04 「今」とは四のこと、「今」の世・よ。

今の世(四)

ここでは「今」の四の姿をみます。

四とはヨで、世のことです。世間のことではありません。「今」の私(一)とあなた(二)と関係(三)の三者によって生まれ出てくる実質的な内容が、欲望の今、感情の今、記憶の今、選択の今、意志の今の五つですが、始めの四つは形となる世界を、現象となる世界を、子を産む世界を、目指します。しかし、最後の意志は形を持たないばかりか、前記四者を押し出す律動を与えるものとなっています。ですので実質は今には四つの世界があるということになります。

今の実質的な実がこの四者であり、今の世界・世の実質内容を数で示せば、三が四(世)の実・みとなります。数霊解釈は続けて行くと、一般的なことと個別的なことを簡単に混ぜ交わしてしまい、狭い経験係わりを一般全体として平気で語るようになりますのでここでは扱いません。

世を解しようと、今画面を見て文章を読んでいますが、読みながら「今(世)とは空なり」という禅の坊さんの言葉を思い出して比較しているかもしれません。(知るという知識の世)。四(よ)の漢字の読み方が奇怪しいのではないかと正しいのはどれだと知りたくなっているかもしれません。(知りたいという欲望の世)。世の構文言い回しの下手さ加減に嫌気が差しているかもしれません。(感情の表現の世)。そして四か世か選択されて書かれている内容の適否等が読みながら感じられています。

特に重要な部分を占めるのは、読んでいるときの知識概念の比較と選択されて書かれた内容です。それらは大抵の場合いつも知らず知らずの内に知りたい確かめたいという欲望の内に現れ、自分の考え思いと一緒くたの全体を形成しながら、読み手の概念知識と選択内容となって感想なり批評となりになっていきます。つまり「今」というのもそれなりの四つの自他の総合されたもののその人なりの「今」となるわけです。

「今」という時に既に現れてくる四つのあり方についてもう少し見てみます。ただ単に「今」というだけの時でもそこには四つの「今」の世、欲望、知識、感情、選択、があります。

ここで面白いのは今ということそのものに関しても四つの今があることです。今という一つの言葉の内実の全部を表現することはとても少なく、その内の一つか二つを表現するだけです。そこで同じ今の表現者もその内容を巡って何百年も戦わされることになります。

そして今まで今の一、今の二、今の三とみてきました。そして十に成るまで今の説明は終わらないと言ってきました。辞書などをみれば一つ一つの現象の解説を載せています。しかし、今が今出来てくる今の姿を追った解説はありません。思想哲学書においても同じでしょう。今の今が今成るように解説できていません。

今の今が今付いて今に成るという、今・イの間(マ)の解説が古事記の方法です。

では、今の世・四に行きましょう。

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今の世の一、今の世の二、今の世の三、今の世の四。

前承する言霊循環からすれば、今の四には今の一二三が含まれています。三には二が含まれ二には一が含まれ、一には先天的に十が含まれています。この関係はこの後も同じです。

今の九において一にある先天の九(こ)が子として生まれ十になります。ですので生まれた子は九八七六五四三二一の全体を含んでいます。

ここでは今の四の解説ですから今の三二一を含んでいますが、五以降は含まれていません。しかしその後に五以降の様態が出てくるのなら含まれていない等と言ってはいられません。では五以降の無いものがどうして出てくるのかといえば、それは始めの一に先天としてあったからです。

ではその一はどこから来たのかと言えば、連鎖循環している前の段階の十の次元を受け継いでいるからです。生物種のDNAの継承が意識においても起きています。

辞典や今までの解説ではそれぞれの時点での現象を取り上げてしまってこういうものという解説をしています。ですので事例用例等の具体性と共に説明されますが、出来て既にあるものの説明ですからそのもの自体に触れることはありません。

例えばネット辞書から今を引き出しますと次のようです。

    1. 過去と未来との境になる時。現在。ただいま。㋐時間の流れをとらえた瞬間。この時。「―はちょうど一〇時だ」「―は手が離せない」「―考えているところだ」㋑近い過去から近い未来へ継続している現在の時。目下。「―は学生です」「―も変わらない友情」「桜は―花盛りだ」 現代。現今。今の世。「―は科学万能の時代だ」「―の若者」「―はやりのファッション」 ごく近い未来。もうすぐに。やがて。じきに。「―終わるから待っていてくれ」「―行きます」 ごく近い過去。少し前に。いましがた。さっき。「―の人は誰かしら」「―帰ったところだ」 さらに。そのうえ。もう。副詞的に用いる。「―一度考えてみる」「―しばらくの間」「―ひとり参ります」

今の用例解説が主で、今とは何かではなく、こういう今という現象がありますから今とは今ですというだけです。

さてどうしてそんな解説が通用するのかといえば、今を説明するのにイマという以外にないからです。外国語のように、ナウ、イエッツト、マントノン等の指示内容が理解できていれば今を指したものという理解にこぎ着けますが、大和の日本語では心の今という意識の反応表現がイ・マです。

