでてくるというものです。

これは真っ赤なウソ、というか黄泉国の現れを指しているだけなのです。(心理学のシの字も知らないのに大風呂敷を拡げています。笑ってくれて結構ですが、前回にちょっと出したひつき神示では、この世の全知識概念はでんぐり返しするといっています。要するに現在ある理性的知性的な知識はひっくり返るということですから、笑う後には泣くこともあるかもしれませんよ。)

知識の出所とその成長をよく見てもらえれば(みんなよく見てるつもりですが)、例えば、神、カミについて多くの思いがそれぞれ出てくるようになっています。その出方に二つの違いがあって、普通は、記憶した覚えている過去概念を再構成していって発言するのと、喋っていることをその場で構成作っていくのとがあります。

1) 前者はあったものできたものを現在において掘り起こし行くだけのものです。後者はこれからどうなるか分かりもしないのに形付け肉付けをしていきます。

隠れていたあるものが出てくるのと、それぞれに形を作りながらでてくる、という出方をしてきます。

これはどちらが正しいとか真理とかいうものではなく、心の自然な動きです。

2) この心の自然の動きが上を向くと、自覚があるか無いかになり、自覚の無い前記二者は同類となります。

3) そしてここから、自覚の有る無しが始まりますが、今度はここに他者への自覚が有る無し=自他を統合した自覚の有る無しがあらわれ、ここの次元からは前者は禊祓え無しと有りの違いになります。

突然番号などうってしまいましたが、カミのカというとき、それぞれの次元が違うから、区別を付けたつもりです。

カミのカについてこれらの一つ一つの段階を踏んでいくことがちゃんとした説明になるのですが、禊祓えのことなど言いだしてしまい、文頭の一文をやっていながら最終章のことを書くわけにもいきません。

この禊祓えの終わった後でカミのカと言うとき、言い換えれば、カを禊祓えの言葉として言うならばということですが、古事記の百神全体を通して言い終わった時に、カを言い終えたことになります。

ただし、同じことを何べんも書いてくどいようですが、言うという心持ちのあり方のうち、既知の過去知識を繰り返すのなら、その新鮮さを感じようと感じまいと、成ってしまっているのの再発見新発見でしかなく、現在において創造発見したものではありません。

ということでカがどこへ行ったかに関しても、それぞれの次元によって行き場所が違い、出てくる場所が違います。

それをまとめて原理的にいえば先天世界に行ったとなるでしょう。先天世界の初めに戻ったという方がいいかもしれません。次の始めとなるミと同じ場所に戻ったのです。

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10-16の三。神とは。 成りませる神。

先天はどこにあるか。

カミのカと言おうとするとき、先天の事象がなければ現象となることは不可能です。先天は形ではなく形でみえず形に現れていないから先天で、関知できれば後天となります。そんな不思議なものがどこにあるかといえば一応頭脳にあるとも言えますが、個人の頭をちょん切っても先天は存在し続けます。 先天は個人的でなく社会的だからです。この個人的であり社会的であり、頭脳意識にありまたそこにはないという、そんなものが想定させられます。

色即是空空即是色といいますが、ちょうど同じようなものです。古事記はここから始まるというと、仏教の目標である空を悟ったことから始まるのかと思ってびっくりするかもしれません。原理的にはその通りですが、それぞれの次元が違います。次元などというと最高とか最低とかになりますが、そんなことでもありません。今回は何か公案みたいな始まり方です。内容の進歩は無いのにじらし方がうまくなったのでしょうか。

空即是色色即是空のあるところを古事記では「高天原(たかあまはら)」といっています。

た・か・あ・ま・はらというのは、ターと明らかなアの居間(ま)、ターという全体が明らかに存するア(主体)の目の住む居間となっているこころの落ち着く原のことになります。

これはあめつち(天地)、アの目が付いて地に成る、と対応しています。地に成る地が高天原というわけです。主体側のアの目が付くという活動とその客体側の舞台の関係とでも言いましょうか。

では先天の高天原にどういう形であるのでしょうか。もちろん「先天」構造ですから形はありませんが、形として現れるものですから、人間の意識の側では形あるものとして語らせられるはめになります。

