23- 悪ぶる神の活動

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「古事記と言霊」講座 その二十三 <第百八十二号>平成十五年八月号

ここを以ちて悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蝿(さばえ)なす皆満(み)ち、萬の物の妖(わざわひ)悉に発りき。

建速須佐の男の命が思いついた物質の法則と、それを探究する方法を求めるに性急な余り、高天原の実相の言葉を乱す行為が続きましたので、高天原精神界と日本の国土には悪ぶる神の活動が活発となって来ました。荒ぶる神の「荒ぶる」とは、単に「乱暴な」というだけではありません。大祓祝詞(おおはらひのりと)に書かれておりますように、言霊の学問の完成後に、その学問を熟知し、自覚した聖(ひじり)の集団(邇々芸の尊)が世界の高原地帯の高天原から日本国土に降臨する以前、この国土に前から住んでいた土着民、または高天原に於て言霊原理が確立していなかった時、中途半端な言霊学を持って高天原から日本にやって来た人々が振るう権力政治、言い換えますと、力の強いものがその持てる力を以て力の弱い人達を治める政治の方法が行われていたのであります。この政治の思想を天津金木(かなぎ)と言います。この金木思想を言霊で表わしますと、図の如くなります。

即ち現代の小学校で教えている五十音図で、母音が縦にアイウエオと並び、上段が横にアカサタナハマヤラワと並びます。現在の世界全体の政治が権力と金力と武力によって行われている事を見ますと、当時の古代の様相がそのまま偲ばれます。この音図の上段がアで始まり、その内容がラで終わる事から、この音図を荒(あら)の音図とも言い、その権力闘争の人々を荒(あら)の思想を振(ふる)う(活用する)の意で悪ぶる神と呼ぶのであります。

物質の法則を研究するには、物を裁断し、その部分々々の性質や内容を調べ、分ったものに研究者それぞれの経験を基(もと)とした概念知識によって名前を附けます。物の内容を発見し、それに経験に基づく名前を附した人が研究の勝者と呼ばれます。そこに高天原本来の協調精神とは反対の競争精神、ひいては弱肉強食の生存競争社会出現の芽が育ちます。高天原の協調精神に基づく平穏な社会の中に我勝ちの蝿の羽音(はおと)のように騒々しい険悪な空気が漂い出したのでありました。

かれ伊耶那岐の大御神、速須佐之男命に詔りたまはく、

建速須佐の男の命が始めた行動が静かな高天原に険悪な世相を起す気配を見た伊耶那岐の大御神は、須佐の男の命に次の様に尋ねたのであります。

「何とかも汝(いまし)は事依させる国を治(し)らさずて、哭きいさちる」とのりたまへば、

「どうしてお前は私が命令し、委任した国、即ち海原であるウの名の原(言霊ウの領域、物質の生産と流通という仕事)を治めないで、毎日高天原とは違うやり方を探して騒々しい行いをやり始めたのだ」と問質(といただ)しました。

答へ白さく、「僕(あ)は妣(はは)の国根の堅洲国に罷(まか)らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。

建速須佐の男の命は伊耶那岐の大御神の問いに対し、次の様に答えたのです。「私は長い間、父上がお申し付けになったウの名の原である高天原の物質の生産と流通の仕事を統率して働いて参りました。けれど近頃、この物質世界に於ては姉上天照大御神が治めている高天原精神界の法則とは全く違った法則が支配している様に思えて仕方がありません。そのため、その法則を探すには母上がいらっしゃる根の堅洲国に行かねばならない、と考えて一所懸命にその事ばかりを考えて努力しているのです」と答えたのであります。根の堅洲国とは音(ね)の片洲国の謎。音は言葉の事。片州とは、一方は言霊原理に則った実相音の世界である高天原精神界の言葉。もう一方は物事を客観方向に探究する伊耶那美の神が主宰する黄泉国の言葉。建速須佐の男の命が行き度いと思ったのは、この片方の後者である客観世界の言葉が根づいている(洲[す])黄泉国(よもつくに)の事であります。

