【天地の初発(はじめ)の時】7.

6-1。≪【 〇あ 】。【 あめつち 】。【 あ・あめつち 】の詳細 ≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

アの芽が地に着かんとして成りませる神の名は天の安土(あめのあづち)の神。

あめつちの「あ」が主体として動こうとする時、 その動いていく自覚体があります。神の名を与えれば、天の安土(あめのあづち)の神です。わたしが造ったので正式ではありませんが。

アメツチのア、主体側のアが動こうとする初発の時は、その動こうとするものをブロックし制限をするものが主体自身にはありません。自分にブロックするものが無いから動き出すことができるわけです。

主体は動き動こうとして動きを止めるものを自身に持ちません。それは弱り弱まるとかエネルギーが切れるとかするまで果てしなく続きます。

それはアの芽が着こうとする動きですから、動き始めた時から、アの芽が地に着く相手を探し求めています。

その動きの初めには、地に着く相手を、何処か誰か何を対象にしているのか分からないけれど、いわば無限を相手に自分の無限を提示していくように見えます。

つまり相手対象という有限物に向かって自分の無限を限界として現したいわけです。(これは前回の、I am that I am の別の解でもあります。別にモーゼの神を出すこともありません。)主体の動きとは自らの無限を限界付けることともなります。

こうして地に着いて自分の無限の動きを止めないことには、宇宙迷子になります。

そしてここに付き方、自分のブロックの仕方に関する自己表現が発生します。

普通は意志による目的行動のように見えますから、最初から目的を持って行為していると感じています。その為に、よく、目的を持って行為しろ、まず目的を持てと言うことが普通になっています。

だけど出だしの段階でつま付いた時など、茫然自失状態を経験することがあります。この時などは意志による行為が出来ず、主体の感覚は充分あり、それが意志している感じも掴めているのに、動けません。要するに、意志を持つから動き始めるという以前に戻ってしまっているのです。

自分の主体意志が無限の全方位に発出していて、いわば原始的な主体が出て来たのです。呆然自失、もぬけの殻も百パーセントゼロになったというより、百パーセント小さな円、原子の粒になってしまって、手も足も無く、目も口も無く、意志も方向も無い無色の粒になったようです。

形容概念の差でもって論を進めても、感覚の相違になってしまうのでそんなことは止めて、実体内容を探しに行かなくてはなりません。

わたしたちは現象において知覚するのですが、現象自我が失われ、今その機能が停止した話です。そこでなにもないということになりましたが、現象としては現れないので何かあると分かってはいても、表現のしようがありません。それを上記のような無色の粒と形容したのです。

飾りを伴わないで、べつの言い方をすれば、先天の実在から自我が始まっていることを見つけました。こうして現象として現れずその説明が不可能であるので、先天というわけですが、先天実在があるということを示さねばなりません。

それが、言霊次元での言葉で、言霊アから始まって五十の言霊単位となった言葉達になります。その全言霊単位になった言葉を代表して、言霊ンがあります。

もしここで、先天の実在があるのにそこに名前がなければ、先天構造を説明することが出来ません。心理学では潜在意識といいますが、それは潜在的にある現象意識ですから、ここでいう先天構造から出てくる先天とはちがいます。先天は潜在のさらに奥にある構造体となっています。

それを古事記では冒頭の五十神の名で示しています。この構造体の各要素の名前があることによって始めて、先天を語ることができるようになりました。

そして、本来の始まりはそこにあったのです。その本来の動きに限定を与えて、相手対象に向かうとしていたのです。

このアの芽が地に着くところをもう少し見ていくと、主体の出だしの全体の中には、相手対象を知ろうとしてそれを選ぼうとする心と、選んだ対象を知っているものとして選んでしまった心との両面があります。そうでないと相手に向かうということがありません。

そのことを今現在という切り口で見るとこうなります。

主体の相手を知ろうとする動きは今のことで、今-今、の次元。

自分の過去経験概念において知ろうとする、過去-今、の次元。

選ぼうとする時は相手対象と自分の無限-無限の関係を、無限の今-有限の今に変換し、今-有限の次元。

選ばれた相手対象とは、今-未来の関係を作る、今-未来、の次元。

切り取り方で切り口が変わりますので、まだいろんな切り口が現れますが、いずれにしても経験知で見る世界と、選択智で選ぶ二つの世界があるのは共通です。

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6-2。≪【 〇あ 】。【 あめつち 】。【 あ・あめつち 】の詳細 ≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

ちょっとここにきて調子が狂うような予感がします。すんなり進まず中断することが多くなりました。

あめつちのアを始めてから何かが違います。何が、ということは言えず、何だか知りません。

わたしは知的な関心であれこれ知りたいということで始めています。でも、何時までも知的にあれこれしていても何にもならないと感じています。知の精神はその上にある次元を知らず、越えられるものです。

