04 古事記の構成

古事記の構成

古事記の冒頭は、現在ならばさしづめ意識の現象学原理論といったところです。古代のスメラミコトは、天津イハサカと言いました。 (イハ、五葉、五つに現わされる、サカ、性、意識のさが) それは古代人が考えた哲学思想の一つということではありません。

スメラミコトが八千から一万年前に発見した人類のための至高の真理です。

その後の宗教家や智者賢者、現在の思想人にしてこの最高の真理に到達した人はいません。というのもそれは能力とか時代とかのためではなく、能力は十分にあるけれど真理を表現する言語規範を持たないからです。例えば意識の表現規範の要素が五十あるのに、どの国の言語もそれを満たしていません。アルファベットの二十か三十の要素しか組み合わせに使用できません。

中国のようにアルファベットの無い場合などは、言葉の形を幾らでも多くしていかないと意識の表現を覆いきれません。中国人はもうとっくに新しい言葉に対応する漢字を造ることは放棄しています。

ですので、意識の現象学といっても西洋東洋の言語をもってしては意識の全体を語ることは出来ません。

そこであるのが世界で唯一の例外である言語体系を持つ大和の日本語です。何故なら、大和の日本語は心を語るために心に沿って創造されたからです。

物質の元素の数が決まっていてそれに対応している記号があるように、意識の元素の数の五十に対応しているのは大和の日本語だけです。あいうえお五十音図が未だにあります。

また物質の元素間の反応とその転換置換現象の創出変化には自然の力が加わることになりますが、意識の元素間の関係とその創造現象を産むことには、やはり意識による五十の見立て運用があります。

しかし意識は、相手があっての相手からの意識ですから、相手の世界も考慮しなくてはなりません。

ここでは古事記の構成としてそれらの事情も取り入れてみます。

相手側からの見立ては、0)無(相手=自分)、1)先天、2)無自覚、3)自覚(相手=自分)、の三段階に分けて古事記に記載されています。

----------------------------

古事記は意識(言霊)の循環を記したものですから、同じ事を次元が変わるたびに繰り返しています。速い話し、冒頭の一句、あめつち(天地)を、意識の成長変態に応じて百回繰り返したのが古事記です。

言霊(ことだま)と言霊(コトタマ)

繰り返しが可能であるのは、漢字表現された言霊をことだまではなく、コトタマと読んだ時だけです。

「ことだま」といいますと「言葉の魂」ということですから、言葉にはそういう力があるというだけで、それはそれで結構なのですけれども「コトタマ」となりますと「言葉の魂」ではなくて「言葉の最小の単位と心の最小の単位とを各々くっつけたもの」です。

「コトタマ」と申しますのは、人間の命を形づくっている最小の単位につけられた五十の名前の一音一音ということになりますから、五十の言霊を総合しますと人間の精神の構造がそれで成立してくる。こういうように説く「言霊」は「ことだま」論の中にはひとつもないということです。

言霊は人間の心の構造を組織する単位であるということ。ですから五十の言霊を有機的に総合してまとめますと、それが人間の心の動きそのものになるということ、これがひとつの判別のしようなのです。

言霊をコトタマと正しく読みますと、ことだまと読んだ時のように言葉の霊力が有る無しに係わらず、心の表現の構成要素となりますが、言葉に霊的な力が宿ると解されると、言葉とはまた別の異次元要素の話となってしまいます。

物質世界に限定された数の元素があるように、心の世界にも限定された数の心の元素があります。捉えどころの無い心の世界に見えるのは長大な組み合わせで現前しているためです。元を正せば五十の精神元素しか心の世界にはありません。

五十音図表としてアイウエオ・・の形で伝わっています。日本語の心の表現の要素は五十以上あり、拗音とか濁音なども数にいれていますが、元素になりません。心の元素数は五十です。その内ア行とワ行のウ音だけが共通で、四十九音ですが、それ全体、及び各音を言葉を運ぶン音として一音足しますので五十になります。

言葉は運ばれて相手に届かなければ成立しませんから、アから始まってンに至るまでが循環のサイクルを形成します。

ですので、言葉の要素の元素としては単音ですが、心の成り立つ元素としてはアからンまでの五十を通過することが心の言葉の元素の成立に於ける一元素です。

言葉の要素の元素が五十あり、各要素が五十を通過して一元素となることを、言霊の幸わいと呼んでいます。

それが古事記の冒頭五十神で語られます。

ついで五十の神々はそれそれが語られる仕方を持っていて、その語られる仕方がやはり五十あり、それが続く五十神で語られます。要素元素があると確認され、その表象の仕方がこれまた五十あり、それを通して後、始めて表現となるということです。

計百神を通過するので、これを言霊百神と呼んでいます。

百個の神がいるのではなく、百神を通過して始めて元素の神が表現されます。運びの言霊ン神が成立していますから、それを契機に連絡循環が成立していくというわけです。

-----------------------------

まずは意識の始まりです。始めるには主客の条件が整っていなければ発動できませんが、動き出す以前には主客の違いはまだありません。通常は意識を運用していますから主体側のいいなりですが、意識の始まりを見ようというのに、そこには既に意識が居すわっているということが起きています。この不都合を意識の原理構造があるとして解決したのが古事記です。

つまり、言霊ンという先天構造が常に位置付けられ繰り返されているということです。

その大本の始まりが「天地(あめつち)」です。

天地(あめつち)・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすという言霊ンが設定されています。

この先天構造が自覚されると、

天地(あめつち)・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となす、自然経過が、

吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすべし、という自覚にもとづいた道徳命令の実践へとなります。

対応は異なりますが、両者共に意識の構造は同じです。そこで自覚無自覚が同じ構造でありながら、対応の違いが出ることを示したのが、黄泉国(よもつくに)の章です。

ですので古事記は最初から二つの読み方が出来るわけです。精神活動の二つの、自覚的無自覚的の、違いを示す最初の言葉は高天原で、これを安万侶は「タカアマ」と読めと脚注しています。タとカのアの間の原、自覚規範と無自覚規範の音図ということになります。こう読む御蔭で、次に続く造化三神の、タ・カミムスビの最初の姿が出てきます。

古事記の原理構造は普遍です。全人類に対して発現しています。百神目(スサノオノミコト)が出てくるところまでが全部の章で意識構造と運用の原理となっています。つまりそこまで進んできて、意識の一循環目となっています。長い長い原理ですが今ここでの瞬時の出来事で、アメツチという一言を敷衍したものです。

-------------------------------

古事記の言霊構造の原理=アメツチ

心の動きは、

吾(あ)の眼(め)が付(つ)いて智(ち)となる、ことから始まり、

吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすべしを、創生する循環へ。

そのことを、天地・あめつち・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となす、という。

ア・メ・ツ・チという根本原理を展開したものが古事記の冒頭百神です。ですのでどこにいるかどこにでもいる神様とは関係の無いものですが、そのような実在を取り入れているものです。

古事記(意識)の構成は

(0) 先天の構造が主体に反映され

(1) 主体の活動が始まると同時に客体側を取り入れた領域が形成され、

(2) その上に乗って主体が出来て、

(3) 主客の合一した創造現象をしていく

という形になっています。

これが百神の各々に適用され、無自覚な行為から自覚的な実践へと循環上昇していく。