今 とは何か

今とは何か (2011/8/26 ~ 2011/9/18 未完。 )

01。時間のパラドックス。

「現在」とは何かと問う方が聞き取りやすいかもしれませんが、「いま(今)」という言葉が太古よりあって、人とのつながりを非常によく現しているのでこちらを使用します。

・問題提起

今は過去現在未来の時間の流れの中で捕えられてはいますが、その流れそのものを説明したものは稀です。今を捕えるのに場所の概念が顔を出しますから、今もそれに応じて時間的な定在の性格を与えられてしまいます。

そのため今とは、一般に過去や未来と対になる概念になってしまい、あっちとむこうにあるものに対する今になっています。あっちとむこうとこっちは、離ればなれで、これを時間の流れに引き込まないと、つながりができませんので、ここに記憶が出てきて、仲立ちさせられていきます。

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たとえば、われわれは往々にして、昔あんなことがあったなあ、今はこうだけど、なんて言って悦に入ってるわけだが、ベルクソンが言うには、われわれの今この瞬間についての認識は、過去われわれが体験してきたことに支配されているのだ。目の前にあるコップをわれわれが見たとき、それはコップを見るというより、昔コップを見た体験を思い出しているにすぎない。

・ベルクソンにとって、持続とは記憶であり、現在は過去を自分のなかに保存し、そのイメージを蓄積する。過去の現在化は飛躍によって行われる。その際、言語は記憶のなかに溶け込んでおり、イメージとなっている。だが、ジャック・ラカンの考えによると、人間が生きる、具体的に経験する時間というものは言語によってつくり出されるものとみなされている。

--------------引用ここまで。------------

これに対して東洋では、「精気神」の存在を前提にして今の活動が開始されていきます。

「精気神は、生命活動の根本を示しています。「精」は人体を構成する物質基礎で、「気」は生命活動の原動力(エネルギー)を表し、「神」はすべての生命活動の統率者(こころ)を意味しています。 神、気、精は、天地と同じ根元を有し、万物と同じ実体を有する。 それらを得ると生れ、それらを失うと死ぬ。」(ここも引用)

・時間のパラドックス

「いま」は動いているか止まっているのかで、昔からいろんなことが言われています。

今は時間の中に置かれ、時の流れ持続する性質をあたえられていますが、今が持続する構造が解明されたことはありません。ですので、兎は亀を追い越せない、飛矢は静止している、等のパラドックスに、経験的には簡単に反論できても、精神思考上の決定的な反論が見当たりません。フトマニ学はこれをうまく解決して、今を上手に説明できるでしょうか。

・文章は単音

わたしたちは言葉を使用して会話が通用しているわけですが、言葉の単位は単音です。発音された単音と次の単音の間には時間的にも空間的にも無、闇、無地、真空と言うような、単音と単音をつなぐ間隙があります。

ゼノンのように言えば、「複数の言葉、文章は単音である」、といえます。

しかし、これもゼノンと同じように、書かれ、発音したものを提起されれば、文章は繋がっていない、単音であるということになってしまいますが、普通の経験は、ちゃんと繋がった一連の言葉、文章を示す事ができます。

何故このようなどさくさが起きるのか、それを説明する方法が見つかりません。ここでも同様に記憶が出てきて、仲介役をさせられます。当然その記憶の働きを求められますが、内容は未だに誰も話す事ができません。

現実に言葉も文章も今も、繋がっているのですから、パラドックスを受け入れる頭の方がおかしいのですが、頭も自然に受け入れるのですから、頭の働きは正常です。

さあ、今をやっつけに出かけましょう。

過去現在未来の三世を瞬時に含む、言葉の秘密を解明しにいきましょう。

皆さんの参加を期待しています。

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02。外国語の今。裏合い。今とは。

・今の開始以前。

今の開始以前を問うものです。

今が今出来たとしても、その今ができる条件なり状況なりがありました。その今はその今の以前の状態から、まさにその今となって現われたのです。

しかし、今の以前には今など無いのに、その今というのはおかしな事です。

しかし、今と言えるのですから今があるのです。

しかし、無いのにあるというのはおかしい、、、、、と続きます。

この悪魔の連鎖を概念でなく現実に断ち切り、実在通りに述べなくてはなりません。

もちろん言葉よって述べるのですが、ここにおもしろい事があります。

今は英語では now です。ドイツ語では jetzt 、フランス語では maintenant です。例えばフランス語で今と言うと、マントノン になりますが、発音している間に今がどこかへ行ってしまうくらいに長い発音です。

今が瞬時に過去現在未来を包含している事は誰にも感じられていますが、はたしてフランス人に今っていうものがあるのかどうか疑うくらい長い言葉です。英語などで、ナウナウナウ、などと言われると、何だよって何だよ、と言い返したくなります。

物事を説明するのに用いられる言語が、物事に反しているようなら、正確な説明は出来ないでしょう。そこでは、言葉に込められ規定された概念、約束された意味内容に新しいものを追加する、そういった方面から帰納的に演繹的に分析総合されていくしかないでしょう。なぜなら現実を指し示す言葉はあっても、現実の内容とその動きをそのまま伝える実体を持たないからです。

それに反して大和の日本語はどうなっていでしょうか。今まで今今と平気で使っていますが、もちろん何の疑問も無く、今という言葉の発明者創造主の事など知ろうともしないで使用しています。日本に生まれて、日本語の環境に育ってしまっていますから、誰のものかも知らない大和の日本語を勝手に自分のものとして取り入れています。

