言霊学随想

道と器(言霊学随想)

易経に「形而上は之を道と謂い、形而下は之を器と謂う」とあります。平易に言えば「精神的な真理を道と謂い、その内容を器物で象徴したものを器と謂う」という事です。例を挙げて説明しましょう。日本皇室に伝わる宝に三種の神器があります。剣(つるぎ)(草薙剣)、曲玉(まがたま)(八坂(やさか)の勾■(まがたま))、鏡(かがみ)(八咫の鏡(やたのかがみ))の三種です。器でありますから、易経にありますように精神的な何かの道を象徴しているに違いありません。既刊「コトタマ学入門」に詳述しましたように剣とは人間天与の判断力の事。昔の剣は両刃でありましたから、片方は太刀(たち)(断ち、分析)、もう片方は剣(つるぎ)(連気(つるぎ)、総合)を表わします。先ず人の心を太刀の判断力でトコトン分析して行くと究極に五十個の言霊を発見します。この五十の言霊即ち人間精神の究極の要素を五十個の勾■(まがたま)で象徴しているのです。次に剣のもう一方の連気で心の五十個の要素を総合し、人間最高の文明創造の精神構造(天津太祝詞音図)を造ります。この象徴が八咫の鏡というわけです。

上に挙げました形而下の器が象徴する形而上の道が言霊原理の復活によって明らかとなった一例でありますが、最近当言霊の会に於て「道と器」の結び付きとして誠に興味深い出来事がありましたのでお知らせ申上げる事といたします。

平成十三年五月の或る日、当言霊の会の会報購読会員であるYさんから電話を頂いた。電話の内容は「以前、官幣大社であった神社に、春秋の大祭に際して天皇家から勅使によって下賜される器物が手許にあるのですが、その構造が言霊原理から見ると何か意味があるように思われるのですが、一度見て頂けませんか」というのです。私も大層心を惹かれ承諾しました。五月二十五日午後、Yさんは白い布に包んだ白木の箱を持参し、早速拝見しました。白木の箱と見えたのは、実は白木の柳の木を細工した切口が三角形の棒を、釘も接着剤も用いず、棒に細い穴を明け、白い細糸を通して板状に組み、四側面と上下の六面を作り、箱形としたものでありました。Yさんによると、側面の四つの角に位置する変形の三角棒を二本と数えると、全部で百本の三角棒を編んだ長方形の箱という事になる、と言います。この箱を見て、またYさんの話を聞きながら、私はこの精巧な箱が言霊原理に照らして何を意味するのか、が明らかになって来るのを無言の裡に「成程、成程」と頷いていました。(①図参照)。

Yさんが箱の蓋を開け、中の物を取り出しました。初めに目も覚めるような鮮やかな五色の絹の巻物が目に飛び込んで来ました。向かって左から緑黄赤白黒の順の直径三センチメートル、長さ三十センチメートル程の絹の染め布を巻いたものです(②図参照)。

更にその五巻きの絹布の下を見ました。境となる長い布を折り畳んだものの下に、布ではなく糸の束が見えました。左と右の端は麻の太い幅広の糸の束で、晒してないものと見受けました。その太い麻の束に囲まれるように上下二段に四束づつ、計八束の糸束が並べてあります。上段四束が絹糸、下段四束が木綿の糸と見受けられました(③図参照)。

以上上段の五本の絹の染め布と境となる折布を挟んで下段の太い麻糸束二、細い絹と木綿糸の束(無色)八、計十本の束とを収納した柳の白木製の箱は縦四十センチ、幅二十センチ程、高さ二十センチ程と思われました(正確に計測したわけではありません)。

由緒ある天皇家よりの御下賜品を拝見している内に、私は心の底から深い感動が起こって来るのを感じました。それは天皇家の一般の社会人には見る機会がない秘蔵品を見せて貰った事の感激……、そうではありません。もっと奥深い意味を持つ事への感動でありました。「いよいよそう言う時が来たのか……」という言い知れぬ時代到来に対する感動であります。

日本人の大先祖、皇祖皇宗の壮大な人類歴史創造の御経論の下、人類の第二物質科学文明創造のための方便として、言霊布斗麻邇の原理は社会の表面から隠没しました。二千年前の崇神天皇の時であります。しかしその隠没は人間の忘却であって喪失ではありません。物質科学文明の完成の暁には、再び言霊の原理はこの世に復活することとなります。その為、朝廷に於て種々の施策が講ぜられました。その一つが宮中に於ける祭礼・儀式の様式の工夫であります。即ち言霊原理復活の暁、その眼で見れば太古は宮中に於いて同様の原理に基づいて政(まつりごと)が行われていたのだな、と思わせる証拠となるよう祭礼の様式、そこに用いられる器物の形についての工夫が行われたのです。今、目の当りに見る元官幣大社である神社の大祭に天皇家よりの勅使によってもたらされる御下賜品を一見して、その表徴する内容がアイウエオ五十音言霊の原理そのものであることが十二分に理解されたのでした。この御下賜品の箱とその中の絹布と、絹と木綿と麻の糸の束の形式が何時頃制定されたのか、は不明です。けれど室町時代の宮中の祭典を司るお公卿さんの日記に「宮中の大嘗祭その他の祭典の様式の意味が全く分からなくなってしまった。」とある所から考えると、式典様式が室町時代より余程以前に制定された事は事実でありましょう。明治天皇、昭憲皇太后に始まり、多くの先輩諸氏の努力によって受継がれて、現在の言霊の会に到る伝統の言霊学復活の研究によって、略(ほぼ)、百パーセント太古と同様の姿に甦った言霊布斗麻邇の原理と、長い長い年月、宮中に秘蔵されて来たその象徴物であり、またそれが皇室よりの御下賜品であることが明白であるものが、即ち言霊原理の形而上の道と形而下の器が、言霊の会の一室に於て出会った事です。これは誠に感動の一刻(ひととき)でありました。

御下賜品の箱とその内容物が言霊原理そのものだ、と言う理由は言霊を学ばれる方には直ぐお分かりの事と思いますが、次に簡単に説明することにしましょう。先ず③図より始めます。晒しも染色もしない麻糸の大きい束が左右にあります。加工しないという事は人為でなく大自然を表わします。両側の二つの大束は人間天与の精神構造である天津菅麻音図、即ち伊耶那岐神の五十音図の母音アオウエイと半母音ワヲウヱヰを表徴します。それに挟まれた上下二段の小さい糸の束は八父韻です。上の四束は人間の創造意志の能動のリズムである父韻チキヒシ(塩盈(み)つ珠)を示し、下の四束は受動のリズム父韻イミニリ(塩乾(ひ)る珠)を表わします。以上の構造を持つ伊耶那岐神の天津菅麻を素材として、言霊操作の末の結論となる天皇(スメラミコト)の人類文明創造の精神構造を示す天津太祝詞音図即ち天照大神が誕生します。

②図はその天津太祝詞音図の母音の並びを表わしています。人類文明創造は大自然ではなく、人為に属しますから糸を織り、染色した布を以て示されます。緑黄赤白黒の順は言霊を色霊で表わしたもので、アイエオウの母音の柱を表わします。(実は白はウ、黒はオで順序が逆です。過去何時の時代か、言霊の原理が不明となってからの人為ミスと考えられます。)③の伊耶那岐神を親として②の天照大神が誕生する構図は、伊勢神宮本殿の中央に八咫鏡(天照大神)、その本殿中央の床板の真下に心柱(伊耶那岐神)が立てられているのと同様であり、また祝詞の「下津磐根に宮柱太敷立て(菅麻音図)、高天原に千木高知りて(太祝詞音図)」とも一致しています。

最後に①図の柳の白木の箱の話に移りましょう。これがまた驚く程巧妙な表徴物です。箱材の柳はイヤナギで伊耶那岐を意味し、その百本の棒は、五十個の言霊と五十通りの操作法、計百の言霊の原理を人類文明創造の政治の原理とする日本天皇の朝廷(みかど)、即ち百敷の大宮を表徴します。三角形の棒は「みかど」で朝廷を表わします。

以上が旧官幣大社の祭礼時に天皇家より賜る御下賜品の構造の言霊学的内容のすべてです。形而上の道である言霊原理と、その道の隠没に当たって製作された形而下の象徴である器とが、千数百年乃至二千年の歳月を経て、此処に再会しました。今年五月二十五日に起こったこの事実は、人類の第三文明時代創造の大いなる歩みの中の一里塚として、今後の人類歴史に大きな指針を与えることとなりましょう。

(以上

太初に言あり(言霊学随想)

新約聖書ヨハネ伝は信仰の書というよりはむしろ哲学書というべき文章で始まっている。

「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光(ひかり)なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。」

英語の聖書では、この太初に言あり、の言にthe Wordと大文字を使っている。またロゴス(Logos)なるギリシャ語を用いている書もあると聞く。日常一般の言葉と区別するためであろう。古代、この「言」をマナ(manna)と呼んだ。旧約聖書に「マナとは神の口より出ずる言葉なり」と書かれている。このマナの事を仏教で摩尼と呼び、ヒンズー教でマヌといい、「マヌの法典」なる古文書が遺されている。日本語では麻邇(まに)といい、その法則を布斗麻邇(ふとまに)と呼んでいる。マナは古代に於いては世界語であった。

