こころの原論。天照大御神の誕生。5

021 こころの原論。天照大御神の誕生。玉祖の命。まがたま。天の岩戸開き。

謎を一つ一つ解いて頁数だけは増えていきますが、中味は相変わらず駄目なのは前に書きました。知的な興奮を呼ぶには多少は貢献しているかもしれませんが、これにしても基本的には盗作でして、元本を傷付けるだけかもしれません。ここでもまた重ねて、本物を読みたい方は一言メッセージ欄のアドレスから入るように言っておきます。

問題は、わたしなりにあなたなりに、彼なりに、自分の感じたことを考えたことを、わたしなりにあなたなりに彼なりに発表することではありません。古事記の神代記を解釈して無数の解の中に自分を置き相対化比較し真理を見つけようとするのでもありません。そんなことでは元々真理は見つからないのです。

古代において大した財力も武力もなく権力も無いのに、何故二千年三千年五千年もの間忘れられない権威を形作っていられるのか、国の支配者が変われば簡単に首は飛んでいくものなのに、何故早い時代から手が出せないのか、その真の秘密があるはずです。

支配者をして自分は彼の次であることに甘んじる秘密が、大和の国にはあるはずです。秀吉も家康も何の力もない者の次の地位を手にしたいと願っただけでした。血統を絶やすことは新しい支配者の仕事です。天皇家も幾らでも切られるチャンスはありました。最近では敗戦においても合衆国は簡単に天皇を潰すことが出来ました。

マッカーサーは簡単に天皇の首を斬ることが出来ました。暴動が起きるので出来ないという意見があるそうです。それなら始めから東京に原爆を落しておけばいいのです。ところが天皇のいると思われた東京には落とせないのです。それどころかマッカーサーは天皇に感動してしまいました。

これは根本的にはスメラミコトの歴史的な秘密に戦争指導部が感応同交したからと思われます。天皇の会見時の誠実な態度はその現れではないでしょうか。合衆国側の戦争指導部として直接会見したマッカーサーに世界歴史に於けるスメラミコトの役割に対する未知の感応があったように思われます。対応し感応したということは彼らも持たざるを得なかった天照を引き出す鏡があったことになります。もし彼らにこの鏡が無ければ、豚に小判、馬の耳に念仏と言うことになるでしょう。

英語の通訳が入っての会見でしたから、理解した日本語に感動したのではない。敗戦国の長の首根っこを掴んで目の前に立たせてあるのですから、英語で話すとなると何だあいつの言うことはとなります。英語での感動する話し方上手い話し方など慣れたものでなんでも知っていたでしょう。通訳がアレンジしたとは思えません。そんなことならすぐばれます。

ではマッカーサーに何が起きたのでしょうか。

言霊イの精神感応です。分かりもしない日本語を話す敗戦国の長の持つ人間精神の世界創造意思への感応です。感応したとは言っても、もちろんマッカーサー自身にはそんなことは理解できません。責任を負う誠実な態度として写ったようです。そしてその後にはその線に沿って自分の頭が転向していったようです。

言霊イの精神感応は人間であることの原理ですので、日常普通にあることですが、言霊フトマニを創造したスメラミコト以外に理解できた人はいません。これは言葉は威力を持つという言葉の理解に則した言霊のことではありません。そんなことをいったら日本語の言霊の威力が他の言語に乗り移ったようになってしまいます。その逆も然りで、単に意味が通じたというだけのことになります。

言霊イの精神感応は・伊斯・許理・度売(いし・こり・どめ)が鏡となって起きることですから、意味とか内容とかが通じて、概念が利用できる以前の精神世界での感応です。言霊イの道(いのち)は簡単に発音することも書くこともできますが、誰もいのちを見たものはいません。いのちがあると証明したものもいません。自覚も無いのに既成の事実としてあります。

常に各次元各場面にあるのばかりでなく、意識の届く限りのどの場所にもどの時代にもあり、人を問わず善悪を問わず正否を問わず死ぬことがありません。こんなものが理解できるでしょうか。

さて。

・・玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、

・八尺(やさか)のまがたまの五百津(いおつ)の御統の珠(みすまるのたま)を作らしめて、

珠を装身具として五百津を500個とするものがありますが、言霊の一つ一つの単位要素のことです。500個も繋がった首飾りなど重すぎるでしょうし、うけひでの左のみみずらにまかせる五百津のみすまるのたまを500個としたら顔が隠れてしまう。こんなことを言われると、そこは神話だからとなり、そうなれば得意の史実実在探しを自分で放棄することになる。

五百津というのは500のことではなく、100のことです。正確には五を基調として50と50で100のことです。言霊の単音要素が50個と運用要素が50個のことを指します。これは必ず五を基調としなければならないので、五(母音行のこと)が示されているのです。例えば100を示すのに10を10集めたり、25を四つ集めたり20を5つ集めたり等がありますが、五つのイエウオアの母音を基準にした100ということです。実際は五十音図を二つ重ねた形です。両側に母音半母音が10と10で、中味は80です。(両側の母音行を取ると残り八十が八十まがついの神の元となります。母音世界以外の現象世界のこと)

八尺(やさか、やあた)というのは、大きさの単位ですが、そうでない場合は八種類のということで、八はほとんどの場面で八種の父韻を指します。ここでは八種の性(や・さか)を持ったと言うことになります(父韻の神名の呪示はウイヂニからイモアヤカシコネまでの八神のこと。)

子音も母音も世界にはいろんなものがあります。大和の母音子音だけが人の意識を直接表現したもので、他のものは発音上のきっかけからできたものです。ですので日本語を世界の言語と比較するというのが元々意味のないことなのです。問題は人の意識の要素が五十の発音にさせた超天才的な頭脳集団が大和の言葉を作ったということです。ものを指して名付けてそれが意識と違うことの無い言葉が出来上がっているということです。

