ひ こころの原論。天照大御神の誕生。1

001 こころの原論。天照大御神の誕生。古事記神代の巻解。 序。 ◎

古事記神代の巻解。 序。

古事記の神代の巻は、こころとは何かを解き明かして、その運用法を実践するための原理論です。

全てはおのれの心の中の出来事なので、史実や人物、地名、出来事といった実在との照らし合わせは、こころの構造や作用を見るためにのみ取り上げられています。

史実があったのか、人物、地名、出来事が無かったのかということは一切問う必要はありません。それらは別の方面へ向かう学問となり、古事記神代の巻の学問ではありません。

古事記の神代の巻が目標とするところは、スメラミコトの原理を暗喩でもって保存しておくことにありました。もともとはスメラミコトの学問でしたが、現代においては原爆による世界支配の代償として民間に流出されたものです。

古代大和において人のこころとは何かが解明され、その原理によって道徳統治が行なわれ世界運用が実践されていました。世界の賢者達が古代大和の聖人(ひじり、霊知り)を訪れそれぞれ教えを持ち帰って、世界の主な宗教、教え、神話等が成立していきました。

それらに共通の原理を辿ると、行き着くのはフトマニの言霊アの原理です。比較神話学としても取り上げられていますが、その想話機能の背後にある、古代大和の聖達が成し遂げた研究成果のことです。

そして、この言霊アの原理の解明、運用法が神代の巻の主な記述となっています。さらにその上の次元はアの次元を通過しなければ分からないようになっているようです。

古事記では天照大御神を生んだときに「大く歓喜びて・いたくよろこびて」と言っています。

天照・あまてらす・の「あ」は「吾(あれ、われ)」のことで、自分のことでありあなたのこころのことです。自分のこころ、アの間、を照らすことです。

冒頭の「天地・あめつち」の「あ」も「吾」のことで、自分のこころの芽、アの芽、が現実に向かい接する処ということです。

また、天照のアマを天津太祝詞音図のア・タカマハラナヤサ・ワに適応すると、アとマの間にタカがあり、タは高御産巣日のた、カは神産巣日のかで、こころの剖判である主体-客体、を秘めています。

こころの自覚をもって物事を見る宝音図では、ア・タカラハサナヤ・マとアとマで全ての現象子音を内包していきます。

このように古事記は一貫して「あ」のこころ、自分のこころを創造することを説いています。

つまり、古事記の目指すところは各人、一人一人が天照大御神になりなさい、その暗示は十分になされていますよというところにあります。

神代の巻が清書されたということは、それ以前にその教えができていたことを示しますが、五千から八千年前に逆上るでしょう。多くの古文献にその裁断され、個別化されあるいは逸脱された姿がみられます。

竹内文書にあるようなことは、古代大和で用いられていたこころの原理による道徳政治の光が世界に行き渡っていたことを示しています。

古事記編纂の意図に先紀の混乱を正したく思ったとあるのも当然のことでしょう。

今後、言霊フトマニ学を体現した大和言葉日本語を話す人の中から豊かで平和な世界運用者が出現する事でしょう。

現代はわれわれと天照大御神は岩宿に閉じ籠もっています。(岩・イハ、五十葉、で五十音言霊のこと) 世界中が無自覚な生産と消費、無自覚な発明発見と応用の桶の上で踊っています。

しかしまさにその桶は十分に大きくなり堅固になりました。

天宇受売(あめのうずめ)は楽(あそび)をし、また八百万の神諸々笑える状況(先の見えない笑い)が出現しつつあります。

また現代の歴史状況は、天児屋命、布刀玉命が鏡を差し出し天照大御神に示すところですが、差し出し示す相手となる天照大御神の居所を突き止められません。天照大御神とは自分自身のことで、世界歴史で言えば世界歴史の運用者ですが、まるで雲の上にいる者に対する態度です。

従ってその天照大御神の御手(創造選択肢の暗喩)を取って引き出すことができません。確かにこの現状世界は「天照大御神いよよ奇しと思いほして」という状況が醸しだされてきています。世界の人々各自が、はてな?という思いに満たされようとしています。しかしどこにも、天手力男の神の世界を導く自覚した律動が提示されてきません。

主体側も不明、導きの原理も不明で、政治主張は混乱を招くためにあり、一切の宗教は無力を隠さなくなり、桶を叩く音はますます大きくなり、さらに、終末予言の多くが重なってきているようです。これらのことも総体として見ていくと、古代大和のスメラミコトの経綸の通りだともいいます。

それでは、神代の巻が解説する「アの間を照らす、天照す」とはどういうことか、入門してみましょう。古事記神代の巻のストーリーがそのまま天照大御神を自覚する、そしてそれがそのまま創造の手順になっているといいます。それに自分の意識を預けてしまいましょう。

神代の巻は人間思惟の秘儀を解明し実践への手順を示した、未だかつて人類が到達できないでいる至宝といいます。五千年から八千年以上も前に完成されてしまっていて、世界の賢人、宗教家達が神と呼ぶ実体です。

日本においては残念ながらそこら辺に幾らでも転がっていて足蹴にされている状態です。天照大御神は自分のことで自分のこころの中のことですから、世界中の誰でもが同じという意味ですが、その表現は完璧な人工語としての大和言葉日本語でしか学べない学問です。日本が世界で特別なのは大和言葉を使用していることだけで、その他に多少の特殊性が見られるというだけです。