では「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」と聖書にある言(ことば)とは如何なる言葉なのであろうか。その内容について聖書は勿論、仏教もヒンズー教も全く触れていない。外国に起源を発する宗教によってはその神即言の内容を知ることは不可能なのである。では全く不可能なのか、と言うとそうではない。日本民族伝統の古神道言霊学が明快にその内容を百パーセント解明してくれる。

言霊布斗麻邇の学は人間の心の究極の要素が五十個である事を解明した。この心の要素五十個のそれぞれを、私達が現在使っているアイウエオ五十音の清音の単音一つ一つと結んでこれを言霊と呼んだ。それは心の最小単位であると同時に言葉の最小単位でもあるもの、即ち言霊である。それはまた心と事の単位が一体となった実相の最小の単位でもある。日本語はこの物事の実相の最小単位である言霊を組合わす事によって事物の実相を表現した。それ故、古代日本語(ヤマトコトバ)は事物の実相そのままを表現して誤ることがなく、その他の説明・解説を必要としない。「神惟(かむなが)ら言挙げせぬ国」と謂われる。

さて「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」の神とは何か。辞書を引くと「人間の宗教心の対象となる、超人間的な威力を持つもの」と簡単に説明している。「人間の宗教心の対象となる」からには人間生命活動のすべて、人事百般がそれによって創造・規制され、しかも「超人間的な」ものとして人間の五官感覚意識では捕捉出来ない威力を持つもの、というわけである。以上の条件を十二分に満たし、信仰に依らずにその存在を確かめ、自覚可能なものはあるであろうか。世界に唯一つある。言霊十七個によって構成される人間精神の先天構造を示す言霊学の天津磐境と、その活動によって現出して来る人間精神の後天構造、アイエオウ五十音言霊によって構成された人間精神の全貌を表わす天津神籬(ひもろぎ)である。この人間精神の先天と後天の原理・法則を古神道言霊学は単に布斗麻邇と呼ぶ。哲学的に謂えば人の心のアルファーであり、オメガーである。天津磐境は人間の内観によってのみ直観される、人事百般創造の根源となる心の先天構造であり、天津神籬は磐境によって産み出された心の後天現象である人事百般の原理・法則である。この磐境と神籬とが人間の英智によって認識された宗教心の対象となる神の実体であり、現実相に他ならない。

此処で話を転じることにしよう。常に言う事であるが、物事の実相は一つである。それが如何に複雑極まる状態にあるように見えても実相は一つしかない。この巖然たる事実を前提として考えてみよう。或る事件について十人の識者に状況をどう見るか、尋ねて見る。すると十人十色それぞれ違った答えが返って来るに違いない。一つの出来事について人の頭数だけの答えが返って来る。何故か。人それぞれ物事を観察して判断する基準がまちまちだからである。判断の基準を形成する人それぞれの経験知識が相違するからである。

人はこの世に生れ、長じる過程でいろいろな経験を積み、それに基づく知識を身につける。生れや人生経験によって境遇も異なるから、それぞれの経験知識が相違する。その為、一つの出来事についての見方も異なり、状況判断も異なり、対処方法の意見もまちまちとなる。これはやむを得ない事であり、その為の物事処理の決定手段としての民主主義が尊重される、という事に落ち着く。この様に見て来ると何の疑問も起って来ないようにも思える。しかし、しかしである。此処で「物事の実相(真実の姿)は唯一つである」という初めに帰ってみよう。すると何の疑問も起らぬ事が不思議に思えて来るではないか。唯一つの事を人々はそれぞれABCDEF……際限なく多様に見ていることになる。こんな変な、不合理な事はないと思わない人は、何処かで、誰かに、何かに騙(だま)されて いるのではないか。佛典法華経に次のように説かれている。「佛の言葉は異なることなし」「佛と佛とのみいまして諸法の実相を究尽す」と。

以上の真実は一つ、それを見る目は十人十色の現実を日と月に譬えて説明してみよう。人にとってどんなに複雑に見える状況も、実は唯一つの真実である。複雑に見えるのは、人がそれを観察するのにいくつもの概念、即ち幾多の経験知を総動員して尚不足と思うからであるに過ぎない。真実は一つしかない事に変わりはない。その一つしかない真実を太陽に譬えよう。太古、人は太陽を直視して真実を直ちに見極めることが出来た。しかし或る時から、正確に言うと日本では二千年前、言霊の原理が隠没して以来、聖書で謂えばアダムとイヴが蛇に唆されて禁断の実を食べて以来、人は太陽を直接見る事を止めてしまった。そして真実を見る上で月という鏡を設定し、この月という鏡に映る太陽の姿が真実に一番近いと思い込み、 疑わなくなった(図を参照)。月の光が太陽の光の月面による反射光なのだ、という事すら忘れてしまった。人は眼前の出来事が重要であればある程、自らの経験知を総動員し、物事を月面の凸凹で反射させ、煩雑に、更に薄暗くして自らの判断を狂わせて行った。その結果、物事の処理には論争が付きものとなり、貧困、戦乱、狂気は世の常となった。人が真実を見なくなった結果である。

物事の観察を煩雑にした理由はもう一つある。そもそも人間生命とは心でもなく、体でもない。心であり、同時に体でもあるもの、である。心と身体が別々にあるのではない。心身一体が生命である。この事を古事記神話は次の様に説いている。「天地初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神(言霊ウ)。次に高御産巣日の神(言霊ア)。次に神産巣日の神(言霊ワ)。」人が何かをしようとする時、心の宇宙に何か分からぬが一点の光が点る。言霊ウである。昔の人は言葉の事を神鳴り(雷鳴)と呼んだ。ゴロゴロと鳴る言葉の元はピカッと光る雷光である。言霊ウとはその雷光の初光だという事が出来る。この何か分からぬ初光に人の思惟が加わると、その瞬間、言霊ウの宇宙は剖判して言霊アとワの宇宙に分かれる。宇宙剖判である。主体と客体、私と貴方、初めと終わり、心と体、積極と消極、能動と受動……である。この消息を老子は「一、二を生じ…」という。二は元々一であったものである。これを忘れて物事を分かれた二を出発点として考える時、生命の実相、物事の真実は既に失われてしまう。人間の生命活動を片や、心、霊……等で見る時、または体、物、状況……等で観察する時、双方共真実から離れた相を見ることとなる。真実を見る為には、見たものを出発点、原点とした上で、憶測を逞うしなければならなくなった。真実に到達不可能が常となる。元来一つのものを、見る者と見られる者、心と体、霊と体に分けて、そこから観察を始めてしまった結果である。既に起ってしまった状況をのみ観察し、そこからその事態を起こした人の心を憶測しても、真実を再現することは難しい。また起った状況の裏を霊視して物事を論(あげつら)っても、「当るも八卦、当らぬも八卦」である。太古に於いては、霊能者の神懸りの傍には必ず真実を見分ける眼を持った沙庭者がいた事を忘れてはならないであろう。

以上述べたように人々は、日本に於いては二千年前、外国に於いてはそれより更に前から、物事の真実相を見る事を忘れて来た。それよりもっと悪い事には、人々は自分達が真実の姿を見ていないのだという事に気付いていなかったのである。時はめぐり、人類の第二物質科学文明時代は終わろうとしている。科学文明創造のための方便として創出された生存競争社会はその終局を迎え、自己崩壊寸前の状況を呈している。この劫末の世を迎え、人々は自分たちが直面している世界の危機という真実相を直視すべき時である。自分達が騙され続けて来た事に気付き、目を醒まさねばならぬ時となったのだ。

ではどうしたら物事の真実相を何らの媒介もなしで見ることが出来るか。更にその見ることが出来た真実相を「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」の言葉で人に伝えることが出来るか。この問題を言霊学による人間精神の進化の事で説明しよう。

蝶はその一生の中で三態の変化を遂げる。幼虫、蛹(さなぎ)、成虫(蝶)である。これを変態(metamorphosis)という。人間には一生の中で姿態の変化はない。けれど魂は五態の変化を遂げる。但しその変化は自然に変化するわけではない。魂の変態に対する意志と努力が必要である。魂の進化・変態は次の様である。

人の心は五つの次元の宇宙に住む。その次元は進化の順に母音を当てるとウオアエイの五段階である。人はこの世に生を享けると先ず母親の乳を吸う。美味しいものが食べたい、美しい服が着たい、金持ちになりたい、名誉が欲しい……等、五官感覚に基づく欲望の次元であり、この次元の人間性能は言霊ウの宇宙から発現する。またこの性能が社会的に産業・経済活動となる。人の性能とはこの言霊ウだけだと思って一生を終る人も多い。進化の次の段階は言霊オの宇宙から発現する学問・知識を求める性能である。言霊ウの世界で経験した事柄の間の関連法則を求めることで、近代科学はその所産である。

進化の第三段階は言霊アの次元、これより発現する人間性能は感情であり、この感情性能の昇華は宗教・芸術活動となって現れる。そしてこの次元の活動・努力の究極に於いて、人間の上述の三性能が発現して来る根元の宇宙の存在を知る。自らの生命の本体が宇宙そのものだ、と知る。人は今までの経験知の眼で物を見るのでなく、宇宙そのものの眼で見ることが出来る。この眼で見ることにより物事はその実相を現わす。人は月の媒介を通すことなく、直接に太陽の真実相を真正面に見ることが出来るようになる。人は神の存在を知り、美の根源に出合う。仏教はこの次元の悟りを初地の仏と呼ぶ。