何がなんだか分からないものを使っているのに、その口から出てくる言葉は全て自分のものの積りです。自分の考えを述べています、自分の思いです、あなたに賛成です反対です、等々と言って、自分以外の構築物の上に乗っかかっているのです。フランスに産まれたらフランス語を喋っているでしょう。すべて、知らず知らずのうちに自分のものとしてしまっているのに、自分のものだと言い張る主観です。

フランス語のマ・ン・ト・ノ・ンとか、英語のナ・ウとかには約束された意味以上の事はありません。または約束によっていくらでも意味であるものを追加できます。出生時からの契約思想みたいなもので縛られていきます。

ところが世界で唯一そういった拘束の外にある言語が大和の日本語です。

今を現すのに、ウマとかオマとかナウとかに別の約束事にしても、言い替えられないのです。どうしても、イマでしかありません。

言語侵略されてナウということはいくらでも起きますが、イマをナウとすることは不可能なのです。大和では漢語を受け入れましたが、大和の訓読みを残し、大和の言葉のためのフリガナではなく、フリ漢字にしてしまいました。

今というのは、古代の昔からそうだったからですが、そういう風にしたのは昔の人が、現実の三世を一瞬に含む心を起こしてそれを表現しようと試み、実在の在り方を言葉で表現し、言葉を創造することに成功したからです。約束事あるいは強制で、今をマントノンナウにするぞ良いな、というのとは全然というのとは次元がちがいます。

それとは別に、今というのは流れの中のある一瞬の切り取られたスナップ写真のようなものだとしたのなら、その切り取られた瞬間にどのような名前でも付けることができます。なぜなら固定したスナップ写真なら、外からいかようにも見ることができるからです。

・裏合い

大和の日本語は、物事の流れそのものの中から同交感応を言葉に現したものですから、物事そのものの現れとなっています。

イ・マという時には物事のいまにイ・マが絶対的にあるのでイ・マと言い、その心を発音表明することがそのまま事物を指し、物事として現象させます。物事を指しそれを指して内容を示すのでなく、心の内容・物事の内容を指したのがそのまま言葉となります。

このような超マジックのように、心が物事を真似て現われて来ます。そして、心が物事であるという、裏と表が裏合いのようになっいるのが、大和のフトマニによる日本語です。この表現方法をフトマニといいます。物事の裏側こころの内容が表現となっていることを指しています。

そこから転じて裏の内容をみる事から、裏合いが占いになりましたが、フトマニを占いのこととしたのは転じた後々の事です。

つまり、今をイマと言う理由を現実から引き継いでいますから、イマを話せば現実を話すことができます。そこで、イマをイマという理由とその構造を示したいと思います。

大和日本語の今ですので、他国語の今の構造とか文法とかに転用はできません。

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03。四つの止まっている今。今とは。

・今の四つの様相 (定点の四つの今)

「今」を詳細に見ると、以下の様態を示しています。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、 五感感覚の次元、そして後に言霊ウとなる。

二、産まれようとし てあったものが今産まれる、といういわば、 過去-今の関係、知識記憶概念の次元、そして後に言霊オとなる。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、 感情情緒の次元、。そして後に言霊アとなる。

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、按配選択の智恵の次元、そして後に言霊エとなる。

このそれぞれ次元の違う四つの今があるのです。

しかし、これらは、今を定点として与えられた一点での今に過ぎません。

今は今と言った途端に過去の今となっているのです。

また、今は今今今と未来を創造しているようですが、その現在を表明していくだけです。ただしそこには未来への動向というか、今を創造してるというより、未来を予兆創造している意識もあります。

上記の今の様相四態を、今を軸にして図示すると下図です。

オ・ 過去--今

ウ・ 今--今

ア・ 全体--今

エ・ 今--未来

このチャート図の欠点は今が停止している事で、観念的には理解できますが、動く現実ではありません。そこで流れを加えると。流れのなかで未来があるように感じ思えるというのは、次のようなからくりがあります。

オ・過去--今+++ ここで停止して、続けるには過去に戻って繰り返す。繰り返しを未来と称する。

ウ・ 今--今+++ ここで停止して消費して消える。繰り返さず、新今となりこれを未来と称する。

ア・ 全体--今++ 過去へ戻らないと今を捕えられず、過去へ戻る事を未来と称する。

エ・ 今--未来++今に有る未来が出てくる。

今から未来が出てくる様子を伝えた積りですが、うまくいっていません。

何故なら、われわれが持っている概念にある、今は未来を生じるというような思いを当てにして、今++・・・が書いてあるからです。

これは今自身が今を示したものとなっていません。

今が動いたのではなく、概念が動いて先走りしたものだからです。

今に、未来というものが付いただけです。

ですので、今があり、次ぎに間隙があり、次ぎに未来があるというような概念の連鎖になってしまいます。

自分で手の内を知らせて種を明かしたところで、正解ではありません。

さらに進むには、一撃が必要です。

・持続する今の五つの様相

三世を瞬時に含み、三世を一瞬に現し、しかも、その一瞬は持続していくのです。これが現実の今です。生きている今であり、生きられている今です。概念においては表現しにくいものですが、普通に何でもなく経験している今です。

では、三世を瞬時に含みつつ現し持続しているものとは何かです。

それは表現できるでしょうか。

この世の普通な事ですから、普通に語ればいいのですが、概念を用いるとそうはいかないという馬鹿な事に囚われるのが人間の思考です。しかも、それさえ普通に許されています。有り難いことです。思いきって行きましょう。

