06章-0 己の心の成立・後半

06章-0 己の心の成立・後半

本項目の古事記の原文です。見出しを付けます。

前段で心の実体(イエウオア)である天の御柱と心の働き場である八尋殿(チイキミシリヒニ)が見立てられました。

活動場が出来た後の実際の活動が開始されます。

・現象創造へ主客の働き

ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。

・一般性の創造

ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。次に淡島を生みたまひき。こも子の例(かず)に入らず。

・個別的主体性の創造

ここに二柱の神議(はか)りたまひて、「今、吾が生める子ふさわず。なほうべ天つ神の御所(みもと)に白(まを)さな」とのりたまひて、すなはち共に参(ま)ゐ上がりて、天つ神の命を請ひたまひき。ここに天つ神の命以ちて、太卜(ふとまに)に卜(うら)へてのりたまひしく、「女(おみな)の先立ち言ひしに因りてふさはず、また還り降りて改め言へ」とのりたまひき。

かれここに降りまして、更にその天の御柱を往き廻りたまふこと、先の如くなりき。ここに伊耶那岐の命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美の命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき。

意識の十四の宝座(心の全領域)

・ 意識行為を起こすための先天領域

一) かくのりたまひ竟へて、御合いまして、子淡路の穂の狭別の島を生みたまひき。( 意識の始まる前の全体構造。)

二) 次に伊予の二名(ふたな)の島を生みたまひき。この島は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ伊予の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐の国を飯依比古(いいよりひこ)といひ、粟(あわ)の国を、大宜都比売(おほげつひめ)といひ、土左(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ。( 前もって現れてくる全体。)

三) 次に隠岐(おき)の三子(みつご)の島を生みたまひき。またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)。( 知識と智恵、概念と選択の領域。)

四) 次に筑紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ筑紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊(とよ)の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久士比泥別(たけひわけひとわくじひわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別といふ。( 意識の働きの領域。)

五) 次に伊岐(いき)の島を生みたまひき。またの名は天比登都柱(あめひとつはしら)といふ。( ここから始まってここへ戻ってくる。)

・ 意識の後天現象要素領域

六) 次に津(つ)島を生みたまひき。またの名は天(あめ)の狭手依比売(さでよりひめ)といふ。( 先天からイメージ物象化へ。)

七) 次に佐渡(さど)の島を生みたまひき。 (物象が言葉表徴と結ばれる。)

八) 次に大倭豊秋津(おほやまととよあきつ)島を生みたまひき。またの名は天(あま)つ御虚空豊秋津根別(もそらとよあきつねわけ)といふ。かれこの八島のまづ生まれしに因りて、大八島国(おほやしまくに)といふ。(言葉が移動し相手対象内で了解される。単位要素の完了。)

・ 現象要素の運用領域。

九) 然ありて後還ります時に、吉備(きび)の児島(こじま)を生みたまひき。またの名は建日方別(たけひかたわけ)といふ。 (運用要素の整理と初期の運用規範。)

十) 次に小豆島(あづきしま)を生みたまひき。またの名は大野手比売(おほのてひめ)といふ。 (主体側の運用要素規範。)

十一) 次に大島(おほしま)を生みたまひき。またの名は大多麻流別(おほたまるわけ)といふ。 (主体側の過去規範を用いた大いなる判断規範。)

十二) 次に女島(ひめしま)を生みたまひき。またの名は天一根(あめひとつね)といふ。 (主体側の過去規範を用いた大いなる判断規範。)

十三) 次に知珂(ちか)の島を生みたまひき。またの名は天の忍男(おしを)。 (主観的な運用をたしなめ反省する規範。)

十四) 次に両児(ふたご)の島を生みたまひき。またの名は天の両屋(ふたや)といふ。 (主客の両世界の統一された自覚的規範。 )

こうして主体側客体側と自身の働きが整い、次段で現象子音が創造されます。

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現象創造へ・一般共通性の創造から個別性へ

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「あ」と言おうとして「あ」と言うのにはものの一秒もかからないのに、古事記はそれを百神で説明しています。それをまた解説しようとする私の論考では6章にもなって「あ」の発音をする段階にはほど遠く、「あ」と発音しようという心がやっと出来てくるというところです。

これから「まぐあい」という有名な言葉の出てくる段落へ入っていきます。男女間で子供を産むように、母音と父韻で子音を産む話です。「まぐあい」は具合を見ながら、父韻と母音の間「ま」を喰い合う、くい合わせることです。

今まではそのための準備の話が続いてきました。まだ終わりません。実を言えば「あ」というのは単純な瞬時のことですが、何をもって「あ」と言ったのかといえば、「あ」と言ったと確認納得したからです。言い出して終わりではありません。そこに来るまでは「あ」であるかどうかは不定なままです。

物をつくる子供を産むという物質、生理上の事ならば、物理的な条件や可能性を得れば事は成就します。しかし、心・意識の世界では初めに先天の構造の元に両者が共感同交し、終わりに明かき心の「あまてらす(アの間(ま)を照らす)」を確認して現象子音を得たとします。天照す大神が冒頭から九十八番目の神として出てきて、心の現象創造の終わりが了解確認されます。

逸脱。

意識や考えには、途中放棄とか未完とか逸脱とか停止とか思い込んで固定するとか、不完全な姿が色々出てきます。そして不正をそのまま正しく完全だと主張することもあります。つまり古事記の言霊神百神を通過する以前にその都度満足なり気に入ったりして途中で脱落して自己主張とすることです。そのようなことは普通にあることで、当然のことです。しかしそういった態度をとってしまい様々な形をの主張となるにはそれなりの心の出所があります。それは各自の心・おのれの心の島からでてくるもので、その最も原初の姿がこの段落で示されます。間違えというより誰にでもある当然な心の一時停止状態ですが、逸脱は逸脱でそのまま突っ走るのでやっかいなこととなります。

言葉の完成までに百神いるということは、その途中の逸脱の仕方に百あることでもあります。例えば天の御中主の神から始まりましたが、ここでの最初の逸脱は、在るものを無いとすること動きが始まっているのに動いていないとすることです。ですのでここで逸脱が主張されれば後が続きません。というようにそれぞれの段階、次元での逸脱の形がありますが、逸脱論はまたいつか別な形でするでしょう。

前段で心とその実体と働きの場がそれぞれ出来ました。今度はどのように働くかが明かされます。その明かされる経過そのものが心の成立となっていきます。心の主客がどのように働きその現象を生んでいくか、その過程の中で、同じ言葉に片や言葉の共通性一般性と一方では個別性主体性できてくることが明かされます。

と同時にその進行が各人の、あるいは集団となる場合もあるでしょうが、心の十四の領域を形成していくことにもなります。オノコロ島が心の成立の場となるように、十四の領域場は心の要素の整理運用領域を成立させていきます。十四の領域を全部瞬時に通過し終われば正当な言葉となるのですが、前にも言ったように各段階で引っかかってしまうことがあります。その逸脱の典型的な姿が黄泉国(よもつくに)で示されます。

間違え逸脱がいつでも出来るというのは、現象としてそうなることをいうので、逸脱できる原理的な説明がいつでも出来ることではありません。逸脱できるためには自分の柱が立って自分の表出表現が出来ていなければなりませんが、ここではまだ自分の心を成立させようとする段階でしかありません。

正確な原理が把握できていなければ逸脱を説明できませんが、正確な原理とはフトマニ言霊学のことです。

より正確な原理とは古事記の冒頭のことですが、心の原理を明かしたものは世界にこれしかありません。数千年の歴史でどのような宗教、哲学、道徳思想も正確な原理を説いた試しはありません。仏教は仏の教えで仏の主張で心の原理を説いてはいません。唯一、故人島田正路氏が心の原理を解きました。

それでも数千年の個人の教えや教説に導かれてここまでの文明を作り上げてきました。引っ掛かりぶつかりつつ世界文明ができました。

心の成長は欲望、知識、智恵、感情、意志(ウオエアイの世界)と昇っていきますが、現にある世界文明を未だ手にしてはいません。世界の宗教者と大和の日本人が智恵と感情の狭間でどうするのか悩んでいます。政治指導者たちは世界秩序に対する指導原理がありませんから、人類の進歩を遅らせることで自らの介入の手柄としているありさまです。欲望と知識に縛られて智恵が出ず、狭量な欲望と知識を一般化するだけです。

これも心の進展に沿うことですから、一概に文句も言えないし、それだけの力もありません。今のところ私達にできることは、心の運用原理を学んで、心の反省了解の範囲を拡げていくことでしょう。

最初の段落の原文です。

【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。】

この文章は前段の八尋殿創るところと同じ構造です。とはいっても全ては言霊循環の中にありますから、同じ原理になります。原理は母音と父韻とその働きが絡み合う、それだけのことです。その三者の絡み合う姿が明かされるところです。実践行為としては何でもないことですが、実践的に了解してしまっているので、それが思惟規範を縛ります。

「 成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」

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【ここに、その妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。】

『そこで自分の活動の条件が揃ったので、自分に見合う相手を探し相手の特徴を問います。汝が身は言霊上の構成構造の特徴で言えばどうなっていて、成れるというのは発声発音上はどう「鳴る」のかと問います。問われたミの命は実体実在の特徴としては、そこにいつも在り有り続けるだけですから、一度発音されたのなら鳴り鳴りて鳴り止まない事を自分の特徴として答えます。』

「そこで有りて在るだけのイザナミの母音実在世界に問います。有りて在るだけの構造世界はどうなっているか。私はただ有りて在り続けるだけの世界で、発音で言えば一度発声され開始されればその発音に変化は無く同じ母音がづっと続きます。ですので私を見初めその時点での姿、現在の姿を見たければ、私の成り合わぬように続く処を断ち切り閉じ流れを中断して、その時処位での私を現してもらわねばなりません。」

【 ここに、 】

「ここに」という言い方がしつこいくらい繰り返されています。「ここに」というのは、前の現象(子・こ)が煮詰まって姿を現してここにあり、そこから新しい現象(子・こ)が煮詰まっていく「こ」と「こ」の境目にいることです。連続しているが次元の相違をいう時、同じ位置にいるが立場が違う時などに使います。今までの道程が全部含まれていて、その道程の最終段階から新たな過程が始まる新階段の昇り口にいるということです。「ここに」は場面、次元の違いがあるときに使用されていますから意識の運用もそのように見るための指標となります。