第四の進化段階は言霊エであり、これより発現する人間性能は、選択知、学問的には英智と呼ばれるものである。今まで出て来た第一、第二、第三段階の人間性能を、物事を処理する上でどの様に塩梅(あんばい)したらよいか、を選択する智恵である。この性能は第二番目の経験知が知識と呼ばれるのに対し、智恵といって区別される。この次元から社会的には政治・道徳の分野の性能が現れて来る。

人間の魂の進化についてのこれまで四段階の説明は、厳密には言霊学に拠らずとも言及し得る所であるが、これより始まる精神分野は文字通り言霊学のみが解明し得る独特の心の領域である。この随筆のテーマ「太初に言あり」の言(ことば)は言霊学による解明によって初めて人間の自覚に達し得る言葉なのである。説明を進めよう。

人間精神進化の第五段階、最終段階は言霊イの次元である。この次元からは人間の意志、正確に言うと生命創造意志というべき性能が発現する。言霊ウオアエの四次元性能が社会の中でそれぞれの活動分野を持っているのに対して、この言霊イの性能は直接には世の中の現象として現れることはない。現れる事はないが、縁の下の力持ちの如く、人間の心の働きの奥にあって、ウオアエの性能を発現させる原動力となる。言霊イはその実際の働きである八つの父韻としてウオアエの四次元宇宙に働きかけ、人間精神の一切の活動現象の究極の要素である三十二個の子音を産む。言霊学により人間精神の全体を示す五十音言霊図に於いて、言霊イは縦に五つの母音の締めくくりの存在として他の四母音を統轄し、横に八つの父韻の働きを発現させ、他の四母音に働きかけて三十二個の現象子音を生ぜしめる。母音、半母音、父韻の先天構造の言霊十七個、その先天構造の活動によって生じる後天現象の要素三十二個、計四十九個の言霊(他にそれ等言霊音の神代文字化として一個)を、一個または数個結合させることによって言葉即実相、文字即涅槃(ねはん)と謂われる実相ズバリの言葉が形成される。言霊イとは母音宇宙の総師であり、また八つの父韻の原動力であり、同時に人間生命活動に関して一切の物事にその名を附与する宇宙全体の創造主神なのである。言霊五十音はこの言霊イの次元に存在し、イの次元にはこの五十音言霊以外の存在はない。そしてこれ等五十音言霊とその法則によって創造された唯一の言語、それが古代日本語、大和言葉である。新約聖書ヨハネ伝の冒頭を飾る「太初に言あり」の言とは五十音言霊の事であり、その五十音によって組立てられた日本語こそが世界唯一の「物事の実相を何の説明も要せずそのまま人に伝えることが出来る言葉」なのである。

以上述べた最終段階言霊イの次元の意義・内容を踏まえて第四段階のエ次元の説明を加えよう。先に言霊学によらない言霊エの選択英智を、言霊ウオアの人間性能を事件処理に当ってどう塩梅するかの智恵と説明した。その際、塩梅する智恵は人それぞれに賦与された智恵であり、その智恵の一般共通の法則については言及しなかった。その理由は世の中にその普遍的法則を論じる教えや学問が極めて稀(まれ)であり、あったとしても(易経の如く)その法則なるものは曖昧なものであった。しかし言霊学に於いては極めて厳格に表示される。人の世の中に於ける四次元のウオアエの性能現象は、その母音に働きかけて現象を生む原動力となる八つの父韻の順序によって区別され決定される。それぞれの次元に対する働きかけの八父韻の順序に誤りがあれば、その次元の行為は成立しない。この法則は物質科学の法則と同様の正確さを持つ。言霊母音ウオアエに働く八つの父韻の順序を列挙して置こう。言霊エの選択性能とは、実は母音に対して八父韻のどの配列を働きかけさせるか、を選択する性能のことなのである。

言霊ウの次元……キシチニヒミイリ

言霊オの次元……キチミヒシニイリ

言霊アの次元……チキリヒシニイミ

言霊エの次元……チキミヒリニイシ

以上新約聖書ヨハネ伝の冒頭に記された「太初に言あり」の言の実体を言霊学によって説明して来た。人間の生命活動の一切は人間精神の進化の最終段階にある生命創造意志の法則であるアイエオウ五十音言霊布斗麻邇の原理によって創生され、命名され、総合されて、人類社会が形成され、人類永遠の歴史創造へと繋がって行く。人間社会の良きものも悪しきものも、美しきも穢れたるも、合理も不合理も、強きも弱きも、すべてが「神と偕なる言」即ち言霊布斗麻邇の光の下に昇華されて、人類の栄光の歴史の中に生かされて行く。

「萬(よろづ)の物これによりて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき」のヨハネの言葉は日本に復活した言霊布斗麻邇の学によって証明・成就される。

(終り)

生 命(言霊学随想)

心と体が一つになったものが生命であるのではない。生命が先ずあって、そこに人間の思惟が加わる時、生命が心と体に分かれるのである。分けるから分る。分けなければ永遠に分らない。これが人間の思惟の持つ業(ごう)である。主体である心と客体である体を両方向に調べ、共に究極の構造に到達した時、初めてその構造が掌の表と裏として相似形を成す事が分る。この時、主と客双方の真理を踏まえ、心の原理である言霊の次元イ(親音)の自覚に立つ時、心と体を両輪とした生命それ自体を観想によって知る事が出来る。生命が生命を知るのである。古事記は伊耶那岐の大神と呼ぶ。

言霊学と信仰(言霊学随想)

私の言霊学の師、小笠原孝次氏は言霊の学を学ぼうと師の門を叩く人に対し「貴方は何か信仰をなさっていますか。信仰なさっているならその信仰を、なさっていないのなら貴方の身近な確かな信仰に入り、そのそれぞれの信仰を卒業して来て下さい」と告げるのが常であった。

信仰を卒業するとは如何なる事か。自力信仰で言えば、例えば仏教禅宗の「空」を自覚する事であろう。「色即是空、空即是色」と知って自らの心の本体が宇宙そのものであると知る事である。自我意識が実在ではなく現象であると知る事です。他力信仰で言えば、キリスト教や浄土真宗の謂う「信心の決定」のことであろう。「善人なを往生す、いかにいわんや悪人をや」と悪人正機を知り、弥陀の御手に深く抱かれている自分を知ることであり、またパウロの「今よりは我生くるに非ず、イエス・キリスト我が内にありて生くるなり」の如く、身の内にイエス・キリストの復活を知る事である。以上の如く「信仰の卒業」とは信仰の対象である神仏と自我が一体となること、仏教で言えば初地の仏となり、キリスト教ではアノインテットと呼ばれる境涯の事である。

信仰を持たずに一生を過ごすのも一つの人生である。信仰に身を捧げるのも一つの生の営みである。であるのに師は何故言霊学を志す人々に信仰とそれよりの卒業を奨めたのであろうか。今・此処に簡潔にその理由を解説し、布斗麻邇勉学者の参考に供することにしよう。主として二つの理由がある。

この世に生をうけてより自我の五官感覚に基づく欲望の追求に一生を費やす人、或いはその欲望追求の経験の間の法則を求めて学問探求を仕事とする人(言霊ウ・オの境涯)、またそれ等欲望と経験知識探究の生活の中の矛盾に気付き、信仰によって自らの心の種々の束縛から脱却して平安を望む人(言霊アの境涯)、それら言霊ウオアの境に在って努力する人々はその日、その時の雰囲気によって一喜一憂して心は揺れ動いている。揺れ動く自らの心で動いている社会を見ても、社会の真実の姿、所謂物事の実相を見極める事は困難である。この人達が物事の矛盾に遭遇する時、必ず喧々囂々の論争が捲き起る。唯一つしかない物事の実相を見極める眼を持ち得ないが為である。

物事の実相を見るためには、自らの自我意識を形成する言霊ウ・オの経験知識と、自らの「救われたい」心の束縛を脱して、完全な心の安心、「我即宇宙」を実現することである。所謂言霊アの修業の卒業である。言霊アの修業からの卒業は即、言霊学入学の門に通じている。人それぞれの持つ経験知識によって形成された視点から、人が生れた時から授かっている宇宙の視点に移行することが出来るのである。以上が第一の理由である。

言霊学の門をくぐると、それまでの信仰で神仏と呼んでいた信仰の対象が、言霊アの純粋の愛・慈悲の世界と、その世界の内容である言霊五十音とその法則である布斗麻邇の原理(言霊イ)と、その原理に基づいた人類文明創造の手段(言霊エ)という呼名に変る。神と言い、仏と言う言葉が実はここ人類歴史三千年間の方便の世の假りの名であった事を知る。信仰に於て神仏として自己を超越した外に仰ぎ見たものが、実は自らが生来与えられていた五つの性能言霊母音イエアオウの宇宙であると知る。それは自らの心の住家である心の宇宙の構造を知ることである。

人間生来の性能の根元であるイエアオウ五母音が自らの心の住家であることを知る事によって、神仏を自らの外に信仰の対象として仰ぎ見ている時には自覚が不可能であった次の事項の認識が明らかに開ける可能性が生れて来る。

