三種の神器の使用法。5

三種の神器の使用法。その22。全単音は母音で終わる。「た」から「か」へ。

日月神示関係の2ちゃんに寄り道した関係で、日月神示が内容は隠したままの形式だけのものだということが分かりました。その替わり古事記とは別の形式を提供してくれていますので、古事記の理解に役立つようになっています。

ウズメはどう書いてあるか探して、以下を得ました。

『ひふみ神示 第08巻 磐戸の巻 。第一帖 (二三七)

イワトの巻かき知らすぞよ、イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ。ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな。ヤミの中で踊るのざぞ、唄ふのざぞ、皆のものウズメとなりて下されよ、暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ、カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな。』

「ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ」、と言っています。ひふみ神示さんもしっかり古事記は読み込んでいます。ここは大して重要ではありません。前回のわたしの冗談と同じです。

「暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ」これが、父韻の働き、ウズメの働きです。古事記と同じことを言っています。今回のテーマです。

わたしの方向も間違っていないことが分かりましたので、ひふみ神示さんが語りたくないところをしべっちゃいますがいいですか。今回はもう少し先まで、「た」から「か」へ行ってみたい。もちろん、うまくいくかどうかは分かりません。

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「た」が発声され、了解され、記憶に成りました。岩屋戸の暗闇中に納まっています。

この後、--かまはら、と続くわけですが、続きはどこにいるかというと、岩屋戸の前に集まっています。記憶できる意識の相手対象は無限無辺です。これがイワトの前にあります。

「た」は後天実在として、続きは先天実在として、同じ高天原あります。前には「た」だけがいるように書いていますが、天照す大御神は宇宙世界の全体を創造する方ですから、先天実在も全部天照す大御神と一緒にいます。

ここでは天照す大御神は各人の頭脳内の記憶に鎮座していますから、各自各人が宇宙世界を秘めているということです。各人が精神宇宙内の高天原に天照す大御神を前にしています。同時に宇宙世界が高天原で各人の前にあるということです。

古事記には精神宇宙の全体が細かく描写されていますが、全部飛ばして「た」とその続きだけにします。

また、前に闇が各音の間にあるようにしてありますが、やはりこれも訂正が必要でしょう。闇があるというのは書き下していくと、始めと次の間ができてしまうために、それを闇としたのですが、実はそのような闇は存在していません。光だけの世界に闇が無いように、母音の鳴りやまぬ世界にも闇の無音は無いのです。

これは日本語が子音頭+母音(TA=T+A )で出来ていて、必ず母音が後に来ていることからも明かです。日本語は完璧な人造言語ですから、全部の単音は母音で終わるように作ってあります。

そのわけは、いつでもどこでも今現在岩屋戸を開けて、天照す大御神と対面しつつ生活するように仕向けられているからです。もう一万年前に決定したことです。(前は五千年とか八千年とかいっていましたが、一万年に格上げです。考古学上の発見に期待しています。今回は訂正ばかり。)

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三種の神器の使用法。その23。TA=T+Aaaaa、、、鳴り止まない。「た」から「か」へ。

大和の日本語五十音は、各単音が母音で終わります。

どうやらこれが、気が付くことを気付くところの入り口にまで到達できたようです。

人類史上最高の秘密、歴史運用の大和の秘密が古事記神代の巻での開示され、継いで、千数百年後に島田正路氏による字句の解読と実体意味内容の解説が完了しました。今日からはそれに続く書き下しになります。

わたしの場合は閃いたというだけですぐにこういうことを書き出すミーハーですので、不明な逸脱が自由自在ですから、充分注意して読むことをおすすめします。

大和の日本語五十音は、各単音が母音で終わるように作られています。

少し元に戻って、耶那岐が黄泉国(よもつくに)から、「見畏(みかしこ)みて逃げ還りたまふ」 原因を説明してから行きましょ。

『蛆(うじ)たかれころろぎて、』・・ウの字のことで、ウ言霊である五感感覚から出た欲望の産物、万有の姿に則して作られた文字や学問のことです。それらの文化がすべて自我を主張してゴロゴロと鳴り、客観世界の文化は完成と調和にはほど遠い状態であった、ということです。

以下にわれわれミーハーの文化創造の特徴が述べられます。『雷(いかづち)』がすべてに共通ですのでこれを説明しておきます。

雷(いかつち)で、五十神(いか)土(つち)のことです。土は昔の粘土板に刻んだ文字のことですが、黄泉国(よもつくに)の全文明創造生産物の象徴です。出来上がった生産物、思考思惟の産物、自分はこう思うとかこう考えるとかいうことから出発する心とその態度、等々、要するに通常の無自覚な創造生産物世界です。