そういった単音での言霊が100個ということです。そこいら辺の発音された言葉を並べるのではありません。

つまり精神意識要素を表現する五十の言霊があって、その言霊に対応した意識の運用の仕方になる五十の言霊があります。人の意識の反映としての言葉は五十しかないのです。

何十億の人間がいようと人の意識の要素となるものは五十しかないというのが言霊原理です。さらに現象する言霊はたったの八つの隠れた意識の変化しかなく、この八つが父韻として区別されています。

八尺(やさか)のまがたま、とありますが、八つの性(サガ)の言霊のことで全部で五十の大和言葉の単音の集まりのことです。

今度はこれを時処次元に沿って整理します。

それがすまる、スメラミコトのスメル働きとなります。

・御統の珠(みすまるのたま)を作らしめて、

統(すまる)にスメル文明とかスメル人とかの話まである。安万侶さんはあまりにも楽しみを与え過ぎたって感じ。でも千年後には古事記の秘密は必ず甦るという強い確信があったのでしょうね。道教からとかスメル人とかユダヤからとか太平洋上の島々からとか北欧神話からとか、実に八百万の系譜が集められています。安万侶さんの思った通りでしょうかね。きっと次にここいら辺で、誰かが、

「大和の歴史は二千年どころか五~八千前に言霊フトマニの原理が完成して世界統治が始められました」

「全ては古代大和発なんですよ」

「今までの始まり方の話しは全部逆です」

というのを待っているのじゃないでしょうか。

『ちなみに、フトマニのマニは日本語であると同時に世界語でもあることをお話しましょう。日本神道で麻邇といいます。仏教では摩尼と呼びます。観世音菩薩が手に持つ円満玲瓏な摩尼宝珠とは言霊のことを表徴したものです。キリスト教旧約聖書にはマナmannaとあります。「マナは神の口より出ずる言葉なり」と記されています。ヒンズーでは「マヌ」と呼ばれます。ヒンズー教の最高法典をマヌの法典といいます。』

ユダヤの失われた契約の箱には「マナの壺」が入っていました。

世界文明が古代大和発だったと分かっても、現在はそうなっていませんし、かなり落ち目であるとさえいえます。しかもこんなことを知ったからといっても、今後の世界運用法は何にも知らないのですから、話にもなりません。

ところがそのような世界状況も見通されていたとなると、興味津々となることでしょう。天照の岩戸開きは穴から出て来ることではなく、人間精神の出て来ること、行為の出て来ること、不明で行き詰まった問題の解決が出て来ること、等に当てはまり、前回は古事記から見た天皇空位の時代が始まったことに適応しました。このような適用は興味、問題意識の持ち方にも拠りますが、人の心の構造が古事記に依って解決されているからこそできるものです。

そして、まがたま(マニ、マナ、マヌ、たま)、御統の珠(みすまるのたま)を作らしめて、です。

原理原則を照らす鏡はできました。今度はそれを判断規範として材料の整備です。人の精神活動も、身体活動も言葉で行なわれますから言葉の整備となります。身体活動は言葉ではないという方もいると思います。しかし、身体活動の全持続の最中にも言葉による身体への係わりが物凄い勢いで、ほとんど無意識とさえ言われるほどの超スピードで脳内運動をしています。腹が減ってがつがつ食べている物が分からないような時でさえ、食べ物と飲み物と食器とテーブルと相手の顔とかの区別はついており、食べられるものと食べれないものの選択は脳内で言葉により安全に行なわれているのです。

この安全に行なわれていく各場面、各次元での操作に必要なのが御統の珠(みすまるのたま)です。各言霊を規律ある統制の取れた順位に沿って並べておくことです。

がつがつ喰いたい、金儲けしたい、大臣になりたいというような欲望次元みんな同じ御統の珠(みすまるのたま)になります。言霊ウ次元。

どういうことを言っているのか知りたい、ここには疑問があるもっと説明が欲しいという時にはそれ用の御統の珠(みすまるのたま)になります。言霊オ次元。

日常行為での買い物でも同じことです。本日の買い物は全体では幾らぐらいかの原理原則が、いしこりどめ。買いたいもの、突如買いたくなるものへの準備。料金を払う時の準備。といったところです。

もし不安なくとか安全にとかを解説に付け加えるならば、御統の珠はそれらを満たしていなければなりません。天照に欠けた鏡や不規則な順不同な言葉は通用しないことになってしまいますから。

玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、とあって、「祖」はおや、親である規範が強調されています。

これは原則としてそうなのですが、実際には目茶苦茶が起きています。そしてこの目茶苦茶な力は強く近隣廻りの者を叩き起こす力を持っています。それは理性的に見えないというのが特徴です。その部分を示すのがウズノメの段です。

しかし、今はまだ原則としての準備がまだできていませんので、続けます。

賛否いずれにしろ、またどのような観点からにしろ、それらに対応できる原則造りです。

天照は完全無欠な絶対的な姿としてでてきますから、その完全無欠性への準備です。これは簡単に言えば、下位にいるものの見方を全部理解して包含してしまいそれが移り往く方向のプラスマイナスを指し示してやればいいことです。

そういった準備として、

時、処、次元での、ちょっと目が廻るくらいの準備があります。

◎022 こころの原論。天照大御神の誕生。五つの御統の珠(みすまるのたま)。天の岩戸開き。 ◎

・御統の珠(みすまるのたま)を作らしめて、

・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、におおせて、・鏡を造らしめ、

・・玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、・八尺(やさか)のまがたまの五百津(いおつ)の御統の珠(みすまるのたま)を作らしめて、

これが御統の珠(みすまるのたま)を作る順序です。

伊斯許理度売命(いしこりどめ)の言霊イを経過しなくては何事も成し得ません。イシコリドメは形の上では原理原則として現れますが、その内実は「いのち」(イの道)です。いのちを説明すると大抵は分けの分からないことになります。何故ならあまりにも現実のどの場面にも当てはまってしまうので、選択選別しきれないからです。

