ふ 神とは。(旧稿)

神とは。

(その1。) 神とは。

古事記伝。本居宣長より。

神を「迦微(かみ)」と言うのはなぜか、分からない。【世間で言われる語源説はみな当たっていない。】

一般に「かみ」は、古い典籍に記載されている天地の諸々の神々を始め、それを祀る神社にいる御霊を言い、また人はさておき、鳥獣木草のたぐい、海山など、その他何であれ、尋常ならざる優れた徳(能力)があって、おそれかしこむべきものを言う。

【「優れた」とは、尊いことや善いこと、功業などが優れているというだけではない。悪いもの、奇(あや)しいものなども、世に優れてかしこむべき存在は神と言う。

人について言えば、世々の天皇がみな神であることは言うまでもない。それは遠つ神と言い、凡人とは遙かに遠く、尊くかしこむべき存在である。だからいつの世にも神である人はいるのだ。

また天下に喧伝されることはなくとも、それぞれの国や里、家のうちにあっても、それに応じて神と呼ぶべき人はいるだろう。

ところで神代の神々も、多くはその当時の人であって、その頃の人はみな神だったので「神代」と言うのである。また人でないものとしては、雷などは普通にも「鳴る神」、「神鳴り」と言うから、言う必要もないが、龍、樹霊(こだま)、狐などもすぐれて奇しいもので、かしこむべきであるから神と言う。

木霊(こだま)とは俗に言う天狗のことで、漢籍に魑魅(ちみ)と言うたぐいのものである。書紀の舒明の巻にある天狗は、これとは違う。また源氏物語などには「天狗こだま」などとあるので、天狗とこだまとは別物のように思えるが、当時は天狗とも木霊とも言っていたのを何となく書き連ねたにすぎず、実際は同じものだ。

現在俗にこだまと言っているのは、古くは山彦と言った。このことは、この伝には別に必要もないのだが、木霊を挙げたついでに述べたのである。

また虎や狼も神と言ったことが書紀や万葉に見え、伊邪那岐命が桃子(もものミ)に「意富加牟都美(おおかむつみ)命」と命名したこと、磐根、木の株、艸(かや)の葉などがよく物を言ったのも神である。

海山を神と言った例もあるが、それはその御霊を言ったのでなく、直接にその海や山を神と呼んだのである。これらも畏れ多い存在だからである。】

神はこのように様々であり、貴い神、賤しい神もあれば強い神、弱い神、善い神、悪い神もあって、心も所行もそれぞれの本性に従ってとりどりなので【貴い賤しいにしても段階があって、最も賤しい神の中には勢いが弱くて、凡人にも負ける神さえいる。

狐などは、怪しい業を為すことでは人間に優り、まさに神なのだが、犬にも負ける賤しい獣である。しかしそういう賤しい神ばかり知って、どんな神でも人間の理屈で対抗することができ、おそれ畏まる必要まどないと考えるのは、神には高い神と賤しい神があって、その威力にも差があることを知らないための間違いである。】

およそ一つの基準で定めても論じることのできない存在である。【それなのに世人が、外国で言う仏や菩薩、聖人などと同じようなものと考え、当然の理ということをもって神の意志を測り知ろうとするのは、とんだ間違いだ。

邪悪な神は、理に合わないことを行われることが多く、善い神ではないから、それに従っていては、正しい理では起こるはずのないことが起こり、事によって怒りに逢い、荒びて災いになることがある。

またそうした悪神も、喜ぶときは、心が和んで、幸運に恵まれることも絶対にないわけではない。また人の知恵の及ぶところではないが、その神の行われることが、一見悪いことのようでも、実際は善いことであり、逆に一見善いことのようでも、本当は悪いことだったということもある。

人の知恵には限りがあり、真の理は分からないので、とにかく神のご意志は、みだりに測り知ろうとするものではない。】まして善神も悪神も、非常に尊い神々の行いに至っては、極めて霊妙で測り知れず深いものなのだから、人間の小さい智恵では、神の理の千に一つも理解できない。

ただその尊いことを尊び、可畏い(かしこい)ことをかしこむべきである。

【「迦微」に神の字を当てたのは、よく当たっている。ただ「かみ」というのは体言(名詞)で、その存在を指示している言葉であって、その行いやその徳を言うのではないのに、漢国では、神とはそのものを指して言うだけでなく、その事や徳をも言い、体言にも用言(形容詞)にも使う。

たとえば漢の書に神道と言うのがあるが、それは測りがたくあやしい道ということで、その道のありさまを形容するのに神という言葉を使っているのであり、その道の他に神があるというものではない。

しかし皇国で「かみの道」と言う場合は、神の始められた道という意味であり、その道のあやしいさまを言っているわけではない。「かみなる道」と言えば、漢国の意のようになるけれども、それもなお具体的な道を言っているので、その道のさまを形容しているのではない。

書紀に「神剣」、「神亀」とあるのは漢国の意で、「あやしきタチ」、「あやしきカメ」と言うだけの意味だから、「かみ」とは読まない。これを「かみタチ」、「かみカメ」などと読む場合は、その剣や亀を指して言うことになり、「かみ」はそれらの名前だということになる。

およそ皇国の言葉の意味と漢国の言葉の意味は、完全には一致しないことが多いのに、一部合わないところがあっても、大体似た意味の字を当てたのだから、合わない部分があるということをよく心得ておくべきである。

また漢籍に「陰陽不レ測之謂レ神(いんようハカラレざる、これをカミとイウ)」とか、「気之伸者為レ神、屈者為レ鬼(キのノビタルをシンとナシ、カガマリタルをキとナス)」などのたぐいを見て「かみ」を考えてはいけない。こういう風に逆立ちした論法で物を説明するのは、中国人の癖だ。】

------以上古事記伝より。---------------------------

神認識の問題が人類はじまって以来、最大最高の人に与えられた崇高な課題だというのは間違っているでしょう。

現代では神についてはその理解や定義とかは裾がひろがりすぎて手に負えなくなっています。しかし、普通に考えて人生の誰にでも神など思いもしない時や、考えもしない時代があります。と同時にいつか考え始め思わざるを得ない状況も到来します。

