【天地の初発(はじめ)の時】2.

≪アメツチ。アのメが地に付く≫。

今日は一つ法螺吹き話を。

フトマニ言霊学を勉強していきますと、この三千年間の人間の文明が総て間違いの上に築かれていたのが分かります。今の世は、まず神や創造主、全知全能とかいう者を造り与えて、拝むようにしました。

現代の世界宗教が成立する以前には、世界中に創造神話民話想話がありました。そこでは必ずいつも神がいたという事にはなっていません。

現代の世界宗教の成立を保証する人間たちの持つ消沈し萎縮する心持ちから発していません。もっと自然で、自然な態度で、より事実的なものに結びついた想話より発しています。

現代の世界宗教のように人間のマイナス感情の慰めを考慮に入れていないので、おおらかで明るいものです。

こうやって書けば仏教やキリスト教といった現代の宗教全体は、一つの通過点に過ぎないように見えてくるでしょう。せいぜい二、三千年の宗教でしかないのです。

それに引き換えフトマニ思想は優に五千年以上前から完成していたものです。もちろん古事記の上巻によって書き示されたのは千年ちょっと前ですが。その思想はづっと以前から受け継いだものです。

なぜ五千年などと言えるのかは、もちろん大体の事ですが、易経(周易)の記載から計算したものです。黄帝(こうてい)(紀元前2510年~紀元前2448年)、神農は紀元前2740年ころの古代中国の王、伏羲(ふっき・ふくぎ、紀元前3350年~紀元前3040年)に足す事の二千年です。

易経の構造と古事記の冒頭とはまるで同じ事を書いてありますが、易経は、八卦という形の数霊を扱い概念の説明しかしていません。易の説明は太極から始まりますが、八卦にいたるまでその概念を取り入れたものです。もちろん歴史事実も多少あります。

古事記の冒頭は実体内容そのものを譬喩的呪示的に示したもので、概念ではありません。概念を語るには実体内容がなければ語れませんが、その概念を数霊的に語ったのが易経です。

ここでの問題は何故易は、八卦の概念を説明できてもその実体内容に言及がないのかです。

その答は実に簡単で、フッギが古代大和へ渡って、日本の竹内文書にも記載がありますとおり、大和のスメラミコトによって易の実体内容は伏せられたまま、八卦の数霊が与えられたからです。その実体内容とは古事記の上巻そのものの事です。

古事記冒頭の神が、1-2-4-8-2に分類されている事に気が付けば、易経とは古事記のコピーである事がすぐ分かるはずです。もちろんその為には、古事記の神々を心事物の実相ととらえる真実の読み方がなければなりません。

ひと度概念が成立してしまえば、概念の一人歩きは自由自在です。易は概念が一人歩きする構造でしか現されていません。ですので幾らでも異なった解釈が同じ卦に適用できます。それを避ける為に事前のお話し合いとか、お呪いとかがあります。

古文書にもよく「八」の数字は出てきますが、易経も「八」で構成されています。この「八」の実体は冒頭の1-2-4-の後の八神のことで、二神が陰陽の対になっている、ウイヂニから妹アヤカシコネまでのことで、人間の思惟の力動因のことです。

古代においてこの力動因が発見された御蔭で、大和が世界の中心となって現代の歴史が計画創造された、経綸と言われるものの実相です。その運用実行者がスメラミコトで、現代まで家系と物象だけを残しています。

「八」は別の言葉でいえばあいうえお五十音図の両側母音行を除いた八音のことで、ア段でいえば、学校で教わるのはあ・カサタナハマヤラ・わ、ですが、皇室では、タカマハラナヤサ、です。要するに心の働きの事です。

こうして支那の国には宗教の代わりに儒教の基となる概念が与えられ、五経の筆頭になりました。

これらのことから言えることは、人間の物質文明の繁栄を目指した社会建設の始めには、宗教を打ち立てて置くことを命じた人がいるということです。

今後の物質文明の創造に伴う人の悲惨悲嘆からの意気消沈や憂いを払い、明日の活力を保証し、あるいは、間違っていてもやりすぎてしまっても、解釈によって正当化できる概念を用意して置いた誰かがいたということです。

このように前もって下準備がなされていたので、その敷かれた線に沿って人間文明が創造発展してきました。

神を作っておいて人々の悲嘆からの意気消沈を予防し、かといって行き過ぎた時には概念操作によって破壊、殺人をも正当化をするようにしておいたのです。

歴史はあいうえお五十音図に則っていて、歴史を作ったスメラミコトとはあいうえお五十音図のことで、文明社会の今後の成り行きはあいうえお五十音図を理解したひとによって運営されていきます。

ただし、いままでの歴史はあいうえおの順でしたが、これからは、あいえおう、の順を使用する五十音図によります。

あいうえお、から、あいえおう、へは昆虫に変態があるように人類にも魂の変態が飛躍が必要です。外部的な物理的な条件はそろいつつありますが主体側のまるでそろっていません。フォトンベルトに突入すれば誰でもがシャワーを浴びるように、魂が上昇するというわけではありません。

