【天地の初発(はじめ)の時】6.

【天地の初発(はじめ)の時】6.

3-1。≪【 アからメに】 。➂【 め 】 【 あ・あめつち 】の詳細。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

未だに冒頭の一句から抜け出せないでいる。

考えてみれば人の一生だって同じことで、死ぬまでが産まれた初めの瞬間を抜け出ないということですし、抜け出したら死ぬということになります。

心が構成するものごとも、精神の働きも同様で、どこまでいっても初めの【あ】は着いてきます。では生命のように、産まれた時のいのちが着いてくるのかといえば、いのちは着いて来ますがその現れ方はそれぞれの形になります。

全ての形はその根底に生命をやどしています。しかしその現れは五つの次元形態になりますのでそれぞれの特徴を示すこととなります。

これが人の世界の次元層となり、生命意志を根底にした、欲望、知識、選択、感情の家(五重)を造っています。

そこでアメツチのアというときもその家がそっくりそのまま着いてきます。それを平面音図で示すと、天津菅麻音図と呼ばれる音図になります。

---(以下引用)---------------------

心の象徴である音図

祈ればいくらか心が清々しくなってご利益があるかもしれませんが、神様というものに祈るべきではない。神様は五作るもの。

和久産巣日(ワクムスビ)の神という最小限省略された五十音図がここで出来上がります。これから以降は伊耶那岐命が心の構造として散策する基本としてこの和久産巣日(ワクムスビ)の神である天津菅麻音図の研究が始まることになります。

ということは私たちがこれ以後の勉強の仕方は、この天津菅麻音図が自分の心の中にある、自分が活動した時にどういう変化をするかということを五十音図に見立てますと必然的にお分かりになってまいりますから。

・天津宮事以ちて

天津はこの場合政治と司る朝廷の、の意でありましょう。宮事の宮とは霊屋(みや)の意で、言霊の家即ち五十音言霊図を言います。天津宮事以ちて、の全部で「人類文明を創造する政庁である朝廷に於ては、政治の根本原理である五十音言霊の原理を操作・運用することによって」の意となります。

次に天津菅麻音図について説明しましょう。菅麻(すがそ)とはすがすがしい心の家の意味で、先に書きました如く生まれたばかりの赤ちゃんが天与に持っている心の構造であり、まだ人工的なものが混じっていない大自然の心という事が出来ます。

その五母音は天である言霊アを上に、地である言霊イを下に、その間にやがて人為の性能が加わるであろう言霊オ・ウ・エが中に入る事となり、縦にアオウエイが並ぶ事は御理解頂けることと思います。

菅麻音図を図で御覧下さい。母音イと半母音ヰとの間にチキシヒイミリニの八つの父韻が並べてあります。言霊イ・ヰは人間の創造意志であり八つの父韻はその意志の働きの振動ともいうべきもので、その父韻が母音アオウエの四次元の宇宙実在に働きかけて現象である子音を生みます。

ところが生まれたばかりの赤ちゃんは創造意志を持ってはいますが、まだその創造活動をほとんど発動はしていません。人為的活動をしていません。そこでこの図に書き表した父韻の並びは父韻の作用の四音チキシヒを右に、反作用のイミリニを左に並べました。

実は与えられてはいますが、活動していないのですから、その並びはどう書いても構わない事になります。全く菅麻音図とは大自然の中の人という生物の心の構造図なのです。

人間のすべての営みの現象はこの菅麻音図にある五十音言霊によって構成されますから、菅麻音図とは人間生命の一切を創造する親神である伊耶那岐の神の音図と呼ばれます。それは人間の営みの善悪、美醜、真偽、得失がそこから生まれて来ますが、この音図はそれから全く超越した次元であります。

赤ちゃんの音図

自分の心の中にもこうして五十音がちらばっているのかもなと分かったということ。自分の心に照らし合わせて作業するわけですから。順序は分からないけれど枠を作ることができた。それが和久産巣日(ワクムスビ)の神。

初めて人類が五十音を一つの五十音図として並べた最初の瞬間だったわけです。後に言霊の学問がもっと進んでいきますと、これを天津菅麻音図と申します。菅麻ともうしますのは、おぎゃあと生まれた言霊の五十音、所謂赤ちゃんですから父韻の並びがハッキリしません。

父韻は文明を創造する担い手ですから、まだ父韻の原理が働いておりません。赤ちゃんは活動しておりませんから、それを和久産巣日(ワクムスビ)の神として、天津菅麻音図ということが分かってまいります。

一つ一つがハッキリしてまいりますから、それが自分に授かっている天照大神はちゃんといらっしゃるということです。自分の心の象徴としてあるのが言霊の原理でございます。

天津すがそ音図

それでさっき申しました天津菅麻音図という大雑把な入物でもってそれを選別して、(和久産巣日(ワクムスビ)の神という最小限省略された五十音図がここで出来上がります。これから以降は伊耶那岐命が心の構造として散策する基本としてこの和久産巣日(ワクムスビ)の神である天津菅麻音図を使用する。)

--------(引用ここまで)----------

天津菅麻音図のイメージが浮かびましたか。

赤ちゃんの音図というのは、赤ちゃんには判断規範が出来上がっていくことを、また、赤ちゃんを育てる社会(両親・社会)も、その判断規範を持っていることが、先天的にあるということでしょう。

音図も成立の過程がありますから、赤ちゃん内において、あるいはわれわれがものごとに接するときの初期状態において、赤ちゃんの音図を形成していくということでしょう。

古事記には、

『 この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。』

とありますから、音図・判断規範の生成には、必要充分な要素が全部揃うことが条件になります。赤ちゃんには数年かかり、われわれならことを始めるのに意図的に要素を集めることになります。

ついで、『 たぐり(嘔吐)に生(な)りませる神の名は』ですので、要素単位を充分なだけたぐり寄せると、そこに、要素単位の充分な集合体、金山(カナ、かな、神名、文字、音、鐘)がひとやまできます。

それが、『成りませる神の名は、 (1) 金山毘古(かなやまびこ)の神。 (2) 次に金山毘売(びめ)の神。』となり、それぞれ、音側、体側を現します。

ここで注意することは、嘔吐(たぐり)は、イザナミからですが、たぐり寄せる行為は、イザナギのすることです。そして、ここから後は、イザナミを扱うイザナギの行為となっていきます。イザナミはイザナギの片身として、常に必ずかたわらに寄り添っていきますので、イザナミは死んでいくなどと言わないようにしてください。

黄泉、四方津国・予母都国を死者の国とするのは根本的な間違いで、今のところは常識で通っていますが、まもなくひっくり返りますから心の用意が必要となるでしょう。

ここからが伊耶那岐の言霊運用のはじまりです。ここでもし、イザナミの出したたぐり(嘔吐)に囚われてしまいますと、以降全てが間違います。

金山は客観物、たぐり(嘔吐)、文字、表現現象、ですが、それらを集めることが問題なのではありません。

わたしも当初、文字を集め、言葉、言霊を物のようにたぐり寄せることと思っていました。そしてそれらの物を整理運用をするとしていました。

しかし、それでは後段の、『 かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。』にある「堺」の意味が出てこないのです。詳細は後のことになりますが、伝説の地名探しは今後は無駄なこととだけ言っておきます。

問題はイザナミのたぐりではなく、イザナギのたぐる精神行為、たぐる心の動きにあります。つまり、われわれ自身の精神、こころの動きにあるので、こころの外にころがっている物を分析するのではありません。それらを内側から見ている自分のこころのことです。

ややこしい面倒臭い言い方ですが、日常の全ての瞬間瞬間での全出来ごとに関するもので、わざわざ意識すると混乱するというものです。そんなことをしないで黙って見過ごす方が余程気が楽です。安万侶さんもとんだ凄い物から始めました。

これも人の意識の最初の動きを観察洞察した結果です。目を道端に落とすと何かある、何だか知らないものがある。あ、空をみろ、スーパーマン、よろしくたぐり(反吐)だ、ということですが、この何だか分からないものを見て了解する過程は、冒頭百神全体のことでもあり、造化三神のことでもあり、あ、たぐりだ、先生だ、エアバスA380だ、のことでもあり、アの目が地に着く、アメツチ(天地)のことでもあるのです。

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3-2。≪【 アからメに】 。➂【 め 】 【 あ・あめつち 】の詳細。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

古事記は知れば知るほど凄いものです。

そこで、これまでの過程は、まだ始まりの始まりでしかありません。あ、空を見ろ、たぐりだ、とたぐりという判断内容を示すまでにはいたっていません。

ここでは、主体側のたぐり寄せるこころが動き始めたところです。そうすると、どういうことになるのか。

自分にたぐり寄せるには、そのものを名指して、他から区別しなくては成りません。その前提が寄せ集められます。そこにあるものが金山としてなんだかまだ分からないものとしてあります。石だか、紙だか、水だか、ウンチだか、嘔吐だか、まだ分かりません。ここに出した例だけでも既に、い・し・み・ず・う・ん・ち・お・う・と、というように相手対象を指し示す言葉の山が承知されていなければならず、最終的には五十音全部が必要となっています。

目標が了解されるのは五感なりの人の性能次元を通過しなくてはならず、それは必ず物象化された物として現れます。音声という空気振動か、紙に書いた文字か、目配せによる視覚という光学現象とか態度でしめされます。

つまり対象となっている金山の実体は、その内容が音で示され、物象化された物で示されなければなりません。「おい、あそこに、へがある」と、空を指して言う時には、音の内容と体の両方で対象とは適合しません。