主体の働く先天十七神構造が全部揃って、その先天神(天津神)が働きを開始して私を動かし私のために先天の活動場を創造し、主体自身がそれを意識確認し自身の活動を始めようとして、そこに自分の心の実体世界(天の御柱)と働き世界(八尋殿)を創造しました。

二神か一神か。

主体が立ちましたからこれから自分の活動がはじまります。

イザナギとイザナミの二人の神さまがいるように書いてあり、それを人間の二つの人格個性に当てはめることもあるようですが、とんでもない間違いです。イザナギの心の内にある心の気をイザナギ、心の身をイザナミとして、一個の自分を主と客に見ているのです。二神がいるのではなく二神となる働きがあるのです。

これから出てくる二神の「まぐあい」も私と誰かの二人の「まぐわい」ではなく、それを意識に載せた場合に私の意識内における主客としての二つということです。

男女の生殖も言語の発音も、物を産み出す同じ原理構造であるため「まぐわい」の比喩が用いられました。

ここから私の心の相手を見ての働きが始まります。

前にイザナギの三態として「神、命、大神」を区別しましたが、ここではイザナギそれ自身の区別が現れてきます。つまりイザナギの 実体世界(天の御柱)と働き世界(八尋殿)、その内容は先天の十七神、が吾の眼を付けると同時に地に成りました。

古事記は原理を見れば繰り返して最初の言葉「あめつち(吾の眼を付けて智に成る)」を繰り返しているだけです。次元が変わり場面が変わっても原理は変わりません。ということは最初に間違えれば後は全部間違えで、次ぎ場面で間違えればその後は間違えの上にのっているということです。今までギミの二神のまぐあいとしてきた方は、ミの命は自分の片割れで自分が創ったものであることに注意しましょう。心の反省了解の範囲を拡げていきましょう。

主語の曖昧さ。

イザナギとは私達自分自身のこころを指しますから、自分という言葉を使って何かを見る場合の例をとります。すると「ここに」、次のことが出来てきます。

一) 何かを見ている自分の主体側の働きと、

二) 自分に見られている実体を設定している自分があります。これは日常的な事ですが、もう一つの要素があるのを通常は忘れています。それは、

三) 見る自分の働きと見られる相手実体が何故かうまい具合に出会い鉢合わせをさせている自分がいるということです。

ということで、ここには三つの視点があります。

よく古事記には主語が省略されている曖昧であるといいますが、主語は一つしかないと決めつけて主語を探しているからそうなるだけです。

例えば、自分の手を見る場合でも、「私が自分の手を見る」という先入観が刷り込まれていますから「私が」を主語とします。しかし意識の実際の在り方ではそうはいきません。

一) 自分の手を見る働きの視点の中で、見る働きの主体を主語とする場合、

二) 自分の手という実体の視点の中で、足や顔や爪でなく手が主語となって手を強制的に見させられている感覚を得る場合があります。

三) 自分という統合体の視点の中で、自分と手との感応一致した感覚を得る場合などは、自分も手も超えたある上位の感覚から自分でも手でもない何者かが主語となってそれから与えられる感覚を得るばあいがあります。

自分か手か何者かか分からない主語は日常普通に経験しています。

大和言葉の日本語を扱う日本人はこうした複雑な経過も難なく取り込みこなしていきます。

というのも誰にでも言葉の先天構造がそなわっているためです。日本人は言葉の先天構造から話を始めているのに、主語探しというのはわざわざ外国の魂を導入しようとしているわけです。

「ここに」というのは進行する意識の螺旋階段の同じ位置の上と下みたいな関係です。このように主語は主(ぬし)の語る言葉として一定しているわけではなく、天の御柱と八尋殿を立てた後には御柱と八尋に対応する主語がそれぞれ立てられていくでしょう。

つまり私の自分の心は一つですが、その一つのことの構成要素を創っている分だけ私の心の主語があるということになります。私の手を見るという時も、私が見るというのは総体的な言い方で実際には、私の考え、思い、感情、感覚のそれぞれや疑問や確認の心持ち等の主語が手を見ているのです。

主語を固定して特定したい意識には主語の省略曖昧さと映るでしょうが、実は自分の持っている一つの事象に対する多くの主語を語るのではなく、事象そのものに主語を語らせているのです。

ということは、見られた手が主体で、ここにいる私は客体なのです。見ている私は客体で主体は見させている手の方です。(とはいっても固定した取り方はしないように。)

【 その妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、 】

主語は何でしょうか。イザナギです。ではイザナギの神ですか命ですか、問う心の内容で言えば次に「汝が身は」とありますから「汝が身」を思う心が主語にきてもよさそうです。でも問う心の動きをみるならば「いかに成れる」がもっぱらな関心事です。どのように働くか気にしています。

このように主語を省略しないと主体の意味が出てきません。ひどい言い方だと怒らないで下さい。

ギがミに問うのですが、もしギの方が問う主体側であるならギの問いは勝手気ままに無制限に好きなことが問えます。ということは問われた内容そのことが固定されてそれしか問えないということになります。

ところが問われる相手はそんな狭い問いの範囲に閉じ込められてはいないのです。問われる相手は問う主体をいくらでも超えています。正確に問うことを受け入れつつ全てに対応するには主語は不要なのです。(これまたひどい言い方です。)

主体側が問うこと(ギ)は客体側(ミ)に無いものは問えません。問う側の働きとしてはどんなことでも問えますが、答える客体側に無いものは答えようがありません。このように主客、問いと答えはそれぞれの領域にあるものです。さらにギの命は主体側ですから自分の考えに沿って何でも問うことができるようですが、実はミの命の次元を超えてしまうことは出来ず、自分が主体的に問うているようですがミの命の範囲内のことしか選択できないのです。その範囲内でのイザナギのあれこれの問いとなり、イザナミの方に質問させるいざなわせる選択権があるようにさえみえます。

【 汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、 】

ですのでイザナギは最大限にミの命である所のものを引き出す問いを出します。ミの命は問われたものは皆答えますが、ギにとってはギの問いの範囲内でしか自分で受け入れられないのです。答えは問いにありという所以ですが、問いが複数あれば答えも複数になってしまいますので、ここでの問いは「汝が身は」とその実体全体を問うともにそれが「いかに成れる」とその働きの始めからの動きを問います。

とここまでのことならそれば物の製造にも当てはまる事で、己の心の島の心の創造の話になりません。

そこで古事記を心の原理論として読んでいるのですから、己の心の島で「成る」ものの正体を明かさねばなりません。そうすると心の島を創造してそこに心の主体側と客体側を立て、両者の働きによって出てくるものは心でそのこころが「成り」出てくるという事になります。心はどのように成り出てくるのかといえば言葉によって「なり」出てきます。この心が自分を表現するのは言葉ですから、ここでいう「成る」は言葉が「鳴る」という謎で、発音発声する謎であった事になります。

【 答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。 】

未だに子音は創造されておらず、母音と半母音と父韻と親韻だけです。父韻と親韻は働きですからそれ自体に「鳴る」という物理現象はありません。「鳴る」のは主体側のアオウエイです。「鳴った」と確認されるのは客体側のワヲウヱ㐄です。

ギの命は「汝(な)が身はいかに成れる」と問いましたが、ミの命は客体側結果側です。ミの命が「鳴る」のではありません。「鳴る」のはあくまで主体であるギの命の方です。

イザナギは親韻として父韻と母音の両者の土台になっています。そのイザナギの母音としての展開された姿であるアオウエイと展開された父韻であるチイキミシリヒニ の内、ここでは実在母音次元が「鳴る」のです。

ですので問いの答えは鳴らしてはいないですが、主体側の「鳴り鳴り」ての結果として「鳴り合はぬところ一処(ひとところ)あり」ということです。非常に複雑やっかいなところです。

「汝(な)が身はいかに鳴れる」と問ひたまへば、」はイザナギの問いでイザナギの主体活動である「鳴る」をミに見つけてどう鳴るのかと自分の問いを与えました。

「汝(な)」、はイザナミの命です。ですが。

「汝(な)が身」、はイザナミの客体側の結果を「身」といっています。

「いかに成れる」と問ひたまへば、」、はギにとってはミも鳴るものと思っていますからどう鳴るのかと聞きます。

「答へたまはく、」、はギの問いにだけ答えます。日常会話では質疑応答で噛み合わないことはよくあることですが、そのような幾重にも螺旋階段を昇ってしまた後の現象の相違を取り上げているのではなく、それ以前の「瞬間」の話です。この最初の瞬間の循環が了解できればその後も取り上げられます。

ですのでここではイザナギの主体的な「鳴る」が客体側であるミの命の中でどうなっているかどんな結果としてあるかを問うています。

「吾が身は成り成りて」、はイザナギの働きかけによって生じたイザナミの身はということで、オノコロ島で打ち立てた次元世界のことを指します。というのもイザナギは既に十七神の世界を現す働きを得ています。逆に言えば複数の次元世界に同時に問いかけできなくなっています。ミはギによって問いかけられる次元世界に対応するということです。ギの問いがあれば必ず対応します。

「吾が身は成り成りて」、は、私イザナミはあなた様の鳴り鳴りという働きかけに応じて、私が鳴り鳴りという客体側の結果を呈しています。 イザナギ様が鳴るというので私が鳴ります。しかし私の鳴るという姿をよく見てください。

「成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。」 、は私イザナミが鳴るのはあなた様の働きかけによるもので、鳴るということがあるという結果を示します。ですが、あなた様はご自身にお持ちの「天の御柱」の母音実体世界と八尋殿の父韻働き世界の内、母音実体世界を持ちまして私を鳴らしました。あなた様の母音、イエウオア、の問いかけに応じて私もお答えしていますが、あなた様はアならア、オならオを用いて私に結果を示すようにいうだけです。私はアならア、オならオとお答えいたしますが、それを閉じ止める事を教えてもらっていません。アはアで同じ音が続きいつまで経ってもアーアーという結果を与え続けるだけでの「鳴り合わぬ」ことになってしまいます。

私は客体側結果側のもので受け身ですから、鳴り続けるアーアーを主体的に閉じ止めることは出来ません。イザナギ様が実在母音世界として私に問いかける以上わたしは「鳴り合わぬ」ことになります。

旧約の冒頭です。

「 初めに、神は天地を創造された。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神 の霊が水の面を動いていた。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