イ、キリスト教によって「父の名を崇めさせ給え」と祈りの究極の願望であった創造主の名が実は人間の心の最奥に働く生命創造意志、言霊イの実際の智性のリズム、言霊チイキミシリヒニであると知り、その働きの内容を人間自身の心の中に内観することが出来る。

ロ、言霊父韻と母音との交流によって生れ来る現象の実相単位三十二の子音の確認が可能となる。

ハ、人間の全精神構造を父韻・母音・子音の五十音図として自覚して、その原理の最高の活用法である人類歴史創造の手段である禊祓の大業を自覚し、皇祖皇宗の経綸に参画することが出来る。

ニ、人間の歴史創造の営みの一切は架空なる神仏の為す業ではなく、平々凡々たる我等人間に課せられた崇高な使命であることを知る。

以上が先師小笠原孝次氏が言霊学を志す人々に示した「信仰を卒業して……」の第二の理由である。

(以上)

アイエオウ(言霊学随想)

夜更けて心静かに自らの言霊オウの心を見つめる。そこは欲望と経験知識が交錯し合い、煩悩交々(こもごも)起り、地獄相の中に心がのたうち廻っているのを見る。自らの力でこの地獄から抜け出る事など到底出来るものではないと知る。「煩悩具足の凡夫、地獄は一定住家ぞかし」(歎異鈔)。地獄から抜け出し得ないと思い知って、抜け出そうとする努力の精も根も燃え尽きてしまった。この時、小さい惨めな自分を粛然と照らしている光を仰ぐ事が出来る人は幸福である。「幸福なるかな、心貧しき者。天国はその人のものなり」(マタイ伝)。その光は言霊学によって地獄の底まで照らす言霊アの愛といつくしみの光であると教えられる。更に言霊学は言霊アの心の内容として言霊イの生命(イの道)の原理とその法則を、またその法則に基づく言霊エの、この世の全存在を何一つ損(そこな)う事なく摂取して人類文明創造に役立たせる実践の力をも教えてくれる。人の心の中にアイエオウの天之御柱が厳かに立っている事を知る事が出来る。「煩悩の大海に入るに非ざれば、一切智の宝を得ることなし」(維摩経)。この天之御柱から見る時、自らが長い間もがき苦しんで来た言霊ウオの矛盾相が、姿そのままに生命の調和に包まれて合理的な営みなのであったと知る。この柱は皇祖皇宗の世界人類文明創造の原器である。第三生命文明の世はこの原理に基づいて創造される。それは平凡なる人間が平凡なるが故に許され、委属された人類救済の大業である。「日月の照らすを要せず、羔羊(こひつじ)灯火なればなり」(黙示録)。羔羊の灯火とは五十音言霊布斗麻邇である。……夜明けは近い。

ア字の勉学(言霊学随想)

真言宗に「阿字本不生(あじほんふしょう)」の言葉がある。アという音は生まれ出て来るものではなく、元々宇宙の初めより実在する音である、の意である。人はこのアの宇宙から生まれ、この中で育ち、この中で仕事をし、死んでこの中に帰って行く。だから人はアという宇宙の子、神の子と言われる。アという宇宙こそ人の心の本体だという事が出来る。

自らの心の本体であり、切っても切れぬ関係のア字を人は何故求めるのか。それは人はア字より生れ、ア字の中に育つのだが、その自覚がない。それ故神や仏の教えに従って学び、初めて自覚する事が出来るからである。わが先師は「空」とか「救われ」について質問すると、「私は坊主や牧師ではない。他で聞いてくれ」と素気(そっけ)なかったが、ただ一つ貴重な事を教えてくれた。「空(くう)とは人を包んでいる大空の如きものである。なのにそれが見えないのは、見ようとする人の心に雲がかかっているからだ。空は一生追い求めても分るものではない。空を知りたいなら、自分の心の曇り、即ち自分の自我意識、それを構成している自分の持つ経験知識を心の中で「ノー」と否定してしまえばよい。雲がはれれば、青い空は自ずと現われる」の一言だった。自己の今、此処以外に「空」を求めることを禅は「屋上屋を架す」と警(いまし)めている。「屋根の上にもう一つ屋根を造るな」という訳である。

先師はまた「般若心経は国常立命の祓(はら)いなり」とも教えてくれた。心経は「色即是空、空即是色」の経文である。「空」を知る修行は言霊エである国常立命が人間に課した祓い、即ちア字の行だ、ということであろう。人の心の本体が「空」なる宇宙そのものと知ることによって、アという次元宇宙から言霊エの実践智が泉の如く湧き出て来ることを自覚することが出来る。

猿に玉葱を与えると、一皮一皮剥(むい)いて行き、終に何も残らず泣き喚(わめ)き出すと聞いた事がある。人のア字の行にも同じような事がある。今まで生きる為の宝物と思って来た経験知識を、心の中に「本来の自分ではない。否(ノー)」と否定して行くのである。「自分が身につけた知識が無くなったら、一体自分はどうなるのだろう」という不安におそわれる。猿同様に泣き叫びたくなる。自分自身の内面の問題であるから他人に愚痴るわけにも行かない。一生の中で最も強い孤独感を味わうのはこの時であろうか。

「われ地に平和を投ぜんがために来れりと思うな。平和にあらず、反って剣を投ぜんがために来れり。それ我が来れるは、人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜(しゅうとめ)より分たん為なり」(マタイ伝、一○、三四~三五)

ア字の行によって如何に孤独を感じ、心細かろうとも、心配は要らない。自分の心から次々に経験知識が否定されて行って、玉葱の皮が一枚も残らなくなり、無一物になったら、その時は母親に抱かれていた赤ん坊の心に帰るだけの事である。この赤ん坊は母親にではなく、大きな大きな宇宙そのものの中に、即ち言霊母音に帰るのであるから。即ち宗教でいう神に抱かれている事を更めて知ることになる。泣き叫びたい程の孤独感は、実は自分を抱いて下さっている神、即ち宇宙自体が孤独であったからだ、と知る。宇宙も神もこの世にただ一つなのだ。また無くなってしまったら、と不安に戦(おのの)いた経験知識も決して無くなる事なく、本来の我である「空」なる主体宇宙のコントロールの下に、生活創造の道具として立派に役立つものである事を知ることとなる。

ア字の勉学によって人は何を得ることもなく、何も変わることもない。御利益はない。ただ自我意識という仮面が消えて、真実の自分(実相)を見るだけである。当り前のことを知り、初めから平凡であった自分に帰るだけである。言霊学の門がそこに開かれている。この門を入る人は世界歴史の創造に責任を持つ人となる。

(以上)

今来たこの道帰りゃんせ(言霊学随想)

外国では三千年前、日本に於ては二千年前、国家の、また世界の文明創造の原理であったアイエオウ五十音言霊布斗麻邇は世の中の表面、言い換えれば人間の顕在意識から姿を隠されてしまった。人類の第二物質科学文明の創造を促進する為の政策であった。天照大神は岩戸にお隠れになった。「ここに万(よろず)の神の声(おさなひ)は、さ蝿(ばへ)なす満ち、万の妖(わざわい)悉に発(おこ)り……(古事記)」、弱肉強食の世の到来は必至の状勢となる。

生命の宮柱言霊アイエオウの中の言霊原理イとその運用エが隠没した後は、物質文明創造の担い手の言霊オ(経験知)と言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)の二性能が独走を始めることは必定である。そこで日本の聖(ひじり)の経綸として世界に宗教(言霊ア)が創始された。仏儒耶回の各宗教である。言霊オウの独走の世にあって人間の心の支(ささ)えを得しめる為であり、また後世物質科学完成の暁には、言霊オウの世の中に頭まで漬かっている人々に、復活する言霊布斗麻邇への門に誘う精神補導に役立てる為でもあった。

人類の暗黒の三千年は夢の如く過ぎた。人々はこの生存競争社会の苦闘の中から人類の第二の文明である絢爛(けんらん)たる物質科学文明を創造・完成させた。それに呼応する如く人類の第一精神文明の原理言霊布斗麻邇が百年にわたる先人の努力の結果、ここに不死鳥のようにこの世に甦ったのである。第一の精神文明、第二の物質文明双方の原理が車の両輪となる第三の人類文明が建設される時代となった。仏教で謂う「仏国土荘厳」・儒教の所謂「結縄の世」・キリスト教の説く「天国」である人類の第三生命文明の御代の建設が始まろうとしている。「目を覚まし居る(聖書)」人は立ち上り、理想世界建設の原器である言霊布斗麻邇の学の門を入る時である。

現在、人は幼い時から頭に知識を詰め込むのに血眼(ちまなこ)である。長ずれば金銭の獲得に狂奔する。そうしなければ生存競争社会の中で生き残れないからである。人は常に前に進むこと、学校でも社会でもそれしか教えない。知識を多く集めれば集める程、物事の一切の解決は近くなると思うからである。金が集まれば集まる程、幸福は近づくと思うからである。しかし聖書は教えている「幸福なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」と。また謂う「富める者の神の国に入るよりは、駱駝(らくだ)の針の孔を通るかた反って易し」と。