個々人の人生は人間の歴史の縮図でもありますから、当然人類史上にも神など思いもしない時代と、思わざるを得ない時代とがありました。神という言葉が既定のものとして与えられている現在では、神など思いもしない時代という言い方には納得できないかもしれません。

しかし、神という言葉もいつか出来てきたものだし、ひとよりも先に神という言葉があったというのは無理でしょう。もちろん信仰からすれば、神によって言葉も与えられたものとなりますし、その理解と反抗も神から来ているとなるでしょう。

信仰によらなくとも言葉は神から与えられたということに同意する人もいます。

神という言葉が神から与えられたのなら、人は為す術はありませんからそのまま受け取ればいいのですが、神という言葉も語源が分からないからそうだということになりそうです。

でも人の心が神という言葉を作ったならのなら、その心の動きを見れば何か見つかるかもしれません。

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(その2。) 神とは。

人間と関係しない神は神ではありません、あるいは人間の向こう側にいるだけの見ず知らずになります。

ですので人間とかかわりあうとたちまち神は、人間によってあれこれと定義を与えられ、説明され、こうこうこういうものだとなっていきます。中には言葉を超えたもの畏怖畏敬するもの説明できないもの、神の名さえ口にしてはならないものというようになっていくものもあります。

神さんは人間達に自分を説明させるのは非常にやっかいなことだと感じているかもしれません。

わたしたちは神さんからの声やメッセージを見たり聞いたりする事はできません。非常に多くの経験談はありますが、神に仕える神職達でさえそれらの全てを承認するのに及び腰です。

そこで人間の方から神さんに向かうのは自由ですし、神さんから人間へは通常何にもありませんから、こちら人間側から神さんへ向かうあれこれなら考えやすい事です。

神さんを全知全能だというのも神さんが言ったかどうかは分かりませんが、人間がそういう風に言うのは確かですから、人間側からの意見としてそれを考える対象にすることはできます。

どこかの御告げに、神について考えてはいけない、というのがあれば皆心安らかになれると思いますが、そういう御告げがないと言うことは、神は人間に勝手な事を言わせて、いつか一本釣りして楽しもうということなのでしょうか。

神さんが何をするのかは分からないのが普通で、分かった教えてもらったといっても、全人類相手をしている神さんにしては規模が小さすぎると思えるものばかりです。

それでも人間側から向かうときには、仰々しく大袈裟にしていき、そういう心持ちを持つことが、神さんへの態度であるかのようです。

ということはそういったことに中にも、人間側からの心の持ち方、言葉の使い方に、神との関係がでていることになります。

そういった心持ちを言葉にすると、全知全能の創造主、唯一者、絶対者、優れたもの、高みにいるもの、とか、何でもかんでも、いいもの悪いもの、全部まとめてひっくるめたものへの感情を誘う何か誰か、というこちら側の心持ちが出てきます。

そこで、ある人は、ではその心持ち、あなたの心はどこから来たのかというところで、簡単に外部者と結ばれて、心を持っている側を受動的な位置に置くと、その対にいるものを想定しなくてはなりません。

そこには、自力とか自分とかはありませんから、現存することは生かされていること、生かしている存在が他にいらっしゃる、ということになります。

自分人間側の視点によって人間を生かしているという視点や感謝の心があったことから、直ちにその外部に自分の視点が移動していることがあります。

自分が生かされていることが、外部の誰かが自分を生かしているとなってしまいます。その誰かは最高の最大の形容を与えられ、創造主、神と呼ばれるようになります。

しかしここで最高の形容を用いるのは人間側です。神ではなく両親でも隣人でもいいはずです。乳を与えられて飲んでいる赤子に、では神さん哺乳瓶使って授乳してくださいなどどいったら、赤子は餓死します。

母親には出来ても神さんには授乳など到底出来ないので、高みに昇った抽象次元で、乳首を吸う力を神が与えたというところに引っ込み隠れます。

全知全能の創造者は現実には無知無能なのです。抽象次元に引っ込み、本当に申し訳ない、と恥ずかしがりながら、神の無能無力があなた方人間の生きる力の源泉なのですよと言っているのです。

神が全智全能なら人はそれに頼ればいいだけですが、無力無能な御蔭で人の意志と努力があるのです。

ということは、人は無能無力をまつり上げる方向へ向かう心持ちがあるということになります。ではこの心持ちとは何かを見ていけば多少は神さんのことを知ることもできるかもしれません。

(その3。) 神とは。神などいない幸せな時代。

大昔、あるいは、今ここでの、わたしたちの生きている時代この時に、神などということもなく、それでも幸せに生きている時がありました。

そこでは、神さんなどいないのですから、神という言葉も知らず、拝めも崇めもする相手を知りません。

この世、宇宙を超越し、世界を創造したとか言う言葉使いも知りようがありませんでした。

ですので、神を信じるとか信じないとか言う言い方が、存在しなかった時代です。

現代は、神を信じるとか信じないとか言うことができて、どちらからも「神」という言葉があることから出発しています。

神を信じる信じないという言い方がなかった大昔、あるいは、今ここでの、そんな言い方など思いもつかずに生きている時代が、誰にでもあります。

それは信じるという人にも、信じないという人にもあるもので、そこの時点に立ったときには、じぶんの身の上を見るか見ないかの心の持ちようで信じる信じないをいうようになります。

そのときには、神がいるいない、信じる信じないというようなことではなく、自分の身がどのようになっているのかを、見るか見ないのかになっているのですが、それを「神」という言葉を拝借して自分を表そうとします。

ところが、自分のことを振り返れば、言霊をやっているのに神を知らないとは情けないことと思われそうです。

そこで神さんのことを知っているひとを探しますと、いるはいるはごちゃごちゃするほどいます。どういうものかとみると、自分の意見や考えを言う人たちがほとんどで、見たり聞いた読んだりしてみれば、なるほどそうか、そういうこともあるか、で大変参考にはなります。

なるほどそんなこともあるかで、では私はと、ちょっと立ち止まって思うと、それらの人は、神を知っているのではないのです。つまりそこで自分が見たり聞いたり読んだりしたしたことは、それらの人たちの思い付き、ちょっとしたアイデア、研究の成果という概念等々を披露しているだけで、神を知ったことには一切触れていないのです。つまり神を知っていないのです。

