ハヒフヘホ いま(イの間)論の準備

ハ◎ いま(イの間)論の準備

今などない

または

今しかない

ニュアンスを掻き集めれば

今だけがある

今もない

今はある

今はない

言葉を継ぎ足せば

無数に

言霊学はこれらの表現の原理を扱うものです。

ですので、ある とか ない とかの主張にくみしません。

どちらの主張にくみしてもらっても結構です。

それぞれの出所の地盤は共通です。

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ヒ◎ いま(イの間)論の準備

「自分が体験しないと「そんなものなのか」で終わってしまう、やはり自分で勉強しない限り分からない、こうやって真面目に話していても他人事のように読んでしまうでしょ、インターネットで公開しますと。(島田正路)」

みんな真面目に自分の思い付きや考え等を語っているのですけれど、他人事ですね。中には真面目すぎて、日本で始めて言いだしたとか世界でトップクラスのこと、とか言うかたもいます。

慎ましい方は、これは個人的なものですがとか、ということに気付きました、とか言う方もあります。

自分で法螺を吹いているとか、これは慎ましい真実ですとか言っても、聞いている人たちには同じことです。うまく同調してもらえればしめたものですが、それでも他人事のように読まれていきますから、他人事の感動を語った感想文となって返事がきます。

あるいは感情情緒次元で受けた感動を、共有しようとするときもあります。

最近はとうとう、思い付きしか受け付けないツイッターと言うのができました。思考する人間を不要にするもので、真剣を持たせればその場の出会い頭の勝負の世界になるでしょう。

いよいよ現場、仮想現場で裸踊りのウズノメの出現となりました。

それでもア次元に翻訳しますと、禅問答のように直ちに答えられなければ叩かれるような、全人類に意識の上昇を促すものとなっています。(精神世界とか言うものがお好きな方のために付け足し。)

書いている人の本心内容に沿った返答などは無いのが普通です。

と言うのは書いている人は思い付きで書いているので、その思い付きは個人的で自己所有物として他人に渡したくないからです。その感触が書き手にありますから、読み手も他人の物を盗むようにするよりも、自分の勝手な思い付き感想を述べた方が簡単です。

確かに為になると感じてどうしても欲しい理解したいと思うときも出てきます。

その時は他人事のように読むわけには行きません。読み方も自分の思い付きで読むのではなく、相手の懐に入ろうとします。

今とは、現在とは、と言うことを探すのも同様で、思い付きなら幾らでも感想が出てきて、どんなことでもそんなものでも自分の染み込んだ汗を主張していきます。

ところがその内心内面内容を捉えるようにしたくなるときがあり、思い付きを語ることではなく、求める物は何だろうとそのものと一致したくなります。

しかし残念ながら、そんな真面目な態度を取ると人は突き当たります。何に突き当たるかといえば、問題を解く方法、原理原則を所有していないという自覚にです。

これを得なければなりませんが、できないので、自分の身近にでてくる思い付きにすがります。

こうして思い付きバトルの二千年が過ぎました。現代はこのバトルの花盛りの時代ということでしょうか。

今現在の考え方が思い付きでそれぞれであるからおもしろい、個性があって素晴らしいという見方もあります。原理原則など無い方があれこれごちゃごちゃ言い合えるから楽しみがある、知らないこと気付かないことが聴けるし分かってくる、おもしろい、となります。

泳ぎを覚える前に、まだ出来ない泳ぎについてガチャガチャ言い合ったり、手持ちに無い十億円あったら何しようとか、まだ来ぬ事に予想や予言をして楽しむようなものです。

今しかない、そんな今を得たらどうしよう。

確かに知らねば知らぬままでそれなりの楽しみがあるものです。

別のこともあるのに、気付かない。こんな気付きもある。

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フ◎ いま(イの間)論の準備

出産で 今 が出来るのか

今 はあるものなのか

今 はできるものなのか

今 は無いのか

出産の姿、は様々あります。

古事記で

は、

『 既に国を生み竟(を)へて、更に神を生みたまひき。 かれ生みたまふ神の名は』

【18 言霊 タ 】大事忍男(おおことおしを)の神、次に。

【19 言霊 ト 】石土昆古(いはつちひこ)の神を生みたまひ、次に

【20 言霊 ヨ 】石巣(いはす)比売の神を生みたまひ、次に

【21 言霊 ツ 】大戸日別(おおとひわけ)の神を生みたまひ、次に

次に、次に、、、、、。

で、次々に言霊神を生んでいきますが、「次に」というのはどのような形に相当するものでしょうか。

産み方です。

自然界なら両親がいてその都度子を産みます。

にわとりなどは一人で次々に産みますが、受精卵でなく、排卵みたいなものでしょう。

いっぺんに複数生む自然界の出産もあります。

昆虫の変態などは新しく生まれる様なものです。

物質界では、生むというより分裂崩壊によって出来たり、結合浸透だったりして新しいものが出来そうです。

では、意識界で生むとはなんでしょう。

少し引用します。

・言霊イヰによる子音創生が始まりますのも、その予めに言霊アワに分かれたからであります。

・後天現象の言霊は32の子音で構成されております。32の神様が次から次へと生まれて参ります。

・交合することによって現象子音言霊が生れます。

・子音と申しますのは目に見える世の中の出来事。意識で捉えられる出来事の最小単位です。「雨が降る」、「雨」はアとメ、 ‘ア’の内容と子音‘メ’の内容が分かりますと、「雨」と名付けたのはもっともだということになります。