現代では神道でいのちなどというと、未だに科学のかの字も知らない蒙昧事にしがみついている自然発生的アニミズム信仰と見られるのが恥ずかしいのか、 奇魂《くしみたま》幸魂《さきみたま》和魂《にぎみたま》荒魂《あらみたま》だ神界だとか誤魔化せそうな言葉で濁しています。

神さんの名前にそもそも命(みこと)という名前が付いているのに省みようともしません。読み方が違うよという方もいることでしょう。命(みこと)は、御言(みこと)で、御言は神なり、この御言は神と共にあり、これに命(いのち)あり、この命は人の光なりきと聖書では述べられています。木花の咲くや姫の段には言霊の原理原則(石長姫)を選択しなかったので、はかない現象(木花の咲くや姫)のいのち(命)でしかなくなったとあります。

ところが言葉は神と言われても、その言葉(御言)とは何なのかは不明です。一切説明がありません。これが、キリストにも教えられなかったことが、古事記冒頭の五十神の名で明かされているのです。いのちとは言葉で、冒頭五十神のことです。キリストは古代大和を尋ね勉強しています。その前にはモーゼも古代のスメラミコトから使命を授かってユダヤの地に戻っています。両者共に神とは言葉でありいのちであり光であると教えられてはいても、言霊原理は新旧聖書には触れられていないので、別々の使命が与えられたのでしょう。千数百年間は続けて行ける宗教活動と経済産業活動のことでしょうか。現在その期限を迎えていますがこれから気づきに入るところとなるでしょう。(わたしもこのことがすらすらと説明出来るようになると少しは楽しくなるのでしょうが。)

もちろんこんなことを書いたって何の説明も無ければ無意味です。というより説明したところで分からないでしょう。書いている本人が分かっていないし、神々は一人で隠れていると古事記冒頭にも書いてあって、われわれには分かるものじゃないと言っています。隠れているそんな分からないいのちです。今度の場面ではいのちが天照となって隠れています。それがイシコリドメという形をとっています。ここではいのちとは何だという以前のいのちのことになります。いのちがいのちを引き出すのです。

わたしの場合はことが分かっていないので、くどい繰返しになりますが、それでも最近は繰返しの中にも一本の筋が通っているように感じられます。でもそんな感じがあるだけで、現実の幼子の虐待とか強殺とかにどう対応したらいいのか分かりません。悲しいことです。子供に食べ物を与えないという形でいのちを与えた形が出来ています。意地悪して食事を与えない、食べているものを取り上げる、目の前でお預けをさせる等大抵は身に覚えがあることでしょう。どうしてこんなことが起きてしまうのでしょうか。遊び半分、服従させたい、憎い等いろいろあるでしょうが、人のいのちの運営ではこういうことが平然と起きてしまいます。何故悪魔として天照が出現するのかわたしはうまく理解することができるでしょうか。

みすまるの珠を作ったということは、すまる、スメラミコトのすめる用に足る連続した形になっているということです。いのちの五(いの道)に対応できるということです。

五(い)は五つの母音次元宇宙のことですからこの世の全部に対応できるということになります。つまり現実のどの場面でも良しと言うことになります。人間各自にこのみすまるの珠が備わっていることになりますが、その人の主体側の活動意識に応じた形となります。古事記は天照の話ですから完全無欠ですが、わたしの場合などは知的な関心を満たす方向だけをもっぱらとするものになってしまいます。金儲けだけの財界人はそれだけを満たすような珠の造りになります。ブログを読んで疑う人笑う人も同様で、そのような各自の行為が出て来るみすまるの珠を各自で隠し持っています。

正統に使用できるみすまるの珠は各次元の意識に対応した五つの珠があります。ですのでここでは五つのみすまるの珠を作りました。一つではありません。

その内のアの次元に対応するみすまるの珠を・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・といい、オの次元に対応するのを・布刀玉の命(ふとたまのみこと)といいます。

そこで次の仕掛けがきます。

●スメルに関してネットで見つけたこと。

「スメ(皇)、スメラ(天皇)とは古代バビロニア語のスメル(Sumer)と同語で、ル、ラは助辞の変化、シュメールとも発音された。このスメとは神の意で、ラテン語のスメ(Summae)も至上至高の意で同系語である。スメ(皇)をすべ(統)の意に解して“統制”の意にするのは、はなはだしい間違いで、天皇=神であり、スメル国は皇(スメ)国と一致して神国ということなのだ。また、スメラギとはスメル、アグ(AK)の複称であり、ミコト(尊、命)、ミカド(天皇)の言語はミグト(Migut)の転訛で“天降る開拓者”すなわち神ということ。明津神とは、シュメール語の日神ウツ(Ut)の御子たる火神アグの権化として、この国土に降りたまわったのだ。」

世界のいろんな地方で似たことを見つけては、発信地が見つかったというのはもう何十回となく繰り返されています。ヒマラヤ、チベットだったり、台湾の山岳地帯だったり、インドネシアの小島だったり、その度に似たものが、同系、同様となり、そこに語源、発祥地の概念を加えると直ぐさま明快な論理と証拠を添えて、結果が発表されます。それが単独であればいいですが、今は無数に近い源論が出てきているのでその中に置かれると、なるほどそうだが、しかし、となっていきます。

こういった全ての意見研究の違いを統一するのは簡単です。どこかの世界から日本列島へ移り住んだとするより、古代大和から世界に拡がっていったのだから当然とすることです。人種的には大和へ行ったとしても、文明は古代大和が世界文明の発祥の地とすれば全ては解決します。当然世界のあちこちで似たものがあり、同系統のものが見つかります。聖書にもあるでしょう。世界は単一の言葉を話していた時があったと。大和言葉以外に世界に飛び散った言葉かあればいいですが、研究者達はそれがないという証拠を既に集められるだけ集めています。日本語の語源を集めたのではなく、日本語大和言葉の拡散過程を集めていたわけです。さあ、統一(スメル)できたでしょう。