光を昼と呼び、闇を夜と呼ば れた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

神は言われた。「水の中に 大空あれ。水と水を分けよ。」

神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分 けさせられた。そのようになった。

神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝が あった。第二の日である。」

聖書に限らず宗教の特徴は在ったものを有る有る有ると神が創造しているとします。旧約も三日目四日目と有る有る有るが神の創造として語られていきます。特徴あるもの個別的なものが順序を経て在るとされるだけでどのように創造されるかは語れません。というより神が創造していくわけです。

意義を付ける解釈。

これは、「神」が創造したという形を創っていますが、古事記では今検討中の段落とその次に続く段落を短絡させて、「神」の言葉として現したものです。

古事記では「神が言われた」とある所を、さらに分類して「言われた」ことの内容を明かしています。「光あれ」と命令するのもいいですが、古事記は相手に「光あれ」を受け付けられるのかを確かめ、自分を提示し、それなら協同できるかと相手の同意を確認しています。次ぎの段落に出てきます。

「闇」があるから「光あれ」というのは「神」側のいわば勝手な思いです。全知全能という設定が続くためには構いませんが、人間的な意義を持ってきません。

ですのでそこにあるのは、人間的な意義を持たせるための解釈で、それによって創造行為を正当かさせようとするものです。古事記のように創造行為そのものが人間的な意義の分化進化にはならず、解釈の適応革新が目指されるだけとなります。

これは宗教のことだけを指しているのではなく、 「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神 の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 」という思惟構造を持つもの全体を言っています。

「成り合わぬ」というのは、直接的には言葉の発音のことで、発音された母音は変化せず持続していくことです。実在世界ならあるものが在るというだけ、有りとされたものが在り続けるだけのことです。光があり夕べや朝が物質世界のようにあるというだけで、それらを神が創ったとしても人間の心とは関係のないことです。各神さんの作品になります。

ところが「在る」ことに関しては人は「在る」を意識するや否やその人なりの思いが付いてきます。そして「在る」ことをその人の意識で見ることとなり、人間的な事象となっていきます。古事記は「在る」ものがどのように人間的な事象となるのかを説明しています。各神さんの作品と見る意識はここまでのできごとです。

在るものが有るとされるにはさらに古事記の次の経過を通過していきます。

成り余れるところ一処あり。

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【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。 】

古事記以外の神さん達は自己を都合よく開示するだけ、全貌を示すことは無く単に自分が全てだ唯一者だというだけです。古事記では(天の)心の御柱として唯一者の全貌の内容を十七神(ウアワヲオエヱチイキミシリヒニイ㐄の言霊)と開示しています。それは全く人間のことですから、神という名前を使用していますが、そんな神さん方などがいるという話しはしていません。

『主体側の創造意志であるギの命(各人我々のこと)はミの命の言うことを了解し、答えます。私の創造意志たる霊は見えませんが、その働きは見える身となり身を動かし働きます。発音上のことで言うなら意志の言霊イは見えませんが、自分の言霊イの展開したイ段の身であるチイキミシリヒニ(TYKMSRHN)の物象を伴っています(それは腹の動きから気道声帯鼻口まで、およびそれに応じた空気の濃淡による発声と発音の受領による感覚意識等。)。それは主体内に元々あるもので意志の発現と同時に現れますが、意志にくっついているだけのもので、八つの独自の違いを持って鳴り響くはずのものです。しかしそのままの姿では今はあなたの身は成り鳴りて、在るという姿が未来永劫に続くだけです。それに対応する私を提示しなければ、わたしはあなたを、あなたはわたしをみそめることはできないので、その秘密を開示しましょう。あなたは実体として有り在り続けて行きますがそれに対応するのは物理の作用反作用の相互作用と、私の意志の係わりの二つがあります。

私の意志はあなたの在り続ける姿と同じようにあなたを意識するや否や、かぎりなく時空次元を問わずあなたと係わりを持つことができます。とはいっても、私の意志の働きはその働きを八つの身で表現します。この八つは私の意志の働きの先頭に元々くっついているもので、八つのうちのどれでもあなたの鳴り続ける身に突き刺せば、どの時点においてもあなたの流れを瞬時に留めることができ、そこに瞬時にあなたの現在の姿を写し取ることができます。』

「言霊イは母音行として実体世界に係わり、同時にチイキミシリヒニに展開して働き世界で身を現します。」(まぐわい・婚(よば)いとも同じ構造ですが、物質世界では力の移動、生物世界では欲望の充足の構造しかなく、人間意識の世界では五次元世界が八父韻に展開する世界となって現象子音を創造します。)

前に書いたものを引用しましたが非常に分かりづらい下手な説明です。自分のためにも要点を記しておかねばなりません。

親韻であるギ・ミは働きと実体の両者を兼ね備えています。

「我が身」「汝が身」「吾が身」

それぞれ自分の捉え方の違いを示します。自分全体、客体対象側、主体能動側を示しますが、二つの言葉で出来ていますのでその内容が違います。「我が身」の「我、汝、吾」はギ・ミのそれぞれの全体を指しますが、「身」はそれらの使われ方の内容に係わるものです。「私の手」という場合に「私」という全体と「手」という一部を同時に指すようなものです。

ここでは 「我、汝、吾」はイザナギ(イザナミ)の命ですが、 「我が身」「汝が身」「吾が身」の時はギミの働きの内容を指します。働きの内容とはチイキミシリヒニの父韻のことですが、ギにあっては能動、ミの命にあっては受動の働きです。

また働きは形を取りますから、ギの命にあってはウアオエ次元を鳴らすこと、ミにあっては鳴らされることとなります。

分かりにくいのでしつこく繰り返します。書いたものを読むより行為で追体験すれば何でもないことです。

【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、

「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、

「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、

「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。

故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、 】

ミの命は「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」と言って、ギの命の父韻と母音の二つの働きのうち母音の働きに答えました。こうして実体は実体に、ギの実体はそれに見合うミの実体に働きかけるわけです。ギにすれば「手」を問うているのに「足」を見せられるということも無いわけです。これは冗談みたいに書いていますが、現実的には非常に多くの深刻な問題を起こす元にもなります。元が無いのにあるといったり、あるのに無いといったりすることになります。

受け身客体側のミの方はそこで物理的な作用反作用( 生理的意識的な作用反作用になっていきますから、ここでいう物理的とは広い意味になり、脳内での科学物質の分泌、電気信号などの交換作用も含みます。しかしそれは科学の分野で確かめればいいだけのことです。)を待てばいいわけです。

ところがイザナギが働きかけるということそう言うわけには生きません。働きという作用は自分で自分自身を現すことは出来ません。働きかけるといえば主体側は何でも出来るわけではなく、働きを受ける客体側が対応していなくてはなりません。

ギの「なりなりて」とミの「なりなりて」

ですのでここにまた「成り成りて」と出てきますが、ミの「成り成りて」と意味が違います。

ミの「成り成りて」は客体側として在りつづけること表示するもので、ギの「成り成りて」は主体側の能動を示しています。ミの「なりなりて」の場合は客体側の結果を示すものとして成りて在るものとなる場合とその成ったものが在り続ける場合とがあります。いずれも自ら在ろうとして在り続けにのではなく、受動側の結果としてあります。

直接的には発音上のコトデ、母音は発音されれば途切れることはありません。細くか弱くなるとはいえ、先程の声昨日の声百年前の声は、数千年前の聖者たちの声や数億年前の恐竜の声と同じように、無限に微弱ですがこの宇宙に充満しています。それは他の五感も同様で、特別に共感感応が起れば過去を聞いたり見たりという話は普通のこととなるでしょう。

これはミの母音の在りて在るものが在り続けるだけのことで、それは成り合わず形としてあらわれません。

そこでミは自らを称して「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり、とまをしたまひき。」になります。これは在るものに対して時処位の規定が無く歴史の無いものです。そこでイザナギの次の言葉がきます。

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。】

もちろんこれは一人の人間の心をあっちとこっちに見て分析しているものですから、書く上ではバラバラに感じます。また説明のために天の浮き橋のようにこっちからあっちへの距離を持ったイメージを使用していますから、余計にギミの「成り成りて」は離れ離れのように見えます。この場合には橋を渡る八父韻の働きをしなければなりません。

しかし、オノコロ島の同じ箇所で天の御柱を見立てたように心は一本の柱でもあり、八つの父韻が取り巻く御殿の間を廻るという説明もあります。

これはゼノンの持続している運動と静止の関係を頓智とする問題になってしまわないために、釘を指しておかねばなりません。

文章では意識を分解して働きと実体をバラバラにします。また意識ではそのような事をしてしまいます。ギの命は自らの実体の在り方を相手のミの命に見つけるのですが、見つけるときには必ずその行為として現れてくる自らの実体を伴います。「妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、」ならばギの命の方にミの実体に対する思いだけでなく問われ方に対するミの姿も思われています。

つまり一言で言えばギの命は御柱を立てて八尋殿を率いて問うているのです。

一方、ミの命は御柱を立てられ八尋殿を立てられて問われているのです。

面白い言葉が旧約にあります。

「我は有りて在る者なり。」

「神はモーセに言われた、「わたしは有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました」と』。」

実在するものの形を神が語ったということですが、言霊学は宗教学ではありませんから、宗教で語れないことも内容まで語ることができます。ここ宗教のでは実体世界があるというだけですが、古事記で説明すれば、「ある」には客体主体とそれぞれを在らしめる働きが在り、「ある」ことの内容は意識にはウアオエ次元の現れとなり、それを現したのがチイキミシリヒニの父韻ということです。

神様でも語りきれないことを古事記は上記のようにその内容まで語ってくれます。

宗教書では「我は有りて在る者なり」というだけで、「なりなりて、なり合わぬ」の別の表現を用いて話しいます。その「ある」ことの後は神さんの出番になります。古事記は「ある」と放っておくだけでなくまた「ある」という替りに神が創造したというだけでなく、人の意識にまで還元して「どのように、どうしようか」、を解説してくれます。

成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて

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【故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、】

『流れ鳴り続ける姿を現在に現すためには、私の八種の関所を用いて静止安定した姿を現すようにしましょう。』

「私は意志の言霊イとして時処位を問わずあなたを支えることができ、さらにあなたを現在に現すために八つの関所、例えばアの発声を導くTYKMSRHNの子音頭がありますので、これを使用してみるのはどうか。

「刺し塞ぎ」には主客の相互が対応していることが必要です。

主体側の働きは客体側の受動に働きかけ、主体側の実体を動かして客体側の実体に向かいます。この能動受動と主客の実体と働きかけの一致が全て感応同交しないと心の現象・言葉の発生が起きません。