そこで物を知る最初は自分にたぐりよせることですが、そこから相手対象となる、金山の音側と金山の体側が、自分の内に創造されなくてはならないということになります。

これが、『 たぐりに生(な)りませる神の名は、 (1) 金山毘古(かなやまびこ)の神。 (2) 次に金山毘売(びめ)の神。』 ということです。この音側、の要素、体側の要素は五十個です。

繰り返しますが、これは主体側本人のたぐりよせるこころの動き内でのことです。初めは、たぐりを石と見、紙と見、水と見、ウンチと見、等々ですが、それらの物体物質が心に飛び込んでくるのではなく、足元にすり寄ってくるのでもありません。

たぐりを紙屑と見たとき、紙、か・み、の「か」というときの「か」のこころの動きに、音側とその体側が心に形成されるということです。

この精神による「か」の創造形成、そして、「み」の創造形成があって始めてあれは紙屑かたぐりかの判断がでてきます。子供などはたぐりを見て、水たまりに物が浮かんでいるとしているかもしれないのです。

また繰り返しますが、今の段階では、その判断もまだしていない、それ以前のこころの内にいます。

こうして自分の内に判断要素がたぐりよせられます。

そうすると、

『 次に屎(くそ)に成りませる神の名は、 (3) 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。 (4) 次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。』。

が産まれなければなりません。

要素が山のように溜まって金山となり、それらの、連絡連結が見つかり出てくる共通項目が現れてきます。

反吐、たぐり寄せる、の次は「屎(くそ)」です。く・そ、で組む素、要素を組む、のことです。集めた要素を組み立てあるいは分解整理、順序立てることです。天の岩戸にも出てきて、同じ内容です。

---屎(くそ)。-------------

安万侶さんの屁理屈は世界最高ですが、ウンチを何故クソというのか、ちょっと寄り道です。

冒頭五十神は、五十音が配分されて、子音部分は、タトヨツテヤユエケメ・クムスルソセホヘ・フモハヌ・ラサロレノネカマナコン、となっていて、ク・ソは二番目のグループにはいっています。

ここは、佐渡の島の領域で、「佐渡とは助け(佐)渡す(渡)の意 何を助け何を渡すのかといいますと先天の活動が一つのイメージ化され、そのイメージを誰にどのような表現で伝えたらよいか、が検討されて言葉として表現・発生される処の区分 」です。

始めに頭脳内での先天構造内ものが、イメージにまとめられ、それが言葉と結ばれてでようとして、音声となる前の段階に、ク・ソがあります。このことはちょうど、飲食して、かみ砕かれて、栄養をとって、かすが大便として出てくる場面とおなじなのです。言葉が出てくる、便が出てくる。

神名を用いれば、 沫那芸の神 ク - 沫那美の神 ム - 頬那芸の神 ス - 頬那美の神 ル - 水分の神 ソ - 国の水分の神 セ の順になっていて、沫那芸の神 ク と 水分の神 ソ を組み合わせたものです。

沫那芸の神 ク のアワは五十音図の初めと終りで、口からはいって尻からでる始めと終わり、水分の神 ソ は水の配分水配りで、小便と大便との配分、口に組み入れられた物が、固形分と水分とに分けられ出てくるのがそれぞれが共通しています。

また便の中味は、食べたものの要素が細かくなって混ざり合っていて素が組み合わされています。口で受け取ったものが、腹の中で組合わされて最終便現象となって出てきます。言葉も、耳で受け取ったものが、頭脳内で組み合わされて、発音現象となって出てきます。

しかし、言葉のように出てきた音声に意味があることは無く、便という物質が排出されるだけです。言葉は五十の要素の独立した形をとりますが、便は単なる固形物です。ですので同じ構造といっても、同じ言葉になりません。

ここで同じクソが出てくることを、出てきた形の方から見ていくと、その形それぞれが客観対象になっていきます。沫那芸の神 ク - 水分の神 ソ - 国の水分の神 セの出てくる、出していく主体側の活動である、ク-ソ、では無く、沫那芸の神 ク - 国の水分の神 セ の組合せで、く-せ、となり、性癖が出てきます。

一方、口(クチ)から食事として組み込まれたものが、素(ソ)となって出てくるところでもあり、これらの組合せによって、でてきたものを「くそ」としたのでしょう。

一旦くそが成立すれば、その後の関連事項は簡単に拡がるでしょう。なにしろ毎日のことですから、「くそ」の成立がまずあったことでしょう。

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組む素、クソ、という精神行為をしていくと、『(3) 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。 (4) 次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。』 が成りでてきます。ハニは粘土板です。板一葉一葉に一語を書き込んで五十枚ありました。

この五十枚(要素)をいじっている(組む)と、くそから「はにやす」が産まれる、ということです。どういうことでしょうか。わたしが、あなたが、いじくっている内に産まれてきて、ハニヤスになるということです。

主体側はたぐり寄せるから組むへの、意識になっています。手元にたぐり寄せ物が集まるとそれを整理しなくてはなりません。自然な成り行きです。そして整理の前に行なうことは、傷がないか、壊れていないか、取っておくか捨てるか、一つ一つの吟味になるでしょう。

それを、安らか(ヤス)である材料(ハニ)を採用することになる(神になる)、ハニヤスの神と表現しています。

こうして完璧な材料が選択されました。この場合も精神において使用運用に耐えるこころの材料ができたということで、音側の要素を組むのがを毘古、体側の要素を組むのが毘売で示されています。

組んでいく精神意識、心の創造する意識がでてきます。

これとこれは大丈夫と使える材料が選択選別され、そこに自分を任せられる安心感を得ることが出てきます。これが次の段階の心持ちです。つまり、原則を決めてその元に自分を任しそれに寄り添い尽き従う元を形成して大雑把な格好をつけることになります。

これが精神活動、言語活動、こころの動きの方面から見られます。

『 次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は、 (5) 弥都波能売(みつはのめ)の神。

(6) 次に和久産巣日(わくむすび)の神。』

ユマリは、イ・ヰ・ウまり、イとウが詰まってユとなっています。ですので本来の姿を「イ埋まり」として、それを解釈することになります。イは五でもありますから、五埋まりで、母音行全体でもあります。

ゆまりするという主体側行為はちょっとはっきりしません。小便をする意識としてもどういうものか明確ではありません。ゆまりがイ埋まり、五埋まり、になるのは既に述べましたが、これは教科書の丸写しで自分で確認心証が取れていません。

そこで、集まった材料が使えるという確証までは得ましたので、その確証から出発しないといけないようなので、そこを延長してみました。

確証を得ることは、自分に自分がはっきりすることです。得られた材料の一つ一つがはっきりすることは、それらを総体的に見ている総元締めの意識があるということです。普通にいえば原理原則です。

原理原則が自分に示されれば、それに適合しないものは、自動的に排除され別枠が用意されていきます。こいつは使えると選べば、あいつは使えないということが自動的にでてきて、両者それぞれの行き先が探されます。

ゆまりは五埋まりで、母音で示せばアイウエオのことですが、自分にはっきりしたものとは、自分が動いている生きている、動かされている生かされている創造意思の意識を持っていることです。眠たがろうがだらだらしようが、自分をそういう風に存在させる権威的な命令意思の下にある意識です。

これが五埋まりの五の実体内容であり、良く見ると五であるアイウエオはそれぞれが、生きる意志の息のかかった意気の現れとしてあるのが分かります。

そこで五埋まりは、イ埋まりと同義となりました。それをゆまりという表現にしたのです。

安万侶さんの冗談は人間生命に根ざす根本的なこじつけですから、笑うどころではありません。

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3-3。≪【 アからメに】 。➂【 め 】 【 あ・あめつち 】の詳細。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

安万侶さんの冗談は人間生命に根ざす根本的なこじつけですから、笑うどころではありません。

すると、イ・埋まりで、イが一番下に来て縁の下に埋まり隠れ、見えない縁の下の力持ちに成ります。他は埋めることができず、別枠扱いとなり、別枠が用意されます。

ついで、「成りませる神の名は」ですから、それでも自分にはっきりしていることは何かと探すと、自分が造り出し自分が持っているものとしての、感情です。感情は誰のものでも無く良いも悪いも本人のものです。

知識だとか智恵だとか概念だとかは、自分のものという形をとるだけで、当てにならず、誰のものだか分かりません。五感感覚もあったのか無かったのか自分でも分からないことがあり、感覚器官の働きに左右されます。

するとイの原則を埋め込んで縁の下に置き、感情の次元を残り四段中に配当しなければなりません。上から、(〇〇〇〇)・イの形になります。学校で習うのはアイウエオですが、この配列とは違う音図があるということになります。

イの原則創造意志を下に置き、感情の次元がうまく置ければ、残るは欲望、知識、選択、の三つの次元です。 それが弥都波(みつは、三つのは、)で欲望次元、知識次元、選択次元の三つのことになります。

ところで、今わたしの問題は、尿(ゆまり)の意識行為から感情次元の落着く先が必然的に出てくるのかということです。

常識的な意識では、感情は、高いところ、頭の上、全体的に見渡す、あーーという発音、神々しさ、全部わたしのもの、全部あっちのもの、始め、等の意識となります。

イの創造意志の世界は動き働きに直結したこころの基盤となっていますが、その対極に感情があります。神々しい感情、有り難い感情、悲しみ、等は、意志による行動を導くどころかそこに留まり脱抜け出そうとしない心持ちを作ります。これが宗教感情になると顕著に、自分の感情の内に留まることが自己目的となります。

ですので、宗教者には行動への意志が少なく、宗教感情に閉じこもることがいつも優先しています。たまに行動的な人が出ると、そのまま聖人とさえなってしまいます。道徳家政治家などから見ていくと、アレアレアレっという感じではないでしょうか。