●もう一つ検索で見つかったもの。

「 白雲影裡笑い呵々

言霊アは人が自分の有りの侭の姿を見て、その自分を生かしている大きな宇宙を発見する最初に光りと愛の宇宙が存在するのでは・・・ない。

「空に白い雲が一つ飛んでいやがら、ハッハッハッハッ……」‘空’を求めて求めた末にニヒルにもニヒルな笑いが空虚に響く。

このニヒルの次の瞬間に人間の根本意志に裏付けられた感情のリズムが動いた時、小さな自分を生かしてくれている光と愛の宇宙に変わる。この透徹した無味乾燥な宇宙は言霊ス(巣・澄・透)と名付けられた。」

これは言霊スの宇宙を解説したもので、経験のないわれわれにとっては、そのまま聞いておくだけ。でも両者のスの説明の根本的な違いを知らなければ一歩も話は進まない。

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◎023 こころの原論。天照大御神の誕生。開き方。天の岩戸開き。 ◎

天の岩戸開きは岩戸に隠れてその後に自ら堂々と出て来るのではないというところが落し処のようです。

岩戸開きの段は分けの分からないことが多く記載されているので困っています。

人の判断意見、感情、欲望、選択する智慧がどのように出て来て、現象表現になるかを記述しているのかは間違いありません。アイデアが浮かぶその元のはなしでもあります。

そこで気付いたのが、異常なことが多いということです。

みすまるの珠を準備した後が全て異常なこととして進行していきます。

肩を全抜(うつぬ)きに抜きて、、ははかをとりて、占合(うらえ)まかなわしめて、、根こじにこじて、、踏みとどろこし神がかりして、、・胸乳をかきいで、、・裳緒(もひも)をほとにおし垂れき

全部呪示暗号文ですから解くのが難しい。おもしろいのは、神が神懸かりして、というほど異常な状態を創出していくことです。みすまるの正式な規範ができているにも係わらずわざと無茶苦茶を持ち出します。

みすまるの後は天の香山がどうなるこうなるという表現が多くなります。香山は香具山でかぐやま、かくやま、書く山のこと、現象なって表現となって現れてくるものをさします。天の金山のかなと通じています。かなや書く等全て現象表現に関することです。さあ、天照さんもうそろそろ出てきてもいいよ。

みすまるの珠で既に正式の規範、原則、意思を天照と同様に隠して成立させました。そして香具山になり、その表現を用いれば、例えばデモ行進などは、その意志言いたい事は頭の中にある主義主張であるのに集団での威嚇行為になり注意を引き相手を圧倒しようとします。子供が怪我して叫び鳴く時、叫び鳴く声は怪我そのものではありません。その表現の内容は膝なり手の肘なり血を流している頭なりにあります。つまり異常な事、泣くとかデモをして、内容を発信しているのです。騒ぎは大きいほど注意を引きます。

この事を天照に当てはめますと、天照の内容であるいしこりどめのみすまるの珠は、ウズメノどんどこ騒ぎによってしか天照自身の注意を引かないと言うことになります。もちろんその一方では、正式な規範も枝に引っかけておいて何時でも見られるようになっています。そうしないと判断ができないからです。

ちょうどどのブログ記事でも、書かれる言葉の人目を引く記載がその内容を引き出すようなものです。どんどこ騒ぎが大きすぎると内容が忘れられて誇大妄想になるときもあるでしょう。

そこで騒ぎを受け持つのがア、オ、ウ(感情、知識、欲望)の天の児屋の命(あめのこやねのみこと)、布刀玉の命(ふとたまのみこと)、天の宇受売の命、になります。

天照は外からやってくるやかましいどんちゃん騒ぎに注意を振り向けざるをえません。そこでその内容は何なのかと選択させるのが手力の男となります。

ここでは騒ぐことを強調し過ぎているかもしれません。俺は沈思黙考正座しながらアイデアを出すということもあるでしょう。でもそれは外見でだけで、自分の脳内の動きをみれば目茶滅茶に目まぐるしい限りの観念想念の流れの中にあるのが分かるはずです。うまく行く時など雷光にお目にかかるほどとなります。

倒れ怪我した子供がお母さんを呼ぶとき、そこには神懸かりがおこります。(うずめの時に説明します)母親(天照)の方は手を切った足から血が出ている早く止めないとと実践的な処置(エ)の方を思うのですが、子供が怪我の内容を気にするのはずっと後になります。

ウズメの段落にそのことが載っています。天の香山の天の日影(ひかげ)を、という面白い暗示表現です。香具山はこの場合は子供の怪我したこと、結果表現となっているものです。日影というのは、ひ(霊)の、かけ(欠け)、で怪我の内実内容(カタ、堅石のかた、男鹿の肩のかたのことで詳細は後述)が欠けている、隠れているということになります。子供は怪我の内容を直接表現する代わりに泣いたりわめいたりしているわけです。

しかしその状況全体は子供なりに背負うわけで、これをたすきにかけるといっています。たすきのタ、ス、というのがちょうど言霊太祝詞音図の斜めになった始めの(た)と終りの(す)を結んでいます。つまりたすきにかけて音図全体、状況全体を背負っているということです。

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言霊太祝詞五十音図

ア・タカマハラナヤサ・ワ

イ・チキミヒリニイシ・ヰ

エ・テケメヘレネエセ・ヱ

オ・トコモホロノヨソ・ヲ

ウ・ツクムフルヌユス・ウ

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ここで「アマテラスだまされ説」というのが見つかりました。

これに疑問を持つ方も応える方もアマテラスからの直系だとか、偽アマテラスからなら現天皇は偽じゃないのかと真剣に肯定したり否定したりしています。安万侶さんが聞いたら腹を抱えて笑いだすのではないか、あるいは、安万侶さん自身は現在はもう頭の上を超えたところにいるので、いまさら下々の見聞主張など関心は無いのかもしれません。

これらの方々は岩戸から出るときには天照であろうとだれであろうと、イシコリドメの鏡に照らして出て来ることが分かっていません。上記の音図のどの言霊から出てきたのか、どのような組み合わせで出て来るのか、自分の喋っていることの元々を確かめてみたらいいのにそれをしていません。