刺し塞ぐはイメージし易いですが、心、言葉の発生に関するものです。簡単ではありません。

もう一度、「 吾が身」「 汝が身」「我が身」

ここで片付けて置かねばならないやっかいな問題があります。通常は気付かないまま何でもなく使用していることです。 今回は沼矛ではなく、「吾が身」です。

「吾が身」と「我が身」の二つの表現がありますが、二重の意味を持っていて、「吾(あ)」の場合は主体側能動からする表現で、「我(わ)」は客体受動側からの表現です。「吾が身」「我が身」として「身」が付く場合に「吾・我」の イ・チイキミシリヒニ・㐄の全体に対して、その内実(身)であるチイキミシリヒニの働きから出てくる個別化に重点が移っています。つまり、ギミのそれぞれの命にチイキミシリヒニの働きかける・働きかけられる能動受動の働きが備わっています。

「刺し下ろし」「刺し塞ぎ」

前段では「その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、」で、「刺し下ろし」でしたが、今回は「刺し塞ぎ」です。

前段の沼矛はイ・チイキミシリヒニ・㐄、舌の全体です。その全体に対する実体世界の対応が、各次元世界として出てきて心の柱となったイエウオアの天の御柱です。こうして意識の一般次元世界の領域が出来ます。両者に共通の「刺し」がそれに相当します。㐄に対するイ、客体に対する主体です。

意識の世界にとっては無数の客体が現象として出現していますが大本では四つのの実体次元としてウアオエの意識世界を分けています。ですのでウにはウの、ワにはアの、ヲにはオの、ヱにはエの実体世界が対応して混同はしません。これが「刺し」で両者共通の領域です。

ところが、四つの違った形の「なり合わぬ」ウワヲヱの穴にそれに対応する穴「ウアオエ」を刺しても穴は塞げません。客体の穴に主体の穴を「刺し下ろす」だけでは、穴に永遠に飲み込まれていくだけです。逆に言えば永遠に飲み込まれるというのは、客体側と同じ穴を用意すれば主体側はどの時代の穴にも入っていけるということです。ここから一般性が発生してきます。

底無しのエレベーターの穴に入ったもののどこかの階に止まるには「塞ぐ」ことがないと、その階の様子が見えません。そこで同じ刺し下ろしでありながら、下りる事の運行を遮断することによってどこかの階に止まることができます。

ただし穴に飛び込んだ後で五階に止まれと叫んでも遅すぎます。入る前に五階に停車と叫ぶことです。

しかし、何故止まれというのかその理由を示し同意を得なければなりません。

「我は有りて在る者なり。」と宗教の神様は主張します。「ある」は底無しで「成り合わぬ」ものですから、神様自身で自分は全体であるという以外に言い方を知りません。神さんにたいして神とはかく在るものという言い方は全て人間側から言われたものです。神さんは底無し吹き抜けのエレベーターですから、何をどのように言われようときっとどこかの階での扉の開閉に該当します。人間の方はどのような意見も穴にはいってしまいますから、それで底無しの穴を埋めているように思っています。

ところが人間はその後物凄い発見をします。穴の中に入ってしまい五階で止まれというのと、五階で止まれと穴に入る前に言うこととの根源的な違いに気付きます。

次段です。

【国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。】

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『クニは組んで似せる。そのことによってあなたの国に在る物事の真実の姿を、組(く)み合わせて言葉として似(に)せた表現ができると思うが、どう思うか。それはそれは物事の真実の姿が言葉となって現れるなんてなんとも結構なことです。』

「国土は自分の心の国で、心は十七神の働きで出来てきたものだから、今度は実際に現象として自分の心の内にクニを造ることになる。心の現象とは何かといえば言葉で表現することですから、物事を言葉に表現した時に、物事の真実の姿が言葉に表れなければ単に物事を指し示すだけのものとなり、心と物の一致を見いだせません。このようにクニとは心の内容を言葉に組んで似せることで、心と事物と言葉(主・客と現象、ミコト)が一致した言葉のクニを言います。」

前段で「吾」と「汝」と言っています。「吾」の主体側は「汝」の客体側と同じ「身」であることが必要です。主体の「吾の眼」を組んで似せることです。鏡を見ていれば視覚の世界での実物の主体側と像の客体側を組んで似せる感覚が掴めるでしょう。ここでは意識の世界での話です。

国土創世の話になっていますが、どこの領土が日本の国土のどれに当るなどということではありません。千三百年以上も続く間違った理解であるといったところで何かが始まることでもありません。現代では神話上の創造話だということで嘘だというところまできていますが、嘘だという根拠が確立しているわけでもなく、嘘を付くにいたり温存してきた理由が明らかになったわけではありません。

「国土を生みなさむと思う」を政治的に見ればどの国の指導者も普遍的にそのように思っているものです。しかしイザナミに問うという形ではなく、野望の実現としてです。古事記は野望であろうと協調であろうとそこにある意識の原理を明かしています。

イザナミの成り成り。

イザナギは自らの心に天の御柱と八尋殿が見立てられたのを自分に確認しました。ということは自分の中に自分の相手対象として自分であるものを在るものとして見たということです。その見方が自分に対するイザナミという形をとります。イザナミは相手対象客体側として有りて在るものとして、受動側として受け入れ確認側として在ります。その姿は時処に囚われず有り成り成りて成り合いません。時処を問われればその通りに反応します。

イザナギの成り成り。

一方イザナギの方は主体能動側の働きかける側として在ります。イザナミと同様に天の御柱と八尋殿を構成していますが、主体側としてそれらをもって働きかける起潮(きちょう)・潮汐(ちょうせき)力、潮時を引き起こす力、として動きます。この起潮力は時の流れの中で始めも終わりもなく留まるところもありません。その意識への反映する姿を取って、意識によるいざなう姿としました。これが主体側としてイザナギになり、客体側としてイザナミとなったものです。

古事記はこの起潮力の働きを意識において明かします。有りて在るものというだけの神さんではこれから在るものに対する働きかけが一切ありません。しかし働きかけられてできてしまったものに対しては、有りて在るもので通します。古事記では自分を意識することは自分の他者を思うことですから、自分に働きかけの力を感じることは相手の内に感じることになります。しかし相手を指定特定していな時空においては、成り成りて成り余れるところの働きの力が常に誘い誘因となっているということです。

(ただしこれは言霊イの創造意志の次元でのことで、創造意志が発現してくるときにはチイキミシリヒニの形をとります。)

「 国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき」ということですが、イザナギは能動主体側にいるのにこの有り様です。自我だとか自分自身だとかの始めの姿です。自我などというものは始めには無いのです。イザナミにまるで許しを乞うように気の良い返事を求めています。これは造化三神の創造された後に( 言霊神 4) 【 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。(言霊ヲ) 】の客体側が先に出現している理由となるものです。自分に問うものが在るのは相手を見出したからですが、相手がどういものだというのは問われてから出てきます。一循環をして前と後では次元が違います。

国・クニ・は組んで似せることですから、主体側にあるものが客体側から似たものが出てくるということです。主体側は活動因を持っていますがそこにはまだ物象となった「もの(イザナミ)」は手にしていません。形を創る話しに譬えて言えば単に頭の中に在るだけで形にあらわれていません。ところでここでは元々心の中での話しですから、心の形を創る話しになっていきますが、その形はどのように現れるかといえば言葉によってです。ですのでここで言うのは直接的には「国」というのは言葉です。

似る、似せる。

似せるというと、心に似せるのか心を似せるのか、言葉を心に似せるのか心を言葉に似せるのか、何に似せるのかが問題です。写真や鏡や物真似は実物に似せることができますが、写る鼻が主体的に似せるようにしているわけではありません。それでも物や事として真の姿を写したり変形したりします。物事の真の姿がそのまま言葉となっていれば、物事と言葉とが似ていることになります。

では物事を見聞きし思い感じる心と「似た」物とは何でしょうか。

それは心を現す言葉です。

しかし、指し示された言葉に載った心は千差万別です。と同時に千差万別の内容を一つの言葉が示します。

人はこの全体を自然のこととして受け入れ自然に使用しあるいは誤用していきます。これが「国土生みなさむ」となります。

「しか善けむ」とミの命は答える。

一枚の写真評に十人十色の意見が出るように、自分の顔を見てもっと高い鼻で写れと鏡に語りかける事は可能です。時には幻覚を見るかもしれません。光学的な視覚像は同じものですが、反射してまた自分の網膜を通過するときに意識の作用が加わる事が有り、それを以て主体側の作用があったように感じることがあります。確かに瞬時の反応ですが、時間的には行って帰る別々の経過です。連続した「しか善けむ」を混ぜ込むとそういうことも起きるでしょう。

ここでの「しか善けむ」は「初発の時」のことです。

そこで「初発の時」の「しか善けむ」が得られました。これはギの命の主体側の働きかけに答えるもので、ギにとっては自らの働きかけを自己了解するものです。ギは自らに了解確認して自らの領域を得るわけです。

つまり、相手ミの命との協同の結果を得ることになります。すると今度はそこに自分の杭が立ちます。

杭(杙)の立ちかたの話になります。

【ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。】

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『天の御柱は先程の先天構造が頭脳内に乗り移った時に出来た主体の活動規範の相手となる五次元層の実在世界。吾と汝は主体側(ギの命)と客体側(ミの命)、 美斗(みと)は吾と汝の共通の身(み)を取(と)る共通の母音世界のこと、麻具波比(まぐはひ)は間(ま)の食い合い、お互いに共通の間を食い合う事で、まず両者の共通項を一致させ同じ地盤に立とうではないかという事』

「言霊イの創造意志によって客体と主体の交じ和える共通基盤を探すことで、鳴り続ける母音実在世界に対しては、関心を寄せ続ける意志の世界が対応する。頭脳内において意志の世界が関心を寄せ続けることで母音世界が成り立つ両者の接点が得られる。意志世界は同時に父韻世界として成り成りて在り続ける世界を切り込み、八つの様態に今現在を出現させる原動韻ともなっている。こうして母音父韻の間を食い合うことで子音を創造するということになる。

ところがミの命側は父韻側の八つの切り込みを受け取るだけで、自らは選択できずに父韻に任せられている。」

まぐわい。 美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)。

主体側の身(ミ・意図内容)を取(ト)る母音父韻の間(マ)の食い合い((感応同交)のこと。一般性または子音現象の創造ということ。

ここに有名な「まぐわい」の話が出てきます。

まぐわいには主客(男女)の領域とその行為、主体側の働きかける意志と客体側の受動する意志、共通の精神意識の場等が必要で、これまででその用意ができました。

イザナギがお前はどうなっているんだいと問いかけることによって始まります。自分自身を起動することで立ち上がりました。

次いで、相手対象に向かい刺し塞ぎという関係を問います。問いには主体側の意図内容意志が刷り込まれていますので、意図をあなたの内に真似て実現したいと思うがどうだろうかと、さらに問います。