中には、たまには神さんとの交流経験があるという人がいますが、言葉を聞いた姿を見た、というだけで、それでも、神さんを知っているということではないのです。

神さんの御告げを伝えているという人もいますが、世界人口の64億分の一にしか分からない言葉で伝えているようで、とうてい全知全能何でも知っている神さん、という御告げではありません。まるで神さんも国籍を手放したくないようです。

神さんについて述べる人たちは神さんを知っているのではなく、知っている知識を喋っているか、記憶している概念を話しているだけです。ですので、話し合う人同士が通じ合えないのが普通という状態です。

それでも、自分の知識を保つことに、それなりの保証があるのか、買うのか、信じているのか、拝んでいるのか、それなりの集団の規範の中にいることとか、同じ概念を持ち合わせていることとかに、安心感があるようです。

いずれにしても、多少の量的な寄せ集めからくる概念知識の安心感が担保として、それぞれの人にあるようです。でもそれは、神さんを知っていることとは違います。

そこで神さんを知っている人を探しても何もならないことが分かりました。と同時に思うのは、そんなことは誰にでも分かるはずなのですが、分からないということが分かりました。

それぞれの人に知的な担保が安心料として分配されています。この安心料は、様々な形で神を知っているという人たちに配分されていますけど、ここではそれは置いておきます。

やはり、仕方なく、拠り所を求めて、古事記にまた戻って神についてどう書いてあるかを見ますと、驚いたことというか、当たり前というか、馬鹿にされているというか、最高の智恵の表現というか、次のようになっています。

しかも、文頭にこう書いてあります。

『この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(みみ)を隠したまひき。』

神を信じても信じなくてもいいけれど、神の知識が有ろうと無かろうと構わないけれど、出せるだけアイデアを出してもらってもいいけれど、神というのは、『 身(みみ)を隠したまひき。』なんだよと、書いてあります。

『 身(みみ)を隠したまひき。』とは目で見、耳で聞かれるような現れた出来事(現象)ではなく、心の先天構造の中でだけの実在であるから、『身(みみ)を隠したまひき。』ということなのでした。

(その4。) 神とは。引導を渡すとき。

神さんは日々毎時毎分メッセージを発信しているかもしれません。もしそうなら、何という無知無能なことをしているのだと、われわれ人間は神に取って代わらなければならないと思いませんか。

愛と慈悲と光の抱擁の世界のメッセージを時々刻々と下々に送っているとしたのなら、その歴史の成果、現状から見て全くのウソであることが分かると思います。というより、そのように努力している人間の芽がやっと出てきた時代になったといえそうです。

それもこれも、数千年間も神さんに任せてきましたが、人々の頭の中にもうそろそろ引退じゃないかという思いが出来つつあるからです。

そんな見方の象徴的なことが少女にも起きました。

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【ローマ=末続哲也】ローマ法王ベネディクト16世が、22日放映のイタリア国営テレビRAIのカトリック教徒向け番組に出演し、東日本大震災を体験した7歳の日本人少女からの「なぜ子供も、こんなに悲しい思いをしないといけないのですか」という質問に答えた。

RAI などによると、法王がテレビで一般視聴者の質問に答えるのは初の試み。質問者は約3000人の応募から選ばれた7人で、うち1人がイタリア人の父、日本人の母を持つ千葉市美浜区在住の少女、松木エレナさん(7)となった。エレナさんは自宅近くが液状化の被害を受けた。

エレナさんは「私は今、とても怖いです。大丈夫だと思っていた私の家がとても揺れたり、私と同じ年ぐらいの子供がたくさん死んだり、公園に遊びに行けないからです。なんでこんなに悲しいことにならないといけないのですか」と、ビデオ映像を通じて日本語で質問した。

これに対し、法王は「私も同じように『なぜ』と自問しています。答えは見つかりませんが、神はあなたとともにあります。この痛みは無意味ではありません。私たちは苦しんでいる日本の子供たちとともにあります。ともに祈りましょう」などと答えた。

日本の少女からの質問と、これに対する教皇の回答は次のようなものだった。

質問:

「私の名前はエレナです。日本人で7歳です。今、私はとっても怖いです。大丈夫だと思っていた私のおうちがとても揺れたり、私と同じ年くらいの子どもがたくさん死んだり、お外の公園に遊びにいけないからです。なんで子どももこんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか。神様とお話ができるポープ(教皇様)、教えてください。」

教皇の答え:

「親愛なるエレナ、心からの挨拶をおくります。私も同じように自問しています。どうしてなのか? 他の人たちが快適に暮らしている一方で、なぜ皆さんがこんなにたくさん苦しまなくてはならないのか? 私たちはこれに対する答えを持ちません。

でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。たとえ私たちが答えを持ち合わせていなくても、たとえ悲しみは残っても、このことは私にはとても大事なことに思われます。神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。

いつかなぜこうだったかがわかる時さえ来るかもしれません。今、大切なことは、「神様はわたしを愛しておられる」と知ることです。それはたとえ神様が自分を知っているように見えなくてもです。

いいえ、神様は私を愛してくださり、私のそばにおられるのです。そして、世界で多くの人たちが皆さんに心を寄せ、皆さんのことを思い、皆さんを助けるために、何かできる限りのことをしようとしているということを知って、心強く思って欲しいのです。

そして、いつか、この苦しみが無駄ではなく、そのあとに良い計画、愛の計画があることを理解できる日が来るでしょう。安心してください。私たちは、あなたと、そしてすべての苦しむ日本の子どもたちと共にいます。私たちは、祈りと行いを通して皆さんをお助けしたいと思っています。

そして、神様が皆さんを助けてくださることを信じてください。その意味で、皆さんに一刻も早く光が訪れるよう一緒にお祈りしましょう。」

---引用ここまで。-----------------

神さんは無知無能無力でもいいのですが、それを真似て人間側の法王までもが無能であることを威張り散らしているようです。人が神と言い始めて以来、同じ言葉を吐いてきたことと思われます。