だまされ説の引用している部分は

「 だまし次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神揃ふてお出まし近うなって来たぞ。」(日月神示日の出の巻第一帳)

となっています。

「ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。」

ということは当然、マコトの岩戸からは「マコトの天照大神、」が「お出ましぞ」となります。

天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)の上枝(ほつえ)に八尺のまがたまの五百津の御すまるの玉を取り付け、・中枝(なかつえ)に八尺鏡(やあたのかがみ)を取りかけ・下枝(しづえ)に白和幣(しらにぎて)、青和幣(あおにぎて)を取り垂(し)でて、と書いてあり、岩戸の前では用意万端全てが整っていて、上記で賛否を言っている人達は下枝しか見ていません。それでも当然その人なりの意見となって出て来るだけです。

「肩、堅」に関して上手い具合に指示してある文章が見つかりました。

第08巻 磐戸の巻第2帖(238)

「 キつけてくれよ、キがもとざぞ、キから生れるのざぞ、心くばれと申してあろが、心のもとはキざぞ、総てのもとはキであるぞ、キは (よろこび)ざぞ、臣民みなにそれぞれのキうへつけてあるのざぞ、うれしキは うれしキことうむぞ、かなしキは かなしキことうむぞ、おそれはおそれうむぞ、喜べば喜ぶことあると申してあろがな、天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ。この道理わかるであろがな。爆弾でもあたると思へばあたるのざぞ、おそれるとおそろしことになるのざぞ、ものはキから生れるのざ、キがもとぞ、くどくキづけておくぞ。ムのキ動けばムくるぞ、ウのキうごけばウ来るぞ、どんな九十(コト)でもキあれば出来るぞ、キからうまれるぞ、勇んで神の御用つとめて下されよ。」

自分の意見を述べるのに賛成でも反対でも、ダマシでもマコトでもキがもとざぞ、キから生れるのざぞ、というキのことです。

ここで言われている「キ」は上記音図のカ行の「キ」のことで、「肩、堅」で示されたカをいいます。日月神示は古文書ではないですが、本当に神示によったもののようです。キが元だというのはマコトの天照の出て来る以前をいい、天照が出てきた以降ならチ(た)となるはずです。カサタナハマヤラの各神の現れならダマシ天照で、タカマハラナヤサの各神の現れならマコトの天照です。カサタナハマヤラの各神から自分の意見を述べるのは全部ダマシ天照の意見で、それでも中、上枝にマコトが引っかけてあるので天照は奇しと思い込むことになります。

自分にとっても他人にとっても嘘ばっかり付いているつもりでも、嘘の元となる十分の一の真実が目の前にチラついているから嘘が付けるのです。キが元だというのはそういった意味です。

◎024 こころの原論。天照大御神の誕生。まさかき。真と逆さの木。天の岩戸開き。 ◎

参照。

・玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、(「たまのおや」を約めて「たまのや」と言う。

)

=言霊エ。

国の常立の神、言霊エであります。国家・社会が恒常に(常)成立する根源宇宙(神)という事です。天の常立の神が「大自然を恒常に成立させる根源宇宙」であるならば、国の常立の神は国家・社会を恒常に成立させる宇宙ということが出来ましょう。次の豊雲野の神は言霊ヱであります。言霊エは選ぶ、で道徳・政治行動の主体を意味します。それに対して言霊ヱの豊雲野の神は道徳や政治活動で打ち立てられた法律とか、道徳律に当たるものであります。豊雲野の神という言霊ヱを指示する指月の指の意味は何なのでしょうか。それは後程明らかにされますが、ここでは簡単に触れておきましょう。豊雲野の豊(とよ)は十四(とよ)の意です。人の心の先天構造を表わす基本数は十四で表します。雲は組の呪示です。野とは分野・領域のこと。豊雲野の全部で先天構造の基本数、十四個の言霊を組むことによって打立てられた道徳律の領域である宇宙、ということになります。道徳律とは道徳の基本原理に則って、「こうしてはいけない、こうせよ」という教えのこと。

言霊エのエの音に漢字を当てはめると、選(え)らぶ、が最も適当でしょう。言霊ヱのヱには絵(え)、慧(え)が最適でありましょうか。

何もない広い宇宙の一点に意識の芽とも言うべきものが芽を出します。言霊ウであり、また今・此処であります。次の瞬間、これは何かの心が加わると、言霊ウの宇宙は言霊アとワの主体と客体の宇宙に剖判します。私と貴方の立場に分かれます。更に意識が進展しますと、言霊アの宇宙は言霊オとエに、言霊ワの宇宙は言霊ヲとヱの宇宙へと剖判します。主体(ア)と客体(ワ)に分かれて、更に「これは何か」の心が加わると、アの主体からは今眼前にあるものと同じ経験をした事があるか、の言霊オ、さらには眼前のものをどう処理したらよいか、の将来への選択の言霊エに剖判します。次に客体の言霊ワから、経験知の蓄積である言霊ヲの宇宙と、それをどうまとめて将来に資するか、の参考となる道徳の教えの領域の宇宙言霊ヱとが剖判して来ます。上図に示します。

図に示されますように、これまでで四つ角母音宇宙が出現しました。そこでこの四個の宇宙からそれぞれ如何なる人間の性能が発現されて来るか、を確めておきましょう。

言霊ウの宇宙(先に発現時では何か分からないが、人間の意識の芽ともいわれるもの、と説明されましたが)、宇宙剖判が進展して行きますと、人間の五官感覚に基づく欲望性能が発現して来ます。そしてこの欲望性能は社会的には産業・経済活動となって行きます。

言霊アの宇宙からは、人間の感情性能が発現します。この性能は社会的に芸術・宗教活動に発展します。

言霊オの宇宙からは人間の経験知が発現します。経験知とは体験したものを、後で振り返り、記憶を思い起こして、想起した複数の経験の間の関係を調べる性能です。この性能が発展して社会的に所謂科学研究となります。