古代にあいうえお五十音図で歴史を始めたように、あいえおう五十音図を使いこなすスメラミコトが出現しなければ変化は外見だけのことです。

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今回の話が法螺と聞こえる人は、人間のこの過去からの三千年間の精神の動きを正常に受け継いでいる人たちです。

今回の話を本当のことだと思う人たちは、これからの三千世界に係わりが出てくる人たちです。

≪アメツチ。事実の始め。≫。

行き詰まったり、気が散ったりしますと誰かのブログを覗き込みに行く事があります。

ニギハヤを解説したものを見つけました。どこに行っても、当方とは立脚点が違うので、ブログ主の意識がどのように逸脱していくかをみるだけです。全ての人が二千年の逸脱の上に乗っていますから、どうこう言う事もないので、自分に納得する為のものです。

例え間違っていても単なる個人的な問題ではありませんから、考え方見方の相違という事でもありません。

ですので、これが事実だ、とこちら側から言っても相手側から言われても、歴史が動くにはまだちょっと速いのです。事実とは人間側の受容の仕方ですから主張したところで無意味なのです。

裁判にしろ、単に物を見る単純行為にしろ、あるいは戦争にしろ、これが事実だとか、事実にもとづいてとか、というのは簡単に不正と不義と虚偽に変化するばかりか、それらが真正の正しい明らかな事実となって逆転することもあります。後はせいぜい歴史が証明するだろうなどというだけでしょう。

ニギハヤを解説したブログも、別名「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊(アマテラスクニテラスヒコアメノホアカリクシミカタマニギハヤヒノミコト)」を引いて、そこに気に入って言葉、「甕(ミカ)」、を見つけ、イメージや記憶概念に助けられて解釈を拡大し、瓶になり、亀となって、「 嫌気」を得て、「この辺で今夜はやめときましょう。」とそれなりの成果があって満足したようです。

これはこの人に限らず誰でも同じで、賛否を寄せるコメントもブログ主と変りがありません。もちろんこう書いている私自身も同類です。

誰に対しても、発言発表が間違っていても、概念の飛躍を止める事などできません。

ここでミカの真意を述べるより、同じミカを使った、皇室の儀式に壺切りの儀式があるとだけ言っておきましょう。

http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama/lecture/no219/no219.htm

さて、事実とは何かは、心において何かを了解するところに起きます。

心の外側に見ていけば、客観物象の相互作用を云々して科学的な事実ができます。それを心に引用してこれが事実だという人もいます。

言葉の客観事実として、ミカ、かめ、瓶、亀、、、、と言うように続きます。これを歴史的、文献的に整理運用していけば、立派なミカの学問事実となります。

またそれとは別に、心の内側に見ていく事実があります。これがここでの曲者です、というより、人にまとい付いた諸悪の根源とも、偉大な正義の根源ともなるものです。

ミカという古語を心の中にまで戻す工作が行なわれます。これを解明しないと真相は示されませんが、知らなくとも歴史文明は創造されてきましたから、知らなくてはならないということでもありません。

返って知らない方が、ああだ、こうだ、そうじゃない、こうじゃない、と精神文明の発展に寄与するものです。最初から知ってしまっていたら何も起こらない静かな日々が続くようなものです。

しかし、知らないまま総てが忘れられてしまっては、元も子もなくなります。収集された文献も、過去遺産も、文化も総て台無しになってしまいます。そこでどうしても、やはり、真相は出なくてはならないのです。

「 知らしてはならず、知らさいでもならず、神は辛いぞよ」(大本お筆先)

戦前まではこのように神が逡巡する時代なのです。

これはいつの時代にも言われる言葉ではありません。中世ならば日蓮のように知ってはいても、「自分の教えなど太陽の出た後の蝋燭でしかない」と、人間側が引っ込みます。

現代は人間がこれ以上引っ込めないところまで引っ込みました。その象徴は天皇の人間宣言で、古事記は神話だとしてしまったことです。

こうなった以上は、幾らどんな偉い神であろうと、八百万いようと、神々に出る幕がないのです。

後に残っているのは、人間天皇であり、われわれ人間だけです。

ところが、人間が人間に語るには真実を語るだけでは意味がないのは、すでに見てきましたし、日常誰でも納得していることです。

もう人間しかいないのに、人が人に真実を持って語る力が無いのです。真実を語っているのに、自由に反対され受け入れられないのです。

それでも未だに神を拝んでるのなら、拝むの語源である、おろがむ=愚か者が神がむ、そのものです。

あるいは、古事記を神話としたのは間違っていた、本当はこうであると訂正するしかありません。しかし、天皇は一度しか発言しません。ですので、訂正は効かないのです。

そのような時にでも古事記は心の運用原理で、心の鏡ですから解答は用意されています。

『 次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、

(39) 神直毘(かむなほひ)の神。

(40) 次に大直毘(おほなほひ)の神。

(41) 次に伊豆能売(いずのめ)。』

伊豆能売(いずのめ)とは、みいずの眼(芽)ということで、禍を直す権能を持ち直しなさいとなります。

そうすれば、芽(眼)が出て、花が咲き誇るでしょうと、古事記は続けます。

そうして、花が咲き誇った神が出てくるとちょうど百になります。

黄泉の国から返る時、桃の子に助けられました。桃とは百の原理のこと、古事記の冒頭の百神のことです。正月には餅をつき食べます。餅とは百道、百の道、百の原理、あいうえおの言霊要素五十と運用要素五十の原理のことです。鏡餅は言霊要素五十と運用要素五十の二段で百(も)道(ち)になります。心の鏡です。