数千年の間大和言葉の秘密は未だに皇室の賢所に眠っています。ところが、日本語を日常使用していることが逆に邪魔をしてのでしょうか、日本語を世界の言語の中に置き比較などもしているようです。そこから古事記の言葉を解説しようとするために、世界の民話とか民族の言語生活様式などが比較と類推の範囲で概念化されていきます。

大和言葉は唯一独自の人間精神意識の働きに沿った数千年前に完成された人工言語ですので、他の言語との比較対象はありません。比較できる部分は大和言葉が古代において世界に進出していた形跡になるというだけです。問題はただ単に各人の精神の動きがそのまま言語になっている「言霊のさきわい」を問うだけのことです。そしてこれが一番難しいことです。

しかし、古代大和の人々はそれを成し遂げてしまっています。その偉大な技が世界に伝達していました。信じられないようなことが古代社会では多く起こっています。人間の精神原理が解明されてしまっていることなど、その最たるものです。現代のどのような宗教理念、哲学概念よりも深く広く真実な精神構造が完成されていましたというより、それらを見越した導きを与えました。

現代人は探さなくともいいものを探しに行きます。それに思いつきを加えて見つかったよと満足しているだけですが、昨今ではそれらの人々が他者を尊重するという名目で合い哀れむようになっているようです。表面的には倫理道徳性の向上のように見えていますが、やはり互いに萎縮した精神を納得し合っているように思えます。

「灯台下暗し」とは、光指す遠くの物を探さなくともここにあることを言いますが、眼は光のある方へ向かうのは当然で、闇夜の足下は見えないものです。そして灯台は眼に見えない岩盤の上に立っています。

天照大御神、天照らす、あ(吾)の間(ま)を照らす、大いなる働きを持った実体。

◎002 こころの原論。天照大御神の誕生。天地の初発の時 ◎

「 ○○とは何か 」という問いに答えることは、自分の知っていることを繰り返して白状するだけのことで、知っていることに多少の味付けや正直さや努力、所有感や未練が付け加わります。

だからといって「 何々とは何か 」という問いの答えが真実であるとは限りません。結局、あの立場の真実、その立場の、こっちのあれのと、多くの意見が出てきて各自の条件限定付きで「真実」を主張することになってしまう。

その内容はそれぞれの経験知識や因習因縁からもたらせられたもの、強制されたものであったりしている。誰でも自分の言う意見は自分の所有物と思っているのでそれなりに価値があって通用させたく思っている。人々はこういったやっかいなものを創造しながら文明を築いているのです。

そこで衝突を避けるため意見と意見の間に道徳的な協定さえ出来てきてマナーが叫ばれることもあるが、マナーが良くても悪くても真実を喋ることにはなりません。それぞれがあなたの言うことはそれはそれで認めますと言いながら、腹の中では相手が地獄へ落ちればいいなどと思っていることもあるくらいです。

要するに、よって立つ立場が自分から、自分の考えから、自分の記憶経験知識、自分の所有物、自分のカンや推理、自分の努力と汗で出来上がったものから出ているからです。

そういった類の「真実」のお話しは、古事記では、

『かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。』

にあるとおり、禊落として、再生されるものとしてあります。

・(自己主張の拠り所)-------- 25。衝き立つ船戸の神

・(関連性と連続性)--------- 26。道の長乳歯の神

・(時処位の検討)---------- 27。時量師の神

・(曖昧性の排除)---------- 28。煩累の大人の神

・(分枝点方向の明瞭化)------- 29。道俣の神

・(実相を明らかに組む)------- 30。飽昨の大人の神

この古事記の身禊は、自分で分かっているところから出発している主張の再生再現に役立つもので、それなりの成果があがるものです。しかし、それが出来たからといって、自分の分かっているものが有るという前提を再現できていません。

自分の頭の中に飛来したもの、去来したもの、思いついたものからアイデアを構築することが多いので、その出所の元を検討することは殆どありません。思いついた途端に既得のもの記憶から導いたものとして扱います。

そこで各人の立場は、各人のお気に入りのそしてとっておきの欲望に駆られてそこに結びつけようとすることから始まっています。大発見大発明、新理論、新「真理」もその始まりは夢であったり、思い付きであったり、偶然の間違いからだったり、等々というのはよく聞く話です。

そういった上記のことは、古事記の解明から25から30の神名によって人のこころの動きとして現されています。結局現象を現象で説明しようとしますから、細分化が進むと同時にその総合が行なわれ、どこから手持ちのアイデアが来ているのかより、それ自体を分析することになります。

そこで、かれらにその根拠根源を問うと、一般原則であったり、あるいは感情情緒的なものであったりします。それら自体もその人のお気に入りによって切り取られたものなので、今度は抽象的な堂々巡りが始まってしまいます。

わたしなども同様で、前回001に「天照・あまてらす・の「あ」は「吾(あれ、われ)」のことで、自分のことでありあなたのこころのことです。自分のこころ、アの間、を照らすことです。」と書きました。

方向は合っているし正しい意見という感じはありますが、仕入れたものを改造してお気に入りになるように書き換えたものです。(未練があるのでわざわざこういうことを言う。阿呆。現象をただあげつらっているだけなのに、そんなものでも擁護確保しておきたい。もう一回。阿呆。)

