今とは何か

400 今とは何か・イマの言霊原理図

○ イの間の図

○ 今とは

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イマ ココ の言霊原理図 ( 菊花紋 )

宇比地邇(言霊チ)の神

【チ】

天の御中主の神 ウ

↑ -- ウ -- ↑

於母陀流(言霊ヒ)の神 | /

【ヒ】 | 【ヒ】

高御産巣日の神 ア-ワ 神産巣日の神 | ア-ワ 神産巣日の神

↑ | /

\ | /

妹阿夜訶志古泥(言霊ニ)の神 | 妹阿夜訶志古泥(言霊ニ)の神

【ニ】 | 【ニ】

↓ | ↓

角杙(言霊キ)の神 ⇒ イ ヰ イ ⇒ 意富斗能地(言霊シ)の神

天の常立の神 オ 伊耶那岐神 イ 国の常立の神 エ

⇒【キ←→ミ】→-ヲ-オ-→---⇒-ヰ 渦○ ヰ-⇒---→-エ-ヱ-→【シ←→リ】⇒

宇摩志阿斯訶備比古遅の神 ヲ 伊耶那美神 ヰ 豊雲野の神 ヱ

妹活杙(言霊ミ)の神 ⇒ イ ヰ イ ⇒ 妹大斗乃弁(言霊リ)の神

↑ | ↑

【ニ】 | 【ニ】

妹阿夜訶志古泥(言霊ニ)の神 | \

/ | \

ア-ワ | ア-ワ

【ヒ】 | 【ヒ】

/ | 於母陀流(言霊ヒ)の神

↓ -- ウ -- ↓

天の御中主の神 ウ

→ 【イ】 →

妹須比智邇(言霊イ)の神

時間の流れ(図全体が今)

⇒ ⇒ ⇒ (過去-今) ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ (今-今) ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ (今-未来) ⇒ ⇒

十六菊花弁

チイキミシリヒニ

ウオヲアワエヱ

イヰ

イ・ヰ の今という一点に十六神(十六要素)が揃っているのが「今」=イマ・イの間

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イマ ココ の言霊原理図 この図全体が今(イマ・イの間)です。

◎ 天津管麻の御柱 ◎

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| |

宇比地邇(言霊チ)の神 ∧ |

| 高御産巣日の神ア |

| ∨ 妹須比智邇(言霊イ)の神

| |

| |---------------------| |

| | | |

角杙(言霊キ)の神 ∧ | |

| | 天の常立の神 オ | |

| | ∨ 妹活杙(言霊ミ)の神

| | | |

| | |---------------| | |

| | | | | |

意富斗能地(言霊シ)の神 ∧ | | |

| | | 天の御中主の神 ウ | | |

| | | ∨ 妹大斗乃弁(言霊リ)の神

| | | | | |

| | | |----------| | | |

| | | | | | | |

於母陀流(言霊ヒ)の神 ∧ | | | |

| | | | 国の常立の神 エ | | | |

| | | | ∨ | | | |

| | | | 妹阿夜訶志古泥(言霊ニ)の神

| | | | | | | |

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⇒ 人の創造意志のいのちの弾み、いのちのうねり。 ⇒

いとなみ いきさま

伊耶那岐神 イ

⇒ ⇒ (過去-今) ⇒ ⇒ (今 ◎ 今) ⇒ ⇒ (今-未来) ⇒ ⇒

伊耶那美神 ヰ

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⇒ いのちのうなり、ひびく基底音。 時間の流れ ⇒

ありさま 実在

この図全体が イマ(今)

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天 地

あめつち

あ め つ ち

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吾の 眼を 付けて 地に成す

吾の 眼の 見地に立って 地に成す

吾の 眼が 付いて 地に成る

吾の 眼が 付いて 地に実を結ぶ

私の 意識が 働いて 相手対象に成る

吾の 眼が 付いて 智に成る

私の 意識を 働かせて 現象と成す

私の 意識を 働かせて 智慧と成す

○○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○○

言霊学の先天原理構造。 あまついわさか(天津磐境)。

チ宇比地邇(うひぢに)の神

オ天の常立(とこたち)の神< イ妹須比智邇(いもすひぢに)の神

ア高御産巣日(たかみむすび)の神< >イ伊耶那岐(いざなぎ)の神

エ国の常立(とこたち)の神< キ角杙(つのぐひ)の神

ミ妹活杙(いくぐひ)の神

ウ天の御中主(みなかぬし)の神。<

シ意富斗能地(おほとのぢ)の神

ヲ宇摩志阿斯訶備比古遅の神< リ妹大斗乃弁(おほとのべ)の神

ワ神産巣日(かみむすび)の神< >ヰ妹伊耶那美(み)の神

ヱ豊雲野(とよくも)の神 < ヒ於母陀流(おもだる)の神

ニ妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神

↓ (その結論に到達する過程である禊祓(みそぎはらい)

その理想の精神構造・あまつひもろぎ・(天津神籬)

「ひもろぎ」とは霊諸招の意

霊(ひ)とは言霊であり、諸(もろ)とはその言霊のすべてを意味し、招(おぎ)とはそれ等すべての言霊を一つの音図の中に置き足らわして得る人間精神の最高調和の構造と言った意味であります。と同時にまた、霊とはこの地球上に於いて生産され、その内容が多くの人々の承認を得るよう主張する一切の文化の内容の事でもあります。天津神籬と呼ばれ、またの名、天津太祝詞(ふとのりと)と称せられる精神構造の立場に立つ時、それ等地球上に於て主張される文化活動のすべてを一つの取りこぼしもなく取り上げ(摂取)、それに世界人類文明を創造するため役割を担わせ、生命を与えて行く(不捨)事が出来る人間の最高精神構造の意でもあります。

○○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○○

まず、吾の眼(わたしの心)が、

先天にすでに用意されています。

そこで先天の働きがわたしに、「おさめ固め成せ」と、

汝の心の動因を発揮せよと、活動を促し誘ってきます。

これを、

【天地・あめつち・吾の眼が付いて地に成る】

といいます。

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○ 心の力動韻は チイキミシリヒニ の八つです。

自我の成立 = 名前をつけること

(イ--意思の発動)

-----

チ) 宇比地邇(うひぢに)の神。【ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)】

(ウの性質)全体性 今-今。 いとなみ、働き。

精神宇宙全体がそのまま現象発現に向って動き出す端緒の力動韻

宇は地と比べて近い。天は地と比べて近い。吾の眼の全体感はそのまま相手対象に向ういとなみ・働きをする。

チ) 自我の成立を目指す胎動が始まり、

-----

イ) 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。【以ちて、】(や行のイ)

(ウの性質) 全体性。 今-今。なりさま、実体

動き出した力動が持続する韻

すべからく智に比ぶるに近かるべし。智による選択に依らずとも相手対象のなりさまと成る。智慧の選択に比べることなくそのまま持続すべし。

イ) その働きが持続していき、

-----

キ) 角杙(つのぐひ)の神。【伊耶那岐の命・】

(オの性質)掻き進める働き。過去-今。 いとなみ、働き。体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻

立てた規範をもって、自分の心の中にあるものを角を出して角の先で、その運用に合うように相手対象他から掻きくくって自分の方へ引き寄せるいとなみ、働き。

キ) 自我の働きいとなみ、主体側と

-----

ミ) 妹活杙(いくぐひ)の神。【 伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、】

(ヲの性質) 掻き集める。過去-今。なりさま、実体。

精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとし、自分からその方へ近づいて行って捕らえてくっ付く力動韻。

釣りあげた生きた魚をてなづけるように立てた規範に相手対象を適合させるようななりさまを探す働き。

ミ) 自我の実体、客体側なりさまに剖判して、

-----

シ) 意富斗能地(おほとのぢ)の神。 【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め 】

(エの性質) 拡がりの保存収縮。今-未来。いとなみ、働き。

精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻

大いなる量りの働きの地。選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働き。

シ) 剖判されたギミ(自己)がそのまま目的結果となり、実在世界の働き・実体と成る事を目指して、

-----

リ) 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 【成せ」と、】

(ヱの性質)保存収縮の拡がり。 今-未来。なりさま、実体。

ある精神内容が宇宙の拡がりに向って螺旋状に発展拡大して行く力動韻

大いなる量りのわきまえ。選択識別されたなりさまが繰り返し述べられるような働き。

リ) それぞれが事実として確認されるように(八父韻の働きで)、

-----

ヒ) 於母陀流(おもだる)の神。 【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、】

(アの性質)火花の先端にて、表面性。過去-今-全体。 いとなみ、働き。

精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻

意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとする働き

ヒ) ギ・ミの表面に指示される言葉を受け、

-----

ニ) 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 【言依さしたまひき。】

(ワの性質)火花の先端にて、表面性。過去-今-全体。なりさま、実体。

物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻

心の深部(夜)のなりさまの恐れおおさがもの事の原因となるように煮詰まる働き。

ニ) その表現されたものを花開かせる行動の名目とします。

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今現在ある姿の原理規範。

例えば机の上でリンゴを転がします。父韻というのはこの転がりを四つの陰陽で語ることになります。

一、転がるリンゴの 今現在ある姿の 直接性の全体の陰陽の視点。(ウ・ウ。チ・イ。)

二、転がるリンゴの 今現在ある姿の 過去から今になっている陰陽の視点。(オ・ヲ。キ・ミ。)

三、転がるリンゴの 今現在ある姿の 今から未来に向かう陰陽の視点。(エ・ヱ。シ・リ。)

四、転がるリンゴの 今現在ある姿の 表層か中心に向かう陰陽の視点。(ア・ワ。ヒ・ニ。)

五、ここに意思が加わり、

0(れい)、ここにレイ(霊)の先天があります。

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(イ--意思の発動)

チ) 自我の成立を目指す胎動が始まり、 チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)

イ) その働きが持続していき、 イ--以ちて、(や行の イ)

キ) 自我の働きいとなみ、主体側と キ--伊耶那岐の命

ミ) 自我の実体、客体側なりさまに剖判して、 ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、

シ) 剖判されたギミ(自己)がそのまま目的結果となり、実在世界の働き・実体と成る事を目指して、

シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め

リ) それぞれが事実として確認されるように、(八父韻の働きで) リ--成せ」と、

ヒ) ギ・ミの表面に指示される言葉を受け、 ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、

ニ) その表現されたものを花開かせる行動の名目とします。 ニ--言依さしたまひき。

(ヰ--意思の帰還)

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○ 「シ」への経過で肝要なことは、「チ」の胎動が持続して「イ」、そこで「キ・ミ」に剖判していることです。

そして「シ」で結果となる実在世界を目指して、「リ」の父韻で、言葉を用いて「ヒ」、花開かせる名目「ニ」にします。

○ この並びは古事記冒頭の並び(1-2-4-8-2)と同じになっています。

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○ チイキミシリヒニの動き。

「ウ」次元での父韻の配列。

○・キシチニヒミイリ・○

あ・カサタナハマヤラ・わ

「オ」次元での父韻の配列。

○・キチミヒシミイリ・○

あ・かたまはさなやら・わ

「ア」次元での父韻の配列。

イ・チキリヒシニイミ・○

あ・たからはさなやま・わ

「エ」次元での父韻の配列。

イ・チキミヒリニイシ・ヰ

あ・たかまはらなやさ・わ

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「みとる」と「ちぎる」=今の「イ」の一瞬とは下記の八つの統合体のこと、

を原理的に述べると、冒頭にある通り、

宇比地邇(うひぢに)の神(言霊チ)の、今現在の全体が出現して、

次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神(言霊イ)の、今-今の全体が持続していき、

次に角杙(つのぐひ)の神(言霊キ)の、持続に過去全体が生じて過去-今になり、

次に妹活杙(いくぐひ)の神(言霊ミ)の、過去に結びついてそれが過去-今のミになります。

ここまでなら今有るもの・有ったものを現出させることになりますが、よくみると、今有る有ったものは、これから現出するものとはなっていません。過去-未来への進行形がこれからできていくという形をまだとっていません。

今までの言葉を使うなら、「ミ」ができましたが、まだ「ト」るまでに至っていないのです。そこで、

次に意富斗能地(おほとのぢ)の神(言霊シ)の、今-未来の内向する方向と、

次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神(言霊リ)の、今-未来の外向する方向に選択し、

次に於母陀流(おもだる)の神(言霊ヒ)の、今の-全体の開く心情心情と、

次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神(言霊ニ)、今-全体の煮詰まる心情感情になります。

401 いまここ。イの間九の子。

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01。時間のパラドックス。今とは。

「現在」とは何かと問う方が聞き取りやすいかもしれませんが、「いま(今)」という言葉が太古よりあって、人とのつながりを非常によく現しているのでこちらを使用します。

・問題提起

今は過去現在未来の時間の流れの中で捕えられてはいますが、その流れそのものを説明したものは稀です。今を捕えるのに場所の概念が顔を出しますから、今もそれに応じて時間的な定在の性格を与えられてしまいます。

そのため今とは、一般に過去や未来と対になる概念になってしまい、あっちとむこうにあるものに対する今になっています。あっちとむこうとこっちは、離ればなれで、これを時間の流れに引き込まないと、つながりができませんので、ここに記憶が出てきて、仲立ちさせられていきます。

----引用。----------------------

たとえば、われわれは往々にして、昔あんなことがあったなあ、今はこうだけど、なんて言って悦に入ってるわけだが、ベルクソンが言うには、われわれの今この瞬間についての認識は、過去われわれが体験してきたことに支配されているのだ。目の前にあるコップをわれわれが見たとき、それはコップを見るというより、昔コップを見た体験を思い出しているにすぎない。

・ベルクソンにとって、持続とは記憶であり、現在は過去を自分のなかに保存し、そのイメージを蓄積する。過去の現在化は飛躍によって行われる。その際、言語は記憶のなかに溶け込んでおり、イメージとなっている。だが、ジャック・ラカンの考えによると、人間が生きる、具体的に経験する時間というものは言語によってつくり出されるものとみなされている。

--------------引用ここまで。------------

これに対して東洋では、「精気神」の存在を前提にして今の活動が開始されていきます。

「精気神は、生命活動の根本を示しています。「精」は人体を構成する物質基礎で、「気」は生命活動の原動力(エネルギー)を表し、「神」はすべての生命活動の統率者(こころ)を意味しています。 神、気、精は、天地と同じ根元を有し、万物と同じ実体を有する。 それらを得ると生れ、それらを失うと死ぬ。」(ここも引用)

・時間のパラドックス

「いま」は動いているか止まっているのかで、昔からいろんなことが言われています。

今は時間の中に置かれ、時の流れ持続する性質をあたえられていますが、今が持続する構造が解明されたことはありません。ですので、兎は亀を追い越せない、飛矢は静止している、等のパラドックスに、経験的には簡単に反論できても、精神思考上の決定的な反論が見当たりません。フトマニ学はこれをうまく解決して、今を上手に説明できるでしょうか。

・文章は単音

わたしたちは言葉を使用して会話が通用しているわけですが、言葉の単位は単音です。発音された単音と次の単音の間には時間的にも空間的にも無、闇、無地、真空と言うような、単音と単音をつなぐ間隙があります。

ゼノンのように言えば、「複数の言葉、文章は単音である」、といえます。

しかし、これもゼノンと同じように、書かれ、発音したものを提起されれば、文章は繋がっていない、単音であるということになってしまいますが、普通の経験は、ちゃんと繋がった一連の言葉、文章を示す事ができます。

何故このようなどさくさが起きるのか、それを説明する方法が見つかりません。ここでも同様に記憶が出てきて、仲介役をさせられます。当然その記憶の働きを求められますが、内容は未だに誰も話す事ができません。

現実に言葉も文章も今も、繋がっているのですから、パラドックスを受け入れる頭の方がおかしいのですが、頭も自然に受け入れるのですから、頭の働きは正常です。

さあ、今をやっつけに出かけましょう。

過去現在未来の三世を瞬時に含む、言葉の秘密を解明しにいきましょう。

皆さんの参加を期待しています。

02。外国語の今。裏合い。今とは。

・今の開始以前。

今の開始以前を問うものです。

今が今出来たとしても、その今ができる条件なり状況なりがありました。その今はその今の以前の状態から、まさにその今となって現われたのです。

しかし、今の以前には今など無いのに、その今というのはおかしな事です。

しかし、今と言えるのですから今があるのです。

しかし、無いのにあるというのはおかしい、、、、、と続きます。

この悪魔の連鎖を概念でなく現実に断ち切り、実在通りに述べなくてはなりません。

もちろん言葉よって述べるのですが、ここにおもしろい事があります。

今は英語では now です。ドイツ語では jetzt 、フランス語では maintenant です。例えばフランス語で今と言うと、マントノン になりますが、発音している間に今がどこかへ行ってしまうくらいに長い発音です。

今が瞬時に過去現在未来を包含している事は誰にも感じられていますが、はたしてフランス人に今っていうものがあるのかどうか疑うくらい長い言葉です。英語などで、ナウナウナウ、などと言われると、何だよって何だよ、と言い返したくなります。

物事を説明するのに用いられる言語が、物事に反しているようなら、正確な説明は出来ないでしょう。そこでは、言葉に込められ規定された概念、約束された意味内容に新しいものを追加する、そういった方面から帰納的に演繹的に分析総合されていくしかないでしょう。なぜなら現実を指し示す言葉はあっても、現実の内容とその動きをそのまま伝える実体を持たないからです。

それに反して大和の日本語はどうなっていでしょうか。今まで今今と平気で使っていますが、もちろん何の疑問も無く、今という言葉の発明者創造主の事など知ろうともしないで使用しています。日本に生まれて、日本語の環境に育ってしまっていますから、誰のものかも知らない大和の日本語を勝手に自分のものとして取り入れています。

何がなんだか分からないものを使っているのに、その口から出てくる言葉は全て自分のものの積りです。自分の考えを述べています、自分の思いです、あなたに賛成です反対です、等々と言って、自分以外の構築物の上に乗っかかっているのです。フランスに産まれたらフランス語を喋っているでしょう。すべて、知らず知らずのうちに自分のものとしてしまっているのに、自分のものだと言い張る主観です。

フランス語のマ・ン・ト・ノ・ンとか、英語のナ・ウとかには約束された意味以上の事はありません。または約束によっていくらでも意味であるものを追加できます。出生時からの契約思想みたいなもので縛られていきます。

ところが世界で唯一そういった拘束の外にある言語が大和の日本語です。

今を現すのに、ウマとかオマとかナウとかに別の約束事にしても、言い替えられないのです。どうしても、イマでしかありません。

言語侵略されてナウということはいくらでも起きますが、イマをナウとすることは不可能なのです。大和では漢語を受け入れましたが、大和の訓読みを残し、大和の言葉のためのフリガナではなく、フリ漢字にしてしまいました。

今というのは、古代の昔からそうだったからですが、そういう風にしたのは昔の人が、現実の三世を一瞬に含む心を起こしてそれを表現しようと試み、実在の在り方を言葉で表現し、言葉を創造することに成功したからです。約束事あるいは強制で、今をマントノンナウにするぞ良いな、というのとは全然というのとは次元がちがいます。