・現象が起こるとは

重要な引用があります。

現象が起こることに関する説明ですが、今という現象が起こる、と読み替えてください。

http://www.futomani.jp/lecture/no200/no200.htm

【 ここに一本の木が立っています。この立っている、ということはどういうことなのでしょうか。

立っていると見ている人がいなければ立っているか否かが分かりません。

また木が物として存在しなければ見ることができません。

現象があるというのはこのように見る主体と見られる客体双方に関係します。

現象の認識は単に物があることを見る、五感認識言霊ウばかりとは限りません。

体験認識の体系化である言霊オの次元、感情界のアの次元、事物の選択に関する道徳、政治等々の高度の次元にも起こります。】

【 例えばここに鐘があります。棒で突きます。鐘が振動して空気を震わせます。

空気中に波動が起こります。

しかしこの波動自体がゴーンという音を立てているわけではありません。

その波動が人間の耳に入った時、初めてゴーンという音に聞こえるわけです。

鐘自体は無言の波動を出しているだけです。

客体である鐘の発生する波動と、主体である人間の認識知性の波動とがぶつかって、双方の波動の波長がある調和を得た時、すなわち感応した時、初めて人間は鐘がゴーンと鳴ったのだと認識するのです。

同じように大空の虹はそれ自体七色を発しているわけではなく、七種の光の波動を出しているだけです。

その波動が人間の知性の主体波動とシンクロナイズする時、七つの色の虹として主体の側において認識されるのです。 】

以上、「言霊」。島田正路氏著書からの写し。

人は犬の鼻を持たず鷹の目も持ちませんが、人間の精神、心を持っています。このこころの同交交感、共感、いざなぎ、によって人間となっています。

人は今を現しているとみられる行動を示すのに、言葉を使います。行動で反応しているだけなら動物と同じようですが、それでも意識の中では言葉の流れ、音声とならなくても言葉で了解表現しています。

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04。五つの動いている今。今とは。

そこで再度、現に行く川の流れは絶えずしている様相をみてみます。

現に動いている今を動いてるように語らねばなりません。止まっている今の様態などは、単なる概念です。

そこで次はこうなります。

・今の五様態。今は五次元からなる。

1。今-今の実在、その根底に今の持続の実在がある。

2。過去-今の実在、その根底に今の持続の実在がある。

3。今-全体の実在、その根底に今の持続の実在がある。

4。今-未来の実在、その根底に今の持続の実在がある。

5。今の持続の実在、(その根底に今の持続の実在がある。)

以上は持続を実在として加えたものです。

こうして、今と言う時、その今には五次元の様相があり、その時に応じて今を使用していることになります。

例えば、今お腹が痛い。

1。今-今で、五感感覚で捉えられた疼痛が続く。

2。過去-今で、今感じている痛いお腹はどうしてか、何か変なものを食べたかな等と反省する時、そこで活動している知識は、過去の腹痛を今として探し分析している。

3。今-全体では、昨日の食べ残しを無理して食べたことが分かった時など、知的な内容と現状との一致がハッキリ了解できていく。

4。今-未来では、腹痛を起こし、ではどうすればいいのか、薬か、救急車か、便所へ行くか等の按配選択をしようとする時、未来へ向かう選択が今に実在している。

5。ところで、上記四つの様相も、別々に起こる事も重なる事もあり、腹痛の根源となる力動の持続がある間は、今腹が痛いと言う事ができ、この持続の力動が四つの様相となって現われていく。

別の表現で、持続を感じるところを説明すると次のようになります。

一)、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の実在、 五感感覚の欲望次元、そして後に言霊ウとなる。欲望を捕えようとしている、あるいは捕えて消費していきますが、ここに欲する今があります。これは生きた人間に具わった欲望本能になります。

幼稚ですが原初の働きとなっていて、生存を欲する働きが成長していくと、産業経済の形をとり、それを支えるための知識が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しいを生じていきます。

この特徴は、欲する事と欲する内容が同じであることです。本来なら欲することが得られ、ここで停止して消費して消えるのですが、欲すること自体は消えないので、新しい欲望、次々と出てくる欲望を未来と取り違えていきます。

これを言霊ウの次元といいます。

一)は五感の欲望感覚が元となりますから、成すべきものと感覚を取り入れる事にけじめがありません。感覚の騒ぐがままに流されていきます。

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二)、産まれようとし てあったものが今産まれる、といういわば、 過去-今の実在、知識記憶概念の次元、そして後に言霊オとなる。関心が生まれ、もの心がつき、記憶ができて反省整理を覚える働きの今があります。

ここでの今は記憶にある概念を操作するのが特徴です。過去にある抽象概念を扱いますので、過去からの掘り出し物が今となります。人間に非常に重要な働きですが、過去からの堀だしである事はあまり意識できません。概念操作をしている事で自分が表出されている事を知るからです。学術、科学、知識、普通に考える事等がこの働きの今の中にいます。

前段言霊ウ次元での関連事項を得て、原因過程結果を手にすれば、本来は終わりです。しかし、過去から来た概念知識を未来に突き刺す事をことを知らず、原因とか理由とか言うもが、不安定不特定な概念を取り入れたものからできているため、自分でも自信がなく、納得できる理由をまた探しに行きます。お気に入りができるまで原因追求がつづきこれが未来へ行く事なっていきます。

二)は過去記憶概念知識が元となります。過去経験と一致しない事には予想でしか対処を知りません。

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三)、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の実在、 感情情緒の次元、。そして後に言霊アとなる。

ここでは、主体側の今の現象が、自分で理由を与える事ができ、原因を特定できます。自分の感じているのは自分の感情である事が分かり、五感感覚で得られる感覚ではなく、五感とは違う自覚の了解感覚があり、知識概念で知った理由とは違う納得すく了解があります。

