10 高天原からの逸脱論

一) 高天原からの逸脱論

二) 天津罪

三) 国津罪

1 心の領域、高天原からの逸脱論。間違え方。

はじめに。

人は正しいとか間違いとかいう前に

逸脱ができる。

この逸脱には正否は無く、

誰もが間違えることができます。

しかし、

その主張もより高次な次元によって解消止揚されるものです。

岐(ぎ)美(み)の命の最初の仕事は過ちから蛭子を産むことでした。

間違えることが人類文明の重要な動力因です。

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逸脱や間違いは人の本性といっていい程ごく普通のこころのありかたです。

為政者たち、官僚にも例外は無く、彼らを集めて逸脱の出所と訂正止揚の方法を示し、より理想的な運用活用方法を述べたのが、 大祓祝詞です。

古事記の言霊運用原理がベースとなっています。

くさぐさの罪事は、こころの運用活用での原理上の逸脱を天津罪といい、実際の適用運用上の逸脱を国津罪といっています。以下の通りです。

大祓祝詞より。 (大祓祝詞の話 四の1、参照)

天津罪とは、 ( 古事記との対応

一、畦あ放はなち、 ( 宇比地邇(うひぢに)の神

二、溝みぞ埋うめ、 ( 妹須比智邇(いもすひぢに)の神

三、樋ひ放ち、 ( 角杙(つのぐひ)の神

四、頻しき蒔まき、 ( 妹活杙(いくぐひ)の神

五、串くし刺さし、 ( 意富斗能地(おほとのぢ)の神

六、生いき剥はぎ、 ( 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神

七、逆剥ぎ、 ( 於母陀流(おもだる)の神

八、屎くそ戸ど、 ( 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神

幾許ここだくの罪を天津罪と宣りわけて、

国津罪とは、 ( 古事記との対応

一、生膚いきはだ断たち、 ( 伊予の二名(ふたな)の島

二、死膚しにはだ断たち、 ( 隠岐(おき)の三子(みつご)の島

三、白人しらひと胡こ久美くみ、 ( 筑紫(つくし)の島

四、己が母犯せる罪、 ( 伊岐(いき)の島

五、己が子犯せる罪、 ( 津(つ)島

六、母と子と犯せる罪、 ( 佐渡(さど)の島

七、子と母と犯せる罪、 ( 大倭豊秋津(おほやまととよあきつ)島

八、畜けもの犯せる罪、 ( 吉備(きび)の児島

九、昆虫はふむしの災、 ( 小豆島(あづきしま)

十、高津神の災、 ( 大島(おほしま)

十一、高津鳥の災、 ( 女島(ひめしま)

十二、畜仆たほし、 ( 知珂(ちか)の島

十三、蠢まじ物ものせる罪、 ( 両児(ふたご)の島

幾許ここだくの罪出でむ。

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神話物語上の「そんなものか」というお話ではないので、大祓祝詞と古事記を参照して現実に照らしつつ逸脱について見たいと思います。

逸脱・間違いは原理規範を基準として、そこからの比較、偏向することをいいますが、もともとわれわれは理想の原理規範を知らないのですから、逸脱している状態が普通のことです。

ですので逸脱が悪いとか奇怪しいとかでなく、そういった当たり前の逸脱状態を理想の規範になるようにして、為政行政判断をする基準を提供しているのが大祓祝詞になっています。

唱えるだけで功徳があるなどとする奇跡の良薬などではありません。自己の意識の次元を変態了解できなければ、物品を授かるようなものではないのですから、唱える意義はありません。

官つかさ々に仕え奉る人達の、過ち犯しけむ雑々くさぐさの罪を、今年の六月晦の大祓に、祓ひ清め給ふ事を、諸もろもろ聞召せと宜る。官僚、朝廷の行政執行者を相手にしてその逸脱を正そうとするものです。

現代の行政は民主主義によって選抜された政府首長の介入行政が行われます。民主主義というのは単なる多数による執行意思の形成を委託するものですから、執行意思が正しいか間違いかはどうでもよいものです。委託された執行権力が形成されればいいだけのもので、正しいとか逸脱とかはまた別のことです。

朝廷政治ではスメラミコトの大御心(スメラミコトの自覚の内容)をもって行われ、話し合って文殊の智慧を得るとか多数決で決するとかいうものではありません。大御心はスメラミコトというう天孫(天の孫・まご)からくるものですから間違うことはありません。

人の行動は複雑ですが、人を動かす意思は四つの意思の裏表で、八種類しかないというのが古事記の言霊学です。理想の思惟規範として古事記の上巻があるということは、逆に読めば、逸脱、間違いの全容もそこにあるということで、各次元、各時点での間違え方が記されているということです。

ただし、上位次元での間違いのように振る舞うこともありますが、思惟は変態を経ないで上位次元にはいけませんから、凄い事を言っているように見えても逸脱の時処位を見抜いてしまえば、本当は一人芝居か猿芝居ということがほとんどです。

古事記の言霊は百神ありますから、われわれは百の間違え方を手にしています。思惟原理構造で見れば十七、父韻で見れば八つ(天津罪)、運用領域で見れば十三(国津罪)、現象要素の三十二、の間違え方があります。大祓祝詞が年に二度は反省してみろとせっかく言ってくれているのですから、そうしましょう。