『 ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、

(48)天照らす大御神。』

『 次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、

(49) 月読(つくよみ)の命。』

『 次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、

(50) 建速須佐の男の命。』

みいずを戴くことにより、

『左、ひたり、霊足り』となって、

『右、みきり、実切り』言霊実体を運用し、、

『鼻、はな、花咲く』心の人間文明の開花に導かれる、というわけです。

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事実を語る始めには権威が要ります。客観事実と権威は結ばれなければ正当な主観事実となりません。

権威だけに偏った事実を選ぶと、生活、学校、社会、政治、宗教でも小さく薄い事実だけの権威がのさばるようになり、それを助長します。個人の次元でも、書いたこと喋ったことの権威への寄りかかりが、自分と相手への最後の決め手になってしまいます。論ずる内容を持ったものは総てその口です。

権威の源泉は事実などではなく、禁止命令の力の大きさです。その力が客観事象と結びつくと、真実にしたい場合にはそれが真実となるのです。恣意性がまず第一となってしまいます。

ですので、事実とは相手より強ければそれが事実となっていきます。科学的事実も同じことで相手との論争に勝てばいいのです。

とは言いましてもこれは単に知識学問次元でのことで、その他の人間次元には適応できません。フトマニ言霊学は人間の全性能次元に対応したものですから、さらに奥へ進まねばなりません。

では事実を語る始めをどこに置くのでしょうか。

アの眼を地に付ける、あめつちにあります。

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≪「神一厘の仕組み 。あめつち。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

言葉は言霊循環の法則に則って上昇循環しながら積み重なっていきます。つまり基盤となる冒頭が重要で、「アメツチ」が全部分かれば、古事記の上巻と古代神道、天皇、その儀式、日本語、日本文化、日本人の精神性も全部も分かったという事になり、そこから出発している古代世界の歴史、宗教、思想と経綸と言われる現代までの営みの奥の院が解明できる事になります。

「あめつち」はそれだけの内容を持ったものとして、天皇家によって護持されてきたものです。付随的に伝統文化、古代儀式、続く家系が残ったというものではありません。人間世界の将来を負ったものとして、無言の強制を強いられているのです。

天皇家も宮内庁も意味も分からず形だけを続けているのです。滑稽といえば滑稽、哀れといえば哀れ、神秘的といえば神秘的です。途中の歴史に何があろうと変えて来なかったのです。

天皇家などと出してしまいましたが、これを「神一厘の仕組み 」の段落で考えてみましょう。

「神一厘の仕組み 」というのは、われわれ各人、一人一人が最後の一厘ということです。誰々がということではありません。

「神一厘の仕組み 」は常に日本、あるいは世界、三千世界といった全体に対して出てきます。どんでん返しというのもあります。

つまり各人が、最後の一線を越えてみよ、ということですが、仏教や宗教で言われる悟りとか見神とかを最低条件とした、その上の次元におもむけということで、魂の人間変態をせよ、ということです。

九分九厘側からみれば、どんでん返しというのは、通常の日常生活で起きることの何かを指しています。日常生活とは言霊ウ、言霊オ、言霊アの世界の事です。

言霊ウ次元の世界は、五感感覚する欲望を充足する事、その発展した姿である、産業経済社会を指し、

言霊オ次元の世界は、経験概念知識を記憶によって操作すること、そこから学問、知識、科学が発展していき、

言霊ア次元の世界は、感情情動の世界で、そこから宗教、芸術が出てくるせかいです。

つまり言霊ウオア次元のことでこの世が満たされ、その内に埋没する事が九分九厘の完成ということです。言霊エとイの世界を等閑にしてしまうことです。

産業経済社会、学識科学とも、人間の意識を物質の富に閉じ込め、競争原理を発揮し競争心を起こして総てを収奪するか、世界ネットの網による観念でしかない金融商品を用いた世界略奪を目指しています。これはユダヤの役割で、成功するのは目前です。個人的な仕業となって現れています。

これに対して社会性を持たせようとしているのが、共産主義社会主義の影響下にある勢力ですが、すでに金融資本勢力に取り込まれています。中国は全人民が豊かになることを目指していますが、世界に対する影響力はありません。というのも、人民自身が金融資本中毒にかかって抜け出す意志を持てないからです。

世界の宗教組織は全く無力であることが明白で、何らの精神活動も誰も期待してはいません。日常生活での安心と安全を与えようとするだけで、精神活動、人間の魂の働き偉大さには口を噤んでもう手を出しません。

