i 子様のための古事記の言霊百神 02

i 子様のための古事記の言霊百神 2

ここでは天地は「あめつち」と読みます。

てんちと読んで、漢語での天地の意味を導入してしまうと、天地とは物質世界、頭上の宇宙と足元の大地のこととなり、物理条件に規制された実証と事跡史跡の発見物語になります。

そんなことなら、宇宙物理学を見た方が話が速いことになり、古事記の宇宙創世神話など何の価値もなくなります。

そうなれば、出て来る神々、挿話、事象などはただのお話、神話でしかありません。せいぜいそれらの発生を世界共通の民話や神話想起機能と結びつけるだけの物となります。収集と実証によって確定され、それが出来なければ信心信仰の対象とされ、文字表現は文献学上の比較事項になるだけでしょう。

しかし、天地という漢語を大和の日本語に戻して「あめつち」にすると事情は一変します。

天地というのは、ここにいる自分の外部にあるものです。天地は自分の外にある物ですから、知ろうとすれば自分が外部と接触適応できる物理条件を整えて出かけていかねばなりません。

これに対してことを自分の外部に求めず自分の心の内に求めるやり方があります。そこではどこかの特定の天とか地とかではなく、出ては消え消えては出てくる心の中の相手を対象とすることになります。心の思い、心の広がりが自分の内部にあるということが、「天地」となります。

心の天地は夢想と言い換えられてしまうかもしれません。心の中の好奇心、探究心として現されるかもしれません。ある天体や太陽のことを思っているうちに知識から考えが膨らみ、想像に疑問が加わり、自省している間にまた疑問が出てきてくることと取られているかもしれません。

このような内に省みた心の世界も、どの分野においても留まると処を知らず、知識で知っている以上のことを補うような、思いとか考えとかが広範に拡大していく処となっています。

学問や知識の対象となった天地は何百億光年の向こうの物証を求めます。心の外に、無限大の宇宙と、物質の内部に無限小の実在世界を体験実証しようとします。

ここに極大と極小へ向う二つの見方があるように思えますが、それらを心の動きの次元で捕らえれば、心という動きの形があり、それが天地を「あめつち」と読む動きに対応しています。

「あめつち」という心の動きがあって、天地という漢語が後から当てはめられたので、探求すべきは「あめつち」です。

「あめつち」という簡単な一語に神代の巻の全部が詰まっています。言ってみれば「あめつち」が分かれば全てが分かるという構造で、又、何も知らないところから始まって徐々に分かっていく行程が、分かっていく順序通りの書き方となっています。

神代の巻は心の動きの教科書ですから、何も持たない心を全く預けてしまった処から始める方が簡単です。そしてまた実際にそのように始まります。

神代の巻は同じ処に戻っては螺旋上昇的に肉付けされて豊かになっていくように書かれています。色々な用語、神名が使用されていきますが、結局は全てが始めの一言である「あめつち」の説明となっていて、心の生んだ子供の事を記した書となっています。

この「あめつち」による螺旋上昇状の一貫した書き方も、これがそうだということを証明しないとやはり根拠の無い作り話になってしまいます。しかしことの始まる前に説明されてしまうと、得られたことは記憶概念として残っていくだけのことでしょう。

確かに多くの事が記憶概念から始まりますが、そこから始まるのは既に組み込まれてしまった心からの出発となります。各人はそれなりに判断規範を持っていて、それをもとにして取捨選択が行われていきますので、それを捨てることが非常に難しいことになります。

しかし、一先ずそれを置いておいて何も無い心から始めることも出来ます。「あめつち」を証明しないで何も無いところから始めよというのは、ますます根拠を与えることを放棄しているようです。

何も知識を持たず千年以上の伝統的な理解を放棄せよと言うようなものですから、そう簡単に出来そうにありません。もしそこで「そりゃそうだと思う」ならば、「そりゃそうだ」を「あっ」に変えてみてください。

「あっ、そりゃそうだと、思う」です。そうすると、何も持たないところに何かが生まれそれを持つという始まる感じを得ます。「あ」という芽を掴んだ感じを得ます。

この「あっという芽」が形を変えて知っている記憶からの始まりだったり、初めて聞く話からのものであったり、ひらめき、思い、だったりと、なっているのではありませんか。

「あっという芽」、つまり、「あの芽」、「あめ」です。

「あの芽が付いて自分の地から出てくると、「そりゃそうだ」となったり、経験知識が出てきたり、記憶が出てきたりしているのを、自分の思い考えとしているのではないでしょうか。

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8-2。 『あめつちの 初発の時』

古事記の冒頭は●『天地初発時』と書いてあり、いろんな読みくだし方がありますが、心の原理論を始める最初の一言はどういう大和言葉になっているか、ということを見いだすことが肝心です。

漢語を使って書かれているから漢字の意味がまずあるだろうというのでは、出だしの一歩目がもう駄目です。大和日本の心、人間の心とは何かを古代において解明した成果が書かれているのですから、その線に沿って読み出さねばなりません。漢字の意味、唐心ばかり追っかけているのでは何にもなりません。

「あめつちのはじめのとき」と読みます。

この時点で既に疑問や反省心が起きて、「本当かな、何かおかしいな、今までと違うな、そんなこともあるのかな、」等々の思いが出てきているかもしれません。あるいは素直にそのまま納得しているかもしれません。

疑問を持つにしろ納得するにしろ、そのように心が動き進展していく、その始めの姿がある事を指したものなのです。各人それぞれに閃きや思いがあるでしょうけれど、それらの全ての始めのあり方を原理論的に述べたものですから、各人の個別的な内容を超えて普遍的な言い方になっています。「あめつちのはじめ」です。

どこが普遍的かということは、漢字に拘泥していては見つかりません。元の大和の日本語の平仮名にしてその読みに戻すと、その音の表記がそのまま普遍的な意味を持つようになっています。今使用している平仮名は後世の作品ですが、音は古代にその全体が作られていました。古代から多くの文字があり、その一つ一つの文字の体系が同じ音を巡って創造されてきた文字表記(神代文字)となっていました。

大和言葉の音を漢語で表記するのも、ABCのローマ字を適応した場合でも、古代文字が何十種類あるというのも、大和の音に普遍性があるからできることなのです。

ですので「天地」と書いてあっても、その漢語の意味を見つける前に、大和の音がありますから、その音を探すことから始めます。漢字を国語に当てて読む漢字の音に対する訓の他に、多くの大和文字という表記に対応している大和の音があるのです。

冒頭の古事記の原文表記は「天地初発之時、於高天原成神名‥」ですが、「天地」とは「阿米都地(あめつち)」で、それをわざわざ漢の文字で書いたものです。ですので「天地」と書いてあめつちと読ませています。大和言葉に近い「あめつち」の当時の漢語の発音を借りてきただけのものです。序文に書かれてあるように、原文表記の漢字に「あめつち」の意味内容がある時と無いときとがあります。ここでは漢字の音を借りています。

そこで訳した後の表記を「あめつち」にしないで、「あめつち」の意味内容に近いと思われる漢語を探して「天地」を配当しました。これは訳者がそう思いそう考えて決めて多くの人たちがそのまま従ったのです。ここに「あめつち」は「天地」だという歴史が始まったのです。

面白いことに「天地」にしてしまった歴史は始まりましたが、「あめつち」という読みは排除していません。「天地」は「阿米都地」とあって「あめつち」と読むのが分かっているからです。ただ「あめつち」の意味が分からず、「天地」と代用した意味で多くの人たちが納得し合っているというだけです。

宣長はこういっています。

「天地は「阿米都知(あめつち)」を漢の文字で書いたもので、天は「あめ」である。なぜ「あめ」というのか、その意味は分からない。」

これは代用品に甘んじているというだけで、「天地」と表記してその漢語の意味を取るのが真理であるとしているのではありません。

漢語の漢字の単音表記がわざわざ四文字になっている理由が明らかになったわけではないのです。「天地」の中国音は[tiandi]で「あめつち」とは似ても似つきません。

そこで「天地」と書かせて「あめつち」と読ませ、天地の意味を「あめつち」にしてきました。「あめつち」の本来の意味がぜんぜん無視されたまま時は過ぎていったのです。「あめつち」は「天地」という二字で表現されていますから、「天」と「地」の二つのこと、二つで現す何かのことという理解が支配的になりました。つまり、「あめ」と「つち」になってしまいました。

今ではどこにも「あ・め・つ・ち」という四語にする理解が見えません。

神代の巻きは主体の心の物語です。

そこで「あめつち」の「あ」を主体側の意識にして心が活動開始していくと「あ」になるというように見ていくどうなるか、という見方もあります。主体側の心の運用を「あ」としたのです。

心の運用を「あ」にしたというのはあまりにも大雑把のように見えます。専門用語の発達が古代には無かったということもあるでしょう。しかしこれは何でもかんでも「あ」にしたということではありません。

「あ」は最初から終わりまでが「あ」であるのは、人の心の動きを写したものです。心の主体の動きが現れると「あ」という表現になり、「あ」といえば主体の心の動きになっていることを示しています。

「あ」の生まれる以前のイメージが形成され、「あ」が「あ」という音と結ばれ、「あ」という物象を創造して、「あ」として到達して、「あ」が了解されて一循環が終了して、「あ」は記憶され先天の世界に放たれます。この先天の実在世界に放つことを、蛭子を生むといいます。

この一循環が冒頭百神で、目次で示したごとく、各一音に対して百神が循環して自らを創造していきます。最初の一音が完成して次に進んだり、次と結合するには、実在宇宙と精神宇宙内に、客体側と主体側に、そのものが無ければなりません。この両者の統一されたものが「言霊」と呼ばれています。

言霊は古代大和においては「ふとまに」と呼ばれ、現代では占いのように理解されていますが、言霊を言葉のエネルギーとする考えと同様に、変形してしまった間違った考えです。後に言及されます。

天地は「あめつち」で四語の大和文字と四つの音です。四つのそれぞれの原則的な意味があり、その始めが「あ」であり、神代の巻の始めが「あ」であり、そして心の始めが「あ」であるということになります。

「あ」は百神を循環して「あ」になり、百神を巡って「め」と結合して「あめ」となり、「つ」の百神を循環して、最後の「ち」を百巡して「あめつち」となります。

頭脳のこの物凄い働きを発見し、そこから大和の日本語を作り、社会運用に適応していって、未来社会のための準備をしてきたのが、古代のスメラミコトの集団でした。この評判は古代においても世界中に知れ渡り、多くの古代の聖人たちが大和を訪れたのでした。