キリストが自らにおいて神を証明したようにではなく、法王のは拝めば利益があるというものです。この人の言葉から、法王は神を見たことも、聞いたことも、光を見たこともないというのが分かります。

イエス・キリストでさえ、「神」という言葉が人間に固定的に与えられてしまった時代に生きていました。しかし、彼は身体を張って自らに主なる神が生きていることを追求してきました。

同じ時期の天皇陛下の言葉を追加しておきます。

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『 東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば(平成23年3月16日)

この度の東北地方太平洋沖地震は,マグニチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり,被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し,犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また,現在,原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ,関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。

現在,国を挙げての救援活動が進められていますが,厳しい寒さの中で,多くの人々が,食糧,飲料水,燃料などの不足により,極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより,被災者の状況が少しでも好転し,人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして,何にも増して,この大災害を生き抜き,被災者としての自らを励ましつつ,これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。

自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々,諸外国から救援のために来日した人々,国内の様々な救援組織に属する人々が,余震の続く危険な状況の中で,日夜救援活動を進めている努力に感謝し,その労を深くねぎらいたく思います。

今回,世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き,その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。

海外においては,この深い悲しみの中で,日本人が,取り乱すことなく助け合い,秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え,いたわり合って,この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。

被災者のこれからの苦難の日々を,私たち皆が,様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく,身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう,また,国民一人びとりが,被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ,被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。』

---引用ここまで。-----------

ここでは、神道の神さんはいませんが、神道の心、人の心があります。

(その4。) 神とは。「かみ」の語源の材料集め。

「かみ」の語源は不明だそうです。決定打がまだでていません。

言霊のことをやっているのに、「かみ」の語源ぐらい知らないで何やっているのだと言われそうです。

神という時いろいろな表象説明はあります。それらの全てを集めて、その上に現在の64億の思いを整理しても「神」には到達しません。

しかし、そこで「神」というとき神という言葉があって、その言葉の範囲内で神といっている事実があります。頓珍漢な答えも、反宗教の答えも、無宗教の答えも、それぞれに「神」という言葉の中でそれぞれに見合った使用法を用いて回答しています。

ここに心の動きにまで「神」という言葉を昇華していくことができるでしょうか。人間から神の方へ向かう心持ちを知ろうと、神を説明する言葉を集めて抽象していくとどんなことになるでしょうか。人間はどんな心持ちをもって神というのでしょうか。

そこで古事記に問うと、「何々の神」というのは無数に出てきますが、神の名前に「かみ」があるのは、冒頭百神には、

高御産巣日(たかみむすび)・主体タによる?み結び、

神産巣日(かみむすび)・客体側に?み結ばれる、

闇淤加美(くらおかみ)・勘定により?み結ぶ、

神直毘(かむなほひ)・噛み直す、

がいます。

人が神に与えた属性を、統一性、絶対性、無限性、唯一性、創造性、全知全能性、超越性、何かが有るというもの、われと言うもの、等々、64億個の思い達を凝縮し、さらに最後の一言まで凝縮したい。

そうするとどうなるか。

淡路の穂の狭別の島 に住む【 天の御中主 】となります。

簡単に言うと【 一 】です。

その動き働きを考慮すれば、無(空)から一を経て剖判して二へ行こうとしている時に成るものです。

要するに実体を一言でいえば【 一 】ですが、果てしない上方からくる強制力を伴わせなければ「神」にまでなれません。

どのようにその力を付けたのかを見つけようと思います。

まずはその予定だけ。

・(その5。) 神とは。「かみ」の語源

・(その6。) 神とは。一 とは

・(その7。) 神とは。人が上に昇る

・(その8。) 神とは。上に昇って忘れ物

・(その9。) 神とは。上が大きくなりすぎて下りてくる

・(その10。) 神とは。神と一の再会

・(その11。) 神とは。自覚による合一

(その5。) 神とは。「かみ」の語源

高御産巣日(たかみむすび)・主体タによるかみ結び、

神産巣日(かみむすび)・客体側にかみ結ばれる、

闇淤加美(くらおかみ)・勘定によりかみ結ぶ、

神直毘(かむなほひ)・噛み直す、

共通しているのは、か・み、が入っていること。

かみ、は噛み、噛み合わす、交流する。ただし上下主客が同じ運動をするのではなく、主体側の働きかけに相手側は答える応じる関係です。(歯の動きを見てください)

また、カの言霊は、

大戸惑子の神。大戸惑女の神。 言霊カ、マ

耳の孔に入って来た言葉は復誦され、 次にその意味・内容は「こうかな、ああかな」と考えられます。

掻(か)き混(ま)ぜられ、次第に煮(に)つめられます。 煮つめの道具を釜(かま)と呼びます。

この作業で言葉の意味・内容が明らかにとなり、有音の神名は完全に真名に還ります。

大戸惑子の神は霊を、大戸惑女の神は音を受け持ちます。

言霊カは掻(かく)・貸(かす)・借(かりる)・金(かね)・返(かえす)・刈(かる)・神(かみ)・囲(かこむ)・考(かんがえる)・柿(かき)等に、

参考に、

「神風の」といえば「伊勢」の枕詞だが、これは「かむかぜの」と読む。

日本書紀垂仁天皇紀

「この神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜し国なり。この国に居らんと欲う」。

父韻ミは自らの精神宇宙内にあるものに結び附こうとする力動韻という事が出来ます。

一応材料集めはこのくらいにして。。。。。

人が心の活動をするのに、本来なら、自分の心とその活動の成果を自分のものとし、自分の処に返ってくるものとするはずなのに、自分から離れていくものがあります。

例えば、せっせと苦労して材料を集めれば、集めた個々の材料は自分の自由になり選択によって取捨していきます。それらのいいところ、おいしいところだけつまみ食いをしていきます。個別のものを相手にしている時には大物顔で自分の意向が幅を効かせていました。

が、それと同時に材料の抽象化概念化が始まります。整理比較分類は抽象化をもってし、より多くの個々物を取りまとめようとすると、それだけ抽象化の度合いが高くなります。

その時最初からある言葉をもっている場合と、作り上げていく場合とがあります。このブログでも「神とは何か」などと既に「神」という言葉を使用してしまっています。言霊「〇」を説明する時も、「〇」の意味イメージを初めから持っているので、そこからはじめてしまいます。