それとは別に、今というのは流れの中のある一瞬の切り取られたスナップ写真のようなものだとしたのなら、その切り取られた瞬間にどのような名前でも付けることができます。なぜなら固定したスナップ写真なら、外からいかようにも見ることができるからです。

・裏合い

大和の日本語は、物事の流れそのものの中から同交感応を言葉に現したものですから、物事そのものの現れとなっています。

イ・マという時には物事のいまにイ・マが絶対的にあるのでイ・マと言い、その心を発音表明することがそのまま事物を指し、物事として現象させます。物事を指しそれを指して内容を示すのでなく、心の内容・物事の内容を指したのがそのまま言葉となります。

このような超マジックのように、心が物事を真似て現われて来ます。そして、心が物事であるという、裏と表が裏合いのようになっいるのが、大和のフトマニによる日本語です。この表現方法をフトマニといいます。物事の裏側こころの内容が表現となっていることを指しています。

そこから転じて裏の内容をみる事から、裏合いが占いになりましたが、フトマニを占いのこととしたのは転じた後々の事です。

つまり、今をイマと言う理由を現実から引き継いでいますから、イマを話せば現実を話すことができます。そこで、イマをイマという理由とその構造を示したいと思います。

大和日本語の今ですので、他国語の今の構造とか文法とかに転用はできません。

03。四つの止まっている今。今とは。

・今の四つの様相 (定点の四つの今)

「今」を詳細に見ると、以下の様態を示しています。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、 五感感覚の次元、そして後に言霊ウとなる。

二、産まれようとし てあったものが今産まれる、といういわば、 過去-今の関係、知識記憶概念の次元、そして後に言霊オとなる。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、 感情情緒の次元、。そして後に言霊アとなる。

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、按配選択の智恵の次元、そして後に言霊エとなる。

このそれぞれ次元の違う四つの今があるのです。

しかし、これらは、今を定点として与えられた一点での今に過ぎません。

今は今と言った途端に過去の今となっているのです。

また、今は今今今と未来を創造しているようですが、その現在を表明していくだけです。ただしそこには未来への動向というか、今を創造してるというより、未来を予兆創造している意識もあります。

上記の今の様相四態を、今を軸にして図示すると下図です。

オ・ 過去--今

ウ・ 今--今

ア・ 全体--今

エ・ 今--未来

このチャート図の欠点は今が停止している事で、観念的には理解できますが、動く現実ではありません。そこで流れを加えると。流れのなかで未来があるように感じ思えるというのは、次のようなからくりがあります。

オ・過去--今+++ ここで停止して、続けるには過去に戻って繰り返す。繰り返しを未来と称する。

ウ・ 今--今+++ ここで停止して消費して消える。繰り返さず、新今となりこれを未来と称する。

ア・ 全体--今++ 過去へ戻らないと今を捕えられず、過去へ戻る事を未来と称する。

エ・ 今--未来++今に有る未来が出てくる。

今から未来が出てくる様子を伝えた積りですが、うまくいっていません。

何故なら、われわれが持っている概念にある、今は未来を生じるというような思いを当てにして、今++・・・が書いてあるからです。

これは今自身が今を示したものとなっていません。

今が動いたのではなく、概念が動いて先走りしたものだからです。

今に、未来というものが付いただけです。

ですので、今があり、次ぎに間隙があり、次ぎに未来があるというような概念の連鎖になってしまいます。

自分で手の内を知らせて種を明かしたところで、正解ではありません。

さらに進むには、一撃が必要です。

・持続する今の五つの様相

三世を瞬時に含み、三世を一瞬に現し、しかも、その一瞬は持続していくのです。これが現実の今です。生きている今であり、生きられている今です。概念においては表現しにくいものですが、普通に何でもなく経験している今です。

では、三世を瞬時に含みつつ現し持続しているものとは何かです。

それは表現できるでしょうか。

この世の普通な事ですから、普通に語ればいいのですが、概念を用いるとそうはいかないという馬鹿な事に囚われるのが人間の思考です。しかも、それさえ普通に許されています。有り難いことです。思いきって行きましょう。

・現象が起こるとは

重要な引用があります。

現象が起こることに関する説明ですが、今という現象が起こる、と読み替えてください。

http://www.futomani.jp/lecture/no200/no200.htm

【 ここに一本の木が立っています。この立っている、ということはどういうことなのでしょうか。

立っていると見ている人がいなければ立っているか否かが分かりません。

また木が物として存在しなければ見ることができません。

現象があるというのはこのように見る主体と見られる客体双方に関係します。

現象の認識は単に物があることを見る、五感認識言霊ウばかりとは限りません。

体験認識の体系化である言霊オの次元、感情界のアの次元、事物の選択に関する道徳、政治等々の高度の次元にも起こります。】

【 例えばここに鐘があります。棒で突きます。鐘が振動して空気を震わせます。

空気中に波動が起こります。

しかしこの波動自体がゴーンという音を立てているわけではありません。

その波動が人間の耳に入った時、初めてゴーンという音に聞こえるわけです。

鐘自体は無言の波動を出しているだけです。

客体である鐘の発生する波動と、主体である人間の認識知性の波動とがぶつかって、双方の波動の波長がある調和を得た時、すなわち感応した時、初めて人間は鐘がゴーンと鳴ったのだと認識するのです。

同じように大空の虹はそれ自体七色を発しているわけではなく、七種の光の波動を出しているだけです。

その波動が人間の知性の主体波動とシンクロナイズする時、七つの色の虹として主体の側において認識されるのです。 】

以上、「言霊」。島田正路氏著書からの写し。

人は犬の鼻を持たず鷹の目も持ちませんが、人間の精神、心を持っています。このこころの同交交感、共感、いざなぎ、によって人間となっています。

人は今を現しているとみられる行動を示すのに、言葉を使います。行動で反応しているだけなら動物と同じようですが、それでも意識の中では言葉の流れ、音声とならなくても言葉で了解表現しています。

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04。五つの動いている今。今とは。

そこで再度、現に行く川の流れは絶えずしている様相をみてみます。

現に動いている今を動いてるように語らねばなりません。止まっている今の様態などは、単なる概念です。

そこで次はこうなります。

・今の五様態。今は五次元からなる。

1。今-今の実在、その根底に今の持続の実在がある。

2。過去-今の実在、その根底に今の持続の実在がある。

3。今-全体の実在、その根底に今の持続の実在がある。

4。今-未来の実在、その根底に今の持続の実在がある。

5。今の持続の実在、(その根底に今の持続の実在がある。)

以上は持続を実在として加えたものです。

こうして、今と言う時、その今には五次元の様相があり、その時に応じて今を使用していることになります。

例えば、今お腹が痛い。

1。今-今で、五感感覚で捉えられた疼痛が続く。

2。過去-今で、今感じている痛いお腹はどうしてか、何か変なものを食べたかな等と反省する時、そこで活動している知識は、過去の腹痛を今として探し分析している。

3。今-全体では、昨日の食べ残しを無理して食べたことが分かった時など、知的な内容と現状との一致がハッキリ了解できていく。

4。今-未来では、腹痛を起こし、ではどうすればいいのか、薬か、救急車か、便所へ行くか等の按配選択をしようとする時、未来へ向かう選択が今に実在している。

5。ところで、上記四つの様相も、別々に起こる事も重なる事もあり、腹痛の根源となる力動の持続がある間は、今腹が痛いと言う事ができ、この持続の力動が四つの様相となって現われていく。

別の表現で、持続を感じるところを説明すると次のようになります。

一)、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の実在、 五感感覚の欲望次元、そして後に言霊ウとなる。欲望を捕えようとしている、あるいは捕えて消費していきますが、ここに欲する今があります。これは生きた人間に具わった欲望本能になります。

幼稚ですが原初の働きとなっていて、生存を欲する働きが成長していくと、産業経済の形をとり、それを支えるための知識が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しいを生じていきます。

この特徴は、欲する事と欲する内容が同じであることです。本来なら欲することが得られ、ここで停止して消費して消えるのですが、欲すること自体は消えないので、新しい欲望、次々と出てくる欲望を未来と取り違えていきます。

これを言霊ウの次元といいます。

一)は五感の欲望感覚が元となりますから、成すべきものと感覚を取り入れる事にけじめがありません。感覚の騒ぐがままに流されていきます。

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二)、産まれようとし てあったものが今産まれる、といういわば、 過去-今の実在、知識記憶概念の次元、そして後に言霊オとなる。関心が生まれ、もの心がつき、記憶ができて反省整理を覚える働きの今があります。

ここでの今は記憶にある概念を操作するのが特徴です。過去にある抽象概念を扱いますので、過去からの掘り出し物が今となります。人間に非常に重要な働きですが、過去からの堀だしである事はあまり意識できません。概念操作をしている事で自分が表出されている事を知るからです。学術、科学、知識、普通に考える事等がこの働きの今の中にいます。

前段言霊ウ次元での関連事項を得て、原因過程結果を手にすれば、本来は終わりです。しかし、過去から来た概念知識を未来に突き刺す事をことを知らず、原因とか理由とか言うもが、不安定不特定な概念を取り入れたものからできているため、自分でも自信がなく、納得できる理由をまた探しに行きます。お気に入りができるまで原因追求がつづきこれが未来へ行く事なっていきます。

二)は過去記憶概念知識が元となります。過去経験と一致しない事には予想でしか対処を知りません。

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三)、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の実在、 感情情緒の次元、。そして後に言霊アとなる。

ここでは、主体側の今の現象が、自分で理由を与える事ができ、原因を特定できます。自分の感じているのは自分の感情である事が分かり、五感感覚で得られる感覚ではなく、五感とは違う自覚の了解感覚があり、知識概念で知った理由とは違う納得すく了解があります。

ここでは、過去へ戻らないとその今を捕えられず、その今は現に感じているものであるという重なる構造にあります。そこで、過去へ戻る事、現在を捉え続け句ことが未来と称されていきます。

三)は感情のおもむくままに、なりがちで自己に係わる部分は明瞭ですが、他者との関係をつける事ができません。 そこでは、成すことへのまとまりが付けられず、どのような方向道筋を取るのかで、協調が得られません。

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四)、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の実在、按配選択の智恵の次元、そして後に言霊エとなる。

ここの次元の今は事の選択に関するものです。今に有る未来が出てくる今ですので、限定された未来選択の範囲にあり、按配を決する事が今を示す事になります。

前三者(ウ、オ、アの言霊次元)では、それぞれの現象を選択決定してでてきたものでなく、知らぬ間に、勝手に気ままに、自己主張の自由さ等を自分のものと言い張るものです。

四)は、 今-未来の言霊エ次元はこれらの重層構造に乗って、どうするのかの選択が行なわれます。

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五)、は前記の次元の基底であって、源動力因です。この力動因が無ければことは動きません。

しかし、力動因は実在するといっても、それ自体では自分を現せないのです。他者の形に現われ、他者の形を借り、他者として自らを示します。

そして上記の四つをそれぞれたらしめる基底音となる、持続する創造能動意志が今の全てを貫いている、いわば、今の持続動因で、そして後に言霊イとなるものです

人の活動はその人の主体の活動です。主体活動は上記四つのいずれかとなって表明されていきますが、そこには常に言霊イの生きた基底音が鳴っています。

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こうして今の四つの様相は、基底音 五) の元にそれぞれが現われていきます。

◎◎◎◎◎◎◎◎

05。今という能動因。イの間。今とは。

今度は、五)の持続の上に乗った、相互の関係をみてみましょう。

テーマ図を採録しておきます。

1。今-今の実在、その根底に今の持続の実在がある。言霊ウとなる。欲望。

2。過去-今の実在、その根底に今の持続の実在がある。言霊オとなる。知識。

3。今-全体の実在、その根底に今の持続の実在がある。言霊アとなる。感情。

4。今-未来の実在、その根底に今の持続の実在がある。言霊エとなる。選択。

5。今の持続の実在、(その根底に今の持続の実在がある。)言霊イとなる。意思創造。

比較するため 4。から始めると、前回の例では、腹痛を起こしてどうしたらいいのかという行動選択の次元でした。この選択の次元をよく見ると、前段の次元層が全部含まれてます。選択するためにはその知識を持つばかりでなく、それにまつわる感情と五感感覚も前提されています。

同様に2。 の知識次元をみると、腹痛の知識には前提となる五感の感覚はありますが、感情とかどうするかとかの選択はなく、知的な概念によって、五感感覚の腹痛の経験知識、記憶を集め整理する事に没頭しています。

1。の欲望実在次元の腹痛の感覚次元では、痛い痛いの現にある痛みに係わる事に精一杯です。そこには、知識も無ければ、どうするかの思いもありません。

また3。の感情次元は、自分の感情内のことだけは分かっていますが、その世界だけに留まって他を省みることがありません。

これらの四つの次元世界は、上位次元は下位を含むが、下位は上位を含まず、各次元はそれぞれ独立した世界を作っています。

そしてここに、今の持続の実在において、それが親神様のように、全智全能の創造主のように、宇宙世界に一撃を与え続ける方のように、振る舞う何ものかがあります。

歴史的には人は、それを神といったり、霊といったり光といったり、一撃と言ったり、創造主といったり、力動因といったり、根源的な力といったり、作用反作用といったりしてきました。

正しくは今の能動因ですが、これさえも観念の世界で喋られるとどうなるか分かったものでありませんが、実在する今の能動因の持続は、観念概念世界も創造していきます。

実在する今の能動因の持続を、言葉で表現したものが「今、イマ」という言葉です。

今までは今の実在する能動持続とその表現としての今を分けないで使用してきました。ですので、ここまででの根拠は単に、今の実在する能動持続をイマと言う、宣言をしただけのものです。これだけでは、イマと言わなくても、ホイホイとかホレホレとか命名してもいいことになります。

全ての外国語はそういった命名です。イェッツト(独)、ナウ(英)、マントノン(仏)等々、約束事として強制通用力を与えられればなんでも構いません。

そこで世界で唯一の例外中の例外である、比較を絶する、大和の和語である「イマ」が登場します。

例えば、今お腹が痛という例です。

1。今-今で、五感感覚で捉えられた疼痛が続く。ここからはうずく五感感覚がでてきます。しかしここで痛みの感覚が麻痺していたのなら腹痛を感じないことがあります。縁の下の力持ちとして、腹痛という現象を起こさせないとか忘れるとかの原動力がまだあるからです。そこに「イキル」という現象を支える創造意思があります。

2。過去-今で、今感じている痛いお腹はどうしてか、何か変なものを食べたかな等と反省する時、そこで活動している知識は、過去の腹痛を今として探し分析している。ここでも、知識を探り正確さを求めるのは現にある腹痛ではないけれど、どういものか知ろうと、どうしても経験過去の概念を探ってイマを説明したくなります。これもここに、知識を求める意識があり、経験概念を掘り起こす意思が働くからです。

3。今-全体では、昨日の食べ残しを無理して食べたことが分かった時など、知的な内容と現状との一致がハッキリ了解できていく。あッ、あのせいだ、と全体的に了解するときがありますが、1。2。とも違った次元の世界のことで、感情的な了解をえる時には、世界と共時的に共感する感情が得られ、自己所有感の喜怒哀楽がハッキリしていきます。そのときは世界の動きと自分の動き、生きていることのイマが同一視できます。

4。今-未来では、腹痛を起こし、ではどうすればいいのか、薬か、救急車か、便所へ行くか等の按配選択をしようとする時、未来へ向かう選択が今に実在している。前記1。2。3。は非常に自己主義的です。全てわれよしの世界となって現われますが、ここでは、選択未来が含まれているので、提起されただけものの中から選択が行なわれます。ただしその選択内容は前記123のどれかになってしまっています。過去知識概念を選ぶ 2。の次元と似ていますが、知識の次元では、無反省無自覚無規定的に概念を操るのに対して、ここでは、そこに提起された選択肢として現前してきます。それを選択して行動へ赴かせるのがもっぱらな役目で、実践の智恵となった創造意思が根底にあります。

上記四つの様相を現前させるものが、イマの創造意思です。こうして、イマの働きがある限りそれぞれの世界があらわれます。

次は、それぞれの様相次元は独立している、です。

06。ウアオエの次元は見えない。今とは。

次元と柱という言葉。

近代用語の「次元」を使用してますので、数学上の次元とか次元上昇とかいわれるものに親しんでいる方には、イエウオアの五次元は馴染めないところがあるかもしれません。

古代にはどう言っていたのでしょう。古代には現代のようにわざわざ次元世界に分けるような崩壊した精神行為はなかったので、人の性能を一つの全体として指していました。

それを「柱」といいます。神、魂を勘定する時に使いますが、古代の正常な精神においては人間とは神のことですからもっともなことでしょう。とはいっても作られてしまった言葉の神からみて言うことですので、今わたしの言ったことは逆立ちしています。

人が神という言葉を作ったのですから、その過程があります。古事記にはずらずらっと神名が続きますが、本来その様な神がこちら側かあちら側にいるかといえば、そういった神様はいません。神という言葉が作られ、その後から付けられた名前です。

人が神という言葉を作ったのですから、いずれにしても神と名付けられる実体があります。中にはハッキリ規定できないあり難いものだから神というのだという意見もありますが、それさえもなんらかの経験概念の裏付けがあります。

神とは、簡単に言えば人の手におえない原理原則のことです。腹が減ったら喰わねばならない人の力ではいかんともしがたいもの、欲しい欲しいという欲求、赤子が乳を求める、現代ならば金銭を得たい地位が欲しいという欲求、その生きる原則が神です。これは欲望次元での神となります。

では、何故柱というのか。人は動き働くものです。人の動きは、動くぞという方向と動かないぞという二方向があります。動く方向に自分の身体表面で現す言葉が「は」で、動かないで静かにしているぞという方向に自分を現すのが「し」です。人はこの両方向が絡まりめぐり合って生きてます。これが「ら」となります。そして動くと動かないの絡まり合いで自分の表現である屋根を支えてます。

柱の実体内容は欲望(ウ)、知識(オ)、感情(ア)、選択(エ)、意思(イ)ですが、柱が地に着く所は一か所です。欲望充足をこととして生きている人は、欲望(ウ)だけが地について後の次元は欲望の実現に従います。知識を追求している人は、他の次元部分は知識獲得のための手段になっていると言った具合です。

(注意。ここの部分は言霊ふとまに学を完成した島田正路氏は、人の心を五十音図に現した場合にはア行の真ん中を意識の中心としています。)

柱を立てて柱ごと動いていくことが生きることです。生きていく上では、自分の性能次元があると思っていますが、大本を見ると人は動かされている側にいます。

生きることは、どうしてか何故かも知らず、自分は生きているが、生かされているその原理原則、その原理原則としての存在が神です。その様な原則は無数にありますから、後には八百万となります。

その八百万を統轄しているのが、生きるということ生きていることで生きる神です。この生きる神の元に八百万を整理すると五つの次元層ができます。ここからフトマニ学でいう五次元になるのですが、この人の生を五つに分類したという事が始まりになります。

これは古代大和の人類史上での超発見ですので、そのまま受け取った方が楽です。(その後支那、インドに伝えられ五大、五行等になりました。そして逆輸入され、それが文献に残るようになったのです。)