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8-3。 『あめつち とは』

では大和言葉に戻された「コジキ」に入っていきましょう。

本居宣長はアメツチと何で言うのか分からないと言っています。また現代は冒頭の読みも、「あめつちのはじめてひらけしとき」となっていて、まるで物が分かれたり扉が開いたりといった感じで受け取るようになっています。長々とした導入部でそういった物の動きでないことを示してきましたので、ここからは古事記の本来の意図に沿った話に直接入っていきます。

本来の古事記の意図といっても、まだ決まったわけではなく、これを読むあなたの了解納得がそれを決定していきます。

「あ」とは自分の心です。

汝、自信を知れ、とこの言葉で世界の哲学思想は始まりました。しかしどこの誰もこの謎を解いたものはいません。未だに世界のどの思想家も哲学者も宗教家も誰も正解を提出したものはいません。

たった一人というか、たった一つの例外を除いて。

それが古代大和のフトマニ言霊思想です。その体現者はスメラミコトです。その表記は古事記の神代の巻き冒頭の百神です。そしてその物象化は神道、天皇です。

表記は「古事記」として712年に出来ましたが、継続して伝承された思想内容は優に五千年以上前に完璧に高天ヶ原において完成されていました。継承してきた集団がスメラミコトの聖集団です。聖はひしり、霊知り、です。

この聖集団によって創造された言語体系が大和の日本語です。同時に世界の運用が始まりある時期まで続きました。そのため日本の文化、言語と世界に散らばる文化、言語との共通性が多く今でも見られます。全ては古代大和のスメラミコトの聖集団から始まった世界歴史です。(ここの部分は後世の実証が必要ですからこれ以上は言えません。)

事の始めはスメラミコトの聖集団の「あ」という心からです。

「あ」というのは自分の心ですから、その原理となったものは人間世界人類共通です。ただ、感じている感じていない、知っている知らない、自覚している自覚していないの違いはあります。たったのそれだけのことです。

「あめつち」の「あ」も自分の心のことです。「自分の心=あ」の「め」が「つ」いて「ち」に成るというその始めのことです。

古代においてこれを発見したが為に、後世において発揮するであろう人類のために「あ」の秘密が大切に伝承保存されてきました。

その役目を担ったのがスメラミコトの家系であり、その形式外面的な文化として神道=心道が創設されました。伝承はスメラミコトの役割ですが継承していくうちに変化するのは仕方のないことです。

その危機感の現れが古事記の序文に出ています。人類のための心の原理を発見したのですからどうしても完璧な原理として残しておきたいということでした。今後の全世界歴史の物質的条件が出揃ったときに、精神による解読も可能となるように設定されています。

現代の物を生産する創造世界に神という名を持ち出すのは、恥ずかしいくらいの科学思想の世の中となりました。今では物質生産世界に神の口出しする場所はなく、口出ししたいという神様もいなくなりました。

そういった世界からすれば古事記の神代の巻も、比較神話学、世界の民話の中に押し込められて、共通項が探されてあっちこっちで同じような話が存在すると、実証し発見する学となってしまいました。

実はここに重大な忘れ物があります。古代の共通の話から共通の意識を抽出していきますが、共通の意識の出所を追求していません。あるのは人の構造が同じであるという心理学的な成果です。もしこれだけなら人の動物的な性質はこうだというだけのことです。このままでは意図的な人類の歴史意志や歴史創造が出てきません。

「あ」とは自分の心のことなのですから、自分の心が動き実現し現象した創造物を見いだすのが自分です。「あ」を集団の「あ」とすると、動く世界歴史にも「あ」の心があるはずです。ここに主体側の歴史意識である「あ」があります。

この歴史意識の「あ」はその五千年以上前の出発に当たって、世界が数千年後になる世界の種として蒔かれたものです。一つは物理条件、物質生産活動により、他方は精神的条件を世界に満たすように蒔かれているはずです。

世界に満ちている精神世界の一つに宗教の世界があります。宗教世界の昔話は、崩壊した人間たちの意識、知恵の実を食べたとか老病死苦があるとか、この世の最後があるとかの、コワイ意識を植えつけることから始まっています。

その一方もっとそれ以前の世界を歌う民話の世界では、ユートピア、理想社会に楽しく幸せに住む姿が多く描かれています。

古代には楽しいユートピア社会があった。それが崩壊して個人の精神だけは救済する宗教社会が作られた。そして物質文明が発展して物に満足する社会が建設されてきた。こうして迎えたのが現代です。現代は社会全体人類規模の幸せを求める時代です。世界的規模での物質的条件は整いました。後は個人の幸せから全体の幸せに切り換えることです。

これは一人一人の精神世界の変態脱皮を求めることですからそう簡単なことではありません。個人しか対象に出来ない宗教ですからもうそれだけでは十分ではありません。しかし、宗教を導く富士の頂点に立つ思想が古来あったのです。それがフトマニ言霊学で、スメラミコトが伝承してきてくれた教えです。

その実際の教えが神代の巻冒頭の百神、言霊百神となっている心の原理です。

百神の解説を終えた後、神代の巻きではスサノオが狼藉を働き追放されます。その時多くの品物を納める罪を負いました。数千年後の豊かな社会創造を見越して、ここに生産社会の「あ」の種を蒔いたということです。物質生産社会が十分に成長すれば、それに応じて意識の「あ」も芽生え意識の自然改革のようなことも起きるでしょう。神話、宗教、伝承等の古代の謎解きブームです。

一方ではスサノオによる努力のおかげで繁盛した物質社会は十分に罪を償うだけの品物を提供できるようになりました。

こうして古代に蒔かれた「あ」の種は主客、精神物質とも芽「め」が付「つ」いて地「ち」に成るようになりました。とはいっても今以後の社会のための指導原理が確立されたわけではありません。弱肉強食主義、我よし、一国覇権主義があり、それらを変化に導く指導規範はありません。

日本においては近年多くの御告げがおろされて、日本が世界の指導に当たるということが指摘されるようになってきましたが、御告げそのものはまるで指導原理となったものではありません。しかし、世界を指導する規範があるということを知らせているだけです。

とはいってもあることが分かっても、原理を理解することとは違います。世界を指導する規範というのは神代の巻きの言霊百神のことです。

ここに世界を指導する「あ」の芽が着いて地に成るか成らないかは、ひとえに皆様方の思いにかかっています。

古事記を「こじき、ふることぶみ、子の事を記した、言を振る記」として読む方向は明らかにされました。ここからは天地を「あ・め・つ・ち」としていきます。

千九百六十八年に島田正路氏によって神代の巻の冒頭百神の意味内容が明らかにされました。

ここに新しい世界歴史が始まることになりました。

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8-4。 『あめつち』の「あ」

「天地」は「あ・め・つ・ち」で四文字の大和言葉です。それぞれは意味のある言葉の象徴的な暗示する部分をとって組み合わされて出来ています。「アの芽が(メ)着いて(ツ)地に(チ)に成る」といった具合です。又表記が漢語ですからそれを利用した暗喩指示もあります。安万侶は自在にこれらのことを応用していますから、漢語の意味だけに囚われますと間違えます。

漢語では天と地との二語で、対立した事象を示すと同時にそれで全体を現しています。しかし、そのような場合にも心のことを示しているという認識が欠如しています。事象、事物をを現したという実証できるものへの関心が主で、心の事象には関心が払われていません。ですのでそこから出てくるのは天と地という物への異なった態度です。

漢語での天地は、天地という一語のことも天と地という二語のこともあります。大和語では「あ・め・つ・ち」という四語を基礎にして、漢語式に読み解することもできます。しかし、「天・てん」を「あめ」に変え、「地・ち」を「つち」に変えたというだけでは、読みを変えたというだけで漢語の意味を引き継ぐだけとなりそうです。

大和言葉は一音一語に意味があることが原則ですから、天と地との二つの漢語の組み合わせでなく、四つの文字全体の一つの流れとなるものが暗示されていることを示し、それを探すことになります。

そうすると「あめつち」は既に書いたごとく「アの芽が(メ)着いて(ツ)地に(チ)に成る」となり、似たような意味の漢語を借りて「天地」を配当しました。

そこで「あ」とは何かとなり、アは主体本人側の全体意識を指しますから、「本人の心の芽が付いて地になる」となっていきます。

「あ」が心の全体意識であることは、各人が「あ」という音声の発声と伴に自省反省して悟ってもらい、その「あ」という物質的な空気振動に自分の心の全体意識を確認して他証してもらうことになります。

「あ」が心の意識全体であることを導く原理のヒント集が神代の巻の百神の名前となっています。これは各神名の解読のときに述べられます。

と同時にそれらが解釈による勝手なアイデアでないことを証明する、今後の人類史を変える貴重な証拠があります。

皇室で使用するアイウエオ五十音図の縦の並びが、アオウエイであることもさることながら、賢所には明治天皇のお妃である昭憲皇太后のお輿入れの際に持ってこられた、和歌の本があり、そこには古事記冒頭の神とアイウエオ五十音との対応が一神一神記されています。

それを元に神名を解いていきますと、五十音一音一音の心の意味内容が、神名そのものであることが分かるようになっています。神名とは天上か地上のどこかに対応するものを指しているのではなく、ア イウエオの言葉の神名(かな、仮名)、つまり読み仮名によって明らかに現れる(か)心の内容を(な)を現していたのです。

これは未だに賢所の奥に秘められているものですが、既に民間による研究が始まっているのでこれ以上隠すことは出来ません。その所在が公表された時、旧来の世界歴史は終了し、新世界の準備が始まります。

単に五十音と対応している神名の記述のある書があるということではなく、ここに新世界の歴史の「あ」が出現するということです。新しい世界歴史意識主体側の全体の「あ」の芽が付いて地に成るということです。

そこでわれわれ一人一人にとってはどういうことになるのかといえば、事情は同じです。主体側の意識の始めになります。

ここでは「あめつち」の読み方は一つではありません。

「アのメがツいてチになる」

「アがメにヅいてチになる」

「アはメになりツーとチにつく」

「アがメになりツいにチになる」 「アとメがツいてチとなる」

「アのメがツまってチとなる」

カタカナに漢字を当てはめればさらに別の読み方も出来るようになるでしょう。大いに解読の手助けになるでしょう。しかし原理的な規範を得る前に固定してしまうのはうまくありません。

まだあるでしょうけれど、重要なことは神代の巻を通して終始一貫していることです。

百神の最後は、天照大御神、月読の命、建速須佐の男という三貴子ですが、「あめつち」の解釈が一貫していることが必要です。

それは星の神、太陽の神、水の神といった様な、事物事象を追求する態度が一貫しているということではなく、神の名そのものが「あめつち」から一貫して出てきていることを証明する態度です。百の事物の一つ一つを示すのではなく、一つのことの成長循環が一貫した流れの中で示されているかどうかです。

