08章-1 先天からイメージへ

08章-1 先天からイメージへ。

ここからは現象を作ることに向う第一歩です。

現象とは何かということを説明に成功した人は未だいないくらいに、日々現象を作っている割りには、面倒で難しいものです。現象を作ることはこういうことだと誰もが分かっているならば、人生とは不可解などという疑惑もないのですが、苦しみの歴史の中にいます。

ということは人々は現象とは何か、人生とは何かということは明かされないまま生きるようにされているようです。

今までのどこの宗教もどこの坊さんも人生とは現象とは何かを、解けるものではありませんした。苦悩と疑問を一人歩きさせて、教義に書かれていることが元々あるというだけです。あるいは、それぞれが独自の人生の目的を持って生まれてきているのでそれを見つけ人生の目的に沿って生きていくというようになっています。

これらのことは人生というものがある、生きる目的があるということから意識が出発するので、人生の目的なるものを設定せざる得ない自己撞着から起きていることです。赤ん坊にあるのは人生の目的ではなく生きることそのものであり、赤ん坊は、生きる環境育ち等を作られ背負わされているものです。その赤ん坊にあるのは生きる目的ではなく、先天の生きるという誘導因です。

この先天の誘導因は赤ん坊には主体的な生きるという方向と、客体的な生かされるという方向に開いていきます。両者は裏表の関係ですから、それぞれ独自であると同時に不離で、目的を持つということもその裏では持たされているという関係にあります。

現象(結果)を得るという目的を持つことも、持ち保持していくことは主体的なことですが、それは持たされているという反面を保持しているのです。

つまり主体的に得ている目的というものも、実は、与えられたものが無ければ得ているものもありません。

我々も与えられた環境と生きていく力は元々持っているという、先天の状況から出発しましょう。今持っているものはその上で作られたものであって、目的とか、目的を持たなくてはいけないとかは、その後にその人の環境状況に応じてもたらされたものの上で出来たものです。

自分の成しやろうとしている事は、自分のした事の上でではなく、知らない間になされた事を下敷きとして自分に取り入れたというだけのことです。

同じことは心の状態、意識の在り方にも言えます。

意識の上では、自分の思うこと考えることが全く自分の頭脳の働きによって行なわれているように感じますが、全くそんなことはありません。

神道の神さんには邇邇芸命(ニニギノミコト)というのがいますが、現象が出来てにぎやかになるには、二次的(に)な上に二次的(に)な芸(ぎ)を働かす(命)のが人の出番になるということで、現象を生むのは二の次の三次的なことだといっています。

つまり、人の意識行為において実践現象を生むのは、まず先天の原理原則に動かされるのがまず第一、次いで先天構造より出来た表現領域(言葉)を受け入れるのが第二、そして第三次的に前二者を受け入れて人の実践行為が始められます。

これが人類の初めであるニニギノ命を象徴した形で現わされたものであり、意識活動についても言われていることです。

人は誰もが自分で思い考え、自分の考え自分のことを述べていると思っていますが、実はそれらはよく見ると三次的なものということです。前に述べた通り、自分の考え思いがまず直接に自分にあるのではなく、自分の考えが働く共通原理の上に載って、原理によって造られた表徴手段を自分が取り入れて、その上で各自の考えが発表され伝えられるのです。自分の考えを述べたという前には前段階がありそのまた前段階が存在しているということです。一人で考えているという時も事情は同じことです。

この発せられる自分の考え思いという三次的な事を無視して第一義としてしまうのも人の性(言霊ウから言霊ヰまで十七個の言霊が全て出揃い、この先天構造図を「天津磐境」(あ まついわさか)と呼びます 天津は先天の意 磐境は五葉坂(五段階の言葉の構造)です この天津磐境が活動して五官感覚で意識することが出来る精神の後天現象が生れます)ですが、これはまた別次元の話になります。日常生活では前段階前々段階を無視して、そのまま自分を主張して行き、自分側の普通の当たり前のこととして通用させ、反対意見や賛同等を起こし、知を持って戦うことになるというわけです。

そして6章までが、意識の先天の状態でした。

その特徴は、つまり、意識上の特徴は、作られたものでありながら先天の原理構造を形成しているということです。これを一万年前にスメラミコト集団が創造してしまい、人の心の原理として古事記の冒頭おいて神の名を借りて表現され、その原理を持って表現している民族集団を準備して、歴史を実践させている、またそのように実践していく歴史の指針として、大和日本を創造しておいたのです。それらを象形として受け継ぐようにされているのが、皇室、古神道集団です。家系の話などは枝葉末節というものです。

