⑬-2 身禊五神。主体の確立へ。

祓えはまず「醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき」を払い、そして祓った後の自覚された霊を張(は)らえめぐらす二段階に現われます。まずは主体側(自分)の働きを自分で査定することです。自分で動いているときは、自分は自分ですからなかなかその反省は得られません。ではその節目を造る自覚とは何でしょう。

活動している自分自身を見つめるのは次の神々です。

0) (自分に自覚をもたらした衝動)

かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。次に

1)(無自覚から自覚と通じている道)

投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。次に

2)(自覚に到った道の時処位)

投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。次に

3)(その時処位に曖昧さがなく、その覚悟がいること)

投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。次に

4)(以前の無自覚さを反省し受け継いでいること)

投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。次に

5)(明らかに(自覚前の)自身が組まれていることの確認)

投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

全部繋げると。

0)自分に自覚をもたらした衝動を得て、1)無自覚から自覚と通じている道を探しそれが確認されると、2)自覚に到った道の時処位が計られ、3)その時処位に曖昧さがなく、その受け入れの覚悟ができ、4)以前の無自覚さを反省し受け継いでいることの上に、5)明らかに(自覚前の)自身が組まれていることの確認をした上での出発となるでしょう。

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0)(自分に自覚をもたらした衝動)

かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。

自覚の切っ掛けや自覚の到来は突如物を投げられたようにやってきます。その時の突然の接触では何が起きているのか正確には分かりません。しかし心に突き立つように現われます。この端緒の力動となっているものがツキタツフナドの神です。それは総体の新芽としてあらわれ、と同時に個々に出てきてその時の心の持ちようが規定されていきます。

こうしてそれがその人特有の個別的な意識規範になると同時に、全体的な意識規範の一つとなることができ、その人を導く杖となっていきます。

船戸はフナト、二名戸で自覚への衝動の二方向の入口を指します。一つは意識の総体へ向い後にアマテラスの規範(鏡)になる方向と、他は単なる主観的な真理として主張される方向の二つです。アマテラスの規範に向う以前に逸脱しますと、身禊祓いは成就しません。

思い付きや気付きをそのまま自覚としてしまうと、本人だけが理解できる閃きとしかなりません。

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1)(無自覚から自覚と通じている道)

投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。次に

突如いつき立つ自覚は昆虫の脱皮変態のように無自覚を自覚へと変身させます。しかしそれには同じ関連事項の連続でなければなりません。帯は緒霊、オビで、へその緒の言葉の内容が連続連絡していなければなりません。フナドの内容がまずはその総体として、総合的に連続していることを示します。

脱皮変態、無自覚自覚の前後は連続していないようにみえるので変態というのですが、その連続性はどのように保障されるのでしょうか。

道の長乳歯を問い明かしてみます。道は、ここでは、脱皮変態を伴う連続性です。長はナガで、変態があっても同じ名がついた意識の連続のことです。乳はチで道のことでやはり連続をあらわし、同じ連続性のうちに総体的な成長の時点を示していることです。歯はハで、連続性や変態の端緒を示す出始めのハです。

昆虫などは変態前後の現象はまるで違いますが、変態の始めのハの時点を見ていけば、連続していることは見て取れます。

意識においても、自覚するしないの前後では人が変わったように見えますが、その端緒を見てみれば連続していると見られ、無自覚時代もすくい上げられています。

では次に端緒から得られた連続をどうするのでしょうか。

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2)(自覚に到った道の時処位)

投げ棄つる御裳(も)・(御嚢みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。次に

昆虫も変態すれば生体が変わるように、無自覚から自覚への意識の次元の変化があります。時の経過の仕方が変わり、場所の占め方が変わって、それ自身の次元が変化します。

それを示すのが時量師です。

無自覚から連続して引き継がれたものの内容が時処位、時間(過去今未来)空間(左中右)次元(上中下)等、の三つの袋をそれぞれ持っています。袋の中身は心の百(も)で意識主体の衣(ころも)です。 そこにはその人の人格である前段階(無自覚)の意識の時処位の全体(百)が詰まっていて、昇華されるのを待っています。

無自覚の時処位は天津神のなすがままです。主張や意識はその上に作られたものです。しかしここからは違います。主体意識の主観がまずあります。

感覚によって気付いたなら確かにあることが分かり、知識によってならその違いと差異が分かり、選択するのなら行く道が明らかになり、情緒感情等の確かに明らかなところから始まります。

時の流れを作る時量師は確かに明らかな言霊タから始まります。無自覚な場合は掻き集められて身についた言霊カからでした。

五十音図の運用については、⑬-5 五十音図の見方を参照。

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3)(その時処位に曖昧さがなく、その覚悟がいること)

投げ棄つる御衣(みそ・みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。次に

無自覚さの全体を受け継ぎ、それの時処位があるとはいっても、当初に得たのは突然の自覚と連続した端緒の芽生えで、それの時処位です。何も煩わしい事は無いにも係わらず自覚を展開しなくてはならなくなる(御衣・ミソ・実を組むみそ)と、直ちに自らを煩わしさの主(ぬし)として立て立ち上がらねばなりません。

自覚の拡大展開には、ここに覚悟と決意が必要になってきました。その処理がうまく進行できないと患うことになり、心の病となります。

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4)(以前の無自覚さを反省し受け継いでいること)

投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。次に

こうして煩いには自ら引き受けるかどうかの二者択一の道が出てきます。

ハカマは、足を入れるもの、当初の連続性の端緒の長乳歯を噛み入れ、自分の意識の間に置き直すかどうかの決意の分岐点になります。

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5)(明らかに(自覚前の)自身が組まれていることの確認)

投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

その決心の前には全てが明らかです。冠帽子をかぶることで、主体の心身ともに心機一転の兆しを得ます。

当初は木の芽のように小さく先には何になるのか分からないものでした。

自分が得たということだけがはっきりしていて、それを保持しました。(ウ)

ついで、未だ明確ではないものの無自覚であったことと同じテーマの連続上にあることが確認できました。(ア)

ついで、そのものの時処位の位置づけが行なわれ自覚していることの位置付けも明らかになりました。(オ)

ついで、自覚内容と既存の状況や環境、過去、既得概念、知識等との組み合わせ突き合わせが行なわれました。(ヲ)

ついで、既存既得のものを自覚の内容の間に挟めるかをみました。(エ)

そして、自覚して得られたものを道案内の杖として立てることができ、頭を覆うことができました。(イ)

とはいっても決心の御蔭で主観の立ち位置が明かされただけです。ですので、相手客体側を組み込み治めたのではありません。

そこで続いて客体側を引き寄せ、ついでそれを吸収する手順が残っています。

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