言霊エの宇宙から発現して来る現象は個人的には物事を円満に処理する実践智であり、これが発展して社会的になったものが一般に政治活動であり、道徳活動であります。ここで言霊オの経験知と言霊エの実践智とは全く違ったものである事にご注目下さい。

ここで、先に読者の皆様に研究課題として残しておきましたウ→アとワの宇宙剖判について説明申し上げることにしましょう。何もない宇宙の中に何か知れないけれど、意識の芽とでも言ったものが発現します。宇宙剖判が更に進みますと、言い換えますと、その芽に何かの意識が動きますと、その芽である言霊ウから瞬時に言霊ア・ワ、すなわち主体と客体となる宇宙が剖判し、現われます。主客の二つに分かれなければ、そのものが何であるか、は永遠に分かることはありません。そこで分かろうとすると、宇宙は更に剖判して、言霊オ・ヲが発現します。言霊オ・ヲは記憶であります。眼前にあるものが何であるか、は想起した記憶と照合されて、これは何々だと断定されます。

この時、人間の思惟は二つの方向に分かれます。この物事が何々だ、と断定された時、その断定された事物と主体である自分との対立という事態から思考が開始されますと、言霊オの領域に属する思考となります。この思考形体を図示しますと、(△) の哲学でいう弁証的思考です。物事をすべて自分の外に見て考える思考です。これに対し、もう一つは、ウ→アとワさらにエとオ・ヱとヲと宇宙剖判を承知した上で、その進展の先に物事を解決しようとする思考です。この思考は言霊エの領域の思考です。その形式を図示しますと、(□) となります。言霊オの思考の数霊(かずたま)は三または六であり、言霊エの思考の数霊は四または八であると申せましょう。この事は講座が進むに従って更に詳しく解説申上げます。

言葉の数珠、全世界宇宙の連続性の出所、を確保している神様。人が使用する言葉の出所は五十音図にある五十個で、それが人のこころの要素となり、その全体の出所親元、言霊の祖ということです。

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玉祖の命(たまのやのみこと)は五つのみすまるの数珠を各次元の判断規範として作りました。

一つはアの言霊の判断規範を天の児屋の命(あめのこやねのみこと)に持たせ、

一つはオの言霊の判断規範を布刀玉の命(ふとたまのみこと)に持たせ、

一つはウの言霊の判断規範を天の宇受売の命(あめのうずめ)に持たせ、

一つはイの言霊の判断規範を天の手力の男の神に持たせ、

じぶんはエの言霊の判断規範を持ちました。

珠数は各十個で以下の五つです。

ア・タカマハラナヤサ・ワ

イ・チキミヒリニイシ・ヰ

エ・テケメヘレネエセ・ヱ

オ・トコモホロノヨソ・ヲ

ウ・ツクムフルヌユス・ウ

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真賢木(まさかき)=ま(真)、さか(賢)、き(木)=真(ま)と逆(さか)を併せ持った木(き)。

・伊斯許理度売命(いしこりどめ)、、におおせて、・鏡を造らしめ、

・玉祖の命(たまのやのみこと)におおせて、

・八尺(やさか)のまがたまの五百津(いおつ)の御統の珠(みすまるのたま)を作らしめて、

・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・布刀玉の命(ふとたまのみこと)を召して、

・天の香山(かぐやま)の真男鹿(まおしか)の肩を全抜(うつぬ)きに抜きて、

・天の香山の天のははか(はわか)をとりて、

・占合(うらえ)まかなわしめて、

・天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を

・根こじにこじて、

・上枝(ほつえ)に八尺のまがたまの五百津の御すまるの玉を取り付け、

・中枝(なかつえ)に八尺鏡(やあたのかがみ)を取りかけ

・下枝(しづえ)に白和幣(しらにぎて)、青和幣(あおにぎて)を取り垂(し)でて、

・この種々(くさぐさ)のものは

・布刀玉の命太御幣(ふとみてぐら)と取りもちて・

・天の児屋の命太詔戸(ふとのりと)言ほきまおして、

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天の児屋の命(あめのこやねのみこと)と布刀玉の命(ふとたまのみこと)は対ででてきます。後では二人で鏡を差し出すとなっています。どういうことでょしうか。二人で共同して仕事をするのでしょうか。ここをわたしなりに書き換えてみます。

・現象表現となったものの中から、言霊アと言霊オを呼んできて、

・父韻列の大事なカとタを除外して、

・五母音のどれか適当なものを剥ぎ取ってきて、

・その両者を掛け合わせて、

・出来上がった目茶滅茶な五十音図(百音図)を準備して、

・それを各自(アオウエ)にまた配分して、

ふたりで作った目茶滅茶のものとはべつの、正式な伊斯許理度売命(いしこりどめ)鏡と、玉祖の命(たまのやのみこと)の五百津(いおつ)の御統の珠(みすまるのたま)の規範は、正統な判断規範と鏡と判断基準は見えるように木の枝に掛けておき、

逆さ木、真(ま)と逆(さか)を併せ持った木(き)、を言霊オに持たせて、

言霊アに話させ感情を露させる。

読み替えたからといって余計に分からなくなったということは無く、もともと分からないように書かれているですからわたしのように読んでも問題が解決するわけでもないのです。各自が自分の経験体験を実際に分析して自己証明を果たし、それによって他の言うことも証明でき、自他証によって、そのたの間違った意見を取り入れ掬い上げられるかです。証明もしない前に啖呵を切るだけかもしれませんけど。

この真(ま)と逆(さか、賢)を併せ持った木(き)、というのがみそです。真実といわれる言葉の中にも、虚偽といわれる言葉の中にも、この真(ま)と逆(さか)を併せ持った木(き)、が植えられているのです。