さあ、私の猿芝居の始まりです。

2 逸脱論目次

仮の目次です。

光の中にいれば影が無いように、

天照す大御神の鏡の中にいれば、間違い、逸脱は無い

しかし、現実には誰も理想の鏡を持ってない

だから人は、自分は正しいと勝手な無駄な主張をして、言い合いをする

そのおかげで文明は進歩してきた

目次も書く内容も定まっていないので、どうなるか分かりません。

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== 逸脱論目次 ==

ア ・ もともと逸脱は存在しない(天の御中主の神)

今ここの規範の流れ・規範の構成

規範 ・人は規範をもつことから始まる

) 自然規範の逸脱解釈 ・規範など無い

) 先天規範がまずある ・天津管麻

) 先天規範からの逸脱 (天津罪一~八)

自我などない

自我しかない

まず自己規範からの逸脱が重要

) 後天要素からの逸脱

) 主観自証規範からの逸脱 (建御雷の男の命)

) 表現実体からの逸脱 (音、文字)

) 客観規範への没入、遊魂 (黄泉国)

) 主体規範からの逸脱 (国津罪)

) 自覚された規範からの逸脱

) 理想規範へ至る逸脱

) 先天の理想的規範の獲得

イ ・ 天津罪 (逸脱の原理)

・ 思惟規範運用上の思惟の逸脱

一、畦あ放はなち、 ( 宇比地邇(言霊チ)の神 ・全体提起間違え・はたらき側

二、溝みぞ埋うめ、 ( 妹須比智邇(言霊イ)の神 ・全体持続の間違え・実体側

三、樋ひ放ち、 ( 角杙(言霊キ)の神 ・自分の方向へ引き寄せない

四、頻しき蒔まき、 ( 妹活杙(言霊ミ)の神 ・進展無く同じことの繰り返し

五、串くし刺さし、 ( 意富斗能地(言霊シ)の神 ・選択の方向無く固定させる

六、生いき剥はぎ、 ( 妹大斗乃弁(言霊リ)の神 ・特定の方向のみ示す

七、逆剥ぎ、 ( 於母陀流(言霊ヒ)の神 ・表面で留まらず飛び出す

八、屎くそ戸ど、 ( 妹阿夜訶志古泥(言霊ニ)の神 ・中心に組まれるものを散らす

ウ ・ 国津罪

・ 規範適用上の運用領域での逸脱

零、問題の提起 ( 淡路の穂の狭別の島、ウ ・問題提起の間違い、提起しない

一、生膚いきはだ断たち、 ( 伊予の二名の島、アワ ・生きた気を断つ、実体側しか見ない

二、死膚しにはだ断たち、 ( 隠岐おきの三子の島、ヲオエヱ ・過去-今-未来を繋がない

三、白人しらひと胡こ久美くみ、 ( 筑紫(つくし)の島 ・途中で任意に留まり滞留する

四、己が母犯せる罪、 ( 伊岐(いき)の島 ・ 父韻によって母音から子音が生まれるのを、逆にして現象から母音を見る

五、己が子犯せる罪、 ( 津(つ)島 ・ 現象子音の配列を崩したり取り違える、夢を見る

六、母と子と犯せる罪、 ( 佐渡(さど)の島 ・ イメージを言葉に渡さない。物象化しない。

七、子と母と犯せる罪、 ( 大倭豊秋津(おほやまと)島 ・ 先天(母)から現象(子)が現れたことを見ずに現象の客体化を固定する

八、畜けもの犯せる罪、 ( 吉備(きび)の児島 ・幼稚な規範(気もの)だけで処理する

九、昆虫はふむしの災、 ( 小豆島(あづきしま) ・父韻の明らかな続きを恣意的に泣き騒ぐ

十、高津神の災、 ( 大島(おほしま) ・個別的な経験領域から出ようとしな

十一、高津鳥の災、 ( 女島(ひめしま) ・個別的特別な表現表出に執着する

黄泉国(よもつくに) ・客観表現

十二、畜仆けものたほ(お)し、 ( 知珂(ちか)の島 ・気ものの反省を主張する

十三、蠢まじ物ものせる罪、 ( 両児(ふたご)の島 ・ 両児島の領域の成立によって人であるのに、人以外の諸々によって判断をゆだねる。 人の意識行為を排除する

エ ・ 大祓祝詞

・ 逸脱罪穢(つみけがれ)の修祓(しゅうばつ)の方法

一、天あま津つ宮みや事ごと以もちて ・理想的規範を据えて

二、大中なか臣とみ ・エ次元の未来選択の眼

三、天あま津つ金かな木ぎを、本打切り、末打断ちて、 ・天津金木音図の実体とはたらきを分かち

五、天あま津つ菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて ・天津菅麻音図の実体とはたらきを分かち

四、千ち座くらの置おき座ざに置き足たらはして ・生命の自由な発現の原点に戻り

六、八や針はりに取とり辟つきて ・父韻の連続を要素に分かち

(注。原文は三四五六、意味の流れは三五四六。)

七、天津祝詞の太祝詞事ふとのりとごとを宜れ ・あたかまはらなやさわの流れにせよ

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3 ア ・ もともと逸脱は存在しない(天の御中主の神)