つまりここでは「あ」が最後には、天照す大御神、月読の命、建速須佐の男という三貴子 に成ることを示せれば良いことになります。

事物事象に囚われますとその多様性に踊らされます。

心の事象とする場合にも現象を追うと果てしの無い旅に誘われます。

そのような精神的な性(さが)を切り離すことが必要です。このような性を登り切ることを後に伊賦夜坂で事戸を渡すと言っています。伊賦夜坂というのは、いふやさがで「言うが性」という人の精神機能を指しています。

そのためには自らの精神規範、心の原理を打ち立てなければなりません。冒頭の百神を学びましょうということです。

「あ」そうかなと、ここで思われる方はその機縁を芽生えさせ地から花咲くものとするようにしてください。

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8-5。あめつちの「め」

自分の心の芽、心の眼、心の目、心の女、というように漢語を使用していきますと具体化していきますが、そのぶんまた限定されていきます。それらの全部の意味を含め、結合されて出来た「あめ」の意味も含めるには「あめ」と書くのが一番いいことになりそうです。しかし漢字を取り入れた文化が発達しているので、全部を平仮名表記に直すこともできません。

そこで忘れてならないのは日本語は大和言葉からできていると言うことです。

「め」は大和言葉の単位要素の一つですけれど、メ独自の使用法とアと関連した使用法とがあります。ここでは自分の心は「あ」である。ではどのようにかといえば、目として、芽として、女としてあると言った具合です。その元々の意味内容は、メとしてあります。

「メ」は事が組まれる直前のイメージとして集約される姿のことです。

「ア」と結合されて「アメ」を作っていますから、心の現象以前の集約された姿が「アメ」ということになります。

アメは心の現象の現れる以前の全体的な姿、「あっ、あれは何だ」と言う時の対象見つけたが、何であるか明瞭化する以前の姿です。

漢語表記で天で、それをあめと読ませていますが、空のこと大空宇宙のこととするのは間違いです。もちろん 漢語の意味が間違っていると言うのではなく、神代の巻の「あめ」の解釈に持ち込むのは間違いと言うことです。「あめ」の意味を漢の人たちが理解しないように、「天」の意味はまずは漢の人たちのものです。

メはまた「女」です。「アの女が付いて地に成る」とはどういう意味でしょうか。

「女」は男の能動主体側に対する受動側です。心の主体側のアが活動してアに対応した客体側に付いて地に成る、となります。

物を見る場合なら、見ると言う主体の意志行為アが受動側たる客体「メ・女」に到達して始めて見る行為が完成することとなります。主体が客体に付くことをメ・女と言い換えたのです。

昔から「女は分からない」と言われるように精神面物理面の集約された変化の全体を抱えているのが女性です。それを男に対する「メ」とも呼びました。

「あめ」という組み合わせで漢語で天と記されています。アという自分の心と、メという集約された姿と言う組み合わせです。アがメである、という何ものかがアメです。自分の心は集約されたものである、何ものかです。

男性の目前にいる女性。女性とはこうだと言い終わらない内に女性は変様します。男から見て女性は昔から、どのように説明されても全てがそうであり、また不十分な、男性側からの集約されたものを全部含む相手です。ですのでそれをメ・女と言いました。

どこを向いても見ても相手対象に自分の心が集約されたものが自分の心となります。物質的にも精神的にも同じ構造です。自分のこころの向いたものに相手対象が応答して出来たのがひとの世界です。つまり、主体(あ)が客体(め)に付いて出来た世界です。

現代語で言うなら天は、世界あるいは宇宙といえるでしょうし、逆に辿れば宇宙世界は「あめ」であり、「あめ」は心のことであり、こころは宇宙世界と言うことです。

一見風が吹けば桶屋が儲かる式の論理のようですが、風が吹くことと桶屋には見かけの連結はあっても、内的な実体内容の一貫性は無く、古事記の「こじつけ」による実相の説明形態とは違います。

古事記の「こじつけ」は客観側の外見を語るのではなく主体側の動く姿の変化ですから、自分の心から宇宙世界にまで拡がってもぶれることはありません。あ-め、主-客の関係が最後まで続きます。

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8-6。あめつちの「つ」

「つ」はアメツチのツで、ツの単独要素でもあり、土のツであり、アメを受けたツであり、チに渡されるツでもあります。

あめつちという言葉の中では上記の全てにツとしての役割を果たすようになっています。普通に喋っている分には分かりませんが、文章で書けばその一つ一つをツとして表現されるには神代の巻冒頭の言霊百神をいちいち通過することになります。

ツという言葉を持った神名も多く、心の原理論では非常に重要な言葉になっています。神名が次に次にと連続して出てきますが、この同一次元での連続性を示す時にはツを用いて「次に、次に」といい、段階、次元の違う場面を示す時には、「ここをもちて、ここに」というように示しています。

アメツチという一語の中のツですから、アメに続くツで、アメと違う場面が挿入されたツではありません。アメから続くツで、天空と地という別の二つのものがあるということではありません。あるものが二つに剖判するという理解は排除していないので、最近の訳のようにアメツチのひらけし時というような訳もできますが、アのメが続(つづ)いていく事です。

ツに漢字を配当すれば、津が適当です。津は渡し場、港の事で、元の場所から離れて現れて出てくる事に関係しています。大和言葉でツの付く言葉は全てこの心の動きと関係があります。

主体のアの芽がどこからか(地から)現れるとなります。

そこから、アメのツ、アメがツ、アメでツ、アメが「ツ」していく、アメが「ツ」スル、「ツ」スル、「ツ」く、等の変化活用がでてきます。付く、着く、突く、就く、衝く、月、等になります。

これらのことは国文法の活用の話をしているのではありません。心の動きやその様子ですので、文法理解にとらわれることはありません。アメがつくでも、アのメがつくでも、アがメとなってつくでも、心の動きに沿って自在に解釈できます。

心の原理と銘打っているのにそんないい加減な原理はあるかと言われそうですが、驚くことに自在な適応解釈も原理の一分をなしています。勝手自在にどうぞと言いますが、いくら自由にやっているようでも人の心の動き内のことですから、外見を取り去れば原理が現れます。

この時点の物語の始まりの段階では、混沌とした全体印象を差し置いて、こうだという原理を最初に持ってくることはできません。それは心の動きにそぐわず、まだ後の話になってからのことです。

これしかないという原理は最初にはまだ出来上がっていません。一を聞けばすぐ反応が出てきますが、心の動きの原理規範を元にしたものではありません。最初にあるのは自覚的な原理規範ではなく、先天的な規範です。

ですので、アの芽が着いて地に成るというのも直接に原理を現したものではなく、その一つの試みられた表現です。他の方ならまた違った解説になるものです。ではどこに原理があるのかといえば、「あ」であり「め」であり、「あめ」等それ自体の中にあります。

このように原理があまりにも単純簡単であるため、それを埋めようとあれこれの解釈ができてしまい、その表現に似ず、元の原理はいつも単純なものなのが隠されています。

最初の「あめ」が全体表現であるに応じて「つ」もそのように付いていきます。「つ」だけが突出して具体性を持ったものとなることはありません。「あ」に対応した「つ」になっていきます。

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8-7。あめつちの「ち」

天地をあめつちと読んで、宇宙世界という一つの意味に解することもでき、二分して天と地にすることもできます。漢語からする解釈はそこまでで、後は事実関係の出番になります。

神代の巻きの心の解釈は単音にまで戻すことが解読のコツになります。天地は「あ・め・つ・ち」の四語にまで戻します。四語を納得してからまた天地まで行けばいいのです。

物を叩く工具の槌(つち)がありますが、このつちも大和言葉ですから「つ」「ち」という原理が適応できます。物を叩くというのは相手対象を叩くことですから、自分が相手に付く目標を持って相手側の地に到達することです。形状材質を特殊化するのはその用途に関してですから主体側意志の動きや働きの現れではありません。

土(つち)は海川岩場砂場でなければ大抵はドロンコになる土に覆われています。それは主体側意志の動きである身体の動きである足が付いて、歩く足の直接の表現が確認される地(ち)となっているものです。土の性質などはその後で見られていくことです。

槌、土で見られるように、それら物品、事物の形状性質が物理的生物的にどういうものであるかということは直接当初の問題となりません。そこにあるのはまず心の動きや心の関わりで、現象となって自らを現す形態状態以前を示しています。

大和言葉で「つ」と付き「ち」と名付けられていれば、元の場所から離れて出てくるもの(つ)と、宇宙全体がそのまま現象となって現れ出てこようとする力動韻(ち)の組み合わせに関することになります。

アメツチは四つの単位要素の集合ですが、四つの言葉の組み合わせということではなく、心の構造のそのものの現れでもあります。

「あ」という主体母音の「め」という受動側子音が「つ」と動く能動性によって「ち」という相手対象に到達して働きかけ、それが立ち上がる様子になっています。

地は大地などのように受動的な固定したイメージが強いのですが、その強固さによって男性的に全てのものを誘い込む力動ともなっているものです。この堅固さからくる誘導引力が安心感安定感を大いに発出させているわけです。

アメツチが天地を宇宙世界との意味を取るようになるまでにはそれなりの経過があります。人の眼で見た意識が感じた自分とは比較を絶する広大な宇宙を感じていることが、そのままアという主体側の眼感覚が広大さに着いてヂ(地)になって、アメツチは宇宙世界のことになったということではないでしょうか。

ここでアメツチに漢字を当てはめて変化と元の意味があることの反省材料を出しておきます。

「あ」吾。等

「め」女。芽。眼。等

「つ」津。付く。衝く。月。吊る。連るむ。等。

「ち」地。道。千。散る。等。

「あめ」天。雨。等。

「つち」土。槌。等。

「あめつち」天地。

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8-8。天地の初発の時「あめつちの」はじめのとき。

冒頭の天地を「あ・め・つ・ち」と読み始めると古事記の別の世界があることが分かるようになったのではないかと思います。これらをこじつけ語呂合わせと取っても構いません。そのように取ると感じている各人の心に語呂合わせに対する何らかの共通項、共感があることの証明です。

そのような共感の芽があるにもかかわらず、既成の知識、記憶概念の価値観が前面に出てきて、ここで言われていることを受け入れられない、本当のことと思えないということではないでしょうか。

これからも出てくるだろうそのような時には、天地をあめつちに、あめつちをあめ・つちに、そしてあ・め・つ・ちに戻して行ったように、そこにある主体意志を感じ取れるところまで戻ってもらえればいいのです。