ここでは、過去へ戻らないとその今を捕えられず、その今は現に感じているものであるという重なる構造にあります。そこで、過去へ戻る事、現在を捉え続け句ことが未来と称されていきます。

三)は感情のおもむくままに、なりがちで自己に係わる部分は明瞭ですが、他者との関係をつける事ができません。 そこでは、成すことへのまとまりが付けられず、どのような方向道筋を取るのかで、協調が得られません。

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四)、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の実在、按配選択の智恵の次元、そして後に言霊エとなる。

ここの次元の今は事の選択に関するものです。今に有る未来が出てくる今ですので、限定された未来選択の範囲にあり、按配を決する事が今を示す事になります。

前三者(ウ、オ、アの言霊次元)では、それぞれの現象を選択決定してでてきたものでなく、知らぬ間に、勝手に気ままに、自己主張の自由さ等を自分のものと言い張るものです。

四)は、 今-未来の言霊エ次元はこれらの重層構造に乗って、どうするのかの選択が行なわれます。

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五)、は前記の次元の基底であって、源動力因です。この力動因が無ければことは動きません。

しかし、力動因は実在するといっても、それ自体では自分を現せないのです。他者の形に現われ、他者の形を借り、他者として自らを示します。

そして上記の四つをそれぞれたらしめる基底音となる、持続する創造能動意志が今の全てを貫いている、いわば、今の持続動因で、そして後に言霊イとなるものです

人の活動はその人の主体の活動です。主体活動は上記四つのいずれかとなって表明されていきますが、そこには常に言霊イの生きた基底音が鳴っています。

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こうして今の四つの様相は、基底音 五) の元にそれぞれが現われていきます。

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05。今という能動因。イの間。今とは。

今度は、五)の持続の上に乗った、相互の関係をみてみましょう。

テーマ図を採録しておきます。

1。今-今の実在、その根底に今の持続の実在がある。言霊ウとなる。欲望。

2。過去-今の実在、その根底に今の持続の実在がある。言霊オとなる。知識。

3。今-全体の実在、その根底に今の持続の実在がある。言霊アとなる。感情。

4。今-未来の実在、その根底に今の持続の実在がある。言霊エとなる。選択。

5。今の持続の実在、(その根底に今の持続の実在がある。)言霊イとなる。意思創造。

比較するため 4。から始めると、前回の例では、腹痛を起こしてどうしたらいいのかという行動選択の次元でした。この選択の次元をよく見ると、前段の次元層が全部含まれてます。選択するためにはその知識を持つばかりでなく、それにまつわる感情と五感感覚も前提されています。

同様に2。 の知識次元をみると、腹痛の知識には前提となる五感の感覚はありますが、感情とかどうするかとかの選択はなく、知的な概念によって、五感感覚の腹痛の経験知識、記憶を集め整理する事に没頭しています。

1。の欲望実在次元の腹痛の感覚次元では、痛い痛いの現にある痛みに係わる事に精一杯です。そこには、知識も無ければ、どうするかの思いもありません。

また3。の感情次元は、自分の感情内のことだけは分かっていますが、その世界だけに留まって他を省みることがありません。

これらの四つの次元世界は、上位次元は下位を含むが、下位は上位を含まず、各次元はそれぞれ独立した世界を作っています。

そしてここに、今の持続の実在において、それが親神様のように、全智全能の創造主のように、宇宙世界に一撃を与え続ける方のように、振る舞う何ものかがあります。

歴史的には人は、それを神といったり、霊といったり光といったり、一撃と言ったり、創造主といったり、力動因といったり、根源的な力といったり、作用反作用といったりしてきました。

正しくは今の能動因ですが、これさえも観念の世界で喋られるとどうなるか分かったものでありませんが、実在する今の能動因の持続は、観念概念世界も創造していきます。

実在する今の能動因の持続を、言葉で表現したものが「今、イマ」という言葉です。

今までは今の実在する能動持続とその表現としての今を分けないで使用してきました。ですので、ここまででの根拠は単に、今の実在する能動持続をイマと言う、宣言をしただけのものです。これだけでは、イマと言わなくても、ホイホイとかホレホレとか命名してもいいことになります。

全ての外国語はそういった命名です。イェッツト(独)、ナウ(英)、マントノン(仏)等々、約束事として強制通用力を与えられればなんでも構いません。

そこで世界で唯一の例外中の例外である、比較を絶する、大和の和語である「イマ」が登場します。

例えば、今お腹が痛という例です。

1。今-今で、五感感覚で捉えられた疼痛が続く。ここからはうずく五感感覚がでてきます。しかしここで痛みの感覚が麻痺していたのなら腹痛を感じないことがあります。縁の下の力持ちとして、腹痛という現象を起こさせないとか忘れるとかの原動力がまだあるからです。そこに「イキル」という現象を支える創造意思があります。

2。過去-今で、今感じている痛いお腹はどうしてか、何か変なものを食べたかな等と反省する時、そこで活動している知識は、過去の腹痛を今として探し分析している。ここでも、知識を探り正確さを求めるのは現にある腹痛ではないけれど、どういものか知ろうと、どうしても経験過去の概念を探ってイマを説明したくなります。これもここに、知識を求める意識があり、経験概念を掘り起こす意思が働くからです。