理想的な思惟規範を知らないわれわれは、逸脱した考え方物の見方の上に立っているという見立てです。もともと逸脱しているという設定ですから気が楽です。

そんなことを言うと四方八方から、何だお前の書くことは、とお叱りがくるでしょうが、どこのどなた様が理想的な思惟規範を持っているのでしょうか。知識量とか概念の豊富さとかで比較せず、原理規範を見てみれば、わたしもあなたも皆同類なのです。後は感情的か、性格の相違か、品格とかするものから文句もあるでしょうが、それらの相違も誰も止揚する手立てが無いのですから、効き目はありません。

始めからこんな書き方で申し訳ありませんが、楽な気持ちで行きたいと思いますのであしからず。

誰も正確な規範を持っていないという私の主張は正当でしょうか。これだけ発展した文明科学技術を見れば人々を導き規範があったように思えます。教育水準だって昔とは比べ物になりません。

しかしこれら文明の蓄積はどのようにして成ったかといえば、試行錯誤のすえです。決して正しい思惟規範のおかげだということはありません。ただし、物質、物同士を扱う文明なら色々な原理法則が発見されています。ところがその、物の世界を人間がどう扱うかというと暗澹たる闇夜です。核分裂の理解は誰でも同じなのに、使用法では人間側が分裂していいます。こちらが立てばあちらは立たず。

表題の「もともと逸脱は存在しない」どころか、逸脱同士の闘争死闘生存競争じゃないかと思われるくらいです。

「もともと逸脱は存在しない」のか逸脱試行錯誤という動力因のおかげなのか、言霊学はどのように答えるのでしょうか。

4 もともと逸脱は存在しない(天の御中主の神)

古事記の冒頭は「天地(あめつち)の初発の時」ではじまります。

「あめつち」とは「吾眼付地」で、「吾の眼を付けて地に成す」ということで、吾という私の意識が付いて対象ができていくところから、この世の「天地」が始まるということです。「吾(私)の眼」が何も見ず何もしないならそこには何も起きてきません。

吾の眼(私の意識)が何もしないのなら何も起きてこないので、何も無い、のではありません。そこに何かあるものとして意識に昇ってこないので、物質同士の作用反作用の世界は存続していますが、それを意識しないだけです。意識が無くとも物質世界の作用反作用での変化創造は続きます。

しかしそのように続くと意識が了解しているからそういうので、物質界の変化創造は人の言うような変化創造ではなく、いわば純粋な客体同士のぶつかり合いみたいなものです。そこに判断比喩を見るのは人がいるからです。

おもしろい事に人にはその客観世界が全部与えられています。しかし物質の世界は、お隣同士での力の伝達、強弱の移動となっていますので、物質の変化変形という創造の形です。人の場合は創造という形の変化変形を起こしていきます。それでもやはり人の始まりは細胞分裂から始まった物質の変化変形として赤子となります。

さて、この生まれていた赤子の世界、自分が赤子として生まれたことに、間違い逸脱があったでしょうか。後年になって自分は生まれてきたのは間違っていたというような思いを持つ事はありますが、赤子の時はどうだったでしょうか。

生まれてきた赤子がお乳が欲しいと泣きます。その赤子ににお前は間違え逸脱したことをやっているといえるでしょうか。わたしが、あなたが生まれたこと自体に逸脱があったでしょうか。

最近騒いでいる尖閣の島々にも同じように言えます。大陸の方が近いのに何故日本の領土なのだ、と中国は欲しい欲しいといいます。中華側の欲しいという主体は何なのか今のところはっきりしません。台湾か、香港か、中国政府か、中共か、人民解放軍か、清国の後を継いだ中華民国か、どこに主体があるのか不明です。

アメリカだって俺の物だと言いたければ言えます。もしかしたら、ボルトガルや英国も昔船員たちが小便していったから、見つけたから俺たちのものだと言うこともできます。欲しいという言いがかりの起点はどうにでもなります。日清戦争(1894~95年)後に盗まれたという中共側の主張もあります。百年近く立ってから言い出すのもいいですが、五十年も経たないうちに中共は無くなっていくのに、その後は誰がどんな主張をするのでしょうか。

(参考。「日本は1895年、日清戦争末期に釣魚島を不法に奪い、第2次大戦後、カイロ宣言とポツダム宣言に従い中国に返還した。日本の(国有化という)立場は戦後国際秩序に対する公然たる否定だ」9月10日中国外交部声明)。

(参考。 中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは70年代に入ってからで、国連の学術調査が68年に、尖閣付近での石油資源埋蔵を報告したのが契機だった。日本外交当局者は、周の発言について「石油の存在があって初めて尖閣は自分の領土であることを認めた」とみて有利な材料としており、「この外交記録を公表すればいい」とする外務省幹部もいる。田中角栄-周恩来会談)

赤子が乳を欲しいということに、何の逸脱間違いもないように、餓鬼が他の子供のおもちゃを欲しいということそのものには逸脱は無く、中共が欲しい欲しいと言うこと自体は欲望からすれば普通なことです。欲しいというのは自分が欲しいのですから、欲しいものは自分のものとして、手にしなくてはなりません。

しかし、欲望が沸き上がることと、その欲望を根拠づけることとは別のものですし、欲望の処理の仕方はこれまた別です。(ついでに、共通の言葉を共通の認識してしまうのも問題ありです。)

さて、現状現実は複雑な現象世界の様相を呈します。欲望は消えたのにそれの記憶が一人立ちして、新たな主張になることもあり、偶然でさえ主張の根拠になりますが、こうなると話が飛びすぎますので、少しづついきます。