さて、今後は、神代の巻は心の原理論であるという線に沿って話を進めます。

神代の巻の史実実証を目指したり事跡を探し出したりすることは、心の原論である冒頭百神が終わるまでは全く放棄してもらったほうがいいです。登場する神も事物も実在しているかどうかではなく、心の中の物語として読み込んで自省していくものです。

ですのでどの神は男神か女神ということを探る必要もありません。それは心の働きの違いになることでしょう。またどの神は自然の何々の神格化ということも全く見当外れとなります。そのような振り分けも必要でありません。

全ては心のあり方とその働きに還元されるものだからです。

ですので当然冒頭百神は歴史事象ではありませんから、皇室、天皇の実在の正当化とか主張行為権威の正当性とかの為のものでもありません。神代の巻による心の原論は勉強すれば知ることはできますが、知ったところで分かったのではなく、ましてや世界政治のために運用できるようになるというものでもありません。

世界文明、政治の運用原理となっていくものですが、客観的な社会政治的物理条件を扱える方はそこらへんには居ません。形骸だけとなり、伝承してきた形だけの精神文化の意味内容がまるで分からなくても、二千年間形式を残すことを強制されてきた家族がいます。

まもなく伝承されてきた形や行事や文物の意味が分かるようになるでしょう。それらと古事記の言霊百神との関係が分かるようになってきたからです。

「天地 あめつち」

「天地・あめつち」とは心の世界のアメツチで、つまり心の全部を指します。こころは物理空間ではありませんから、心の「天」から「地」までと範囲を限定することはふさわしくありません。心は思う存分に伸縮する広がりとなっていますから、「天地、アメツチ」とは心の広がり、心の宇宙のこと、心の中に現れては出てくるもの全部のことです。

この時心の宇宙は、そとに付いて形成される宇宙と、内に付いて自分に省みられ形成される心の宇宙とに分かれます。心の外に付いた世界は物理条件の進歩発展や新発見、新疑問等によってその外延を自分の外に拡大していきます。一方心の内に向い感じや思いを起こす際限のない心の世界があります。

前者は客観を重んじる学問思想、科学に向い、後者は心に向う心の学問の言霊フトマニ学になって、心を実現する心道(神道)になります。ここに自分の心を自分の内に見ていく神代の巻きの心の原理論ができます。

心の宇宙、つまり、あめつち、の始まりとは何でしょう。

心は多種多様雑多に見えます。喜怒哀楽、美醜恐れの感情、賛成反対の学問知識、命令や服従、実行へ向う意志選択、無償の愛、等、無数無限の心があるように見えます。

こういった現象のどれか気に入った一つを取り上げ、心とはこういうものがあるこうだとしてしまうと、後が続きません。これから心の原理論が始まるのに最初からこれこれ斯く斯くの心とはこういうものだとしてしまうのは、今までの人生で覚えてきた記憶概念が出てきたので、今ここで始まった「あめつち」の心ではありません。

それは自分の特別お気に入りの意見かもしれませんが、聞き知った習い覚えただけの他人の意見を基礎としたものです。「あめつちのはじめのとき」というように、今ここでの始めの時のことではなく、すでにあったものの再現です。ですので当面、こうこうだという現象判断は引っ込んでいてもらわなければなりません。

何らかの反応があって記憶が出てきたものですが過去のものが出てきたので、心の宇宙の始まりのことではありません。しかし、それによって心には確かに心の宇宙があるのだという確認はとれることになるでしょう。ここでは過去の記憶のことが出てきましたが、天地・心の始めというのですから、それらのことが出てくる始めのことで、このように出てきてしまった記憶のことではありません。

出てくる元の世界から出てくる始めのことです。

例えば始めて出てくるものというのは、机上にいろんな物があってその中にあれは何だろうという気付く眼が行き、そのものに意識が付いてそこに何かという思いを実現しようとする時のことがあります。それは後に本の書名だったかもしれず、チェックしたページに挿んだしおりだったかもしれず、裏返しにされて今読みたい本はこれじゃないと分かったことかもしれません。出てくる現象は実に様々ですがここで言うアメツチの始めというのは、確認され分かったことを指すのではありません。

確認して分かってしまい、これだいう以前の世界があります。その確認されるものが心の内に現れ出ようとする瞬間の時間と場所とその世界の始まりがあり、自分と相手対象とが合致する以前の世界があります。

心の始めとは何であるかという内容が規定されたものが出てきて自らの内容を

明かす以前に、何だか知らないが心の内に何かが現れようとする兆しがあります。その心の兆しが動き出てくる瞬間が心の始めになります。ですので締めされた内容は後になって明らかになるのです。

アの芽が付いて地になる瞬間です。陽の光が差し込む兆し、気の差し込む兆し芽生えですから、芽が付いて地に成る瞬間のことです。

分かりやすく言えば「今(いま)」ということです。

今と言うだけなら簡単なことですが、その「今」の説明は今だ現代においても誰も説明ができていないほどのものです。

「 今」

今とは意識が動き出す一点、その瞬間のことです。時間的に見ていくと、今現在が動き出す今(一)と、過去が今になる今(二)と、未来を目指す今(三)と、今と言う全体を見る今(四)と、今を支え持続する今(五)、の五つの異なった次元を持つ今が あります。

これを前もって示しておくと次のような対応があります。

(一) 今現在が動き出す今。 言霊ウ、ウの世界 天の御中主の神

(二) 過去が今になる今。 言霊オ、ヲの世界 宇摩志阿斯訶備比古遅の神、天の常立の神

(三) 未来を目指す今。 言霊エ、ヱの世界 国の常立の神、豊雲野の神

(四) 今と言う全体を見る今。言霊ア、ワの世界 高御産巣日の神、神産巣日の神

(五) 今を支え持続する今。 言霊イ、ヰの世界 伊耶那岐の神、伊耶那美の神

今にはこの五つの動きしか存在しません。今にこの五つしか無いということはとりもなおさず心にはこの五つの方向しかないということです。

あの一見無数の混沌とした無定形な世界のように見えていましたが、実を言えば心は全てこの五つの異なった世界に収まりまたそこから出てきたものなのです。

心が動き出す一点を見ていくと、この五種しかありません。あれこれ疑問がたくさんあります。それはどのようなものであれその現象ではなく動きの原理を見ていくと、過去から現在に向って今を作ろうとする意識の動きです。

喜び悲しみ恐れ等々の異なった感情の形も、その多様さに関わらず全ては今という全体を見る意識の動きとなっています。

また、したい欲しいやりたいという五感感覚からの欲望の出現も、いずれの形を取るにせよ今現在だけが動き出すという特徴があります。

どっちにしよか何しようか、どう扱うかという選択などの場合は今が未来へ向って動き出す意識となります。

それらのどのような次元にある意識にせよ、それらの底流として持続を支える意志があります。

今-今の心 言霊ウ、ウの世界

過去-今の心 言霊オ、ヲの世界

今-未来の心 言霊エ、ヱの世界

今全体の心 言霊ア、ワの世界

今の持続する心 言霊イ、ヰの世界

この図式の全体をひっくるめたものが心になります。心道・神道では柱といいます。残念ながら死者を数える単位になっていますが、元々は生きている人を数えるものです。

今というのはこの五つの次元世界を統括した言い方なのです。それを一言で言い表したものが、主体側意識の「あ・め・つ・ち」の「あ」で、アの芽が付いて地に成る時の瞬間の兆しの心、つまり今の心です。

こうしてアメツチとは心の次元世界の全部のことになります。心とは五つの次元世界の全部のことになります。

よく見るとこれはアイウエオ五十音図の母音行、半母音行になっています。

音図の両端を取り出しその上に鳥木笠木を載せると鳥居の形になります。

五十音図とは心の全体?

鳥居とは心の五次元世界?

古事記の神代の巻を心の原理と読み進めると全ては一点に収束していきます。

人の心とは何か。いざ心道=神道へ、です。現在の神道ではなく古代大和の心道へです。

古代大和の心道といっても時代を遡るということではありませんので、そういった研究課題を探して勉強するということでもありません。そのような態度なら天地を心の外において見ることと何ら変わりありません。単なる学問探求になるだけです。外界にある天地、外界にある大和の心道の歴史を昔から今まで研究するだけに終わります。

そうではなく、天地も大和の心道も今ここにいる自分の心の内に省みた心の世界とすることです。古代大和の心道は古事記の神代の巻きとなって完璧な原理となっています。数千年を経ても伝承していかねばならない歴史の内的な動因に押されています。そこには何の間違いもなく言葉のようにただ覚えることだけが要求されるものです。疑問を出して自分の考えを述べるといった態度を超えているものです。

古代のスメラミコ達が多くの時間を費やして完成した人類の宝なのです。思いつきの疑問を出して自分で考えて自分が主張をすることを主とするものではありません。今話している言葉は各自の疑問、各自の主張で出来上がっているものではないように、心と心の構造とその運用も五千年以上前に、スメラミコト達が創造した大和の日本語の中に出来上がっているのです。

例えば「わ」という時、そこに当てはめる漢語は色々で、使用する場面もいろいろですが、「わ」という言葉とその構造と使用法、そして現れた表現が誰の心にも共通の原理としてあるので、文明が創造されていきます。それを自分の頭で考えるなどと言ったら原理のない目茶苦茶な世界となります。

心の原理は現在使用している大和の日本語の中に完成されてあるのです。太安万侶の書いた古事記の神代の巻は心の原論であり、心の教科書あると同時に、我々に自省を促し自覚していく過程を示しているヒント集でもあるのです。

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8-9。「はじめ」とは。天地の初発の時』 あめつちの「はじめのとき」

「はじめ」とは。

人間の思いや考えが今にも現れ出ようとする瞬間のことです。「天地の初発の時」とは正にその心の世界の「はじめ」のことを言っているのです。しかし、「もしもし」と言えば「はい」と瞬間的に答えが返ってくるといっても、その瞬間とはある時間経過の非常に縮まっているものというだけです。

同様に「は」と自分で言って「は」と自分で聞く時も、時間の流れがあります。「は」と納得する前に「は」であることが確かめられ、その前に「は」と聞いていなければなりません。

「は」を聞くには空気振動音波によって「は」が発声させられなければならず、「は」の発生は口腔口蓋に「は」の形を作らねばなりません。そのためには発音が「は」になるために脳内活が必要です。脳内での「は」のイメージが発音のための「は」に伝えられます。では「は」のイメージは脳内のどこからくるかといえば、これから発音するのが「は」であることを生み出す脳内の前提構造からきます。

前提構造といいましても各人各様に所持している前提なら通じ合えませんから、そこには先天的な客観的な「は」が皆に共通なものとしてあります。「は」だけが先天的にあるのではなく「は」は選択されて「は」となっていくのですから、その元となる全体があります。