ここに伊耶那岐の大御神、大(いた)く忿怒(いか)らして詔りたまはく、「然らば汝はこの国にな住(とど)まりそ」と詔りたまひて、

建速須佐の男の命が黄泉国へ行き度いと言う答えを聞いて、伊耶那岐の大御神は自分が命令した事を守ろうとしない建速須佐の男の命の態度に大層怒(おこ)って、次の様に言いました。「高天原日本でのお前の本来の仕事をせず、物事を客観的に見る研究をしようとするのなら、それは高天原に留まるべきではない。高天原本来の原理と違うものを探究しようとするなら、黄泉国に行ってそれを為(な)すがよい」と言って、……

すなはち神遂(かむやら)ひに遂(やら)ひたまひき。

建速須佐の男の命を高天原から黄泉国へ追放したのでありました。

さて此処で問題が一つあります。それは「伊耶那岐の大御神、大(いた)く忿怒(いか)らして……」とある事についてです。神様の物語として、伊耶那岐の大御神が息子の建速須佐の男の命の我侭に対して腹を立てて、高天原から黄泉国へ放逐したとしても、別に問題となる訳ではありません。読んだ人は「そうか」と言って済ませればよい事です。けれどちょっと勘繰って見ると、「変だな」と思いたくなる事でもあるのです。伊耶那岐の大御神は言霊の神、最高神です。その神が大切な息子神が、親神の命令を破り、命令していない事をやり始めようとしてるのを知って、怒るのは変ではないか、と思う事です。建速須佐の男の命は父の神の命を守って、長い間高天原で三貴子が力を合わせて人類の歴史創造に精を出して来たのです。その途上、海原である五官感覚に基づく物質生産の仕事を忠実に務めた結果、物質界には高天原精神界とは違う法則があるに違いないという事に気付き、その方面に意識を向けるようになる事は、人類の文明創造上当然の事であり、親神としては怒るよりむしろ賞めてやるべきではなかろうか、という考えもある事です。

その事を考えに入れますと、古事記の文章、「伊耶那岐の大御神、大(いた)く忿怒(いか)らして……」の「忿怒(いか)らして」は「五神(いか)らして」と受け取る事も出来ると思われます。五神(いか)とは言霊アオウエイの天之御柱の事です。人間天与の最高の判断力であり「その時、その処の状況を判断して、いかに対処するかを決定する」事となります。折りしも時代は三貴子の三権分立、三位一体の体制によって、人類の第一精神文明の爛熟期を迎えようとしていました。その社会の底に於て、第二の物質文明時代への転換の気配が浮び上がっても当然の事でありましょう。伊耶那岐の大御神は、その気配を察知して、建速須佐の男の命を第二物質科学文明創造の主宰者として、その創造の最適である黄泉国外国へ旅に出した、というのが真相でありましょうか。

以上で古事記百神の原理の後日譚とも言うべき三つの事項、三貴子の三権分立、天照大御神にのみ言霊原理を与えた事、建速須佐の男の命の反逆についての解説を終えることとなるのでありますが、古事記神話はその締め括りとして、重要な一言を最後にポツンと短い文章で付け加えています。それは――

かれその伊耶那岐大神は、淡路の多賀(たが)にまします。

の一文であります。これはどういう意味でありましょうか。考えて行く事といたします。古事記のこの短文では余りにも素気ないというのでしょうか、日本書紀にはこの文章の解説をするかのように次の文章が載せてあります。

「是の後に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、神功(かんこと)既に竟(を)へたまひて、霊運当遷(かむあがりましなんとす)、是を以て幽宮(かくれのみや)を淡路の洲(す)に構(つく)り、寂然(しずかた)長く隠れましき。亦曰く、伊弉諾尊功(こと)既に至りぬ。徳(いさはひ)亦大いなり。是(ここ)に天に登りまして、報告(かへりこど)したまふ。仍(すなわ)ち日の少宮(わかみや)に留(とどま)り宅(す)みましぬ。」

神功(かんこと)とは伊弉諾尊が言霊百神を生み、言霊原理を完成させた事をいいます。幽宮とは仕事を終え、隠居する家の意。伊弉諾尊が言霊百神を生み、その学問の真実を證明し終り、その自覚を持ちながら現象世界を静かに見ている所の事であります。このようにすべてを自覚しながら、静かに現象世界を見そなわしている状態を言霊スと言います。ではその隠居所は何処か、と言いますと、それを淡路の洲と申します。淡路(あわぢ)とは古歌の「淡路島通(かよ)う千鳥の……」とある淡路で、言霊アとワの間、という事の謎であります。伊弉諾尊(言霊イ)は主体(ア)と客体(ワ)の間を自らの働きである八つの父韻によって結ぶ事によって、この世の中の一切の現象を生んで行く自らの性能を自覚し、その上で永遠の今に言霊スの姿で留まっていらっしゃるのであります。