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5 もともと逸脱は存在しない(天の御中主の神)

お乳はあり、おもちゃはあり、島々はあります。しかしあったからといって欲望があるのでしょうか。自分のものだとする根拠が乳房や島に書いてあるのでしょうか。

天地・アメツチの訳を思い出してください。吾眼付地・吾の眼を付けて地に成すで、各人の意識を対象に付けるところから、自分の対象と成る地、地(智)が自分に現れてきます。意識が地に付く以前には相手対象はあっても逸脱も間違いもありません。たとえ自分のものだと書いてあっても、それを見る自分の吾の眼がなければ、それは存在しません。

意識が相手に向かっていないのですから当然です。単にあるだけの物質の増減移動変化する世界に逸脱はありません。 関係が付かなければ逸脱のしようもあり津せん。(「ない」というのも意識側の判断で、「ある」を「ない」といいかえているだけですので、自己矛盾した判断となっていますが、ここまでは例えとして聞いておいてください。)

わたしは、各人は、それなりの選択をして、相手対象を定立していきます。

相手対象がそこにあるだけなら何の間違いも生じないように、わたしが、各人が欲する、選択する等々というのは、各人の何でもない普通の行為で、生まれたままの性能です。生まれたままの性能を間違い逸脱だなどと誰がいうでしょうか。

赤子の乳を呑む行為、おもちゃを欲しがること、自分の領土と主張することは全て人の生きる性能のあらわれで、それを間違いということありません。自分の性能を発揮すること自体は通常のことです。

こうなると相手側にも、自分側にもどこにも逸脱はないのです。

相手に物があること自分にものがあること自体に逸脱は無く、自分の行い相手の行いそのものに逸脱はありません。

それでも間違いはこの世の常としてありますから、天と地しかないと思われるこの世のどこかに逸脱があるはずです。これからその逸脱を探していきます。

逸脱というからにはどこかに逸脱でない正なるものがあってそれを基準としているのでしょうけれど、では正なるものはどこからきたのでしょうか。どこの誰が正だというのでしょうか。

今回は逸脱に関するものなので、こういう言い方ですが、逸脱を言い換えて正解、正しいこと、光、歓喜しかないということもできます。闇しか、悪しか、不正不浄しかないともいえますが、まず原理を確認しておきましょう。

まるで頓智みたいですね。わたしも答えを知っているわけではなく、「もともと逸脱は存在しない(天の御中主の神)」という始めの初発を解こうと挑戦しているところです。

6 もともと逸脱は存在しない(天の御中主の神)

もともと逸脱は存在しないというのを天の御中主の神としています。

実はこれは半分しか当たっていないというか、もともと逸脱しかない、というのも天の御中主の神に該当しないといけません。神道の知識のある方にすればどっちにしても話にならない聞くに堪えないでしょうけれど、ものの始めの神さんですからその原理を借りればどんなことにも当てはまるものです。ですので有るというならば無いという半分も原理として追加しないといけません。

初発の逸脱

これ(相手半分側を見ない)が既に今回の論考のわたしの第二の逸脱・間違いですが、その前に、問題を提起しない、見ない、知らんふりという逸脱があります。これが初発の逸脱です。吾の眼が付いて始まるところを、吾が無い、眼を付けないですから、あめつち(天地)が形成されません。

問題を提起しない、問題を起こさないということで、何も起きませんが、事の先送りとか逃亡しているとか、隠しているとかとも取られます。ですので解決したのではありませが、当面の問題を回避した、問題を見る眼が無かった、その後のことに無知だったとかになっていくこともあります。当初は逸脱も何もないのですが、動かないことが将来に渡って正解であることは保障されません。

動かないことも、一つには無意識的に動かないときや、意識して動かないときなどがあり、それはそれで様々な様相があるでしょう。意識して動かないときにはそのような判断があるからですが、それも自分側が動かないとか、相手側は動かない動かせないとかいろいろあるでしょう。

ここでほんの一瞬だけ元へ戻ってもらいます。この初発の逸脱(例えば問題を見ない見たくないで回避)での判断現象の意識的あるいは無意識的な回避での、その現象を起こさせる以前の状態を見てみます。

現象として起きた逸脱を見る場合には、吾の眼が付くと何かが起きてきます。今回の話は逸脱・間違えが起きてくるという話ですので、それは反省した後に出てくるだけでなく(オ)、さあどうしようかという時にも(エ)、今現在の持続の最中にもでてき(ウ)、感情ででも出てきます(ア)。

ただしそれらは見て見ない振りをして無いように振る舞おうと、現象として有るという現れです。一瞬前に戻るというのはそうではなく、現象以前に戻るということです。まだ現象という形を取らない以前の心の働きを想定してもらいます。ヒヨコに成る前の卵の状態です。

現象は逸脱・間違えとして現れてくるが、卵の状態ならそんな事はないのに、どうしてそうなってしまうのかということです。ここは意識過程の比喩として卵を出しているので、生物の問題ではありません。卵の孵化では時たま不具合がありますが、意識の孵化するときには最初から不具合になりっぱなしになることが多すぎます。