・その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、

→ 八つの父韻の下に母音が引っ付いてきます。32の子音のことです。

八つの父韻で以って、エアオウの四母音を掻き回して引き上げてみると、八つの父韻の下に母音が引っ付いてきます。32の子音のことです。32の言霊との区別はよく気をつけてお聞き下さい。

・お父さんとお母さんの活動で生まれてきた子供、32子音(アウエオ4×8)のお話に入ります。32の音と32の言霊の区別をつけてお聴き下さい。音と申しますのは口から出てくる「音」を指します。ですが「声」ということになりますと言った人の心が伴っています。

言霊学からの引用ですので、ぴんと来ないかもしれません。

現象が現象を生む姿を捉えているのではなく、始めて現象を生む姿を原理で示しています。

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ヘ◎ いま(イの間)論の準備

今とは何か、Google 約 14,700,000 件 (0.33 秒)

今などない、Google 約 1,040,000,000 件 (0.47 秒)

<いま>と言う間に過去になる、まるで光より早い<いま>があると思われている。

みんな、自分の考えで<いま>と言っているのに、相手に伝わると相手の考えの<いま>となってしまう。

つまり、× 2 (かける 2)か、

あるいは、

× (かける) <いま>と理解できる人の数だけか、

今とは何か、Google 約 14,700,000 件 (0.33 秒)

今などない、Google 約 1,040,000,000 件 (0.47 秒)

× (かける) <いま>と理解できる人の数だけ、

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ホ◎ いま(イの間)論の準備

言霊循環と生命循環

この宇宙を全てがつながった一大システムと、とらえると自分の子孫子供を生んで連続して循環しているように思えます。

種は芽生えて大きくなって花を咲かして実を付けて種になってから、自分が蜜柑の種だったのかと気付きます。

それらは他者を生んだり他者になって自身を知るという循環です。自分と他者と別のものを繋げるために、遺伝だとか血筋だとかが導入されています。

生と死の循環を他者を介して循環していくとすればそうなるでしょう。

言霊循環は、人という生命の上にできていますから、生命生物循環の遺伝も伝わっています。

しかし、自分を探して自分を見つける循環では、他者を見つけるのではありません。自分と他者の間に遺伝子があるとかないとかが問題になるのではありません。

言霊学でも父韻と母音で子音を生むというように他者としての現象子音を生むと言いますが、これは現象子音という他者となった自己を生むということで、実在的な他者を生んで終わるという生物世界とは違います。

他者を生んでいくことが、成長発展変態しつつ自己発見によって自己回帰しつつ他者を自己としてその同一性を了解するものです。

自分の新しく創造された自分を得るので、その生物物理的な形は他者であっても、自分をあらわすものです。喋っている言葉が他者の形をとっても、自分の内容をあらわすので、喋る以前の自分が、言葉となり喋ることであらわれます。

第三者の子供という形ですが自分を生み成すものです。

生物生命の循環では両親は他者としての子を産みますが、言霊循環では、他者という形、実在を借りて自己を産みます。と同時に、他者という形に他者の心、霊、気が乗るようになってます。

つまり言葉の共通性、一般性として自己が表現されるからです。

表現される音は、生理的な作用反作用の内にありますから、循環でいえば生物生理的な捕らえ方になります。

それを言霊に適応する基礎としてしまうと、おと(音)でとらえた言霊(ことだま)というのがあります。

それは発音された音、聞かれた音を数えてしまいますから日本語の要素なっている五十音を大きく越えてしまっています。

日本語の要素にある霊・気・内容に違いによる分け方でなく、おと(音)の違いでの分け方ですから、濁音促音等があるといって、おと(音)の連結した言葉を見ていきます。その連結した言葉の全体を言霊と結び着けたもので、単音五十だけでは満足していません。

というのも、発音された現象を追っているため、ことばの要素に独自の単音の霊・気・内容の時処位の違いを見ないからです。(単音に還元した説明も恣意的な経験概念による思い付きです。)

しかし、古事記の言霊(コトタマ、清音のタ)はコトと霊(タマ)の一致した単音要素のコト・タマを見ていきます。発音され聞かれる音は共通な一般性として「流布」させていくことが折り込まれています。

例えば、ことだまでは、今という言葉の言霊を探しますが、それは今という言葉の全体現象の言霊を探しています。

一方、コトタマでは、今のイとマという二つの単音の要素を探し、イのマとなった内実を探します。

前者は言葉(今)の内実、発展進化を探るのに、今に外部から説明を付け加えていき豊富な概念を付加して作っていきます。発音と与えられた意味とが分離していますから、多くの添加物が必要となります。(漢字の組み立てに意味はくっつけられますが、発音には関係しないようなものです。)

後者は内部のそれぞれの単音に、不離の意味内容を一致したものとして見ていきます。大和言葉のコトタマは発音がそのまま意味と成るようになっています。(イは動き出した力動が持続するこころの内容を表現しています。)

以上のことを言霊循環と結び着けると、前者では意味の付加付け足しで、当初の意味から逸脱しないようにという循環になります。

古事記の言霊循環では、当初のイならイの成長発展変態した姿の自己発見という循環です。日常でいえば自分の書いた言った言葉を自分で聞き見て自己了解をしていることになります。

自己発見というと、過去にあったものを見出すだけで、では進歩発展どうなる、過去を見出すことが成長そのものと成るイメージを削がれます。言霊循環はそれをうまく説明できるでしょうか。