しかし、知的な問答の積み重ねは、知的な部分以外の何ものかに影響を与えるのでしょうか。

知的な概念をやり繰りすることに抵抗する心が何か別物を用意しているのでしょうか、なにかそんな別世界の予感があるというか、無いというか、そんな感じです。

こんなつまらない何にもならないことを書いておくのも、もしかしたら後々の参考になるかもしれないと思って、書き残しています。

概念運用も、その各時点で、別次元に滑り込んで影響しているかもしれないという観点です。

こういった意識の過程を古事記で調べてみると、主体である伊耶那岐が予母都国から逃げ帰る直前の場面に当たるかもしれないように思えます。

・『十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ

・『その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に引き返りき。

・『 ここに伊耶那岐の命、桃の子に告(の)りたまはく、「汝(いまし)、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、患惚(たしな)まむ時に助けてよ」とのりたまひて、意富加牟豆美(おほかむづみ)の命といふ名を賜ひき。』

このように苦しんで困難な状況に陥っている時の事がでてきます。

これが解決の仕方として読み込めるかもしれない、という思いがあります。

そもそもどんな困難苦(う)き瀬に落ちているのでしょうか。アの芽が着いて地になる時、何があるのでしょうか。

通常はうまくいくように、都合よく益が出るように、良好なる結果を期待しています。ということはその反対側もあると知っています。

ところが、苦(う)き瀬に落ちている時には、良好な方向があるということは知りません。そんなものが無いから困難を覚えているのです。

これは非常な不平等に思えます。精神の本性にこういったものがあるのでしょうか。慰めや気落ちを防ぐためそのようなことを言いますが、効果がでれば結構なことですが、そういかないことも多いようです。

良好な結果が出ると思う時の困難と、困難を覚えてる時の良好なものが無いという感覚、この両者は、そもそもアメツチに含まれているのでしょう。

どなたか、この構造を解き明かしてもらえませんか。

---ちょっとだけわたしの意見。-----------------

ここを拡大して、意識する時の良好を得る感情と困難を得る感情とか、人間精神の性善とか性悪とか、にもなるでしょうけど、どの方向を取るにせよその先天的な実在構造を示さねば、概念知識に、儒教の学識で上塗りを施すことになるだけでしょう。

悪は光の影といいますが、影を造るのは物体です。伊耶那岐が黄泉国(よもつくに)に行く時、「殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ」、つまり、精神の客体構造からでてしまい客観世界に行きます。そこは物の世界ですから、光の無い影だらけです。

アメツチはその外に出る以前で、でてしまったことを話しだすと儒教の性善性悪になってしまい、きりが無くなりますから、立ち止まって主体内のことを取り上げます。

するとそこにも光を出す世界と、光を受ける世界があって、光を受ける世界は光が届かない状態がまずあり、光を出す方はどこに光を出すか分からない状態がまずあります。

---ちょっとだけでした。---------------

主体側が活動を開始ししようとする時、つまり、人が、わたしが、あなたが、釈迦が、キリストが、スメラミコトが、活動を開始しようとする時、その主体の自覚体が動くということは、元々が、無限であるものが、無方位であるものが、完全自由であるものが、仏の悟り状態であるものが、神と一体であるものが、先天の全体であるものが、主体として活動を開始していきます。

あまり多くの言葉を挟むと、現象の立場から見ていく人には、あれとこれは違うのに目茶苦茶混同していると見られそうです。

アメツチのアは現象を創造する現象以前の立場ですので、決して現象を混同しているわけではありません。現象から見ていく立場を排除しているだけです。

調子が狂う予感とあめつち。

今までは、アメツチを「アの芽が」としてきましたが、予感というものをアとした時にその芽が着いて地になることができるかについてです。予感も人間の性能の一つですから当然アメツチの構造の内にあります。

ウィキには、「予感(よかん)は、将来、何か事が起こりそうだと何となしに感じることである。 」とありますが、予感そのものは現在の事象ですから、将来において一致してたか当たっていたかなどは、現在の問題となっていません。将来何かあるという今ある予感を問題としているので、予感の行き着く先はまた別のことです。

そこで予感によって想定される将来とは、単なる過去知識の延長です。それを将来の問題として捕えるとは、現時点で得た過去知識を将来の時点に置き換え、それを装飾して色付けをしてあるだけのもので、将来に起きることを指しているのではありません。

何故人はそのような予感を得る、予感する、態度が取れるのかが問題です。予感も予想も普段の普通の態度に含まれています。そういったことを、少々大袈裟に語りたい人もいて、神さんとか、霊魂さんとかとお話をしてきたというのもあります。このお話しすることもいろいろあって、憑依霊だとか高級霊だとかそれぞれ勲章を付けられたような順位まであるそうです。そういったものもひっくるめて、予感の位置づけをしてみたいと思います。

調子の狂う予感なんてあっちゃ嫌なことですが、予感としてでてきたのですから仕方ない。一日置いて静めたものの、記憶としては残ってしまいましたから、それを頂きますというわけです。

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