『言霊あめつち 吾(あ)の眼とア段 先天のア段を自覚し運用するまで』

『ア段に物事の実相が一番はっきりと現われる』

『事物の実相はア段に立って見る時、最も明らかに見ることが出来る』

先天のア段を自覚し運用するまで

古事記は天地(あめつち)・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすの吾の眼で始まり、天照す大御神・(アの間を照らす大いなる実相)を結論としていて、その高天(たかあま)原・タとカのアの間の原・での意識活動運用を述べたものです。

吾の眼とは自身の持つ意識であり、また持たせられる意識のことです。

アの意識は言霊五十音では、ア段の八音が当てられていますが、これを意識的に変革して母音半母音を含む十音で運用しようというものです。

先天の天地(あめつち)の吾(あ)を自覚的な成すべしという吾(あ)に創造するものです。

従って当初の吾の眼は、最も明らかに見るとはいっても、自分にとってだけの明らかな吾の眼であり、それが自他共に明らかな吾の眼に変態します。

自分にとってだけの明らかさとはいってもそこには自覚はありませんから、先天の天津神に囲まれた与えられた明らかさだけです。

その客体的な明らかさが一方では科学的なものであり、他方では主体的な自己了解だけの明らかさとなります。

ついで主客の抽象性一般性を出て、実相に沿った自他ともに納得のいく了解へと向います。言霊学では人の降り立ったその時点がその人のアの次元ですから、ウ次元に立っているというのがそのままウ次元で表明されア次元に剖判されていないア次元であり、オという次元に立っているというのがそのままオ次元で表明されたア次元に剖判されていないア次元です。

こうしてどの次元に立っていようとも、その人のそれなりの全体性は表明されています。

あるいは、直接には表明されてはいないものの、アの全体像の上に立って現わされたものです。