03 具体性への交流手続き

次に水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、

底津綿津見(そこつわたつみ)の神 。エ。次に

底筒(そこつつ)の男(を)の命。エ。

中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、

中津綿津見の神 ウ。次に

中筒の男の命。ウ。

水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、

上津綿津見の神。オ。次に

上筒の男の命。オ。

河に例えられた意識はここでは、水底、中、水の上の例えで身禊の実行を成し遂げていきます。

ここに到達するまでには、まっさらな無垢の身との比較のためアワギ原という意識の音図に包まれるところから始めました。そして音図上で客観世界の無秩序な弱肉強食、我良しの思惟規範の気田無いところを身削ぎしようしました。

まず身削ぎの精神規範を立てました。その覚醒自覚の上に立って、自らの主体意識を精査します。

御身(おほみま)として過去の気田無さを切り捨てることなく、その時処位を反省し、曖昧さの無い処を了承して覚悟を決め、以前の無自覚さから起きたことを受け継ぎ、明らかに自覚以前の自分も組み込まれていることを確認しました。

ついで、これらの在り方をもたらす主体の動きをみます。こちら側主体が立ち上がることはあちら側客体が立ち上げられることだし、主客が連結され、そして主客が身近くなることでした。

そこで、準備ができて、今度は実際に身削ぎを始めます。ここには「身削ぎを始めるぞ」という意志と一般感情が出てきましたが、意志の表出と全体感情は分かりますが、実質的な身禊の力はありませんでした。

こうして同じ意識の運用を心がけているのに、それぞれの場面に応じて作用に応じて一様に対処できないことが確認されました。

そして身禊の場面で効能の発揮できそうな様態が、言霊オウエの次元に立った時にうまくいきそうなことが分かりました。

ここからオウエの扱い方になります。

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河に例えられた意識は、水底(エ)、中(ウ)、水の上(オ)の順に配列されています。これはどういうことでしょうか。

それは身削ぎにおける、実在世界への主体の「在り方」と主体の「係わり方」の静と動の違いです。例えば意志の場合は、形も見えず大いなる意志、闘志があると入っても、実在世界に作用する方策を持ち合わせていなければ、意志の力の出現の仕様もなく何の力もありません。

そこで意志だけの大きさをうんぬんするだけの「禍」を、実在世界とその動きの中に見つけ、意志や感情世界では成し得なかったア・イではなく、言霊エウオの現象世界に入ることで「その禍を直す」ことができることを了解しました。

こうして自ら現象世界へと向い、接点を持ち交渉する運用法を探ります。

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次に水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、

底津綿津見(そこつわたつみ)の神 。エ。次に

底筒(そこつつ)の男(を)の命。エ。

水底、中、上と続きますが意識の奥底とか表面とかではなく、現象世界と係わる接点の深浅です。これから何をしようかと現実に係わるとき、最初の現実世界との接点は、買い物に行こうという場合や風呂に入ろうという場合、買い物や風呂という選択行為が始めにきます。

ついで本当に行きたいのか入りたいのかその欲望が問われ、行くにはどこへ入るにはどうするかの実地の知識が出てきて、エウオの順になります。

選択の意識を実行中もイ・アの意識は消えることなく、しかしそれらに表面から乗っ取られる事もありません。縁遠いイ・アの意識はすすがれていきますが、同時にそそがれてもいます。

底津綿津見(そこつわたつみ)の神 。

同じ意味の言葉がつながっています。底津の津は出入の港、選択から出港して選択して入港すること、綿・ワタは入出港を渡し、ワタは海のことでもあり生みとなって入出港で生まれるもの、津見はワタで生まれたものをまた渡して見えるようになるものです。

意識の選択という運用を、作用反作用の連続していく中で、原因結果の受動能動の了解と可能行動の刻々と反省循環していく行動を実践していくことです。

刻々の反省循環行動が可能であるためには、行ったり来たりする意識の時処位の行き場ができていなければなりません。それが筒で表徴されています。

底筒(そこつつ)の男(を)の命。

筒は空洞の円筒形ですが、ここでは津津(つつ)のことです。渡したものを渡されまた渡す、行って返ることです。それを入口と出口のある八つの間で構成された筒、つまり五十音図の横段で行ないます。

津は出入りする港で荷物を送り渡し受け入れる始めと終わりです。その間を行路が取り結んでいます。物事を発送する一航海は到着したら終了ですが、意識の一航海は途中で何回でも出発港と到着港を行ったり来たりして、現象を届けたと確認したら終了です。

単音の場合、その基本は一航海に八回の往復をします。つまり筒を八回往復です。八回の往復で一単音が生まれ、二語ならば十六往復をそれぞれ瞬時にします。

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以下の「中」「水の上」も同様の構造で、言霊ウの次元世界、言霊オの次元世界という違いだけです。