そこで、卵に比較して本来は逸脱・間違えはない、逸脱・間違えしかないはず、ということになります。

卵は自然で、意識活動も自然なのにその現象の仕方がまるで違います。卵の孵化には母鳥の温かみが必要ですが、それに相当する意識の孵化には何があるでしょうか。

これが父韻です。(母)鳥の腹の暖かみを父韻といいますが、人間として普通にあることですから、雛を自然に孵すように、人間も自然に現象を産みます。その最たるものが言葉です。卵があること、暖めること、そこまでなら逸脱はありません。

たまにこんな言い方を聞くでしょう。「何々をして何が悪いのだ」。これは現象してしまっているのに、当初の父韻の当然な働きの中にいると取り違えているのです。卵を暖めなければならない当然な行為が、現象としてあらわれ、ひんしゅくを買い同意が得られないのに何時までも、出だしの暖める自己の正当性にこだわっているからです。

この例でも分かる通り現象をあらわそうとする自己と、現象に乗っている自己と、そして形に現れている自己とはそれぞれ別のことです。

別だといっても全て、当初の暖める父韻から始まったことですので、その人の父韻がその人として貫徹していきます。では腹の暖かみを与えることは自然生物的なことですが、それを受け継いだ人間世界に換算するとどういうことになるでしょうか。

この腹の暖かみが高天「原」の原、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐「原」(あわぎはら)、天の安の河原の原なのです。とんでもないことのように思えるでしょうが、心の原理論である古事記の言霊学からはそのようにとれます。

原というのは父韻の働く規範・原っぱ運動場のことです。

この規範は広場である原っぱの形(五十音図)をしていて、枠に囲まれています。伊耶那岐の大神も阿波岐「原」(あわぎはら)の中で活躍をします。アワギハラは伊勢神宮の御柱の母音の並びであるイエウオアを基とした五十音図で、四隅がアワイヰになっていて、イヰが詰まってギとなる、アワギ(イヰ)の原(五十音図)ということです。

鳥は自然の性(さが)で動きますが、人の性(坂・さが)はこのアワギ(イヰ)原の上で動くことです。人というとき外国人には五十音図が無いということではなく、不十分で音図・表になりそうもない崩れた五十音図があるということです。

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6-2。 今ここの規範の流れ・規範の構成

鳥の繁殖地の無数の卵や雛を見ますと、よくも間違えないものだと驚嘆します。人間には到底できません。餌を探して戻って子に与えるのに、どのような識別法を持っているのでしょうか。しかし人間は別の方法で間違えないようにしています。それは言葉です。数千数万あろうとも一つ一つに名前を与えて八百万の区別を難なくこなします。七十億人の中から犬は主人を見つけるでしょうけど、主人以外とは何なのでしょうか。人は一人一人の名前を判断できます。

要するに、鳥たちの行為は性(さが)です。自然の成すことです。本能に従い弱肉強食等の自然の掟のままに時を過ごします。

人の場合は自然が基盤にあるとはいえ、本能に相当するものは意識です。意識に従い意識の掟を創造しつつ時を過ごします。

自然の掟というのはよく聞くので了解しやすいのですが、その自然の掟に相当するものは人間界では何かというと、意思意図を持つこととか、無常をえることとか、互いに愛し合うこと、相互扶助や、制約からの脱出だったりで、まとまったイメージがありません。何らかの意識が介入するものであることは大方の同意は得られるでしょう。

そこで意識を制約するもの、動かすものが見つかれば、人間の掟がそこにあるとしてもいいもののようです。意識が動いて現実に成るものについては理解されやすいですが、人間以前にあって人間を動かす意識の実体としての掟(のようなもの)を指摘するのは骨が折れます。

言霊学では何と答えるか。それが「原」で、規範で、五十音のアイウエオの音図です。

アイウエオ五十音図は既に変態を遂げた発達した姿になっていますので、それを元へ元へと戻すと「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐「原」(あわぎはら)」という規範音図になります。ア行がアオウエイの配列です。

アワギ原音図に到達するまでの道のりが古事記の記述ですが、さらに始原にまで戻ると高天原になります。ところが高天原を浮かび上がらすのが「天地(あめつち)」の「あ(吾)」という各自が蒔く種です。

ですので、原初の人間の掟とは「ア」です。

注意。「ア」というのは、現象として発音された『あ』ではなく、書かれた『あ』でもなく、あいうえおの『あ』でもなく、人の意識の原初に見出される意識の始めの運動場を名付けて「ア」とし、「言霊規範のア」ということです。

その初動の「ア」から始まる全体が人間の掟となります。どれが掟、これが掟というのはそれぞれの時処位をもって恣意的に切り取られた規範と成った後のもので、そこまでの全体に至る時の流れが示さなければなりません。

「ア」の経験は日常的です。空を見上げて「ア」ッと言うとき、朝起きて「アーア」というとき、得体の知れない光を見て「ア」っと驚くとき、そうだこれがと明らかに確信を抱くとき、アーメン・阿弥陀様・アッラー・有り難や、と唱えるとき、その出だしの「ア」が全ての始まりになっています。

動物のような感嘆驚嘆の叫びじゃないかと思われますが、後にこの「ア」を展開しても当初の「ア」以上のものは出てこないしその「ア」が全体の基盤になっているものです。「ア」はわたし(吾)と直接つながっていて、直接わたしを表明するものです。