その全体はあるということが承知されなければなりませんから、あるとないとの区別、あるという対象を知るという識別の能力があります。能力はあってもそれは発揮されなければなりませんから、その条件がいるというように、前へ前へ戻って言って行き着く所が「アの芽(天・あめ)」ということです。

瞬間というのは書けばこのように長々しくなるもので、それを神名に変換して暗喩として示したのが、冒頭の言霊百神になります。つまり百神を使って瞬間の一循環を述べたものです。

ですので「はじめ」とはそれぞれ「はじめ」の過程のどの段階においても始めがあり、速い話がどこにおいても「始め」なのです。言い換えれば「はじめ」はどこにおいても瞬間のことで、今のことになり始めの瞬間の今しかないことになります。

「はじめ」は「は・し・め」で端の芽で、ハのシの芽、あるいはハがシの芽に成っている状態になります。内面の働きが表面に出てきた処を捕らえてその芽の形ができた所が「はじめ」です。

その「はじめ」には、

今-今の始めとして、今はじめが動き出す、五感感覚の欲望実現世界、 言霊ウ-ウの世界 天の御中主の神

過去-今の始めとして、過去が今に顔を出して始めになる、知識学問記憶の世界、言霊オ-ヲの世界 宇摩志阿斯訶備比古遅の神、天の常立の神

今-未来の始めとして、今の始めが未来へ向う始めになる、選択志向の智恵の世界、言霊エ-ヱの世界 国の常立の神、豊雲野の神

今全体を始めとして、始めという全体を鳥瞰する、芸術、宗教の世界、言霊ア-ワの世界 高御産巣日の神、神産巣日の神

今の持続する始めとして、心の持続を支える、創造意志の世界、言霊イ-ヰの世界 伊耶那岐の神、伊耶那美の神

の世界が、あります。

始めのどの瞬間も「はじめ」の連続となりますから、どの瞬間でも上記五次元の方向に飛び散ることができます。

こうして心の中に何かが現われようとする兆しの瞬間があり、それが物事に「はじめ」となります。それを心の外に見ようとすると、知識の得られた最初、概念の届いた始めのこと、一番始めの記憶のこととかになり、宇宙の始めのように数百億年前の大昔、またそれを超えるイメージとなっていくできごととされていきます。

「はじめ」の瞬間の話なのにこんなことを書いていると人の頭は先回りして、「また何とまだるいことをしているのだ。こうだと名前を付ける以前のはじめの世界など知ってそれが何になる」ということでしょう。もちろん他の意見も出るでしょう。

このどこの瞬間にも飛び出す先回りした頭の出来事の根拠が上記にあるとも言えます。飛び出したものを捕らえると、その次には賛成反対が出てきます。しかし、賛否の内容ではなくその出所を見ていくと誰でも同じなのです。この共通原理は賛否、良質悪質な意見とかに関係なく、心の構造の現われとしては変わる所がありません。

賛否に関わりなくそれらが出てくる構造の世界があります。頭の現象創造世界はそうだそうじゃないの判断を直ちに持ち込むことが普通ですが、内容に関わらずそれらの全体が現われる心の原理構造があってそれらが可能になることを「はじめ」といいます。

「はじめ」は「端の芽」で「は・し・め」で、ハのシの芽ですから、心の宇宙の表面に表現実現する内容が完成して静まり出番を待っている芽の状態でいることです。

はじめははじめで、それだけのことのように見えますが、始めにしろ終わりにしろ神代の巻ではどの言葉の一言を語るにもそれぞれ百の神名を付けた行程があることを示しているのです。始めの始めがあって始まって始めになって始めのあることを納得するので、ここにどのような言葉、単音を適用しても事情は同じことです。

「は・し・め」は次のような構成になっています。

「は」山の神名は大山津見の神、言霊ハ。山の神ではなく言霊ハを示す暗喩です。

「し」意富斗能地の神、言霊シ。男性器を現わすのではなく言霊シを示す暗喩です。

「め」水戸の神名は速秋津比売の神、言霊メ。河口や海流の神格化ではではなく、言霊メを示す暗喩です。

もし外部の事物との対応を追求していったら、八百万の神でも足りません。

五十音の言霊と神名の対応はわたしの考えたものではなく、世界の宝として古代大和のスメラミコト達が残してくれたものが、皇室内賢所に秘められていますが、その全対応はすでに知られている所です。(目次・神々の宝座参照)

この五十音と古事記冒頭の神々との対応を皇室側が認めて公表するかしないか、また言葉と神々との対応をわれわれ日本人の一人一人が世界運用に役立てられるか否かが、今後の地球全体の問題となるものです。

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8-10。「あめつちのはじめの時」の見方

「あめつちのはじめの時」とは何かと問うならば、アの芽が付いて地に成るはじめの時、主体側の心の宇宙が今にも現われ出ようとする瞬間のこととなります。

ある人には宇宙世界と地球創造の始まりの時となり、ある人には天と地の開闢の時となるでしょう。どのような意見主張を持つにせよ、自省自覚が無いならばそれがそのままその人のもった考え思いとなってそこから出発することになります。自分流に仕込み自分で固定した思いを始めに設定してしまうことになります。この当たり前の心の動きが支障をもたらします。

「あめつち」を「天地」という漢語にしてしまうと漢語の指し示す範囲を得ることがまず第一となり、それに大和の日本語の歴史を追加しようとしていきます。新しい見解や聞いたことの無い意見が加えられ、相互に違っているとか実証できるとか史実でないとか、新鮮なとかいう予測の限りが尽くされます。

しかし仕込まれた思惟材料から直ちに出発するのでなく、そこから出発するにしても、全体を見る自省の心が加わって執着を捨てるならその意識は生きた動きを始めます。

ここに自らの意見の愛着を脱ぎ、それを気(霊)の枯れた気の無い不十分なものと思い、判断規範の気(霊)を植えつける田が無いという、開かれた心持ちでいるならば常に変化の意識の受け入れ態勢が出来てきます。

そういうことならば自分の感じた思い、考えとなっている自分の内容内実を現わすものでも、いつでも削ぎ落として表面に現われた自分だけの形式を払い取ることができます。

しかし、自分に判断規範の原理を持たず、照らし合わせるものが無く、自証、他証、自利他利の創造活動に入れないならば、「あめつち」を「アの芽が付いて地に成る」と読んだところで何の意味もありません。思いつきとヒラメキがよたよたとどこかに辿り着くだけになるでしょう。

このように同じような主張を持っていても、それを固執固定した出発点としてしまうのでなく、自省自問と伴に開いておくことが必要です。例えば、古事記では「穢(きたな)き」と言っていますが、漢意を取り去れば、「きたなき・気(霊)田無き」となって大和言葉の意味がでてきます。

「穢(きたな)き」は心の気(霊、き)による規範(田、た)の無(な)い思いつきヒラメキ等の自分勝手な言葉の創造のことを言っているのが分かります。それを漢語の汚いに掛けてあります。

それでも討論話し合い、正反合を繰り返して淘汰され良い結果が出てくるでしょう。うまくいけばいいですが、そのうまくいくというのは、過去の分析総合から成果をだし、未来を予測することになります。既知の過去知識の整理の上に乗っているだけで、温故知新と同様に動く現状からの成果ではありません。

さらに客観情報からする判断ならばいいではないかとなります。歴史の客観性を見てそこから出てきた真理を判断基準にして何がいけない、となります。

「天地、あめつち」の客観的真理でいえばどうなるでしょうか。

方や、天地は与えられた漢字ですからこの漢字の意味と成立があるものとするところから始めるでしょう。現象世界のどこかにある天地を探し、それを整理検討して言葉の真意を汲み取るようになるでしょう。事象の進展に沿って真理も変わってくることもあります。

一方、「あめつち」の大和語読みならば「アの芽が付いて地に成る」という読みが可能です。アの言霊を精神、心の世界のこととして意識宇宙世界の発展になります。

前者は事象のせつめいにそのものの名前をつけるとき相手対象を分析整理をすることから始まっていきますから、その名前のつけ方も分析分解、つまり最初を破砕していく方向をとります。自覚的な反省意識は必要でなく、事の向う方向に関心を引きません。

後者は主体による精神世界での説明では、連続する新しい言葉の創造によって事を成し遂げていきます。自覚している自分という生命体の方向に大いに関心が向っていきます。

「あめつち」を天地とするなら、その方向での研究領域を発見して過去を組み立てる新理論新説を目指すことになり、「あめつち」を主体精神の動き働きとするなら、前者のやり方とは手を切らねばなりません。

この精神行為の二方向で、後者から前者への手切れを「事戸を渡す」、現代語では離婚するといい、学問知識を得るだけの世界にはこちら側へ進入するだけのものが無い、言っても分からないと宣言することです。

そこで方向の違うふたつの精神構造は主体側からの自覚自省によってのみ融合救済統一が目指されます。客観真理の持ち主側からでは、どうしようかこうしようという未来選択の実践智恵の行為が出てきません。そこではこうだったから今度もこうなるになってしまいます。

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8-11。「あ」の十四領域。「あめつちのはじめの時」

あめつちのはじめの「あ」は吾という心の始めの全体です。目次で言えば目次の始めから終りまでが全て含まれています。

「あ」という、吾・われが始まる心のは次のようになっています。

始めには何もないのだから、ないものから(無・空)から始めればいいのですが、それでは無界・空の世界に物事・心ができることが説明できません。無い世界に出来てくる、無いにもかかわらず出てくるものがあることを説明しなくてはなりません。

「あ」と言う前には「あ」はありませんが、「あ」というのですから、そこに「あ」が存在しなくてはならず、その矛盾を解決しようと、存在と無、客観と主観、唯物論とか観念論とかの哲学問題も出てきました。

普通の人の認識能力を超えるものでもなく、実在として納得できるものが探されました。物自体ということが考え出されましたが、経験認識と先天の物自体を結び付けることが出来なかったようです。

そこで古代のスメラミコトは先天から後天現象経験に向う一連の流れを循環によって記述することにしました。先天から後天が出てくることが先天的な心の必然であることを発見し、先天と後天の間を結ぶのに先天-後天の百神を設定して、その橋渡しを後天的に適応運用することが出来ることを示しました。

今までは先天と後天の二者だけをとらえていましたが、大和のスメラミコトは客体的な先天が先天の主体に移り、主体側が認識して後天現象とすることが可能となる道筋を、観念ではなく現実として示しました。