五つとは、欲望、知識、感情、選択、意思の五次元重層です。古代はこの五次元重層をバラバラにすることがなかったので、一つの柱と表象していました。

生きるとは五(い)きるで、人は息をして生きますが息は五気(いき)のことで、柱(はとしの絡み合い)を立ててそこに安住する場所が家です。ですので家は五重(いえ)ですす。

これを象徴的に扱ってきたのが、伊勢神宮の五分の三だけ地上に出ている御柱です。心の柱であり、八百万です。

古代ではこの五層の柱の使用法を心得ていましたから、自分の心の外にあるものとして扱わずに、拝むような事はせず、五層の五をとってイツクと言っていました。五(い)作る(つく)が生きることでした。

生きる事が五次元を生きる事だというと、現代人の次元理解からすればひっかかるところですが、気のいったときに、自分のやっている事を五次元で分類してもらえればいいのです。

例えばここで書いている事は全部概念知識を扱うだけです。言霊オの知識の次元というわけです。知識には知識に対する正反が伴います。ところが、あいつの言う事は本当かな知りたいものだというような時には、知りたいという欲望のことを指していますから、そのものに概念知識はありません。

知識が知識を得てどちらが本当かなどと選ぶ時には、行動への選択肢としてでてきますので、その選択は、知識をどうこうするものではなく、自分の行動に結び付けるもので、知識の内容をあれこれ言うものではなく、選ばれた知識全体に自分を置くものです。

このイツク柱の五つの階層次元は非常に不思議なもので、それぞれが独立した五層の輪(柱)のなかにあります。仏教の五重の塔は人間性能の五次元を表現したものですが、中心にある柱は各階を固定するために支えていません。各階と柱は独立した関係にあって、地に着いた心は通っているが、各次元層は独立しているという心の構造を現したものです。

例えば、人間性能の欲望次元は、欲望次元から出られないのです。この次元層は後に産業経済物質生産活動となっていきますが、その欲望充足以外は考えないのです。

経験知識も欲望達成のため、感情が起こるのも欲望に関するもの、未来選択はもちろん欲が膨れる方向へ、といった具合です。生存の基礎的な分野ですが、今-今の今の満足がモットウとなります。

欲望は人間心理の一つの世界、一つの意識を形成していますが一つの独立した世界です。ところがその欲望の世界を見せてほしいといわれると、困ったことに欲望そのものを見せることはできません。

がつがつ喰う姿を見せられても、それは欲望の現象、出来ごとです。映画演劇での真似事かもしれませんし、腹も減っていないのにそう見せているだけかもしれません。わたしの欲望はこれですよ、と示すことはできません。確かに欲望の内容としては存在していますが、そのものを示せません。

こういった問題によく、それは概念だ観念に過ぎないといわれます。抽象的な概念、観念といわれて否定しても、欲望がなくなるわけではありません。欲望とは具体的だから、観念としての抽象欲望は無い、となおも反対が出るでしょう。これは欲望そのものが具体的な物象性を持たないというだけで、無いということとは違います。

この関係は他の性能次元でも同様です。人は知識獲得に血眼になりますが、目で見える知識はありません。感情も同じで、身体、顔、他で表現しますが、その感情を見る事はできません。

では具体的な物象性を持たないものはどのように存在しているのでしょうか。どこから沸いたように出てくるのでしょうか。

具体的にこうだと提示でき、現象となって見えるようになる以前に、それらの全情報条件前提が整っていなければ、別の言葉でいえば時空間次元が整っていなければ、事は起きません。時処位がはっきり分っていなくてもそこには産みの母となるものがあります。

これは宇宙世界全体からなる客体対象世界です。五感も知識も感情もはっきり分っていない宇宙世界から出てきます。

ですので少なくと、主客の先天構造内には存在しているのです。ここでは主体側客体側の両者に先天的にあるということが重要で、それは後天的な具体性を、現象を持たなくても存在できるのです。

欲望は主体側のことであるのに、客体側にもあるというのはおかしなことです。しかし、乳を吸う赤子の欲望の根拠はどこにあるかというと、乳を吸う赤子の欲望を産み出す力動因にあります。この力動因は乳がなくても発現していきます。乳首でなくても指でも箸でも、ゴムの贋乳首でも吸いつきます。

つまり、吸う行為は誘導されてるわけです。パソコンの画面を見る場合でも、そこに画面があって、画面を見るように誘導されていて、特定の場所へ目が行きます。

しかし、注意してください。赤子の前に乳房があり、目前に画面があり、一億円の札束があっても、それら自体には何の意味も無いのです。自分がどういう人間としていて、どういう風に係わるかという限りにおいて意味がでてきます。札束の山など野良犬は小便をかけるだけです。

つまり主体側は客体の物象側から誘われていますが、主体が働きかける以外では、小便臭い紙屑となります。そしてわたしたちの生活世界宇宙の全歴史の大多数は、単なるあっち側にある紙屑の束なのです。

世界はこのあっち側の総体で、いくらでもわれわれは誘導されるものですが、各人の細々とした関心興味によっていて、その67億人の総体が世界となっています。

ですので、欲望それ自体は概念だから無いというのではなく、それを言う人を含めた67億の総体が、あちら側にある誘発する欲望としてあります。わたしたちはその億分の一として、自分の柱を立てて世界内にいるわけです。

このことは他の、知識、感情、選択、意思の各次元層においても同様です。つまりこの五層そのものは後天的な具体性を持ったものではないのです。

07。母音次元は見えない。 今とは。

前回は飛ばしすぎました。

今の五つの様相は動かない。今ではない。

今を作るのは父韻。

五層は五つとなって現われるだけ。

隠れていく。

一回り廻って来て又アに戻る

アというのは宇宙の事です。ここで人間の生活が行われて、あ、これで一つの事が終ったなという時、安心して休む世界、これをワの宇宙といいます。同じ宇宙ですが、一回り廻っているんです。一回り廻って来て又アに戻る。 この母音と半母音が一緒になって、ふたつがひとつの柱となっている柱が、伊勢神宮の本殿の中央の真下、床下に真っ直ぐ立っているのです。

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20))

52ぺーじ 神と命

次は、それぞれの様相次元は独立している、です。

06。ところで、上記四つの様相も、別々に起こる事も重なる事もあり、腹痛の根源となる力動の持続がある間は、今腹が痛いと言う事ができ、この持続の力動が四つの様相となって現われていく。

実在する今の能動因の持続は、観念概念世界も創造していきます。

現実のイ。

06。イは身体のどこで感じるか

00。伊耶那岐の物語。今とは。

00。イはどこに、、、。今とは。

00。イの仕事。今とは。

00。イと神感覚。今とは。

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天地のはじめは今ここ

人間生命の初めであり根本となるものは何であるか、という問題に明らかな答えが出されたこととなりだろう。一切の現象の親であるもの、そしてそれを自覚して言葉で表現した初めての音である言霊イこそこの世の活動や存在するものの根源であり、宗教で言うところの造物主であり創造主神ということである。

古事記や聖書の冒頭に書かれた「天地のはじめ」というのは、心の構造を知った立場から見るならば「今・此処」のことである。心が活動を開始する今のことであり、此処のことである。心が活動を起さない時、それは禅で言う空である。

何も起らない、何も始まらない。そこに心が動く。心の底に初めて動くものは何か。生命の根本意志である。この動き始めが天地のはじめである。今である。

生命意志言霊イの間であるから今(いま)という。はじまった処が此処である。心の構造から考えるならば、心が活動を開始した今・此処が心の宇宙のはじまりである。古神道ではこの今・此処を中今(続日本紀)と呼ぶ。

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生命・イの道

「芸術に国境なし」といいますな。いい芸術は、何百年経っても立派な芸術。ということは、年代がないし、いわゆる人種の差別もない。いい芸術は、どなたが見てもいいですから。そういうように、我(ガ)がない命の領域っていうものが広がりまして、そのアの次に来るエ・イとなりますと、さらにもっと内容が細やかで、永遠なるものを象徴する働きが出てきます。

イというのは命そのものですから。人間に命があるかぎりは、ずーっと続くものでございます。イの道。言霊のイという段階でいられる法則。イの法則。イの道。「イノチ」でございます。

「それじゃあ、イノチってどこで働いてるか」っていえば、「イマ」に働いております。「イの間(マ)」に働いております。みなさん、「イノチってどこだろう」って。地球上に人間が63億ぐらいいるそうですな。だけど、どなたに聞いても、「命って何だ」って聞いてお答えする方はいないと思います。命を見た者はいませんから。

霊能者になると「見た」って言う方がいらっしゃいますけれど、こんなこと言っちゃ申し訳ないですが、だいたい眉唾もののようでございます。わたくしもいろんな霊能者の方にたくさんいままで会ってまいりましたが、だいたい命というものをそのまま見るということはないような気がいたします。

「それじゃ、絶対に嘘か」っていいますと、言霊の学問では最後の禊祓という行のところの最後の行において、自分の命を自分で見ることができる段階がございます。みなさんよく勉強なさって、自分の命を自分で見られれば、これは便利だと思いますな。「もうちょっと長生きしろよ」って、「はいよ」って言えるかもしれません。

「そんなことはないだろう」と思ったら、あることをここで宣言しておきますから。その宣言をしておきますのは、わたくしがまだそれになっておりませんので、ここでなっちゃおうというわけです。最後のふんばりで、そこまで行かないとみなさんに「この言霊の学問は真実ですよ」と言えませんですから。厚かましいんですけれども、皇祖皇宗にお願いして、見せていただきたいものと思っておるわけでございます。

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イの間

そうなりますと、この六十年、昔から日本が言っている天皇---スメラミコトと申します---は空位時代に入ってしまった。位がなくなっちゃった。ですから、今の日本人は天皇陛下というものがどういう方なのか、全然わからないでいる。

そういうものを一挙に解決する道というのが、このイとエから出てくるんです。どう出なければいけないかっていう道が。なぜならば、スメラミコトの仕事はここでなさっていたから。それが出てきましたから。

言霊というものは、人間の生命の中のどこにあるか。どこにあると思いますか。「頭の中にある」と言うかもしれませんが、頭とは限らない。それじゃあ、いつ働いてるんですか。それはだいたいわかりますな。

「いつ」と言ったら「今」。今より他、言霊は働くときがありません。それじゃあ「どこで」と言ったら、「ここ」ということになります。イというのはですね、イの次元の道理だから「イの間」=「いま」と申します。そしてその道理は「イの道」ですから「いのち」と申します。

人間が生きているということの一番根本の場所。その場所の道理をつかんでるからスメラミコトなんです。今の天皇がつかんでいらっしゃらないことは確かです。崇神天皇以後の歴代の天皇はつかんでいらっしゃらないんです。

ただ、つかんでいると思われる天照大神という神様を祭る、大神主さんでいらしたから尊かった。だけど、その大神主さんの地位も放擲(ホウテキ)されたんですから「関係ない」って言って。それでわけのわからない天皇になってしまった。

今の国家は有名無実の国家。意味がわかんない。そういうものも全部解決したらどういうことになるのか。解決する道っていうのはどこにあるのか。ということを、これからはどうしても知らなくちゃならない時期に入ってまいります。

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「今」

➊、『チ-イ』

産まれようとしているものが今産まれる、いわば、

今-今の関係、

五感感覚の次元、

そして後に言霊う。

ア=、宇比地邇(うひぢに)の神。【 言霊 チ に成る心】 。心の全体が地盤となる。宇宙が地と比べて近い。心全体が地に近い。心の宇宙全体がそのまま現象となって現われ出てくる。これは風船が膨らむように心が尾ごとパッと拡がる。

ワ=、妹須比智邇(いもすひぢに)の神 【 言霊 イ に成る心】 。心の全体が維持持続する。(妹は正反作用反作用の対。) すべからく智に比べて近い。一旦現れ出てきた動きは是非とも経験知識よりは近い=本来の智恵が働く。現われでてきた動きの持続は弥栄(いやさか)に延びゆく。パッと拡がったものがづーっと延びていく。

❷、『キ-ミ』

産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、

過去-今の関係、

知識記憶概念の次元、

そして後に言霊お。

ア=、角杙(つのぐひ)の神。【 言霊 キ に成る心】 。心の体験をかき寄せる。ツゥーと角を延ばして捕え、自分が喰うように自分の方に引き寄せてくる。自他との境目、境界の違いを気づかう岐(分枝)を引き寄せる。中心にある自分に引き付けるように。

ワ=、妹活杙(いくぐひ)の神。【 言霊 ミ に成る心】 。心の内容の実に結ばれる。中心にある自分と言う実が膨らむように。 角杙の対で、自分に引き寄せる持続、自分と一緒になって自分の実が膨らみ続ける。珠の中央部が膨張していく。

➌、『シ-リ』

それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、

今-全体の関係、

感情情緒の次元、。

そして後に言霊あ。

ア=、意富斗能地(おほとのぢ)の神。【 言霊 シ に成る心】。 心の内容が中心に静まる。大いなる量りの働きの地、思慮行為の大いなる量り基準の、述べられ選択された地へ納まる。中心とされたもの(丸の中心とは限らない)へ、集約していく。

ワ=、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。【 言霊 リ に成る心】 。心の内容が離散散開する。地に集約していくの反対で、大いなる量りの働きの辺、、海辺、へき地、端・はじへと拡散伸長していく。心の中心へでなく辺へ向かう。

➍、『ヒ-ニ』

そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、

今-未来の関係、

按配選択の智恵の次元、

そして後に言霊え。

ア=、於母(おもだる)の神。【 言霊 ヒ に成る心】 。心の内容が表面に開く。於母はおもで、面・顔のこと、陀流は足るで、たる、満足した顔のこと。心の表面に完成完了していくこと。心の中心は置いてきぼりといった感じで、そのまま表現事情が了解できる。

ワ=、妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。【 言霊 ニ に成る心】。 心の内容が煮詰まってゆく。あやに・かしこき・ね、で夜(表面の反対)、見えない心の部分中心部に、音が煮詰まっていく。心のあなかしこ、あなかしこ。

➄、『イ-ヰ』

そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる、

持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。

今の持続。

そして後に言霊い。

ア=、伊耶那岐(いざなぎ)の神。【 言霊 イ に成る心】 。心をいざなう。

ワ=、妹伊耶那美(み)の神。【 言霊 ヰ に成る心】 。いざなわれる。

このそれぞれ次元の違う五つの今があるのです。

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「今」 あんちょこ

➊、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、

今-今の関係、

五感感覚の次元、

そして後に言霊う。

ア=、宇比地邇(うひぢに)の神。【 言霊 チ に成る心】 。心の全体が地盤となる。宇宙が地と比べて近い。心全体が地に近い。心の宇宙全体がそのまま現象となって現われ出てくる。これは風船が膨らむように心が尾ごとパッと拡がる。

ワ=、妹須比智邇(いもすひぢに)の神 【 言霊 イ に成る心】 。心の全体が維持持続する。(妹は正反作用反作用の対。) すべからく智に比べて近い。一旦現れ出てきた動きは是非とも経験知識よりは近い=本来の智恵が働く。現われでてきた動きの持続は弥栄(いやさか)に延びゆく。パッと拡がったものがづーっと延びていく。

❷、産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、

過去-今の関係、

知識記憶概念の次元、

そして後に言霊お。

ア=、角杙(つのぐひ)の神。【 言霊 キ に成る心】 。心の体験をかき寄せる。ツゥーと角を延ばして捕え、自分が喰うように自分の方に引き寄せてくる。自他との境目、境界の違いを気づかう岐(分枝)を引き寄せる。中心にある自分に引き付けるように。

ワ=、妹活杙(いくぐひ)の神。【 言霊 ミ に成る心】 。心の内容の実に結ばれる。中心にある自分と言う実が膨らむように。 角杙の対で、自分に引き寄せる持続、自分と一緒になって自分の実が膨らみ続ける。珠の中央部が膨張していく。

➌、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、

今-全体の関係、

感情情緒の次元、。

そして後に言霊あ。

ア=、意富斗能地(おほとのぢ)の神。【 言霊 シ に成る心】。 心の内容が中心に静まる。大いなる量りの働きの地、思慮行為の大いなる量り基準の、述べられ選択された地へ納まる。中心とされたもの(丸の中心とは限らない)へ、集約していく。

ワ=、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。【 言霊 リ に成る心】 。心の内容が離散散開する。地に集約していくの反対で、大いなる量りの働きの辺、、海辺、へき地、端・はじへと拡散伸長していく。心の中心へでなく辺へ向かう。

➍、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、按配選択の智恵の次元、

そして後に言霊え。

ア=、於母(おもだる)の神。【 言霊 ヒ に成る心】 。心の内容が表面に開く。於母はおもで、面・顔のこと、陀流は足るで、たる、満足した顔のこと。心の表面に完成完了していくこと。心の中心は置いてきぼりといった感じで、そのまま表現事情が了解できる。

ワ=、妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。【 言霊 ニ に成る心】。 心の内容が煮詰まってゆく。あやに・かしこき・ね、で夜(表面の反対)、見えない心の部分中心部に、音が煮詰まっていく。心のあなかしこ、あなかしこ。

➄、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる、

持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。

今の持続。

そして後に言霊い。

ア=、伊耶那岐(いざなぎ)の神。【 言霊 イ に成る心】 。心をいざなう。

ワ=、妹伊耶那美(み)の神。【 言霊 ヰ に成る心】 。いざなわれる。

このそれぞれ次元の違う五つの今があるのです。

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402 今現在の現象論

今現在の現象論 言霊学の原理・ 心のいまここ。心の先天構造。

◎ 「中今」

【00 中今】 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、

天地・あめつち・吾の眼が付いて地に成る。

(心の発生。問題の提示)

○ 「中今」は父韻によって「いとなみ」(母音側)と、「なりさま」(半母音側)へ剖判して主客になる、

○ 剖判した主客に噛み合い結び、間をくい合う父韻によって「今」現象の創造となる。

○ 父韻は剖判とかみ結びを同時に行う。

「ウ」 ・<: 吾の眼に父韻があるから剖判。

:>・ 主客(剖判)に父韻があるから生む(噛み・結ぶ・間くい合い)

・<: 吾の眼に父韻があるから剖判。

:>・ 主客(剖判)に父韻があるから生む(噛み・結ぶ・間くい合い)

・<: ~ ~ →

○ 「なりさま」

【01 言霊 ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神

(過去-今-未来の全体を含む今の瞬間)

【02 言霊 ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神

(いとなみ。今全体のいとなみ。心の自覚、主体・能動・働き側)。

【05 言霊 オ】 天の常立(とこたち)の神

(過去-今の主体側、知識)

【06 言霊 エ】 国の常立(とこたち)の神

(今-未来の主体側、心の選択実在)

【03 言霊 ワ】 神産巣日(かみむすび)の神

(なりさま。今全体のなりさま。心の自覚、客体・受動・実体側)

【04 言霊 ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神

(過去-今の客体側、心の客観実在)

【07 言霊 ヱ】 豊雲野(とよくも)の神

(今-未来の客体側、心の選択実在)

(一) 淡路の穂の狭別の島 (中今・過去=今=未来全体未剖判の創出)