倒れて怪我した子供がないて母親を求めています。この泣き声は怪我の内容ではありません。病気をして苦痛があります。この苦痛は病気の内容ではなく現象です。ブログを読んで何だこれはつまらない関心が無いよと言う気持ちが起きます。関心ないという気持ちはブログの内容ではありません。ブログの内容では無いが少なくとも読んだ自分の気持ちの内容だろうというでしょう。では、その自分の気持ちとやらを誰か十人の人に伝えてみてください、その反応を見れば十人十色で結局自分の気持ちとやらは薄めれて拡散しているのが分かるでしょう。

他人に問わず自分の心だけに問うなら原色のままだろうという方もいるでしょう。では自分の気持ちを自分の気持ちで説明してみてください。これはちょっとやそっとの事でできる技ではありません。気持ちは通じ合いますが説明は言葉によります。言葉は自分のものではありません。たまたま日本で育って日本語を借りに話しているだけです。

このように自分が何かの現象を持つことはそのまま、真(ま)と逆(さか、賢)を併せ持った木(き)を作るということになります。

そこで真と逆さの選択はどう行なわれるかです。

・上枝(ほつえ)に八尺のまがたまの五百津の御すまるの玉を取り付け、

・中枝(なかつえ)に八尺鏡(やあたのかがみ)を取りかけ

・下枝(しづえ)に白和幣(しらにぎて)、青和幣(あおにぎて)を取り垂(し)でて、

◎025 こころの原論。天照大御神の誕生。かた、たか。。天の岩戸開き。 ◎

訪問者履歴を辿っていくと、ブログでは秘密は明かせられないよ、いま本を執筆中だから待ってねというのがありました。善良な人助けにもなる仕事をなさっているようです。悪く言えばタダじゃ教えないよということですが、別に言えば値段のつく程度の教えでしかないよということでもあります。もちろん口上書と経験は他を圧倒するように書かれています。それなりの事実が個人的に所有されているからです。

このブログでは天照の秘密を解こうとしているのですが、古事記の秘密は分からないように隠してあると冒頭にありますから、分からなくとも気が楽です。スメラミコト一人が立てばいいだけのことですから。しかし、岩戸開きの秘密が分かったら幾らの値段が付くのでしょうか。天照のやったことはこの世を闇夜にしたことですから、電力会社に聞いて計算してもらいましいうか。あの時代には電気は無いからタダだよ。

先の秘密は喋らないよというブログのその部分の要点は、「思いを手放す、意識を消去する」にあるらしい。これを前もって実行しておくと凄い力を得るというらしい。この力が応用自在でいきる糧になる。そんな素晴らしいことなどどんどん教えちゃえばいいのにと、人には簡単に言ってしまう。秘密を解こうという同じ地盤に立っているので参考になるのかなとブログを読み進めた訳です。

分野が違うので表現も違ってきていますが、「思いを手放す、意識を消去する」というのは古事記に則して言えばウの言霊御中主の神に戻れ、ということになりそうです。自我意識でがんじがらめにされた自分を解放しなさいということで、天照の段に適用できそうです。

・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・

・布刀玉の命(ふとたまのみこと)を召して、

・天の香山(かぐやま)の真男鹿(まおしか)の肩を全抜(うつぬ)きに抜きて、

・天の香山の天のははか(はわか)をとりて、・占合(うらえ)まかなわしめて、

・天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を

・根こじにこじて、

・上枝(ほつえ)に八尺のまがたまの五百津の御すまるの玉を取り付け、/選択智慧の判断規範

・中枝(なかつえ)に八尺鏡(やあたのかがみ)を取りかけ/原則の判断規範。

・下枝(しづえ)に白和幣(しらにぎて)、青和幣(あおにぎて)を取り垂(し)でて、/経験概念の判断規範。

ちょっと目が廻るくらいです。

・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・アの言霊

・布刀玉の命(ふとたまのみこと)を召して、・オの言霊

ここは連続して命の名が記載されています。二つの働きが一体合体した連続になることを示すと同時に、それぞれ独自の判断内容を示しているようです。

合体連続するというのは知識には感情が付随してくると同時に感情にも知識が付随して来ることで、独自というのは言霊アの感情として見ていけば過去経験知識は不要になり、言霊オの知識として見ていけば、感情のこびりつかない概念運用ができるということです。またアの感情世界の開陳にはオの言葉の世界で説明がなされ、オの知識世界の開陳にはアの感情世界がこびりついているということにもなります。

なぜこのような事が必要なのかというと、天照大御神が出現の時には、天の児屋の命(あめのこやねのみこと)言霊ア、感情、九拳の剣の判断と、布刀玉(ふとたま)の命、言霊オ、知識、八拳の剣の判断の両者は止揚されていくからです。

その止揚されていく様子が次段です。

ここでは完全な判断規範である天照がでてくる事を述べていますが、現実には次の次の瞬間に記憶が呼び起こされ、それが自我として所有される事が多いので、以下のようには行きません。

しかし原理的な純粋な意識の活動であり、アの間を照らす完結した思考、完成された結論を得られる方法です。

両者で仕事をしていきます。

・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)は後に自分が天照の気を引くための表現を担うための準備を布刀玉の命(ふとたまのみこと)に依頼します。正式な判断規範を唱える準備はイシコリドメの段で御統の珠(みすまるのたま)として出来上がっています。お堅い厳粛な顔をしたものでなく、今はなるべくうまく気を引きつけるものを作ろうとしていきます。そうしないと真っ暗闇のなかでは何処に注意を集中したらいいのか分からないからです。

・布刀玉の命(ふとたまのみこと)は概念意識を扱う領域を担当していますから、彼のできることは大げさな量的な裏表のあることを造り上げることです。それによって状態を逸した形ならば簡単に注意が引き寄せられるだろうという魂胆です。

そこで、天の児屋の命(あめのこやねのみこと)が布刀玉の命(ふとたまのみこと)に相談して、・天の香山(かぐやま)の真男鹿(まおしか)の肩を全抜(うつぬ)きに抜いてもらう。