ですので後天現象と銘打った7章以降も、有るもの有ったものとしての現象(現象とは何かとか人生とは何か)を前提としていません。思い付きや閃きや歴史的検討などを幾らしたところで、大和日本の原理からは外れることは出来ないのですから、その原理に戻ることを第一とすることです。

そこで、現象の初めは先天が先天領域を出て現象領域へと渡ってきたところから始まります。

手にとって分かる形を意識できるものが後天現象で、それらが先天から出てくるといいましても、先天とは意識できず見聞きされず何かが起こっているとも言えないのに、先天と後天現象とはどのように繋がっているのでしょうか。手につかず手に負えない先天から後天への道筋を初めて明かしたのが一万年前のスメラミコトのしたことで、それを書き上げたのが安万侶の古事記です。それまでは口伝によってスメラミコトの実力を持っている者がスメラの地位を引き継いできました。その後歴史展開の事情により、引き継ぐ内容も分からず形だけを受けもたらせられ、家系と共に古事記の内容の形を残すようにさせられました

その最大のものは、大和の日本語そのものです。大和の日本語を先天原理となるように仕組んでおきました。

古事記の冒頭は意識の形成運用論として先天原理の形で造られていて、それを使用することで人々の実践行為を成すように仕組まれているものです。

作られていながら、つまり、後天現象でありながら、天津磐境(イワサカ・岩ではなく五葉)という先天原理として確立されました。

この先天から後天への成立過程を示しているのが、十七神を説いた後の段落です。現象となる形成過程にありながら、その一つ一つが現象となっています。つまり現象となる過程経過をもが先天の形を取っている為、現象となる途中にありながら、その現象となった経過全体を背負っていて、それ自身が確定した現象となっています。前承する言霊循環がここでも貫徹していきます。(言霊の幸わい)

現象の単位は三十二個あり、謎をかけるように言えば、循環の終わるまでは現象として未完成であると同時に、それ自身現象の単位としてはそれぞれが完成している姿となっています。動植物の種子や人の子どもは、子孫を残していく循環の終点にまで達していませんが、それぞれの立場として独立した立ち位置を占めています。それと同様な意識の過程があるというのが、意識の後天現象です。

古事記はそのことを津島-佐渡の島-大倭豊秋津(おほやまととよあきつ)島の三領域を経ることで説明していて、単位現象要素として大事忍男(おおことおしを)の神から始まり、大宜都比売(おほげつひめ)の神までの三十二神を充てています。

古事記はその経過を三領域に分けているのでそれに従います。

現象の出来ていく前提としての先天十七神の原理、そして主体側の働く原理(その発動とその働く領域)を通して、現象の出来ていく三領域は、

先天からイメージへ 津島という領域、

イメージから物象化へ 佐渡の島という領域、

物象化から言霊へ 大倭豊秋津(おほやまととよあきつ)島という

で、それぞれ独立した章としました。

さて身近な現象である身体(からだ)について見てみましょう。

実は、身体(からだ)というのは空田(カラタ)からきています。自分の身体は空田というわけです。叩かれ切られれば痛いのにどこが空(カラ)なのでしょう。また病は気からともいっています。現に頭痛がある腹痛があるというのに気のせいにされるのでは納得いきません。

ところが麻酔剤で手術を行なえば痛みも痒みもなく、身体が切り刻まれていても知りません。また頭痛や腹痛も薬を服用すればあっと言う間に直ってしまい、やはり気のせいだったのかと思うほどです。

では現象である身体の空田はどこにあるのでしょうか。領域それが領域としてのカラタ・空田・身体です。

叩かれて痛みを感じれば、誰が叩いたか知りたく、叩いたやつが憎たらしくなりやり返したい意識を持つことも普通にあります。そこで叩かれ苦痛を得た現象を分析探しますと、何時どこで何を使ってというように、まるで意識とは関係のないことを分析し出します。物質的条件や事情を得ようとします。そこに取ってつけたように動機なるものを見つけ、動機の個人的社会的なこれまた意識とは関係のない分析をしだします。刑事的医学的心理的等々に意味があるかもしれませんが、人を叩く意識の改善や、心の修養を意識にもたらすものではなく、叩かれてやりかえす憎しみを持つ意識を鎮めることもありません。