中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、

中津綿津見の神 ウ。次に

中筒の男の命。ウ。

水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、

上津綿津見の神。オ。次に

上筒の男の命。オ。

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では何を八回も往復するかを問題とします。

身禊の始めはアワギ原に降り立ったことからです。アワギ原とは五十音図のことです。

五十音図とは意識の次元図で、意識を五つの別々の次元として扱いますから、それぞれの次元にあった五十音図が五つあることになります。

この五十音図は一万年前にはフトマニ思想が完成すると同時に出来ていましたが、現在まで残されてきたのは金木音図と呼ばれる、ウを中心とした欲望のアイウエオ五十音図です。現在では他の四音を中心とする音図も復元されています。(⑬-5 五十音図の見方と創造の仕方

意識の次元にはそれぞれの意識の運び方があるので、主体側アから客体側ワへ向う配列が異なります。異なった五つの音図がどのように形成されたのかは分かりません。

古事記の冒頭のあるヒントから復元されたようです。

天地(あめつち)・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすべしの、初発の時、高天原に成りませる、という時の、タカマハラのあ段の並びが、目指す理想的な思惟規範である天津太祝詞音図のア段、タカマハラナヤサと一致しています。理想的な規範は、分かったことを分かっているように自他ともに実践智恵とすることですので、ここでタカマハラナヤサの並びを適用してみます。

欲望などはその出所が不明です。何時か何処かで突然欲望の虜となるので自覚がありません。知識を得るときも同じです。先人による出来合いの記憶概念を自分に引きづり込むだけで、自覚して創造した知識から始めた試しはありません。この成り立ちの構造を身禊五神で検討しました。ついで行って返る奥辺の神で出来合いから始める動きもみました。

ついで欲望知識等その出所が不明であっても、得られている立場から見ると、意志や感情ははっきりと自分のものであることが分かっていても、やる気や情感で持ってことは進展していかないことも了解でき、返ってここにまた、欲望や知識や実践智恵が意識の中核をなしていることに気が付かされるのです。

「八針(八葉理、八つの言霊実現上での道理)に取辟さきて」

そこで直毘の神たちによってウオエの世界が再び掬い揚げられ、ここで新たなウオエとして再生復活の処方を与えられることになります。もともと意識の中核をなすものですが、自覚を持って始められたものではありません。

そこで自覚を賦与して配置換えをして、生きたウオエにしようというのが、津見、筒の神たちです。

問題となる配置転換の根拠をタカマハラナヤサの語順にしてみようというところです。太祝詞にあるように欲望の五十音図の八行を切り裂き、(ア)・カ・サ・タ・ナ・ハ・マ・ヤ・ラ・(ワ)、にします。

両端のア・ワは主体(例えばカレーを食べたい人)と客体(カレー)です。カッコに入っていることは現象となって現われていないことを示します。突如カレーを食べたいという欲望が現われましたが、何のどこのどれだけのカレーかは未定です。従ってカから始まることは自分の知っているだけのカレーの知識を掻き集めた内のカレーとなります。うわさに聞いたベトナム風のカレー米紛うどんとなるか、インド式の手で食べられるカレーになるか分かりません。

そこで期待して出てくる客体ワのカレーには、うわさ以上の実体がありませんし、手でたべたこともありませんので、カッコ内にワが入っています。何が出るか分からないということです。始めに自覚が無ければ終わりもみえません。これを全体的に表現したものが、始めと終りが見えないアイウエオ五十音図です。

ここまでのことでカレーの話をすれば、出てくるカレーはうわさで仕入れた知識か既得の概念記憶によるごたまぜカレーの知識が出てきます。どんなものになるかは、博識度や見せたがり度や自己主張の強さ等として出てくるので、食べたいカレーとしてはでてきません。これがア・カサタナハマヤラ・ワの並びのカレーです。

この配置換えをしてタカマハラナヤサにします。この配置の場合には自覚した意識から始まっていますから、始めにあめつち(吾の眼を付けて智となす)のアが着き、アが意識されているので終りのワ、出てくるものの見当も付いています。アタカマハラナヤサワになります。

ところでここで配置換えをするというので、カレーは食べたいが具体的な何々カレーと指定は、まだされていません。

つまり、何のカレーが食べたいという自覚のまだ無いままですが、それでもカレーが食べたいという欲望は自覚されています。タカマハラ音図ではアの位置に食べたいという欲望のあることだけははっきりしているので、その位置を占めます。アの位置に自覚が入りました。

ついでタになります。ここではアの位置に入った自覚されたカレーを食べたいという欲望になります。ア・カサタナ音図ではカが最初ですから、カレーを食べたいということに関して掻き寄せ集められたものは、既に過去にある評判や知識や選択された概念とか記憶とかになります。欲望は現在にしかないので掻き集めることができません。

ここで分かったことはア・カサタナの欲望音図では主体の自覚から始まらないので、欲望といっても既存の記憶概念を掻き集めたものを、その人なりに選んでこれが欲望の内容であるとします。

一方、タカマハラ音図では主体の自覚から始まりますから、確かに欲望のあるところから始まり(ア)、そしてそのあるものの全体を何であるかと、既存の知識記憶で図り直します。

こうして両者とも客体ワへと赴くのです。

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