こうして、二重にも三重にも問いと自己確認を得た後で、相手対象から「しか善けむ」を受け取ります。

(この繰り返される問いと自己確認が無自覚的に自己を形成してしまいます。自分が考え思ったものだから自分のものだと自身の生産物のように扱っていきます。実はその都度ミの命に取り込まれてしまっていくのが見えません。)

まぐわいは一本の柱を廻る比喩が使われています。

美斗(みと)は、めくばせとする意味を取るなら、より分かりやすく書き直せば意識の眼(芽)を配ることになり、心の実体であるイザナギの意識の実在を五つの心のどの次元において開示するかということになります。イザナギの意識の内容(み)を取(と)ることです。イザナギは刺し下ろし塞ぐのに相手に対応しなければ入れてもらえないのです。つまり「みと」はイエウオアの感応同交するための身を取る、その選択をするということになります。

例えばイザナギはリンゴを見て食べたいと思っても、ミの命の方ではリンゴの光沢に見せられて絵にしてみたいと思っているのなら、幾らイザナギが喰いたいからよこせと言っても、ミの方では残念ですが私はセザンヌのリンゴしか持っていませんとなったりして、ギミの間には何の感応も起りません。両者間にリンゴという言葉が行き交いしましたが、イザナギの意図した内容である食べるためのリンゴを取ることはできませんでした。

同様に、リンゴの実体の身の取り方に対して、取り方自体のその働きの共感を得ることもなければなりません。働きとはチイキミシリヒニの働きのことです。イザナギはリンゴという実体を自分に引き寄せもたらすものとして働こうとします。しかし、ミの命の方ではリンゴに一目置いて目を細め遠ざけるように見ています。このような場合には、幾らイザナギが引き寄せようとしても、ミの命の方では承知しないのです。ここにもイザナギの意図内容の身を取る間の喰い合いがあります。

麻具波比(まぐはひ)、は既に上記した通り意識の次元と働きの次元の間(ま)の喰い合い絡み合いのことです。相手と気と身を合わすために、母音の実在次元で自他との感応を得るためにイエウオアの間を探り合い共通項を見つけようとし、さらに、見つけた後の働きかけの行為を主体側と客体側でチイキミシリヒニの感応を得ようと八つの間を食い合い感応しようとします。

行き廻り逢ひて。

ここでは心を柱という比喩(天の御柱)にしています。この柱から間の喰い間をイメージするのは難しいものです。一本の柱から相互の食い合いが出てきません。

そこで「行き廻り逢ひて、」という言い回しが出てきます。左右に分かれて廻ることです。例にリンゴとか柱とかを使用しますと物象が心の外にあるとなってしまいます。そのまま心の外部の物質と取ってしまう危険があります。そうではなく心は柱そのものなのです。しかも五重の意識の次元層を持っていて、それぞれに八尋殿を従えていて、太く成長していく柱の内部が主客に分かれています。心とはどういうものかの形容ですから、いずれにしても心で直接に受け取ってもらわなければ感じられないものです。簡単に言えば心とは家(五重)のことです。

「行き」は、行って返ってくる両者が含まれ、拡大された柱を五十音図状に見れば母音半母音の両端を往復することです。次いで、「廻り」は、各イエウオアの次元の柱に八尋殿が廻りを取り巻いている(これが五重の塔になる。)ので、その各間での感応を求めます。こうして合い合わさります。

こうして母音の間の喰い合いと父韻の間の喰い合いを通して、感応一致したものが出てくることになります。前に天の浮橋に立った時には実体次元(ウオアエ)が滴り落ちてきましたが、今は両端に主客の実体次元の柱が立っていますので滴り落ちてくるのは子音になります。それが子(音)現象で、古事記を子事記(子の事を記す)という所以です。言葉の場合は子音の創造となります。

鳥居にしめ縄がかかり、神紙垂(しで) 、四手、が垂れていますが、鳥居を潜ってこれから正当な子音を産むという象徴です。拝殿に向かい柏手(五葉で心の五次元実体の象徴・アイウエオ)を八拍手(チイキミシリヒニの父韻を働かす象徴)し、横から見れば口の形になっている鈴を振り正しい言葉とその運用を確かめます。あるいは二拍手ならば、心の運用を十の両手を二回で二十の働きとして、正当な音が出てくるのか確かめます(二十は濁音、過去から今へ持ち来らせる音のこと)。

まぐあい。

いよいよまぐあいが起きます。

イザナギの能動側の意図内容を、イザナミの受動側に見出すことです。

注意することはイザナギ、イザナミはそれぞれウアワヲオエヱチイキミシリヒニのそれぞれに展開していて主体側と客体側を受け持っていることです。ギミの神をそれぞれ言霊イ㐄としますが、それは展開される内容を全部ひっくるめた姿を統一して言うので、言霊イ㐄だけを指してはいません。ですので、この二神を特別に親韻と読んでいます。

すると父韻があって母音があるのにさらに親韻があるのか、ということになりますが、生物の物理生理次元の出来事ならば父母がいればことが成りますが、意識の世界においてはそういうことになるだけではなく、それを超えているから人間的となります。男女間の性交で子供を作る話なら生理生物学的に解説すればいいことです。

人の意識の創造物たる言葉は男女による子供の創造とは違います。

まぐわいにおいて主導しているのは主体側能動側のイザナギです。つまりイザナギが子供、子音という子現象を産むのです。イザナギは男だと言われているので男が子供を産むことになればおかしなことに聞こえますが、イザナギは元々男の象徴ではないのにそうさせられていただけのことですから、訂正すればいいだけのことです。

男が産む女が産むという生物次元の話を超えればいいだけのことで、その上でイザナギが言葉を産むというのなら筋が立ちますが、そういった言葉使いだけを取り上げればまた転倒します。

では(女の)イザナミは何を産むのかといえば、蛭子、淡島という一般性とその結論結果です。(後述。)

そして(男の)イザナギが正当な子供(子音現象)を、「蛭子、淡島の上に」産むのです。

この二重の子生みが人としての言葉の創造になります。

それは既にオノゴロ島の段落に入るや否や、「 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、、、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。」先天一般性から働きかけられ、「 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して、、、垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島」である、個別的な自我の島を創ることで示されています。

【かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、 】

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『右より廻れとは、客体側のミの命は右(ミキリ・身切り)として自身の柱である母音行を身切りすると同時に、各段を八つに身切りさせること(受動側)。我は左よりとは、主体のギの命は母音行に霊(ヒ)を足らすと同時に、各段に八つの霊(ヒ)の足りた子音を創造するための力動を与えること。』

「この段落を柱信仰にしてしまうと柱の向こう側で二人が落ち合いコソコソする意味になってしまい、主客の分かれた五十音図表の意味が取れなくなる。眼目は働きが実体に係わる原理のことで、客体ミの命側は自分では身切りをできないが受動的な実体として八つに分割できて、それを主体側は自身の能動行為によって意識に反映していくということ。」

左・ひたり、右・みきり、ということ。

行き廻りの内容の説明です。

心の御柱を八父韻が取り巻く形で解説しているため、「廻り」となっていますが、では何故左右に分かれるのでしょうか。

それは在ったものをイマココに在るものとする為です。

既に述べたごとく母音世界の実在はありありて在るだけの世界です。

「ア」という発音は永劫に続きます。二千前のイエスの言葉は今も宇宙を微弱ながらも彷徨っています。研ぎ澄まされた共感感応が出来る人はイエスの声を聞くでしょう。またイエスを照らして反射光は日本にまで届いています。イエスを見たという人もいるでしょう。一万年前にスメラミコトが心の原理を見出した時の喜びも今でも誰でもが手にすることが出来るのです。

その彷徨える「ア」をイマココにいる自分が得て、自分のイマココに「引き上げる」ことが問題なのです。そのための行き廻りなのです。

実際に右に廻るとか左に向かうとか、柱信仰の実践とかの話ではありません。

右は「みきり・身切り」、左は「ひたり・霊足り」のことです。

右。

右はイザナミに配当されています。イザナミは言霊㐄として心の客体受動側の全体です。それぞれ実体の間(ま)と働きかけの間(ま)の「成り成りなりて成り合わぬ」全体を現しています。一度在るものはいつまでも在るし在り続けるのです。ギの命が働きかけるときには主体的能動的に自分の意図を持って個別的に働きかけますから、イザナミ全体を相手にするには大きすぎます。そこでギの意図内容を得るにはイザナミの全体を「間」として区切ることが必要です。この区切りを得ることを「まぐわい・間の食い合い」といいます。つまりイザナミは自身の言霊㐄の姿を、イエウオアとチイキミシリヒニの間(ま)に身切りして、ギの命の主体行為を受け入れる準備をします。

柱を右回りすることではなく、柱の内容(イザナギの心)を受け入れる準備をします。「身(間)を切り」、「みきり・右」の身を「しか善けむ」と提起してきます。

こうしてイザナミの言霊㐄としての次元世界の実体が確定しますが、これだけではギの命にとって現れた姿ではありません。つまりギの命の確認が取れていません。

そこで。

左。

左はイザナギに配当されています。イザナギは言霊イとして主体能動側の全体です。ところが主体側は実体はなく活動する側の韻(因子)だけは持っている「成り余れる」状態です。創造意志の韻(因子)だけは常に働き続けていますが、自身に実体を持たないため自分を現すことができません。

そこで霊足り(ひたり)と称して自身の意図内容満ち足らす相手対象を坂すことになります。それは客体側の相手を探すことになりますが、ミの命全体としてはイザナギの意図内容をはみ出しています。そこで身切りされているミの命の間(ま)に当てはまる自分を刺そうとします。リンゴを喰える居間に行きたいのに、リンゴの絵画の鑑賞の居間へ導かれても感応し合えません。そこで双方が一致できる間(ま)の食い合える場が必要となります。

【約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、】 (ところが、、、)

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『ちぎりは約束事で、契約なり合意なりで決めたことで創造すること、』