つまり身体の現象を他の現象で語っているわけです。その分析説明は本人をはじめ誰でもが思い付き考えることができますが、てんでばらばらです。身体の叩かれた痛みはあるのにその意識の在り方は空のカラダに好き好きの針を刺していくようなものです。痛いというのは本当は無いのだよという宗教的なものから、本当はトンカチでなくペンチで叩いたからだよというのまで、直接に意識に有るもの有ったものをないがしろにしています。

身体は物質ですから物質の変化経過に従い、それに意識が引きずられます。死ねば身体はありませんが、残された身体に関する意識を表明したものは残ります。昨日店先で売っていた真っ赤な切り売りされたスイカは、実際に頭の中に押し込まれることなど不可能なのに、今日はありありと目の前に有るように見え買う積もりになったりします。スイカという現象を得るあるいはスイカと認識するにはスイカそのものではなく、まず前提原理となる空のスイカを設定することが必要で、その空のスイカにはスイカに関する全ての情報を受け入れ植え込まれ収穫できる田んぼ(田、タ)が備わっているのです。

その空田(カラタ、身体)は、無い方から見れば何も無い空に近づき、有る方から見れば充溢した身体現象の方向を取ります。

カラダ(現象・身体-空田)というのはこの両者の間に存在しているものです。そのそれぞれの立ち位置によってそれぞれの意識ができていきます。カラ田という一つの全体を持った空から充溢までの身体の意識のとる立ち位置がからだ(身体)といわれるものです。生物それは五感感覚で見られる身体から記憶概念で知られる身体、感情情感で感じる身体を通して行動に赴こうとする身体までを、身体は空であるために如何様にも受け入れることができるのです。

このカラダは古事記では「クニ・国」(国の御柱)として語られています。

国・クニは今まで「領域」として理解されています。ですので、領域は先天から後天への架け橋でもあるのです。例えばその国(クニ・組んで似せる、領域)に住んでいる人は、先天からの血統を引いているが先天そのものではなく、後天現象としての性格を示していますが現象として完成することのない後天として自らを示していきます。

「日本人である」ということを例にとって、先天の方へつまり空(カラ)の方へ近づくように見ていくと、現実の身体よりは象徴の日本人の方向へ近づき日本という国の領域に住んでいるあるいは国籍を持っているというだけの象徴的なものから、後天の方へつまり現実の身体の方へ近づくように見ていくと、現実的な身体物理生理的な特徴をあげつらうような方向へ近づいたり医学鑑定などで特徴を示してきますが、規定し尽くすことがありません。つまり人々はこの両者間のそれぞれのお気に入りの立ち位置を選択しているだけなのです。先天ではないが先天から持ち来らせたものであり、後天として完成したものではないが後天現象になるものであり、先天から後天へと向う国領域を経ることで意識が表明されていきます。

この先天から後天への大きな分類として、一)先天からイメージへ 津島、二)イメージから物象化へ 佐渡の島、三)物象化から言霊へ 大倭豊秋津(おほやまととよあきつ)島の三島の領域として古事記により現わされました。

大事な要点は、国・クニという領域では、カラタ(空田)は主体意識の介入を得て、先天を後天に導き、先天を後天現象(身体)として明らかにしていきます。と同時に後天現象が先天から出てきたものである血統を辿る領域でもあり、その主体活動が持続していることです。国・領域側からだけ見ていきますと、物体物質の出生証明書があればその国の現象を背負った者であるということになります。その人の意識に関係なくパスポートさえあれば日本人ということになってしまいます。

心身ともにその国・領域の者であるには古事記の指摘する三島の領域を通過しなくてはならなくなります

では通過し終えた形をどう見るかというと、それが濁点の付いた濁音になるということで判別していきます。

濁音とは。

現象は一つの形成過程にありますが、それぞれ独自にやめたりとめたりしてその時点で独立した形を成していきます。それぞれが未完成不十分と見られたり、満足を与えられたりしていきますが、主体意識のそこの時点での活動停止を現わしています。

その全体は表象され表明された言葉で現わされます。その現れ方に未だ意識がくっついていればその後も続いていき、意識が途切れれば一応の終りが与えられます。

そして与えられた意識の終りの表現が、濁音という形を取るのです。

文章表現の形だけなら、過去形をもちいることもありますが、過去形は全てが意識の終了を現わしているわけではありません。また文章という形では、単位要素としての言葉での意識の終了や過去を示すことはできません。