また伊弉諾尊は人間精神の先天構造(日)の中の少宮に宅(住)んでいらっしゃいます。少宮とは母音の柱アオウエイ(天之御柱)の事であります。人間の営みである一切の現象は此処より発現し、そして此処に帰って行きます。

以上、日本書紀の文章を説明して来ましたが、古事記はこの事を先に挙げました如く「かれその伊耶那岐の大神は、淡路の多賀(たが)にまします」と短文で締め括っております。淡路(あわぢ)とはアとワを結ぶ道の意。その結ぶ路とはアとワの間を輪を画く如く伊耶那岐の命の働きである八つの父韻が廻って、アオウエの四母音に働きかけ、現象を生みます(図参照)。この図をアとワ、オとヲ、ウとウ、エとヱ、イとヰのそれぞれの母音と半母音を廻る円と考えますと、全体で円筒形の器が出来ます。するとアワ、オヲ、ウウ、エヱ、イヰを結ぶ円形は桶を締める箍(たが)と同じ形となります。伊耶那岐の大神はア(オウエイ)とワ(ヲウヱヰ)を結ぶ箍のように八つの父韻として働きながら、永遠に森羅万象を現出させて、人類社会を創造されている、の意であります。

因みに、右の如き器(桶)を宇気槽(うけふね)と呼び、祭具の一種でありました。桶を伏せた形で、巫がその上に立ち、舞ったり、鉾(ほこ)でこれを突いたりして踊ると「古語拾遺」にあります。いわゆる神楽(かぐら)であります。この宇気槽上の踊りは、伊耶那岐の大神が、古事記が示すように「淡路の多賀にまします」という言霊学上の姿と同じである事がお分り頂けるでありましょう。昔から伝わる神楽並びに神楽歌は古事記言霊百神の原理の真実を現代に伝える為の伝統行事だ、という事が出来ます。古事記「天の岩戸」の章に見えます「岩戸前の天の鈿女の命の宇気槽の上での裸踊り」も同じ事を示した神楽であります。

(「古事記と言霊」講座 終り)

「古事記と言霊」講座を終って

今月の二十三回目のお話を以ちまして「古事記と言霊」講座を終了いたしました。講座をお聞き下さった方々に心より感謝申上げます。古事記神話の冒頭の「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神。……」に始まり、伊耶那岐の大神の禊祓の行によって天照大御神・月読の命・建速須佐の男の命の三貴子(三柱のうづみこ)に至る言霊百神の物語の呪示(謎)を解いて、日本人の大先祖である皇祖皇宗が後世の私達に遺してくれた人間精神の究極の構成要素である五十個の言霊とその整理・活用法五十、計百個の原理である言霊布斗麻邇を明らかにする講座で御座いました。お分り頂けたでありましょうか。

古事記神話と言霊学に関する講座は今回で四度目と記憶しております。同じ内容の話を四度目ともなれば、気楽に熟す事が出来るであろう、と思われる方もいらっしゃるからも知れません。けれど、そうではありません。「古事記と言霊」講座のお話をさせて頂くには、以前に書き記した「古事記と言霊」の本を棒読みしていればよい、という訳には行きません。言霊学の勉強は古事記に呪示された人間精神の構造と活用法を鏡として、自分の心を内省し、自分の心を見つめ直して行く道であります。一日その内省を怠ければ、自分の心の今・此処(中今)に活動して下さる神(言霊)を、生彩を失ったマンネリの概念に陥(おとし)いれることとなります。言霊学の話は常に自らの中に躍動する生命のリズムと一体でなければなりません。そこに緊張があります。

また、その内省の作業は「心の真相にここまで迫ればよいだろう」「これ以上に迫ることは出来ない」と考える自らの中の心の壁を何度でも突き破ってくれます。そしてその都度、心の奥へ奥へと観想が進み、心の真実に近づかせて呉れます。この体験から古事記に示される言霊布斗麻邇の学問が、大昔に日本人の祖先の聖の人々が永年にわたる不撓不屈の努力によって、心の真相を見極めた末に発見した完璧な真理の学問である事を気付かせてくれるのです。この体験は更に話しに緊張をもたらします。