「決め事で両者の間に成り立つのは共通の利益や有用性で、物事の真実の姿を了解し合うものではなく、言葉においても名付けるときに当事者間の合意や強制義務で現すだけになる。大和の日本語(イザナギ)は真実の物の姿を表現しようとするもので、指し示した言葉の両者間の合意を目指すものではない。ここに世界唯一の大和言葉が出来てくる。」

ところが、例えばこういう問題がまずあります。

イザナギはリンゴを喰いたいと指定してもここではまだリンゴという言葉は生まれていないのです。桃でもなく柿でもなく絵画のリンゴでも無い、イザナギの喰いたいと意図したリンゴをどのように知らせるかです。また鑑賞するためでもなく見るためでもなく、食うためのリンゴをどう知らせるかです。イザナギの主体側には意図したリンゴをどうするかの思いがあってもその在り方を知らせることができません。

イザナギは言霊イの全体として自らを現すときには、ウオアエの在り方を取り、チイキミシリヒニの働き方を取らないことには自らを示せません。そこで間(ま)を食い合う感応を得るための工夫が必要となります。

ここで「 約(ちぎ)り」と出てきて、その直前にも「 期(ちぎ)りて」と出てきます。

最初の「 約(ちぎ)り 」は実体次元と働き次元の一致したときにお互いにその間(ま)を食い合い一致しようということで、次の「期(ちぎ)り」はお互いに一致して間(ま)を食い合った結果を持ったことを指します。思いの中の約(ちぎ)りと結果の期(ちぎ)りとでも言いましょうか。思いの中だけの主体能動性と客体受動側と結び付いて現象となったもので、それぞれ独自なものです。

「竟(を)へて (終えて)」は「極め尽くす、という意味に取っても良い」という宣長の見解を入れると、何事かが一応完了完結した状態の出現をいいます。ここでは物事の状態、実在は出現しましたが、それについてどういうものかどうしたいのかの態度を表明する以前の在るものがあるというだけのことです。それ以外の心の判断はまだ介入していません。日常では在るものに対して直ちに何だかんだの思いや考えを付加しますがそこまで行きません。

直ちに反射的に考えを述べればいいというものではなく、古事記ではギが先に言うかミが先に言うかの根本的な違いを示そうとします。

「竟(を)へて 」は「極め尽くす」とういうことなので、次の段落では「ふさはず」となって出てきます。

【伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。】

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『ここに創造行為の二種がある。一つは一般共通性を取り両者の利益とすることでその場合の成立が述べられる。他方は両者に事物の真実の姿として現れるものが述べられる。創造される子音の発音で言えば例えばタカマハラはTaKaMaHaRaとなり、それを母音を先に発音して、aT、aK、aM、aH、aRでは子音が成立しないで、一般共通性の母音が出来ているだけになる。女人先立ち言えるはふさわしくないです。』

「母音を先に発音するには幾つかの根拠がありその一つには、その次元における世界的な共通性を持ち合うことがあります。共通の地盤を確認し合えるためには必要なものです。次いで各人の意識の動きの初めは感情による全体印象の取得から始まるので、まずは全体を表出してしまいます。そして意識はあったものの世界を取り入れることで実在現象の意識が出てくるので、その延長として実在全般があるものとして初めに位置させていきます。

その一つの表現として、あなにやしえ男をと言いますが、イザナギを個別的にいい男だねという前に自分の意識の発動全体がここにあることを示しています。」

ここに「ちぎり」の二つの結果が出てきます。

一つはミの命が先に口出しした場合と、他は、ギが先に言う場合です。

次ぎに出てくる蛭子という嫌なイメージが強いので、陰気な負を背負った世界が想像されていますが、そういうことではありません。

蛭子はイザナギにとって必要不可欠なものです。というのも言霊㐄に働きかける言霊イの能動性は、

1)実体世界を措定し、

2)その働きを示すことを主体側の因子として、それらを客体側に宣(の)せて示すからです。

二重の経過。

まず最初に、言霊イとして言霊㐄の全体を相手にします。言霊イ(イザナギの神)の能動側の先天十七神が言霊㐄(イザナミの神)の受動側先天十七神に働きかけます。このイの領域全体が㐄の領域全体に対応した上で事が進行します。

その上で、主体側は常に上記の二重の経過をこなしていかねばなりません。言霊イの能動主体の創造意志は、言霊㐄の客体側受動する意志世界を同時に立ち上げ、天の御柱または天の浮き橋(後に五十音図となる)の形で自身の活動を開始します。そこにある母音と父韻の実体要素が活動して母音と父韻の結合といいますが両者は別のものです。直接に結合はできません。実体部は実体(ありさまはありさま)に、働き部は働き(いきさまはいきさま)に対応しなくてはなりません。

そこで次のようなことが起きます。

母音と父韻の結合ではなく、イザナギの母音性とイザナミの母音性、イザナギの父韻性とイザナミの父韻性の同性質の結合が別々に起きます。(音と韻・体と霊)

1) 音。 イザナギの食欲による喰うリンゴは、絵画の鑑賞上のリンゴとは受け入れることができませんから、イザナギは喰うリンゴをイザナミに喰うリンゴとして見つけなければなりません。意識世界は五層(イエウオア)になっていますから、イザナギも自らを五層に分けて喰うリンゴの次元を提起していきます。

そうすると言霊ウの意識上の現物実体次元に喰うリンゴがあります。そこで 1)の感応同交が起きます。ものを在らしめる世界での結合(まぐわい)です。こうして両者間に共通の在り在る世界が出現します。

2) 韻。 しかし、イザナギはリンゴをどうするか、手に取り自分に引き寄せることがもっぱらの重要事です。しかしイザナミのリンゴは在るというだけで動きません。

「竟(を)へて 」「極め尽くす」結果が違ったものとなります。 「極め尽く」して 「竟(を)へ 」ることの内容を確認しておかないと大変なことになりそうです。何を極めるのかは、今まで出てきたことの全体です。自分の心の領域がオノコロ島として出来てそこに心の御柱と活動場が立ちましたから、今は自由自在に活動できるように思えますが、心が活動するのは心の客体側と一緒に働くことです。

心の客体側の扱いが違うと別の現象が出てきてしまいます。

とはいいましても自分の心が自分に創ったものです。捨て放り出すものではありません。次ぎに出てくる蛭子を踏み潰したら自分が消え去るのです。(後述)

「伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、」と、

「後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。」の

男女二人しかいないのでどちらかが先に言うことになりますが、実を言うと言い出すのは男でも女でもありません。男女と言ってしまいましたがここは意識現象の創造、言葉の発生の話をしているところです。男女に囚われないでください。言葉を言うのは「舌」です。

振り返ってみましょう。まず「天の沼矛」を与えられました。舌です。その矛(舌)で塩を滴らせオノゴロ島ができました。心ができ発音ができるようになりましたが、在るものが在るという母音世界は一旦舌を使って発音すると閉じる事ができません。従って父韻による個別的な自我形成ができません。どうしても自由自在に母音の発音を制御して、個別性を現さなければ今度は父韻の鳴り余れるところが韻(響き)として鳴りつづけてしまいます。

こうして、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、と韻(響き・霊)の姿であったイザナギが形を現し「体」の姿を見て、いい男だねといいます。男(おとこ)は音子で、韻であったものが実体に乗って音として現れたことを指します。

一方、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき、と、元々体側であるものに韻(霊)が乗って現れたのを、いい女だね、と言いました。乙女(おとめ)は音止めで、鳴り合わぬところが合わさったことを指します。

かくして両者ともイマココに出現したというわけです。

ところが、ギミの形がイマココに出てきたというのに、文句が付きます。

「おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず(よからず)」とのりたまひき。」

女人(おみな)は音名のことです。言葉の指し示される体側、音側のことを指します。音の意味内容霊側をさし置いて名だけがあるということになります。指示される意味内容が不明なまま名付けられた名前だけが先行していることです。

その結果が、蛭子として生まれます。これは冒頭に客体側の言霊ヲの 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神が示され、次いで主体側の言霊オが示されることと対応しています。

意識領域ではこれが言葉の一般性、共通性となっていきます。

【然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。この子は葦船に入れて流し去(や)りつ。】

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『隠処(くみど)は組む所、この時点では先天が頭脳内に渡ったところですから、頭脳内で言葉が組まれるということです。ヒルコは霊流子、霊が足り(左)ていないので個別的な実相を示さないが、一般共通性を示す重要な表象物(み子)で破壊も消滅もさせられないものです。そこで頭脳活動の重要な前提要素として主客の世界に流布させなければならないものです。葦はたかまはらなやさ言霊五十音図の最初と最後を結んで出来たア・シで、意識構造とその活動の全体という意味で、人の心の全体です。その全体を載せた船は巷に放たれなければならず、こうして一般共通性の介在によって人々の交流がおこります。』

「古代においては母音行を先に操作する思想は大いに発達させられ、中国インドの五行や五大、ヨーロッパの元素の思想とか、アの次元のみ発展させられた各神・各宗教の原理原則があり、現代もこれら霊流子は流布され続けています。」

蛭子と淡島が並んで出てくるのに、淡島の方は実在の島探しをしています。神さんの名前からは実在探しはしないけれど、古代天皇は実在探しの真っ最中にいます。太安麻侶さんのトリックに引っ掛かっているだけですが、後から付いた名前をもってして名前があるから実在があるとするに至っては、転倒しています。そこでこの転倒の原理的な表現が面白いことに、蛭子となります。

蛭子。

ひるこは霊流子(固)で、実質内容がなく流れてできた子、あるいは主体側の意味内容が流れてしまい名だけが固定したものの意味です。「女人(おみな・音名)先だち言へるはふさはず」の結果です。

前に蛭子はイザナギにとって必要不可欠と述べました。 蛭子がいる(ある)お蔭で人は、イザナギは、自分の意見を言うことができるのです。

何故ならば「 この子は葦船に入れて流し去(や)りつ」となっているからです。

蛭子には実質的な内容はありません。イザナギがリンゴリンゴと騒いでも、赤いものか緑か、絵に描いたものかほっぺたの事を指しているのか不明です。イザナギにはこれこれのリンゴという思いがあっても他者には一般性としてしか通じません。こうして名前はあっても実質の無いリンゴが巷に流布されているために、名前を聞けば何かしらのリンゴを指しているとわかるようになります。

では何故分かるようになるのかというのが「あし」と「淡島」です。蛭子には実質は無いが、無いなりに通じ合う根拠が必要です。それが次ぎに「あし」と「淡島」で説明されます。