意識は主体的な活動を示しますから、その終了をも示せねばなりません。フトマニ言霊学は意識の単音単位をまず扱い、単音の完成は三島を通過した後ですので最後のカグツチの神がでてくるところでまた扱います。

後天現象の領域。

先天からイメージへ

津島 (天の狭手依比売)。

人の現象創造行為の最初は先天構造内のものを頭脳内にイメージを作ることで、そのイメージに至る段階領域。先天領域からイメージの原型の始めの踏み絵が頭脳内にあらわれ、後の螺旋上昇循環の基礎の規範となる。

津島の津とは渡し場のことで、未だ言葉として名のつかない、秘められている区分、先天構造内に起った活動が津島という十言霊の現象を経て、頭脳内で実際のイメージにまとめられ行く過程です 。

まだ言葉として表現されていないうちは全く個人的な恣意であって人間社会に通じることのないものです。先天の活動が言葉の社会、即ち一般社会に出て行く船の発着場という意味で、先天の何か分らない働きが表現された言葉の世界へ出て行く港の意で、頭の中の意識の領域に出航していきます。

別名 天の狭手依比売(あまのさでよりひめ) とは、先天の天名(あな)が狭い津島という区分(狭)を通って一つのイメージにまとまるよう手で探ることが秘められている(比売)区分ということです。

津島という領域は先天から後天への初めの通過領域です。津島という領域場(国)において先天の広大無辺の領域が頭脳内に宣(の)るところです。現象への橋渡しですが、無限の先天世界が津島に上陸するや否や、頭脳内の津島にイメージという言葉としてはまだ産まれていないがそれ自体がイメージを形成する現象となるものを形成します。無限の世界がちっぽけな頭に宣(の)るわけですから、それこそ狭小な通路を探して手探りするようにして、頭に宣(の)るものを紙縒り(こより)のようにして差し込んでいくのでしょうか。それでもその紙縒りは後の現象となるものが秘められているものです。

それはまだ完成された現象ではないが、分けの分からない先天でもなく、紙縒りを差し込むという形に秘められた先天が頭脳に宣(の)ったという全体的な言葉の元となる現象となっています。それはまだ言葉の形にならず発音されません。しかし触れることのできない先天ではなく、何らかの感触を得られる現象となっています。ここでは差し込まれた実在世界の全体を秘めている狭い紙縒りというイメージです。

つまり、先天がイメージという現象になりました。

イメージは物質、物象の形をとっていないから現象ではないということではありません。頭脳内で像としての形をとります。ですので、イメージは取りもなおさず先天ではなく後天現象ですから、その成立の説明が可能となっています。そして津島の領域全体がそれを説明しているというわけです。

【 既に国を生み竟(を)へて、更に神を生みたまひき。 かれ生みたまふ神の名は】

人の成すことは意識における他者、他の物象に子現象を産んでいくことです。言葉という他者、他の物象に自分を宣(の)せることです。ここまででは子現象を産んでいく先天の原理が出揃いました。

先天の原理というのは、日常思考で云われる前提条件というのとは違い、前提は前提という(秘められた)現象に制約されたものしか現れてこないのに対して、先天原理はそれらの全ての前提をも先天の原理に取り込まれているものです。

古事記の冒頭にて客体側と主体側の先天構造が明かされました。私たちの意識はその主客の先天領域に載って自在な活動が保障されたことになります。 「 既に国を生み竟(を)へて 」というのはそういった意味で、国土領土造成とは全然関係ありません。「クニ」という意識の領域は「生み竟(を)へて」しまっていなければならず、新たな開拓地というものはありません。どのような意識も前記の十四島領域からでてくるだけです。

それを原理として扱わず前提として扱うと、自分の考えがまだ関与し新たなものを創造できるように思えるようになります。これは十四島の上に載った自然な逸脱で、自分の新たなアイデア思い付きによる発明発見の形を取るように見えるだけです。 前提として設定してしまうとそういった固定した条件、及びその条件に沿うか沿わないかの別の現象が、取捨されるようになり条件のその又条件を扱うようになっていってキリがありません。勿論そういった逸脱が、人類の進化発展の動力となり寄与していくという構造も後に明かされます。(主体側の活動原理とは別の黄泉国(よもつくに)の原理の元に行なわれます。)