そこで古事記では人の意識の出所には天津菅麻音図という原理音図がありますから、この音図の変態進化を追えばいいことになります。

始原の初動規範となる「あ」の天津菅麻音図、先天の天津菅麻音図、から始まって自覚された天照す大御神の音図に至るまでを了解して始めて人間の掟が分かるということになります。

「阿波岐「原」(あはぎはら)」の出てくる直前の文章は、黄泉国の物語の最後とつながっていて、「かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。」となっています。ここの「坂」は「さが(性)」のことです。伊耶那岐の大神は禊ぎ祓えの前に「黄泉の坂」という心の性(さが)を自覚しました。無自覚な自然な過程を経て出てくる坂(性・さが)を止揚していこうとするものです。

逸脱論というのはそれぞれの時処位を形成している規範からの逸脱を語ることになりますが、それも原理規範である天津菅麻音図が「まずある」から可能となることです。

「まずある」というのは人間の意識以前に規範があるという、驚くべきというか不思議な霊妙なことを指します。

人が規範を作るのか、人は規範に作られるのか。またまた頓智です。

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6-3。 規範 ・人は規範をもつことから始まる

規範がまずある。

規範を人の契約約束秩序律等の外部的な約束事にしますと、それらは人の作ったものですから、規範がまずあるというのはおかしなことです。そんなものは人が作ったものですから変更廃棄ができます。

汝殺すなかれ、を規範として見たとき、戒律としてならその主張もあるでしょうけれど、自然の掟に取って代わる意識の掟には到底なり得ません。神から与えられたとしても、守るも拒否するのも人次第です。

ここで探している掟はそういった解釈に左右され、現象を恣意的に産む産まないの規範ではありません。

母鳥が自然に従う掟としての規範です。前にそれを父韻というと言いましたが、その現象となった現れは言葉です。「ア」は世界中の人に共通で、世界語です。

言葉は人を創造し、人は言葉から逃れることはできません。言葉を再解釈して意味を変えてしまうことも起きますが、言葉を拒否も否定もできません。

また、言葉にならないとか、言葉を超える次元とかもあります。そういった世界もありますが、言葉を拒否否定すると称して、もどかしい精神世界を語る言葉を探しています。

だからといって何も語らなければ、達磨さんとにらめっこになります。

夜空を見ていて「アーッ」という声をあげる時、その単音とは何でしょうか。街角で突然すれ違った相手に声に成らず「ハッ」(ア段)とする時、その単音に含まれる「ア」とは何でしょう。汝殺すなかれと説教している時にナイフを突き出され「アッ」と声を出した時「ア」とはなんでしょう。

その「ア」は色々な説明ができます。それらの説明を全部掻き集めてみて、はじめに発した「ア」と比べると、どれだけ説明を集めても始めの「ア」よりも小さく貧弱なのです。説明に説明を重ねても、始めの「ア」を超えることはありません。

暫くして思い付きに思い付きが加わり、始めの「ア」を半分忘れるようになると、「ア」を超えて何かを付け加えたような気分になることはあります。そのような時は「ア」を超えたのではなく、ほったらかし半分忘れて、残った記憶と概念同士の突き合わせをしているのです。記憶量と知識量が当初の「ア」にすり替えられているので、「ア」を超えたわけではありません。

この「ア」という規範がその人を作ります。お釈迦様のたなごころから出られない孫悟空ということもできますが、「ア」という規範から出られないということで、それを持ち寄ってその上に自分を築いていくことになります。

そしてこの「ア」の構造があって、それが古事記冒頭の十七神です。

すなわち、あめつち・吾の眼を付けて地に成す・を人は知らず知らずの内に「ア」で表現しています。

ここで言霊学を既に習った方は、始まりの言霊は「ア」でなく「ウ」じゃないのかという疑問が出ると思います。言霊は定規の直線上に配置された目盛りではなく、前承する螺旋上昇循環をしていきます。この螺旋循環からすれば、全ての次元を「ア」でも「ウ」でも、「ヘ」でも「フ」でも、あるいは「ス」でも、説明できるものです。問題は「ア」という実体、「ウ」、「ス」という現象となった実体の話ではなく、「成り成りて」行く話をしています。

ではこの「ア」はどこからきたのかというと、自分各人以前の先天からと答える意外にありません。人は最初から「ア」の規範を持っていたのです。

だからといって、宇宙の始まる前から「ア」の規範があったのかという問題とは違います。

そのように考える方は「あめつち」のとり方を違えています。人の意識の始まりは、あくまで吾の意識(あめ・吾の眼)を付けることから始まるのですから、吾の眼を付ける以前の話がビッグバン以前であろう、千億万年以降であろう、明日であろうと、吾の眼を付けなければ変わりないという構造を指しています。

人がいなくても「ア」という規範があるのかという疑問は、その疑問を持つ限り「ある」ので、疑問の矛先がビッグバン以前でも明日でも同じ構造としてあります。だからといって人の存在しない以前からあるのかというのは、「ア」という実体概念が記憶としてはあるけれど、実在実体としても過去からあり続けるという、おとぎ話に変形しているだけです。

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7。 自然規範の逸脱解釈 ・規範など無い

自然界の規範と人間界の規範とは根本的に違います。

人が規範という形で自然に見ているものは、人間に引き寄せた見方をしているので自然には規範があるいうには、ちょっと躊躇ものです。自然界では人間世界に似通った外形実体の姿を取り上げ、逆に人間界では意識の働きの実体的なあらわれを取り上げて自然界に比しているだけです。