先師、小笠原孝次氏はア字の行について折にふれて種々の事を話してくれた。今、その思い出をお伝えしてみよう。

師は話が反省・端坐の事となると、時々野口雨情の「あの町、この町」を口遊(くちずさ)むことがあった。

あの町この町 日が暮れる 今来たこの道帰りゃんせ

おうちがだんだん遠くなる 今来たこの道帰りゃんせ

お空に大きな星が出る 今来たこの道帰りゃんせ

聞いているうちに遠い幼い時の心に帰って行くような気持ちになったものである。「汝ら翻(ひるがへ)りて幼児(おさなご)の如くならずば、天国に入るを得じ(マタイ伝)。」役に立つと思って身につけたあの知識(あの町)もこの知識(この町)も、それだけでは問題解決にならないものと知った。自分の幼い時の心に帰ろうよ。知識や富を求めて先を先をと急いで来たが、それだけでは心が空虚であることを知った。生まれた心の故郷に帰らなければ。あの知識、この欲望と心中の依草附木(いそうふぼく)の精霊を否定して来たら、心の空に大きな星のような自我意識自体が見え出した。この意識が出る前の真更(まっさら)な心の家(母音)に帰ろうよ。と心の底に響くように聞こえて来たものである。

次に先師が語ったア字の行の要諦をまとめてみよう。

一、ア字の行は昔より伝わる経文、聖書、聖僧の述懐の書に詳しく説かれている。これを参考に一日に一度は「坐る」ことである。この場合、現代の註釈書に頼らず、原文を読んで欲しい。難しくとも繰り返し読んでいるうちに自ら分って来るものである。

二、言霊学でもア字の修行でも、行き詰まったら勇気を奮い起こして先人との一問一答の中に活路を見出す事である。ア字は諸法空相の、言霊学は諸法実相の学であり、双方は共に表裏を成すものなのです。

(以上)

言葉と生命(言霊学随想)

仏教の禅宗に無字の行というのがある。「無門関」という本に「参禅は須(すべか)らく祖師の関を透るべし、妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。……如何(いかん)が是祖師の関。只だ者(こ)の一箇の無の字、及ち宗門の一関なり」とある。無字の行とは、どんな行なのであろうか。

人はこの世に生まれて来た時には何らの知識も持たない。自我意識もない。生長するにつれて「ああすれば、こうなる。こうすれば、ああなる」という経験知識を身につける。更に大きくなると、その身につけた経験知識の総合体を自我だと思い込む。と同時に何事の判断もその自我の経験知識を基準として生活するようになる。ところが、経験知識は人によって千差万別である。だから物事の判断も人によって違って来る。論争が起り、論争はお互いの自我意識を強め、闘争が激しくなる。小は夫婦間の争いから、大にしては国家間の戦争をも惹起する。人間の悩みの原因は大方其処にあろう。

自我意識が本来の人自体であるのではない。人は宇宙から生まれた宇宙の子である。神の子、仏の子である。自我意識とは生まれてから身につけた経験知識の総合体を自分自身だと錯覚した虚妄の自分であるに過ぎない。禅宗の無字の行とは、心中に蟠(わだかま)るこの自我意識を構成する自分が身につけた経験知識を「無(ノー)」と否定して行く事である。心が覚え、信用して考えごとの鏡とした経験知識を一つ一つ否定し、終には生まれたままの赤ん坊の心に帰って行く退歩の学問である。

さて自分の心中にある経験知に対し「無」の否定を始めようとする時、「自分がよいと思って集めた知識なのだから、否定する事もそんな難しい事ではあるまい」と大方の人は思う。しかし実行して見ると中々そうは行かない。「人前でお世辞を振り撒く程卑劣な事はないと思う。だからそういう人を見ると、途端に不愉快になった。しかし今、考えて見ると一概には悪い事と断定出来ないのかも知れぬと反省するようになった。けれど、お世辞タラタラの人を目の前にすると依然として不愉快になってしまう」という様な事は誰もが思い当たる事である。反省し、心の中で自分の一つの経験知に対して「無」と命令しても、そう容易に「はい、左様ですか」と承知してはくれない。経験知識を集めて身につける事より、それを反省によって否定することの方がむしろ大変な行なのかも知れない、とそこで気が付くのである。

お世辞がどうの、こうのという社交道徳ですらかくの如しである。自分が一生を通して心中に築き上げた信仰・信念・信条等の否定に至っては、その困難は思い知られよう。「自分の信仰・信条も無字の対象としなければならないのか」と驚く方もいるかも知れない。しかし無字の修行から言えば、どんな立派な信念・信条でも、それが立派だと思えば思う程、その否定は大切なのである。如何に立派な事でも、それが胸中にある限り、無字で言う「無一物」ではあり得ないし、「汝等、飜(ひるがえ)りて幼児の如くならざれば、天国に入るを得ず」(マタイ伝)の幼児にはなり得ないからである。

自分の心の中にある経験知識を「もうお前は使わないよ」と宣言しただけでは済まない。努力・工夫を要する行である事を御理解頂けた事と思う。ある事を信じるのも容易な事でないと同様に、それを心中に否定することも簡単には成し遂げることは出来ないと知る事が出来る。他人の心の中なら兎も角、自分の心の中の存在を否定するのに四苦八苦するのは何故なのか。この事実に思いを凝らし、検討を続ける行手に「言葉と生命」という命題が顔をのぞかせて来る事となる、という事を申し上げて、先ずは次の問題に入る事にしよう。

今までは無字の行を始めた時の人の思いについての話であったが、次に人がある経験知識を否定し、自分の意志が促さぬ限り、その知識が自らの心の主屋を占領することがなくなった時の事を考えてみよう。「親に孝行する事は人の道である」の信条を持った人がいた。親に不孝をする人を見ると「人非人(ひとでなし)」と罵った。反省によって「親への孝」の思いは自分に言いきかす言葉であって、人を責める為のものではない、と知った。この変化の心情から、自分が「孝行」と思って行った行為が必ずしも親にとって良き事ばかりではなかった事にも気が付いた。他人の親に対する態度の見方も幅広く、柔軟なものに変わって来たのである。その人自身が「親に孝」の観念の束縛から解放された結果という事が出来る。

仏の教えに「煩悩(ぼんのう)即菩提(ぼだい)」の言葉がある。虚妄の自我から主張され、他との争いの原因となる各自の経験知識(煩悩)も、無字の反省によって、退歩の学によって悟った本来の自己、宇宙の子、神仏の子としての眼で見るならば、その経験知識は、形も内容も一切そのままで菩提(さとり)の言葉に生まれ変わる、というのである。林の中の枝が垂れ下がった暗い、気味悪い夜の道も、朝日が昇れば新緑もまばゆい、気持のよい散歩道だと知る事が出来る。

これまで日常生活の苦悩、所謂煩悩からの脱却を言霊アの宗教信仰の立場から検討を試みて来た。それはまた言霊学の門に入る必要条件としての行でもあった。これからは言霊学の立場即ち言霊エイの次元からこのア字・無字の修行を見直してみよう。

古神道言霊学は死を説く事がない。死はないからである。では人が肉体を失った後の生とは何か。言葉である。肉体を持っていた時にその人が発した言葉として永遠の生を生きる事となる。何処に生きるか。現在に生きる人々の心の中に、正確にはその心の今・此処に生きるのである。心中に蟠(わだかま)る経験知識を無字によって否定しようとしても、容易に主屋から引き下がることがないのは、それが単なる知識であるのではなく、心中に生きる先輩諸氏の生きた言葉であるからだ。忠孝の道徳の知識は二千年余以前の中国の孔子の儒教の心である。孔子がその人の中に住んで、言葉として生きているのである。社会主義一辺倒の人の心中にはマルクス、エンゲルスが住んでいる。その他、地球上に肉体を持っていた人々はすべてが同様に言葉として現在の中今に永遠の生を生き続けているのである。人は決して死ぬ事はない。この事実を煩悩否定の行の中で言霊学が教えてくれるのである。

無字の宗教修行によって自我意識を超える時、言霊アの愛の光の中に自我意識を形成していた言霊ウオが包まれていた事を知る。人間天与の判断力の柱が言霊ウオアと立った事である。人は宇宙の子、神の子であると知る。しかしこの宇宙の子、神の子と思う人類意識から社会活動を始める時、活動の根拠をその時まで否定して来た各自の経験知識に再び置かねばならない。信ずべき宇宙、神、仏の内容は曖昧であり、人により、宗派により悉く相違するからである。ア次元の愛だけでは個人は導く事は出来ても、人類の文明創造の先導者となることは不可能なのだ。これを言霊学から見ると如何になるであろうか。信仰の行でウオアの心の柱が立つ時、言霊学ではそのア次元の光の内容である言霊イの五十音言霊と、言霊エのその言霊布斗麻邇の原理の活用法を同時に知ることとなる。言霊ウオアエイと並ぶ人間の心の進化の全段階の自覚が完成する。言霊イとエは人類文明創造の原理である。それ故に人類一万年の歴史の真相を知る事が出来る。この時、人々は宇宙の子、神の子であると同時に、日本の皇祖皇宗の人類文明創造の役割を分担している命(みこと)であり、同志である事を知る事が出来る。宗教に於ける個人の「安心」と同時に、言霊学によって人類愛に根差した第三文明時代創造の使命(命[みこと])をも自覚することが出来る。