ですので今・いまというのはそのまま心の表現ですので説明のしようがありません。他の概念範疇を持ってきて仮に近いとされる説明をしたところで、イマというより他に仕方がありません。

ではイマと言う方も聞く方もイマと言うだけで分かっているのかといえば、分かっていると同時に分かっていません。辞書の説明にある通りイマそのものは解説できていません。しかしどのような説明もイマとして理解しているものです。

これはイマの指示内容を理解しているからではなく、イマと言えば心のイマに響きイマの心を現わすものとして、自他ともに共感感応ができているからです。

外国語のように意味を理解してあるいは理解させられて共有化していくものではなく、先天的に心のイマが共有化されています。

(これは世界共通語としての大和語を念頭に置いていますから、どの国の人にイマと言っても今のことだろうと通じるものです。実際はそうなってはいませんが、古代に言葉が乱されたという物語もあります。)

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よの世界。

ここで古事記で言う四の世界を見てみましょう。原文は以下の通りです。

実在世界の全体

1 天の御中主(みなかぬし)の神。

実在世界の見る主体と見られる客体

2の一 次に高御産巣日(たかみむすび)の神。

2の二 次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。

実在世界に成った内実

次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)

ごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

3の一 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に

3の二 天の常立(とこたち)の神。

この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

実在世界に成る内実

次に成りませる神の名は、

4の一 国の常立(とこたち)の神。次に

4の二 豊雲野(とよくも)の神。

この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。

ここで四のよを読み取る要領は「独(ひとり)神」にあります。宣長の言うように、獨神(ひとりがみ)とは、次に続く女男(めお)の偶神と違って、ただ一柱ずつ生まれ、配偶神が無かったことを言う、のではありません。

意識に与えられたものが独立してあり、それだけで独立した世界を成していることです。

まず物質世界ならば目前の本や画面はそこにそのままあります。誰がいてもいなくてもそれ自体である物の世界です。

原文にはわざわざ独神と三回繰り返されています。始めの三神はまとめて独神となっていますが、これは三神で万物創生を示すと同時に、各神がそれぞれ独立していることと、ミナカヌシと、タカミムスビ・カミムスビが別々の次元にいることを示しています。

次いで同様に、ウマシアシカビヒコヂとアメノトコタチはそれぞれ独立しながら両者で一つの次元を形成し、クニノトコタチとトヨクモノもそれぞれ独立しながら両者で一つの次元にあることを示しています。

つまり、四つの別々の次元を指し、ミナカヌシを除いてそれぞれ二神で一つの次元世界を作っています。

というよりこの世のあり方を意識したときには、上記四つの次元世界があるということになります。世界のあり方については各人各分野からの視点があるということになっていますから、十人十色が当たり前で、言霊学・フトマニもその一色であるとされがちです。

しかし、物質の世界では推論から証明され定量が決められ反証も再現性を崩せず科学的な真理が得られるように、意識の世界では古事記の冒頭が精神原理の真理となっています。

ただ未だに追体験せず反省せず心の中で実証していないというだけで、自由な思考や勝手気ままな思いを自分のために取り入れているだけです。努力して自分の頭で考えて創造するという、その癖単なる恣意的な偶然の組み合わせに囚われて自己の創造したものとしています。

この論考も何分そういったところもありますが、基本的には古事記の冒頭の原理を真似ているだけです。ですので自分の頭で考えることもなく、古事記を言霊学・フトマニの原理として一旦解読してからその通りにしていけば、これらの文章と構成が出来ていきます。

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原文と今の対比

0 天地(あめつち)の ・吾(あ)の眼(め)が付(つ)いて智(ち)となる、と読み替え、今の吾の眼(私の意識)のこととする。

初発(はじめ)の時、・今が初めて意識されるとき

高天(たかあま)の原(はら)に ・今を意識している精神意識界・心に

成りませる神の名(みな)は、 ・心に成立し刻印される実体の名前は

1 天の御中主(みなかぬし)の神。 ・という名の今の意識の中核を占める心の主、今という意識の元となるものの主、今という意識活動の主人公である、先天にある今の主人公となる。この原初の自覚される意識体を、今ある今という。(後に、今感じられる今、今考えられる今、今思われる今等に剖判していく。)原初の感触を得られた今で、感触が生まれうごめく今で、今が今ある言霊ウの今という。

これが原初的に今が今あるという感触を司り、ここに吾の眼が付くことで今の意識が始まる。ここは始まりの段階であり、始まりの段階として感触的な独立した総体を示す段階(世界次元)となる。感触、感覚としての原初の今の意識ですが、それ自体で独自の世界を形成しています。

よく自分の中で自分の他の意識と比較してしまうために「なんだかよく分からない」というように萎縮した形をとりますが、御中主は、言霊ウは、それ自体そのまま現われるものですから、他の次元世界との比較は無用です。

実は比較は比較の世界があり、この御中主の時点ではそれ自体ですから比較していません。それが比較できるように思えるには、まだ次の二段階を経ることからになります。

ですのでここではその人の感触の総体として現われるままです。

ところで御中主が独立した原初の総体であるなら次々に記される神々とは何でしょうか。 例えば子供は青年ではないし老人でも無いが同じ人が成長していって取る状態の違いです。しかし狭い間隔での二つの時期を取っても違いの無いこともあります。