悟りとか見神とかは既存のものとしてありました。しかし、九分九厘の中に仕組まれたものですから、これからもどんどん出てきて、神の言葉を書くブログなどもあふれるようになるでしょうが、個人の言葉の中に引っ込まざるを得ないものです。

まもなく完了するこういった物質精神状況から、神の一厘が産まれます。

経済社会は金融資本を頂点とする世界支配が達成された後のことを知りません。世界にあるものをかき集めただけですが、その成功感に酔いしれた後の、言葉が聖書、モーゼには無いのです。何何せよ、と言われて三千年かけて世界を手にしますが、その後の仕事はありません。虚無に支配されます。

科学思想は物質原理、宇宙理論を打ち立てますが、ほんの一ミリも人間の心が分かっていないことを知り、絶望に陥るでしょう。

宗教は、世界制覇後の虚無、絶望には、自分自身を放棄することでしか対応するものがありません。

これらが、神の一厘の直前の様子です。空の理解とか悟りとかのそんな下の次元のことを指していません。アセンションだとか宇宙船だとか世界核戦争だとか、悪魔世界だとか、地球の大変動とかは、九分九厘のなかで騒ぐたわごとです。

(追加。神示では、よく災難とか攻められるとかいわれます。そのまま受け取って軍隊が攻めてくるとか言う方がいますが、これらすべて、大祓祝詞の中の国津罪、天津罪の焼き直し表現で、別に軍隊が攻め込んでくることではありません。時代的な脚色が背景にありますが、例えば、アメリカの音楽を聞くこと、イギリスの製品を買うこと、中国の文化を取り入れること等々のこと、要するに文明の交流のことを言っています。

大和日本が主体性を失くすことを心配したもので、取り入れるものは受け取り、そうならないものは理由をはっきり付けて返すといったようなことです。テレビ映画ネット等の取捨も含まれています。天変地変などは天津罪の譬喩で、例えば日本語を廃止して英語にしようとかいうものです。天津罪とは人間頭脳内の言葉の原理、即ち言霊原理の秩序を乱す形而上の罪であり、国津罪とは個人や人間社会の秩序を乱す個人的な形而下の罪。)

一人一人が最後の一厘となるというのは理想的に神が望んだことですが、実際には実現しないでしょうから、現実の実際のたった一人を一厘とする考え方もあります。その時は当然、スメラミコト一人のことです。この方さえ一人出現すれば全世界は丸く治まるのです。完璧などんでん返しです。

それが為に三千年間、形だけを保存して何も変化してこなかったのです。先程滑稽だなどと言ってしまいましたが、一般に生き死にするわれわれ日本人にもその半分は与えられています。つまり、五千年間以上変わらない大和言葉を話してきた事です。われわれは世界唯一の神国の住民です。

どのようにしてかといえば、スメラミコトもわれわれも「あめつち」を持ってというだけです。あるいは、「あ」・たかまはらなやさ・「わ」の「あ」によってです。「あ」というフトマニ言霊の原理の行使によってです。日本において「あ」(吾、我)が忘られない限り、「わ(和、輪、我)」と共に世界の最先端に実在し続けます。

古代のスメラミコトはあ・たかまらなやさ・わが心の創造原理である事を自覚使用した人ですが、われわれは無自覚です。

と、要するに、これからは、フトマニ言霊学の原理が世に出ればいいだけの話しですが、理解して解説できる人がいません。たったのこの、「あ」の一言さえ分かればいいだけなのですが、そうはいきません。

例えば、言霊だ言霊だといって「あ」を説明する人が昔からいますが、単なるアイデアと思い付きの観念に経験事象の香水を振りかけただけのものです。全然人間の精神の「あ」と「あ」の精神行為から発する全世界を説明できません。思い付きの寄せ集めになっているだけのものです。

千数百年間の努力をこんな風に言ってしまうのは失礼かと思いますが、もし失礼にあたるものを持っているなどと言う期待があれば、スメラミコトとして失格であることは明白です。せいぜい学者としての良心を傷つけられた、というぐらいのものでしょう。

何しろ一厘の仕組み話です。最後の最後のどんでん返しがそこいら辺に幾らでもころがっているのとは違います。われわれがゴソゴソ言ったところで、何かに突き刺さるということにはなりません。多くの発表されたものがありますが、総て現象次元での串焼きを刺しているだけです。

「あ」の主体は各人一人一人のことか、地球人口六十億の「あ」の主体を預かったスメラミコトかのどちらかです。その実体内容はフトマニ言霊学の使用です。というような実体の現れ方を、将来においてすると思われます。

最近は日月神示が流行で、せっかく神示が示されても、訳文が優しいので、読む人はただ流し読むだけで分かったような気になっています。多くの引用がありますが、優しい訳文に災いされて読み過ごすだけです。訳文は易しく読めればいいというものではありません。もともと内容は隠されているですから、易しくしたところで分かるようなものではありません。