わたしが天照大御神とは何かと思ってそれを書こうとする時、その時には既に天照大御神についての知識が存在しています。後は分からないところ不十分なところ等を概念なり追加知識なりで繕うだけです。

まず始めに単に名前だけを知っているという場合も同様で、後でそういうことだったのか云々と納得する場合でも、納得する方向、取捨する方向は既得のものとしてあります。ですから知識の場合は全く知らないで得たということはなく、常に自分色の生地の上に描かれていきます。

つまり、自分色の生地の上での絵画でしかないのです。各自の勝手な生地色を棚に上げ出来具合を主張しても、創造現象の上塗りをするだけでしょう。これでは塗料が塗り重ねられ厚くなり知識は増えるが本質、実相は手つかずのままです。

大抵の場合はこんな調子です。

では今回の「天照大御神とは何か」という場合にはどうしたらいいのでしょうか。

まず第一に、書きたいというどんな思い(欲望)があったのでしょうか。

書くに至る何らかの理由が無ければブログなんか書かないでしょう。天照さんはもともと見たことも話したこともない相手で、巷に出回っているああだこうだという主張達を勝手に選別してお気に入りにしたものでしかないでしょう。そんな調子の上に乗って、自分は確信しているとかあれは違うだとか言っているわけです。自分でも滑稽です。よくもこんないい加減な態度で続けていけるなと思います。

天照さんか、安万侶さんと直接話せればいいのですが、そうもいかないし、お二人とも文献の中にいるだけで、結局はそれを読むわたしのこころの内にいるだけとなります。そういうことなれば、知識としては仕入れたお気に入りとしてあり、それをもたらしたのがわたしの思い(欲求)ということですから、ぐるりと廻ってワンワンです。

突然思いついたことですが、「ワン」は和、輪+ン。「ワ」は吾、我、わたし。「ん」は運ぶという意味で、ワを運ぶ、わたしは天照さんのワ、わたしのこころとの輪、和をぐるりと廻って運ぶ、わたしのこころは天照さんで天照さんはわたしのこころになる。結局「わ」から逸脱出来ないのなら共に「わ」を造る方が楽しいでしょう。ここは分けの分からないつぶやき。

知識はどうなるのでしょう。どうしましょうか。

異なった多くの意見に発言の場を与え多くの主張を出させることですか。既に山盛りの意見達があります。もしそこに少々行儀のよろしくない発言をする方がきたらどうなりますか。戦争ですか無視ですか、意見を聞くという前提はどうなりましたか。抽象的な多数決、薄めた概念おすまし作りに変更ですか。賄賂などもどうですか。

経済、科学、学問のどこででもこんなことが起こっています。データがつまで飾りになっているだけでなく改竄されて主張の根拠にまでなっている世の中です。新発見の新真理も三日もすれば古くなる感じです。

政治は政治家集団とその取り巻きだけのためにあり、世界統一運用など経済関係の延長でしか考えていません。経済発展のためなら侵略も戦争もよしとし、自然も破壊することを厭いません。それらはメディアによって正当化され、海上油田の崩壊などまずは止める前に垂れ流しはもったいないから回収することばかり考えられています。

もちろんこういった状況のなかで宗教、道徳思想は無力で手が出ません。油まみれのペリカンには神の愛は除外されているようです。あれは技術の問題、われわれは精神の問題と閉じ籠もりに専念しています。

この狂った運行におおくの人は感じるものがありますが、為す術を知りません。シーシェパードのように、理念と思いと現状分析と主張と選択と行為とが渾然と一体になり、理念が正しければ後の全ても正しいと、上記に述べてきたような、結局同じようなことを助長する歯車の中で暴れるようになってきています。

現在全ての宗教、哲学、思想と教育は未来社会に何の光を与える力もありません。精々小集団、セクト、ソーシャル、お友達内での自由な言論の鬱憤晴らしのようです。それらに対立するものとしてと、個人の修養だけに勤しむ傾向も付け加えておきましょう。

各人の意見を出すことに寛容を装うことも流行りのようです。ただしそれは何にも本質へ到達しないことを願ってさえいるようです。なぜなら誰かが本質を述べると自分の出番が無くなり、ブログ等々の発表の場を失うことになる、恐怖か悲しみを秘めているからでしょうか。

キリスト様が百人いたとして、お釈迦様が百人いたとして、全員に同じ質問をします。二百枚の質問用紙を配りました。「天照大御神とは何か」、と。(各人何でも好きな質問をしてください。)

ところがどうでしょう。答えはかくかくの如し、と全員同じ答案が返ってきます。そしたらこんなにうれしいことはないじゃないですか。

すっかり安心してこころを任せることが出来るじゃないですか。

では、二百人が五十人だったら。四十九人だったら。十五人だったら。三人だったら。お一人だけだったら。

真実はひとつしかありえないんです。お釈迦様もキリスト様も同じ答えをします。

小言をいっても始まらないのでわたしは行きます。

さあどうする、です。

◎ 003 こころの原論。天照大御神の誕生。天地の初発の時、続き ◎

「ああー…」という、いまココの天照大御神は「天地の初発の時」です。

「天地の初発の時」には名も無く性格も無く性別もありません。この状態を取り入れて天照大御神を定義付けようとすると、太陽の光の威力を借りたような自然神に付着するようなことになるでしょう。あるいは、大いに神力を与えられてより抽象的な創造力の権化になることもあるでしょう。何故なら自分の外にある存在とした方が楽だからです。