更に言霊学に根差したア字(無字)の行は、宗教的な行が単に虚なる自我意識よりする煩悩の克服であるのに対し、その自我意識の内容である諸種の経験知識がそのままの姿で、自らの言霊イの道、即ち生命の躍動する内容であり、糧であると知る事が出来る。自らの生命とは人類の過去一切の行為の表徴であり、記録である言葉の総合体なのであり、自分自らが全人類の生命と一つなのだという自覚に導いてくれる。これは取りも直さず天津日嗣スメラミコト(天皇)の出現である。

また更に、古事記神代巻の禊祓の原理に基づき、人が言霊アイエオウの天之御柱の自覚の下に、全世界各地で生産される諸文化の一切を自らの精神的身体(御身[おおみま])とし、その自らの禊祓(文明創造)を行う時、即ち生命(いのち)がイの道(言霊イに基づく言霊エの実践)の実行に入る時、その人は自らの生命の内容と実相を自らの中に直観する事が出来る。生命が自らを知るのである。そしてその生命とは言葉であり、言霊なのであることを知る事となる。ヨハネ伝の「太初(はじめ)に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」は此処に於て実現する。言葉こそ生命なのである。

(終わり) 土御門神道(後日譚)

この物語は、「私は『お前を言葉とは何か、を学ばせる為にこの世に送る』というお告げを頂いて生まれて来た者です」という言葉を初対面の挨拶として、お供一人を連れ、一人の御婦人が私の所に現われた時から始まった。今から数年以前のことである。彼女はO県在住、T教々祖、その名H・Tと名乗った。永年高野山で護摩(ごま)の修法を、更に京都の鞍馬山で病魔退散の霊法を学んだ、と自己紹介なさった。私は「言葉の何たるかを学ばせる為にこの世に送り出す」というその人の「お告(つ)げ(空海さん)」の言葉に注目したのだった。

彼女は熱心に毎月の言霊学の講習会に、また私の所に来られ、言霊学を勉強された。そして間もなく私の所へ来られ、「今度、ヒョンな事から福井県にある土御門神道を継ぐ事になりました。宜しく御指導下さい」と語られたのであった。土御門神道といえば、千年程前、当時の村上天皇のお側の玉藻の前に憑(つ)いた金毛九尾の狐霊を那須の殺生石に封じ込めた陰陽師、安倍清明に賜った神道の名前である。それ以来、土御門神道は昭和天皇に至る千年の間、古代中国で成立した陰陽五行説を基とした易の教えに則り、日本朝廷のお祓(はら)いの役に任じた家柄である。私はその話を聞いて即座に思った。「若し彼女が日本国肇国の原理である言霊布斗麻邇に熟達するならば、日本皇室の祓いを受持つ易経、即ち天津金木の霊法を脱却し、天津太祝詞の本来の皇室への覚醒に貢献出来るのではないか」と。そして彼女にその真旨とその使命の重大さを告げた。(この間の経緯については会報百二十九号「土御門神道」に紹介されている。御参照を。)

だがその後から彼女の内面に変化が起った。やがて講習会での席上でも一見して読み取れる程の態度の変化であった。それは直ぐに千年間続いた須佐之男命・陰陽道の牛頭(ごづ)天皇・安倍清明・天津金木・易経・金毛九尾霊という霊統の反逆である、と知った。その兆候を目の前にして彼女の心情に同情し、また気の毒にも思い、手紙を書いた。

「古事記の神話で御承知でしょうが、言霊学の最終結論として天照大神、月読命、須佐男命の三貴子が誕生します。その時、伊耶那岐の命は天照大神にのみ御顕珠(言霊原理)を与え、他の二人の命には与えませんでした。貴方が今まで修行なさった高野山の修行は月読命であり、鞍馬山の修法は須佐男命に属します。この二つの修行の延長上には言霊の学問は存在しません。布斗麻邇の学をお望みなら、少なくとも講習会に御出席の時だけは貴方様の修法に対する自負の心を脇に置いておいで下さい。または会にではなく、私の所へお話においで下さい。」二日後の夜、彼女から電話を頂いた。「先生は私の一生の唯一人の心の師です。有り難う御座います」そして姿を見せなくなった。彼女は生まれる前からの弘法大師のお告げより、生まれて後から築いた自らの教団の地位の方を選んだのである。そしてこの貴重な体験によって日本皇室の歴史的覚醒は、その任を負う人が自らの心の底に、皇祖皇宗の御経綸によって現出した人類の第二文明時代三千年間の人類全体の業を自らの業として見出し、見届ける以外に達成されるものではない、という教訓を遺してくれたのである。

(以上)

宇宙剖判(言霊学随想)

当会発行の書籍「古事記と言霊」の十頁、[注二]に次の様な文章がある。『宇宙が活動を起し、中心の一点が動き出し(言霊ウ)、次々と活動が進展して、一つの出来事(現象)となって現われる。その活動を「宇宙剖判」と呼びます。剖は分れる。判は分る。剖れて行く活動が人間に理解されて言葉として分る、と言うことである。分ける、から分る、日本語の言葉はこのように巧みに出来ている。』この内容の意味が分らない、という質問を時々頂く事がある。今この事について考えることとしよう。

右の文章は人間の心の先天構造の説明の所で出て来る。現象が始まる以前の先天構造の話であり、勿論人間の意識が及ばない領域の事であるから、具体的な説明が難しい。工夫が必要である。そこで考えてみた。

静かな部屋に一人で坐っている事を想像してみよう。目の前には机があり、机の上には本があり、万年筆やボールペン、便箋やノートが置いてある。その向うは壁があり、壁の外には街並みや自然の林や丘があり、上には大空が広がっている。その向うは果てしない外界の宇宙の広がりへと続いている。これが客観的物質的な宇宙だという事が出来る。

次に翻(ひるがえ)って外の客観宇宙を見ている主体である自分の心の内を観察してみよう。そこには「食べたい、見たい、手に入れたい、偉く思われたい、仕合わせになりたい……」という欲望がある。また事物の合理性(眞)を求める経験知の世界がある。更に宗教的・芸術的な美的感情の世界がある。また更には社会生活の善を追求する実践智の世界もある。人間の心は時にはこれ等の世界の事を順序正しく、時にはアットランダムに思ったり、考えたりする。心中に去来するこれ等の思考は、外界宇宙の星の数と同様に無数の種類がある。この様な思考が起っている心の領域が主観的な精神宇宙という事が出来る。

以上述べたように、人が何かを見たり聞いたりする時には、外なる客観世界と内なる主観世界とがあるという事は誰でも知っている事である。此処までは問題はない。問題となるのはこれからであろう。外に見る世界、即ち物質的宇宙は唯一つしかない。誰がどの様に観察しようと、外界宇宙は唯一つである。これも問題はない。然しこの外界宇宙を見たり聞いたりしている内界の精神宇宙も唯一つなのだ、と言ったら、「あれっ、そうなのか」と奇声を上げる人がいるかも知れない。けれど心の宇宙も一つあるだけである。何故そう言えるか。正常な頭脳の持主なら、誰が外界世界を観察しても、常に同じ結果が出るという事によってそれは証明されるからである。外界宇宙は限りなく広い。同様に内界の心の宇宙も限りなく広い。両方とも無限の広さを持つ。

さて此処で外界を見ている目を閉じ、音を聞いている耳を両手で塞いでみよう。何も見えず、何も聞こえなくなった。外界宇宙の現象は無くなった事になる。次にその外界を見、聞いていた内界の心の働きを一切止めてしまったと仮定しよう。すると主観の内面宇宙の中の現象も無くなってしまった事になる。内外界宇宙両方の中の現象が無くなると、両宇宙の境目と共に内外宇宙も消えてしまう事に気付くであろう。そうなると自我という意識も薄れて無くなり、唯一つの何も起っていない、何だか分らない宇宙が唯一つ広がっている事となる。精神の働きも、物質の現象も何一つ起っていない宇宙、これ正(まさ)しく古事記神話の冒頭に出て来る「天地」の事である事が理解されるであろう。それは空々漠々として何も在せず、ただ何によっても把握することが出来ないエネルギーに満ち、そこに何かの刺激が加わると、次々にいろいろな出来事、即ち森羅万象が生み出される大元(おおもと)の宇宙なのである。この宇宙を古事記は「天地(あめつち)」と呼んでいる。その中に何一つの存在も動きもない広大無限の宇宙の事である。この宇宙が人間の生命の本体であり、また住家でもある。

以上内界の主観世界と外界の物質客観世界の存在から、そこに現象が起る以前の宇宙の消息を想像を交えて考えてみた。今度は逆にその根元の宇宙から種々の現象が起こって来るまでの経過を考えてみよう。唯一つしかない根元の宇宙に何かが起ろうとする。(起ろうとする原動力については今は問わない)広い広い何物もない宇宙の一点に何かが起ろうとする。それが何であるか、は分らないが、生まれようとし、動き出し、蠢き出す。無限の宇宙がそれ自体の内容の芽を萌え出そうとする瞬間である。この一点が時としては今であり、場所としては此処であるという事が出来る。哲学ではこれを「永遠の今」といい、言霊学では「中今」という。そしてこの萌え出ようとする宇宙を言霊ウという。古事記はこの瞬間を「天地の初発の時」と呼ぶ。宇宙の始まりの時である。古事記の「天地の初発の時」とは、大方の人々が考えているこの外界宇宙の天文学的な始まりである幾百億年前のことを言っているのではない。常なる今・此処、即ち中今のことである。