今回は「神」を作り上げていく心の過程を知ろうというものですから、逆になります。

さて材料の抽象化が高度になるに応じて、手持ちの個々の事物とかかわる自分の現実感はより薄れていきます。手持ちの材料が、アイスクリームや寿司であった時にはより身近で自分の近くにありましたが、共通項を求め抽象度があがると、味も香りも無い、食事とか食べ物とかいう無味無臭の言葉となっていきます。

この過程がある時点で逆転すると、抽象概念が個々の人々を制約するようになり、個々人の経験の上位概念となり、その概念に依らないと言葉が使用できない状況ができそうです。

話が進みすぎているので元に戻して、語源を捕まえたい。といっても語源はあやふや不明ということなので、どうするかということで、古事記の神名に「かみ」を見つけて、「かみ」について、見て行くことにします。

闇淤加美(くらおかみ)の神は、勘定により?み結ぶで、勘定とは整理運用していくことです。

「くら」は繰り、括り締めるの象徴暗示、手持ち材料、目前の資料はあってもそれはまだ分からない暗がりの中にあるので、拡げた手指を一つ一つ手元へ手繰り寄せ握っていき、それらの関連をかみ合わせ結び合わせて、全部握りしめたところで事物の内容を了解できる心の動き(おかみ)。(逆に握った拳を開いていくのがクラミツハの神。)

ここにある「かみ」を「神」にして、「くら・お神」の神にしてみると。

心の動きをさぐりと、繰り、くくり探ってようやく得られた了解事項がおかみ=尊い神のようなもの、カミ、かき回しかき回し(カ)、探し探して得た(ミ)、全ての材料事項に通用するものが出てきた、ということになります。帰納法に近いもの。

「カ・ム」となる場合は、かき回して(か)出てきた、共通項が結ばれ(む)抽出されていくことで、イメージ結ばれる場合の実体側に相当します。

言霊カは 大戸惑子の神で、大いに戸惑い、大いにまとい着くことで、抽出してでてきたものに、大いに戸惑いながらも、自ら抽出したものに巻きつきまとい着くことになります。

戸惑いというのは、個々の現実次元では五感感覚が優勢でしたが、比較判別が進行していきますと、五感感覚感情の世界が薄れ、象徴抽象化されていきます。色の世界から空の世界へと移動していきます。五感の現物世界からすれば大いに戸惑うところとなります。

一方、大いにまとい着く方は、行為の進行が自分自身の中で行なわれていくからです。つまり自己所有の変化を自分で作っていくわけで、空化、抽象化しては行っても自分の汗水の香りだけは付けておきたいというわけです。両者共に全く日常的な行為です。

どうやらここで、人間の行為とは何でもなく普通のことであってもカミを作っていくことになります。

・(その6。) 神とは。一 のこと、へ。

・(その7。) 神とは。人が上に昇る

・(その8。) 神とは。上に昇って忘れ物

・(その9。) 神とは。上が大きくなりすぎて下りてくる

・(その10。) 神とは。神と一の再会

・(その11。) 神とは。自覚による合一

(その6。) 神とは。「一」 のこと。

こうして人間の行為とは何でもなく普通のことであってもカミを作っていくことになりますが、現代で表象されている「神」を作ることではありません。「神」を作ることと同じ構造であると思われますが、それに至るには、上からくる威厳に対応していく人間を見なくては成りません。ですので「神」まではまだまだ先の話です。

一応、人間が上昇して行く方向を見ていくところです。上昇しきった所に確固としたものが出てくれば、人間の上位にも何かあると言う感じも出てくるでしょう。それにしても、その現実の実在がまずは確かめられなくてはなりません。

経験的に上にいるものが現実世界にも力をふるえる地盤がなければ、神さんであろうと暖簾に腕押し状態になってしまうのです。宇宙の総支配者にしろ全知全能にしろ、そういったイデーを人間側が受け入れなくては、神さんの立つ瀬がないのです。

ですのでこの時点で、「神」を知っている人はいますかと質問すれば、誰もいません。神など見たことも聞いたことない、何それ、といった反応しか起こりません。人間側に反応基盤がないからです。

しかし、誰もが毎日何か探し廻りいろいろとかき回して、あれかこれか、これじゃないあれじゃない、そうだこれだこういったものを、見つけたかったのだ、そして探しているものが自分にうまい具合に見つかること、それを、カが見つかる、カを身近にする、カミ、というのだよ、ということになれば、なるほどそういうことかになるでしょう。(でも、そういった日本語はないですね。)

そこでいつまでもああだこうだと決まりがつかないで考えているを、神返る、神むかえる、考える、となったのでしょう。

そこでそういった全ての神-返る-向かえる-考える、を一言で表すように成るまで抽象していくと、神になります。

ここでの抽象化された神は全てのものと一致したところです。存在しているという観点からすれば、わたしはあって有るもの、絶対存在者、創造していく観点からすれば全知全能の創造主、宇宙神とかになっていくでしょう。

それをさらに概念さえも抽象化捨象してしまえば、神とは「一」になります。どのようにでも解釈していくことができるようになります。

ここで神を一とか絶対者にすると、人間側が与え得る限りの定義や説明ができるでしょう。しかし、ここでは、上からくる絶対命令とか道徳命令とか言うものはありません。

この時点では、人間側が自由に説明して廻れます。定義の変更追加も自由自在です。

(その7。) 神とは。人が上に昇る

神概念を頂点に戴いても、そこから降りて来るものには、威厳も権威もありません。これでは神として失格です。

神と呼ばれるものをいくら丁重に説明してくれても、概念だけを喋っている場合には、同意しても反撥してもいずれも内容に何の感情もおきません。世界一の知識で持って述べてもらっても、ああそうなの、で終わってしまいます。

その一方知識はなく説明できるものを持たない人が、その信心だけで語るような場合など、馬鹿にするような反撥をみせても、その信心と形だけは共感するようなこともあります。