アとワ(淡路)の言霊(穂)が別れて出て来る(別)狭い(狭)区分(島) 言霊ウは主客未剖、アワはそこから分れます

(二) 伊豫の二名島 (「中今」 の 「いとなみ」 と 「なりさま」 への剖判)

二名とはアとワの二音言霊のこと 宇宙剖判で主体アと客体ワに分れます この主と客に分かれることが全ての自覚の始まりです イとヰの現象を創造する働きの予めの区分

(三) 隠岐の三子島

言霊アのいとなみ、働きはオとエに剖判

言霊ワのなりさま、実体はヲとヱに剖判

隠岐とは隠り神、三つ子とは三段目に現われる言霊という意味

言霊オ・ヲ(経験知)、エ・ヱ(実践智)は文明創造上最も重要な精神性能です

(四) 竺紫の島 (心のいとなみの八種)

○ 「いとなみ」 (みとのまぐわい)

例えば「もしもし、あっ安万侶さん」という場合について。

(前半) 剖判は、誰か分からない大勢の中から、当の人を分別して分ければ、安万侶さんがいるとわかります。そこで安万侶さんが分かったということは、自分と安万侶さんの主客の相違が分かったことです。

(後半) 自分の見て分かる主体側が見られる客体側とかみ結び、主客の間を喰って合う、主客の実を取る(みとのまぐわい)と、安万侶さんを確認したという現象を創造したことになります。

「みとのまぐわい」はこの一連の全体経過の表徴で、剖判して成った主客のそれぞれの身(実)を取り合い結合して、ここに子現象を創造することです。

この剖判-結合に、古事記の主張は心の動きの妹背陰陽の四つの動きを見ています。

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【08 言霊 チ】 宇比地邇(うひぢに)の神。 (ウの性質)全体性 父韻

精神宇宙全体がそのまま現象発現に向って動き出す端緒の力動韻

・創造・陽出力

宇は地と比べて近い。天は地と比べて近い。吾の眼の全体感はそのまま相手対象に向ういとなみ・働きをする。

-------------------------------------------------------------------------

【09 言霊 イ】 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 (ウの性質) 全体性。

動き出した力動が持続する韻

・繁栄・飛至力

すべからく智に比ぶるに近かるべし。智による選択に依らずとも相手対象のなりさまと成る。

------------------------------------------------------------------------

【10 言霊 キ】 角杙(つのぐひ)の神。 (オの性質)掻き進める働き。

体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻

・収納・陰掻力

立てた規範をもってその運用に合うように相手対象を引き寄せるいとなみ、働き。

-----------------------------------------------------------------------------

【11 言霊 ミ】 妹活杙(いくぐひ)の神。 (ヲの性質) 掻き集める動き。

精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとする力動韻

・整理・旋回力

立てた規範を中心にして相手対象に適合させるようななりさまを探す働き。

-----------------------------------------------------------------------------

【12 言霊 シ】 意富斗能地(おほとのぢ)の神。 (エの性質) 拡がりの保存収縮。

精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻

・調和・透刺力

大いなる量りの働きの地。選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働き。

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【13 言霊 リ】 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 (ヱの性質)保存収縮の拡がり。

ある精神内容が宇宙の拡がりに向って螺旋状に発展拡大して行く力動韻

・滲透・螺婁()力

大いなる量りのわきまえ。選択識別されたなりさまが繰り返し述べられるような働き。

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【14 言霊 ヒ】 於母陀流(おもだる)の神。 (アの性質)火花の先端にて、表面性。

精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻

・開顕・開発力

意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとする働き。

-------------------------------------------------------------------------------

【15 言霊 ニ】 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 (ワの性質)火花の先端にて、表面性。

物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻

・成熟・吸引力

心の深部(夜)のなりさまの恐れおおさがもの事の原因となるように煮詰まる働き。

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竺紫は尽くしの謎 八つの父韻は言霊イ(伊耶那岐神)の実際活動のリズム 「身一つにして面四つ」の意味は作用・反作用の陰陽一対四組の知性の律の島です

(五) 伊岐の島 (吾の眼の創造原理)

○ 「中今の創造主。心の創造意思」。

【16 言霊 イ】 伊耶那岐(いざなぎ)の神。 (意志の発動) 親韻、

【17 言霊 ヰ】 妹伊耶那美(み)の神。 (意志の帰還)

伊岐とは伊の気でイ言霊のこと

心のすべての現象はここから現われ出て、また此処に帰っていくのです

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----------------------------------------

天津磐境

言霊ウから言霊ヰまで十七個の言霊が全て出揃い、この先天構造図を「天津磐境」(あまついわさか)と呼びます

天津は先天の意 磐境は五葉坂(五段階の言葉の構造)です

この天津磐境が活動して五官感覚で意識することが出来る精神の後天現象が生れます

言霊五母音につきましては中国哲学(易行)では五行の木火土金水とか、仏教では五重塔で仏陀・菩薩・縁覚・声聞・衆生とか、キリスト教ではラファエル・ミカエル・ガブリエル・ウリエル・ルシファーの五大天使の名で示しています

言霊父韻に関しましては、中国の易経に八卦、キリスト教では神と人との間の契約の印の虹として、仏教では仏となる為の守らねばならない八正道等などとして説かれています

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心の規範の創造原理論・古事記 天 地

あめつち

あ め つ ち

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吾の 眼を 都となる 地にすべし

吾の 眼を 付けて 地に成す

吾の 眼の 見地に立って 地に成す

吾の 眼が 付いて 地に成る

吾の 眼が 付いて 地に実を結ぶ

私の 意識が 働いて 相手対象に成る

吾の 眼が 付いて 智に成る

私の 意識を 働かせて 現象と成す

私の 意識を 働かせて 智慧と成す

○○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○○

言霊学の先天原理構造。 あまついわさか(天津磐境)。

チ宇比地邇(うひぢに)の神

オ天の常立(とこたち)の神< イ妹須比智邇(いもすひぢに)の神

ア高御産巣日(たかみむすび)の神< >イ伊耶那岐(いざなぎ)の神

エ国の常立(とこたち)の神< キ角杙(つのぐひ)の神

ミ妹活杙(いくぐひ)の神

ウ天の御中主(みなかぬし)の神。<

シ意富斗能地(おほとのぢ)の神

ヲ宇摩志阿斯訶備比古遅の神< リ妹大斗乃弁(おほとのべ)の神

ワ神産巣日(かみむすび)の神< >ヰ妹伊耶那美(み)の神

ヱ豊雲野(とよくも)の神 < ヒ於母陀流(おもだる)の神

ニ妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神

↓ (その結論に到達する過程である禊祓(みそぎはらい)

その理想の精神構造・あまつひもろぎ・(天津神籬)

「ひもろぎ」とは霊諸招の意

霊(ひ)とは言霊であり、諸(もろ)とはその言霊のすべてを意味し、招(おぎ)とはそれ等すべての言霊を一つの音図の中に置き足らわして得る人間精神の最高調和の構造と言った意味であります。と同時にまた、霊とはこの地球上に於いて生産され、その内容が多くの人々の承認を得るよう主張する一切の文化の内容の事でもあります。天津神籬と呼ばれ、またの名、天津太祝詞(ふとのりと)と称せられる精神構造の立場に立つ時、それ等地球上に於て主張される文化活動のすべてを一つの取りこぼしもなく取り上げ(摂取)、それに世界人類文明を創造するため役割を担わせ、生命を与えて行く(不捨)事が出来る人間の最高精神構造の意でもあります。

○○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○○

古事記の謎々

古事記(上巻神代の巻)は人間の心の成り立ちから、心の理想的な運用までを書いています。

ですので世界の人の為の人類の秘宝、至宝となるものですが、書かれた言葉が倭ことばなので大和の日本語を知っていることが必要です。

日本語を知らなくても翻訳で読めるだろうと思うかもしれませんが、理想的な心の運用にはどうしても日本語でなくてはならず、日本語はそのための世界に類例のない特別に造られた言葉であることが隠されています。

古事記はその全体が秘密の言葉謎々で書かれています。例えばその名前からして謎がけしてあり、古事記=子事記、人が生きて成す子という現象を生み創造活動をする事を記した書、心の事を記したということで、さらに凝ったことには、記を「つけ」と読むと心の創造現象を記した故事つけという読みになります。

冒頭の「天地」からして謎がけがしてあり、古事記を心の原理論と読ます仕掛けがしてあります。

天地は「あ・め・つ・ち」と読み、吾(あ、わたし)の、眼(め・意識)が、付(つ)いて、地(ち)に成る、という心の原理論の始まりを、世界の始まりに託して隠してあります。

現象を創造していくというのが心の働きで、人の生きること言葉を話すことですから、子の事を記す、つまり、天地に生きる、吾の眼が付いて地に成ることが繰り返し繰り返し書かれています。

神様の名前がづらづらっと出てきますが、全て心の実体や働きを謎の言葉で説明しているもので、心の在り方を示した謎ですから、実際にそのような古事記の神様がいるわけではありません。言い換えれば心の在り方を神と名付けたので、心の持ち主はわれわれですから、われわれが神ということです。神道は正しくは心道になるでしょう。

日本語には五十音図がありますが、この五十音が古事記の冒頭の神々五十神のその名前による隠れた説明になっています。日本語を知っていればこの五十音で世界宇宙のこと、自他のことを知り述べることができますが、古事記の冒頭五十神によってできるということになります。

また冒頭から神名を五十神数えると五十音の言霊に対応して言葉の要素を形成していますが、その後の五十神をまた勘定しますと、その五十によって、言霊の要素を運用するようになっています。

この要素と運用神が完成しますと、伊耶那岐の大神は「いたく歓喜する」と書かれています。

古事記の神代の巻はこの百神の心の様相を記したものです。

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まず、吾の眼(わたしの心)が、

先天にすでに用意されています。

そこで先天の働きがわたしに、「おさめ固め成せ」と、

汝の心の動因を発揮せよと、活動を促し誘ってきます。

これを、

【天地・あめつち・吾の眼が付いて地に成る】

といいます。

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○ 心の力動韻は チイキミシリヒニ の八つです。

自我の成立 = 名前をつけること

(イ--意思の発動)

-----

チ) 宇比地邇(うひぢに)の神。【ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)】

(ウの性質)全体性 今-今。 いとなみ、働き。

精神宇宙全体がそのまま現象発現に向って動き出す端緒の力動韻

宇は地と比べて近い。天は地と比べて近い。吾の眼の全体感はそのまま相手対象に向ういとなみ・働きをする。

チ) 自我の成立を目指す胎動が始まり、

-----

イ) 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。【以ちて、】(や行のイ)

(ウの性質) 全体性。 今-今。なりさま、実体

動き出した力動が持続する韻

すべからく智に比ぶるに近かるべし。智による選択に依らずとも相手対象のなりさまと成る。智慧の選択に比べることなくそのまま持続すべし。

イ) その働きが持続していき、

-----

キ) 角杙(つのぐひ)の神。【伊耶那岐の命・】

(オの性質)掻き進める働き。過去-今。 いとなみ、働き。体験内容を自我の方向に掻き寄せようとする力動韻

立てた規範をもって、自分の心の中にあるものを角を出して角の先で、その運用に合うように相手対象他から掻きくくって自分の方へ引き寄せるいとなみ、働き。

キ) 自我の働きいとなみ、主体側と

-----

ミ) 妹活杙(いくぐひ)の神。【 伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、】

(ヲの性質) 掻き集める。過去-今。なりさま、実体。

精神内容の中に己にある自己の体験内容に思いが結びつこうとし、自分からその方へ近づいて行って捕らえてくっ付く力動韻。

釣りあげた生きた魚をてなづけるように立てた規範に相手対象を適合させるようななりさまを探す働き。

ミ) 自我の実体、客体側なりさまに剖判して、

-----

シ) 意富斗能地(おほとのぢ)の神。 【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め 】

(エの性質) 拡がりの保存収縮。今-未来。いとなみ、働き。

精神宇宙にある精神内容が螺旋形の中心に静まり収まる力動韻

大いなる量りの働きの地。選択決着を目指して納めようとするいとなみの識別の土台となる働き。

シ) 剖判されたギミ(自己)がそのまま目的結果となり、実在世界の働き・実体と成る事を目指して、

-----

リ) 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 【成せ」と、】

(ヱの性質)保存収縮の拡がり。 今-未来。なりさま、実体。

ある精神内容が宇宙の拡がりに向って螺旋状に発展拡大して行く力動韻

大いなる量りのわきまえ。選択識別されたなりさまが繰り返し述べられるような働き。

リ) それぞれが事実として確認されるように(八父韻の働きで)、

-----

ヒ) 於母陀流(おもだる)の神。 【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、】

(アの性質)火花の先端にて、表面性。過去-今-全体。 いとなみ、働き。

精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻

意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとする働き

ヒ) ギ・ミの表面に指示される言葉を受け、

-----

ニ) 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 【言依さしたまひき。】

(ワの性質)火花の先端にて、表面性。過去-今-全体。なりさま、実体。

物事の現象の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る韻

心の深部(夜)のなりさまの恐れおおさがもの事の原因となるように煮詰まる働き。

ニ) その表現されたものを花開かせる行動の名目とします。

---------------------------

----------------------------

今現在ある姿の原理規範。

例えば机の上でリンゴを転がします。父韻というのはこの転がりを四つの陰陽で語ることになります。

一、転がるリンゴの 今現在ある姿の 直接性の全体の陰陽の視点。(ウ・ウ。チ・イ。)

二、転がるリンゴの 今現在ある姿の 過去から今になっている陰陽の視点。(オ・ヲ。キ・ミ。)

三、転がるリンゴの 今現在ある姿の 今から未来に向かう陰陽の視点。(エ・ヱ。シ・リ。)

四、転がるリンゴの 今現在ある姿の 表層か中心に向かう陰陽の視点。(ア・ワ。ヒ・ニ。)

五、ここに意思が加わり、

0(れい)、ここにレイ(霊)の先天があります。

-----------------------------

-----------------------------

(イ--意思の発動)

チ) 自我の成立を目指す胎動が始まり、 チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)

イ) その働きが持続していき、 イ--以ちて、(や行の イ)

キ) 自我の働きいとなみ、主体側と キ--伊耶那岐の命

ミ) 自我の実体、客体側なりさまに剖判して、 ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、

シ) 剖判されたギミ(自己)がそのまま目的結果となり、実在世界の働き・実体と成る事を目指して、

シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め

リ) それぞれが事実として確認されるように、(八父韻の働きで) リ--成せ」と、

ヒ) ギ・ミの表面に指示される言葉を受け、 ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、

ニ) その表現されたものを花開かせる行動の名目とします。 ニ--言依さしたまひき。

(ヰ--意思の帰還)

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○ 「シ」への経過で肝要なことは、「チ」の胎動が持続して「イ」、そこで「キ・ミ」に剖判していることです。

そして「シ」で結果となる実在世界を目指して、「リ」の父韻で、言葉を用いて「ヒ」、花開かせる名目「ニ」にします。

○ この並びは古事記冒頭の並び(1-2-4-8-2)と同じになっています。

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○ チイキミシリヒニの動き。

「ウ」次元での父韻の配列。

○・キシチニヒミイリ・○

あ・カサタナハマヤラ・わ

「オ」次元での父韻の配列。

○・キチミヒシミイリ・○

あ・かたまはさなやら・わ

「ア」次元での父韻の配列。

イ・チキリヒシニイミ・○

あ・たからはさなやま・わ

「エ」次元での父韻の配列。

イ・チキミヒリニイシ・ヰ

あ・たかまはらなやさ・わ

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「みとる」と「ちぎる」=今の「イ」の一瞬とは下記の八つの統合体のこと、

を原理的に述べると、冒頭にある通り、

宇比地邇(うひぢに)の神(言霊チ)の、今現在の全体が出現して、

次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神(言霊イ)の、今-今の全体が持続していき、

次に角杙(つのぐひ)の神(言霊キ)の、持続に過去全体が生じて過去-今になり、

次に妹活杙(いくぐひ)の神(言霊ミ)の、過去に結びついてそれが過去-今のミになります。

ここまでなら今有るもの・有ったものを現出させることになりますが、よくみると、今有る有ったものは、これから現出するものとはなっていません。過去-未来への進行形がこれからできていくという形をまだとっていません。

今までの言葉を使うなら、「ミ」ができましたが、まだ「ト」るまでに至っていないのです。そこで、

次に意富斗能地(おほとのぢ)の神(言霊シ)の、今-未来の内向する方向と、

次に妹大斗乃弁(おほとのべ)の神(言霊リ)の、今-未来の外向する方向に選択し、

次に於母陀流(おもだる)の神(言霊ヒ)の、今の-全体の開く心情心情と、

次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神(言霊ニ)、今-全体の煮詰まる心情感情になります。

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今現在論の準備中 。 いま(イの間)論の準備

◎ 今現在論の準備中 。 いま(イの間)論の準備

今現在論の準備中

「今」は、イマ

「イ」の間

「イ」の意識の「マ」

数学で考える「今」は扱いません。

「今」( j?n) は中華、コン(今日)とか、キョウ(今日)とか now とかも扱いません。

探しているのは大和日本のイマです。

今に見ていろ、今に見ていろと頑張っている間に

二十年が過ぎました。

この二十年は、未だに実現していない「イマ」です。

ゲームに夢中で過ごした一時間。 「嘘でしょう。もうそんな時間なの。」

まるで過ごした「いま」など無かったようです。

今とは、時間の流れをとらえて、

過去と未来との境にある一瞬というような今は、

心のでき事である「イマ」ではないので扱いません。

しかしそのように考えてしまうことそのものは心の出来事ですから、

心の運用の間違え方として扱います。

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イマ-いま論の準備中

時間論の範疇に入れられそうなので、

ベククソンとかハイデガーとか読みたいけれど、引用文を拾い読みするくらいでしょう。

そんなことより、

古代スメラミコトの残した「心の原理論」である古事記の神代の巻を

絶対的に信頼していきます。

世界の哲学者が千人よってかかっても、

古事記の言霊百神は燦然と山頂に輝き続けるでしょう。

理解了解し輝きを認めるのは

言霊学を学ぶ、大和の言語構造を知った人たちだけです。

それを学ぶ人たちはいるけれど、

言霊学を自覚している人は、今は誰もいない。

ですから世界創造を目指す勢力はまだ存在しない。

種がまかれ根付いたばかりだけど、

肝心な皇室が頼りない。古代の地球世界を指導したスメラミコトであったことを、忘れた方たちばかりで、血統にしか関心がないようだ。

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イマ-いま論の準備中

イマ を意識の時間で見るとイマという「持続」のことになる。

それを誰かは「瞬間」と呼びたいのでそう呼んだだけ。

ある人は、現在という瞬間もないという。

持続を上手に扱うのは難しい。

神道の諸々の形、伝承が、イマの形式上のあらわれとなっている。

もちろん、人間のやることなすこと全部が今の現れだから、

神道など持ち出すこともないが、イマには人間的な持続があるということを、神道が教えている。

意識によるイマの持続は、一瞬をイマとし、二十年間をイマとし、一生がイマとなり、歴史主体ともなれば二千年のイマが持続していくことにもなる。

人としての幸せな世界がまだ創出されていないと感じるときは、二千年のイマはまだ一瞬たりとも過ぎてはいない。

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ア◎ イマ-いま論の準備中

イマの呪示された最高の物象は伊勢の御柱だけど、神社自身がその意味を知らないらしい。天皇もその意味を教えることができない。

天井を支えない短い柱なのに、五分の二が地中にある。

その訳を知れば、自分のこと人間のこととなる。

人は一本の柱としてあるのに、五分の二は埋もれている。

柱は屋根も軒も支えていなくてそれだけで独立してる。人はあちら側の世界とか創造主とか神とかを頭に抱かなくても、それぞれ独立した一本の柱であることを示しているが、そのあらわれ、生活の仕方考え方は五分の三でしかない。