言霊百神とはその経過手順を示したものですが、暗喩として書かれていましたから、今まで神話として扱われたものとなってしまいました。

そこで少しでも真実に近づければと思います。

先天は意識的に語ることに出来ない自覚以前のことですから、それを語るというのは自己撞着しているのですが、後天現象の構造を支えているのはやはり先天の構造プラスアルファになるでしょうから、このプラスアルファ部分を明かせば、先天から後天への経過も明かされることになるでしょう。

父と母から子が生まれますが、この子の部分がプラスアルファで、これが分かれば、先天の父母部分のプラスアルファも分かるだろうというものです。言霊創造で言えば、父韻と母音によって子音ができることで、その循環は父韻母音にも該当させることが出来るというものです。

こうして意識の入り込めない先天構造も理解可能となるでしょう。このプラスアルファとなる子音部分の領域を古事記では、大倭豊秋津の島 (天津御虚空豊秋津根別)(おほやまととよあきつしま、あまつみそらとよあきつねわけ)と言って、人間精神の最深奥の秘儀として日本の国名にしています。

神々の宝座を目次とするところで見たように、心の一循環は十四の心の締まり、領域からなっています。

一)「あ」と言われるだろう先天の兆しの領域。

二)「あ」と自覚するものを得る領域。

三) どの「あ」となるのかの領域。

四)どの「あ」として出てくるのかの領域。

五) 「あ」が出てくる動因の領域。

ここまで先天の客観領域。

ここから先天の主観領域。己の心。

己の心の活動場。(先天と後天)

六) 「あ」の先天を物象化イメージへ導く領域。

七) 「あ」の物象化イメージを物象(声等)に載せる領域。

八) 「あ」の先天、イメージ、物象の全てを統合的に了解する領域。

客体としての子(子音)ができる領域。

九) 一般的に「あ」である領域。

十) 主体的に「あ」を検索する領域。

十一) 主体的に「あ」を確認する領域。

十二) 主体的な「あ」を創造する領域。

客観的な「あ」を確認したい領域(黄泉)。

十三) 主体的な「あ」の不備を確認する領域。

十四) 主客合一された「あ」を創造する領域。

この十四の領域を通過して、「あ」と言おうして「あ」と聞いて「あ」と言ったと、言おうとしたこと、言ったこと、聞いたこと、了解したことが全て「あ」である、大倭(大和)であり豊かに秋(明)らかに津(渡された)島である、間違えないと了解します。

ここでは単体の「あ」の一循環ですが、八)で意図であった「あ」がプラスアルファとなって現象化します。意図、イメージ、物象、の全てが組み込まれていますから、原理的な「あ」であると同時に、普遍的という「あ」になっていて、全人間意識の相手対象となります。

当初の個人的な意図、意志から発したものが、現象としては普遍化されて出てきました。こうして先天が後天現象となることによって、その先天の構造も語られるようになったのです。

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8-12。「あめつちのはじめの時」の「あ」の完成された姿。

「あ」「あめつち」に関連して色々な事を書いています。この調子でいくと、人の数だけ「あ」があって、億単位の「あ」を書かなくてはなりそうです。これは個人の単位で言えば、可能不可能に関わりなくそうなるでしょうが、言霊学上ではどうなるでしょうか。

「あ」「あめつち」の出てくる要素としては五十通りしか無いので、五十通りに分類できます。その内、先天を扱うのが十七通りで十七通りの先天の「あ」だというものを語る人がいるでしょう。また三十二通りの後天現象として語る人がいるでしょう。

要素として語られた「あ」は、それぞれその語り方が五十通りありますから、やはり五十通りの語り方に分類できるでしょう。

自分で感じ考えたことを自分なりに出していけば良いという、それも個人の数だけあることにもなるでしょうけど、原理的には今言ったような、「あ」を五十の要素とするか、五十通りの解釈の一つとするかという変なことも起きそうです。

でも、みんなが納得了解できる「あ」があることに越したことはありません。単なる個々人の心の思いだけに保障され、それだけでしか正しさが主張できないのでは寂しい事です。しかし、言霊百神の循環を通過しない場合には、そのような中途半端が成立していきます。

例えば、「言葉には力があるとして、言葉に宿ると信じられた霊的な力のこととか、出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、わが国では良い言葉を発するとよいことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事がおこるとされてきました。 」という観点があります。

また、漢字を利用した成り立ち「女が家の下にある様子から構成されている文字です。 落ち着いた様子で、なごやかに喜び、恐れのないことを表しています。 言霊 あいうえおの一番最初にくる文字として、さきがける人、開拓者、よき指導者、という役割を持ちます。 家庭では、良き父、母となり慈愛の心の深いことを表します。」と言われたりしています。

法則で表現しているのもあります。「アの音の七つの法則。無にして有也。五十連(いつら)の惣名也。天也。海也。吾也。自然也。○也。大物主となる。御中主となる。地球となる。世の中心(つかさ)となる。」

多くの見解があり、これからも多く出てくることでしょう。それらは意識が発展して拡張し精神次元が上昇したのか、より深く理解できるようになったのか、これから究極の「あ」へ近づくのか、そこはまた別の問題というか、同じことの繰り返しです。

ところが自分を棚上げにしてといわれるように、わたしたちは「あ」「あめつち」の解釈を優先し、その内容を知ろうとするあまり、分析分解にいそしんでしまっています。個人の判断以前に「あ」があって、それを使用しているのに気付きません。実は全ての人は既にある「あ」を利用しているのです。

私たちは自分の頭を使って「あ」を考えそれを創造したつもりになっています。しかしそんなことは全然なく大昔からの「あ」を用いているのです。

不思議なことです。「あ」は既に完成しているのです。その証拠に誰もが何一つ文句を言うことなく使用しています。整理分析の研究は続いていますが、誰も新しい「あ」も訂正された「あ」も提出した人はいません。

それなのに「あ」はこうだ「天地」はこうだ、あれはこうだと不満たらたらなのです。過去から来た「あ」、過ぎ去った「あ」を掴もうとし、今ある動き回る変転する「あ」を掴もうとし、まだ来ない未来の「あ」を無いのに掴もうとします。

無断で「あ」を使用しているのに見えず掴もうとしているわけです。個性を出して掴もうという風潮です。「あ」その他は既に完成しています。そこにあるのに、こちら側人間が勝手に動き回って無い無いと言っているのです。

前回(8-9、8-8)に「今」の姿を見ました。

今は今であるけれどそこには時間と場所の全方向を含んでいました。それを一言で現わしたのが「柱」という古事記の言葉です。物象化されたものは伊勢神宮の天之御柱です。この柱の真上には御鏡があるのですが、柱は床も屋根も何も支えていません。それ自体で独立して動かない姿でいます。

この繁雑で忙しい世の中で、伊勢の御柱となるような心を持つこと、これが完成された「あ」を手に入れることとなるでしょう。

「あ」を手に入れるということは、整理分析して、新しい要素を組み込んで、新見地見方を加えて、今迄と違うこと、今より前進進歩していると思うことではありません。それらは疑問と不満と不充足感から来たものです。

既にある「あ」に満足をしていないことの現れです。しかしその充足の範囲は個人の思い自利の満足感だけで、世界に充満する「あ」については無関心です。

ではどうすればいいのでしょうか。

以下は引用です。(http://www.futomani.jp/lecture/no216/no216.htm)

「 常に前に前に進むことが善だと信じ、その結果「まだ、まだ」と現状に半分不足・不満の念を残す現代人が、比較的容易に今・此処の心を確保する方法をお伝えいたしましょう。

それは何時、如何なる時にあっても、「今、自分が置かれている状況は、自分にとってすべて必要だから起こっていることなのだ。だから私は希望はどうあれ、これ等の状況一切を有り難く受け入れ、感謝の心で迎えよう」と心を空っぽにしてこれに対します。すると案外、素直に自分の置かれた状況を冷静に受け止めることが出来るのを感じます。

そうしたら、自分を取り巻く状況の真実がはっきり見えて来るものです。それによって対応する手段が心の中に次々に浮かんで来ましょう。この方法はどんなに大きな事件についても活用可能です。

何故なら人々の心の本体は広い広い宇宙そのものなのであり、その宇宙の内蔵精神は愛であり、慈悲であり、人々は誰もがこの宇宙の心を心として生きていますから、感謝の念で物事を見ますと、物事の状況(実相)をよく把握することが可能となるからです。」

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9-1-1。「時処位」と「高天原」「高天原に成りませる」

「時処位」と「高天原」

「あめつちのはじめの時」と、「高天原という場所」と、「そこでどうするどうなるどうなった」の全部が「成りませる」です。ものの起こりと現象にはこの三拍子が揃わないと拍子抜けになります。

この三拍子の全体が「あめつち」で、時間のアの芽が、空間の「ち」に付いて、どれかの次元に成るとなります。時処位は一体ですから、どれかだけが特定の具体化された物現象を指すことはありません。

アの芽の始めが心の始めならば、それが起こっている舞台も心の中で、何がなるのかというのも心の何かがなるものです。

高天原(たかまのはら)は当然心の原です。実在の場所を探す必要はありません。探すのなら頭脳の心内における場所になります。

まずは心が出てくる心の宇宙そのものです。赤ちゃんを例にとれば、純真無垢な何もない無限の世界で、宗教の心の出所で言えば色即是空空即是色の何もない全部を受け入れる空とか愛の世界、まっさらな心の世界です。

無いとか空からでなく、有る世界から見れば、主体側が自覚的に統覚的に全てを受け入れる自意識と心の構造の世界をもった心のことです。

そして、その心の世界を運用できる心の創造規範であるアイエオウ五十音図の一つである天津太祝詞音図、皇室に保存されている天照す大御神の音図のことです。

この心の高天原の音図を各人が完成させようというのが、神代の巻きとなって残っている古事記なのです。

高天原はこのようにまっさらな透明無垢な心であると同時に、完璧な運用活動が自覚された心の場所のことなのです。

まだ何にも起こっていない心の世界に宇宙に目覚めた活動が起こるのです。

わたしたちは既に赤子の高天原時代は遠く過ぎてしまいました。各人はそれぞれの色に染まりその染まり具合を競っています。しかし誰もが赤子の透明無垢な世界に共感を持ちます。誰もがそうだったからです。経験記憶概念知識がそれを基盤として成り立ってきたからです。

しかし成人になってからは赤子のように誰をも引きつける誘因力を持ちません。主義主張概念の共感できる相手とか、同じ何々を持っているもの同士としか関係を持てません。特定の欲望の実現でしか共感しません。全然高天原からは遠のいています。