3。今-全体では、昨日の食べ残しを無理して食べたことが分かった時など、知的な内容と現状との一致がハッキリ了解できていく。あッ、あのせいだ、と全体的に了解するときがありますが、1。2。とも違った次元の世界のことで、感情的な了解をえる時には、世界と共時的に共感する感情が得られ、自己所有感の喜怒哀楽がハッキリしていきます。そのときは世界の動きと自分の動き、生きていることのイマが同一視できます。

4。今-未来では、腹痛を起こし、ではどうすればいいのか、薬か、救急車か、便所へ行くか等の按配選択をしようとする時、未来へ向かう選択が今に実在している。前記1。2。3。は非常に自己主義的です。全てわれよしの世界となって現われますが、ここでは、選択未来が含まれているので、提起されただけものの中から選択が行なわれます。ただしその選択内容は前記123のどれかになってしまっています。過去知識概念を選ぶ 2。の次元と似ていますが、知識の次元では、無反省無自覚無規定的に概念を操るのに対して、ここでは、そこに提起された選択肢として現前してきます。それを選択して行動へ赴かせるのがもっぱらな役目で、実践の智恵となった創造意思が根底にあります。

上記四つの様相を現前させるものが、イマの創造意思です。こうして、イマの働きがある限りそれぞれの世界があらわれます。

次は、それぞれの様相次元は独立している、です。

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06。ウアオエの次元は見えない。今とは。

次元と柱という言葉。

近代用語の「次元」を使用してますので、数学上の次元とか次元上昇とかいわれるものに親しんでいる方には、イエウオアの五次元は馴染めないところがあるかもしれません。

古代にはどう言っていたのでしょう。古代には現代のようにわざわざ次元世界に分けるような崩壊した精神行為はなかったので、人の性能を一つの全体として指していました。

それを「柱」といいます。神、魂を勘定する時に使いますが、古代の正常な精神においては人間とは神のことですからもっともなことでしょう。とはいっても作られてしまった言葉の神からみて言うことですので、今わたしの言ったことは逆立ちしています。

人が神という言葉を作ったのですから、その過程があります。古事記にはずらずらっと神名が続きますが、本来その様な神がこちら側かあちら側にいるかといえば、そういった神様はいません。神という言葉が作られ、その後から付けられた名前です。

人が神という言葉を作ったのですから、いずれにしても神と名付けられる実体があります。中にはハッキリ規定できないあり難いものだから神というのだという意見もありますが、それさえもなんらかの経験概念の裏付けがあります。

神とは、簡単に言えば人の手におえない原理原則のことです。腹が減ったら喰わねばならない人の力ではいかんともしがたいもの、欲しい欲しいという欲求、赤子が乳を求める、現代ならば金銭を得たい地位が欲しいという欲求、その生きる原則が神です。これは欲望次元での神となります。

では、何故柱というのか。人は動き働くものです。人の動きは、動くぞという方向と動かないぞという二方向があります。動く方向に自分の身体表面で現す言葉が「は」で、動かないで静かにしているぞという方向に自分を現すのが「し」です。人はこの両方向が絡まりめぐり合って生きてます。これが「ら」となります。そして動くと動かないの絡まり合いで自分の表現である屋根を支えてます。

柱の実体内容は欲望(ウ)、知識(オ)、感情(ア)、選択(エ)、意思(イ)ですが、柱が地に着く所は一か所です。欲望充足をこととして生きている人は、欲望(ウ)だけが地について後の次元は欲望の実現に従います。知識を追求している人は、他の次元部分は知識獲得のための手段になっていると言った具合です。

(注意。ここの部分は言霊ふとまに学を完成した島田正路氏は、人の心を五十音図に現した場合にはア行の真ん中を意識の中心としています。)

柱を立てて柱ごと動いていくことが生きることです。生きていく上では、自分の性能次元があると思っていますが、大本を見ると人は動かされている側にいます。

生きることは、どうしてか何故かも知らず、自分は生きているが、生かされているその原理原則、その原理原則としての存在が神です。その様な原則は無数にありますから、後には八百万となります。

その八百万を統轄しているのが、生きるということ生きていることで生きる神です。この生きる神の元に八百万を整理すると五つの次元層ができます。ここからフトマニ学でいう五次元になるのですが、この人の生を五つに分類したという事が始まりになります。

これは古代大和の人類史上での超発見ですので、そのまま受け取った方が楽です。(その後支那、インドに伝えられ五大、五行等になりました。そして逆輸入され、それが文献に残るようになったのです。)

五つとは、欲望、知識、感情、選択、意思の五次元重層です。古代はこの五次元重層をバラバラにすることがなかったので、一つの柱と表象していました。

生きるとは五(い)きるで、人は息をして生きますが息は五気(いき)のことで、柱(はとしの絡み合い)を立ててそこに安住する場所が家です。ですので家は五重(いえ)ですす。

これを象徴的に扱ってきたのが、伊勢神宮の五分の三だけ地上に出ている御柱です。心の柱であり、八百万です。

古代ではこの五層の柱の使用法を心得ていましたから、自分の心の外にあるものとして扱わずに、拝むような事はせず、五層の五をとってイツクと言っていました。五(い)作る(つく)が生きることでした。

生きる事が五次元を生きる事だというと、現代人の次元理解からすればひっかかるところですが、気のいったときに、自分のやっている事を五次元で分類してもらえればいいのです。

例えばここで書いている事は全部概念知識を扱うだけです。言霊オの知識の次元というわけです。知識には知識に対する正反が伴います。ところが、あいつの言う事は本当かな知りたいものだというような時には、知りたいという欲望のことを指していますから、そのものに概念知識はありません。