さてどうする。

自分の五分の二がまだ埋もれている。

しかし誰もそんなことは思わない。

自分はイマココにいて生きている。

まだ知らないことがあるのなら、誰かの助けがあり、神の御告げがあると思っている。

その御告げを聞くことがすでに地上に出ている五分の三の一部だと聞かされ、あちら側神のことを思うのが既に突き出ているときかされると、びっくりする。

神とか御告げとかも、神の声を聞くとか交流とかも既に折り込み済みで、地上に出ているものである。

それじゃ、埋まっている五分の二は何だ。

神、御告げを超えて埋まっている五分の二の自分とは何だ。

柱を引っこ抜いて、

御柱の腐り具合を見るのか、自分の腐り具合を見るのか。

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イ◎ イマ-いま論の準備中

イマのイメージ化、物象化

今をイメージし物象化してください。

さあ困った。

御柱

16弁菊花紋

吾のイマから天照すのイマへ

イマの規範

アイウエオ五十音図

イマが動く原理と--父韻

イマが実在する原理と--母音

そして

この二者でイマが現象する原理--子音

「時間というものは現在しかなく、今、何する、どうするかの瞬間が本当の時間」というのが、禅の解説に載っていた。

でも、

過去から入ってくるものを無視したら、今はないのにね。

今いるという至福感には、今、何する、どうする、もいらない。

イマの持続だけがあればいい。

「イ」の間の持続だけがあればいい。「イ----------」

「now」の持続だけだなればいい。「ナ--ァ---ウ----」

「jetzt」の持続だけがあればいい。「イェッ--ツトォ------」

あなた今なにする。

「今 ?」

「イ------- ?」

「ナ--ァ---ウ---- ?」

「イェッ--ツトォ------ ?」

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ウ◎ イマ-いま論の準備中

馬祖道一禅師:答える

ある時には、何かをしている。

ある時には、何もしないでいる。

ある時には、やっていることがよいと評価を受ける。

ある時には、やっている事が適当ではないという評価を受ける。

四つのあり方が人生にはあって、それだけのものだ。

道元禅師の注釈です

「 仮に時間が、なければこれらの一切のものも起こりえないのだ。

だからこの世において様々な行いがあり、様々な善悪があるけれども、それらに共通して絶対のものといえば『時間』というものである。

そういう時間が、在ればこそこの世の一切がある。

この様に様々な角度からこの問題を勉強してみて、わかったとかわからないとか言ってみても、それらの一切が現実の時間における事態にほかならない。

『正法眼蔵有時』

仁冶元年(1242年)十月一日

興聖宝林寺においてこれを書いた。 道元」

分類して説くのは、仏教のお得意。

それを一つ一つ説くのも仏教のお得意。

でも体系ではない。

今の空、今の解脱を求めちゃうから、

持続する体系を放り投げる。

精神強化に禅を取り入れるなんていう坊主までいる。

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エ◎ イマ-いま論の準備中

今という時間を形にあらわす。

時間を形にしてください。

今を形にしてください。

観念、概念は形にできない。

あっ、そうか。

でもね、「イマ」という言葉が形としてあるじゃない。

あっ、そうか。

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オ◎ イマ-いま論の準備中

イマは何故動くのか。

今は瞬間だ。

瞬間が繋がっていく。

瞬間同士はどうやって手をつなぐのか。

「? ? 」

では、言葉を変えて「現在」は、としましょうか。

「 ? ? 」

ではでは、言霊学では。

「イ」の間はどうやって手をつなぐのか。

手をつなぐのじゃなくて、「まぐわい」するのです。

(「間の喰い合い」)

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カ◎ イマ-いま論の準備中

イマ-いま論じゅなくて

イマ-ココ論じゃないの

今-現在論じゃなくて

時間-空間論じゃないの

それじゃ

時間 と 空間 だけあればいいの ?

時間と空間意外に世界はないでしょう

本当ですか。間違っていませんか。

つまり全世界の思想、哲学も含めてあなた自身も、

時間と空間しかないと思い込んでいるだけじゃないですか。

時空意外に何があるというのだ、

被害妄想もはなはだしい。

人の心の絶対真理である古事記では

造化三神といって「三」なんですが。

あっ、

何も言わないでいいですよ。

わたしがやりますから。

みなさんにも古事記の冒頭を真似ることをお薦めします。

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キ◎ イマ-いま論の準備中

ヒフミ(一二三)神示っていうのがありますがあれも「三」なんですが。

「三分と思えども、二分であるぞ。」 なんて、しゃれたことをいっています。

「三分と思えども、時間と空間であるぞ。」なら三番目はいらないということじゃないか。

こういう例解もありますよ。

「富士は晴れたり日本晴れ」 ですが、日本を二本にすると、時間と空間の二本晴れとなるでしょう。

それでもって富士が晴れるのです。時間と空間と富士と三つあるでしょう。

時間と空間意外に世界はないなんてまだ言いたいですか。

わたしとあなたがいるでしょう、そこに、○

あなたと好きな人がいるでしょう、そこに、○

富士と富士を見ている人がいて、そこに富士の日本晴れ

時間と空間があるでしょう、そこに、○

どこから見ても、ヒフミ、一二三。

だから、

「三分と思えども、二分であるぞ。」

なんていう駄洒落がいえるのです。

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----コメント-------------------------------------------

文字で表すと×のことだと思う

相手 ・・ 自分

潜在 ・・ 顕在

・・・・・×・・・

顕在 ・・ 潜在

これの偶然の一致による解消というか火花というか気付きというか

そんな感じ?

2012/11/28(水) 午後 7:43 [ ◆ ]

http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1738768.html#more

http://ja.wikipedia.org/wiki/X

2012/11/28(水) 午後 10:09[ ◆

-----以上----------------------------------------------------

コメントや参考サイトの紹介等ありがとう。

気付きには他の気付きが応対し、それに気付くとまたその他が返答します。

そうすると又他の気付きが、、、、、、、となっていくのがこの世です。

これが全く駄目な人間思考のプロセスであることを神示も古事記も示していますが、

余りにも平常普通な思惟運用のため誰も駄目であることを気付きません。

思い付きを思い付きで証明しようというのが、紹介されたサイトです。当てはまればオッケー、当たるも八卦外すも八卦です。

これで正常と思われているので、駄目といっても間違っているとはいえず、社会運用上は正当性のあるものです。ただし「でんぐりかえし」が来るまでですよ。神示はこういった日常思考をひっくり返すことを紹介しています。ひふみ神示読む人たちの「でんぐりかえし」は余りにも軽すぎます。

この通常と思い込んでいる、思惟運用法を斑馬を入れるといいます。

馬は「ウの間」、五十音図のウ段、ウクスツヌフムユルウの運用を逆さにするというのですから、

ウルユムフヌツスクウで思惟運用をします。

ウは人間性能の欲望次元をあらわします。

始めのウと終わりのウは同じウ(ここでは欲望)です。

ウ) 例えば、腹減った何か喰いたい、あいつを殴りたい戦争したい、大臣になりたい金を儲けたい等の欲望が起きます。思い付きですから何時どこでどうして自分に起こってきたことか自分でも知りません。充足されるまで続きます。

ル) 知らない内に自分に起きた欲望がとめどもなく進展していきます。(流・ル)

ユ) 極まることのない欲望が湯(ユ)のごとく湧き出てきて本人を動かします。

ム) 欲望と身体が結ばれ(ム)ます。

フ) そうすると、志が何であるのか分からないまま自分の欲望の追い風に吹きつかれて(フ)

ヌ) 行為の名分が勝手に煮詰まり相手に到達して縫い(ヌ)い合わされます。(相手対象と対当対峙する)

ツ) そのまま欲望達成のために自己の全てが動員され相手を突つき(ツ)ます。

ス) それが目的となって手段を選ばぬ自己発現となって、その人には澄んだ(ス)疑いのない思考と行為になってしまい、

ク) 自己欲望のために組み(ク)つき掻き寄せていきます。

ウ) こうして相手対象は侵略なり消費なりの欲望充足のための自己表出の場となりますが、最初に起きたのが自己本来の自覚ではなく欲望充足のための思い付きですから、自分がどうで、相手がどうでという自覚がありません。欲望充足の自覚がありませんから、次の欲望が起これば又繰り返します。

これが斑馬(まだらうま・間の運用の足らないウの間)をさかさに投げ込むことで、通常の欲望充足なら、上記を下から読み直してください。

ア段なら、アカサタナハマヤラワになります。

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ク◎ イマ-いま-イの間論の準備中

現在しかない、今しかない、といっも今や現在が居すわる訳じゃない。

何としても、現在も今も動かなくてはならない。

今現在しかない、ではちと都合が悪い。

おしっこしたくて我慢していれば、とても長い、ながーい今が、続く。

「そもそも過去、現在、未来などというのは人間がつくった虚構でしかない。」 なんてよくいうよ。

人はこうした考え方が普通にできる構造にあるのです。

間違ってるぞなんていったら、いけないですね。それで普通なのですから。

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ケ◎ イマ-いま-イの間論の準備中

思い付き、気付きは全く駄目で、「でんぐりかえし」されるといいました。

しかし、

始めは、気付くこと思い付くこと、そこから始めることしかできません。

気付きのあ行あかさたな・・を、たかまはら・・に変換する、

そのプロセスが禊ぎ祓えです。

水浴びすれば身体の健康にはいいかもしれないが、

頭の健康運用には関係ありませんので、風邪引かないように。

ついでに

だみ声で祝詞、経文唱えるのも、頭の生理健康にはいいかもしれないが、

思惟運用が健康になることはありません。間違えないように。

それらはみんな意識を物質次元に引き下げる行為です。

ですので御利益も物質的でしかありません。いわく気分爽快。

頭の生理上の健康と思惟行為の健康とは別ですので。

否定もせず、捨てもせず、破壊もせず、無視もせず、止揚します。

それが、イマの瞬時にヒョイヒョイと出来てしまうのが、スメラミコトです。

ですので、間違うことがありません。

感情感覚次元で出来るのが、禅坊主です。

その知識ではよろしくないと切り捨て拒絶しますが、再利用再変換止揚し再構築する仕方を言えません。

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コ◎ イマ-いま-イの間論の準備中

「時間の構造」でググッたら「交流分析」なるものがでてきた。

「交流分析では、日常的な人間関係を通して『他者からのストローク』を得るために、自分の生活時間の使い方を構造化するという考え方があるが、これを『時間の構造化』と呼んでいる。交流分析における『時間の構造化』には、『自閉・儀式・活動(仕事)・雑談・ゲーム・親交』の6種類が仮定されている。」

ネットに頼ると情報が拡がりすぎるけれど、情報価値があるとかないとかは別として、みんな分析と総合しかしていない。

もちろん緻密な分析と総合から出てくるのだから、みんな立派な仕事で役に立つものとなっている。

一度ひふみ神示の神さんに、それでも「でんぐりかえし」は必要なのか、と聞いてみたい。

影響力のある立派な仕事、社会の大多数の賛同を得たものも「でんぐりかえし」が必要不可避ということなのか ?

Yes.なら、わたしも続ける。全体のでんぐりかえしか、少なくとも私のでんぐりかえしのために続ける。

No.なら。多くの支持を得た社会的に通用しているものにはその必要はないなどといわれたら、焼き捨てる。とはいっても最初からひふみ神示の本は持っていないけど。

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サ◎ いま-イの間論の準備中

重層構造と階段構造

過去-今-未来を階段状に捉えると、断絶を越えられない。

年輪みたいに捉えると内外が繋がらない。、、、

今に過去現在未来が全部含まれている構造体が意識となっている。その表徴が伊勢の御柱。

意識自然の物体ではないので類似品を見出すのが難しい。

自然界ならば成長するものの各段階でのスナップ写真を一枚の全体にしてあらわすという感じ。

種、発芽、双葉、若木、幹が出来て花が咲いて実がなってを重ね合わせて一枚に。

赤子、幼児、少年、青年、中年、老人を重層させて一枚に。

みんな、地に足が付いていている。

思い出した。砂鉄が描く磁力線に、そういった部分がある。

共通の底辺(磁石)から出て重層長円環を作っている。

御柱もそれのイメージをもらって、共通の底面から出てくる重層長円環にするといいかも。

それでも、今現在今現在を動き流れるようにしてないといけないが。

十六弁の菊花紋でイメージしたこともあった。

五十音を書き込んだ八咫鏡もある。

勾玉は外縁を延長していけば丸だけど、わざと削って廻らないようになっている。左右にぶらぶら動くけど常に今に戻る形。過去-今しかない-未来の時間の流れを全部備えている。素晴らしい。

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シ◎ いま-イの間論の準備中

イマの何かが書きたいということは、イマについての何かが言いたい。

ということは、イマについて上手に喋りたいとか、納得させるように書きたいとか、感動を与えたいとか、どうせ分かりはしないだろうとかの、感情が入ってきます。

別に「イマ」論に限ったことではなく、全ての人の普通の発言においておや、です。

科学的な見解や数学的な論理で客観的にイマを書くのではないのですから、当然そうなります。

主観性を排して客観的になどというのは、物質の扱いにだけ当てはめればいいので、人間的な意識の介入しているものには不要で不純でコソコソした泥棒根性みたいなものです。

自分の見解が客観的でないなどと縮こまることはなく、誰でも主観的にしか意見を言えないのです。

そこで問題は、客観的な意見であるとか主観的な主張であるとかではありません。

自他ともに喜びが得られる、自分の発言が他者のためになるように運用操作されているかです。

そうするとここにも、発言以前に自らを鼓舞し他者の利益のためになるという自己意識の改革変態を自覚することが必要です。

つまり、「イマ」を語るには、もちろんなんでも構わず語りたいものを語るには、自己意識の禊ぎ祓えを通過しなくてはなりません。

「イマ」の禊ぎを通過していないような発言は、「喝っ、ピシッ」。

黄泉の国から帰還した 【 伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、】と、わざわざ、自分の事を【御身(おほみま)】と読んでいます。

日常的には個人的にそういっことは普通です。重大な事を目前にして自分を「御身(おほみま)」と感じることはよくあります。

願掛け肉断ち水行までする人もいます。でも、全部個人行です。

あまり突っ込むと大法螺吹きになりますのでこの辺で。

「イマ」を語るのに禊ぎ祓えが必要だって !

本当かよ ?

( しかしこんなことに気付いてしまうと、後がコワイ。)

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ス◎ いま、イの間論の準備中

理想的なイマとは、他人の喜ぶイマを提供してあげること。

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セ◎ いま、イの間論の準備中

いま か 現在 か

「イマ」論という言い方は全然流行らないので、現在といってもいいのだけど、現在という中国語を使うということになってしまう。それなら英語にしてもフランス語にしても変わりはないし、当然各国それぞれにおいて「現在論」がある。

現在というのは大和の日本語ではないので、現在という言葉を使うとせいぜい「現在論」しか出来ない。

世界中で現在といっているから各国語にすれば、訳していけば通じる言葉なので、その中で書けば、世界最高の現在論が出来るだろう。

しかしそれは、世界最高の論考となった現在論にはなれるだろうが、

人間の「イマ」を語る現在論にはなれない。

何故なら、「イマ」という言葉を使用しないからです。

大和の「イマ」論は「イの間」を語るもので、「イ」について説明していくものですが、外国語には「イ」が無いので説明のしようがない。

イと発音する漢字は相当あるが「現在」に相当する「イ」と発音する漢字がない。

「イ」の禊ぎ祓えとか、「イ」の喜びとか外国語では解説できないでしょう。

なので、世界最高の論考は出来ないが、

人間最高の「イマ」は語れるでしょう。

(今日は鼻息が荒く、言うだけ番長になりそう。)

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ソ◎ いま(イの間)論の準備中

メモ

「イ」の、あ・たかまはらなやさ・わ(という間が) ⇒ エ

「イ」の、あ・かさたなはまやら・わ(という間が) ⇒ ウ

「イ」の、あ・かたまはさなやら・わ(という間が) ⇒ オ

「イ」の、あ・たからはさなやま・わ(という間が) ⇒ ア

暴論、妄想か、真実か

思い付きです。

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タ◎ いま(イの間)論の準備中

今現在しかないというけれど

今現在の何があるのですか。

禅坊主の言葉。

1-「いまここ」は理解するというより、

「いまここ」に気づき自覚し、その場で行うべき事を心をこめて行うことで、

「いまここ」はより深く生き楽しみ味わうものです。

一杯のお茶をその香りや色や味わいを感じながら、

「ああ、おいしい!」と飲むようなものです。

2-大切なことは、

いまここを充実して生きるため、

「よし過去をふりかってみよう」とか、

「未来についてビジョンを描こう」とか思うことです。

つまり、平常の生きている心のベースを「いまここ」に現在させながら、

過去も未来も自由に思うということです。

「ああ、おいしい」と、味わい自由に思うことですか。

苦行精進した釈迦の姿と重なりますか。

個人行の目指すところですね。

イマの「イ」はイキルの「イ」と同じです。

イキルの「イ」がイマにイキルとその人がイルことになります。

連なったイマの「間」を「切る・キル」と、その人がイル姿が流れ(る)でてきます。

味わい自由に思うというのは、そのような基本要求を示すもので結構なものですが、イマを示すものではありません。

そのような現象から出発しますと、わたしがここにイルのはあなたのイマココの邪魔になるということが起きます。

古事記のイルはその両者を止揚するでしょう。(やってみたいがそう簡単ではない。)

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チ◎ いま(イの間)論の準備

イマ論をトキ(時)論としないのか、時間論では駄目なのか。

めっそうもない。時間論結構、時(とき)論結構。

でも、時は「ジ」ではなく、「トキ」と読む。

五十音図の横段を数えると、ア段十個。イ段十個、、、。十はト。

(五十音図は現代の五十未満の五十音図ではなく、言霊五十音図のこと)

では、「キ」は何だ。どうして、ト+キ=トキなのだ。十(ト)+キがとき(時)なのだ。

わたしだってそれが分かれば、いま(イの間)論なんて書かない。

知っていて書いて読んでもらうより、

探求冒険しながら書くのもおもしろい。

書き上がり読んでもらって「そんなものか、そんなこともあるのか、知識が増えた」といわれるよりも、

自己中心のがりがり妄想自画自賛でしかないと、投げ返される方がおもしろい。

唯我独尊が、ポッと理解できたりしたらめっけ物。

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ツ◎ いま(イの間)論の準備

自分が生まれる。

自分の時はいつ始まった。自分の今はいつから今となった。

今現在しかない、といわれる。

赤ん坊時代の自分の今現在は、どこへいった。

少年時代の自分の今現在は、どこへいった。

昨日の自分のいま現在は、どこへいった。

こんなことを書いている自分の今現在は、書いている内に過去になったと言いたいわけですか。

それにしても、凄い変化じゃないですか。

パパママバイバイも知らなかったのに、今だとか、現在だとか、論だとか言い出す。

ママのオッパイ飲むしか知らない今現在が、こんな大人になってしまった。

今現在しかない、というだけで満足ですか。

こういうのが見つかりました。

引用開始。

大乗仏典7(中央公論社)より「金師子章」(法蔵論述)