もし形だけでも共感がなければ、自分側が反撥馬鹿にする側に立つ精神的な基盤が無くなってしまうからです。概念上はいくらでも反撥しても、感情はコソッと同意する部分があるのです。

この隠された表面上は公開されていない自分のこころがあります。これは一とか創造者とかいって、頭頂に昇らせたものがありましたけれど、そのときに無視して見ないでいたものです。

本来的には見えないで知られて来ないものですが、もともとは五感感情、概念知識の底にくっついています。

例えば、ここに鉛筆がある、という単純な判断にしても、自分が判断したときにはそれは絶対に鉛筆でなくてはならないわたしの全身全霊を掛けてそれは鉛筆であるということが隠されています。子供などではその全身全霊性はすぐに現れているのを見るでしょう。

それではどこに畏怖畏敬の念を見いだすのでしょうか。そのためには上に昇った一なり絶対者に、畏怖の観念が与えられていなければなりません。それも人間側が受け入れるようにです。

人間側はそれぞれ一とか創造主とかを作りましたが、それらには心がありませんでした。

さあどうする。

-----ここから引用--------------

そんな事は有りません。はっきり申し上げて、空とかコトタマ「ア」だとか言う境地は求めている内は決して解らないのです。これは確かです。求めなくても生まれた時からその境地で居るわけですから、それなのにそれを求めますと、「屋上屋を架す」と言って屋根の上に又屋根を付けようと言う事になるのです。 瞑想してそういう境地に入ろうとするのも結構な話ですが、そうして入った境地は嘘っ..

一剣と申しますのは本当の自己の判断力。知識による判断力ではなくて。人間が生来具わっている判断力。赤ちゃんがオギャーッと生まれてすぐお乳を吸う、そこにその根が見られる、教えられたのでもない、何をしたわけでもない判断力。

その判断力が具わっている自分というもの。それは自分であると同時に宇宙全体、自分の本体はこの宇宙、こんな小さくって、こんなに儚くって、ちょっとバンとやられると消えてなくなってしまうと知識で思い込んでいる。

---引用ここまで---------------------

ここで言われていることは、人はもともと全面的に神であるといわれるものを持っているということです。

わたしたちは創造主とか一とか絶対者、つまり神と呼ばれるものを天頂にまで運びましたが、それと同時に、自分が神であるということを運び上げることを遠慮してしまっています。

それでも上から、あなた方人間は神と同等であると言われると、それを納得する共感があるのを感じています。

「さあ、人を造ろう。我々のかたちとして、我々に似せて、、」こうして、神は土地のちりで人をかたちつ造り、その鼻にご自分のいのちの息を吹き込んで、人を生きものとされました。(創世記2章7節)

神とは何々であると説明されている間はこのようなことは起こりません。説明に費やされる言葉に自分の記憶概念が解釈に加わって、賛成反対反撥の意識が起きてくるからです。そこでは例え同意、賛成しても畏怖や神々しさを感じることはありません。

ところがここに「神」という一言があります。これが頭頂にあって、あちらの宇宙全体と地上全体の全方向を見ています。

・(その8。) 神とは。上に昇ってて忘れ物

・(その9。) 神とは。上が大きくなりすぎて下りてくる

・(その10。) 神とは。神と一の再会

・(その11。) 神とは。自覚による合一

(その8。) 神とは。上に昇って自分を忘れる

「神」という言葉を聞いて、ビビッと感じたり、怖じ気づいたり、其の他それぞれに感じるところはあるでしょう。

でも、「神」と聞いて、冷やして食べれば旨そうだとか、5ミリシーベルトから20ミリシーベルトに変更した理由は何だろうか知りたいとかいう思いはでてきません。普段は無神論反宗教なのに、神社仏閣教会堂の中で神の無力無能を批判することもはばかれます。

何故でしょうか。

それは自分の中に、自分は神であることを無自覚的無神経的であるにしろそう感じているところがあるからです。

神である自分は冷し中華ではないし、放射能でもなく、無神論の神でもないからです。

どういうことでしょうか。

すべて自分の言葉は自分の中で一瞬の逡巡、戸惑いを経て表面に出てくるものです。これは意識の運用の精神原理の中にあることで、いちいち現れることはありませんが、時として戸惑ったまま停滞してしまうこともあります。

さて、人が神という時、神は既にかなりの抽象度の高い言葉となって使用されています。その人の全過去人生と得られる限りの概念記憶知識が後ろ楯となっています。肯定的であるにしろ否定的であるにしろ、事情は変わりません。内容の軽重には関係しません。政治家や宗教家のように重い口調で内容のないことをしゃべることもあります。

神は冷し中華や放射能の知識ではないのですが、何時でもそういった次元に下がることがあります。神社で御神籤を引く心持ちや、ご利益を得ようとする時などは中華そばを食べる次元と同じです。神とは何かと考える時なども、神は概念知識なんかではないのに口からアワを飛ばして話したり暴力をふるったすることなどもあります。

いずれも自分の喋ることが自己所有の範囲にあって獲得されたものを、保護擁護しようとするからです。そういった次元同士なら話は通じていきますが、次元が違うとすれ違いです。神とは何かの知識を得ようとする場合にはこのブログは役立たないようなものです。

言葉の使用には自分の全人生が含まれています。神を欲望次元にしようと、観念次元にしようと、彼方に輝く感情次元にしようと、多かれ少なかれその人の全部が含まれています。

つまり、自分側がどのような過程を経たものであれ、作り上げ発音して言葉となったものは、自分の片割れなのです。いとしく恋しく相見むと思うものです。

自分が書いたもの喋ったものそれらによって出来たものに、人はどれほど執着固執するか、間違っていようと、誰からも見向きもされなくとも、防御態勢まで創って壁の中に引き籠もるばかりか、再生復活を夢見、未だ完成し終えたわけじゃない、再び自分と一緒に立ち直るのだという思いを持っています。

神という言葉に限らず全ての自分が語る言葉はそうなるのですが、ここまできても、まだ神という特別な響きを持った言葉に突き当たっていないようです。

・(その9。) 神とは。上が大きくなりすぎて下りてくる。

・(その10。) 神とは。神と一の再会

・(その11。) 神とは。自覚による合一

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・(その9。) 神とは。上が大きくなりすぎて下りてくる。