ここでは定義付けるような性格がありませんから、説明のしようもない、霊界の最上階に住んでいるとか、霊位の最上段階にいるとか、知識の範囲を超え、経験の範囲を超えた説明などが平気で与えられることでしょう。

自然神と霊位を持った神とでは随分と違ったように見えますが、ちょっとした経験や閃きが元となって組み立てられたものですから似たようなもので、無理やりその性格に絶対性などを附されていきます。なにしろ、「天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる」というだけですから、「成る」の内容は成るようになるので、あるときは太陽神であったり、あるときは巫女であったり、ビッグバンの閃光であったりして、天照さん自身どのように名付けられようかとあっちこっちに出かけなければならず、忙しいことです。

天照らすというより、大御神のほうを重要視して唯一神のようなものにしたてあげることもできるでしょう。また上手い具合に大御神という名前まで付いていますから、それも自然と受け入れられそうです。

「天地の初発の時」というだけですから、万物の根元、その潜在エネルギーの大本のような、物を動かす力動因の元の元の元のその元というようにきり無く根元へ連れて行くエネルギーと解されるかもしれません。

実体がありませんからどのようにも好きなように定義ができます。意識しようにも意識に引っかからず釣り上げられず、その自在性を利用すれば幾らでも次元の違う世界に出入りが出来るでしょう。

以上のことは天照が一応いる、ある、存在するとしてですが、実在するかしないかという次元での話はここでおこなわれます。いずれにしても、天照がどのようなものかという性格付けはここ「天地の初発の時」ではその手持ちの材料が何もありません。

それにも関わらず存在するとかしないとかは、各自のとっておきの経験や推理で強固にされていきますから、それらが考察材料に取って代わり自我となって、灯台を建てる岩盤となっていきます。一度、岩盤が出来てしまったら我こそは○▽□なり、ヤーヤーヤー名を名乗れ、となります。

そうなると有る無し有無を言うだけで敵味方になったり、自分の人格をさらけ出したりするくらい重要な出だしです。古事記は神話でおとぎ話しだという人は懸命に実在を擁護する考えに反対を唱え、その逆の立場の人も同様に主張を擁護していきます。こんな調子ですから最終的にはお互いが同じ言葉を吐きます。「箸にも棒にも引っかからない馬鹿馬鹿しい意見を言う奴らだ」、と。

同じ意見を言う同士がお友達になれればいいのですが、そうは行かないのが自我で主張する概念知識の世界です。証拠を突き付けるのに史実を漁りますが、その解釈が自分の前提に乗ったものですから、どこまで行ってもきりがない。疲れて止めるか死ぬまで続きますが、それらは記録として残ることが多いので、それがまた後学の材料となって同じことが繰り返されます。

こんな忙しい世の中ですから結論だけで事を済ませたい人も多い。速く白状してしまえ、どうなんだ、天照大御神はいるのか、いないのかというような質問に始めに答えてしまった方がこちらとしても楽な感じはします。

いるいないの答え聞くだけの人は説明とか根拠とかはどうでもいいですから、答えを聞いてすっきりした心持ちでそれなりに対応するでしょう。知的に関心がある人は自分の知識とのプラスマイナス掛け合わせ等、自分の意識内に結論がでるまであれこれひっくり返さないと気がすまないでしょう。

イエスかノーで答えてしまえば簡単に済むこともありますが、多くの場合それは、語る方は聞き手の経験知識に訴え既得の概念に働きかけるだけで、また聞き手方は問題の出所を聞く耳は持ち合わせていず、自分の記憶と比較するだけです。

そして、答えを要求する人のこころの中では多少なりともそれぞれ結論が出ていますから、あるいは出ていることが多いことですから、別に急いで白黒付けて答えることもなく、そういった思考方法に載せられることもないのです。ここでは天地の初発の時の天照を扱っています。

しかし巷ではこの段階で既に思い思いの説明が出てきてしまっています。

さて、実在するしないは、天と地の両方から見ることができます。天を精神、意識方面とし、地を物理物質方面とする見方です。

とはいっても「天地」というように、天と地をくるんだ全体のことをさしていて、別々の個別の天、個別の地を指してはいません。この天地の初発の時に天照はいたのでしょうか。

天照は古事記では九十七番目に出てくる神で、もしいるとすればそれ以前の神もどうなっていたのか言わなければ成りません。一方いないとしたら、どこからきたのかを言わねばならず、それはといえばこの天地の初発の時からです。

初発の時にどのように天照がいたのかが問題です。そしてここから、天照の誕生物語が始まります。

天地の初発の時に天照という形でいたのではなく、『天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。』という形でいました。

天照大御神は自分のこころという設定をしてありますから、ここは、こころの『天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。』という形でもいいし、こころの実在は『天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。』という形であるとしてもいいわけです。

ではここに物理的な全体的「天地」に物質、意識の両者をくるんだ全体を見ることができるでしょうか。

できません。

物理物質は物質を物質で、現象を現象で説明するだけで、意識を物理でもって解明しようとします。どこまで行っても物理運動を追うだけです。

その反対に、意識的な全体的「天地」に物質、意識の両者をくるんだ全体を見ることができるでしょうか。

できます。

精神意識は物理物質を取り入れ、精神現象を説明すると共に、物理現象も説明します。個別的に両者を説明すると共に分離分解しっぱなしにせず統合します。

前に書いた通り、わたしはあるいは、多くの人は既に何程かの知識に裏打ちされた天照大神像を持ってしまっています。それらとはどのような関係にあるでしょうか。

ある人は人格神といい、別な人は自然神といい、卑弥呼の神格化といい、伊耶那岐から生れているのだから根元神にはならないといい、最高神にしたり、男の太陽神だ女の神だといい、男から女へ女から男へ代わった神、地方から中央を制定した神、権力の守り神、等々それぞれの文献や想像力を元としてどのような神だったかを組み立てている。