(p.372) 九、十世隔法異成門。

「師子は是れ有為之法にして、念念に生滅して、刹那之間、分ちて三際となす。

謂わく、過去、現在、未来なり。此の三際に各の過、現、未あり。

総じて三、三の位ありて、以って九世を立てて、即ち束ねて一段の法門と為す。」

「則ち九世、各各に隔てありと雖も相い由りて成立し、融通無礙にして、

同じて一念と為す。十世隔法異成門と名づく。」

引用ここまで。

訳してみる。

瞬間刹那は三つに区切ることができる。

それを過去、現在、未来と名付ける。

注意しなさい、このそれぞれに、過、現、未があります。

総じて三、三の位ありて、つまり瞬間刹那を三分してできたその過去に過、現、未があり、現在に過、現、未があり、未来に過、現、未があるので、

この瞬間刹那には三×三で九世が備わっているのです。

この九世が一つの柱となって始めの一歩となります。

二番目の文章は一番目の理解によるので、わたし訳の延長でやりたければ挑戦してみてください。九世が十世になるところが味噌です。

ここでいう十世というのは、音図の横十個のことですが、三と三と九で一念足して十としています。

仏教で刹那を九で説明しているのを始めてみましたが、刹那の過、現、未にまた刹那の過、現、未を用いて接続しています。

刹那という時を過、現、未にするのはどこでも同じですが、言霊原理論だけは、世界で唯一(?)そうじゃないといいます。とはいっても今言ったことは正確ではありません。世界にはいろいろな時間論があるし、これからも出てきます。

しかし、思惟規範の運用上の視点で見れば、正しい思惟規範の運用は古事記を真似る以外にはありません。その意味で唯一です。

(そんなことを言っても実際にはできもしないのによくいうよ、いい加減にして黙れなんていう声もありそう。)

幾つの主張があるのかといえば十です。しかし、お経が言うように三×三+一で十ではありませんが、主張となる現象結果は十ですから十の主張のあれこれプラスマイナスされたものになります。

また、調べると、「刹那生滅の道理」というのも出てきた。

ネットをいじっているとキリがない。

上の経文がいうように、いくら刹那の過現未を過現未で繋げても生成消滅は起きません。そこは悟れというのが仏教ですから、仏教の方向から行きたければ悟らなくてはなりません。

言霊学の方向から行くにはまた別の方向があります。

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テ◎ いま(イの間)論の準備

またまたこんなお絵描きをしてみました。

イマ ココ の言霊原理図 この図全体が今(イマ・イの間)です。

◎ 天津管麻の御柱 ◎

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| |

宇比地邇(言霊チ)の神 |

| 高御産巣日の神ア |

| 妹須比智邇(言霊イ)の神

| |

| |--------------------| |

| | | |

角杙(言霊キ)の神 | |

| | 天の常立の神 オ | |

| | 妹活杙(言霊ミ)の神

| | | |

| | |--------------| | |

| | | | | |

意富斗能地(言霊シ)の神 | | |

| | | 天の御中主の神 ウ | | |

| | | | 妹大斗乃弁(言霊リ)の神

| | | | | |

| | | |---------| | | |

| | | | | | | |

於母陀流(言霊ヒ)の神 | | | |

| | | | 国の常立の神 エ | | | |

| | | | | | | |

| | | | | | | 妹阿夜訶志古泥(言霊ニ)の神

| | | | | | | |

================================================================================

⇒ 人の創造意志のいのちの弾み、いのちのうねり。 ⇒

いとなみ いきさま

伊耶那岐神 イ

⇒ ⇒ (過去-今) ⇒ ⇒ (今 ◎ 今) ⇒ ⇒ (今-未来) ⇒ ⇒

伊耶那美神 ヰ

===================================================================================

⇒ いのちのうなり、ひびく基底音。 時間の流れ ⇒

ありさま

豊雲野の神 ヱ

天の御中主の神 ウ 妹阿夜訶志古泥(言霊ニ)の神

妹大斗乃弁(言霊リ)の神

宇摩志阿斯訶備比古遅の神 ヲ 妹活杙(言霊ミ)の神

妹須比智邇(言霊イ)の神

神産巣日の神 ワ

=====================================================================================

この図全体が イマ(今)

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ト◎ いま(イの間)論の準備

地球自転の音がする

創造意志の いのちの弾み、いのちのうねり

いのちの、りきみ

ひびく基底音

時間の流れ

シイィーィーィーーーーー、、、、(ィ)ーーーーーーーーー

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ナ◎ いま(イの間)論の準備

こんどは地球公転の音だ、

ウィゥーーゥンーーーー、、、、ーーーーーーン.ゥーーーーーーーー

実在の動き

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ニ◎ いま(イの間)論の準備

何故、いま(イの間)論で、

イマココ論でなく、時間論でなく、時間空間論でなく、時空存在論でなく、時間存在論でなく、etc.でない理由を説明するために。

いま(今)という時間の説明には二つある。

①は、外部から見回して、時間と空間に分けた中に今(時間)を見出す。

②は、内部にもぐり込んで、時間自身の中に今(時間)を見る。

①は、時間と空間というので、その両者を導く統一体が必要。

②は、時間(今)自身が統一体なので、いま(今)の分割が必要。

例えば、

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、 --先天の時間と空間

伊耶那岐の命 --時間

伊耶那美の命 --空間

の二柱の神に詔りたまひて、 --時空になる前の先天時空に

「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、--時空の創出はどうするのかと

天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 --時空を結ぶ父韻を用いて

言依さしたまひき。 --運用する

【 かれ二柱の神、 --時間と空間

天の浮橋(うきはし)に立たして、 --父韻と共に

その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、 --チイキミシリヒニを運用して

塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、 --空間側を掻き回し(母音)

引き上げたまひし時に、 --対応した半母音側を得て

その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の --展開領域の基盤の(子音)

累積(つも)りて成れる島は、 --できる現象実在は

これ淤能碁呂(おのごろ)島なり。 --時空で表現される領域=次元

例えば、

②時間(今)のみに適用・・常にウのアワ

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、 --いま(今)の先天時間

伊耶那岐の命 --いま(時)のイキサマ・(ア)

伊耶那美の命 --いま(時)時のアリサマ・(ワ)

の二柱の神に詔りたまひて、 --いま(今)になる以前の先天の時間の働きと実在に働きかけて

「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、--時(今)の創出の名分を与えこうしようと

天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 --チイキミシリヒニの父韻を用いて

言依さしたまひき。 --運用して

【 かれ二柱の神、 --いま(今)の働きと実在・アワ

天の浮橋(うきはし)に立たして、 --父韻と共に

その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、 --チイキミシリヒニを運用して

塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、 --母音側いま(今)の実在を掻き回し

引き上げたまひし時に、 --対応した半母音側を得て

その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の --展開領域の基盤となる(子音)実在の

累積(つも)りて成れる島は、 --出てくる現象は

これ淤能碁呂(おのごろ)島なり。 --いま(今)と表現される、いま(今)の次元領域

というように例えば、オノゴロ島の段落を利用してみました。

今・時間を語るのに、今とか時間とかから語りだすと、今とか時間を語り始めるための上位概念(今とか時間とかいうことを保障する過去概念)がいる。

今・時間を語るのに、今とか時間とかを結論にすると、今とか時間とかは結論として導かれる言葉になる。

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ヌ◎ いま(イの間)論の準備

始めにある、(先天)

と同時に、

始めを創造する。

と同時に、

全部が繋がっている、

と同時に、

全部が繋がっていく。

と同時に、

終わりが始めであり、

と同時に、

始めが終わりである。

と同時に、

円を廻りながら直進する。

これが、

イマ。

それが、<いま>から、いま、になって、今になる。

これら全てが一カ所に詰まっている。

なぜこんなことが言えるのか。

同士の皆さんの突っ込みがないと

独りよがりになってしまうので

つっこみ大歓迎です。

ただし返事は保証しません。

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ネ◎ いま(イの間)論の準備

受精 = まぐわい

細胞分裂 = 言霊分裂

出産 = 子音創造

赤ちゃんが生まれました。

現象が生まれました。

イマが生まれました。

神との対話が生まれました。

下らない事を書いているが生まれました。

これら全てが一カ所に詰まっているが生まれました。

これら全てを取り上げて共通した真実を取り上げているのが言霊学ですが、

いまのところは、それが分かったから書いているのではなく、そうなるはずだというだけです。

こけおどし、だぞ。

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ノ◎ いま(イの間)論の準備

「分かりもしない事」

古事記は子事記と書けるように、子の事(現象)を創造する意識の原理論です。

イマを解き明かそうとしているのですから、イマという現象を創造する方向へ向かうつもりですが、未だに出だしが決まりません。

分かりもしない事を書こうというのが元々間違っているのだよ。

その通りですが、「分かりもしない事」と何故分かっているのですか。

西暦二千年はこうなると、二千十二年はこうなると、2千何十年にはこうなると、分かりもしない事を唱えてきたし、唱えてるし、唱えるだろう。

結果の出ているのもあるし、本当だったらどうするの!というのもある。

分かりもしない事を分かったふりして続ける事もある。

分かりもしない事を実体として捉えると、後から今後分かるだろう分かるかもしれないとなる。

ところが、いま(イの間)論からすればそんな甘い夢見心ではいられない。

これら分かりもしない事全てが一カ所に詰まっている今が生まれたのだから、その今が育つので、何時か分かるだろうというのは別のお話になる。

ということはわたしが自分で分からないだろうと自信を持っていっているのだから、わたしは何時まで経っても分からないのです。

そこでの救いは、分からないという自分の心を見つめる事ができるというになります。

つまり分かりもしない事が分かることになります。駄洒落。

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ハ◎ いま(イの間)論の準備

今などない

または

今しかない

ニュアンスを掻き集めれば

今だけがある

今もない

今はある

今はない

言葉を継ぎ足せば

無数に

言霊学はこれらの表現の原理を扱うものです。

ですので、ある とか ない とかの主張にくみしません。

どちらの主張にくみしてもらっても結構です。

それぞれの出所の地盤は共通です。

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ヒ◎ いま(イの間)論の準備

「自分が体験しないと「そんなものなのか」で終わってしまう、やはり自分で勉強しない限り分からない、こうやって真面目に話していても他人事のように読んでしまうでしょ、インターネットで公開しますと。(島田正路)」

みんな真面目に自分の思い付きや考え等を語っているのですけれど、他人事ですね。中には真面目すぎて、日本で始めて言いだしたとか世界でトップクラスのこと、とか言うかたもいます。

慎ましい方は、これは個人的なものですがとか、ということに気付きました、とか言う方もあります。

自分で法螺を吹いているとか、これは慎ましい真実ですとか言っても、聞いている人たちには同じことです。うまく同調してもらえればしめたものですが、それでも他人事のように読まれていきますから、他人事の感動を語った感想文となって返事がきます。

あるいは感情情緒次元で受けた感動を、共有しようとするときもあります。

最近はとうとう、思い付きしか受け付けないツイッターと言うのができました。思考する人間を不要にするもので、真剣を持たせればその場の出会い頭の勝負の世界になるでしょう。

いよいよ現場、仮想現場で裸踊りのウズノメの出現となりました。

それでもア次元に翻訳しますと、禅問答のように直ちに答えられなければ叩かれるような、全人類に意識の上昇を促すものとなっています。(精神世界とか言うものがお好きな方のために付け足し。)

書いている人の本心内容に沿った返答などは無いのが普通です。

と言うのは書いている人は思い付きで書いているので、その思い付きは個人的で自己所有物として他人に渡したくないからです。その感触が書き手にありますから、読み手も他人の物を盗むようにするよりも、自分の勝手な思い付き感想を述べた方が簡単です。

確かに為になると感じてどうしても欲しい理解したいと思うときも出てきます。

その時は他人事のように読むわけには行きません。読み方も自分の思い付きで読むのではなく、相手の懐に入ろうとします。

今とは、現在とは、と言うことを探すのも同様で、思い付きなら幾らでも感想が出てきて、どんなことでもそんなものでも自分の染み込んだ汗を主張していきます。

ところがその内心内面内容を捉えるようにしたくなるときがあり、思い付きを語ることではなく、求める物は何だろうとそのものと一致したくなります。

しかし残念ながら、そんな真面目な態度を取ると人は突き当たります。何に突き当たるかといえば、問題を解く方法、原理原則を所有していないという自覚にです。

これを得なければなりませんが、できないので、自分の身近にでてくる思い付きにすがります。

こうして思い付きバトルの二千年が過ぎました。現代はこのバトルの花盛りの時代ということでしょうか。

今現在の考え方が思い付きでそれぞれであるからおもしろい、個性があって素晴らしいという見方もあります。原理原則など無い方があれこれごちゃごちゃ言い合えるから楽しみがある、知らないこと気付かないことが聴けるし分かってくる、おもしろい、となります。

泳ぎを覚える前に、まだ出来ない泳ぎについてガチャガチャ言い合ったり、手持ちに無い十億円あったら何しようとか、まだ来ぬ事に予想や予言をして楽しむようなものです。

今しかない、そんな今を得たらどうしよう。

確かに知らねば知らぬままでそれなりの楽しみがあるものです。

別のこともあるのに、気付かない。こんな気付きもある。

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フ◎ いま(イの間)論の準備

出産で 今 が出来るのか

今 はあるものなのか

今 はできるものなのか

今 は無いのか

出産の姿、は様々あります。

古事記で

は、

『 既に国を生み竟(を)へて、更に神を生みたまひき。 かれ生みたまふ神の名は』

【18 言霊 タ 】大事忍男(おおことおしを)の神、次に。

【19 言霊 ト 】石土昆古(いはつちひこ)の神を生みたまひ、次に

【20 言霊 ヨ 】石巣(いはす)比売の神を生みたまひ、次に

【21 言霊 ツ 】大戸日別(おおとひわけ)の神を生みたまひ、次に

次に、次に、、、、、。

で、次々に言霊神を生んでいきますが、「次に」というのはどのような形に相当するものでしょうか。

産み方です。

自然界なら両親がいてその都度子を産みます。

にわとりなどは一人で次々に産みますが、受精卵でなく、排卵みたいなものでしょう。

いっぺんに複数生む自然界の出産もあります。

昆虫の変態などは新しく生まれる様なものです。

物質界では、生むというより分裂崩壊によって出来たり、結合浸透だったりして新しいものが出来そうです。

では、意識界で生むとはなんでしょう。

少し引用します。

・言霊イヰによる子音創生が始まりますのも、その予めに言霊アワに分かれたからであります。

・後天現象の言霊は32の子音で構成されております。32の神様が次から次へと生まれて参ります。

・交合することによって現象子音言霊が生れます。

・子音と申しますのは目に見える世の中の出来事。意識で捉えられる出来事の最小単位です。「雨が降る」、「雨」はアとメ、 ‘ア’の内容と子音‘メ’の内容が分かりますと、「雨」と名付けたのはもっともだということになります。

・その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、

→ 八つの父韻の下に母音が引っ付いてきます。32の子音のことです。

八つの父韻で以って、エアオウの四母音を掻き回して引き上げてみると、八つの父韻の下に母音が引っ付いてきます。32の子音のことです。32の言霊との区別はよく気をつけてお聞き下さい。

・お父さんとお母さんの活動で生まれてきた子供、32子音(アウエオ4×8)のお話に入ります。32の音と32の言霊の区別をつけてお聴き下さい。音と申しますのは口から出てくる「音」を指します。ですが「声」ということになりますと言った人の心が伴っています。

言霊学からの引用ですので、ぴんと来ないかもしれません。

現象が現象を生む姿を捉えているのではなく、始めて現象を生む姿を原理で示しています。

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ヘ◎ いま(イの間)論の準備

今とは何か、Google 約 14,700,000 件 (0.33 秒)

今などない、Google 約 1,040,000,000 件 (0.47 秒)

<いま>と言う間に過去になる、まるで光より早い<いま>があると思われている。

みんな、自分の考えで<いま>と言っているのに、相手に伝わると相手の考えの<いま>となってしまう。

つまり、× 2 (かける 2)か、

あるいは、

× (かける) <いま>と理解できる人の数だけか、

今とは何か、Google 約 14,700,000 件 (0.33 秒)

今などない、Google 約 1,040,000,000 件 (0.47 秒)

× (かける) <いま>と理解できる人の数だけ、

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ホ◎ いま(イの間)論の準備

言霊循環と生命循環

この宇宙を全てがつながった一大システムと、とらえると自分の子孫子供を生んで連続して循環しているように思えます。

種は芽生えて大きくなって花を咲かして実を付けて種になってから、自分が蜜柑の種だったのかと気付きます。

それらは他者を生んだり他者になって自身を知るという循環です。自分と他者と別のものを繋げるために、遺伝だとか血筋だとかが導入されています。

生と死の循環を他者を介して循環していくとすればそうなるでしょう。

言霊循環は、人という生命の上にできていますから、生命生物循環の遺伝も伝わっています。

しかし、自分を探して自分を見つける循環では、他者を見つけるのではありません。自分と他者の間に遺伝子があるとかないとかが問題になるのではありません。

言霊学でも父韻と母音で子音を生むというように他者としての現象子音を生むと言いますが、これは現象子音という他者となった自己を生むということで、実在的な他者を生んで終わるという生物世界とは違います。

他者を生んでいくことが、成長発展変態しつつ自己発見によって自己回帰しつつ他者を自己としてその同一性を了解するものです。

自分の新しく創造された自分を得るので、その生物物理的な形は他者であっても、自分をあらわすものです。喋っている言葉が他者の形をとっても、自分の内容をあらわすので、喋る以前の自分が、言葉となり喋ることであらわれます。

第三者の子供という形ですが自分を生み成すものです。

生物生命の循環では両親は他者としての子を産みますが、言霊循環では、他者という形、実在を借りて自己を産みます。と同時に、他者という形に他者の心、霊、気が乗るようになってます。

つまり言葉の共通性、一般性として自己が表現されるからです。

表現される音は、生理的な作用反作用の内にありますから、循環でいえば生物生理的な捕らえ方になります。

それを言霊に適応する基礎としてしまうと、おと(音)でとらえた言霊(ことだま)というのがあります。

それは発音された音、聞かれた音を数えてしまいますから日本語の要素なっている五十音を大きく越えてしまっています。

日本語の要素にある霊・気・内容に違いによる分け方でなく、おと(音)の違いでの分け方ですから、濁音促音等があるといって、おと(音)の連結した言葉を見ていきます。その連結した言葉の全体を言霊と結び着けたもので、単音五十だけでは満足していません。