ここからは主体側の活動による子現象の創造ですが、先天の原理に対応するための、先天の原理を全て表明できる現象を得ていません。

先天の原理に対応している現象とは、先天の時処位を全て示すものでなければならず、前提条件というような考え方からは導くことはできません。

先天にイエウオアの五次元世界相があり、また、チイキミシリヒニの時間相があり、それらに対応して反映されている場所を占める位相が子現象として全部出てくる必要があります。

先天構造を現わす言語という子現象が用意されていれば、問題無く全てのことの表現が可能となりますが、そのような言語は存在しません。

つまり言語は先天的に存在するような形を取っていますが、先天の位相を示すことはありません。

しかし、ここに唯一先天の位相を示すことができる言語が、大和の日本語としてあります。

というのも大和の日本語は先天の位相の発現として造られ、先天が自らを発現し現象するようにできているからです。その造られる発現の構造がオノコロ島(己の心の島)の段落です。子を生むことにかこつけて、言語の発生の準備を示したものです。

そしてここからは、先天が自らを表現する形をとり、自らが現象となる場合の全位相を産んでいく手順であると同時に、現象の産まれる時処位を示すこととなります。

ですのでここでいう、「既に国を生み竟(を)へて、更に神を生みたまひき。 」の「神」は冒頭十七神とは次元が違います。

冒頭の十七神は先天の神ですが、この後の三十二神は先天によって産まれた後天という位置にあります。イエアオウの世界位相の主客とチイキミシリヒニの時間の働き位相との間に出来る三十二の後天現象の相です。鳥居・又は五十音図を思ってください。両端の柱がイエアオウ・ヰヱワヲウの世界位相の主客で、上部にチイキミシリヒニの時間相が来て、中の空間に三十二の枡目が出来ます。三十二の枡目は最初からある先天の働きによって、埋められていき後から成立します。つまり後天の「神」になります。

人の心に先天原理が成りそれが主客となって、その原理のもとに主体の活動が始まる領域も確保されました。原理が領域に宣(の)りました。

「国」のことを国土創生に解していくと、次に出てくる「更に神を生みたまひき」の神々の居場所が、せいぜい各論としての存在を与えられるだけとなります。国土を産んだ後の象徴や比較神話の対象となり終わってしまいます。古事記の冒頭はもともと事象の精霊化や神霊化の成立を語るような外見を受け入れさせるようにできているので、そのような理解は当然なことです。しかし真実は人の心の発生論と運用論を神の名を騙って書かれた人類史上初めての完璧な精神現象発生運用論という代物です。

「神」の理解を人間世界のあっちかたにある神霊とするならば、最初から古事記の真意は理解されません。そんな「神」は元々存在しないというのが古事記の秘められた主張ですが、同様に「神」を語るようにさせた歴史的事情を造ったのも古事記の真実からきています。『日本と世界の歴史』参照。

「神」というのは現在では人間のあっち側にいる分けの分からない神霊を指していますが、大昔や古事記の書かれた真意が通用していた時代には、神とは自分の心のことでした。現代では自分の心も分からず不安で、畏怖している状態の向こうにあるものを、自分以外の確かなものとして神扱いにしています。自分とは何か生きるとは何かも人生なかなか分からないものですが、人には不明不安ではあるがその外側に確かなものがあると思わされています。

ところがよく見れば、自分の不安恐怖畏怖、人生は分からないという思いも、それがそのまま分からなければ分からないまま、自分には最もはっきりしている自分の持ち物です。人生とは神とは現象とは何かと分からないとき、分からないという自分の心があることそのものが、明らかにはっきりしたその人(自分)に見えていることです。

分かろうと分かるまいと自分の心が載っている領域があります。感じ考えている肯定であっても否定であっても、その現象の出てくる後天となっているものが「クニ」です。人は肯定と否定は正反対のように思えていますが、同じ一人の人間内でもどちら側へでもコロコロ変わることはよくあります。現れた現象をやり繰りしていくと正か反かになりますが、現象の出所は同じ本人内にあります。

今度はそういった一人の人に有る正否が現れる現象に移る番です。

しかしここでは、人の現れた意識の正否を扱うのではなく、それらが出てくる原理、後天が出来上がる原理を扱う番です。

まずは鳥居の下を潜るというその空間を埋めることです。よく鳥居は結界の印といいますが、進入停止の結界にしてはスカスカ過ぎ簡単に入れます。それに何故その次に、横から見ると口を開けた格好をしている鈴を振るのか通じるものがありません。鳥居の空間が鈴(スズ)に導かれる過程を明かせるかどうかやってみましょう。