実証史実が好きな人はその方面から、精神面霊界の好きな人はそちらからという具合に、生地の色分けが出来てしまっています。

例えば神の人格性に関心がある人は、天照すを男か女かにするまで気持ちが落ち着きません。そのための研究もし文献も漁り、推理もします。そして確信が出来れば一応できあがりですが、確信は「信じる」次元での事で「真理」とは別次元にあります。

信じるのなら幾らでも信じてもらって結構なことですが、本人の自覚が発露しただけで、その結果は未来の目標であり、自分の基本的な要求となって、自他ともに完結することを果たせず結論は相手に委ねられています。

また、男か女かを決めるには、性別を決める決め手を手元にしないと出来ないのですが、ここの『天地の初発(はじめ)の時』においては、性別は与えられていませんので決定的なことではありません。それどころか、性別が有るという概念に禍されて、無理やり性別を決め、それ以前の領域にまで拡大解釈して行くことが起きていきます。

いずれにしても既得の天照す像をどうするのか、です。

既得概念の世界は疑問のつきない世界です。「○○とは何か、天照大御神とは何か」と問う場合、問う人自体が知識があるないとに関わらず既に問いの主体への指示をしています。そうでなければ○○とは、などと言えません。単に言葉を知っているだけとしてもそれだけのものを知っているわけです。

意識できていないところは言葉にできず、言葉になれば内容の多少に関わらず意識による判別ができています。分からないものは分かることはないのですが、単に言葉だけ、字が読めたというだけとしても、他と判別されたものを持っています。

「○○とは何か、天照大御神とは何か」と言う場合なら、現にある○○の知識内容に対してそれは何かと問うことになり、現にあるものを明かすか、今後に蓄えられる知識を求めるものかのどちらかになるでしょう。

前者は知識が多かろうと少なかろうとあるものを明かすことで、後者は獲得できるかどうか分からないものを求めることになりますが、古事記の言霊学はあるものを太り往く雪達磨の芯にして記憶を介して言霊循環の中で発展していくことでしょう。

ということで、ここで種をあかせば天照大御神のアマはア(吾)のマ(間)のことで、ア(言霊ア)に行き着こう行き着くにはどうするのかというのが今回のテーマです。

古事記の神代の巻を、完全無比なこころの原論を現した前人未到の人類の至宝という方向で読み学ぼうとするものです。参考にしているHPは一言メッセージ欄にありますので、わたしの私的ないい加減な解釈は当てにしないで、本物に当たってください。

『天地の初発(はじめ)の時、』

『高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。』

◎004 こころの原論。天照大御神の誕生。初発の時とは 。◎

引用開始。

実相を見るということは、

「ああー…」という、はじめて見たときの初体験、その気持ちがなくならないで、スーッと見られる立場。

その立場で見たものを「実相」と申します。

その実相はどういう内容を持っているのか、ということになって、そこではじめて主体と客体が分かれます。

その「天地の初発」に帰ることです。

経験に先立つ領域の認識は不可能です。

天地の初発とはどんな時なのでしょうか。

それは人の心の中に今、何かが始まろうとする時の意です。心に何も起っていない時、それが心の先天構造なのです。

正しい意見というのは、こういう意見、ああいう意見もたくさんの意見があって、それを綜合してよくこねて、真実とは何かということを「シ」の静まった境地から見ると、それぞれの意見はみんなそれぞれの因縁からもたらされたものだ。

それを今ここではどのように扱ったらいいかと。今、これをすれば成功する意見、というものがあるはずです。それが「シ」として静まる。

「この印籠が目に入らぬか」。

チャンバラが始まる前に「こうだ」と言っても誰も言う事を聞かない。ある程度痛い目に合った時に、「この印籠が目に入らぬか」の一言が効く。

如何に自分の身に付けた意見というものが、一人歩きをするということが問題なのです。「シ」と静まる前にこの意見というものをどこに収めておけばいいかということを見極めた上で自分がこうやりたい、ということをやらないと。

ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照らす大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、月読(つくよみ)の命。次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、建速須佐の男の命。

ここに古事記の文章では初めての選り分けの言葉、左の御目、右の御目、御鼻という言葉が出て来ました。どういう事か、と申しますと、阿波岐原の川の流れを上中下の三つに分けました。上はア段、下はイ段、そして中はオウエの三段としました。その中つ瀬のオウエを各々選り分ける為に底中上の三つの言葉を使いました。次にその底中上について重ねて現象を述べるに当り、底中上の区別を二回続けるのは芸がない、と思った為でありましょうか。太安万侶は全く別の表現を使ったと考えられます。それが顔の中の左の目、右の目、鼻の区別なのであります。顔とは伊耶那岐の命の音図、即ち天津菅麻(すがそ)音図の事です。菅麻音図は母音が上からアオウエイと並びます。この母音の列を倒して上にしますと、左より右にアオウエイと並び、その中の中央の三母音を顔に見立てますと、言霊エは左の目、言霊オは右の目、鼻は言霊ウとなります。