知識が知識を得てどちらが本当かなどと選ぶ時には、行動への選択肢としてでてきますので、その選択は、知識をどうこうするものではなく、自分の行動に結び付けるもので、知識の内容をあれこれ言うものではなく、選ばれた知識全体に自分を置くものです。

このイツク柱の五つの階層次元は非常に不思議なもので、それぞれが独立した五層の輪(柱)のなかにあります。仏教の五重の塔は人間性能の五次元を表現したものですが、中心にある柱は各階を固定するために支えていません。各階と柱は独立した関係にあって、地に着いた心は通っているが、各次元層は独立しているという心の構造を現したものです。

例えば、人間性能の欲望次元は、欲望次元から出られないのです。この次元層は後に産業経済物質生産活動となっていきますが、その欲望充足以外は考えないのです。

経験知識も欲望達成のため、感情が起こるのも欲望に関するもの、未来選択はもちろん欲が膨れる方向へ、といった具合です。生存の基礎的な分野ですが、今-今の今の満足がモットウとなります。

欲望は人間心理の一つの世界、一つの意識を形成していますが一つの独立した世界です。ところがその欲望の世界を見せてほしいといわれると、困ったことに欲望そのものを見せることはできません。

がつがつ喰う姿を見せられても、それは欲望の現象、出来ごとです。映画演劇での真似事かもしれませんし、腹も減っていないのにそう見せているだけかもしれません。わたしの欲望はこれですよ、と示すことはできません。確かに欲望の内容としては存在していますが、そのものを示せません。

こういった問題によく、それは概念だ観念に過ぎないといわれます。抽象的な概念、観念といわれて否定しても、欲望がなくなるわけではありません。欲望とは具体的だから、観念としての抽象欲望は無い、となおも反対が出るでしょう。これは欲望そのものが具体的な物象性を持たないというだけで、無いということとは違います。

この関係は他の性能次元でも同様です。人は知識獲得に血眼になりますが、目で見える知識はありません。感情も同じで、身体、顔、他で表現しますが、その感情を見る事はできません。

では具体的な物象性を持たないものはどのように存在しているのでしょうか。どこから沸いたように出てくるのでしょうか。

具体的にこうだと提示でき、現象となって見えるようになる以前に、それらの全情報条件前提が整っていなければ、別の言葉でいえば時空間次元が整っていなければ、事は起きません。時処位がはっきり分っていなくてもそこには産みの母となるものがあります。

これは宇宙世界全体からなる客体対象世界です。五感も知識も感情もはっきり分っていない宇宙世界から出てきます。

ですので少なくと、主客の先天構造内には存在しているのです。ここでは主体側客体側の両者に先天的にあるということが重要で、それは後天的な具体性を、現象を持たなくても存在できるのです。

欲望は主体側のことであるのに、客体側にもあるというのはおかしなことです。しかし、乳を吸う赤子の欲望の根拠はどこにあるかというと、乳を吸う赤子の欲望を産み出す力動因にあります。この力動因は乳がなくても発現していきます。乳首でなくても指でも箸でも、ゴムの贋乳首でも吸いつきます。

つまり、吸う行為は誘導されてるわけです。パソコンの画面を見る場合でも、そこに画面があって、画面を見るように誘導されていて、特定の場所へ目が行きます。

しかし、注意してください。赤子の前に乳房があり、目前に画面があり、一億円の札束があっても、それら自体には何の意味も無いのです。自分がどういう人間としていて、どういう風に係わるかという限りにおいて意味がでてきます。札束の山など野良犬は小便をかけるだけです。

つまり主体側は客体の物象側から誘われていますが、主体が働きかける以外では、小便臭い紙屑となります。そしてわたしたちの生活世界宇宙の全歴史の大多数は、単なるあっち側にある紙屑の束なのです。

世界はこのあっち側の総体で、いくらでもわれわれは誘導されるものですが、各人の細々とした関心興味によっていて、その67億人の総体が世界となっています。

ですので、欲望それ自体は概念だから無いというのではなく、それを言う人を含めた67億の総体が、あちら側にある誘発する欲望としてあります。わたしたちはその億分の一として、自分の柱を立てて世界内にいるわけです。

このことは他の、知識、感情、選択、意思の各次元層においても同様です。つまりこの五層そのものは後天的な具体性を持ったものではないのです。

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07。母音次元は見えない。 今とは。

前回は飛ばしすぎました。

今の五つの様相は動かない。今ではない。

今を作るのは父韻。

五層は五つとなって現われるだけ。

隠れていく。

一回り廻って来て又アに戻る

アというのは宇宙の事です。ここで人間の生活が行われて、あ、これで一つの事が終ったなという時、安心して休む世界、これをワの宇宙といいます。同じ宇宙ですが、一回り廻っているんです。一回り廻って来て又アに戻る。 この母音と半母音が一緒になって、ふたつがひとつの柱となっている柱が、伊勢神宮の本殿の中央の真下、床下に真っ直ぐ立っているのです。

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20))

52ぺーじ 神と命

次は、それぞれの様相次元は独立している、です。

06。ところで、上記四つの様相も、別々に起こる事も重なる事もあり、腹痛の根源となる力動の持続がある間は、今腹が痛いと言う事ができ、この持続の力動が四つの様相となって現われていく。

実在する今の能動因の持続は、観念概念世界も創造していきます。

現実のイ。

06。イは身体のどこで感じるか

00。伊耶那岐の物語。今とは。

00。イはどこに、、、。今とは。

00。イの仕事。今とは。

00。イと神感覚。今とは。

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天地のはじめは今ここ

人間生命の初めであり根本となるものは何であるか、という問題に明らかな答えが出されたこととなりだろう。一切の現象の親であるもの、そしてそれを自覚して言葉で表現した初めての音である言霊イこそこの世の活動や存在するものの根源であり、宗教で言うところの造物主であり創造主神ということである。