自分、自我を見ますと、元々そんなものは何もないのが分かります。産まれ環境も使う言葉も、食べ方、感じ方も考え方も、どれをとっても自分で創ったものはありません。

それでも自分が感じたことだ、自分の主義主張だ、自分の性格だといって自我自己を主張します。

ひっぱたかれれば、あなただって痛いでしょう、それはあなたの感じじゃないですかと言われそうですが、麻酔手術で痛いのならそうなるかもしれませんが、神経切られたり抜かれたり麻痺していればどうなりますか。

ここには自分だが、自分でない、その両者が各自の中に一本の柱みたいにあるという関係です。どちらかを重点にするかでそれぞれの主張が傾くので、両者を統一しなければ中途半端です。

ところで、この中途半端であろうと中途半端のまま主張してしまうことができるのもまた、人間です。

自覚的に無自覚的に、疑問を持ったまま疑問なく当然と思ったまま、これが自分の感じたこと考えたことと思ってしまうことが出来るのです。

自分に関しては自分だが自分でない両者の統一だということが出てきました。

ここで、他者、相手、客観客体、自分の発した言葉、そしてここでのテーマ出ある神、神という言葉、つまり、自分側ではなくあちら側にあるものについてはどういうことになるでしょうか。

自分が発してしまった言葉はどうなるのでしょうか。人は自分の言葉にいとし、いつくしみ、執着固執していきます。しかし言葉は発せられてしまえばあちら側にいって何らかの物象となります。空気振動、文字インクの染み、さらには記憶として、主体の活動とは別の次元に収まります。

あちら側には主体性はありませんから、あちら側から何かが来るように見えるのは自分、主体側の執着心です。まだ自分が係われるものがあるように思うのです。

そうすると、動かない客体側が動き始め働きかけてきて言葉を発するように見えてきます。

もちろん相手客体が自分になびく、自分に未練があるという思い込みから、自分に返ってくるはずなので、しばらく様子をみたいとなります。

そこではほとんどは消えて証明していく言葉で、自分によりを戻すものとはなりませんが、長い間待つうちには、気になるものが産まれてきて、探したくなってきます。

ここに客観が独自にこちら側に向かうように見えてくる初めが出現します。

この間は非常に長い期間があるようにおもえます。

つまりその間は、客観的な言葉が独立して主体側には働きかけないということです。言い替えれば、「かみ」と言う言葉はあっても、「神」となって人に話しかけることはない、「神」など必要なかった期間があるということです。

この期間の終りにおこる転回点に「かみ」から「神」への倒錯が起こります。

それにはまず、欲望次元の充足がもたらせられることが必要です。

「神」を必要としていない健全な「かみ」の時代には、「かみ」は自分が知りたいものをかき回し探し自分に結び付けることでした。

そこでは自分に結ばれ役に立てられ運用されればよかったのです。

長期間の中では、欲望次元の充足意外にも、知識次元、感情次元での出来事が蓄積されていきました。

「かみ」という五感感覚欲望次元での日常使用次元の中から、次第に情感感情、光の神々しさ、日常を超えた全体への視点に関心興味が増えてきました。

そこでひと度、日常を超えた関心事が成立すると、五感感覚上の「かみ」がごろごろした低次のことと見えてきます。智恵知識が増えてくると、欲望欲求次元を低く見てくるようなものです。

そうするとその観点から新たな視点が出来てきます。

原理原則的に欲望次元とは違うのではないか、

欲望次元での「かみ」とは別の次元の法則があるのではないか、

欲望次元での領域だけでは説明しきれないものがあるのではないか、

欲望次元からは見えないところに新しく創られるものがあるのではないか、

新たな領域には新たな表現がいるのではないか、

この新たな領域は部分から独立して行けるのではないか、

それにはそれなりの運用法があるのではないか、

その運用法はそれだけで全体を示すのに充分なのではないか、

というように「かみ」から「神」への飛躍の準備が始まりました。

これらの蓄積がある時、あちら側で頭頂のあちら側に独立した領域として確立してきたのです。「神」の始まりです。

中でも情緒感情的な部分がさらに上昇して、果てしない上方からくる強制力、絶対命令の形を得ていけば、絶対者の創造までは後一歩です。

・(その10。) 神とは。神と一の再会

・(その11。) 神とは。自覚による合一

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(その10。) 神とは。神と一の再会

中でも情緒感情的な部分がさらに上昇して、果てしない上方からくる強制力、絶対命令の形を得ていけば、絶対者の創造までは後一歩です。

おのれ個人の中では、日常行為に「かみ」を創造していくのに何の不都合もありませんでした。それは古代においても現代においても変わりません。人は、自分および社会を創る創造行為の中にいます。

社会集団、経験の蓄積が多くなり、他人による創話を聞くことも記憶に多く残るようになり、交通交流範囲が拡がり、他の経験内容が概念化され知識となって記憶されることが多くなりました。

始めは自分個人の生活運用には何の支障もないものでしたが、他人の事は異聞として扱われていきます。そこでは当初、自他との差異は明確で何も問題はありませんでした。

しかし、異聞の集積蓄積が、自分とは違うという主張判断は、自分には無くても相手側にはあるということを承認することです。自分とは違う違うと言い張って行けば行くほど、他の主張が際立ってきます。

そこで他人の(超越的な)経験話が聞かれ蓄積されていく中で、自分にもそういった経験に接触する現実体験が感じられてきます。

この時の共有を感じられる体験内容は抽象化されていて、抽象化されたまま、共有者間での共同規範になっていきます。

そのときその共有規範が単なる客観概念であることを主張していれば何も起きませんが、ここで、相手側の意志や、話される内容の意思、客観概念に自立したものなどを感じることがあります。

今までならば自分の心にのみ確かめられたことだったのが、あっち側にも確かめられる何かがあるとしてしまうことがあります。

それはそれでいいのですが、相手側の何ものかを自分の心において確証しようとしないで、自分内にある了解できる感じと共に、相手自身の中で確かめてもらえればいいとしてしまうことがあります。