通常の無自覚な、出来上がった、死んだ、黄泉の国にいるということです。肉体が死んであの世のことではなく、黄泉国(よもつくに)とはこの世の死んだ心からできたもののことです。黄泉の常識的な意味が抜けていないでしょうから、黄泉国(よもつくに)とはこの世のことと間略しておいも構いません。

そのように見ることが出来るには第三の規範軸がなくてはなりませんが、それが五十音図(建御雷の男の命)です。その規範軸(柱、剣、勾玉、鏡、等)から見て、「自分はこう考える」という態度は次のようだ言います。

無自覚に浮かんだ、思い付き、お気に入り「自分の考え」、が主体となっています。

・ 頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、・・精神行為は、規範のない無自覚から出発している。

・胸には火(ほ)の雷居り、・・胸(むな)で無・名のこと。火(ほ)は霊・気。規範のない無自覚な態度を名の無いものに、霊・気を押しつける、名付ける、規定する、等のこと。

・ 腹には黒雷居り、・・腹は原で判断規範の原。黄泉国(よもつくに)にもそれなりの判断がありますから、もちろんそれを使用していきますが、勝手気ままを原則を用いた黒い原ということ。

・ 陰(ほと)には柝(さく)雷居り、・・陰部、この産まれるところで、霊止。正常な花が咲くような子供、現象生産物ではなく、蛭子のような裂けた現象になること。

・左の手には若(わき)雷居り、・・左は霊(ひ)足り。若(わき)はワの気のこと。現象のワ(和、環、輪)の気が固定不動であること。

・右の手には土雷居り、・・右はみきり(身・実・切り)のこと。実体内容の切り取り、切り出し抽出が固定融通性がないこと。

・左の足には鳴(なる)雷居り、・・足は葦の芽のように次々に出てくるもの、出てくる意見。左(霊足り)、充分十全と称して、次々ワイワイガヤガヤと自己主張だけの意見を出すこと。

・右の足には伏(ふし)雷居り、・・実・身・を切りだした、抽出提供したと伏(ふし)、吹き出し、吹きかけ、静め、沈め、ていくこと。

・并せて八くさの雷神成り居りき。・・ゴロゴロやかましいだけで実体内容が無いこと。

われわれミーハーの意見はすべて上記のいずれかになっています。

これらの一つが、学問、科学、思想、学識、わたしの意見、あなたの感じ、自分で考えたもの、等々となり現われます。

何故「自分で考えた」意見が、『蛆(うじ)たかれころろぎて、』になってしまうのでしょうか。

正しくても間違っていても、丁重であっても横柄であっても、事は同じです。

それはイカ土(雷)の出来上がった土の世界から始めるからです。

土は天地(あめつち)のつち、あの芽が付いて地になるの地です。「あの芽が付いて地になる」は姉妹ブログ「要素編」に独立してあります。未完です。

またウズメの胸乳(むなち)のチです。ここでは、いかつちのチですから、ウズメのむなち・無の名の地ではなく、いかつち・イが加わってしまったチです。ややこしい言い方は止めて、単に目前にある、もの、いしき、としておきましょう。

例えば、目前に鏡があります。それを何故だか分からないがここにあるものとして受け取りますと、つまりイカツチとして受け取りますと、上記の八通り(日月神示は八通りに読めるの八通り)の関わりができます。

例えば鏡のデザインを仕事にしている方なら、目前の鏡を見て、

・ 腹には黒雷居り、・・腹は原で判断規範の原。黄泉国(よもつくに)にもそれなりの判断がありますから、もちろんそれを使用していきますが、勝手気ままを原則を用いた黒い原ということ。

というところから、自分の経験概念知識を規範として比較検討を加えます。そこから一つの了解事項が産まれます。しかし、これはわけの分からないものに自分の判断を加えたものですから、わけの分からないものの上に乗った判断で、自己完結した自分の体系を提出したものではありません。改良改定改悪といくらでもその後が控えています。

検討を加えられた鏡の将来は未定ですが、自分が処置了解した時点で、自分のかかわった鏡というものが産み出されました。これはその時点で考えられた自分にとってもっともよい関係となってあらわれるものです。こうしてこの世の文明文化が構築されてきました。

しかし、残念ながら構築され提供されたものをみると、誰かが、自分そこにもう一言言いたいことを感じます。何故なら目前にあるものがそのように騒いでいるように見えるからです。

これに対して完結していることを承認了解して後から手を出せないものもあります。例えば芸術作品とか宗教的な言葉とか、情感感情を現すような時にそれが起きます。

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三種の神器の使用法。その24。Aaaaa、、、+T=TA?。鳴り止んだ「た」とは。