ここではまだ始まったばかりですから、心の始めができていく所が高天原です。地名場所になっていったのは後々のことですので、私たちには関心はありません。

もちろん何故高天原と呼ぶようになったのかは難しい所です。赤子の心と完璧な心とが同じで、その運用の心が高天原というのですから回答に苦労します。ただ一つの答え方は、自覚自省した心を他者において証明することです。

天照す大御神の音図(天津太祝詞音図)のア段の並びは「あ・たかまはらなやさ・わ」になっています。高天原というのは文献上はここから来たものですが、心の在り方に「たかまはらなやさ」を体現しなくてはなりません。

ところが赤子の清浄無垢な世界は続きません。生存競争を覚え、相手を攻撃することで成長し、自己満足の欲望充足を得るために相手より上位に立とうとします。それが故に文化文明知識は発達し生産物は豊富になってきました。つまり赤子の高天原は最初から裏返しの地獄餓鬼畜生修羅の暗黒人間世界を包蔵していたのです。

この反転された世界が「黄泉(よもつ)国」です。死者の国ではありません。

黄泉はきざす(兆す)泉、よもつ(四持つ)、の両方から掛け合わせてできた言葉です。兆すは心とその現象となる世界が泉から湧き出てくるように現われるところですが、自分の為にだけ自分の方に引き寄せて集める心の働きのことで、よもつは自覚された個別な現象ではなく一般的で実相の無いまま受け入れていく心の世界です。(蛭子、淡島参照)

天地の初発の時高天原に成りませると、天地の初発の時黄泉国に成りませるの両者は、「あめつち」の始まりの「ア」の裏表を構成しています。この裏表の一般的なまだ詳細を規定されていない始めの姿が、すぐ次に出てくる造化三神といわれている三柱の神です。

「アのメ」が造化三神となり、御中主の元で高天原と黄泉(よもつ)国になり、そのそれぞれが神代の巻の冒頭五十神(天の御中主の神から火の迦具土の神まで)と次の五十神(金山毘古の神から三貴子まで)において重層状に分担しています。

古事記は冒頭の「ア」の進化、分化、変態、変化等の重層的な繰り返しで、常に「ア」に戻って同じ原理構造が繰り返されつつ上昇していきます。

この原理構造が展開される領域が高天原ですから、実際の場所を探したり天上の世界としたり、あるいは胸中としたりするのは無駄なことです。高天原の領域には言霊百神の原理が実在していますから、単に胸中とか心中とか言っても高天原を指すことになりません。

タカマハラの精神領域は以下の単音要素とその組み合わせから出来ています。

「タ」18 おほことおしを(大事忍男)の神・ (言霊タ)

「カ」46 おほとまどひこ(大戸惑子)の神・ (言霊カ)

「マ」47 おほとまどひめ(大戸惑女)の神・ (言霊マ)

「ハ」38 やまのかみなはおほやまつみ(山の神名は大山津見)の神・(言霊ハ)

「ラ」40 あめのさつち(天の狭土)の神・ (言霊ラ)

後に詳細されるでしょう。

古事記には高天原は色々な場面で出てきます。百神までの原理論でも冒頭と百神を終わったところでまた出てきます。この両者は同じでしょうか。

人の精神領域場であることは同じですが、冒頭の清浄無垢な精神場が無自覚から自覚した理想的な精神領域に変化を遂げているところが違います。

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9-1-2。知りたい。「高天原に成りませる」

完成した「あ」を得るにはどうするかを8-12で述べました。その「あ」は今回では変化して「高天原に成りませる」という言葉になっています。

高天原と一言書けばそこにはもう多くの見解がまといついてきます。皆さんはわたしの文章を読んでいるのでわたしの高天原を、わたしが他の人を読めば他の人の高天原を、といった具合に、個人と個性の数だけ、集団とその見解の数だけ、史実と結びついているという主張とそれを擁護する意見の数だけ、等々といった高天原があります。

こんなふうに好き勝手に時処位を設定していたら埒が明かず、多数決で判定したり、お気に入りや風評、学者の権威でことが決められかねません。そういった動きはなくならず、その動きもそう簡単に変わりません。

「どうするか」に対しては、どうするか分からないというのが今の状況です。「あ」をどうするのか、「高天原」をどうするのか、どうするのか分からないというわけです。どうしたいのかと聞かれても「あ」も「高天原」も知らないのですから、どうしようもありません。

知りたいということならあるでしょう。

知りたいといっても何を知りたいのかハッキリしませんから、どうするのかも分かりません。ここでは一応「あ」を知りたい、「高天原」を知りたいとなるでしょうから、それを知りたいとなるでしょう。でも分からないものを知りたいということです。しかし分からないなりに、「あ」「高天原」という言葉は知っています。あるいは知りました。

この知りたい、は何にどのように結びつくのでしょうか。

「あ」「高天原」という言葉を知ってしまっていますから、それを得た経緯がまといついています。知らなくとも言葉を知った経緯の中で出てきたものです。そこにはそれなりの時処位が自覚的無自覚的に擦り込まれています。

すると「あ」「高天原」を知りたいという欲望もそれ自体に次のような内容のいずれかがあって、その表明されたものとなっているでしょう。

知りたいは欲望そのものですが、その現れは知りたい欲望そのものの現れになるか、知識として現れるか、どうするかの選択として現れるか、感情的全体感として現れるか、とうになります。

またそれらは持続する方向から見れば、今今知りたいのか、過去今知りたいのか、今未来に知りたいのか、今全体を知りたいのか、という形をとるでしょう。

ついでそれらの現われ出る原因となる律動を見ると、次のような形があります。

1- 端緒の意識のはずみを総意主にして、意識宇宙の全体を直接現実の中心に向かい近づける心の動きの力動韻とする。(言霊チ)「知りたいから知りたい、ただ知りたいだけなのだ」というような動き。

2- 相手の誘発を受け入れるために手を尽くして感じ、探し、かき集めくくりたぐり寄せ、自分を組み立てようとする律動とする。(言霊キ)「思い描いている過去に何か知っている、そういった何かから、それを中心として拡げ結ばれようとして知りたい動き。」

4- 意識内容が自己の表層へ上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つけたものと結び付こうとする律動とする。(言霊ヒ)「自分も他者も他の物も何かが一度に全面的に花開くように明るくなるように知りたい動き。」

8- 決まった方向へ結論へと収束するように、選択肢がこれしかない状態を産み出し、今現在を静め修めようとする律動とする。(言霊シ)「何か分からないがイメージされているあっちにある物に、そのような方向をとらせるように知りたい動き。」

3- 生きた実を得ようとする自分の心に跳ね返るものを確認して結び付き、主体側の行為の有用性が生きていることを確認しようと反作用する律動とする。(言霊ミ)「過去に知っていることを中心に他者をそこにまとめようとする知りたい動き。」

5- 自己を取り巻く大量に提供せられた選択肢の花弁の中から、自分の種の保存と伸張に都合よく述べられているものを選択する律動とする。(言霊リ)「自分の表面にある知りたい物から自己主張が拡大できるように知りたい方向をとる動き。」

6- 押し寄せる周囲からの圧力を利用して心の中に自分を煮詰め、それによって自分を抽出する律動とする。(言霊ニ)「自分の表面に開いたものに知りたいものが、分別されていくように知りたい動き。」

7- 総体のはずみを端緒の主として、総体を意識内容目指して矢を射るように持続伸張発展させていく律動とする。(言霊イ)「自己内に選択された方向そのまま選択するように知りたい動き。」

このようにして、知りたい動きが何らかの形で現れます。

つまりここでは、「あ」なり「高天原」なりの内容は知らないけれど言葉だけは知っている為、その言葉を知った事情が反映されてきています。

知らない内に、知ろうとすることの得られるだろう方向や得られるだろう内容が、既に隠されているのです。後に知ったということは現象として自分が知った、自分が考えて、知った、作った、となりますから、自分のものと思って行けます。

ところが今見たように、その人が言葉を知っているという現象は、既にその人が知るようになる方向までもが事前にその人の知らないまま折り込まれていたのです。ですので人々は知らないままに知ったとする内容に動かされていますから、現象となった知ったことに、それぞれ違いを見つけ、それぞれに個性というもの、自分の意見考えだというものの化粧を振りまいてしまうのです。

要するに出来上がる前から喧嘩の種は蒔かれてしまっていたのです。

それではどうするかというのを述べたものが12-8の引用文です。

引用には知りたい以前に規定される内容を無くすための「心を空っぽ」にすることが述べられています。

心が空っぽだけなら、寝ているときとか、何かに夢中のときとか、通勤電車内でぼやっとしている時と同じです。そこでは自分の心は単に生理的に動いているだけです。

座禅をしている時でもただ座っているだけ、心を無にして何も考えずにとにかく一心不乱なら、木偶の坊と同じです。生きている人の座禅ではありません。

生きている人の心を空にする法や座禅は、生理的心理的に空になることではありません。座る仕方、手の組み方、呼吸の仕方は講習料を取るための方便みたいなものですので、内容とは関係ありません。

心の住処である高天原を空にすることはできないばかりか、大きく豊かになるばかりです。

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9-1-3。どうするか。「高天原に成りませる」

さて、どうするかですが、無数のアドバイスガがあって個人の数だけ考えがあります。そこで頂点に立つべくフトマニ言霊学が出てこなくてはならないのですが、どうするかという実際の行為の選択を薦めるにはそれなりの体験保証を裏付けとして持っていなくては、軽い言葉で終わってしまいます。

とはいっても体験は個人的な個別的なもので、それぞれ個性的な違いがあるので「どうするか」にまで昇華するのは骨が折れることです。

神代の巻は読むに従って精神意識が完成に向う意識の循環上昇の通りに書かれています。とはいうもののまだほんのさわりに辿り着いたばかりで、何が始まっているのか分からないという状態です。

どうするこうする、こうしろと、誰も言うことができません。ただ一人原理教科書を書いた太安万侶さんを除いてです。千何百年も前に亡くなっていて、残されたのは暗喩呪示された古事記だけです。

宗教ならばここで改心して入信すれば、解決の道は与えられます。古事記も神のことを言っていますからそうすればいいのですが、教義が未だ定まらず、改心の相手の神さんが自然神であるといわれたり、宇宙創造神といわれたりでこれまたあやふやです。こんな調子で数千年間あやふやなままでした。

わたくしとしてもどのように選択していいのか分かりません。宗教的にか、心理的にか、精神分析的にか、愛の心理的にか、倫理道徳的にか、選択のしようがないのです。こんないい加減な状態で心の原論は古事記などと言っているわけです。そこで何とかしなくてはいけません。