そこでうまい具合にそれを、無いものを有るとして、無いけど有るとして、有るものを無いとして、無いけど有るとして説明できるものが言葉です。この言葉の中に人間の全歴史が詰まっていてこれからの歴史世界が詰まっています。

この不思議な構造を持った言葉が、また先天的に存するという、そのまた不思議を扱っているところです。言葉は脳内では電気か科学物質の信号で、それが外に現れると空気振動やドットの光点やインクの染みとなりますが、常に、主体側の発信した意図が載っています。

こういったものの先天が有るのを見つけようとしています。そこで出てくるのが、霊(たま・しい)とか、神(かみ)とかです。しかし、これらも言葉でしか表せられません。神や霊の物象方面だけの現れや作用反作用も、いろんな話があり証拠などもあるようです。それらは物理現象として現れますからそれらの方面から見られ検証され、今度は霊的なことがすっかり忘れられてしまいます。

他方側の霊的な方面からだけの話も多いです。こちらも物象としてちらっとでも形にしないと、霊であることを示せないことになっています。ということで、霊的であるか物的であるかのどちらか一方では、神も霊もいる場所がありません。

というのも、神も霊もそういう言葉だからです。言葉に有る霊と物とが統合されてないと、言葉で表せるものは自分を表現できません。ここでは今、霊と物と言いましたが、古事記では、神名を使えば、いざなぎ(誘う気・霊)の神、いざなみ(誘われる実、身)の神で、キとミで呪示暗喩されています。このキミの世界が合一されてることが肝要です。

(ちなみに、国歌の「君が代」の君は伊耶那岐の神と伊耶那美の神のキとミを歌ったものなのに、右も左も勝手な解釈思い込みの元に裁判喧嘩をしています。国歌としての制定過程とその原詩の意味とは別です。元に戻りましょう。)

この霊とか神とかを現代の流行を取り入れて現すと「言霊」となります。流行では言葉に宿る霊的な力というように解されていますが、キとミの合一の無い言霊ですので、古事記でいうふとまに言霊のことではありません。言霊というとその霊的な力と理解されているため、古事記の言霊学で行っていることになじみが沸かないことが多いと思います。

また流通している言霊は単語の言霊です。古事記で言う五十音の言霊は単語ではなく単音の言霊で、江戸明治期の文献にわずかに残っているだけのようです。ただしそれにしても、古事記の冒頭の五十神との関係ではなく、恣意的な感じや思いを述べたものとなっています。

言霊と古事記の五十神との対応の内実は、太古の昔に聖人たちによって発見創造されたもので、その形式を表し残すために神名を借りました。神名を借りたものですから、言霊の内実を示すのが暗喩呪示となっています。この対応している原本は皇室の御賢処にあるといわれていますが、既に古事記のふとまに言霊学を学ぶ人たちによって、伝搬しています。

そこで神、言霊、霊等の言葉の先天はどこにあるかになります。

語り易い現象から入ってみましょう。現象として初めに与えられるもの、自らにはっきりと多いなるものとして現れ感じられる意識が「タ」です。疑問としてなら疑問が、納得としてなら納得が、神を信じていようといまいと、自覚していようといまいと、悟っていようといまいと、まず自らにそのまま現れる現象があります。

ところがその現れると見えたものは後に自分がああだこうだと規定していくことになりますが、すでにそれはその人の人格の全てが現れたものだなかなか気づきません。じぶんに気づいて自分が作り出していったものとして、自己の創造した所有物のように扱います。

それは自分の人格の全体から始まっていると感じられているからですが、例えばそこで何らかの言葉を発したとすれば、自分の方から全体へ拡がる言葉としてしか見ていけません。実は全体の一部として自分があったのに逆方向にみているのです。個人即全体全体即個人、私の言うこと即全体の言うこと全体の言うこと即私の言うこと、私の言う神即全体で言う神全体で言う神即私の言う神、色即是空空即是色のような関係がことの始めには感ぜられます。

今はカミのカという後天現象の始めの話をしています。

カと言おうとしているときカに関する自他の全事象が空即是色式に現れてるということです。その後天に至るまでの全事象とはどういうものか見てみます。先天から後天へもそれなりの過程、段階が考えられるはずです。