前承。 これに対して完結していることを承認了解して後から手を出せないものもあります。例えば芸術作品とか宗教的な言葉とか、情感感情を現すような時にそれが起きます。

ご来光、夕陽の没していく黄金の空、等の経験には自我も埋没するというか、救われる感情が沸き上がります。もちろん例に挙げるのは意気消沈萎縮でも構わず、自我が全部吸い取られることがあります。

ここでは前回と違って、自分を主張するのではなく、自分の主張が吸い取られていくほうをみます。「あああーーぁァ」という感情の元に、言葉にならない主体側はいても、その行き着く先を見いだせず、無理やり出した言葉、声明した言葉は非力と感じます。

表題に変な記号があります。さらに追加書き直しします。「T 」は主体側の意図でもあり、たかまはらのタでもあります。

1) 知識、欲望、五感覚次元。

TA=T+Aaaaa、、、← +T = TA'' (TA''=T+Aaaaa、、、)

2) 感情、芸術宗教情感次元。

(TA)Aaaaa、、、+ ← (+T=TA?)

(1)の読み方は、「TA」という欲望、知識の対象があります。それは出来上がったものであったり、概念であったり、知識記憶であったりします。それを分析しますと、誰か(T)の過去概念知識、欲望の対象「TA」がそこにあり続け(Aaaaa、、、)、取り上げられるのをまっている様子です。

それに対して新しい誰かの知識、欲望が TA との遭遇を得ました。← +T(新しい、誰か)

そこで新しい意図の元、欲望実現の元に新たな 「TA'' 」ができました。

「TA'' 」は前の誰かの TA と同じ構造で、 TA''=T+Aaaaa、、、 です。

また、次の誰か何かを待っています。

例えば、「TA」 の付く言葉「たかい」の 「TA」 が発音されました。それを側で聞いた人が何人かいました。ある人は物価が「高い」の「た」で了解しました。次の人は「他界」の「た」で納得しました。またある人は「高井さん」の「た」を思いました。タクシーを読んだと思った人や、宝くじが落ちているとかんちがいした人もいました。「た」への判断が先行して、それに続く、「Aaaa、、、」を、自分の好みとお気に入りの関心事にと結び付けました。

これらの違いは、「T」に続く、「A」が、「aaa、、、」と続いて何時までも有効なために、その人なりの切り口を入れて新しい解釈を作ったからです。聞いた人の過去知識、概念記憶、関心の出方によってその人たちは勝手に自分の思いとして、相手を理解したとして、自分のための新しいものを造り出しました。

これが論文や感想文、自分の感じ考えだなどとなりますと、やはり文章全体での「A」が、「aaa、、、」と続くため、ああだこうだ、俺がお前がと、果てしない応酬が続きます。

主体側の「T」なる意図がいつでもどこでも差し込まれる (まぐあいの段落参照) からです。

それに対して、

(2)の読み方は、

どこからか得られた感情 Aaaaa、、、 が出てきました。その感情は自分のもの (TA)Aaaaa、、、であることは分かります。そこに自分がいて、自覚した自我があることは分かるのですが、得られた感情をどうするのかが分かりません。aaa、、、 。

感情を得ているのは自分ですから、それを現そうとします。+ ← T 。

しかし、感情が現せない、表現するとウソになる、本当の自分が言葉にならない + ←(+T=TA?) のを感じます。

この場合には言葉以前に感情が先行します。相手にするのは自分の感情ですから、自分に向かいます。 自分が感情を起こしたのは分かっていますが、その感情がどこにあるのか分からず、どうしてあるのかも知りません。自分と共にあることだけは分っています。

それでもそこには、まだ名付けられていない規定されていない、 「Aaaaa、、、」があります。そこで自分を知らしめようとしますが、自分にあるものを知らしめることが目的目標です。 「Aaaaa、、、」の内容を「T」の「Aaaaa、、、」か、「K」の「Aaaaa、、、」か、「M」の「Aaaaa、、、」か、H、R、、、」のどれかの子音頭をを付けて、「TA、KA、MA、HA、RA、、、」 にしないと、自己表明ができません。しかし、自分のものを自分で探すのですから、「T」しかありません。

そこで目指すのは得た自分を明かすこと、掴むことです。ところが、 感情は非常に短命です。概念のように何回でも繰り返し使用できるものではありません。それどころか、出所に戻って逆行しなくては元の感情はつかめません。

(1)の場合は新しい「T」が出てきて、「T」に応じた「Aaaaa、、、」を掴んでいけばいいのですが、(2)の場合には、自分「T」が「Aaaa、、、、」を掴むだけです。ですので出てきた相手の感情に対しては基本的に為す術がありません。