次にこの何か分らない生(うま)れ出ようとし、動(うご)き始め、蠢(うごめ)いているものが「何」であるか、という意識が働く時、瞬間的に言霊ウの宇宙は客観宇宙言霊ワとそれを見る主観宇宙言霊アに剖れる。後天の現象界に於て、人間が瞬間的に物を見て、それが何だか分らないのが、「何かな」と意識を動かして、主観の意識を呼び醒まし、客観世界の物を実際に何かと確かめた時、即ち見る主観と見られる客観がはっきり分った時、そういう後天の意識の分別・認識を可能にする原動力となる先天内の活動とは、言霊ウの宇宙が、言霊アと言霊ワの宇宙に剖れるという働きなのである。この言霊ウの宇宙が言霊アと言霊ワの両宇宙に剖れる事、これを宇宙剖判と呼ぶ。剖は剖(わ)ける、剖(わか)れる事であり、判とは分(わか)る、意識で捕捉するという事である。心の先天構造内で宇宙言霊ウが言霊アとワの両宇宙に剖れるから、後天構造の人間の主観意識が客観のものをはっきり識別し、認識する事が出来る、という訳である。さらに言霊ア・ワの宇宙は言霊オエ・言霊ヲヱの夫々の宇宙に剖判し、後天構造に於ける人間の認識を実践へと進展させて行く。

以上、先天構造の中で宇宙剖判は心の今・此処に於て瞬時の休みなく行われている。その事によって人間は生活を創造して行く事が出来る。最後に、ではその宇宙剖判を可能とする根本の原動力は何か。母音であり、また半母音でもあるもの、それでいて親音とも呼ばれる言霊イ・ヰと、その働きであり人間の根源智性である言霊チイキミシリヒニの八父韻である。これが人間の生の一切の根本原動力である。(この説明は後の機会に譲ることとする)

(以上)

大 道(言霊学随想)

蝶は自然界に於て一生の間に形態的三段階の進化(幼虫→蛹→成虫)をする。人間はその一生の間に、形態的ではなく精神的な五段階の進化が可能である。「可能である」と言ったのは、人がその進化を望まなければ出来ない進化だからである。人は元来基本的に五つの性能を授かってこの世に生れて来る。進化の順に並べると、言霊ウ(五官感覚に基づく欲望)、言霊オ(経験知)、言霊ア(感情)、言霊エ(実践英智)、言霊イ(生命意志)の五次元性能である。これ等五つの性能で全部であり、それ以外の性能はない。

人はこの五つの基本性能を持って生れて来るが、それを知らない。言霊学を学ぶ事によって初めて知る事が出来る。故に人はそれを知り、それを勉学・修行により進化を望むことによって初めて自覚することが出来る。意志しなければ進化は起らない。言霊ウの初段階の欲望ウ次元のみで一生を終る人が如何に多いか、がそれを物語っている。

言霊ウオアエイ五段階進化の方法・要諦は、言霊学を発見し自覚し、その原理によって世界人類の文明創造の歴史経綸者であり、日本人の大先祖である皇祖皇宗が極めて親切、丁寧に明示・教導して下さっている。以下それを述べよう。

言霊ウオの欲望と経験知の次元から言霊アの純粋感情の次元へ進む道は、三千年前、経綸により言霊原理隠没の時を迎え、人類の心の支えとなり、また言霊学復活の時にはその門に入る心の修練の方法として、世界に儒仏耶の信仰宗教を創設せしめ、行くべき道を明示された。そこに示された自力・他力の信仰は自我本来の姿「空」「救われ」を求める心の依り処としては極めて適切である(但し、今は末法の世、真理の説法者は寥々(りょうりょう)であり、聖典・聖書をのみ心の依り処として頂く事)

言霊アの純粋感情の次元に見当がついた時は、言霊布斗麻邇の学(まな)びの門を明日の人類世界建設の希望と喜びを持ってお入り下さい。言霊アエイの人間進化の道は言霊学とその人自身の生命の囁(ささや)きが人間精神の全構造とその運用・活用法のすべてを隅々まで案内してくれる。そこは教えるのも自分、教わるのも自分である。「仏と仏とのみいまして、諸法の実相を究尽す」と仏典に記されている。そこに於て人は自分自身の「いのち」の実相と、世界人類の歴史の実相を共に知る事が出来る。

以上が、平々凡々たる一市井人が言霊学の殿堂に入り、皇祖皇宗の道を知る唯一無二の道である。これを大道と呼ぶ。「大道廃れて仁義有り」の大道である。大道を行く者は平安であり、喜びであり、光である。

誤って自我恣意の道に入り、暗黒の因果を繰り返す事勿れ。

(終り)

いのち(言霊学随想)

赤ちゃんが生まれると、新しいいのちの誕生という。人が死ぬと、一人のいのちが失われたという。いのちは確かにこの世に存在する。存在しなければ私達は生きて行けない。これも確かな事である。ではいのちとは何か。正確には誰も知らない。いのちを見た人がいるか。誰もいない。たまに霊魂を見た、火の玉を見たという人がいるが、これはいのちそのものではない。人の細胞のDNAがそれだというが、これも生命そのものではなかろう。何物にも代え難い貴いいのちであるが、それが何であるか、誰もはっきり言う人はいない。考えると誠に変な話である。

新約聖書ヨハネ伝の冒頭に「太初(はじめ)に言(ことば)あり。言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬(よろず)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり。この生命は人の光なりき。」とある。

太初にある言(ことば)、神と偕なる言、神である言、萬の物がこれによりて成る言、それは正しく言霊である。生命は言霊によっていのちと呼ばれている。それは言霊イの次元に存在するイの道(ち)である。人は生まれながらにいのち(イの道[ち])を与えられている。けれどその自覚がない。言霊学によって自らの自覚の段階をウオアエイと進化させ、人間の創造意志の次元に立ち、自らの心を心とし、世界人類の心を自らの体として、世界文明創造の禊祓を実行する時、人はその中今に於て脈々と息づく自らのいのちが世界人類のいのちの文明に新しいいのちを与え、育む様を現実に見る事が出来る。いのちがいのちを知るのである。

(終わり)

数霊(かずたま)(言霊学随想)

文明の始まりは言葉と数と文字である。言葉と数と文字が備わっていない社会は文明社会とは言えない。言葉を構成する究極の因子が人間によって自覚されたものを言霊という。それは言葉の最小要素であると同時に心の最小要素でもあるもの、即ち言霊(ことたま)である。次にこの言霊の動きを数を以て表わしたもの、これを数霊(かずたま)と呼ぶ。言葉は文明の母であり、数は文明の父である。昔の日本語は母をいろはと言い、父をかぞ(数)と呼んだ。

今まで言霊については詳しく説いて来たが、数霊については「言霊の動きを数で示したもの」と言う他は説明して来なかった。そこで今回は数霊の事に少々触れることとしよう。

現代の数学では、一に一を足すと二となる、という。初めの一が何であり、次の一が何か、は説かない。ただ一に一を足せば二となる。それは初めからの約束事なのである。この約束事の数と数霊を混同してはならない。それは言霊ウと単なるウとを混同してはならないのと同じである。かく申上げても御理解を得ないかも知れないので、心の先天構造(天津磐境[あまついわさか])に於ける宇宙剖判を例にとってお話することとしよう。

先ず心の先天構造を図示しよう。人の心の本体である空々漠々たる宇宙の一点に何かが起ろうとする。意識の芽(め)が芽生える。それが何であるかは分らないが、しかし何かが起ろうとする。この時が今であり、この所が此処(今・此処即中今)である。この宇宙の一点に於ける人間意識の芽生え、これを言霊ウという。古事記神名は天之御中主の神である。

次に宇宙の一点に芽生えたものが何か、の心が起る。と同時に一瞬にして言霊ウの宇宙は言霊アとワ(高御産巣日の神と神産巣日の神、主体と客体、私と貴方)の二つの宇宙に分れる。この一つの宇宙から二つの宇宙に分れる事を宇宙剖判と呼ぶ。分かれる前の言霊ウは未剖の一枚(禅宗)であり、分かれた後の言霊アとワは剖判した二枚である。次の意識の段階で言霊アの宇宙から言霊オとエの宇宙が、言霊ワの宇宙から言霊ヲとヱの宇宙が剖判して来る(図参照)。

以上、人間の心の先天構造を成す宇宙剖判の内容を説明した。お分かり頂けた事と思う。この宇宙剖判の最初のウ―ア・ワの所を中国の古書「老子」には「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」と数霊を以て説明している。実に神道に於ては宇宙剖判の時の最初の三神、天之御中主の神・高御産巣日の神・神産巣日の神の事を造化三神と呼び、宇宙内の万物を創造する原動力としている。