ということで、ユマリ、イ埋まり、五埋まりを実行していくと、イの対極である上段に感情次元がきます。感情は最も意志の言うことを聞かないやっかい者になります。この感情次元をアとしますが、この詳細は後のことにして、中間にエウオの、弥都波能売(みつ・はの・め)三つの葉(言霊、言葉)の芽ができます。

これは原理原則上のことで、大雑把ではありますが、はっきりと次元の違いが芽の形に出てきており、その一つ一つを見れば緻密(みつ)に凝縮されていて、後に、おおきく開いていく葉となるものです。

イとアの位置が決まればそれ以外三つはその位置からはみ出します。

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(6) 次に和久産巣日(わくむすび)の神。「天津菅麻音図」。

(7) この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。

あめつちのア・メは、 (6) 次に和久産巣日(わくむすび)の神、「天津菅麻音図」、が出てくるまで完成しません。一応ア・メ・ツ・チと区切っていますが、その区切りの中でのことであると同時に、常に全体がアメツチであり、アそのものがアメツチであるという循環をしています。

非常にややこしくそれが反映されてややこしい文章となっています。もちろんそれしかできないわたしがまだ駄目であることに変りはありません。

アメツチの説明にいろんなところから原文を引用していますが、これは、古事記の言霊循環は完璧である証拠で、どこのどこを取ってどこを説明しようとどこでも説明できる構造になっているからです。

世界神話との相違を持ちだしたり、地名を探したり、農耕産業を持ってきたり、人の意識を持ちだしたり、自然の形態を押しつけたり、そういったアイデア勝負みたいなことは一切しなくてもいいのです。ただ言霊の方面からのみ一貫した道が開けています。

主体の精神内に原則が立ち、下にイの次元が来て、上にアの次元、そして同時に別枠の判別もできるようになりました。

続いて残りを埋め詳細を決めに行こうとするでしょう。

(6) 次に和久産巣日(わくむすび)の神、「天津菅麻音図」、の出番です。

アメツチのアと一言言う時、アがアであること、アが他とは違いアの定位置にあることがなければ、アと言えないことを示します。これは全てに同じ原則が当てはまります。

ユマリにおいて原則が打ち立てられ、同時に別枠がでてきました。当初は五十音あるうちのアイウエオの母音行とそれに対応する半母音行、それもイ、アだけが、できました。五埋まりなのに五に達しません。

この段階は良く分かりませんが、五埋まりを一つの全対すると用意された五十の要素から五の母音側とその他とを分けることにもなります。

またイ埋まりを一つの全体とすると、イ段全体と他とを分けることにもなります。この両者を埋めると五十音図の両枠とイ段が埋まり、その他が残ります。

これに感情のア次元を追加しても、上下だけ埋まっただけで残りの配置は不明です。不明ですが三つはの芽としてならそこに当てはめられるでしょう。

(6) 次に和久産巣日(わくむすび)の神。和久(わく)は枠、湧く、沸く、等が五埋まりと関連づけられるでしょう。

弥都波能売(みつはのめ)の神が、イ段、ア段、母音行の全体として大雑把な形を現し、残りが納まるべく納まる場所が位置づけられました。今度は今までの手持ちである五十音全部を配置してしまうことです。

和久産巣日(わくむすび)の神は、全枠結びの神、とした方がいいかもしれません。ここで全枠が決定したら、直ちに出走できる準備(縦五列の横十列)ができたということになります。どこのどんな言葉を持ち込もうとそれぞれの枠位置がありますから、そこからの判断が可能となるでしょう。

(大祓詞に出てくる「天津菅麻 を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて 」というのは、形成された音図の両側母音行半母音行(本、末)を切り離して、中央の八列をバラバラにするという逆のことをします。)

結局、イを埋めていき、五を埋めていくと、自然にイと他との関係がでてきて、原則と原則に合わないもの、同一差異、原則との遠近近親、程度、が定まっていきます。要するにそれらの神(心の動き)が成りませる、ということになりませる。

こうして五十個の要素はそれぞれの位置を獲得し、どの角度からどのような言葉が発せられようと全てに対応できる基礎が出来たことになります。

アの芽の誕生です。

これは精神意識、心内に出来た、イザナミ世界の反映です。紙に五十音図を描いたのではありません。主体精神機能内に、こころの内に機能する五十音図が出来たということです。精神内の出来ごとです。

精神内の五十音図など誰も見ることは出来ません。脳髄を割ったところで見つかりません。しかし、アでも、イでも、一言意味のある言葉を発するやいなや、それは脳内の五十音図からでてきたものとしなければ都合がつきません。

ところがここに当たり前だけどやっかいなことがあります。五十音図は出来ましたが、それ自体は何にも動かず動けず、役立たずなのです。金槌、とんかち、ネジ回しはあっても、相手がなければどうしようもありません。立派なプールは出来ても、泳ぐ人が来ないようなものです。

そこで、古事記はいいます。

(7) この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。

この神(出来あがったプール、トンカチ、)の子が必要だということになります。子というのは現象となる要素で、主体側が働く場所、働きかける相手でもあります。

プールやトンカチがそれであるには、自らの働きを示す、働きかける相手があってこそです。それを古事記は、この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ、といっています。

相手側のことですから、たぐりに、組素に、ゆまりに、「成りませる」とは言えません。主体行為によって成りませるのではなく、向こう側に勝手にあるものなのです。

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4-1。≪【 メからツに】 。➂【 つ 】 【 あ・あめつち 】の詳細。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

(7) この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。』

-----引用。------------

「 普通は外宮から行くのが本当です。内宮からが順序かと思われておりますが、一般的には外宮から行きます。何故かと申しますと外宮の豊宇気毘売の豊(トヨ)は十四ということですが、先天構造を表します。宇気(ウケ)は食器です。先天構造によってこの世の中に生産されてくる精神的な一切のもの、これを先ず外宮で受け取る。

「それでさっき申しました天津菅麻音図という大雑把な入物でもってそれを選別して、その次にミクビタナに並べる。そうすると内宮の天照大神がその並べたものを自由に操作して、世界の文明を縦貫に創造してまいります。」

「古事記の子とか孫と申しますのはその内容を言い表しています。神様に孫や子どもはおりません。今ここに生きておりますものですから。」

「豊宇気比売の神…外宮の神様です。どうして外宮の神様に豊宇気比売が出てくるかと申しますとですね、ここにありますように、この神様は菅麻音図の性能を持っている神様ですから、精密な言霊の選り分けはできないけれど、初期の大雑把な判別はできる神様ですから。」

「その御倉板挙に、豊宇気比売の神が大雑把ではあるけれども、多くの世界人類から集まってきた食べ物を、大雑把に区分けして、次元ごとに配分していく役目として、下宮にお祀りしてあるわけでございます。」

---------引用ここまで。------------

和久産巣日(わくむすび)の子、豊宇気毘売(とようけひめ)は相手側のことですから、たぐりに、組素に、ゆまりに、「成りませる」とは言えません。主体行為によって成りませるのではなく、向こう側に勝手にあるものなのです。

ここで、この向こう側に勝手にあるものをそのまま客体として、自分のこころの外にあるものとすると、単なる物理条件に従う物体となります。その物体は相互に作用反作用をしていますが、精神とは独立したものです。

古事記がここで言う、豊宇気毘売(とようけひめ)は、主体の心に反照取り入れられたものです。物質を対象とするのでも無く、物体を動かしたり整理したりするものではありません。客観世界は人にどのように与えられるかという場合にも、個々のものを指すのではありません。

豊宇気毘売(とようけひめ)は和久産巣日(わくむすび)に対応しているもので、和久産巣日(わくむすび)が要素の配置を終えたものとしても、その使い勝手を心得たものとはなっていないものだからです。

和久産巣日は五段の母音行、イとアの世界の位置という大まかなまとまりを決めることは出来ますが、細部には至りません。その性質がそのまま豊宇気毘売に対応します。つまり、豊(十四)での、つまり両側母音行とイ段の動きには、宇気(受け皿、食べ物)として機能できます。

例えばテレビを見たいと思ってオンにする時、実際には瞬時に一過程が行為されていますが、その内実を見ていくと、テレビを見たいと思ってもそのテレビがあるかないかの判断をしなければならず、リモコンの多くのボタンからオンのボタンを選択しなければなりません。その過程を一つ一つ見ていくと全世界を解明するくらい複雑です。

そこの場面で原理原則的に主客に対応しているのが、豊、十四、という人間性能なのです。それは人の心に現れる時の人間の先天構造で、客観物が人間に対応する時の先天実在です。

この両者が噛み合って始めて、テレビが見られ、食事ができるというものです。

この間の事情を、あめつち、アの芽が地に着く、アの芽が着いて地と一体となる、で見ていくと、大体の感じを掴めたでしょうか。

古事記は豊宇気毘売(とようけひめ)から、二つの方向を示しています。 一つは、

『 かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。』で、もう一つは、

『すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、

天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、

言依(ことよ)さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。』 です。

まず後者の御倉板挙(みくらたな)の説明。以下引用。

御頸玉(みくびたま)とは頸に巻いた玉の事、その玉を糸で繋いだロザリーであります。また頸(くび)とは組(く)む霊(ひ)の意でもあります。言霊の事を霊と呼びます。言霊を組む事によって大和言葉が生まれます。御頸玉とは三種の神器の一つ、八坂(やさか)の勾珠(まがたま)と同様のものであります。「もゆら」とは辞書に「玉がゆれ動き、触れ合って鳴る音」とあります。そのロザリーを天照らす大御神に与えました。という事は言霊の原理を天照らす大御神に与えた事になります。そして伊耶那岐の命は天照らす大御神に「汝が命は高天原を治めなさい」と命令し、委任したのでした。高天原とは前にもお話いたしました如く、五十音言霊麻邇によって結界された清浄無垢な精神の領域の事を謂います。

かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。

御倉板挙とは御厨(みくりや)の棚(たな)の意です。天照らす大御神の知しめす食物といえば言霊のことです。それを並べておく棚という事で五十音言霊図の事であります。天照らす大御神が父神、伊耶那岐の命から授かった御頸珠とは五十音言霊図、またはその原理だ、という事となります。

御倉板挙・ミクラタナ

「ワク」ですから。ちょうど伊勢神宮では、昔は世界中の文化を集めて、伊勢の内宮において天照大御神がその世界中の文化を神様の食べるご馳走として料理して、それでその料理の中から世界文明を創っていく。

それが天照大御神の仕事ですから、その仕事をするのに、御倉板挙(ミクラタナ)と申しまして、天照大御神の食べ物を並べるところ。天照大御神が言霊によって世界中の文化を材料として食べて、どの文化も傷つけたりすることなく、そのいいところは全部とって、それで世界人類の文明を創っていく。その心の食べ物を並べるところを御倉板挙と申します。

その御倉板挙に、豊宇気比売の神が大雑把ではあるけれども、多くの世界人類から集まってきた食べ物を、大雑把に区分けして、次元ごとに配分していく役目として、下宮にお祀りしてあるわけでございます。外宮でそういうように大雑把に選り分けたものから、天照大御神がその材料を応用して世界文明を創っていくという順序になるわけでございます。

------引用ここまで。----------

豊宇気毘売は自らが御倉板挙(ミクラタナ)に乗せられなければ、何でもありません。水の入っていないプール、人の泳げないプール、皿に盛らないカレーライス、ジョッキに注がず、直にテーブルに生ビールを注ぐみたいなものとなります。

これらは実際にあることで、動物ならば普通に土の上で食べています。赤ちゃん子供も同じようなことをしますし、成人にも起きます。古事記で言うのは食事のことではありません。人の性能が働く上での暗喩となっているものです。

知識という性能次元ならば、御倉板挙は知識を現す物象となっていなければなりません。水面に文字を書いて知識を伝えることは出来ず、読めない外国語を紙に書いても主体側の知識性能は働きません。

ですので豊宇気毘売(とようけひめ)の段階では、個々の内容を判定する段までは到達できないが、人の性能次元で、それは食べるものか、見るものか聞くものか、考えるものか、選択するものか、といった次元の判別まではできることになります。

人の話はややこしくなりがちで、感情を書いたり話したりしているのにその中の言葉をとり出し、知的な分類分析を持ち込むと新たな知的な対立が出てきます。最初から感情を語っている一貫として聞き流していけばいいのですが、勝手に言葉を取り出すと混乱の種が産まれます。

豊宇気毘売さんはそれらのこんがらがった全体を差し出しますが、判定はしません。またできるはずもないのですが、人の意識は簡単にこの一線を越えますので、いたる所どこでもが、主張のるつぼとなっていきます。そうなる以前にことの判定をする以前の全体的な次元内容の提示が、豊宇気毘売によってなされ、次の意識段階へともっていかれるのです。伊勢の外宮から内宮の御鏡に至る道筋が言霊百神として、古事記の冒頭に述べられているというわけです。

では、伊耶那美の神避(かむさ)りの真意を探ってみましょう。

神避(かむさ)りは進物を取り上げるか取り上げないかということで、心に受け入れずに、物理世界のものとして扱う場合のことを指します。死んでしまうこととはまるで関係ないことです。

「神避り」を「葬り去る」として、墓所の所在地を探しているのから、「尸解(しか)」不死の存在のはじめ、にするのまでいろいろあります。不死を設定するなどは神話に神話を持ち込むみたいなものです。神の身の上に起きたことで、死ぬことが暗示されているらしいというまともな見解もありますが、全て後世の解釈で古事記のフトマニ言霊上の古代大和の聖人達の言うこととは違います。

神避(かむさ)りは、自分のここに何かがあって、それに対する心=神が無くなり去れば、残るのは、物体、物象、概念、客体、現象、というこです。

精神、心にものごとを乗せないで、客観枠内にあるもののことです。それは決して死んだのではなく物象、物理現象としてあります。また記憶概念とその存在の大きさをも示します。また、逆に物理物象として破壊され死に無くなっても、知識、記憶、概念、記念、等として不死にもなるものです。

続く。

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4-2。≪【 メからツに】 。➂【 つ 】 【 あ・あめつち 】の詳細。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

神避(かむさ)りに関する引用。

「 かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに因りて、遂に神避りたまひき。

伊耶那美の神は火の夜芸速男(やぎはやお)の神(言霊ン)という火の神を生んだので御陰(みほと)が火傷(やけど)し、病気となり、終になくなられた、という事です。これを言霊学の教科書という精神上の事から物語るとどういう事になるでしょうか。伊耶那岐・美二神の共同作業で三十二の子音言霊が生まれ、それを神代表音文字に表わしました。ここで伊耶那美の神の仕事は一応終ったことになります。そこで美の神は高天原という精神界のドラマの役をやり終えて一先ず幕の影へ姿を隠してしまう事になった、という訳であります。

「神避(かむさ)る」と言いますと、現代では単に「死ぬ」と言う事に受け取ります。古神道言霊学では決して「死」を説きません。「霊魂不滅」などと言って人の生命は永遠だ、と説く宗教もありますが、言霊学は霊魂などという極めて曖昧な意味で不死を説くわけではありません。この事は他の機会に譲りまして、では伊耶那美の神が神避ったという事は実際にどういう事であるのか、について一言申し上げます。

三十二子音の創生と神代表音文字の作製によって伊耶那美の神の分担の仕事は終りました。五十音言霊で構成された高天原精神界から退場することとなります。そして伊耶那美の神は本来の自身の責任領域である客観世界(予母都国(よもつくに))の主宰神となり、物事を自分の外(そと)に見る客観的な物質科学文明の創造の世界へ帰って行ったのであります。この時より後は、五十音言霊の整理と活用の方法の検討の仕事は伊耶那岐の神のみによって行なわれることとなります。」

-------引用ここまで。-----------------

古事記の神代の巻きは、こころの原理とその運用に関する暗喩と納得してしまえば、後はそれに従うだけです。いろいろとへんてこな名前の神さんや、奇怪な行為や名称が出てきても、全てこころの説明になっているものです。心は自分のもので自分のことですから、なんの知識も知識も要らず、金を払って勉強獲得するものもありません。ただ毎日の平凡な日常のことを見ていけばいいだけのことです。山にこもったり、滝行をしたり、偉い先生、坊主、牧師、学者に付くことも、返って余計な間違った千年前の概念に縛られるだけのことです。

学者などはアイデアを出すだけの気楽な商売ですから、自分を見つめることはからきし駄目です。坊主牧師も神体験をし空を悟っても、そこから一歩も出ることを知らないので何の役にも立ちません。ブログ記事やサイト上の情報は、考え思い感想決めつけ信条の、勝手気まま発表をするというだけのものですから、そのまんまを素直な真実と思い込んでいるだけのものです。

こういった事柄意見の総体が歴史文化を築いてきましたから、否定することは一切ないのですが、当面は一切係わらないという態度は必要でしょう。あるいは神代の巻きを生命するのにちょうど良い材料になるなら取り上げ、そのよって立つところを明かして限界を示して無罪放免すればいいでしょう。

御倉板挙(ミクラタナ)に並べられるのはこういった材料も含まれます。今後は政治経済、軍事覇権戦略行政上のこんがらがった問題が頻繁に噴出してきますから、今までのように原理原則だけ研究していればいいというわけにもいかないでしょう。

フトマニ言霊学には必要な材料は自分だけで充分です。何も要らないしそこから見ていけば、いままでの千年以上の解明の努力は、全て机上の空論と言えます。これを歴史に応用して、今までの政治経済軍事上の努力は現実の虚しい努力の結果であると思えることもあります。何時まで経っても終わらない戦争と国とりも、自然との調和社会で生きていた時にはなかったことです。

日本の領土問題もほんの最近始まったもので、孤島、岩礁などは、昔からのアホウドリの休息地に戻せばいいだけのことです。なぜなら現代の机上の空論からする吹っ掛け論議は、元に戻した原則にしてしまえば、誰のものでもなく、いわば海そのもののものです。あほうどりのものであり、オットセイ、海亀のものです。

確かに魚類動物類を捕獲し絶滅を目指し百獣の王たる人間を示すことに成功しました。しかしその結果から得た教訓は自然に戻れでした。

日本の国なんて言う小さい単位から出発していくから先が見えないのです。古事記は人間のこころの動きの原理です。全世界の人間の原理です。それを知っている大和が、日本だ日本だと縮こまって主張するものなど何もないのです。古代において大和が世界の中心であったように、現代は日本が世界の中心になっていきます。中心というのは世界の運用の中心ですから、武力において覇権を握る必要はありません。国連のように個々の国を安定化するのではなく、大和日本の叡智で世界を統一するのです。それにはフトマニ思想によるしかありません。

それはフトマニ言霊思想の理解者が増えればそうなるというものでもありません。日本全体が脱皮変態を遂げなければなりません。岩戸を開けることですが、天の手力男によって天照らすは引きずり出されて出てきます。手力はタ・チカラ、田の力、つまり五十音図の力道、言霊学の用語では父韻の自覚によるということです。