葦。あし。

葦船は葦で創った船ではありません。 船は心を載せて運ぶもので、心は己の心の島(オノコロ島)という五十音図で現されます。葦船は言霊五十音図のことで、伊勢神宮では鏡(人の心)を載せています。

流し去ったということは、多くの心が通じ合うように共通の心を流布したということで、どの人も同じ船に乗れるようにどこへでも行けるように誰とでも語れるようにすることです。

つまり言葉の一般性の流布の上で各人が個性を語れるようにしたということです。

どのようにか,といえば。

世界に共通の原理を「 流し去(や)りつ」したからです。その原理が「あし(葦)」です。「あし」という一般規範が無いと通じ合えないのです。

「あし」というのは原理としての「あし」ですから、それに従えば誰でもが正しく間違えなく意志の交流ができるものです。その実体は天津太祝詞五十音図で、母音行が下からウオエイア、ア段がタカマハラナヤサとなっている五十音図です。二段目が父韻となっているイ段でキチミヒリニイシになっています。この理想の思惟規範である音図のア・イ段の始めと終わりを抜き出すと「ア・シ」になります。アシというのはここから取られました。

そのような理想的な言語規範を基として成り立っているのが、葦原中国(あしはらのなかつくに)と呼ばれる日本です。「あし」の説明はまた後ほど言霊運用編で出てきます。

日本の古名。 豊葦原水穂国(とよあしはらの みづほのくに)。

「豊葦原の水穂国」とは日本国のことを言うが、コトタマ学で解説してみると・・・

豊 → 十四(トヨ)個の言霊アイエオウ・ワ・チキミヒリニイシ/心の先天構造を構成する言霊数17言霊の中の代表言霊

→ 演繹法数霊8+帰納法数霊6=14/東洋哲学と西洋思考を唯一統轄出来る世界で唯一の思考原理を持つ

葦原 → 天津太祝詞音図のア段(ア・タカマハラナヤサ)とイ段(イ・チキミヒリニイシ)を結んで名とすることから、建国の大方針を豊葦原

水穂国 → 水穂とは陰陽(水火)。原理方針(陰)+社会形態(陽)とが完全に一致していることから。

→ 国とは組(ク)んで似(ニ)せるの意。または区(ク)切って似(ニ)せるの意。

→ 瑞穂と書く場合は言霊図のそれぞれの言霊(イの音)が瑞々しく実り、イキイキと生気が満ちているとも解釈出来る。

蛭子を積んだ葦船は漂流してでもどこかにたどり着きます。蛭子には実質的な実体は無いといっても、自らの実体は示せます。どのようなリンゴかは示せないが、他とは違うリンゴであるという実在次元は示せます。これが「淡島」です。それが蛭子の領域場となります。ですので蛭子と淡島は切っても切り離すことができません。そして次段が「淡島」の説明になります。

蛭子は足萎えと呼ばれますが、実在世界の領域場(淡島)に自分を主張します。足は立たなくても自己の実在次元の内にいます。リンゴが食欲の為か鑑賞の為か知識の為かというような次元の相違が在り、各次元での相違は主張しますが、同一次元内では自らの相違は示せません。

さて、 「 流し去(や)りつ」が誰でもの心に共通一般性として宣(の)るには、「女人(おみな)先だち言へる」を実行していることです。

では「女(おんな)」、音名、はどのように一人立ちしてイザナギの主体側の意図内容を受けなくとも、自身を主張できるようになるのでしょうか。それが「淡島」です。

【次に淡島を生みたまひき。こも子の例(かず)に入らず。】

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『淡島は主体(ア)と客体(ワ)の締まりで、主客に分かれてしまっているところから始るものごとです。次に述べられる正式に生成される子現象ではないので数に入らずです。』

「実相のない葦船が世界に放たれねばなりませんが、その積み荷は既にあったものとしてあれこれに分かれてあるものとして扱う所から始まります。意識にとってはアワ島の領域にあったものを集めるところからしか始めないことになります。巷では知識とか自我とかから始めるように思われていますが、すべて既得の概念教えられた事柄から始めているので、本当の自分から始めたものは何一つありません。以上は実相のない一般性から始めたことから起きました。」

五十音図を思い浮かべてもらいます。両端に母音行(あ行)半母音行(わ行)があります。この両者を直接繋げてしまう主張があわ(淡)島を創ります。日常ではあ行とわ行の間に八父韻に従ってできて来る子音がありますので、それが各次元での個性を主張します。香りがよくて丸くて大きくて重くて赤いリンゴというようにイザナギによる個別性が付与され子音が創造されそれで表現されます。しかし、アワ島上の実体には名前はあっても(みきり・右)実相内容(霊足り・左)がありません。「わたし」と言ってもAさんのわたしかBさんのわたしかあなたか自分のわたしか実相内容はありませんが、それぞれに各「わたし」を指示していることによって交流通じ合っています。

例(かず・父)に入らず。

昔の日本語は母をいろはと言い、父をかぞ(数)と言いました。 「例(かず)に入らず」を「父(かぞ)と読み替えると、蛭子、淡島には父韻が無いとなります。

では、流し去った蛭子はどこに行ったかといえば、各人のオノコロ島(心)にいます。行方不明にして無視しているのではありません。古事記の解説書であるひふみ神示には「水蛭子(ひるこ)、淡島(あわしま)、生み給ひき。この御子、国のうちにかくれ給ひければ、」と明示されています。「国」というのはオノコロ島に打ち立てた御柱の主体側の天の御柱にたいする客体側国の御柱のことです。つまりわ行に隠れていると言っています。各人のわ行にあるのですからわ行を通じて(結果を通して)交流し合えるということになります。

こうしてふさわしくないとか、数に入らないとか言われますが、これはイザナギの主体側にとってのことです。ミの命側には正常なことで、イザナギが活動するためにその領域場を用意しているのです。イザナギは「なり余れる」活動の韻(因子)をミの命において実現していくのに、できた子が「なり余れる」にとってはふらわしくないというだけで、蛭子と淡島の上に自分のふさわしい子を産むことには変わりないのです。

そこで何故、活動や働きや生きさまがイザナギの形で現れないのか探ります。

【ここに二柱の神議(はか)りたまひて、「今、吾が生める子ふさわず。なほうべ天つ神の御所(みもと)に白(まを)さな」とのりたまひて、すなはち共に参(ま)ゐ上がりて、天つ神の命を請ひたまひき。】

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『実相の籠もった子音を生もうとして母音を先に発音したために子音を生めなかった。一般的にあること共通していることから始めても子音が出来なかった、あったものあるものの世界から始めてもうまくいかなかった。先天十七神の原理があるのに適合することができないのはどうしてか。御所(みもと)に戻ろう。御所は住居ではなく身元で、元々の初めのところで先天原理を検討し直すこと、アワに分かれる以前の言霊ウの御中主の次元で再検討してみようということ』

「わたしとあなたに分かれる以前は、やはり先天の十七神に分かれているよう見えるが、それは一丸となっておりここからしか問題は出てこない。」

せっかく生まれた始めての子がふさわしくないといいます。しかし何故ふさわしくないと分かるのでしょうか。始めて手にするものなのに、そこにどのような判断規範を持ち込めるのでしょうか。知りもしない始めて聞くフランス語がふさわしくないと言うことはできません。

原文には「 議(はか)りたまひて」とありますから、何らかのはかりごとを持っていたということです。 原文で示せば、「女人(おみな)先立ちて言へるはふさわず」がそれにあたります。

ではその根拠は何でしょうか。

客体側の言霊ヲの世界が揃っているために、過去の世界を今に引き寄せることができます。いわば「女人先立ちて言える」世界があるため、主体側が働きかけることができるわけです。己の心、オノコロ島も出来上がったものによって創られていました。「女人先立ちて言える」世界は必要不可欠なものとしてあります。しかしそこに「問ひたまひしく」というイザナギの働きの韻が活動を開始しなければ、事が動きません。「なり余れるところ」が先天的に用意されていると言ってもいいでしょう。常に言霊循環の構造が現れます。

「 天つ神の命を請ひたまひき。」というのは、各人の主体性を一先ず棚に上げて、先天要素に戻ろうということです。そこで見つかる要素はイザナミ側で、戻ろうとする働きはギの側というわけです。

古事記は神話の言葉通りに解釈してもおとぎ話に成るだけで意義を見出せません。各人の心の活動の仕方に引き戻すことです。ここではイザナギが最初に「お前はどうなっているのだい」と問いかけたのに対して、ミの命は「今日はいい天気だね明後日は雪が降りますよ」というように、内容は無いが問いには答えるということを経験させられてしまいました。イザナギの思いとは違いますが、問いとしては通用しているし問いが通用しなければ思いも伝わらない、ということを知りました。

しかしイザナギの問いの内容は未だに通用していません。役者は二人に限られているのにどうしようかということになります。

ここに出てくるのが、先天の循環でそれによってイザナギの始めの思い(問い)をすくい上げることです。

共に参(ま)ゐ上がりて 。

オノコロ島で御柱を立て八尋殿を創って主体が確立しているのに何をするのでしょうか。困ったために助けを求めることのようです。

【 ここに天つ神の命以ちて、太卜(ふとまに)に卜(うら)へてのりたまひしく、「女(おみな)の先立ち言ひしに因りてふさはず、また還り降りて改め言へ」とのりたまひき。】

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『太卜(ふとまに)はフトマニ原理のことで占いではない。フトは二十、マニは真似て似せること。

対になった父韻の能動主体側の四つ(チキシヒ)が心の五次元層世界(心の御柱)に係わることで二十の能動主体側の子音が生じて、対になった受動客体側の子音を伴い五十音図のワ行へ渡ることで現象子音が生まれる。この四×五(父韻×母音)の働きが人としての在り方を造る。人とはこの二十となった現象子音を用いてワ行へ渡ることである。(伊勢の遷宮はこれを記念してある。参拝の二柏手、十本指で二回、も同じ。) 女が先に言うというのは御中主(う)、高御産巣日(あ)を無視してしまったこと。』

「御所(みもと)に戻ると世界エネルギーの充実した巣(す)があるので、そこでの精神規範を活用することにする。先天の原理によれば分かれてしまったワの前にウ・アがあるので、そこからやり直さなければならないことを言われる。」