香具山があまりにも低くて山の体裁を整えてなく、どうしてあんなものが天の山と名付けられているのか、多くの疑問があるようです。地名史実史跡現実との対応から見ていけば、香具山だけに係わらず古事記全体がどうしてあんなことがという疑問だらけになります。どの頁に渡ってこういった疑問が出ていることが、今日までの知性概念には一貫しています。

それを別の方向から捕らえれば、どうしてそんなおかしなことが一貫して疑問になって与えられているのかとなり、今まで千年以上も罠にはめられているのではないか、という疑問、事実が浮かんできます。安万侶さんの超頭の良いところでしょう。さっさと場所探しなど止めて、一貫した疑問を一貫したフト言霊の原理で解していきましょう。とはいってもスメラミコトが分かればいいようになっているので、われわれには大変なことです。そして、この段落はわたしには不明です。「真男鹿の肩」が分かりません。

・香山は、かくやま、書く山、書かれた表現の集まったもの、のこと、雑多な現象表現の集積。ここでは書き表された五十音図のこと。山は八間(やま)という表記もある通り、八つの間を指します。正方形に縦横斜めの線を入れると八分され、その中心を引き上げると山型に成ります。しかしここでは高い山の意味はなく、八間があることその八間に一つづつ父韻が入り、各子音が配分されます。

五十音では八でまとめられないのではと心配する方のために、五十音の両側母音行を抜くと、八の間に納まる山ができます。母音は主体側能動側で山を登ってあっち側の半母音行へ行くことになります。

・真男鹿(まおしか)は陽性男性韻の能動側、次の、

・天の香山の天のははかは陰性女性韻の受動側、と母音父韻に分けて理解しようとしていますがうまく行っていないようです。

○波波迦(はわか)。和名抄では「朱桜は『はわか』、一に『にわさくら』という。」とあり、また木の具の部には「樺は木の皮の名で、たいまつにする。和名『かば』、あるいは『かにば』という。今は桜の皮をこれにする。」とある。

・肩、かた、言霊カと言霊タ。

・全抜きに抜きて、は取り上げ取っ払って、

全部で五十音図から能動韻である重要な言霊かと言霊タを除外してしまい。

岩戸前での神集いでは堅石の「かた」を集めて確実な始めとしたが、今度はそれ(かた)を不安定な形に持っていくこと。

参照。

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言霊タと言霊カ。

言霊た。。

大事忍男(おおごとおしを)の神

言霊タ 神名は大いなる(大)現象(事)となって押し出て来る(忍)(おし)言霊(男)を指示する神名(神)と説明されます。先天構造から説明しますと、父韻チが母音アに働きかけて子音タが生れます。父韻チとは父韻の章で述べましたように「精神宇宙全体がそのまま後天の現象となって現われ出る力動韻」と説明されます。その父韻チが母音アに働きかけて子音タが生れます。物事(現象)は五母音の中でアの次元に視点を置いて見るのが最もその実相を明らかにします。以上の事から父韻チと母音アと結んで現われた子音タは宇宙がそのまま現象として現われたというのに最もふさわしい姿という事が出来ます。

言霊カ。大戸惑子の神。

言霊カ、 耳の孔に入って来た言葉は言霊ノ・ネで復誦され、次にその意味・内容は大戸惑子、大戸惑女の言霊カ・マで頭の中で掻き回され、「こうかな、ああかな」と考えられます。掻(か)き混(ま)ぜられ、次第に煮(に)つめられます。煮つめの道具を釜(かま)と呼びます。この作業で言葉の意味・内容が明らかにとなり、かくて有音の神名が純粋の真名(言霊)に還元されて行き、内容が確定されます。有音の神名は完全に真名に還ります。大戸惑子の神は霊を、大戸惑女の神は音を受け持ちます。

言霊カに漢字を当てますと、書(か)く、掻(か)く、貸(か)す、返(かえ)す、借(か)りる、掛(か)ける、囲(かこ)う、掠(かす)む、勝(か)つ、賭(かけ)……等があります。

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「か、た」が無い場合。

真実を引き出すのに何故不安定な状態がいるのでしょうか。それは出て来るものが何処に結ばれてるかを知らせるためです。

倒れて泣く子は泣くことに自分の怪我の状況を結びつけます。何故どうして起きたか分からず怪我の状況も分かりません。泣かない子もいるでしょう。泣かない強情な子はうーっと傷ついたところを見つめることによって怪我の状況を表現しようとします。疑問や原因経過状況は分からず、ただ痛みのある場所を見つめることもあるでしょう。

こんなブログはくだらないと読み捨てる方はブログの内容ではなく自分の気持ちに直接結び付きます。読んだからくだらないと判断したのだという場合には疑問や不明な思いを持つ前にくだらんという判断が先行しています。

それぞれ次に続く表現は大きくなり、おおげさになり易くまやかしも含まれ易くなってきます。しかしそれによって簡単に相手に通じることが可能となります。内容に関してではなく、相手から発見され易く、相手の端緒の注意を引き易いということです。そのようなものとして真男鹿の肩を抜いていきます。

もちろんこの話は肩骨を焼く占いのことだとしても、他の話し同様一向に構わないことです。

「か、た」と鏡。

岩戸の始まりでは堅石(かたしは)を集めたとあります。「か、た」は確実な判断規範を生じる為の前段階にあるので、「か、た」から始めよということです。そして実際「か、た」から始める方法を記したのが古事記神代の巻であり、岩戸の段です。

鏡は使用すると左右は反対となります。岩戸の中の天照は真実の判断規範ですので、それを鏡で見ると逆になってしまいます。そのために天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)という特殊な言い方をして、出て来る天照が正になるように逆さの木を用意しています。

同様に上中下の枝に付けたものも鏡で映すと正しい順になるように、イのみすまるの珠を上に、エの鏡を中に、ウオアを下に引っかけています。(伊勢の御柱はイエウオア)

さらに、出て来る天照の規範はタカマハラナヤサで「た、か」ですが鏡に写す前の「か、た(肩、堅)」にしてあります。

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・天の香山の天のははか(はわか)をとりて、

・占合(うらえ)まかなわしめて、