われわれの精神意識の変革がなんらかの要因で真の人間意識が出てくるのです。その内実は父韻の自覚ですが、現状では各人一人一人が自分は天照すという意識がないし、それだけの精神材料はまだ提供(皇室の賢所に秘されたままです。)されていませんので、とうてい大和日本による世界指導の時期ではないでしょう。

2012年の次元上昇などととらないでください。人間には五次元しかないので、それ以上のことは死んでからのことでしょう。そんなものは、人間主体側には用のないものです。人間には父韻があると発表になったときから、世界が脱皮変態していきます。発表といっても公表されもしないし公表されても理解もされないものです。種を蒔く当人のスメラミコトが存在しないからです。敗戦後スメラミコトの皇位は空位となっています。

皇位がどうであれその実体は田(五十音図)ですから、その理解運用者による世界朝廷ができるかどうかです。

歴史的には現代はこういった、アの芽が地に付こうとする時なのです。

発表されたとして、そのインパクトの伝わり方をちょっと見てみましょう。

これらは知的な関心を引くものですから知識次元の動きになります。

・ 発表されても自分の本性が天照るであり、五十音図であることの自覚はありませんし、真実の元種が自分であることを知りません。そういったところに、古事記とはこころの原理運用で、田である言霊五十音図を解明するものであるという命題が提出されました。

・ そこで知識次元で受け取れば当然疑問が起きます。その疑問の感じ方により、疑問への関心度も違い、自分のものとする近親感所有感もちがいます。それぞれに応じて関心事を心の中心にかき寄せます。

・ それは自分の心の内に対象化され、その疑問をいままで蓄積された経験や知識全体に照合します。新しく入ってきた知識は、自己内での既存のものとの対比でしか照合できません。したがってそれなりの相対的な限界の中にあるのですが、既得の自己との総力戦になります。

・ そこで新しい知識なり疑問は今までの整列秩序を崩すことなく整理統合され、いずれかの方向へ止揚されていきます。ここでは知的な関心を扱っていますから、その止揚の方向は理論、論理という形を目指します。

・ 目指された方向にある理論は現象として表現されなくてはなりませんから、そこで自分に納得できる言葉の構築が起こります。

・ 言葉による組み立ては一つ一つが自分の主体側の行為ですので、自分との整合性が優先していきます。これはその人の心の内での整合性でしかないのですが、前提として自己との総力戦の後に出てくるので、自分の心には正しいもの、正しい理論、という確信が加わっていきます。

・ こうして自分を縛る理論ができれば、それが口実名目となり、その名において行動することとなります。知識理論関係の一切の発表の形態の行動の名目が立つ事になります。

・ ひとたび名目が立てば後は行動するだけです。賛否も文句も同意も、自分が(飾り)立つように行動(発表、主張、お披露目)されていきます。

・ こうして次の事態へと発展していきます。発展していくといえば聞き応えはいいですが、その内実は、不安と迷いです。

・ というのも、自分の知っている範囲内、守備領域内に新しい疑問を持ち込んでいますので、それ自体で完結した体系を造ったのではなく、異なった新知識の安定した位置づけが、自己の既存の経験内との統合止揚という形をとっているからです。異質な進入した知識の居場所が後付けされてしまったためです。

・ こうして不安と迷いを秘めたまま結論を主張していながら、その結論が次の疑問の始まりとなってしまい、この循環が続く事になってしまいます。

このように知識は受け入れられていきますが、この意識の運動は今までの経過を延長するだけの事です。あれやこれやの解釈が順番に出ては消えていく事と同じです。要するに、アの芽が発表されても何にもならないのです。

そこで今後の世界の為に発表される事は、別の事態の元で起こる事になります。

それは何だか、どんなものだかは知りませんし言えません。

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4-3。≪【 メからツに】 。④【 つ 】 【 あ・あめつち 】の詳細。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

こうして、アの芽が地に着く準備が整っていいきます。主体側に行動判断規範ができ、判断相手が集まってきます。今度は集まったものを、判断主催者(最終的には天照す、ヤタノ鏡、自分)の目前に並べて吟味材料を整理提供していきます。

古事記は全準備が整った時、ここに、

『 この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、

「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」

と詔りたまひて、すなはちその御頸珠(みくびたま)の玉(たま)の緒ももゆらに取りゆらかして、

天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ」と、

言依(ことよ)さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。』

と言って、判断を天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく場面があります。

天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、というのは自分の判断規範に相談してみなさいということですが、天照らす大御神の判断規範は完全であって、今まで歴史文化を創造してきた思い付きのわれわれの所持しているものとはちがいます。

われわれはパーフェクトな規範を持ち合わせていませんから、現実を見れば分かる通り、弱肉強食、戦争と強奪、自己防御、無力な拝み、の世界を造っています。

そんなわれわれでも、各人は天照すである、と知らせようとばらまいて置いたのが宗教のいろんな形ですが、宗教は知らせ気付かせる以外の何の力も持っていませんから、模範的な規範となってその適用には無力です。

現実には宗教的な気付きさえ稀なことですので、せいぜい、頼り、祈る、願う方法で各人は天照らすと同じなんだということを知らせています。そんな状態で、御頸珠が御倉板挙(みくらたな)に提供されるわけです。

形は宗教でなくとも、福祉活動や、言論の自由を主張すること、ブログを書くことなども、一般的正当な規範をもとめる心が底に隠されているもので、崇拝する神という名に取って代わるものです。

ただ宗教とか悟りとかは気付きまでしか到達しません。その後を神に委ねてしまい、せっかく気付いた神とは自分だということを隠します。見神、悟り、気付き等に撞着を起こし自らの関心事にしてしまうからです。その為に修業とか自己研磨とかが後に続かざるを得ず、無言の神の強制を感じているとしてしまいます。結局目標が常に自分の外に、神側に、出来てきてそれを追求していくのが生命の要求であると思うようになります。

こういった宗教の態度では、自己修業以外に産むものはなく、社会生産文化創造政治経済行政からは切り離されます。さらに、到達できない自己改造を目標としてばらまいていますから、いくら経っても未来の獲得目標というだけのものになっています。

ここまでの精神次元は誰でもが手に届く範囲にありますが、フトマニ言霊学はここからが出発点です。宗教の一つ二つをマスターしておくのが最低条件です。( と、口八丁手八丁で馬鹿の一つ覚えのようなことを書いています。宗教が無力であるのは当然だと分かりましたから、それを越えなくてはなりません。)

こういった未熟な御頸珠を、御倉板挙(みくらたな)に並べていくわけです。

そんなことなら昔からいくらでもできるだろうと、意識上の操作の問題にすることも可能です。ところがどこの大哲学者も大宗教家もやった人がいません。せいぜい個人の体系を作り上げただけです。

古神道の思想以外でそのようなことをする思想も思想家もありません。古神道にのみ引き継がれていますが、神道関係者は神道の内容を一切知りませんから、形だけを引き継いでいるわけです。それでも現代、世界からトータルに見ていけば、未熟な御頸珠を、御倉板挙(みくらたな)に並べる時期が、どの関係者にも感じられています。

後は自らが豊宇気毘売の豊(トヨ、十四)の一部分でしかないことを、自己反省すればよいのですが、宗教家たちはそれなりに世界の健全な知性の頂点に立っている積りでいますから、自己反省とか自己批判とかは容易なことではないでしょう。それでも将来において宗教は全消滅し、精神世界の霊位とか宇宙次元とかいう連中は全て淘汰されていきます。

それは人間精神世界での脱皮が突如、スメラミコトによって宣命されるからです。

今回は口先だけの文言が並んでしまいました。典型的な青二才になってしまいました。すみません。

わたし以上の意志を持っている方なら気にされないことと思います。

それでも不快を得たのなら、どうぞわたしを指導くださいませ。

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5-1。≪【 チからアメツチに】 。➄【 ち 】 【 あ・あめつち 】の詳細。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

前回は『かれその御頸珠(みくびたま)の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ。』を大雑把な世界宗教の次元を一言で片づけた感じでしたので、法螺のように聞こえていたかもしれません。現実の日常の今ここでの事にしても原理は同じですから、例を挙げてわざわざ繰り返すこともないのですが、何故かもっと具体的に日常を取り上げてみようと思うようになりました。

なにしろお伊勢さんの半分を受け持っているのですから、書けば書くほど何らかの発見があります。

この半分というのを食物穀物神と解して来たのが今もつづいています。しかしこの解釈では伊勢神宮の内外宮のフトマニ言霊の意味がでてきません。御鏡とは心の大本を象徴したものですから。珍しいものや武力の象徴を拝むといった現代と共通した遅れた感覚で古代は捕えられません。

鏡を見る時のことなら、鏡を見ようとする主体側と、見られる客体側があり、そこに客体の像と客体そのものがあるように、自分の心の動きがそこにあると思う時、自分の動いていく心と、その心が向かう相手とがあります。そして相手はそのままそこにあるものと、反映したものとがあります。

男女関係でも思想問題でもいいですが、心の働きの霊側と心の働きの体側があります。自分の心はこの両方がそろわないと中途半端です。そして体側は自分の実在に則した客体側の過程の内にあります。

豊宇気も御頸珠の名を御倉板挙(みくらたな)の神も、和久産巣日の子として体側を受け持っています。物象となって現れる側です。神代の巻きは客観物理現象そのものの研究ではありませんが、客観現象が心に乗る全過程の記述です。