古事記の場合、つまり意識の場合はどうなっているでしょうか。意識のあり方では持続のあり方が、瞬間であったり数十年間であったり様々です。ころころ変わるかと思えば一生思い続けることもあります。古事記ではそれらを「主・ぬし」として現わします。

ですので瞬間で変化しようと長年続こうと併置されようと連続して生まれようと、そこにつらぬかれ縫い綴られている主・ぬしとしての意識のシ(言霊シ)があるとします。

シ(言霊)は意識の地となるものです。外見現象的には短い長い等の違いがありますが、それらの長さが持続している地に付いている限り同じものです。今を時間で現わしますと、短い長いの過去から未来への瞬間ではなく、吾の眼、意識が付いて地に成っているあいだ中が今です。

ですのでここでの今には時間がありません。

吾の眼が付いて地に成っている間が今です。

ですのでここでの今には時間がありません。

今に時間が無い等というとおかしなことを言っていると思われますが、今あの人が好きだという思いはづっと続く今なのです。

こういった今の特徴は欲望です。欲望のある間は常に今です。

では何処に今の思いが成り立っていくのかといえば高天原(たかあまのはら)にです。高天原は簡単に言うと精神意識界のことで地名ではありません。精神意識界である高天原は頭脳内に形成されますから、頭脳の生物生理の法則に従い物質の流れを計る現実の時間の流れに従います。

ですので最初から意識に与えられた時間と科学的に計測できる時間とが別々にあります。

問題は意識に与えられた時間が意識において成ることです。そこで意識における最初のあり方を今という時間の御中主にとりますと、天地(あめつち)の ・吾(あ)の眼(め)が付(つ)いて智(ち)となることから始まって、初発(はじめ)の時、・今が初めて意識され動き出すときに、高天(たかあま)の原(はら)に、今を意識している精神意識界・心に、成りませる神の名(みな)は、として御中主が出てくるので、今までの解釈のようにどこかにずっといる創造主としての神(今)があるということではありません。

神・今は意識し始めたときにそこに始めてできます。ところが始めてできるものに、最初から今という名称が与えられているというのは矛盾しています。そこを解決したのが循環の始めに先天の循環構造を設定することでした。「天・天津」という用語がそれを指します。アマツというのは先天のということです。

そしてその先天の意識構造を古代のスメラミコトが発見創造したところから人類の歴史が始まったのです。古事記の冒頭はそれを一万年後(?)に記載したというわけです。

さて吾の眼が付いて動き出すその次の意識状態はどんなものでしょうか。それがタカミムスビとカミムスビになります。タという以外は両者とも同じです。勿論漢字表記ではことなりますが、ここでは漢語の解釈を探しているわけではありません。三神をまとめて独神とするその内の二神です。次のようになります。

2の一 次に高御産巣日(たかみむすび)の神。

2の二 次に神産巣日(かみむすび)の神。

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。

漢語表記だと惑わされますが、同じカミムスビにタが付くか付かないかの違いです。タが一言多いということに意味があります。

あるものに対して一言多いとはどういうことでしょうか。あるいはあることに対して一言多くなるとはどういうことでしょうか。物理世界で言えば作用が加わり力や重量が追加されるということになりますが、意識の上での出来事です。

つまりこういうことです。意志あるいは意識が加わるということです。そうするとそこに意志・意識の加わったものがそこに現われます。

では一代前の御中主にはそういうことが起きていないのかといえば、起きていないので中主(中今の主)です。例えば五感感覚からする欲望意識の獲得であるあの人に逢いたいとかご飯を喰いたいという欲望に捕らわれます。

そこでの欲望の現われ方の流れを見ますと、欲している本人の欲望と欲されている対象となっている欲望とは同じものです。同じものというのは、意識内において同じということです。カレーが食べたいという意識は、欲されているものがカレーなのでカレーを食べたいと言うことで、同一の内容を指します。

(これが五十音図表においてあ行とわ行のウが同一の理由です。現在では発音が同じということでわ行だけでなくや行にも省略されてしまったものがありますが、古事記の五十音図ではウ以外は独立した言葉であり、今後は独立した扱いを受けるようになります。)

そしてそのことを示すのが、タ・カミムスビなのです。

現代用語の主体と客体を使えば、タカミムスビが主体側、カミムスビが客体側です。ここで変なことに気付くと思います。一言多いタが付いてタカミムスビになっているのに、カレーを手に入れて何故タが外れてカミムスビになるのかです。タ・タ・カミムスビに何故ならないのかです。

それはここに(言霊)循環が始まっているからです。

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次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)

ごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

3の一 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に

3の二 天の常立(とこたち)の神。

この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

次に成りませる神の名は、

4の一 国の常立(とこたち)の神。次に

4の二 豊雲野(とよくも)の神。

この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。

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05今とは五、いまがいまいる理由。

06今とは六、いまが六(ム・無)である理由。

07今とは七、今が名の名のナとなる理由。

08今とは八、

09

10