いずれも 大和の日本語母音に対する態度です。

変な記号を使って説明するから、最初の道筋を失った感じもします。

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(1)も(2)も、「T」(子音頭)の 「Aaaaa、、、(他の母音も)」(母音)に対する態度です。つまり、母音という実在宇宙世界に対する心の対応となります。

⑴の場合は鳴りやまない Aaaa、、、に対して自分自我という、あるいは、他という、子音頭が入り込んで鳴りを止めようとします。しかし、そこでできたものは、また語尾にAaaa、、、が付きます。

⑵の場合には鳴りやまないというより、鳴ってしまったAaaa、、、を求めて退行したところに、自分自我の子音頭を付けて、Aaa、、を得ようとします。この場合もやはり、語尾にAaa、、、が付きます。

こうして、単音はなり続ける母音を保持しているため、それを受け止めようと次々に子音頭(実はこれを父韻といいます。)がやってきて接続を求めるのです。

これは単音単位で、切り離された単音を接続する説明に鳴っているのですが、下手ですが、総ては言葉単位(単音、二語、三語、それ以上)で終了します。「たかまはら」という五つの単音を発音し終わって終了です。

ところが、五つの単音という言い方は間違っています。「たかまはら」、あるいは何でも、は単音が連結すれば出来ると言うものではありません。単音の意味が連結して複数音(あるいは単音)として、一つの意味が成立していなければなりません。

もちろん、このようにいうのは大和の日本語に対してだけです。一切の外国語には母音で終わる構造はなく、子音で終わったり、意味なく約束で付け加えてあるだけのものです。例外もありますが、例外であって構造的に母音を実体内容とする何ものかの言語構造は持ち合わせていません。

というところで連結している塊に注意をしていきます。

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三種の神器の使用法。その25。一塊の言葉はどこから?。Aaaaa、、、+T=TA?。

というところで連結している塊に注意をしていきます。

単音の時には語尾の母音の廻りを巡ってつながりができました。

しかしことはそう単純ではなく、母音にもいくつかあり、それはどうなるとか、意味と発音の関係はどうなるとかがあります。

一連の、一塊の言葉の場合には単音の終わりの Aaaa、、、に相当するものは何でしょうか、まだどれもこれも何にも解決していません。

何故言葉の一塊が出来るのでしょうか。

動詞の原形は「う」で終わり、形容詞の原形は「い」で終わる。

単音が出来て、一つの言葉が出来て、すると今度は一つの文章ができるでしょう。な是、一つの文章となって終わり、その間の単語が連結していくのでしょうか。どうして自分の発する文章、しゃべる文章に終わりが来て句読点がつくのか。

思いとか考えを作りながら進行していくから、考えが終われば句読点が付くのは当然のようにおもえます。しかし、今にしか生きていないことを思うと、考えた事は常に過去過去過去に流れていって、後に去っていくだけです。

最後に出てくるのは、何々ですの「す」、何々であるの「る」、これは何ですかの「か」に句読点。が付いて終わりです。

わたしどこで何をしたというのでしょうか。

文章が終わった後に何があるのでしょうか。

言葉の場合なら通常は記憶の媒介によって、前言を引き取ります。

一つの言葉、一つの文章に有るはずの、Aaaa、、、に相当するものが見つからないと落着きません。

では、一つの文章に、Aaaa、、、が見つかったとして、さらにその上の全体に問題を拡大していくとどうなるでしょうか。

書く事だけではありません。ついには生きる事の全体の問題となるでしょう。

何故、生きているのでしょうか、となるでしょう。

分からなくなったら古事記に戻ろう。

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三種の神器の使用法。その26。生きる素、それは母音。未完。

A`O`U`E`I`iiiiii、、、、、。

生きているから単音が発音できる。Aaaaa、、、+T=TA?。

生きる素、それは母音。A`O`U`E`I`iiiiii、、、、、 + (イ・ヰ)

アの母音が不変に鳴り響くのは、イにおいて了解しています。

そこで、イに関心が移りました。

本稿は未完で中止します。

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次回予告。

今とは何か。いまとはイの間、のことですが、

イの目が付いて地に成る、あめつちの経過を見たいと思います。

皆様の参加協力を希望します。

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終わったのに追加。

言葉は、単音であったり、二語だったり、三語、それ以上であったり、また、短い文章であったり、長い文章であったり、しますが、どうしてそれらの違いがあるのかといえば、言葉の素、霊(ひ)、気、実体内容が、物質表現、象徴表出を、まねぎいざなぎ合うことを必要としなく成るまで続くからです。