さて、最後の一厘のどんでん返しとは最初のこと、始めに戻ることです。あめつちの初発の時、です。

古事記でいえば「あめつち」の「あ」のこと、神名でいえば天の御中主、島生みで言えば淡路の穂の狭別の島で、数霊でいえば「0」、ひふみよいむなやことたりでいえばたりの後の始めのヒ、等々です。二二は晴れたりの二としてもいいです。総て同じことを言っています。

これに対して別の意見があるはずですが、それはそれで結構なことです。三千年間「あ」が残って、われわれが保持してきたのですから、いいたい事はいくらでもあるでしょう。九分九厘のごたごたの中にわれわれはいるのですから、当然です。仏式で言えばそういったご縁です。

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「あ」の意識に達するのはそう簡単な事ではありません。宗教家、芸術家において少数が達しただけです。それらも単に概念知識を越えて、空を悟り、神意識と同体化したというだけで、その後が何も無いのは、どの宗教を見ても、どの芸術家をみても同じで、将来の結果を時の経過に委ね、個人の解釈の好き勝手にさせています。

もしそんな態度を個人の世界から社会に持ち込めば、混乱が起きてしまいます。教祖、開祖の教えを各人が実行しようものなら社会は目茶苦茶になります。ですので個人内で終りの無い基本目標に留まっているだけにしかなりません。

しかし、スメラミコトの「あ」とは九分九厘の、宗教家たちの獲得した最後「あ」ではありません。あ・たかまはらなやさ・わの各母音の始めの「あ(TAKAMAHARANAYASA のA)」です。それが自覚的に使用される「あ」です。

これがどういったものか、わたしには分からないし、解説されて分かっても意味のないものです。ただ、九分九厘の中にいるときの「あ」として分かり、どんでん返しの後は役立たずで捨てられて行くものらしいという事までは感じています。

伊耶那岐の大神のように、「あ」の始めを、汚きを吾は御身の禊祓せむとするのは、世界の六十億の魂を背負う自覚の覚悟の事ですから、こんなちゃちなブログを書いているわたしなどの出ることではありません。

ことに単なる知識に過ぎないものを主張するとなると、分かったとされる事共とは後天現象の一部が解けただけの事で、隠れたものの上塗りをしてさらに隠すようなものです。知識は始まってしまったことの再構成をするだけですから、始めそのものの「あ」については手がでないのです。

ではどうしましょう。

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≪日月、神示。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

ではどうしましょう、とカップ麺でもすすり、食後に眠りこけるのも一つの手です。

何故ならもともとわれわれには分からないように仕組まれているからです。ひふみ

の神さんが「まだ分からんのか」などというときがありますが、そのようにしたのは神さん側のほうですから、こちらがわは果報は寝て待てというわけです。

それでも人間側に働いてもらわないと神さんの方が困りますから、「魂をみがけよ」などと言っても無駄と知っていながら、御言葉を降ろすわけです。「神は辛いぞよ」なんて言われると神さんを介抱してあげたくもなります。

隠した裏の裏があって、分からないようになっているのなら、最初から神示など降ろさなければいいのです。わざわざ分からないものを知らせるにはそれなりの意図があるのでしょうが、もちろんそれが分かっちゃうと神さんの立場が困っちゃうから、謎々を与えておくだけにしたのでしょう。

人の旺盛な好奇心を揺さぶって謎々を解かしているわけですが、外見、形だけは解けても、実体内容は知らせないつもりである事は、みえみえです。要するに内容に関してはいくらでも、喧々諤々と勝手な意見を吐き出させて高みの見物をしているわけです。

高みの見物はこの世が目茶滅茶になるまで続けるようですが、それでも分かった者がいればさっさと世に出ていけと言っているようです。八通りに読めると言っているらしいですが、主体側の能動因の八通りを指していますから、それが出揃うのを待つのでしょうか。

ひふみ神示に限らず、古文書、偽書と呼ばれる古文献、古事記、御告げ、神道、儀式、等々のその真の内容はフトマニ言霊のことで、その真偽が掴めないまま皇統の記録にしてしまったものもあります。人間の秘密とは、日本、世界全部ひっくるめてフトマニ言霊学を紐解けば良いというところまでは分かりました。

現状ではこの数千年間喧々諤々ですが、フトマニ言霊学しかないということを認識した人は日増しに増えています。(一年間に二三人でしょうが。)わたしみたいに何も知らないものでも、ちょっとかじれば、宗教だとか、悟りだとか、ひふみ神示だとかに平気で口を出せるくらいの学問です。違う主張からみれば目茶苦茶ですが、それは、この世ではおあいこというもの。

ひふみ神示は全編を読んだわけでも無く、ネットで読むだけですが、どこをめくっても、見ただけでも、フトマニ言霊学で読んでいけば、この神さんも古事記の上巻のことを知らせたいのが良く分かります。

今回のシリーズの始めに書いた、二二は晴れたり日本晴れの、二二を「息吹(ふ)示(じ)」と読んだのですが、先程、神示もそう読んでいるのを「地つ巻き34」に見つけました。わたしのやっていることも結構いけているようです。(と、自画自賛)