先天から後天に繋げるにはそう簡単ではないです。潜在ならば蓋を開けてやあこんにちはでいいですが、先天という表現できない世界から表現できるこのものの世界にはどうしたらいけるのでしょうか。

戻るようにしてみていきます。後天事象と成ったときその全事象は先天構造内に何らかの元の形があったことでしょう。カミのカといえば誰にでも通じるので、その誰にでも通じる構造があり、そのカの領域内でのカである必要があります。カで間違いないことを確認し、カを押し出すものがあります。

その前にカが流通できるものであることが必要です。その前に自他の共通基盤が確認されます。その前に自分の先天と相手の先天にカがあります。

その前に、自他ともにカであるとする力道因が働いています。力道因の働きかける次元があります。力動因が働きかける世界が全部揃っていなければなりません。そしてその前に働きかけられる世界は主客に分かれる剖判する世界となっていなければなりません。主客の別が了解されています。

その為には統一された全体が今ここになければなりません。

とこんな風に、先天とは何かに、こうだと一言で答えるのが難しい、長たらしい以前の姿へ向かう過程があります。各段階それぞれの段階に先天とはこういうものだと言う主張があり、全経過を見通していないと、単なるお気に入りで思いつきの指摘になってしまいます。

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10-16の四。神とは。 成りませる神。

前回、後天から先天へ逆走してみました。

座っている状態から立ち上がる、立っているから歩きだすというように状態の変化を先天と後天に当てはめるのなら、イメージがし易いですが、心の中での先天から後天へというのはなかなかうまいイメージができません。

悟りとか見神とか実際あったことを語るのにも大変なことなのに、出来事が起こる以前の先天の心、語れないから先天という心を語ろうというのですから、釈迦やキリストの苦労以上の心の活用が要ります。今回もまた大法螺吹きのようなことを言い出してしまいました。

先天を語るなんて言うことは誰にも出来はしないのに、古代の聖人たちは何故どのようにしてそれに成功したのでしょうか。

その一つが神に教えられたというものですが、教えられた人達 、聖人教祖等は、ろくに人間たちに教えることが出来ていません。この二千年間の宗教の歴史を見れば明らかです。

ということは聖人教祖たちの言う自分は神によって導かれたというのは、教祖たちが自分の経験を人間達に教え伝達できないことを知っていて、恥じ入り照れ隠しをするために「神」なるものを持ち出したかもしれません。

そうでないと、神から聖者教祖へはうまいこといっていて、大多数の者達には未来の努力目標としてしか与えられていないことになってしまい、何百億年かの宇宙世界を支配してきた割りには一万年ぼっちの人間の歴史には神さんは手も足もでないことになってしまいます。万能の神さんにそんなことを押しつけるわけにはいきません。

私たちはもしかすると、古代の聖者聖人教祖達に大いにだまされているかもしれません。だまされたと言うのはよい言葉使いではありませんが、聖者教祖達の共通の欠陥が生んだものがありそうです。彼らの神との交流経験は事実でしょうけど、説明できる言葉を見いだせなくて「神」を仮に発明したのかもしれません。

古代の聖者教祖に見神神秘体験を普通に語る言葉を持てない欠陥があり、当然現代においてもそれが受け継がれています。そういう人たちは自分は自証できますが、他者において証明することができません。別の次元で言えば、地球は動いていると、自証他証できるのに、時代の制約で受けいれられないこともあります。

今後二千何年かに、神などという言葉で照れ隠しなどしなくても、神体験を誰でもが納得できる言葉の説明が見つかれば、この数千年間の神ということわけの分からない言葉は要らなくなるはずです。神体験とはこういうことだと誰でもが納得できる言葉が出てくるかもしれません。

神様だってほんの数名に秘伝を伝え、そこから先はわけの分からないままにしているだけではよいわけではないでしょうから。

( 今までの神という言葉使いなど必要でなくなる準備が、ふとまに言霊学では進んでいると思います。古事記自身が自ら神とはこういうものだと誰もが納得する説明を提供するでしょう。そのために古事記はわざわざ神と言う言葉を使用しているのではなかと思われます。つまり、神と言う言葉の解体が古事記自身からあることでしょう。

この謎は、私だけの謎か人類の謎かまだ分かりません。

当面は私だけの大法螺としておきましょう。)

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