-----ここまで引用。

相変わらず引用が多い。

でも本当は引用だけで済ましたいくらいです。引用されている文章は真理ですから、引用のたびに解説するなどという大それたことはできません。

現代は聖書でも仏典でも解説を読むのが主になって、原文を黙って読むことは異端でさえあるような雰囲気です。わたしもご多分に漏れず引用解説、引用解説を繰り返していますが、要するに何も分かっていないからです。いい加減にこんな状況は速く卒業したい。

だけど、自分の頭で考えるとか、5W!Hで考えるとか、気付いたことは全部出して考えるとかはしたくない。確かに、通常はなけなしの脳髄を使用してみんな頑張って主張意見を書いていくわけだけど、根本的にそれらはまるで駄目という感じがある。もちろんそういった流れが人の歴史と文明を築いてきてはいるが、全文明文化のマイナスもそこから生れている。

自分の頭で考えた貴重な主張意見というものがこの世の富と悲惨と善悪をもたらしている。それらはどのような大宗教によってもその成立の当初から悪弊として指摘されているのに、相変わらず自分の頭脳による解説と創造力を第一にしています。

このような文明の進歩と悲惨は同時にもたらせられ、その原因も自分の頭だけで考えるからと、大宗教の創始者達からくどく言われているが、どうにもならない。 大宗教の創始者自身が、自らの目標の実現を未来の目標にしてしまっているからだ。信じる者だけに未来を委ね、時の経過の中に人々をおいていきぼりにしてしまっているからです。いわんや、弟子達や新創始者とその取り巻き連は言うに及ばずです。

もうこんな状態は脱しなければならない。充分に文明は発達し物は生産されている。ただ自覚的な生産と消費が、自分の頭で考えるという思考で阻害されているように思える。爆発的な全世界でのブログの流行は、自分の考えをそれぞれ述べることが正しい方向にあるような感じを与えている。そこでは多くの有益有効な先端的な思考が生産されていく。

そんなに文句を言いたければ、いい部分だけもらって悪いところは切り捨てて行けばいいじゃないかということだろう。しかしこれも既に暗黙の内に進行している。いいところ悪いところというのが、恣意的なもの意図的なもの、ある者の為ある事の為、ある集団ある個人の為だけに、ある主張の為ある権威の為、というようになっている。

個人的にも振り返ってみれば、自分自身も都合のよいようにしているはずで、自分の意見は正しい、批判は不当いうのがまかり通っている。いいとこだけ取ろうというのが既に喧嘩の種です。

人はそのようにしかできないなら仕方ないじゃないかとなってくる。これだけ進歩した社会を造ってきたし、めざましい全体の進歩は誰の眼にも明らかだという。これらは全部、マイナス部、暗部、自分でないから関係ない部分を切り捨てたからこう言えるわけで、自分の更なる欲望を実現する上でまだ負の神との対面がないというだけのことです。

しかし、それらマイナスを全部捨て、プラス部をすくい上げる努力も歴史と同じだけの時間が経てきています。この原動力となっているのが古事記で表明された、(歴史的には人類と共に古くからある)三貴子です。中でもその頭領たる天照らすさんです。

もし天照さんがあそこで輝いている太陽の表象神格化だったのなら、人類にこのような変化は起こらなかったでしょう。これに対して、人間精神の自然な進化で当然こうなるものだとする方もいるはずです。わざわざ唐突に天照など持ち出すことはないということでしょう。宇宙の進化なり銀河の運行から現人類文明を導き出すこともできるでしょう。

生物進化も脳の進化も明らかになっていき、おそらく全ての、物理的物質的な人類文明はそのように、物質として説明されていくでしょう。そのうえに乗って意識の働きも物流みたいなもので説明されるでしょう。科学による勝利に次ぐ勝利はこれからも続きます。

だがそれと平行してあるものが、科学、学問の拡がりと共に拡がる意識世界です。こころは思想、学問等が拡がれば拡がっただけそれらをこころに取り込みます。それは知識以上に貪欲で、一万二万の科学者が束になってもかなうものではありません。こころはこころに現れるもの全部を取り入れることができ、天地として現れるもの全部はこころの領域となることができます。

そのこころの操作の頭領が天照大御神さんで、人間誰にでも与えられている力能です。もちろん与えられているからといって誰でも簡単に使えるわけではありません。しかし、使える方が使えば古代にスメラミコトとなって世界を運用したというくらい凄いものです。

ですので天照大御神なんていう拝む対象となっている神様はいません。拝む方が勝手にそうしているだけです。こころの拠り所を拝むことにすり替えているわけです。しかしそれによって、清々しさやご利益やエネルギーを得る方もいるでしょう。

この不安定な世の中はまだ続きますから象徴を拝むことも無くなりませんが、その象徴の実体は解明されていますから、天照大御神というのは人間精神の最高の構造を示していて誰でも運用可能ということもあるのです。人間意識の操作法の秘儀を天照大御神という名前にしただけのことなので、自由に学ぶことができます。

取り付き入門は自由ですが、少なくとも世界の大宗教のどれかを勉強し終わり、悟りぐらいは開いているのが入門の条件となっているといいます。それ以外はわたしのように知的な好奇心から入るという、基本的にいつまで経っても駄目な態度もあります。