というのも、発音された現象を追っているため、ことばの要素に独自の単音の霊・気・内容の時処位の違いを見ないからです。(単音に還元した説明も恣意的な経験概念による思い付きです。)

しかし、古事記の言霊(コトタマ、清音のタ)はコトと霊(タマ)の一致した単音要素のコト・タマを見ていきます。発音され聞かれる音は共通な一般性として「流布」させていくことが折り込まれています。

例えば、ことだまでは、今という言葉の言霊を探しますが、それは今という言葉の全体現象の言霊を探しています。

一方、コトタマでは、今のイとマという二つの単音の要素を探し、イのマとなった内実を探します。

前者は言葉(今)の内実、発展進化を探るのに、今に外部から説明を付け加えていき豊富な概念を付加して作っていきます。発音と与えられた意味とが分離していますから、多くの添加物が必要となります。(漢字の組み立てに意味はくっつけられますが、発音には関係しないようなものです。)

後者は内部のそれぞれの単音に、不離の意味内容を一致したものとして見ていきます。大和言葉のコトタマは発音がそのまま意味と成るようになっています。(イは動き出した力動が持続するこころの内容を表現しています。)

以上のことを言霊循環と結び着けると、前者では意味の付加付け足しで、当初の意味から逸脱しないようにという循環になります。

古事記の言霊循環では、当初のイならイの成長発展変態した姿の自己発見という循環です。日常でいえば自分の書いた言った言葉を自分で聞き見て自己了解をしていることになります。

自己発見というと、過去にあったものを見出すだけで、では進歩発展どうなる、過去を見出すことが成長そのものと成るイメージを削がれます。言霊循環はそれが説明できるでしょうか。

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マ◎ いま(イの間)論の準備

サイト『神の数学』にある、≪9=0≫とする

・・・0123456780123456780123456780・・・『宇宙次元原理表』(九九算表)

http://www4.tokai.or.jp/kaminosuugaku/old.html

と、ひふみ神示の

「12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、」

は、

元々の思想は古事記の父韻の運用のそれで、それぞれの分野での表現となったものです。

ひふみ神示はわざと父韻とは表示しません(一厘の秘密)が、神の数学の方はまだ気付いていません。

これらを繋げて、これからやろうとしている「今とは何か」と関連させるとどうなるかと、思い付きました。勝手な思い付きです。

神の数学の例示した数列を超簡単にすると-0-0-0-となり、それに、-過去-今今-未来-が配当できます。

1-8の各数列が「-0-」で左右に繋がっていますが、この-0-には二つの意味合いがあって、一つは1~8の次に成った9=0、一つには連続するうえでは、0を前次元の成ったものとしてそのまま、次次元の始めの0になっています。

ですので、1~8で成ったものを9とすれば終わりで、連続させれば、次次元の始めの0として、以下同様に繰り返されます。

その意味を言葉の創造に当てはめれば、一連の言葉例えば、「こんにちは」という五文字の発音了解にもあてはめることもできます。

発音以前に、イメージ(0)の「<こんにちは>」があって、1~8の八父韻の働きをを通過して、「こんにちは」の「こ」が発音され(9)、「こ」として了解されます。それが発音として正しく聞かれていることが確かめられれば、今度はその「こ」をベース(0)として(9=0)、次の「ん」が同様の過程を通り、五回繰り返されて、当初の頭脳内の「0=<こんにちは>」が1~8を通過して9となり、完成了解されます。(ここのたり、九で充分足りました。)

さらに、そこで会話が続けば、「こんにちは」が次の会話の「0」の位置にきますが、会話が中断されそれで終わりとなれば、これで足りたということで、発音された言葉は宇宙空間に放出されるなり、相手の記憶に印画されるなりして、自分は挨拶したのに相手は聞いていなかったとかの<0>となります。

この関係を「今」に当てはめるとこうなります。

今(イマ、イの間)、という発音から見た場合は前記と同様で、コンチチハがイマになっただけですから別の方面からみます。

「今」が瞬間であって瞬間でなく、前から継承すると同時に次に伝承する構造を見てみましょう。

それには「神の数学」には無い(注。)「0」の能動因を導入しなくてはなりません。

「-0-」が前後にダブって「0」であらわせる理由が必要です。数列にしてしまえば要りませんが、現実ではそうはいきません。

(注。)ここで「無い」というのは、「神の数学」のサイトの続きを読むには大金を払わなくては読めない仕組みになっているので、わたしは読んで「無い」ということで、その後の「神の数学」にはあることかもしれません。

さて、と続けたいのですが、、、、関連はしていますが、古事記に記載されていることだし、脇道へ入りそうなので、止めておきます。

「0」というのは古事記では「こ」のことです。

ひふみよいむなやこと、ここでも、9=0です。蛭子です。

というところで、気が削がれました。今回はここまで。

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ミ◎ いま(イの間)論の準備

「 霊界には、時間がない。故に、霊人は時間ということを知らない。其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。即ち、時間はないが状態の変化はある。(ひふみ神示)」

というのがあります。「霊界には、時間がない。、、時間はないが状態の変化はある。」というのがみそです。

読み替え遊びをすると。

1)霊界には、とき(時)がある。故に、霊人はとき(時)ということを知っている。其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。即ち、とき(時)はあるが状態の変化はない。

2)現界には、時間がある。故に、現界人は時間ということを知っている。其処には、霊的事物の連続とその弥栄がなく、歓喜によって生命していない。即ち、時間はあるが状態の変化はない。

3)現界には、とき(時)がない。故に、現界人はとき(時)ということを知らない。其処には、霊的事物の連続とその弥栄がなく、歓喜によって生命していない。即ち、とき(時)はないが状態の変化はある。

4、5、6)とまだまだできそうですが、もう遊びは止め。

どこの誰が霊界には時間がないと納得させてくれるのかわかりませんが、この「時間」という言い方、「霊界」という言い方が、日本語ではなく外来語であることに気付くべきです。

時間という言葉に従ってしまいその心の運びに盲従してしまうことと、時間を創造していく心の運びの違いがあります。(ひふみ神示は人を引っ掛けるのが大好きなようです。)

ひふみ神示自身も言っています。

「霊界には時間、空間は無いと申してゐるが、無いのでないぞ。

違って現はれるから無いのと同様であるぞ。あるのであるぞ。」

「時間、空間もあるのであるが、ないのであるぞ。」

「判るやうに申すならば、時間も空間も映像であって、情態(註:内面的な状態)が変るのみのことであるぞ。」

ということで、引用も気に入ったからといって恣意的にすると問題ですが、わたしのように言い換え遊びにしてしまうのも真面目さを欠くようです。

「一切の未来も一切の過去も、総てが現在ぞ。中今ぞ。現在は永遠ぞ。」

要するに過去も未来も「中今ぞ」ということが分かれば、けりの着くことです。

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ム◎ いま(イの間)論の準備

「中論」鳩摩羅什の訳、Zapoの現代語訳

「何ものも消滅することがなく(不滅)、

何ものも新たに生ずることもない(不生)。

何ものも断滅することがなく(不断)、

何ものも恒常であることもない(不常)。

何ものも同一ではなく(不一義)、

何ものも異なることがない(不異義)。

何ものも来ることがなく(不来)、

何ものも去ることもない(不出)。」

「質問して言う。

諸々の法(ものごと)は、はかることができないぐらい沢山(無量)あるが、どうして、この八つの事柄(八事)だけをもって、邪見を破れるというのか?

答えて言う。

諸法は、無量というが、略して八事を説けば、それがそのまま、総じて一切法(全ての物事)の邪見を破ることになる。」

とにかく仏教書は分析がお好きと見える。幾らでも切りきざんで行く。読み追いかけるのが大変だ。

ところがこれも見方を変えると、こうなる。

きっとどこかに公表されていないネタ元があって、それに沿って述べているだけかもしれない。隠されている口伝の原理があって、その口伝さえ知れば誰でもがほぼ同じようにどの問題についても、同じような分析の過程を経ていくことができる、のかもしれない。

時代を越えて書き手が変わっても、常に使える隠された原理があって、それを応用しているのかもしれない。

仏教の教えにもよく「八」に関するものが出てきます。昔、釈迦が古代大和の地にきてスメラミコトから教えを受けたこととつながっているからでしょう。

「八」というのは古代のスメラミコトが世界の宗教指導者に与えた原理の一部です。

スメラミコトは「原理」を教えたのですが、教えを受けた世界の聖人たちは自らの教義、教え、教訓としてしまいましたので、原理としては伝わらず、釈迦の「教え」とか、モーゼの「教え」、キリストの「教え」、孔子の「教え」とかになってしまいました。

各聖人たちがスメラミコトの「原理」を「原理」として広めたなら、現代の世界の混沌混乱は無かったでしょう。

大元の開始者達が受けた「原理」を、自分の「教え」としている以上、お互いに了解し合えることが制限されてしまいました。世界の歴史はそれぞれの「教え」の上に載って未だに暗黒史が続いてます。

しかし世界の各大宗教間での了解がとれないようになりましたが、世界中に各宗教の教えが伝搬した御蔭で、世界の人々の未来に希望と光があることが分かるようになりました。

それと同時に、どの宗教においても教義に囚われていては、世界の和は得られないことが全世界一斉同時に知られるように成ったのです。

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メ◎ いま(イの間)論の準備

まだ表題が定まらず、<いま>論、今( いま・イの間)論、今-今論その他とかいろいろ思っていますが、どうしても「イマ」を探りたいので「イマ」と付けたい思っています。

ところが、イマというのをイの間としても、どこから見ても理解はできないのが現状です。その元ネタを古事記にして、古事記が心の原理論教科書ですといっても、宣伝文句程度に聞かれる状況です。

逆に現在は、インスピレーションを受けて考えれば、想いが膨らみ思考が豊かに成ったように思われ、そうすると現実との乖離が気になり、そこで行動に係わるとこの世が変わるように感じられ、現実を変える思想を持っているように思い込んでいきます。

未来の目標が自分の中にできていますから、その基本要求を自分が実現していくと、そのまま社会も動くように勘違いをしています。それらが古代からの偉大な宗教道徳思想と結びつくと、その権威の元にそれが保証されているように感じます。

釈迦もキリストもモハマッドも未来への希望を与えてしまいました。それを基礎に未だに新しい宗教などが継ぎ足されています。二千年の間何もできていないことを思い出すどころか、忘れてしまい、非道と抑圧と殺戮の歴史を許してきました。

現代はそろそろ全体を自己反省する時代です。一つのことがすぐ全体に繋がっていることが普遍的に認識されています。

しかしそれを保証するための思惟規範が、原理と成る思想がありません。そのため過去代の偉大な思想、宗教を基礎として真似ていく事から始めようとますが、それを土台として前提にしていますから改築改修新発見の付け足しに留まります。でんぐりかえしに至りません。

ということで、ここから先は真の古事記の宣伝になります。

ですので書くことはありません。

自分で突っ込んで勉強してみる意外に分かることは無いでしょう。

表題候補

「今(いま・イの間)論」

「オノコロ島の今現在論」

「論考・今現在論をつまとして古事記はいかに成れるかと問い自答する」

「今門関」

「今(いま)学入門」

「中今学」-心の宇宙の中に活動が始まる一点

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モ◎ いま(イの間)論の準備

二十一世紀の世になっていまどき「今とは何か」などと問おうとしています。

古くて新しい問いなどといって、気に入っているわけではありません。

ましてや新発見があったからといったところで、せいぜい思い付きでしかないのは分かりきったことです。精神意識分野では心の原理が古代スメラミコトの時代に確定してしまっていますから、付け加えることはありません。八千年前に既に終了しています。私たちは知らないだけのことで、原理としては何時の時代にも貫徹しています。

丁度、鳥が卵を抱くように、母が乳をふくませるように、既に決まっていることです。

その原理とは古事記の神代の巻としてあらわされた思想のことですが、理解できるできないとか、理解するしないとか、誤解されるとか曲解しているとかは、個人レベルのことで、原理の実在に関係しません。

現代の世界は経済、知識、科学技術、情報、交通、生産流通、スポーツ等々は単一でそれ自体で完結してしまう規制された枠の中にありません。もちろん大昔から人間には渡り鳥みたいな習性が伝わっていて、いかだに乗って大洋に漕ぎだしていましたが、現代は多くの分野で、地球単位での行動になっています。

科学や知識分野が地球単位になっているのに、思考の分野はお気に入りの思い付きのおらが春しか目指していない。駆けっこだって世界を相手にしているのに、、、、

ところで、世界を目指すとどうなるのか。

日本語しか知らないのに世界を目指せるのか。

日本でさえ古事記を知らないのに、それを解説するというのか。

古事記の守護者である天皇も神話に拠らないと宣言してしまった。

疑問ばかりでどうする。

心の原理である古事記は何と言っているか。

あめつち

吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す

かくなすべし

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ヤ◎ いま(イの間)論の準備

よしなしごとを書いているうちにヤ行にまできてしまいました。

アから始めて五十音図に沿っていますが、言霊五十音とは関係なく、単に番号がわりに使用しているだけです。五十音図を発音で理解していると、七十幾つあるとか、ヤ行にはダブリがあるとかになります。

また、表音の五十音図の成立と、言霊五十音図とは別物で、言霊五十音図の文献上の成立と思想の成立とはこれまた別のものです。ここでは、八千年以上前には成立していたと思える言霊五十音図の思想を問います。

言霊五十音図は発音の数ではなく、言霊の数の五十のことです。

ウアワヲオエヱ、七、(母音)

チイキミシリヒニ、八、(父韻)

イヰ、二、 (親韻)

の計十七と、

タトヨツテヤユエケメ、十と、

クムスルソセホヘ、八と、

フモハヌ、ラサロレノネカマナコ、十四の、

計三十二と、 (子音)

最後のン、(表音文字)

の合計で、言霊五十になっています。

ヤ行にダブリがあるとか七十幾つあるとかいうのは、表音の数を数えたもので、言霊の意味はなく、言霊の意味を後から付け加えただけのものです。

(もちろんよく考え感じて言霊の意味を付け加えていますが、作者の感じ方で皆違っています。ですので、言霊ナは子の内容といった意味を持っているのに、表音文字に言霊の内容を持っておらず、与えられた意味、価値、威力があるとすることを示すだけです。)

この言霊の順序、ウからン、は皇室の賢所にあるとされる秘本に拠ったもので、この五十の言霊がそのまま、古事記の冒頭五十神に配当されています。

(秘本とはいっても、その内容はこうして民間人が幾らでも手に入れられるように流出していますが。)

これは皇室の権威を借りるというものではなく、古代八千年以上前からの人のこころを見つめ探求した結果原理として抽出されたものです。

誰でもが使用できるものですが、わたしのように自分で追体験をして確かめていないと、自分なりのお気に入りの思い付きが入り込んで言ったり、巷にあふれる全然別な方向の言霊理解(言葉に宿るとされた霊的な力といった)に成ったりしていきます。

古事記の神々の名前とそれへの言霊の配当があるということは、古事記に記されている神など、例えば天の御中主の神という神様などは、そのものとしては存在していないということです。

秘本では天の御中主の神に言霊ウを配当していますから、言霊ウに何らかの理由で天の御中主という名前を与えたのです。その謎解きをしようというものです。

そうすると古事記の神代の巻は心の原理運用法を説いた原理教科書であるということが浮かび上がってきます。

上記にアイウエオ五十音を不規則な形で示しましたが、実はこれが、神名に配当された言霊の順番通りの記述で、意識の発生成長発音され、聞かれて了解し宇宙に拡がるそのままの姿です。つまり、古事記の神々の記載順です。

数は合計で五十ですが、ウは二つで一つで、ヤ行のイとワ行のヰは独立していて、ア行のイとも別です。

これらは全て心の運用上の理由からきていることで、発音現象で分けているわけではありません。

わたしの言うことなどどうでもいいから、早く勉強したくてうずうずしているかたは、下記サイト、島田正路氏のサイト、をご覧ください。どこからも文句の付けようが無い、自分の誤解曲解無理解理解不能早とちり思い込み常識や学会の正式な意見からする文句さえも解消してくれます。

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/

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イ◎ いま(イの間)論の準備

言霊の原理は誰でも使用できるといって、私は書いていますが、真実を示しているのかというとそういうことではなく、単なるわたしの書き物です。もちろん真実を書いている人はいませんし、そこにあるのは個人的な経験に基づいたものですから、「真実だ」という主張があるだけで、無数の「真実だ」という主張の一つとなってるものです。

他の人の知らないこと珍しいこと、自由なことを書き主張すればそのまま、自己所有している真実を発表しているつもりになれます。

自分の意見の表明はそのまま自己所有している、自己に価値のある概念ですから、他者に向かうと直ちに自己=他者となって、自分の真実がすぐ他者にも真実になっていると勘違いしていきます。

あれは他人の言ったことと割り切ったつもりでも、それに評を加える時には他人に対しても他者の真実を代弁しているようなつもりになれます。最初から自分の主張だけを延べ合ってると了解していれば構図は簡単です。しかし、いずれにしても何の進歩もなく堂々巡りか他の方法を導入するしか解決を知りません。

そんなことを想いながら「黄泉国(よもつくに)」と「今」について私の「真実」を考えています。

そういうと、黄泉国とはこういうものだこう理解するものだと各人その主張をしたくなり、相手の意見を読んだり聞いたりすることが自己所有した理解の中に生まれますから、作り固めようとします。古事記では黄泉国の段落で次のように述べられます。

【ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。】

古事記は、【相見まくおもほして、、、愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、】と、自分の片割れに執着し愛着を抱き、さらには一緒になろうと自己所有物であるかのようにあつかおうとしています。全く万人の真実を語っているところで、まじめに読み込むことはせずにそのままそんなものかですましてしまうような場面です。

黄泉国というのは客観現象の世界のことで、死んでいようと生きていようと客観現象に囚われていればみんな黄泉の国にいるということです。仏教ではその囚われから脱するのに解脱とか悟りとかの体験世界へ導きますが、古事記では丁重にその起承転結を語ってくれます。

そこで、イマと黄泉国の関係です。

客観現象を実体とするのが黄泉国を扱うことですが、扱うことはイマのなせる技ですから、つまり妹伊耶那美を思うことが黄泉国に落ち込むことです。客観相手対象を実体客体と扱うだけで黄泉国に入るということになります。あのことを思いこのことを思うという全く日常のことです。日常は黄泉国を作りつつ進行していきます。

段落の終わりに「伊賦夜坂」というのが出てきます。「言うや性」であり、言う事の性質が夜でよく見えないことを言ってものです。出来上がったものに対してあれこれ言い出すので、規範を持たない場合には、見地思い、気づき閃きの相違で騒ぐことになり、規範があればあったで主観的な判断断定に導かれるということです。

イマは今動いている過去から未来へと今の現れている全体を含みますから、それに応じた規範を持たないと対応できません。黄泉国ではあったものがまあるだけで、それが今後の未来へ向かうときには過去概念の、過去経験の整理からでる判断によって、同じ条件なら反復するだろうというだけです。典型的には温故知新などといっていますが、反復するだけのことは保証されるかもしれないというだけです。

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今年の漢字が「金」ということですが、詳細は、「25万8912通の応募のうち、最多の「金」は9156通だった。読売新聞」とある通り、二十五分の一の投票数です。