となると、今度は、神とは一人一人の各人のこと、人間であるとわたしは言っていますから、それを神示に見いだしたく思うようになりました。

そんなことをすると、それを神示に確認した後、天明に強制した神とは何かを解かねばならなくなります。人間とは別に神がいるじゃないかとなりますが、勝算は無いものの、やはりその神さんは現実の人間であるという根拠らしきものはあります。

言霊学がまだ理解されたわけではないので、そんな事をやっても笑われるだけですが、神さんがやきもきする時代ですから、もう誰かが口にしているかもしれません。実際、いろんなところで、いろんな神との交流体験、霊魂との話はありますので、それらの神さんも実際の人間である事を証明しちゃえばいいわけです。

特別に何々の神、何々心霊としたって、どういうものか経験者自身が説明できないのですから、それらのことも本当は人間なんだよ、と言ってもおかしくないようにすればいいのです。でもこれはまだまだずっと後の事。

でも、古事記にずらずらと出てくる神さんたちは、われわれ一人一人の人間の事ですから、そのことを書くのが今回のテーマです。古事記の上巻は最初から「神」という文字を取って読んでも問題ありません。もともと神の物語ではありませんから、神などという名前が付いていると返ってややこしくなります。

またもう一つ注意しなくてはならないのは、ずらずら出てくる神さんたちは人間だといっても、一人一人に対応した神・人間という事ではありません。神の名前が八百万あれば個人が八百万いるのではありません。

わたしはここに一人、あなたもそこに一人、八百万の神とは一人の人の事を指しています。その一人の人は八百万語、八百万の方面から解説、説明され、その八百万によって説明される一人の人が八百万、60億いるということです。

感じ方、考え方、決心の仕方はそれぞれ違いますが、その違いが分かることは、その人もその違いの一つだからです。八百万の違いが分かれば、その人一人で八百万を背負っているのです。八百万の神とはそういった各人のことです。

こう書くと算数で考えて、あることを説明するのに始めのAで、ついでBで、次C、と要素を増やして行って八百万にまで豊かになるのが、八百万のことと思えるかもしれません。

新しい要素が足していかれ豊かになるって行くというのは、物質客体側の用件です。一円が八百万枚で八百万です。ところがそこにあるのは、一円で、一円をいくら勘定しても、一一一一一円です。

神示ではこういっています。

「扶桑の巻

一はいくら集めても一であるぞ、判らんものいくら集めても判らん道理、二は二、三は三であるぞ、一を二つ集めても二にはならんぞ、人民 大変な取違いを致して居るぞと申してあろうがな、 〇 (レイ)がもとぢゃ、 一(レイ)がもとぢゃ、結びぢゃ弥栄ぢゃ、よく心得なされよ。世の元、 〇 の始めから一と現われるまでは を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、」

一円が二円になるのは、一円がまず記憶に残りその上に新たな一が乗ります。三になる時は、二が記憶からでてきてその上に一が乗ります。二という以前に二はなく、三という以前に三はないのです。それぞれ前段の一、二の後の出来事です。

その記憶の繰り返しによって数が増えていきます。 「〇 (レイ)」というのが記憶部分です。

ですから「一」はいつでも「一」で、その正体、その今後も「一」でしかなく、「一」とは「判らんもの」というわけです。これが物質の成り立ちと運動と精神の成り立ち運動の根本的な相違です。

それでも、一円が二円になり、三四、、、、となっていきます。ところが良くみると、単体での二円は存在しません。三円四円、、、、、というひとつの単位は無いのです。あるのは観念上、概念、記憶の中にだけです。

ここから客体側には一円しかありませんが、勘定している主体側には、勘定している一円と勘定されて記憶となった一円の二つの存在ができていきます。これが剖判と呼ばれるもので、細胞分裂に例えられるものです。

ついでに、「何万回もくりかえす」というのは、言霊循環のことです。算数の頭で言えば一の次は二で、三になり、四、、、と続きます。あるいは小数点を付けて0.1なり0.2なり増やしていくわけですが、心の動きは違うぞよというわけです。古事記の上巻も日月神示も基本的にこの秘密を明かす為にあるものです。

日月神示も手を変え品を変え、あれやこれやと、神さんは辛い思いをしながら、分かるものには分かるだろうとこのことを説明していくものですが、その原理教科書はなんといっても古事記の上巻です。

二二は〇のことで、フジのことで、その実体は御中主の神です。何か神示みたいな書き方ですね。神示に気を取られていては、原理教科書である古事記がおろそかになりがちです。そろそろ戻ります。

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≪記憶の以前。≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

自分の言葉が出てくる以前、ということは存在しています。

アのメが地に着く以前のことです。

天地あめつちの初発の時、と書いてあります。天地あめつちの初発の時、と書いてあるものを見ます。天地あめつちの初発の時、と読みます。天地あめつちの初発の時、と発音します。天地あめつちの初発の時、と聞きます。天地あめつちの初発の時、と了解します。天地あめつちの初発の時、が記憶されます。その後、天地あめつちの初発の時、はどうなったのか、どこへ行ったのか、知りません。それでも必要な時にまたでてきます。