以上の緊張のお蔭もあってか、「古事記と言霊」の講座は一回目よりは二回目、二回目よりは三回目……と心と言葉の真実に近づき、その自覚を深める事が出来ました。また同時に講座をお聞き下さる人達が御理解し易いような解説が出来るようになって参りました。鹿爪(しかつめ)らしい、むずかしい宗教用語や哲学用語ではなく、今の世の中の人々が日常に交(かわ)す会話の言葉で解説することが出来るようになって来ました。

以上のような解説の変化の中で、今回の第四回目の講座では特筆すべき事がありました。それは解説の中に「光の言葉」(霊葉[ひば])という事を導入することが出来た事です。この「光の言葉」という事に気が付かせて頂いたのは、今回の講座が始まる前、一昨年の初頭より始まりました「大祓祝詞の話」という講座の途中でありました。大祓祝詞の中に「天津宮事以ちて、大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて、千座(ちくら)の置座(おきくら)に置足らはして、天津菅麻を、本刈断ち、末刈切りて、八針に取辟きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ」とあります。この「天津祝詞の太祝詞事を宣(の)れ」とあるのは、実際には如何なることをするのか、と考えていた時であります。「霊葉(ひば)」という言葉がスーっと心の中に湧き出したのであります。言霊のことを太古では一音、霊(ひ)と呼ぶ事がありました。その霊(ひ)である言霊、特にその中の子音から出来ている言葉を霊葉といいます。おとぎ話「桃太郎」の中の「お爺さん(伊耶那岐の命)は山へ柴(しば)刈りに……」という所の「柴」とは霊葉の謎です。「天津祝詞の太祝詞事を宣(の)れ」とは、人々の罪穢を払拭する為に祝詞を大声で宣る事ではなく、日本の天津日嗣天皇が、外国(黄泉国)の文化を摂取して、世界人類の文明を創造して行くのに際し、外国の文化の内容を吟味して、取捨選択することではなく、外国の文化の実相を見極めて、それに言霊、特に子音によって命名すること、であるのに気付いたのでありました。黄泉国の経験知による信条、思想の薄ぼんやりとした暗がりの文化を、霊(ひ)の「霊駆(ひか)り」を以て照らし、命名すること、と気付いたのです。

この事実が今回の「古事記と言霊」講座の「禊祓」の章の解説に大いに役立つ事となりました。古事記言霊百神の八十七番目、八十禍津日の神より神直日の神、大直日の神、伊豆能売を経て、底・中・上筒の男に至る神名の解説がその真相に近づく事が出来ました。またこの事により真実の人類文明の歴史創造に於て、言語の占める重要性を更めて認識することとなったのであります。黄泉国で発生する経験知による概念の言葉で組立られた文化を、取捨選択することなく摂取して、その実相を「光の言葉」で表現・命名すること、それが人類文明創造となるのだ、という簡単にして明瞭な事実に気付く事が出来たのでした。古事記はこの事を強調して「かれ阿曇(あずみ)の連(むらじ)等は、その綿津見の神の子宇都志日金柝(うつしひかなさく)の命(竹内文献では萬言文造主の命)の子孫(のち)なり」と、その太古の朝廷内の職名を殊更に挙げた訳であります。

今回の講座を通して、右の事以外に印象に残りましたのは、古事記神話の冒頭「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神。……」に始まる人間精神の先天構造を構成する十七個の言霊の解説の難しさであります。先天とは先験ともいいます。経験に先立つ、の意です。哲学の辞書を引くと「認識論上、経験に先立ち、しかも経験の成立・構成の基礎となるの意、とあります。経験知識がそこによって成立しますが、逆に経験知識によってその先験構造を認識する事は不可能なものなのです。先天領域にあるものは、人間の五官感覚によって捉える事が出来ません。その為に、論理的な解説の困難さがあります。