人は何かを見た一瞬はそれが何であるか、が分らない。分るためには分(わ)けなければならない。即ち見る主体と見られる客体に分けなければならない。この原則は人の意識の持つ特性であり、人の宿命でもある。この時、最初の意識の芽である言霊ウから言霊アとワとに剖判する事を見落とし、言霊アとワ、すなわち見る主体と見られる客体という分離した時点から思考を展開すると言霊オ(天之常立の神)が成立する。所謂考える、即ち「神帰る」の領域に入る。その領域での思考は神である真実への果てしない永遠の復路の始まりである。ここ三千年の人類の歴史はこの思考の真理模索の記録であった。人は外に真理を求め、その真理を求める人自身を全くネグレクトしてしまったのである。現代人は外に向って追究した物質科学文明の華やかな成果の重みに自分自身が押し潰される瀬戸際に立たされている。

自分が道に迷ったと知ったら、迷った原点、即ち出発点に戻れば良い。思考の出発点ウ―ア・ワの言霊ウ、未だ言霊アとワに剖判する前の意識の芽の一瞬の存在を見落とした事に気付く人は幸いである。最近幾人かの人から同じ質問を受けた。謂く(いわ)「宇宙剖判についての老子の言葉『一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず』の三とは、ウ―ア・ワの三でなく、アとワが更に剖判して生まれる言霊オエ・ヲヱの事を指しているのではないですか」、と言うのである(先図参照)。確かに古事記の「言霊の宇宙の区分・位置」の章では、言霊オエ・ヲヱの区分を「隠岐の三子島」と名付けている(「古事記と言霊」九十三頁参照)。しかし老子に於ける「三」は古事記の先天構造の宇宙剖判の第三段目、オエヲヱを指しているのではない。何故なら「三子島」の三は第三段という単なる数字であるが、「三、万物を生ず」の三は数霊の三だからである。

空漠たる広い宇宙の一点に意識の芽である言霊ウが生まれ、それに人間の思考が加わる瞬間、言霊ウの宇宙は言霊アとワに分れ、その三つの宇宙の自覚が、宇宙生命の一切の創造を生み、その創造されたものに名を附すという「万物創造」の原動力であり、土台なのだ、という言霊学上の大命題なのである。この最初の宇宙剖判の内容を自覚しない限り、人間の最高の精神学である言霊の原理の運用・活用は出来得ない事となる。ウ―ア・ワの自覚を通して人は初めて言霊学の殿堂に入る事が出来る。この「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主の神。次に高御産巣日の神。次に神産巣日の神。……」という古事記神話の冒頭の文章は文字通り言霊学苑入校の門であると同時に人類の第三文明時代建設の起工式ともなるものなのである。このウ∧の自覚を経る事なき思考はすべて物事を対象とし、客体として捉え、創造する主体を見失った学問領域に入らざるを得ない事となる。これが最初の宇宙剖判の第一の命題である。その事を世の人に知らさんとして大本教教祖出口なお女史の神懸りの第一声が放たれたのだ。「大千世界、一度に開く梅の花。梅で開いて松で収める神の国が来るぞ。今の代は獣(けもの)の世であるぞ」と。

数霊(かずたま)と算数との相違を御理解頂けたであろうか。人間の心の究極の要素である言霊の動きを数で示したものが数霊であり、言霊の自覚のないところに数霊の真実はなく、言霊の運用のある所、常に数霊有り、という訳である。

西洋と東洋と日本の三者の言霊学に基づく典型的思考様式の相違とその関係を数霊で表わし、62+82=102と書く事がある。この場合、単に数字だけを見るなら算数の式で終る。だが、その数字が西洋・東洋・日本の典型的な思考構造を表わす数霊なのだ、と気付く時、この数霊の数式は今後の世界人類の歴史を占う重要な意義を持っている事に気付くのである。

では数と数霊との相違を知る心とは何か。それは自分自身が広い広い宇宙の中の一塵の如き存在であること、そしてその一塵が今・此処に生きている事の如何に有り難い事であるか、を知る心であろう。これを知る人は宇宙剖判の内容を自覚出来るから。

(終わり)

会報百八十号を記念して(言霊学随想)

当会発行の会報が今月にて百八十号を数える事になりました。昭和六十三年(一九八八)七月に第一号を出しまして以来、ここに満十五年の歳月を経た事になります。この間、一号の休刊もなく号を重ねて来られました事は、ひとえに読者の皆様の御協力と御鞭撻の賜であり、厚く御礼申上げる次第で御座います。

この十五年間を回顧いたしますと、創刊号より第六号までは昭和の年号時代でありました。昭和六十四年一月、昭和天皇が崩御され、昭和六十五年は平成一年と改元、会報第七号から発行年が平成と改められました。そして今年までの平成の十五年間は世界中に大きな変革が起りました。ロシア並びに東欧諸国の共産体制の崩壊、湾岸戦争、米ソ冷戦の終結、各地に民族戦争が勃発、富と権力のアメリカへの一極集中化、そして今回のイラク戦争と続いています。日本国内にはバブル経済の狂乱、バブル崩壊、不況の長期化と国家経済に躁うつ病が蔓延し、その泥沼から何時出られるか、予測もつかぬ状態が続いています。

この様に今までの歴史に類を見ない激動が続く世界情勢の底にある人類の精神基盤に何が起っているのか、を考えてみましょう。言霊学の結論として示される三貴子、天照大神(言霊エ)・月読命(言霊オ)・須佐之男命(言霊ウ)の中の天照大神の所管である言霊原理は外国に於て三千年前、日本に於ては二千年前に社会の表面から隠没しました。その為、世界は須佐之男命の五官感覚に基づく欲望本能と、月読命の芸術・宗教心の対立の歴史構図が形成され、言霊ウの権力・金力・武力による生存競争勢力と、言霊オ(ア)の宗教・人権尊重による抑止力との抗争の歴史が続きました。そして年代を重ねるに従い、言霊ウの所産である物質科学の興隆傾向が進捗して行くに反比例する如く、権力一辺倒の社会の抑止力としての言霊オの影響力は力を失いつつあります。「強いもの勝ち」「勝てば官軍」的傾向が世界中に罷り通る世の中となって来ました。以上が過去二・三千年の人類歴史の実状であります。今回のイラク戦争が起る前後に世界中に捲き起こった戦争反対の人権的運動のシュプレヒコールもアメリカ・イギリス軍の精密破壊兵器の威力の前に打ち消されてしまいました。

そうは申しましても、この様な社会相となる事は、言霊学より見た人類歴史に示されておりますように、私達日本人の祖先である皇祖皇宗の言霊布斗麻邇の原理に基づく人類文明創造の経綸から言えば、いとも当然の帰結と言うべきものであります。人類社会の現況を、単に人類の幸・不幸という事だけで見るならば、それは悲しむべき、最も憂慮すべき事態である事は間違いありません。けれど一歩退いて、腰を据えて人類の二・三千年前に立ち帰り、この年月の間に創造された人類の第二の文明、物質科学文明の成果、今私達の目の前に展開している人間生活にいとも便利な物質科学の繁栄が存在する事実を謳歌することが出来ます。要はこの素晴らしい科学文化の成果を人間の福祉にのみ使うか、人間の殺戮に用いるか、の人間の心が問題なのです。

当会発行の「コトタマ学入門」の最後の「日本・東洋・西洋」の冒頭の文章を引用しましょう。

「夜明け前の浜辺に立って海を眺めている光景を想像して下さい。空には満天の星が瞬いています。月はすでに西に傾いて、今にも沈もうとしています。そして東の空には太陽が未だ昇って来ません。この光景は、現在の日本と世界の精神の状況を思い出させます。星は西洋の精神(須佐之男命)を、月は東洋の精神(月読命)を、そして太陽は日本の精神(言霊原理)を表徴します。」

今から二年前、古事記神話の結論である三貴子(天照大御神・月読命・建速須佐男命)の誕生に導く禊祓の行の中の、底・中・上筒の男の命で表徴される言霊の働きである「光」の言葉、即ち霊葉(ひば)の原理に基づいて「大祓祝詞(のりと)の話」を前後八ヶ月にわたり発表いたしました。これは現に生きている人間の生命の光に基づいて解明された大祓祝詞の太古以来の復活でありました。と同時に、これは言霊の学問の単なる理論の探究の時代から、学問の実践の時代を迎えた事を意味しています。その意味に於て会報「言霊研究」は平成十三年七月号、第百五十七号から「コトタマ学」と改題されたのであります。研究より実践へ言霊の会の旗印が脱皮して進化を遂げた事になります。

四十年前、筆者がはじめて言霊学の師、小笠原孝次先生の御宅を尋ね、教えを請うた時の先生の言葉が思い出されます。

「普通の学問では、学ぶ人がその学問の理論構造を覚えれば卒業という事になります。けれど言霊学は違います。理論構造を覚え終った処から言霊学は入門となります。私(先師)は貴方(筆者)に理論はお話しましょう。それは私の責任です。それ以後、言霊学の門に入るか、否かは貴方の責任です。それで宜しければ言霊学をお伝えしましょう。」

今や「言霊の会」自体が先師の言われた「責任の門」に入る時が来たようであります。言霊学への入門とは、言霊原理に参照して自らの魂を進化させ、日本語の言葉の光によって、世界人類を第二物質科学の暗黒を転換して、第三生命時代の光の中に甦らす事であります。活動の舞台はもう間近です。

読者の皆様の一層の御指導と御鞭撻をお願い申上げます。

(終わり)