こころの学問には神様はいません。言霊の学問も同様です。こころの神を祀るそんなことをすれば自分を自分でまつり上げることになりますから「あなた大丈夫ですか」と誰かに言われかねません。こころの学問の真理を天照大御神という名前にしてあるだけで、学問の真理を神様として祀り上げることは必要ではありません。

神道、神社で祭る神様達は自分のこころ、命から見れば拠り所として祭り上げられているだけで人の命、こころの本体としてはそんな神様達はいないのです。こころの写し換えられた象徴でしかありません。

多くの神懸かり的な体験経験が披露されていますが、体験内容があることと、それを神名と結び付ける事は直接的ではありません。同じ体験内容を他の宗教の神名を持って現す事もできます。

自分のこころが働く本体、これがその人をある方向へ赴かせます。これを世界の宗教は神と言っているのですが、古代大和ではそれを十七の働きで示しそれぞれに何々神という名を与えたのです。冒頭十七神です。それらを統一した言い方が伊耶那岐の大神で、それの実践的な選択智恵としての現れが天照大御神(人間のエという能力)です。

そして、『天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)』が『天の御中主(みなかぬし)の神。』です。いわば幼名というより誕生祝い名です。そしてその後五十の名の変化を得て、五十通りの自己鍛練の後に三貴子の長として出現します。

その時は完璧な実践的な国の常立(とこたち)の神、言霊エ、と豊雲野(とよくも)の神、言霊ヱの統一体となって創造行為の本体になります。天照大御神の誕生です。

----------------

◎005 こころの原論。天照大御神の誕生。「あ」の時。 ◎

004の最後では天照大御神は御中主だ、伊耶那岐だ、国の常立だとかいろいろな神名を出しました。これは完成されるまでのそれぞれの経過での切り口の形をいったもので、わたしが赤ちゃんと呼ばれ、餓鬼と呼ばれ、中学生、高校生、青二才とその時々の姿を換えていった時の呼び名があるようなものです。

成長変化に連れて名前が替わりますが、動物に身体の脱皮変態があるように、心の成長にも量的な変化や質的な変態があり、その一つ一つは神の名を付けられ示されていきます。

古事記には三貴子として完成を見るまでに100の成長の軌跡の名前の変化があります。御中主から建速須佐の男まで。現代の神道では八百万の別々の神がいるようなことになっていますが、たった一つのものの変化した名前があるだけです。

前半の神の名を付けられた五十はこころの要素を現し、後半の五十はこころの運用法を示しています。

変化していくそのたった一つのものとは「こころ=伊耶那岐の大神」です。心の成長過程にあった時は伊耶那岐の神でしたが、黄泉の国での自覚を通過した後は「大」の字が付きます。こころは五十の要素によって現され五十の全体がこころになり、こころが動き働く時は五十の働き全体がまとまって現れます。そしてこころの原図となるのが天照大御神です。

こころの要素はちょうど五十個として古代五千年以上前に発見され、それを五十音図として示しました。現在学校で教わるのはその一部の五十音図で、こころの組み合わせに応じた五十音図がまだあります。(ここは現代の常識となった意見と違います。五十音図は縦横の整然とした形が田んぼ(稲作は六千年前の土壌から痕跡からが発掘されている)に似ているので田んぼで象徴され、その田んぼとこころを組み合わせ思うという漢字ができています。思うという漢字の田んぼの意味が分からないと何故田んぼの心が思うになるのか分かりませんが、これは古代大和から支那の国に伝えられた人の本質的な現し方を示しています。五十音図が近世のものとか、日本には字が無かったとかは既に無意味な主張です。)

そのたった一つのものの始まりは「天地の初発の時」として示され始まっています。天地、あめつち、はアというわたしの意識のメ芽、目が現象となって地に付く(つ、ち)ということです。意識(アメ、天)が現実(地)に向かい結ばれる始めの時という意味です。

アはアーメン、アッラー、アミダ、ありがたい等意識の本質に関わる世界語の母音です。感動、驚き、救いを求める、感謝等のこころは「あー」です。赤ちゃんも「アーアーアー」から始まり、古事記も天地をアメツチと読むことから始まります。

この始めの時の扱いが、あまてらす、天照という意識構造を持っています。

天照らすというのは、アの間を照らす、わたしの意識であるアを照らし、自分に明らかにすることで、「ア」から「マ」までの間を照らし明らしめることです。

古事記には「天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、」とあって、「ア」が始まる時、アからマまでの間には、あ、たかまはら(高天原)、とあるように「タ」と「カ」があり、この「タ」と「カ」を照らし出し明らかにするということです。

もちろんこれだけでは何だか分からない書き方ですが、古事記ではこれらのことは「みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。」という出来事なので、隠したものは見えないし分からないものなのでそれで良しとしています。せっかく引用したのにそれらは「独神」、独自なことなので、分からなければ分からないままで善しということです。

でもそんなことを言っていられませんから追求してみましょう。

ブログのキーワードを「こころ」にすると沢山ヒットします。みんなが思い思いのこと気の付いたことを書いているようです。中には主張や論議もあります。自分の感じ考えたことがつづられています。個性的を競い、個人の意見ですがと断るなり、自分の発見なりとして発表されています。

さてこれらを一まとめにして説明するとどうなるでしょうか。せっかくの貴重な思いを一まとめにするなどということは失礼じゃないかとお叱りを受けそうです。そういう方達にはもうしわけありません、謝っておきます。もともと「みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。」な内容のことですので。