人間の心の先天構造と申しますのは、実は神道で神とか、仙と呼ばれる世界、仏教では仏、菩薩から阿羅漢と呼ばれる人の性能に関係しており、キリスト教で神、イエス・キリスト、聖母マリア、聖霊等と崇められている所のものであり、心霊科学で守護霊・背後霊または狐霊、狸霊などと呼ばれている諸霊が関係している心霊領域でもあるのです。この様に書きますと、読者には信仰を強要する如く、または霊を弄(もてあそ)ぶが如く思われるかも知れません。そういう事を避けるために、言霊の会はそれ等のことを極力口にしない事にしております。何故かと申しますと、その様な表現をしますと、人は自らの外にそれを考えてしまい勝ちになる危険があります。言霊学はそれ等すべてのものを一個の人間の内に見る学問だからであります。神も仏も、救世主も、背後霊・守護霊等々も、すべては人の内なるものとして統一する世界で唯一の学問であるのです。

以上申し述べました事を心に留めて、人間精神の先天(先験)構造をどの様に理解したらよいのか、どの様にしたら理解出来るか、を考えてみましょう。

先にお話しました如く、先天構造とは「認識論上、経験に先立ち、しかも経験の成立・構成の基礎となる領域」のことです。ですから人間の五官感覚(眼耳鼻舌身)では捉えることは出来ません。見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触ること、即ち性能の中の言霊ウでは歯が立たないのです。では人間の心の次の性能、言霊オではどうか。言霊オの認識は言霊ウの感覚で捉えた現象と現象との間の関係を求める経験知の世界ですから、経験に先立つ領域の認識は不可能です。言霊オを以てしても歯が立ちません。人が言霊学に出合う以前に積み上げて来た豊かな経験知識を如何程に働かせても先天構造を理解し、自覚することは出来ません。

言霊ウ・オの次元の方法で求めることが出来ないとすれば、どんな方法・手段があるのでしょうか。古事記神話の初めの所を見ましょう。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は……」とあります。その「天地の初発」に帰ることです。天地の初発とはどんな時なのでしょうか。それは人の心の中に今、何かが始まろうとする時の意です。心に何も起っていない時、それが心の先天構造なのです。心の宇宙という事になります。その宇宙に帰るとはどういうことなのでしょうか。

そこでちょっと考えてみて下さい。人は母親の腹から生れて来ます。世の中に生れます。これをもっと大きな眼で見て下さい。人は宇宙の中から宇宙の中の一点に生れて来たとも言えます。そして宇宙の中で育ち、働き、時が来れば宇宙に帰って行きます。こう考えると、人間は宇宙の中にズッポリ浸り切っている事に気付きます。としますと、人が生れた赤ん坊の時、目が見え始めても、それが何であるか分らず、体に触れるものを感じても、それも何か分らない時、その赤ん坊こそ大自然宇宙の子というに相応わしい存在と言う事が出来ます。

人が言霊ウ・オの立場に立ち、更にアの次元の自覚を得ようとするならば、元の赤ん坊の心に帰らねばなりません。そこに帰るにはどうしたらよいのか。言霊ウの五官感覚に基づく欲望は、何歳になっても赤ん坊の時と性能に本質的な違いはありません。年を経ると共に変わって来たのは、言霊オ次元の経験知識です。人は生長するに従い、次々と経験知識を身につけて行きます。それだけではありません。その集積された知識の集合体を自我と感違いして自我意識を強固に形成します。本来は無いはずのもの、虚妄であり、影とも言うべき自我の存在を信じて疑わなくなってしまいます。この自我意識が、本来の宇宙から生れ、宇宙に育った宇宙の「申し子」である自分の実相を完全なまでに包み隠してしまいます。お日様は常に天空に輝いています。それが見えないのは雲がかかっているからです。同様に人は生れながらに大自然宇宙の子として救われているのです。その自覚が持てないのは、心にかかった雲である経験知識で構成された自我意識があるからなのです。

人が自らの心の故郷である大自然宇宙を自覚しようとするなら、自分の心の中に入り込み、「我こそ自我だ」と猛威を振い、本物の自分自身を思うように動かしている経験知識で構成されている「自我意識」を、自分本来の心の「衣」であり、道具として心の中で整理して行く事です。整理の手段はこの世の中に既に昔から整備され、用意されています。それは皇祖皇宗が、二千年以前、言霊布斗麻邇をこの世の表面から隠してしまう前後に、布斗麻邇の原理が隠れる二千年間の人類の心の平安を保つ為に、また言霊原理復活の時に際しては、言霊学への門に入る魂の修行のために、その用を務めるべく皇祖皇宗が世界各地に創立させた儒仏耶の正式な教義を持つ宗教なのであります。

(次号に続く)