心の霊側があるということは直ちに、その体側での表現があり、体側は物象で示されますから、物象の移動作用反作用生成消滅、材料として用意される等の物理現象を呈します。

この物現象が豊宇気を通して、和久産巣日に乗り移ったのが主体側の心となっていきます。ですので心にはもともと体側要素と霊側要素の統一があるのです。

「次に和久産巣日(わくむすび)の神、この神の子は豊宇気毘売」というとき、豊宇気が和久産巣日に写るわけですが、鏡である和久産巣日が鏡の条件を得ていなくてはなりません。それは同様に写る側の豊宇気も写るだけの条件を整えていることになります。そこで豊宇気の物象側を見ていくと、自らがかくかくの条件下に並べられている、用意されているということがわかり、そのならべられた所を棚、御倉板挙(みくらたな)といいます。

棚に材料が準備され、その霊的内容が豊宇気で取捨され、和久産巣日に渡されて、和久産巣日は全面的に棚、御倉板挙(みくらたな)、の内容を写し取ることになります。これはあくまで心に直接与えられる主体側の運動として見ていきますから、ここで準備された材料そのものをどうこうするのではありません。

物質側は物質側としてそれ自身の生成発展消滅によって運動していきます。これを客観的に扱うのが科学思想です。科学思想は一切の主体側の心を忌嫌いますので、主体側もそれに応じた態度を取らねばなりません。つまり、

『 かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。』

ということになります。

精神主体側にとっては、イザナギと二人で産んだ現象のうち、これからは精神世界側に係わっていくので、伊耶那美系統の物質側客体側はもう手を付けないということです。

これは伊耶那美にすれば、「本来の自身の責任領域である客観世界(予母都国(よもつくに))の主宰神となり、物事を自分の外(そと)に見る客観的な物質科学文明の創造の世界へ帰って行ったのであります。この時より後は、五十音言霊の整理と活用の方法の検討の仕事は伊耶那岐の神のみによって行なわれることとなります。」

こうして用意された材料は主体の心に受け取られます。天が地に着いたことになります。当然材料は材料側の起承転結発展消滅の物理過程に入ります。一方心にとり挙げられた側は主体精神意識の過程に入り心を形成していきます。

それぞれは別の道を進むのですが、ここで、主体の心の側に愛着執着所有欲の心が起こり物象側を掴んで離したくない心持ちがおきます。それが、予母都国(よもつくに)、黄泉国、の物語です。死者の国の話ではありませんが、ここではアメツチの話ですので、触れません。

主体主体、と言って主体の心と言っても、それ自体であるものでありません。頭で考えたこと感じたことをいろいろブログなどに書きます。それらは全て主体の感じ考えの表明ですが、良く見ると、単なる文字、画面の光点、空気振動、インクのしみでしかありません。頭の中で案を巡らしている時でも、それは言葉、概念で、自分の外に現すと、光、しみ、振動などになってしまいます。

このように主体の心の「ア」が地に付き、着いて地になると、物質物体である地になるのです。主体の片割れであるイザナミは地として現象していきます。ですのでここに当然、自分で造った地に対して愛着も所有感も出てくるというわけです。

この世界に漬かるのが黄泉国に入ることで、われわれ今までの全歴史の在り方、普通の出来ごとです。それを、汚き(気田無き)こととして払い禊祓をしていくのが、これからの世の中です。歴史全体の見方としてはこうですが、個々日常の今ここ次元においても変りはありません。

蓮の花が泥水中に咲くといわれるように、この世の汚い世界で禊祓は行なわれなければなりません。滝行などで言い気持ちになったところで何にもなりません。

宗教のように神を求めよ拝めよといったり、人生は精神意志の問題だといったりしたところで、原則の奇麗事は蓮の一輪も咲かしたことはありません。

汚い泥水のなかに漬かることがヒントになっていると気付いた人は大勢いて、聖人とさえなっていますが、汚水を導く事に、仏陀、キリストを始め、誰も成功したことがありません。

心の世界でき出来ごとですから、2012年が来て寝ていても次元が上昇するというのとは違います。祈ったり、願かけたりしたところで、変化するものでもありません。悟ったり、神の御告げを聞いたり、神を見たりしたところで、世界が動くわけではありません。もうそんな時代は過ぎ去っています。

現在世界の人々が持っている「ア」の芽が地に付こうとしているところです。それは世界単位のことで、誰でもが巻き込まれていることです。天の宇受売の関係していることは間違いないことですが、喋ったところで予言が当たった外れたといった次元のことになってしまい、詰まらないことですから止めておきます。神武天皇の五千年を見越した仕掛けをまず理解することの方が先です。

この二三日は話が逸れがちのようです。内容が出せないのはわたしの限界ということでしょうか。

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5-2。≪【 チからアメツチに】 。➄【 ち 】 【 あ・あめつち 】の詳細。≫。

古事記の冒頭、【 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、】を

「アの芽が地に着く、」又は、

「アの芽が着いて地となる、」

として、長々と続けてきました。一歩も古事記の思想(フトマニ言霊学)をはみ出さない様にしようとしてきましたが、よたよたで、脈絡を見失うことばかりでした。

今思えば何の理解もなく、思い付き、アイデア考えで勝手に説明と称して、古事記の百神の流れをあれこれ切り取り寄せ集めたせいでしょう。基礎が出来ていない成れの果てです。

フトマニ言霊学に世界を換えるインパクトを見いだすのはいいのですが、運用法を知らないのでは如何ともしがたいことです。

それでも書いているうちに、何か得ることはありますが、根本的な一線を越えることがないので、何の役にも立たない様です。

それでも一体何を理解してきているのか確かめておくのも無駄ではないでしょう。知っているところを原理として述べれば、要するに何を書こうとその範囲でしか分かっていないということですですから、わたしを判定してもらうには手っとり早いことです。

冒頭の句なれば、あめつちとは何か、を心の精神世界の拡がりのことで、お空の向こう側とこの世の地球のことではないと言って、古事記に従って百神の通りに語ればいいだけです。古事記という精神の原理がありますから、わたしであろうと誰であろうと真似ればいいだけです。真似方の違いだけが違いになります。

古事記を真似することしか無いといえば、そんな馬鹿な、味気なくなる、個性が無いなどと思う人もいます。ところが、テレビを見るのに誰もがスイッチをいれるという原則に誰もが馬鹿見たいに同じように従っているではないですか。

精神次元においてそんなことをいわれると縮こまり自我があるなどといいだすのです。自分はスイッチをいれないでテレビを見るのだというようなものです。それを主張とか意見とかわたしの見解とかいいます。古事記の原則を知らないから、あるいは知りたくないからそういった自我に固執していきます。

良く見ればスイッチを入れる入れ方に個性が出ているのに、入れるという原則に従いたくない為に様々な個性の在り方を見ないで、主張することを個性と勘違いしていきます。とはいってもこの世はそういった間違いで成り立っていますが。

誰もが古事記の原則に従って考えることなどあり得ない夢物語と思うことでしょう。しかし、それ以外の方法は無いということがもう既に、世界中で分かりかけてきているのです。

大いに真似ることです。

古事記を真似しましょう。フトマニに言霊学を学びましょう。

ふとまにを漢字で書くと、布斗麻邇、太占、ですが、字面に囚われてはなりません。

フト・マニは、二十真似、で、二十の言霊を真似るということです。

以下引用---------------

「太卜について古事記の訳註を見ると「古代の占法(せんぽう)は種々あるが、鹿の肩骨を焼いてヒビの入り方によって占(うらな)うのを重んじ、これは後に亀の甲を焼く事に変わった」と書いております。これは現代の国学者が古代の「太卜」(ふとまに)の意味を知らないがための誤解であります。

「ふとまに」とは漢字で布斗麻邇と書かれ、言霊原理の法則全般の事を表わした言葉であります。

「ふと」とは二十(ふと)の意。

「まに」とは麻邇(まに)即ち真名(まな)で、言霊のことであります。

「マニ」は世界語で、キリスト教でmanna(まな)、仏教で摩尼(まに)、ヒンズー教でマヌ、そして日本で麻邇(まに)と呼びます。

言霊は全部で五十個ありますが、五十音図でチキシヒの四列の陽音(濁点を付けられる音)二十個の言霊の一音々々の意義を理解し、自覚し得ますと、その人は五十音言霊原理の法則の一切を理解することから、言霊原理全体を代表するものとして布斗麻邇と呼びました。

即ち太卜(ふとまに)とはアイウエオ五十音言霊の原理・法則すべてを表わす言葉であります。

岐美の二神は高天原の言霊原理に帰って、その原点に立って再び活動を開始することとなります。占うとは裏である心と、表である言葉を縒(よ)り、綯(な)って、行くの意であります。言霊原理隠没後、太卜は訳註にあるが如く、鹿の肩骨を焼いたり、亀の甲を焼いたりする所謂占法のことと思われるようになりました。」

----------以上引用--------

古事記の神代の巻きは徹頭徹尾五十音図のことしか書いてありません。農耕だ稲だ自然信仰だなどといったブレは一切なく、心という五十音図のことだけが秘密の言葉で述べられています。神代の巻きは五千年以上も前に発見されたものを書き取っただけのものです。

当面は真似てみたいという思いは、知的に始まります。そこであれやこれやと自分なりの発見があり、なるほどとその凄さを認識していくことでしょう。そこまでは割と簡単に進みます。知的なやり繰りを自分の主張とすることは今までの精神の特技みたいなものでしたから。問題はそういったことを汚い(気田無い)ことと知って禊祓を成功させることにあります。