言うだけ野暮というみたいなものです。そこに「かみ」が「神」となって出てくることが出来る基盤があります。

超越経験や、光、神々しさ体験、雄大絶対創造者への思い、などは普通に誰にでもあることです。また普通にあるからこそ、共有される概念として伝わってくると、自己確証を怠るようになり、その概念側からあなたもそうだよ同じだよと声がかかり、いとしさなどを見せられるとコロリと行くわけです。

ここで、あくまで自証を貫くこともできますが、相手側の抽象的な概念による範囲内に自分もいることを見せられると、よほどの決意がないと切り返すことはできません。

こうして、「かみ」から「神」の概念ができました。

ひと度、「神」の概念が成立してしまうと、それは自律的に力を持つように見えてきます。

ここでは「神」という概念ですから、それに与えられている多くの属性説明が、力を持つことになりますが、それらを「一」に代表させてみましょう。

ちなみに、ウィキペディアによる神の存在証明です。

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目的論的証明(自然神学的証明):世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだ。

本体論的証明(存在論的証明):「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だ。

宇宙論的証明:因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと根本原因があるはず。この根本原因こそが神だ。

(カント)道徳論的証明:道徳に従うと幸福になるのは神がいるからだ。

---引用ここまで。-------------------

これらは存在してしまっていることを証明しようとしているので、神を産み出そうとは思いも依らないところにいます。

信じる信じないも同じで神がいるというところから信心の賛否をいいます。知識の世界での神についていうだけなので、知識量、概念の豊かさ、思い付きなどが、神そのものに取って代わられ語られています。

神を信じるか信じないかという問い方がよくありますが、自分の知識で神を信じるか信じないかということで、知識概念処理の問題ですので、自己処理に確信するか戸惑うかだけでのことで、神の感情、神そのものとは関係ありません。

感情的に神を了解するのには、知識概念の有る無し多少には関係していません。知識でもって感情了解した神を説明しようとしても駄目なことなのです。それでも、感情を説明しなくてはならないと思っていますから、いくらでも続けられていきますが、それは、感情の起承転結、原因結果の状態状況を説明するだけのもので、感情そのものを語ったものではありません。

さて、多くの与えられた、考えられた、こうだとされた、神の属性をさらに抽象して、話を進める上でこのブログでは取り敢えず、「一」にしました。始めに始めるもの、アルファでありオメガである、わたしであるもの、創造者、絶対者、超越した何か、宇宙の根源、等々好きなように変形できるでしょう。「一」が気に要らなければ好きな用語に取り替えてください。

人はそれぞれ神についての属性を与えてしまいますと、それ以上にすることが無くなります。ひと度神はこうだと言えば、それ以上のことそれ以外のことは、自分の与えた神の不完全さを示すものとなってしまうので、自分でも自分を守るため、自己防御以上に自分の言った事を祭り挙げなくてはならないようになりつす。

こうした心理はだれにでもあるもので、「神」という言葉は実に上手にそれらの人々の間をスイスイと掻き分け先頭に立っていきます。

人々はもうそれ以上言う事が無い状態に自分を追い込んでいきますから、これ以上に新たな事は付け加えられません。中には新視点や、新観点と言う事で言い足すことができますが、自分の気に入った「一」を補強するものとなっていきます。

出すものが無い吐くものが無いとなると、今度は、不安になります。自分なりの最高を与えているのに、自分の創造意思行為は続きますが、それ以上を与えられないのですから、そこに葛藤さえ興ります。

生きる意思はあるが、自分が創ったものを自分で越えてはならないという、強制が誕生してきます。そこで古事記でいえば『御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。』という病的な状態を引き込むことになるのです。

陰部は自分で自分の現象を産むところ、自分で作り与えた神概念がそれ以上のことは誕生し得ないところに来てしまったということです。それでも生きる意思はあるので、今度は病気という形で表現を探すようになります。

そして自分で創ったものへの権威付けが始まっていきます。

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・(その11。) 神とは。自覚による合一

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(その11。) 神とは。自覚による合一(未完)

通常、各人は自分の表現、自分で創ったものの前に拝跪しています。自分の感じ、考えを述べているこのブログも、わたしは奴隷のように自分の創ったものの前にひざまずいています。それらをいつくしみ、固執してはいきますが、神のように強制力を持った畏怖する言葉とはなっていません。

しかし、感情的な確信や、理論的な確信や、意志による確信等などによって、それしかないという態度をとることはあります。

それでも、神の言葉のように、絶対命令として受け取り、畏怖尊敬をもって敬い信仰していくことはありません。はやい話自分の言葉は自分で信仰しないのです。

自分の言葉ではあっても、拝跪はしても信仰はしていきません。それにはまだ何か足りない、心にある飛躍の橋を渡らなくてはならないようです。何しろこここちら側にいるのに、あちら側がある、あちら側に跪くというのですから、それなりの飛躍が必要でしょう。

神体験があるから、神を信じ知っているということではありません。知らず感じもしないで、知りたいという思いだけで、神の絶対を信じることもできます。単なる知りたいという欲望次元だけの、ご飯を食べたいというだけのことと同様な次元でのことですが、神がいると狂信することもできます。

理性的な聖職者などは神は存在しないと言い、信じていないことを公言する人もいますが、自分の考えている神の属性を実行しているといいます。倫理的道徳的な自己への実行命令には神を言い出さなくとも、幸福への選択を分配できるからです。

こうして、超越的な「一」なるものが、あちら側にいることになります。

未完

終了。

頭で考えると、ろくな事にならないけれど、頭で考えなくてはならない。

その矛盾統一止揚が古事記の神代の巻きですが、全然習得運用されている気配がない。

ばってん、×、です。

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宣長さんは、「世に優れてかしこむべき存在は神と言う。」と言いました。

わたしは、それがあちら側から一人自立して人間側に立ち向かう構造を、知ろうとしましたが、途中で挫折しました。

いつか神さんから教えてもらう事があれば、再度挑戦するでしょう。

そのときは、人が神を創った、神が人を創った、と矛盾無く言う事ができるでしょう。

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