しかし所詮体験経験による裏付け保証を与えられません。

そこで考えられることは、わたしも皆さんも同じ次元にいる幼稚園児ですから、何にも違いは無いというところを利用することになります。つまり、どこかの先生や教祖や大家や経験者や聖者とかでなく、まるで普通に互角のわたしとあなたでいいことになるわけです。

ここまでで読んだ本文はたったの『あめつちの初発の時、高天原に成りませる』というだけで、高天原の進行中です。

つまりあめつちの初発の時からしか高天原にアクセスできません。それ以降のことはまだ何も知らないのですから。

確かに学者大先生聖者ならば終りのことまで分かっていますから、いくらでも導きの言葉を述べることができます。また逆に言えばそういった述べ方しかできず、いちいち躓きながら発見することや、分からないで立ち止まる低迷停滞、あきらめることなど、現実に立ち止まることができません。その代わり既に卒業してしまった人の強みがあるでしょう。

わたしは学者聖者ではなく皆さんと同じで、「あめつち」から始めようというだけです。言霊循環というのですからどこからでも始められるはずです。何々を知らなくてはならない、これが前提だと、ただまっすぐ進む階段だけしかないというのでしたら、下段と上段との間が広く開いていくだけでしょう。

重層的な循環上昇ということならどこの地点にいても、上位の形の片割れは自分の中にあります。上位のことは上に行ったらまた自分の中に見いだせるでしょう。

知識も学識も今は無いのですから、学者先生、聖者宗教家から何を言われても分かりません。彼らはわれわれに火を付けないと自分を語ることができず、語る相手を見いだすことができません。おかしな言い方に聞こえるでしょうが、そういった期待にも応えられない我々にはもっと別の道があります。

知識を得るという方向が将来を見通せないということは既に見てきました。

知識が無くとも、何をどう選ぶか知らなくとも、我々が所持しているものがあります。

それは有り難いと思い感謝して喜び受け入れることと、その反対感情をもつこと、そしてその両者とも持たないことです。この両者とも持たないというのが、心を空っぽにすることです。

ここの次元でなら知識の有る無しに関係なく誰でもできます。

高天原とは天上の神達のいらっしゃるところでも、奈良県にあるとするのでも、人の心の働くところでもなく、どれでも言われたものを心から喜んで受け入れるか、拒否するかだけの心の世界になります。その後に仕入れた知識も最初の選択に常に戻っていくことができ、そのように自分が進むことができます。

このブログとわたしは高天原は心の働く世界ということで受け入れています。しかしそれを、精神意識上の活動場とすると、脳内科学の分析の対象となってしまいます。切り取られた脳髄を見せられてこれが高天原ですともなりかねません。高天原とは心の世界ですから、物質世界ではなく、物質と結びついた世界です。

科学は脳髄と結ばれた高天原をいつか特定できるでしょうが、心と心の現れと言葉の世界はまた別のことです。例えば、科学は脳内現象を解明するでしょうけど、「解明するでしょう」という言葉の起きた部位を特定しても、その心の内容を特定したことにはならず、また決して科学をもってしては解明することはありません。

また受け入れる受け入れない以前の世界があります。高天原とは心の世界だと言われても、高天原も心の世界もそういった言葉を知らない聞いたことも無い受け付けようが無い世界があります。ここではあればあったで、聞くなり見るなり関心興味に応じて流されていきます。赤ん坊が言葉を覚えるように、そのまま覚えるかそのまま忘れるかです。

こうして自分の心の世界に相手対象があるということは分かります。これを意識的に使用すると、分からない者への強制となるでしょう。まずあるものを与えてそれを受け入れさすのです。これを強制と取らなくても、現代風に環境とか周囲の影響とかいうこともできるでしょう。お稽古事でも、言葉覚えることでも同じでしょう。

ですのでここでは高天原とは心の世界ですと覚えてもらわねばなりません。

最初からこう覚えなさいと強制されるわけです。ご縁がなければこれ以上進めないことになります。

このまずあるものが出てくるという構図は、やはり古事記の神代の巻の冒頭に沿ったものなのです。天の御中主の神と空の神が出てきて、高御産巣日の神と 神産巣日の神の主客に分けて相手対象かあることが分かると、次の宇摩志阿斯訶備比古遅の神が萌え出るように現れてきます。

これらの語句は後に解説されますが、わたしの不明瞭な理解にしても(そしてなによりもあまりにも下手な解説で申し訳ないのですが)、これらの神様の名前の実体を知るようになると、実にうまい命名であることを感じられるようになります。

8-12 の引用をもう一度繰り返しておきます。「私は希望はどうあれ、これ等の状況一切を有り難く受け入れ、感謝の心で迎えよう」と心を空っぽにしてこれに対します。すると案外、素直に自分の置かれた状況を冷静に受け止めることが出来るのを感じます。」

「心を空っぽにしてこれに対します。」当初はこんなことは、宗教臭い嘘っぱちのように聞こえていました。直ちに反撥が出てきました。もちろんいまでもその傾向の方が強いです。これをいつか仏教の空を得ることと比較したとき、空を得ることが人生の目標でもなく、心の落ち着く先でも無く、単なる始めでしかないことが分かりました。

そうすると神代の巻は、仏教で言う空を悟った後の心を述べていることにも気付きました。それを伝え、書き残させ、まつりごとに応用し、世界創造のために用意しておいたのは、古代大和のスメラミコト達であることも分かるようになりました。

しかしこのようなことは普通に読んでいく分には絵空事ですから、読む方には何でもないし、書くわたしも経験努力がなければ、法螺吹きになってしまいます。

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9-1-4。「高天原に成りませる」

高天原を天か地にある現実の場所と見なす見解には関心がなく、高天原の精神的意義を追求していきます。神々が成るという象徴の場所、天照大神が治める場所、神々の生活する場所、等が地上であれ天上であれそのような場所を どこかと探すには及びません。

また高天原は想像上の場所で、お話しの中の作り事とすることもありません。地上にしろ天上にしろあるということにしておけば探す楽しみはいつまでもありますが、現実でもなく、創造でもなく、無い物でも無いといったら残るは精神意識上のものとなります。だからといって深層心理において加工のできるものでもありません。

それはあるのですから、探ることもできますが、先天的にあるものですから、各個人の見解で変化してしまうことはありません。

先天的にあるものならそれを作ったものがいて、神がいるのだろうということになります。

意識上のものというと今度は脳内科学や脳を切開してまで探すようなことになっていますが、脳内の働きの局部署を探るのは科学者が行なうでしょう。フトマニ言霊学でいう高天原は主体側世界と客体側世界を一つにしたおのれの心の活動領域場をいいます。

「天地の初発の時」の天地が、地球とか宇宙とかでないように、高天原も史実上の現実の場所であってもなくても構いません。

邇々芸命が高天原に降り立って壮大な意志による世界建設に向う時の、その意志のなりたちであり、高天原を行き着けない天国のように思いその天国のような生命の在り方としたり、意識で捉えられない神のように意識で捉えられない神の住む場所としたり、その他、高天原を物理的な場所と精神的なところで出会う場所のようにしても構いません。

高天原は心の始まる時の精神的なある実在の場所です。

ですが、「ある」という場所にあって「ある」物として「ある」と同一の高天原が実在するのではありません。

客観世界にある現実の物としてあるのではありません。もしあるとしてそんなものを意識に持ち込んだら頭はパンクしてしまいます。意識したものがイコール物となって、意識=物になったら脳髄に釘を打ち込むようなものです。

客観世界を主観世界に「真似」るのです。その主体の持つ機能働き構造場所が高天原です。布斗麻邇はフトマニと読みわけの分からない漢字表記となっています。太占と書いて占いとか言葉の運用を示したものともいわれています。

フトマニについてはまた後に言及されますのでここでは「麻邇・マニ」について言うと、「マニ」は「実(真)似」のことで、フト( 二十)の実・真(ま) に似せたもの、真似たものということです。本物の似たものを作るということです。つまり言葉のことです。

実際古事記には神がいて神々の物語になっています。神と書いてあるから神様がいてこの世と世界宇宙を創造したというのはちと早すぎます。

冒頭の文章をよく読むと、こうなっています。

『 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は 、 天の御中主(みなかぬし)の神。』

この文章を同じ構文で簡単に理解できる言葉に取り替えてみてください。

例えば、食事の始めのとき、高天原(食卓、家族、食欲その他なんでも)に成りませる神の名は、、、。文章を書く始めのとき、心の中に成りませる神の名は、、、。等々。

フトマニ学での冒頭の読みは、

アの目が付いて地に(あ・め・つ・ち)なる始めの時、心の領域にできてくるのは「高天原に成りませる)、相手世界の存在(神、カミ、噛み合う)に気付いた自分に名付けられるの心(名)です、

というようになるでしょう。

食事に向い食卓に着く最初の時のこととすれば、食卓につこうとするその全体の雰囲気が各自の心に形成されます。

文章を書こうとしてキーボードに向う時の最初には何かの全体を相手にする緊張などが産まれます。

ここで産まれる何かの全体が次に出てくる御中主の神になるのですが、そこに行く前に、「神」とは何かに挑戦しておかねばなりません。

古事記の文を読んでも、同じ構文の文章を作っても、そこに出てくる神は、普通にいう神や創造主の神とは違います。

古事記では神が創造主として何でもかんでも作るのではありません。「成りませる」とあるとおり、後から出てくるのです。

神は創造主だという観念が蔓延していますからこれを、まず越えないことには前に進めません。進むといっても神を否定するのではありません。だからといって創造主としての拝む神を肯定するのでもありません。

神が人と世界宇宙を作ったという人間の思いを問い詰めるのです。その問いかけの文章が古事記の冒頭となっています。

参考。

古事記伝はこうなっています。

○「成」を「なりませる」と読むべきことは、この伝の一之巻で述べた。【訓法のこと】ところで、「なる」と言うのに、三通りある。

一つはそれまでなかったものが生まれ出ることである。【人の誕生もこれである。】神が「成坐(なります)」というのは、この意味だ。

二つには、あるものが変わって他のものに変化する。豊玉比賣命が「産坐時化2八尋和邇1(みこウミマスときにヤヒロのワニにナリ)」のたぐいである。

三つには、何かの事業をなし終えたときに「成る」と言う。「国難成(クニなりガタケン)」の「成る」である。【この三つの違いによって、漢国には生成変化などとそれぞれに字を使い分けるが、皇国の古い書物では、訓が同じ字は通用させて、さほど字の意味にこだわらない。ここの「成」も文字の意味とは若干異なり、

書紀に「所生神(なりませるカミ)」とある字の意味である。

○木草の実が「なる」、万葉などで「産業(なりわい)」を「なる」と言うのは、上記の三つとは違うのか、あるいは三つの意味から派生したのか、よく分からない。】

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