古事記や聖書の冒頭に書かれた「天地のはじめ」というのは、心の構造を知った立場から見るならば「今・此処」のことである。心が活動を開始する今のことであり、此処のことである。心が活動を起さない時、それは禅で言う空である。

何も起らない、何も始まらない。そこに心が動く。心の底に初めて動くものは何か。生命の根本意志である。この動き始めが天地のはじめである。今である。

生命意志言霊イの間であるから今(いま)という。はじまった処が此処である。心の構造から考えるならば、心が活動を開始した今・此処が心の宇宙のはじまりである。古神道ではこの今・此処を中今(続日本紀)と呼ぶ。

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生命・イの道

「芸術に国境なし」といいますな。いい芸術は、何百年経っても立派な芸術。ということは、年代がないし、いわゆる人種の差別もない。いい芸術は、どなたが見てもいいですから。そういうように、我(ガ)がない命の領域っていうものが広がりまして、そのアの次に来るエ・イとなりますと、さらにもっと内容が細やかで、永遠なるものを象徴する働きが出てきます。

イというのは命そのものですから。人間に命があるかぎりは、ずーっと続くものでございます。イの道。言霊のイという段階でいられる法則。イの法則。イの道。「イノチ」でございます。

「それじゃあ、イノチってどこで働いてるか」っていえば、「イマ」に働いております。「イの間(マ)」に働いております。みなさん、「イノチってどこだろう」って。地球上に人間が63億ぐらいいるそうですな。だけど、どなたに聞いても、「命って何だ」って聞いてお答えする方はいないと思います。命を見た者はいませんから。

霊能者になると「見た」って言う方がいらっしゃいますけれど、こんなこと言っちゃ申し訳ないですが、だいたい眉唾もののようでございます。わたくしもいろんな霊能者の方にたくさんいままで会ってまいりましたが、だいたい命というものをそのまま見るということはないような気がいたします。

「それじゃ、絶対に嘘か」っていいますと、言霊の学問では最後の禊祓という行のところの最後の行において、自分の命を自分で見ることができる段階がございます。みなさんよく勉強なさって、自分の命を自分で見られれば、これは便利だと思いますな。「もうちょっと長生きしろよ」って、「はいよ」って言えるかもしれません。

「そんなことはないだろう」と思ったら、あることをここで宣言しておきますから。その宣言をしておきますのは、わたくしがまだそれになっておりませんので、ここでなっちゃおうというわけです。最後のふんばりで、そこまで行かないとみなさんに「この言霊の学問は真実ですよ」と言えませんですから。厚かましいんですけれども、皇祖皇宗にお願いして、見せていただきたいものと思っておるわけでございます。

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イの間

そうなりますと、この六十年、昔から日本が言っている天皇---スメラミコトと申します---は空位時代に入ってしまった。位がなくなっちゃった。ですから、今の日本人は天皇陛下というものがどういう方なのか、全然わからないでいる。

そういうものを一挙に解決する道というのが、このイとエから出てくるんです。どう出なければいけないかっていう道が。なぜならば、スメラミコトの仕事はここでなさっていたから。それが出てきましたから。

言霊というものは、人間の生命の中のどこにあるか。どこにあると思いますか。「頭の中にある」と言うかもしれませんが、頭とは限らない。それじゃあ、いつ働いてるんですか。それはだいたいわかりますな。

「いつ」と言ったら「今」。今より他、言霊は働くときがありません。それじゃあ「どこで」と言ったら、「ここ」ということになります。イというのはですね、イの次元の道理だから「イの間」=「いま」と申します。そしてその道理は「イの道」ですから「いのち」と申します。

人間が生きているということの一番根本の場所。その場所の道理をつかんでるからスメラミコトなんです。今の天皇がつかんでいらっしゃらないことは確かです。崇神天皇以後の歴代の天皇はつかんでいらっしゃらないんです。

ただ、つかんでいると思われる天照大神という神様を祭る、大神主さんでいらしたから尊かった。だけど、その大神主さんの地位も放擲(ホウテキ)されたんですから「関係ない」って言って。それでわけのわからない天皇になってしまった。

今の国家は有名無実の国家。意味がわかんない。そういうものも全部解決したらどういうことになるのか。解決する道っていうのはどこにあるのか。ということを、これからはどうしても知らなくちゃならない時期に入ってまいります。

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「今」

➊、『チ-イ』

産まれようとしているものが今産まれる、いわば、

今-今の関係、

五感感覚の次元、

そして後に言霊う。

ア=、宇比地邇(うひぢに)の神。【 言霊 チ に成る心】 。心の全体が地盤となる。宇宙が地と比べて近い。心全体が地に近い。心の宇宙全体がそのまま現象となって現われ出てくる。これは風船が膨らむように心が尾ごとパッと拡がる。

ワ=、妹須比智邇(いもすひぢに)の神 【 言霊 イ に成る心】 。心の全体が維持持続する。(妹は正反作用反作用の対。) すべからく智に比べて近い。一旦現れ出てきた動きは是非とも経験知識よりは近い=本来の智恵が働く。現われでてきた動きの持続は弥栄(いやさか)に延びゆく。パッと拡がったものがづーっと延びていく。