そうしないと自然界との比較ができないからですが、人間界だけの規範を語るなら意識の働き方面からだけ語っていけばいいものです。というのも自然界では実体と働きの剖判が無く、同じ動きの内にあるからです。野生世界での映像には猛獣が獲物を追いかける場面がよくありますが、最初に目標とされた動物だけを追いかけていきます。その途中で草を喰うために立ち止まってる動物がいても、その傍を駆け抜けていき捕まえようとしません。

こころはころころ変わるからこころと言われるくらい、嘘八百口八丁を常としていて目標の変更など当たり前のようにあります。つまり人では一歩一歩の歩き、一言一言の発音の度にあっちかこっちかの選択肢が付いて廻るからです。自然にはそういった芸当はできず一直線です。

ですので自然界そのものには規範はありません。規範のように見えているのは人の意識がそのような規則性を見出し人間に還元するので、卵を温めるのは鳥たちの性(さが)です。

ところがそこに見出される規則性を人が法則なり規範なりとして認識しだすと、人はその形を作りますので自分の作った形を見ることになり、それを自然界にも投影して、そこに規範があるとしてしまいます。

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8。先天規範がまずある ・天津管麻

母鳥が卵を温めること自然のさが(性)ですが、それを人間界に実体化すると古事記での「黄泉の坂(さが)」という表現になります。そこから、あるべき姿なのにそうならないことを見ていくわけですが、温めることをしない大人たちがいるとなっていきます。

ですのでそれを出発点にしますと、余りにも入り交じった現象に出会いこんがらがります。鳥は卵を温めることから逃れられないので、言霊学はこの性に相当するものを人間界にも見つけることをしようとするのです。

そうすると現象になって現れるものを見ていく限り、視点の多様さを受け入れなければならないので、話がまとまりません。そこで人において温める行為を、人の性となるものとして了解するものが必要となってきます。

それは何か。

人においても温める行為を人の性としますと余りにも多くの眼を背けることがあります。それを人にも背くと表現しても、動物以下といってもそのような現象はあります。だからといって動物以下になったわけでもなく、人間の性の別のあらわれです。

よくテレビ映画では非道行為の進行中あるいは精神の昂揚していく時に執行者が、自分の喋っていく言葉に踊らされている独白、独り言の場面が登場します。そういった特殊場面から取り出したものを反省しますと、今度は自分の言葉を自分で聞くという普遍性にまでなっていきます。ブログを書く時も黙って文字列を書いていくのですが、同時にそれを追いかけ読んでいくことをしています。

こうして自分には了解されたものとして記載されていきます。誰が了解するのかといえば、自分がですが、誰が了解させたのか、了解事項はどこから来たのかというと、自分がとは答えるものの確信を失います。

母鳥が卵を温めるような性が無いからです。了解は気分で変わり時間で変わったり相手次第で変化するのを知っているからです。

ここのところをよく見ると卵を温めているのは自分ですが、温め方が様々ありその都度変化して、取り繕いや主張の強弱や納得の度合いなども一定していないことに気付きます。

それらを受け入れて心に反省していくと、「おい本当に自分のものか?」というものがでてきます。

そこで肯定否定、承諾非承諾という現象化する方向を取らず、さらに内面に向かいますと、どっちの方向に行くにしろ選択の条件が前もってあるように感じられていきます。肯定する前に肯定する何ものかがあって、それに照らして肯定する。否定する前に否定する何ものかがあって、それに照らして否定している。

あらわれた意識を分析し追うのでなく、個人的な意識の内行過程に向かい、現象化させない方向をとります。つまり意識という現象を起こさせない方向へです。

そこで感じられた前もって有るものを、在るとしましょう。

賛否になっていない、主張になっていない、がしかしそれらを産むであろう何ものかが在ります。

母鳥は卵を温める掟に従います。人はどちらの方向もとります。つまり温める以前にするかしないかの選択を了解できる意識があります。

つまり人は鳥以前に人間であり、動物に成る前から人であるのです。(こういう言い方は進化に逆行しているようですが、まだ続きます。)

動物以前に人間であるというその得たいの知れないものは何で、どこから来たのか、誰が了解させたのでしょうか。

ここに先天規範があります。

(今回はあちこちで矛盾した言葉使いを感じるかもしれませんが、同じことの視点の違い、時処位の相違です。)

有る無しをいう前に有る無しの判定をする規範があります。この規範は全て全部整っていて何でも対応できる規範です。人は誰でもこういった優れものを持っていますが、意識に昇ってきません。意識で表現してしまったときには俺がお前が、こう言ったああ言ったという形になってしまいます。

前意識にあるものが先天規範です。鳥が性に従うように、人は先天規範に従います。つまりこの先天規範が性となる強制力を持っています。

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9。先天規範からの逸脱 (天津罪一~八)

規範があるといったり、ないといったりで、読むほうも大変じゃないかと思います。

心の御柱の廻りをくるぐる廻っている人を見てください。一周している人を見ていれば、正面向いたり後ろ姿になったり横向きだったりするでしょう。外野席から見るとそうなってしまいます。そして普通はそんな見方しかできません。