単なる多数を選択する坊主、主催者の悪趣味がうかがわれます。

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ユ◎ いま(イの間)論の準備

黄泉国を死者の世界としても、黄泉へ行く前に生きていたということがなければなりません。生きていたという前提があって黄泉があるのです。

死者には死者の見方があると、客体側からは客体側からの見方があるという主張がでてきます。

言霊学では黄泉は客体世界ですから、やはり実体が創造されていることになり、おなじ構造の内にあります。主体側の働きがあって客体側をみることになりますが、客体側世界は主体側が創造したものです。

自分で生んだ片割れを黄泉国に放り投げて、そこの場面で実体と働きを謎々みたいにして語った文章がひふみ神示にあります。

「ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、ことにもなるのであるぞ、とも言へるのであるぞ、、、」

火の神というのは【火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神を生みたまひき。またの名は火(ほ)の炫毘古(かがやびこ)の神といひ、またの名は火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神】 言霊ン のことで、現象実在の総体を示します。

イヰ(イザナギ、イザナミ)の神は八父韻を介して現象(十の卵)を生みますが、客体と固定され向こうに置かれてしまうと、「八つ生んで二つ残し」たことになります。こちら側には十があり、あちら側には八があってあっちとこっちで「イヰ」が残され、共通部と独立した部を数えると十二になっています。そこで生死全体から見ると「十二の卵を十生んだ」と言っています。同じことを実在次元に当てはめると「五つの卵を四つ生んだ」ということもできますが、実相を言わないで算数の象徴を用いただけのもので意味はありません。

古事記では黄泉国の段落でこのことを扱っています。神示ではそれではどうするのかと述べていません。ただ「その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。」というだけです。

ひふみ神示では「うれしうれし」等の直接理解できる言葉を選んでファンになっている人が多いですが、実相は隠されていますから内容は無いといってもいいものです。というのも理解できるように隠されているのではなく、もともとわからないように隠されているので、幾ら読んでもお気に入りの言葉を選択し、懐にする以外に内容はありません。

もともと古事記を種本として古事記の思想に目を向けさせるためのものですが、訳者たちにまるで自覚が無いため古事記とは縁遠いところを回っています。

古事記やひふみ神示を黄泉国にあるものとして読んでしまわないために、すこし言及しました。

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江◎ いま(イの間)論の準備

古事記は心の精神原理教科書ですから、黄泉国があるということは心の黄泉があることで、心の動きの途中に必ずできあがり現れてくるものとして扱われています。生が終わって死んだ後にあるというものではなく、生きていくことが黄泉国を成立しつつ動いていくことです。

黄泉国は精神でのできごとですから、まず、精神が生きていることが前提です。つまり、黄泉国を思ったり考えたりするには我々が生きているから、黄泉国なるものを思うことができます。ですので黄泉国が世界のどこかの地中にあるのか宇宙のどこかの空間にあるのかというのは問題にしません。

一) 心にできる黄泉国ですから当然各人が生きている間のできごとです。実在物としての客観実体を黄泉とすれば、五感感覚で感知できる黄泉の実在が必要です。しかしそんなものはありません。

二) また、五感感覚を含めた意識で認知する黄泉をあるとすると、認知する側の相手対象となる黄泉があることになります。これは主体側の対象となる主客の関係を持ったものとなります。主体の活動に対する、客体の活動を表す関係での黄泉世界です。

三) ところがここに、物質の客観世界と意識の対象となる二つの黄泉世界の他に、イザナギの持つ黄泉世界があります。(今は黄泉のことを喋っているから黄泉というだけであって、他のことに適用してもかまいません。)

イザナギというのは自分のことです。このイザナギが自分の心の内に黄泉(その他)を打ち立てる場合の時のことです。

古事記の黄泉の段落に至るには、黄泉を引き合いにすれば、先天の黄泉から自己主体領域の黄泉とその活動領域ができて、黄泉の現象要素ができ、ついで、現象を創造して物的な形を取り現象としてはその独自の運行に任せられます。そこで黄泉という客観対象は神去りして物質世界のこととなります。これが(一)でイザナミの埋葬のことです。

それを意識で取り上げるのが(二)で、客観実在を意識の相手対象として主体客体の関係の中に置きます。普通の主客論がここから出てきます。

古事記の凄いところは、主客の成り立ちを説明してしまうことです。

(二)の客体があることを主体の働きの相手とするのは誰でも普通にしています。生理器官を持ち出したり意識や記憶を利用したりして説明されていきます。しかし、その説明の根拠が説明できないので誰も言い出しません。つまり、こういうことです。

例えば画面の〈画面〉という字を見て「画面」と納得了解する根拠を自分に見いだせないということです。学校で習って覚えているから、その概念知識と〈画面〉という文字との類似同一性相似性のおかげで「画面」と言っているわけです。ここまでが(二)の主客の問題です。

さて(三)はその根拠が、全く主体側自身内のことでしかないことを説明することです。

相手対象としての「画面」は向こうにあります。主体側はそれを認知して主客の関係をとた結びます。客体側は黄泉国にいる死んだイザナミです。それを生きているイザナギの頭の中に導くことがひつようです。その説明が感覚器官であり意識作用でもたらせられるわけです。

このイザナギの頭にもたらすことから(三)の段階の黄泉が始まります。何しろ相手は死んだイザナミです。黄泉国にて生きている形をとらすには、二つのことがあります。一つは単なる自然の過程内での作用反作用での変形で、動いているような見かけを得ることで、もう一つはイザナギが主体の相手対象として生き返らすことです。これで、主体意識の対象としてはイザナミは蘇りますが、生きて蘇るのではなく、死んだままの形で蘇るのです。

ややこしい言い方で申し訳ないが、当方の頭の限界であるし、人間知性の限界でもあります。つまり、問題は考えて書いていったり、書きながら考えていったりしている限界ということです。古事記の記述に従ってしまえばいいのですが、やはり謎は解かれないと面白くありません。

イザナギの(三)の黄泉とは【 かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時】

というイザナギの黄泉国の主体規範を持っているということです。

この灯火が(三)のイザナギの黄泉となっているものです。

イザナギの主体内にこの黄泉の灯火がなければ生きたイサナミとあうことはできず、死んだイザナミを見るだけです。

今とは何かという問題に該当させれば、私が「イマ」という灯火の規範が無ければ何も解決できないということになります。

全然公式とも常識とも正式とも違うことを言ってるようにとられてと思います。ことさら奇をてらって思いつきの奇抜さを紹介しているのでもありません。

例えば自分がこのように書くこと誰かがこのように読むことの日常行為に自然に生じていく、思惟行為の動きを古事記の黄泉国から現代語に訳してるようなものです。深読みとか曲解とかでなく、古事記を通して心の真実に向かおうとするものです。

それでも黄泉国をそう解するのは全然受け入れられないということでしょう。同じ論理がこちらにもあり、黄泉国をどこかに探すのは二千年(!)以来の誤解であると言っています。

それではどうなんだ。どちらが本当なんだと言うのが、黄泉国の内容です。黄泉国を場所として探す人は見つければ正解になるし、死んでから見つけるつもりの方はそうすればいいし、黄泉国を心のこととするなら今すぐできます。

後はどれかを選択して自分で確かめればいいのです。

この選択確かめ方そのものが黄泉国の話です、と、こちら側は言いますので気に召さない方はそれぞれの行為選択をしてください。

参考までに段落の始めを紹介しておきましょう。

【 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。】

実際の場所を探している方は幾ら頑張っても見つかるはずは無いのですが、そういった努力は今もつづいています。

実際の場所から少し後退して、死者の世界であるとする方はいろいろなイメージ勝負になりますからあんまり突飛なことにならないように。

生死の境を超えてあちら側の世界にいくという、確かめたわけではないがそんな思いを持つ方は、どうしても魂とかあの世とかの実在を設定しないと自分の言葉が続きませんので、やはり適当なところで切り上げないと妄想呼ばわりされそうです。

言葉を扱って済ましたいという方もいるでしょう。黄泉は中華の言葉ですが言葉の探求だけでも大変な労力がいります。

黄泉は大和の「ヨミ」という言葉に漢字を当てはめただけで、漢字以前の「ヨミ」という心持ちがありました。大和の「ヨミ」という心持ちを無視して黄泉の漢字を該当させても中国人式の黄泉国理解になるだけです。

もし古事記の黄泉国の段落に、こういったようなことがどのようにできて、どのように人の心持ちを占領し、どうしたらそれに支配されずに済むのかというようなことが書かれていたとすれば、どうなるでしょうか。

まずは発見してみましょう。

【 ここにその妹伊耶那美の命を=自分の片割れです。自分の創造したこと思ったこと考えたこと主張していること等々。

【相見まくおもほして、=自分の作ったもの主張したものは思いついたものはいとおしいものです。

【黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。=いとおしく会いたくなるその心とは何か。執着愛着による幽霊を、黄泉国を作ることではありませんか ?。

とんでもない。喜びの期待、愛の確認もあるでしょう。

死者とですか。

そうだ。いとおしさだよ。

それは心ですね。しかも、死んだ相手には通じない自分だけの思いです。それはあなたの主観です。こんな言い方をされると悲しくなりますが死んでしまった相手、出来てしまった主張、書かれた話された言葉等々、には通じません。返って形となったものがあなたをとらえようとします。そこでより執着愛着を起こしたら黄泉に囚われます。抜け出られませんが、自分の半分は確保したつもりになれます。なぜならそこにあるのは自分が作ったものですから。

書けば書くほど自分の黄泉国をつくり、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。

黄泉国をやり直さないと駄目なような気がしてきました。

黄泉国=執着からの解放の準備

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ヨ◎ いま(イの間)論の準備

黄泉国は精神の客観世界のことで、出来上がった世界のことです。ですので「イマ」との関係を考えるときには少々特別な関係になります。というのも出来上がってる世界には未来はなく、未来へ向かって動くことが無いので、過去-今-未来へ流れる方向はありません。

ところが日常生活ではあれこれ、こうだああだと過去にあったことに言い合いをしています。過去に対して言い合いをしていますとあたかも未来へ通じる道を開いているように思われてしまうこともあります。このことを古事記の表記では【 一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、】と書き示しています。

つまりの「過去-今」のあり方を取り上げてその範囲の中で「過去-今・今-今・今-未来の流れ」を概念で再構築しているのです。

過去の話を取り上げるときには、黄泉国が二つあることに気づきます。前回の二と三のことです。主体側に取り上げられた客体側で、出来上がっている相手対象となるものと、その対象を今現在意識している時に主体側において客体側であることを意識させている主体内の客体です。ややこしい言い方で申し訳ない。言い換えると、今客体側を意識するための規範に比較される頭脳内の客体と、出来上がったあっち側にある客体です。

例えば、「客体です。」とパソコンの画面に出ていますが、これが出来上がってしまった客観世界で、それを読み認識する時には、頭脳内において「客体です。」を了解する納得するための規範がないと、字を見ているのか絵を見ているのか判断がつかないのです。前者が死んだイザナミの世界で、後者がイザナギの主体内に生きているイザナミの世界です(同様に黄泉の国と呼んでいます。ヨミ・四の実、四つの次元世界の実となっているもの)。

古事記ではこの判断の用い方が詳しく示されています。これは判断する側の主体に係わるもので、客体側自身が動き自分でしゃべるわけではありません。(これを喋らすのが物質科学認識分析の役目となります。)イザナミは死んでしまっていて、ギの命一人だけですから、ギの命の取り上げる客体世界というのは、イザナミの出来上がった世界の形を借りたギの命の世界にならないと、ギの命の働きが有効でなくなります。

ここには、イザナギの主体内に過去-今-未来の全過程があります。この未来をも目指すイザナギの力動因があるので、過去のイザナミを取り上げても生きているイザナミがいるように見えるのです。これが過去を取り上げても未来につながっていると思える根拠です。

そこの手続きを古事記の黄泉国の段落では、判断の過程を、その前提から、実在次元の母音世界、父韻の働き、判断が取り上げるもの、判断する上で主体側に欠けているもの、等が示され、次段の禊ぎ払えに向かうという、凝りようです。

イザナミはいませんが彼女の世界をとりあげるやいなやイザナミの全世界状況が目前に繰り広げられます。ただし主体である自分自身が成すこととしてですので、死んだイザナミが相手をしてくれるわけではありません。

ここの所を古事記は美の命が追っかけてくるように記述しています。その意味はギの命が囚われ落ち込む各地点のあり方を示し、黄泉国に堕することのないように段階を示すためです。ギの命の思惟行為に付き物の(つまり誰でも全員に付き物の)黄泉国へ堕していく必然のきっかけをその都度示してくれています。

またこれを、さらに上位の見地から見れば、次段の禊ぎ払えの内容を示すためでもあります。この必然的に誰でもが黄泉国に堕していくことがあるために、禊ぎ払えの次段が用意されていいます。禊ぎ払えとは何をするものかが黄泉国で示されたわけです。

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ラ◎ いま(イの間)論の準備

過ぎ去った過去、黄泉国、は主体側が取り上げることによって、力を持ってきます。どうしてでしょうか。死人に口無しどころか祭り上げ跪き拝みます。さらには空想予言予想にに脅え、自分を放棄して神頼みの蓑に隠れます。宗教界、思想界はいうに及ばず、組織でも日常生活でも黄泉の構造が支配的です。

黄泉の国のイザナミは常に勝者であり黄泉津大神です。

仏陀は執着から解脱せよと言ったきり寝たままです。キリストは天にまします神を探しに行ったまま降りてきません。ごちゃごちゃ言い出す新興宗教も精神世界の新思想も拠り所にしたものが動く気配はありません。期限の切れた予言をつないで新しくしてもどうせまた期限切れになる不安を消せません。

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黄泉国に行くといいますが、精神が行くにしろ魂にしろ身体が行くにしろ、まずこちらにあるものがなければ行こうにも行かれません。

自分が黄泉国に行くのなら自分の何が行くのか、誰も明らかにしません。

身体の何が、精神の何が、魂の何が黄泉国に行くというのですか。

黄泉といってもどこにあるのかわからず、古事記の記載された漢字表現から地下ではなく山奥にあるという主張もあります。死者の国だといいますが、おとぎ話としてなら通じるでしょうが、まじめに黄泉国として書くものがあるのでしょうか。神話学となってますから、それなりに尽きないお話もあるでしょう。

言霊学はそういった主張こそ、黄泉国の主張であるとしますが、それらの一つ一つを取り上げて起承転結を明かすのも疲れるし、明かしたところでそういったこともあると了解されて、それで知識を得たような気持ちにさせて、何もなく終わるものです。

これは言霊学からの説明が悪いのか、人の頭はどうしようもなく言霊学を受け付けないようになっているのか、そういったところでしょうか。ひふみ神示のように秘密だからわからないようにしてあるけれど、いつかでんぐり返しが来るまでお待ちなさいというのもあります。

いずれにしてもその間は黄泉国、過去経験世界はでかい顔をして世界にのし上がっていきます。そればかりか、生者の国の人を毎日千人殺すとまでいいます。過去世界のわけのわからないイザナミはそんな脅しまでしてきています。

こういったわたしの主張も、それを聞いて反撥するのもみんな言い古されたものですが、喋っている当人にはその人の今を形成するものです。何を喋ろうともどんな反対意見を述べようとも、それぞれ自分の存在を主張していきます。

そのベースは黄泉国の知識、死んだ知識です。

「伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。」

そこで美の命が目覚めて私を自由に使って応用して頂戴、温故知新といわれるでしょう、などと言い出すものなら黄泉国はガチガチの砦となります。

イザナギは蛆のがさがさしているのを見て逃げただけなのに、イザナミには「吾に辱(はじ)見せつ」ととられました。批評なり批判なりをしてあげた方が余程ミの命の気持ちがすっきりするのですが、そうしませんでした。

返って「事戸(ことど)を度(わた)す」ことになります。

さて、ややこしい問題があります。過去事象であるイザナミの世界に「事戸(ことど)を度(わた)す」とはなんでしょうか。

死んでしまったあっち側の世界になぜわざわざ事戸を渡すのですか。

放っておけばいいのですが、そうすると「吾に辱(はじ)見せつ」ととられます。挙げ句の果てに千人殺すです。

イザナギさん、どうしますか。

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リ◎ いま(イの間)論の準備

人はでかい顔をしている過去に翻弄されます。

どこかの少数の人たちは「今しかない」などと言っていますが、そう言うしか知らない過去知識に翻弄された何とかの一つ覚えになっています。

その解説、言葉使いは過去知識の繰り返しです。

つまりわたしの言うことも同じ構造の中にあり、人様に向かって偉そうなことは言えません。

今あることが、ただありのままにあるだけだと、素晴らしい未来への言葉を述べたとたんに、その過去となった言葉に囚われます。

二回目に述べるときは全然未来への言葉となっていません。

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ル◎ いま(イの間)論の準備

コメント 2012/12/23(日) 午後 5:32[ ◆ ] がありました。

「菊の読み方には「クク」とか「ココ」とかあるんですね。

菊理姫(ククリ姫)とか

菊(ココ)菊の古名とか

九九の意味がなんとなくわかったのでよかったです!

ココのネタ元 ホツマツタヱ

みかさふみ なめことのあや

ナカツキハ オオトシツケル

なかつきは おおとしつける

九月は 大年 告げる

ココノミハ カサネココクリ

ここのみは かさねここくり

菊の御衣 襲 菊・栗

ククリ姫は古事記ででてるしココという読みまで出てきたら

九九は菊と考えてよさそうですね。

裏が一で16とかと関連ありそうだなぁ・・

っていう程度です^^;

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菊理媛に関しては、日本書紀の一書でチラッと出てくることをいいことに、勝手な解釈が横行し、いつの間にやら公式見解とやらもできているようです。

そのように好き好きな思いつきを言わせるように、もともと仕組んでいたのかもしれません。

つまりどのような意見を吐こうとも正解には達しないという非常な自信が書紀の作者にはあったのでしょう。

深慮深謀次元をくっつけた思い付き次元とやらで語るのではなく、原理的にはどういうことでしょうか。

和解、和合、縁結び、死者と生者の仲介、締めくくった、というのはそれぞれの現象のあらわれです。

出されたカレーライスがまずくて断った場面みたいなものです。何か言われて黄泉国を出ました。

イザナミも「『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と、伝えられた後の姫の出番です。

「こころをこめて作り上げたカレーです。これ以上のものはできません。」といった後に吐いた、姫(秘め)の謎の言葉です。

「イマ」と発音して「イマ」と聞いて「イマ」と反復して「イマ」と了解する場面で、姫(秘め)の言うべきことは何でしょうか、何が残っているでしょうか。

次の段落は禊ぎです。汚らしい国から持ち来ったものを全部脱ぎ捨てます。

当然、イザナミとの和合、和解、縁結び、生死の仲介もくくりも脱ぎ捨てます。

現象からする現代の解釈はその逆ですが。

イザナミとは何だったのか。

イザナミの脇に立つことのできるのは何か。

書き表さず、聞かせず、相手を納得させるとは何か。

和合、和解、縁結び、生死の仲介もくくりではないが、それらである、その心とは何か。

未完。

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