❷、『キ-ミ』

産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、

過去-今の関係、

知識記憶概念の次元、

そして後に言霊お。

ア=、角杙(つのぐひ)の神。【 言霊 キ に成る心】 。心の体験をかき寄せる。ツゥーと角を延ばして捕え、自分が喰うように自分の方に引き寄せてくる。自他との境目、境界の違いを気づかう岐(分枝)を引き寄せる。中心にある自分に引き付けるように。

ワ=、妹活杙(いくぐひ)の神。【 言霊 ミ に成る心】 。心の内容の実に結ばれる。中心にある自分と言う実が膨らむように。 角杙の対で、自分に引き寄せる持続、自分と一緒になって自分の実が膨らみ続ける。珠の中央部が膨張していく。

➌、『シ-リ』

それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、

今-全体の関係、

感情情緒の次元、。

そして後に言霊あ。

ア=、意富斗能地(おほとのぢ)の神。【 言霊 シ に成る心】。 心の内容が中心に静まる。大いなる量りの働きの地、思慮行為の大いなる量り基準の、述べられ選択された地へ納まる。中心とされたもの(丸の中心とは限らない)へ、集約していく。

ワ=、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。【 言霊 リ に成る心】 。心の内容が離散散開する。地に集約していくの反対で、大いなる量りの働きの辺、、海辺、へき地、端・はじへと拡散伸長していく。心の中心へでなく辺へ向かう。

➍、『ヒ-ニ』

そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、

今-未来の関係、

按配選択の智恵の次元、

そして後に言霊え。

ア=、於母(おもだる)の神。【 言霊 ヒ に成る心】 。心の内容が表面に開く。於母はおもで、面・顔のこと、陀流は足るで、たる、満足した顔のこと。心の表面に完成完了していくこと。心の中心は置いてきぼりといった感じで、そのまま表現事情が了解できる。

ワ=、妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。【 言霊 ニ に成る心】。 心の内容が煮詰まってゆく。あやに・かしこき・ね、で夜(表面の反対)、見えない心の部分中心部に、音が煮詰まっていく。心のあなかしこ、あなかしこ。

➄、『イ-ヰ』

そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる、

持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。

今の持続。

そして後に言霊い。

ア=、伊耶那岐(いざなぎ)の神。【 言霊 イ に成る心】 。心をいざなう。

ワ=、妹伊耶那美(み)の神。【 言霊 ヰ に成る心】 。いざなわれる。

このそれぞれ次元の違う五つの今があるのです。

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「今」

➊、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、

今-今の関係、

五感感覚の次元、

そして後に言霊う。

ア=、宇比地邇(うひぢに)の神。【 言霊 チ に成る心】 。心の全体が地盤となる。宇宙が地と比べて近い。心全体が地に近い。心の宇宙全体がそのまま現象となって現われ出てくる。これは風船が膨らむように心が尾ごとパッと拡がる。

ワ=、妹須比智邇(いもすひぢに)の神 【 言霊 イ に成る心】 。心の全体が維持持続する。(妹は正反作用反作用の対。) すべからく智に比べて近い。一旦現れ出てきた動きは是非とも経験知識よりは近い=本来の智恵が働く。現われでてきた動きの持続は弥栄(いやさか)に延びゆく。パッと拡がったものがづーっと延びていく。

❷、産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、

過去-今の関係、

知識記憶概念の次元、

そして後に言霊お。

ア=、角杙(つのぐひ)の神。【 言霊 キ に成る心】 。心の体験をかき寄せる。ツゥーと角を延ばして捕え、自分が喰うように自分の方に引き寄せてくる。自他との境目、境界の違いを気づかう岐(分枝)を引き寄せる。中心にある自分に引き付けるように。

ワ=、妹活杙(いくぐひ)の神。【 言霊 ミ に成る心】 。心の内容の実に結ばれる。中心にある自分と言う実が膨らむように。 角杙の対で、自分に引き寄せる持続、自分と一緒になって自分の実が膨らみ続ける。珠の中央部が膨張していく。

➌、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、

今-全体の関係、

感情情緒の次元、。

そして後に言霊あ。

ア=、意富斗能地(おほとのぢ)の神。【 言霊 シ に成る心】。 心の内容が中心に静まる。大いなる量りの働きの地、思慮行為の大いなる量り基準の、述べられ選択された地へ納まる。中心とされたもの(丸の中心とは限らない)へ、集約していく。

ワ=、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。【 言霊 リ に成る心】 。心の内容が離散散開する。地に集約していくの反対で、大いなる量りの働きの辺、、海辺、へき地、端・はじへと拡散伸長していく。心の中心へでなく辺へ向かう。

➍、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、按配選択の智恵の次元、

そして後に言霊え。

ア=、於母(おもだる)の神。【 言霊 ヒ に成る心】 。心の内容が表面に開く。於母はおもで、面・顔のこと、陀流は足るで、たる、満足した顔のこと。心の表面に完成完了していくこと。心の中心は置いてきぼりといった感じで、そのまま表現事情が了解できる。

ワ=、妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。【 言霊 ニ に成る心】。 心の内容が煮詰まってゆく。あやに・かしこき・ね、で夜(表面の反対)、見えない心の部分中心部に、音が煮詰まっていく。心のあなかしこ、あなかしこ。

➄、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる、

持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。

今の持続。

そして後に言霊い。

ア=、伊耶那岐(いざなぎ)の神。【 言霊 イ に成る心】 。心をいざなう。

ワ=、妹伊耶那美(み)の神。【 言霊 ヰ に成る心】 。いざなわれる。

このそれぞれ次元の違う五つの今があるのです。

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未完。