古事記の冒頭は何だったかなと思う時、まず始めに、記憶に働きかける言葉になる以前の、わけの判らない時空間次元があり、そこにに意識が赴きます。記憶に直接働きかけるようにみえますが、それ以前があります。

記憶は人の大事な性能ですが、記憶とは何かのはっきりした回答は見たことがありません。無門関には記憶をテーマにした公案がありますが、回答できる坊主がいません。

現代は多くの記憶媒体が発達して、また脳内科学も進歩しているので、そういった方面からの解説が多い。記憶とは神経回路といわれ、脳の仕組みから説明されていますが、物理科学の説明でしかなく、記憶の働きは脳内化学物質の電気的な作用反作用になっています。

疑問を持つ心、ものごとの説明をする心、納得する心、心と記憶の関係は現代では未だに解かれていません。記憶を記憶されたもの、記憶するものがあるとして始めると、記憶以前にあるものとの関係が出てきません。実際は記憶以前のものがあるという了解の記憶の上に、新しい記憶が加わります。

昔、非常に珍しい病気のニュースを見たことがあります。頭も身体も考えることも普通の人です。ところがたまに起きることですが、どこかに行こうと歩いている途中で、踵を地に付けることができなくなります。あげた右足を地に付けようとしますが、地に付けられず前進できなくなります。同じ足を出しては戻し出しては戻しで、映画でよくふざけて見せる繰り返しの場面がありますが、あんな感じです。足を付けると穴に落ちるとかいう不安などの精神的要素はありません。ものを掴むときにもあります。そこにあるものを掴もうとしますが、手を出しては引っ込めを永遠に繰り返すようなことをします。最後は、医学的に脳内のある部分への外科手術のようなことで治りました。

『物質と記憶』というのがフランスの哲学者ベルクソンの著書にあるのを思いだしました。古事記の上巻は哲学者思想家宗教家が寄ってたかって突つこうと、世界に比類のない至高の心の原理書ですから、彼にかぎらず世界の思想家たちがどの地点にいるかを見なければならないのですが、まさかこの貧弱なわたしにその役目をさせるわけではないでしょう。

フトマニ言霊学から早く全世界の思想、宗教、哲学を総括してくれる人が出ないと、隠されたことの一部を知って後は秘密だと言い続けなければならない。わたしのように小さいことを見つけていい気になって書く楽しみなど、本当にケチな根性丸出しなので自分でも何とかしたいけれど、なかなか高天原に昇るのは大変なことです。

高天原の思想は誰にでも平等に与えられているのだけど、この三千年の間に、あまりにも多くのものがでてきてしまって、比較を絶する最高峰も相対の中に埋没してしまっています。相対関係の中にいると、次元の違う最高峰も相対的に解釈されます。まさに古事記の上巻がそうです。

天皇の権威付けだとか、歴史以前の神話だとか、国家の成り立ちだとか、世界から支那朝鮮から伝わった話だとかになります。相対関係の中にいるときには、そういった類のごたごたから抜け出ることなど思いも寄らず、そのなかで最上最良を目指して行くことが今までの歴史文明を築いてきた人たちのやることです。そのための勲章も褒美も沢山用意されています。それらも単に相対的だから輝いているのです。

しかしひとたび自分のことを内側に見ていくと、事情は一転するのです。百八度廻転するのではなく違った次元にいきます。

次元というのはアセンションでの意識レベル上昇次元とか、数学、空間時間でいう次元の、人間とは関係ないあっち側の世界のことではありません。2012年のアセンションというのは役に立たない宗教を自覚した代わりに、宗教に変わって出てきたものですが、相変わらず人類の魂も自分の魂も、行き着く先の自覚を一切持ち合わせていません。

人は心の家に住んでいます。家(いえ)というのは五重(いえ)のことで心の五重の家のことです。それが五十音図の母音側(主体)としてアイウエオになっています。その五重の一つ一つを次元といい、人には五次元しかありません。次元の上昇もなければ下降もありません。ましてや、十次元十一次元、、、がある、神霊位があるなどというのは、神話を作る人間の想話作用と同じものですから、現代人は何時まで経っても相手を批判する構造と、自己主張していく構造が同じであのに気付きません。

2012年の次は何次元にさせるつもりなのでしょうか。その次の次あたりになれば、人間のレベルが上昇して(?)五十三次元になって、念力で宇宙旅行ができるようになるというのでしょうか。人間というのは始めから終りまで五次元でしかありません。アイウエオの五次元のことです。この真理を見つけたからこそ古代において大和が世界政朝になって、多くの偉人を聖人を排出したのです。

概念の飛躍飛翔は自由ですが、知識次元でのことに過ぎません。勝手気ままな概念を地に着けるというわけです。この場合はオの眼を地に着けるですが、あめつち(天地)はアの眼を地に着けるですから、オ(言霊オ)の次元とは違ったア(言霊ア)の次元の使用法があるということです。