この禊祓の真似方を探しています。

今まで普通のことであった精神、心が汚いものだと知るのはいいのですが、そこから先がでてきません。

『 ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、

初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、

(37) 八十禍津日(やそまがつひ)の神。

(38) 次に大禍津日(おほまがつひ)の神。』

『 この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。』 『 次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、

(39) 神直毘(かむなほひ)の神。

(40) 次に大直毘(おほなほひ)の神。

(41) 次に伊豆能売(いずのめ)。』

この段落を良く見ますと、次の行為に入ると、神がでてきています。

わたしは汚い(気田無い)を禊祓すると少し前にいいましたが、何故そんなことが言えるのでしょうか。次の行為に入っていないのに、何故知っているようなことを言うのでしょうか。

それは聞き知った概念が蓄積されて記憶にあったからです。行動による実際の理解ではなく記憶概念でしかありません。いくら知識概念があったところで知識概念にしか対応できません。知識はあっても行動の出来ない人はいくらでもいます。そこでは「そこから先が出てこない」ということになります。

それでは、アメツチに関してはどういうことになるでしょうか。

アの芽がツく行為において成りませるチの神ということになります。(わたしが新しい名前を付けるとすれば、安土の神、アヅチ、アが付いてチになる、なんてどうでしょう。アの芽がツく行為において成りませる安土の神。)

では、チの神とはなんでしょう。

言霊 チの配当されているのは、宇比地邇(うひぢに)の神、です。

ウに比べて、地に近い、ウに比べて地は二次的なもの、で、ウとは自分わたし自身の宇宙世界で、まず第一の自分のこと、ついで自分の成したもの(地)は自分に比べて二番目に近いもの、ということになります。

アメツチ全体を通してなら、アという主体が成して表現されたものは第二の自分、とでもいいましょうか。わたしは行為する、そこで成るものはわたしのもの。わたしは考える、感じる、そこで成る考え、感じはわたしのもの、ということになります。

自分が欲しがるものは自分のものだ、自分が考えることは自分のものだ、空を見上げて自分の目の届く範囲、考えの及ぶ限りまでが自分の世界だ、、、アの芽が着いて地に成る、、、、あめつち、、、、、、古事記の冒頭。。。。。。。。

次回は、あめつち、の決定版がでそうです。

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5-3。≪●【 チからアメツチに】 。➄【 ち 】 【 あ・あめつち 】の詳細。≫。

アの芽が地に着かんとして成りませる神の名は天の安土(あめのあづち)の神。

わたしも始めて神さんを作ってみました。

これではあまりにも直接的で謎としては二千年持ちそうもありません。やはり、天地の初発の時高天原に成りませる神の名は天の御中主の神、でないと隠しおおせそうもありません。

しかしこれからは謎はみんな明かされる方向に向かうのですから、おおいにばれてもいいわけです。

アメツチは、結局、出エジプト記3:14で、「神モーセにいひ給ひける、われは有ありて在ある者なり。わたしはある。わたしはあるという者だ。」(“I AM THAT I AM”)と同じことを言っています。古代大和においてスメラミコトがモーゼに教えた通りが繰り返されたわけですが、スメラの意図は人間一人一人の心のことを言ったのに、スメラはあえてそれを「神」と表現するように命令したのです。

アの芽が着いて地になる、アの芽が着いてアになることで、心の先天後天で言えば、先天のアが後天の、後天現象のアになることです。

意識の動きで言えば、主体側の動く心が、行き着く先の客体側で了解されることで、五感感覚での了解次元で言えば、見る・聞く主体と、見られる・聞かれる客体との関係を付けることです。

I am の I は、神、先天、原動因、主体側、で、that I am の I は、人間、モーゼ、後天、受動因、客体側の、I です。

見る側の主体と見られる側の客体の関係のことで、 良く解説に出てくる無限を使いたければ、無限以上に前進し、無限以前に後退することは出来ないという心の無限(I am)という限界・有限(that I am)のことです。

アの心は幾らでも無限に拡がり、あるいは縮こまりますが、そこで得られる無限以上にはでられないという限界の中にあります。そのアの心の芽が地に着くということです。それを神と言い替えさせ、得た教えをユダヤ用に書いたのが聖書です。

先天の実体は各人の主体側の心であり、それを言霊アの全体性で示し、地について後天現象のワ(ア)となれば、アという主体が成して表現された第二の自分であるワ(ア)になることです。後天のワ(ア)は先天のアを似せたもの、フトマニ、二十真似、というわけです。

フトマニというのはこころ、意識による、物真似(ものまね)による創造のことです。

古事記はこの間の事情を百神を使って説明していきますが、スメラはモーゼにさわりだけを教えました。ということですので、モーゼ、および後世の解釈のように「神」を持ちだせば、概念の説明になってしまい、自分を忘れた、二千年来現在も続いている徒労となる論争になっていきます。

今後これから、実体をこころとすれば、誰にでも解決できる問題です。(そう簡単ではないですが。) これが受け入れられるに従って、キリスト教の神も神道の神も消滅していかざるをえません。これからは心のことが全面にでてきて神の出番が無くなるからです。

物質の世界、欲望の世界、知識の世界ではもうその準備が全世界的な規模でほぼ整っています。例えば、世界の自動車の生産台数は6500万台で、60億の世界人口ですから、運転できる人に一台づつ与えることが可能となっています。金を取って売るという神頼み生産で、返って神をないがしろにしてきたのでそのしっぺ返しを受けることが多くなりました。多くの出来ごと事件はそういった性格を持っています。世界中の人々のこころは神の代理や代理となる物象を求めています。最近では2012年という数字がその役割を果たしています。

しかし、神もその代換物象も、何の手足も持っていない達磨であることが感じられています。アの目を持った者がいないという絶望が蔓延していると同時に、アの目を持った者への希望も膨らんでいます。

残念ながら、原則的な感情の提示では何の足しにもならないのに、それさえも示すことを宗教者はしていません。もちろん宗教に係わる以上、未来の目標、基本要求としてしか提示できないのが宗教の道理だからです。

かといって、今までの唯物論者、科学者のように神がいるとかいないとかで言う無神論を持ちだすことではありませんから、神の死を宣伝することもありません。そんなことは後世の人々が選択していくことです。ただ、五千年以上前にそういった人間の意識が折り込まれて歴史が創造されていて、それを造ったその張本人がいるといっておけばいいでしょう。

それがスメラミコトであり、スメラミコトがフトマニ言霊学によって世界の歴史、文化、大和言葉を創造していきました。血統と共に維持されていたのは、理解できずわけの分からない外観形式です。

後は、アだ、アだ、アの芽だという「ア」の実体が示されればいいように思えます。

以上のように、あめつち、はこころの出来ごとです。安万侶さんが借りてきた漢語の「天地・てんち」を使用した為に、とんだ眼にあっているというわけです。

知的には言霊学を学ぶ以外の人たちのこころは未だに閉じたままです。言霊という言葉は知っていても、言霊学には全然手を出しません。そして何よりもスメラミコトの現在の子孫達が何にも関心を示していないことがありそうです。皇室の新世代達に世界朝廷の主宰者たる係わりが見えません。

幸いなことに、フトマニ言霊学、スメラミコトの学問は、民間に流出しています。誰にでも手が出せ、誰でもがスメラミコト同様に世界運営に係わることができるのですが、その原理の勉強はできても修得されるということにはなりません。民間に出てしまいますと勉強の心持ちもあやふやなものが主体となっていきます。わたしも単なる知的好奇心が主体です。

知的なこころは、口を出すしか能がありません。自らを高めて全体的な視点や行政的な観点を知りません。学識経験者なども概念的、経験的な知識内での有効性の有る無しで終わるものです。

わたしは勉強中ということで、それで許してもらいます。

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続きの付録あり。「homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama/.../10_0202.html。日本と世界の歴史 その十二 2/2」

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日本と世界の歴史 その十二 2/2

( homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama/.../10_0202.html )

●第二のキイ・ワード ユダヤ民族

話をユダヤ民族に移しましょう。ユダヤ王モーゼが竹内文献に載るのは鵜草葺不合皇朝六十九代神足別豊鋤天皇の章に於いてであります。

ユダヤ王モーゼ来る。天皇これに天津金木を教える。モーゼ故国に帰るに当り、天皇みことのりして曰く「汝モーゼ、汝一人より他に神なしと知れ。」)(または「汝モーゼ、汝とその子孫はすべての国の人々の守主(まもりぬし)となれ。」)そしてその上でモーゼに「子々孫々、世の人を導きて物質科学文明を建設し、その力を以って世界の国々を再統一せよ」と命令したと推察されます。

右の天皇の言葉を聞かれて、読者の皆様はどう思いますか。一人の人間、または国王に「かくせよ……」と命令し、その命令通り三千年という長い間、その命令が命令された人の子々孫々に受け継がれ、今日に到るまで守り継がれるような事があるとお思いになりますか。

またその命令が果たされる三千年の間、全世界の人々の心中に信奉する神が「モーゼ、汝一人だけなのだよ」と断定することなど出来るとお思いになれましょうか。

「とても信じられない。馬鹿げた憶測だ」と思われるに違いありません。けれど、言霊学という人間精神の究極の構造を解明した学問に立脚し、その構造の中の言霊ウの次元の内容とその内容の自覚・運用法を身に体得した人には、それが可能であることを神足別豊鋤天皇はユダヤ王モーゼに教えたのです。

神足別豊鋤天皇がモーゼに授けた天津金木とは、言霊学のアイウエオ五十音天津金木音図の原理そのものではなく、その音図の原理をヘブライ語の子音と数霊(かずたま)と組み合わせた法則に脚色したもの、即ちユダヤの謂う「カバラ」の原理のことだと推察されます。