右左正面後が気になる方は、できることなら自分が中央に立つ御柱に変態してしまえばいいのです。

とはいっても人が昆虫のように変態することはできません。数万年の精神史で精神の変態に成功したのは、古代大和のスメラミコトにつながる若干の人だけで、その後に宗教指導者となって変態を目指した少数者と変態の自覚の入り口に到達した少しの芸術家がいるだけです。

スメラミコトの凄いのは精神の変態を遂げて、その秘宝を世界中に分け与え新しい世界史を作る準備を一万年前に考えて、準備して実行してしまったことです。秘宝の解読の方法は大和の地においてのみ残していきましたが、現在はスメラミコトの子孫たちも理解を放棄した状態です。

古代の早い時期からスメラミコトが家系として成立しているには、変態の秘儀に関する情報の伝達があるはずと思っていますが、その秘伝が形だけでも続けていてくれれば後にその実体も明かされるときもくるでしょう。

ただしその時は、内容を(明かし)理解しフトマニ言霊学の運用に達者な世界朝廷に目覚めた者がスメラミコトとなるので、家系とはまた別の問題になります。

木々に実を付けるには全然別の形態である花という変態を通過しなければならず、花の受粉も蜜蜂や昆虫たちの他者の手を借りなければならないようになっています。この論理を敷衍すれば、現在の天皇家という形をスメラミコトにまでにするには、花と蜜蜂が必要なのです。

現在の天皇家にはすでにスメラミコトとしての自覚を失ってから久しいですが、実を着ける木として数千年を過ごしているのですから、花が咲き蜜蜂が集まれば変態を開始します。今時点の皇室の成人たちには期待は持てませんが、それでも世界歴史の大木に隠し持った秘宝があるとの予感はもっていると思います。

どうか御賢所にある、言霊と古事記の神名を書き記した書物に関心が向きますように。世界朝廷が開始されますように。

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参照。1。

山腰明将。 書道神代文字研究家の山腰弘道・美志子の三男。父の弘道は旧尾張藩士、昭憲皇太后付きの書道家。 明治天皇と昭憲皇太后は、宮中賢所と皇太后が一条(藤原)家からもたらした和歌三十一文字を作る心得を書いた古書の中の言霊布斗麻邇に関する文献に基づいて、言霊言の葉の誠の道の研究をしていた。 弘道は天皇、皇后両陛下の言霊学研究のお相手を勤めた。

「古事記」の神代の巻に出て来る神様の名前がそれぞれアイウエオ五十音の一つひとつと結び合わされていることから、アイウエオ五十音言霊の学(まなび)の研究ともいう。 弘道は皇室の血統である大石凝真澄と親交があり、言霊学研究を明治朝廷で行なった。 明治天皇の崩御後、その言霊学研究の流れは大正天皇には伝わらず、民間に流出、その正統は弘道の子である明将に受け継がれた。

参照。2。

千九百年の時が流れた。ヨーロッパに於て物質科学の研究のメスが物質の先験構造内に入り、原子物理学が世界の脚光を浴びようとする時、あたかも東西呼応するごとく、日本の朝廷の中に、ささやかではあるが一つの画期的な研究が始まった。

明治天皇御夫妻による言霊布斗麻邇の学問の復興のための研究である。先師の師、山腰明将氏より伝わる話によれば、それは明治天皇にお興入れした皇后様のお嫁入り道具の中に、三十一文字(みそひともじ)の和歌の作り方を書いた古い書物があり、その中に日本固有の和歌と言霊との関係が記されていたという。すると天皇がたしか賢所に古事記と言霊に関する書物があったはずだ、といわれ、ここに古事記神話と言霊布斗麻邇との関係を探る端緒が開かれたのだという。

明治天皇御夫妻は、その時皇后と皇太子(大正天皇)の書道の先生であった前尾張藩士、山腰弘道氏が国学者でもあったことから、この山腰氏をお相手として古事記神話の謎ときの研究を進められたと聞いている。

聞き知るはいつの世ならむ敷島の大和言葉の高き調べを (明治天皇)

敷島の大和言葉をたて貫きに織る倭文機(しずはた)の音のさやけさ (昭憲皇太后)

上の明治天皇御夫妻のお歌を拝読させて頂くにつけて、御夫妻が日本固有の言霊の学問に日本の将来の希望を託されていられたかが想像されるのである。

(以上。)

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古代から大和の地に生まれる者たちへのそれだけの細かい準備はしてあり、原理教科書も1300年前に書かれ、一般に読むことができます。もちろん読んだとて戦後の天皇家自身が放棄するくらいに謎々で書かれてますから、まだ理解するとかしないとかいう次元ではありませんが、根はまだ枯れていません。

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宗教では神と人の関係にしてしまいますが、フトマニ言霊学では人間内に起こることです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」神は先天十七言霊のことで、人は吾の眼のことです。

参照。 淡路の穂の狭別の島(あわじのほのさわけ)

先天構造の最初に出て来る言霊ウの区分を示す島名です。神話形式で言えば天の御中主の神の宝座ということになります。アとワ(淡)の言霊(穂)が別れ出て来る(別)狭い(狭)道(道)の区分(島)という意味であります。この島の名の意味・内容は古事記解説の冒頭にあります天の御中主の神(言霊ウ)の項の全部と引き比べてお考え下さるとよく御理解頂けるものと思います。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神……」の古事記冒頭の文章自体がこの島名の意味を端的に表わしているとも言えましょう。

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