どのブログの内容も、どのような地位から、どれほどの知識から、どんな概念記憶から書かれたものであれ、それらは言霊「か」です。以下のようになるでしょう。

何かの現象を感知してなり、考えが始まるなりして、自分に跳ね返るものが得られる時にそれをまずこころの中に支柱として突き立てます。

それは外部から与えられたもので自覚されて得たものではありません。先天的とか潜在的にせかされて意識の表面に浮かび上がってきたものです。

外から与えられ感じ取ったものですがそれを受け取る時間は極々短い流れの中でのことで、頭脳の中ではまるで自分が感じ思いつき考えたように受け取っていきます。またここでの受け渡しは、本人の意図的な選択を装う形でまず、本人さえ知らず知らずの内に進行してしまいます。選択に自覚的に関与していないにも関わらず、その結果は頭脳内での本人のものですから自分で選択したように思えます。

こうして与えられたものの感じ表象思い等要するに対象となるを何であるか見極める先天的な頭脳内イメージができてしまいます。

すると今度はそれを規定明瞭化するために、以前から保持している記憶概念によって全経験知識の動員が起こります。見たもの聞いたもの言葉等の今頭脳内にある支柱イメージはいったい何かと自分で探し回ります。

そこで説明可能な頭脳内での体験経験なりと出会えれば、そのものを説明する言葉がでてきます。ここまでは言霊「カ」となるまでの単に見聞き感じた考えたものが頭脳内に設定されたときまでのことで、それが後にいわゆる書きネタとなるものです。

これが普通に言われる、思いついたこと考えついたこと感じられたこととしてまず始めに置かれるものです。もとを正せば本人の自覚的な行為ではありません。本人のものではあっても、個性でも無く、自覚でも無く、独自のものでもありません。自分のものであるがためにそのように思われているだけです。

そして物事はここから現象として始まってしまいます。全ての正否、正邪、善悪、創造と破壊の始まりです。

頭脳内で打ち立てられた支柱を巡ってそれをその人なりにどういうものかと規定し説明する準備が整っていきます。過去知識概念でそれを説明できるとその人の所有物となりますから、自分が感じた気付いた考えたものとして言葉となることができます。これがブログなり何なりとなるわけです。

この現象は元々は外からきたものであるため、潜在的に先天的に百%俺のものだという意識を与えられていません。どこかに不安な得体の知れない恐怖が忍び込んでいます。そのため自分のものだという主張に付随してその人自身にも分からない疑問や間違いや負の感情、思いを抱えています。

また本人の主張の強さにも関わらず常に本人自身が戸惑いの中にいます。確かなものだと確定したい不安定な気持ちを隠すことはできまん。

これがどのような主張にあっても共通なことです。

これを言霊「か」といいます。

古事記では大戸惑子の神として46番目にでてきます。この神様の名前をよく見てください、おおいにとまどう、という名前の神様です。

思いつきや考えたことを事を書き綴るブログは全てこんな調子ですが、今日は楽しい思いをしましたとか、美しい富士山を見て心が洗われましたとかでは「か」は別の意味の戸惑いを持ちます。

気づき思いつきのブログでは自覚のない外部から侵入してきたものから始まっていますが、感動情動を主する場合にはそれらを保持していく限り、他者外部との不安ではなく自分自身の所持しているものへの戸惑いとなります。

感情の場合では、現象現実との関係は知識経験概念に依存しません。過去の記憶から概念を借りることもありません。いまココでの感情がそのまま全部です。

ところが時の流れは非情ですので、今現在の情動もアッという間に過去のものとしていきます。そうなった過去の情動を語る時には上にある普通の思いつき考えと同じことになっていきます。しかし、ここで情動を持続させることができる場合もあります。

その場合の意識「ああー綺麗だなー」は、そう感じていることが現実の全部です。経験記憶概念とは別のここにある情動が感じている対象と同じになります。この持続の中にいることは難しいので、すぐに思いでの中に落ち込んでいってしまい、概念で説明されてしまいますが、上手に思い返せれば再び感動を得ることもできます。

そこでは頭脳内にある感動とその相手対象とは同じです。情動の多いさと同じものが相手の対象となります。対象へ向かう方向へ見ていくと、精神意識がそのまま対象意識となって出てくることになります。

古事記ではここの働きを担う神様は大事忍男(おおごとおしを)の神と名付けられていて、大いなる(大)現象(事)となって押し出て来る(忍)(おし)言霊(男)となっています。現象界へ始めて現れ出る最初の神さまです。

思いつきや考えが出てくる場合はそれらを過去の記憶概念知識に照合できるか戸惑いごとがありましたが、ここでは、全面的に与えられたことを維持すること、あるいはその一部を連続維持していくことに関してこころが維持展開できるかという戸惑いです。

それがこころの中で確固としたものとなれば、こころ一杯に拡がり感動のことばがでてきますが、残念なことに大抵は大いなる現象に押しつぶされ、記憶概念の中に滑り込んでいってしまいます。

アからマの間を照らすタとカの一方を説明してきましたが、タは天照大御神そのものの説明になるので、充分に意識の成長変態を通過しなければできません。言霊カも以前の45神の説明を抜かしていますからいい加減なものとなっています。

では次回からは古事記に沿って一番目の神さんからやり直してみましょう。