そこで、「 太卜(ふとまに)に卜(うら)へ 」となります。現代では占いの原理みたいに理解されていますが、「占い」は「裏合い、裏を合わす、心の中を現す、イザナギの心をイザナミで示す」ということで、当るも当たらぬもというものになっていますが、フトマニとは違います。古事記は漢語の作品ではなく大和語で書かれた漢語訳で、元へ戻れば大和の日本語の解説です。古代の健全な精神を持っていた時代には、占い等というものに頼ることはありませんでした。フトマニ思想を占いのように見せ、実践行為を導く方法を隠すために導入されたものです。(世界の歴史編参照。)

フトマニ。

太はフトで、二十のこと。五十音図の両側母音半母音とを除くと中央に四十の音が残ります。子生みの段落ではまだ子音が生まれておらずその正しい方法を問おうとしているところです。まだ生まれていない四十を右回り左回りの二十二十に当てはめてギミの活動に見立てました。また二十音は濁音を付けて過去からきた意識を今現在にもたらす二十の音にもなっています。(かさたは行となまやら行。外国語の文法形式での分類ではありません。)

女 (おみな)の先立ち言ひしに因りてふさはず、というのはイザナギにとって「ふさはず」ですが、同時にイザナギの活動場を創出していきます。ミの命側では当然の成果を産むもので、イザナギに活動場を与えるものです。哲学思想上の問題では一般性と個別性の問題となるでしょう。

「また還り降りて改め言へ」と言われます。前言を取り消せとか訂正しろとか誤れとかではありません。あるものの上に「改め」て追加しろということです。

実際の人の発声行為ではいちいち二回も繰り返していません。イザナミにとっては間違ったことではないし、ギの命に出番を与えるものですから取り消すわけにはいきません。

ここに一回喋っただけなのにギミ両方を満足させる方法を見出さねばなりません。それが間の食い合いによる子音の発生になります。イザナギが先に褒めるという形が採用されています。

【かれここに降りまして、更にその天の御柱を往き廻りたまふこと、先の如くなりき。

ここに伊耶那岐の命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美の命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき。かくのりたまひ竟へて、御合いまして、】

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『先天からオノコロ島に降り直して、古事記の冒頭を辿り直して、身元たる天の御中主(言霊ウ)から主体の働きである言霊ア(天の御中主)の出現とその発展伸長に沿って、能動側の動きに従うとまず、全体の主体側判断たる感情感覚による自己主張が初めに来る。 「あなにやし、えをとめを」という感情判断意識は相手対象に向かうとき、その意志の続く限り相手を自分の対象とし相手の成り鳴り続けることを受け止め、同時に自分の主体意志の八種の父韻を埋め込むことになる。そこで相手対象(母音世界)の確認が得られれば、御合いが始まる。身を合わすこと、母音次元層と父韻の 「あなにやし、えをとめを」の位相を合わし、 一般共通性の上で父韻独自の係わりを当てはめていくことになる。』

「逆に言うと、父韻の働きがあっても働きだけが直接実体に向かうことは出来ないので、父韻は自分を相手対象の実在実体に沿うような物象化されることが必要となる。 それが「あなにやし、えをとめを」 の言葉で表現されている。できることとなります。

「あなにやし」は吾名に良いように、私の意識に与えられて具合のよいように、「えおとめ」エの選択を留め押す、と読め、母音次元層たるイザナミの名の実体と合うようにイザナギ自身の父韻の選択をする、ということになります。こうしてそれぞれの間を食い合い身を合わすことで現象子音が生じてきます。

これで子音創造の主体側の準備ができましたが、子音を創造する過程での客体側の用意がまだできていないのでそれを島(領域)として創造していきます。」

今まで父韻をチイキミシリヒニで示していましたが、父韻の韻の活動因を強調するためにローマ字表記をとります。

TiYiKiMiSiRiHiNi(チイキミシリヒニ)には TYKMSRHNの子音頭があることに気付きます。活動を始める直前にある「イザ」という踏ん張りの心持ちのことです。例えば。

古池や蛙飛び込む水の音

「古池や蛙飛び込む水の音」があります。形の上では静寂を破ってまた元に戻った張りつめた世界と解釈されていますが、そういった現象の世界ではなく、現象を起こす自己の活動の創造因子を明かしたものと見ることができます。

「イザ」と一歩踏み出す直前の「ウンッ」という踏ん張り、それによって出て行く世界創造の実践の力を現しています。ここでは静寂の世界を創造してみろといわれて、静寂を創造したのです。この静寂を創造する直前の活動因子が父韻です。

芭蕉は父韻を知りませんが、俳句創造の実践世界ではそれによる初動がなければ、ことの成就も無いことを知っていましたので、句に読み込むことができました。またそれを読み聞きする側には普遍的な原理として通用して、誰にでも無意識に共感できますので、有無を言わせず名句として通用していきます。(駄作と文句を言う人達も、静寂を破ったなどという現象の解釈を止め心の動きを遡って、ポチャッと飛び込む前に息を潜めてもらえれば感じられるでしょう。)

この時のイザ行くぞ行くという背中を押す力動因にあたる TiYiKiMiSiRiHiNiのTYKMSRHNの子音頭の「なり余れるところ一処」 を「まず」言ってみろと教えられたのでした。在りてある母音世界は子音頭による指し塞ぎが無いと、無窮のうちに漂います。キリスト釈迦の言葉も父母の言葉も発声された日から常に地球の廻りを待っていますが、関心を示す人がいなければ廻りっ放しです。しかしそのことによって後のどの世にもおいて関心が示されれば接触ができるものとなります。

前後を指し塞ぐ。上は子音頭で、下は十四領域で。

ア次元を「T」の子音頭で塞げば Tアアアアー(Taー、ター)と、オ次元を 「T」の子音頭で塞げば Tオオオー(Toー、トー)、以下同様、がでてきます。

しかし、これではなりなりてなり合わぬ ところの始めは合わせて留めることはできましたが、余韻が続き締まりがありません。

「あなにやし、えをとめを」、「あなにやし、えをとこを」

「あなにやし、えをとめを」は、私の名にちょうど良い選択をして音芽、音眼、(音の意識・霊)を留めおこうとイザナギ。

「あなにやし、えをとこを」は、私の名にちょうど良い選択をして音(おとこ・音の子)を残そう、とイザナミ。

イザナギ側ではなり余れる父韻を母音次元に差し入れて塞ぎここにわたしの霊を注入したので、ここから私の形が現れてくるといい、イザナミの側ではなり合わぬ処を塞がれてその形を提供し、また余韻を音に変えて(音子、おとこ、子音・しいん)を創造しました。

始めての現象。

イザナギの子音頭によって上は塞がれましたが、下は余韻が鳴り響くため、イザナミによって韻から音への変換をして下を塞いでくれました。

ここに始めての現象が生じます。

しかし、下の余韻世界は幅広く、十四の意識の宣(の)る世界として分析されています。

絵に描いたリンゴでなく食べるリンゴをいう場合にも、既に次元世界は選択されて欲望充足の世界の話しにしたとして、その食べ方、手に入れ方は多くの方法があります。

下の余韻を閉じて子音を「こおろこおろ・子を降ろす子を降ろす」立場になります。

例えば、最初にリンゴを手にするときは、りんごという全体印象概念等の全体感を口に入れる前に手にしています。それが徐々に拡大進化して口に入れてかじって確認に至ります。

イザナミはそこに十四の経過を見てそれぞれの領域として説明していきます。

【かくのりたまひ竟(お)へて、御合いまして 、】

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『例えば目的地へ往くには各地点での状況領域に乗っていなければなりません。出発地があって出発する意志があってから始まり、道路状況交通領域をクリアして目的地がそこになければなりません。言葉の発生・人の意志行為・吾の眼を付けて智となすも同様です。

古事記はほんの一瞬を通過するのに十四の根本的に異なった領域を設定しています。』

「御合いは、身合い。

男が言って、女が言って、そしてマグアイしてですが、精神上のこととしてどう理解するのかが問題です。

要素は母音と半母音と父韻です。

身合いは、成り余る処と成り合わざる処の身合いです。男女のまぐあいならイメージがし易いですが、ここは子音創生のことに関してです。

イザナギは主体側として見合いの主導権を握る方ですが、領域を提供するのはイザナミの方です。

イザナギは鳴り喧しい鳴り余れる処をウオアエの次元世界で上を指し塞ぎましたが、余韻を遺している下を塞いではいません。そこで下が抜け落ちないように下の地盤を提供するのがイザナミ側です。

イザナギはミによって提供された十四の地盤から自己を選択することで自己を表現していきます。こうして上下を塞いで成り立った自己の柱が立つわけです。

先に産んだ蛭子と淡島は巷に浮遊していますが、これがどう係わるのでしょうか。

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「かくのりたまひ竟へて 御合いまして 」は、お互いに好きだよと言い合うことです。何をかといえば、御合いの身をですが、女から見た身、男から見た身のことではありません。それでは別々バラバラになってしまいます。

日月神示はこう言っています。

「ウズメのミコトいるのざぞ。ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな。暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ、」

この場合には、女に男があって男に女があるということで、「かくのりたまひ」です。では、その中身はというと、

「キがもとざぞ、キから生れるのざぞ、心のもとはキざぞ、総てのもとはキであるぞ、どんな九十(コト)でもキあれば出来るぞ、キからうまれるぞ、。」

で、男も女もその関係も生まれ出てくるのは「総てのもとはキ」というわけです。

ここにトリックがあります。

男も女も総てもキだ、元気にキだ、潜在意識のキだ、、といいますが、男だけのキ、女だけのキでは何も生まないのです。「全てのもとはキ」というだけのことで、元気や潜在意識があるだけでは動けません。

男というキ、女というキ、「身合い」というキ、つまり、共通のキ、「十理」というキが要ります。

男のキは、イチイキミシリヒニヰ の十に展開します。 女のキは、アイウエオワイウヱヲ の十に展開しています。

男は働きで女は実体で共通性はありません。

ここまでは同じ「十」というだけで、身合う為の共通性はありません。

ところが、男がひとたび先に喋れば、女のア行から一つを選択(「えおとめ」の「え」)することですから(ア行のあいうえおの一つを選択していること)そこにある、アからワの十理を既存の世界としたことです(「えおとめを」の「を」。

なぜなら、働きは実体に載らないと自らを表現できないからで、 男が「あなにやし」と自他ともに共通にしたいところがあるとのりたまっているからです。

「あなにやし」は、吾・汝(わたしとあなた)によしのこと。 (女が先に話すと各段全部を話してしまい一般性となる)

こうして男と女に「たま」があることになります。 女は隠れた「たま」を提供し、男は「たま」で働きます。