アには二重の意味があり、人間の性能次元では五つある内のその一つを成しているア、もう一つは人間の性能を一つのものとしてとらえたときのアで、この場合は五次元全体をアとします。冒頭はこのアです。

この五つの次元を、イで代表されると、イのメが地に付く、になって、イの地につく、いつく、五作る、になり、いつくは神に対する態度のことです。先程の経験記憶事象(言霊オ)から神に「いつく」ことは、おろがむ、おがむ(拝む)で、オでかむがむ、現代人の三千年前から続いている神への態度です。

アの芽は、地につく主体の動作と、地についている主体の状態との、二方向から見ていくことができます。

ということで、今回はここまで。

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≪支那の天地≫。【 天地の初発(はじめ)の時、】

≪あめつち≫というのは何らかの実体を指した表現です。三千年間の歴史的な理解に依れば、この世の宇宙世界のことです。古事記の筆者も読者をその方向へ誘うように仕向けています。

しかし、ひとたび、あめつちが心の世界のことを表現していると分かった時には、大変なことが起きていることに気が付きます。上巻のどの部分、どの言葉、どの表現を取ってきても、完璧に心のことを表現している一貫性に連なっていることが分かるように書かれています。

あめつちをこの世の客体世界として理解していると、あれはあれ、これはこれと、一つ一つがバラバラです。それがために、あちこちで見つかる言葉は、この世のこと、歴史のこと、比較しようとする神話のこと、外部からの影響のこと、等々現実との対比を探している人には、分けの分からない譬喩や象徴であるとするしか理解できないようになっています。

言葉の意義不明が今でもたくさんあります。類推や比較や外国から来たものとされたのをあわせたらそれこそ大多数になってしまい、大和言葉そのものとして理解されたものはほんの少数でしょう。

それでも探し出した部分が比較されて、似ているところから、ただちに発見が主張され、類推の形をとっているとはいえ、真理真実の発見のように扱っていきます。これが今までの古事記解読の歴史となっていました。

「天地」などと漢字で書いてあれば誰でも、空の向こうの宇宙とかこの踏みしめている地上のことと思わざるえません。では誰が思うのかといえば、「天地」という漢字を知っている人がで、「天地」の意味を受け取っている人たちです。「天地」という知識があって、その意味から古事記の思想を類推してだけなのですが、ひとたび類推にしろその主張が成り立てば、意見は一人歩きしていきます。

こうして支那の国で始まった「天地」の理解から出発して、何でも当てはめていくことが始まりました。支那の国でいう「天地」以前の意味も意義もないとしていきました。

ところが面白いことというか、数千年を見据えた超知性的な眼というか、古代の人たちには到底かなわないというか、「天地」という単語が最初にあったのではなく、「阿米都知(あめつち)」という言葉が大昔からあって、それに「天地」を該当させただけであると、宣長が文献の証拠付きで発表しました。

そこで、「阿・米・都・知 (あめつち)」が「天地」となったことは分かりましたので、では「阿米都知(あめつち)」とはなにかを解くはずが、「阿米都知」は天地のことであるから、「阿米都知(あめつち)」は「天地(あめつち)」のことであるということになって、千年以上が過ぎたのです。

現代のわれわれは国語辞典を引いて済ましてしまいますから、そこで「天地」にはあめつちという読み方があると知ってそれで終りです。本当は逆に、「あめつち」に「天地」という振り漢字当て漢字をしてあるなどと思ってもみません。支那中国文化を取捨した主体である大和日本がいることを忘れていったのです。

問題は、あめつちのことになりますが、あめつちを「天地」の読み方の一つ、とすればそれ以上はなにも出てきません。せいぜい古代中国思想と「天地」を付き合わせるくらいです。そして今まではその見解だけがいろいろ出ていました。

「阿米都知(あめつち)・阿米都之(あめつし)」そのものを見ていかなくてはならないのですが、古事記伝で宣長がその意味は分からないと匙を投げてしまいました。その後の学者も宣長を見習っています。

「阿米都知(あめつち)」を「天地」にしたのはそこに似たものがあったからです。「阿米都知(あめつち)」の真の意味を残しながら、誤解に導くに都合のよい言葉でした。

何故最初から真のことを言わないのか、真実を発表せず、隠さねばならないのかは、世界の歴史の中での、真理を見いだした大和の負った経綸にあることで、現代のわれわれからの見解など何の意味もないものです。

これと同様なことは日常でも常にあること見られることで、古代大和の時代はそういった状況であったというだけです。例えば母親は自分の子供のウンチおしっこの始末をします。赤ちゃんのすることできることを知っていますが、どこのどの母親が赤ん坊にウンチおしっこの真実を告げて、自分と同じようにしろなどと言うでしょうか。

古代大和のフトマニ言霊原理を発見した聖人たちはそのような母親であったのです。

人類全体の精神の時間の流れを計ることを知っていたのです。単に大和日本での物語ではありません。世界全体が視野に入っていました。

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