この原理はその内容を理解し、運用・活用の能力ある者に受け継がれて行きました。旧約聖書をご覧下さい。モーゼ以後、列記された予言者は皆霊能者であり、カバラの活用者であり、国の王、またはそれに近い位にあった人々です。

モーゼ以来、その霊統は三千年余を途切れることなくカバラ運用者である予言者に受け継がれて今日に及んでいます。彼等は社会の表面に決して姿を現わすことなく、影の予言者であり、三千年の世界の歴史を創造する王の王、キング・オブ・キングズなのであります。

彼等予言者の中からいくつかを選び、その予言を書き記し、彼等の現世界に於ける将来を占う参考にすることにしましょう。

「これらのもの声をあげてよばはん ヱホバの稜威(みいづ)のゆえをもて海より歓びよばはん この故になんぢら東にてヱホバをあがめ海のしまじまにてイスラエルの神ヱホバの名(みな)をあがむべし われ地の極(はて)より歌をきけり いはく栄光はただしきものに帰(き)すと」(イザヤ書第二十四章十四節―十六節)

「彼は海の間において美(うるは)しき聖山に天幕の宮殿をしつらはん然(され)ど彼つひにその終(をはり)にいたらん之を助くるものなかるべし その時汝の民の人々のために立ところの大いなる君ミカエル起あがらん是艱難(これなやみ)の時なり国ありてより以来(このかた)その時にいたるまで斯(かか)る艱難ありし事なかるべしその時汝の民は救はれん即ち書にしるされたる者はみな救はれん また地(つち)の下に睡(ねむ)りをる者の中衆多(うちおおく)の者目を醒さんその中永生(かぎりなきいのち)を得る者ありまた恥辱(ちじょく)を蒙(こうむ)りて限りなく羞(はづ)る者あるべし 穎悟者(さときもの)は空の光輝(かがやき)のごとくに耀(かがや)かんまた衆多(おほく)の人を義(ただしき)に導ける者は星のごとくなりて永遠にいたらん ダニエルよ終末(をはり)の時まで此言(このことば)を秘し此書(このふみ)を封じおけ衆多(おほく)の者跋渉(ゆきわた)らん而(しか)して知識増すべしと」(ダニエル書第十一~十二章)

もう三十年も前になりましょうか。東京新宿で日本・ユダヤ親善の日猶協会の主催の講演会を聞く機会を得て、私とは既に知人の仲にあったラビ、マービン・トケイヤー氏の講演を一時間半にわたって聴いた事がありました。

その講演の中でラビは日本も昔はそうであった如く、ユダヤ民族は今でも宗教の祭と政治の政(まつりごと)が一致した祭政一致の国柄であり、政治と宗教とは切っても切れない間柄となっている国家である、と強調していたことを思い出します。

今、ユダヤの祭事(まつりごと)と政事(まつりごと)との一致とは、日本から伝えたカバラの原理が基礎となっていることに思い当たります。

ラビ、トケイヤーは「日本は敗戦以後は祭政一致の理想を捨ててしまったが、ユダヤにあっては今なお祭政一致であり、その制度によって宗教と政治と教育等が一つの方針の下に行われていることを誇らしげに話を進めていた事を思い出します。

ユダヤ民族こそ世界で唯一つのこの美風の上で国家、民族が生きている事を言いたかったのでありましょう。この事からユダヤ民族の中での予言者といわれる人の国家における重要な位置について想像が出来るのであります。

ここでユダヤ民族に委嘱された二つの使命、人類の第二物質科学文明の完成と世界各国の統一の事業の現状について検討してみましょう。

人類文明始まってこの方、物質科学の発展が今日程目まぐるしい時代はなかったでありましょう。文字通りの日進月歩の速さで、息つく暇もなく変革に次く変革が続いています。

進歩を代表するIT機器などは、新発売の品が数ヵ月後には旧式となり、古物化するような勢いであります。

その様な進歩と並行して、資本主義の先進各国の事業所は安価な労働力を求めて工場を夫々後進国に移し、その結果、今までの後進国は急速な経済発展に潤(うるお)い、その結果が更に大気汚染、地球温暖化の進行速度を早めています。

昨今、今更の如く、新聞各紙は北極の永久凍土の氷が溶け始め、その影響のための被害が各地に起こり始めている現状を報道しています。

物質科学の今後の発展は、物質科学研究だけの分野では進行出来ない事、発展の近い未来に暗雲が漂っている事に目を向けない訳にはいかない状況となりました。

もう一つのユダヤの使命、世界の再統一の事業の現状はどうでしょうか。アメリカは世界の国々の多くの反対を押し切って、「大量破壊兵器保有国イラク」に侵寇し、約一ヶ月で全土を掌握しました。

けれどお目当ての大量破壊兵器は発見できませんでした。その後のゲリラの果てしない自爆攻撃を受けて、他国ばかりでなく自分の国の国民からも早々の撤退の声が挙がっています。

この戦争で一番ひどい目に合ったのは戦土となったイラク国民です。そして二番目に「こんな筈ではなかったが」の思いをさせられたのは侵寇したアメリカ、そしてその統領ブッシュ氏ではなかったでしょうか。

大統領への支持率の低下、政府の国庫赤字の増大、喜んでいい結果は余り見つからない現状の中で、アメリカをそそのかし、軍事力の全機能を挙げてイラク全土を占領させ、その占領によってアラブ諸国が密集している中東地域の略々(ほぼ)中心にあり、また豊富な油田地帯であるイラクの土地をわが管理下に置くことに成功したユダヤにとっては、近来にない政治的勝利であったでありましょう。

極めて近い将来、このイラクにある程度の平和な民主国家が出来た時、イラクを取り巻くアラブ系諸国の政治状況は大きな影響を受け、少なくともユダヤにとっての「世界再統一」のためには画期的な朗報となりましょう。そこで後に残るのは、イランと北朝鮮二ヶ国位となりましょう。

このように見て来ますと、ユダヤの使命である世界再統一の事業の終着点は既に目睫の間に迫った、ということが出来ます。

始祖モーゼが神足別豊鋤天皇より委嘱を受けてより三千有余年、遂にその物質科学文明の完成と世界の再統一の事業を成し遂げて、使命拝受の国、日本に報告(かえりごと)に来る日はそう遠いことではなくなりました。

その時まで、ユダヤのキング・オブ・キングズと呼ばれる予言者は、現在、アメリカ東部のニューヨーク辺りに住居して、目的達成までギリギリの努力を傾け、時来たらば居をこの日本に移し、二千年以上前、祖国滅亡後、東進し、日本に帰化し、日本民族として長い間、祖国より西進し、世界を経廻って来る兄弟を日本の地で待っている、その日本に於いて兄弟相会する為に舞上がって来ることとなりましょう。

そして二千年余離れ離れになっていた兄弟相たずさえて「聖なる山の麓に神の幕屋を建てて」喜び勇むことでしょう。

何故ユダヤはその使命終了後、日本へ来ることを願うのでしょうか。

それは勿論彼等の使命が日本の天皇から授かったものであり、三千年にわたる苦労の末に成就した使命の完了を持って、彼等の使命即ちその魂の故郷である日本に報告するためであります。

と同時に、彼等はもう一つ、日本へ来る事に一つの期待を抱いている為ではなかろうか、と推察出来ます。その期待とは次のようなものであろうと推測します。

先にお話しました如く、ラビ、トケイヤーはユダヤも日本も昔は祭政一致の国であった。けれど日本は敗戦によってその原則を失ってしまい、今はユダヤだけがその栄光を戴いている、と誇らしげに話すその裏で、祭政一致の原理を象徴する三種の神器、ユダヤで謂う三種の神宝が、ユダヤ王ソロモンの時、既に契約の箱の中に姿がなく、失われてしまっており、逆にその神宝に当る三種の神器(鏡・珠・剱)を日本の皇室が今尚保持している、という事実に限りないコンプレックスを持っているということでありましょう。

彼等ユダヤが世界の中にあって常に不敗である原理カバラ、旧約聖書にあるヱホバの言葉「我は戦いの神、ねたみの神、仇を報ずる神なり」が示すごとく、戦争や競争に際して必ず勝つ原理であります。

それはカバラの原本、日本の言霊学に於ける言霊ウ次元の心の働きに於いて、その父韻「キシチニヒミイリ」(カサタナハマヤラ)の内容を検討する時、戦争に於いて、商売に於いて、一切の競争に於いて絶対不敗の心の持ち方の原理であることが分かります。

ユダヤはその原理を授かり、三千年の間、その原理の下に使命の遂行に当り、終に彼等の使命の全般の成就直前の所まで辿り着きました。

彼等は三千年を不敗の過去として振り返りながら、その栄光への自信を深めていることでしょう。と同時に自らの使命達成の暁には、彼等の精神秘宝であるカバラの性能が一応そこで終了することをもう薄々感じとっているに違いありません。

カバラは戦いに不敗の原理です。けれどすべてを打ち負かした後の、敵がなくなった後の、平和を永続させるべき原理ではないのです。彼等は彼等の使命完了の後の、即ち次の世の中の確実な保証が自らにはないことに気付かないはずはありません。

昨年、イスラエル大使が四国の剱山に登った、という話を耳にしました。剱山は失われたユダヤ三種の神宝の中のアロンの杖が隠された所だと昔から伝説されている土地です。

ユダヤのキング・オブ・キングズは第二世界物質科学文明成就の自信と成就以後の自らの運命への不安と期待を胸に、彼等の魂の故郷日本への上陸の時を窺っている、それが第二キイ・ワード、ユダヤの現状であります。

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