2。八針に取り辟(つ)きて、との関連。
八針に取り辟(つ)きて、との関連。
天あま津つ金かな木ぎを、本打切り、末打断ちて、
千ち座くらの置おき座ざに置き足たらはして
天あま津つ菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて
八や針はりに取とり辟つきて
天あま津つ祝のり詞との太ふと祝詞事のりとごとを宜のれ
『天津菅麻音図の両端の母音・半母音の列を音図から切り離し、残った縦の八つの現象音の列を一列ごとに裂いてばらばらにしてしまって、という事であります。』
ヤハリは、八つの葉(言霊)の働きに離ればなれにしてで、八つの父韻に対応しています。
この章では以下のことを扱います。八針に取りつきては、大祓え出てくる言葉で、大祓えはやってしまったこと現象となっていることへの反省に関するものです。産んでしまった現象の正否を検討するのに、前段(1。)の身禊準備五神との関係を見ます。と同時に将来への今後の方針の立て方や予見予想等の為、前もって見立てが出来るようになればよい、というものです。
身禊は三貴子が登場するまでは完成しませんが、ここではその準備段階の五神との関連を扱います。
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1。と同じく転んでズボンを汚したという設定です。
まず、ズボンを汚したという判断ができる規範が無いと事が始まりません。綺麗か汚れているかの判定を持つ規範があります。
0。(写し出す鏡としての前提)
かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。
この意味は判断の基準たる原理を投入することです。その投入された処には主体意識のまっさらな規範があります。これがまっさらであることによってどのようにでも如何様にでも自分の意見が出てこられます。
ですのでここでは、色不異空空不異色色即是空空即是色を超えた各自が普通に持っている零(ゼロ)判断規範の世界があります。
主体的な主観判断として各人の自由になるものであって、それを通してそれぞれの意見が出てきます。ですのでここでは写し出す鏡として八針どころか五十音言霊の全体が秘められています。ここでは判断規範の原理としてありますから、規範自体は純白な姿をとっているままです。
八針自体の動きは無く、しかし、一切の動きの造営の棲家とエネルギーを提供するがごとくです。
八針は一塊のチキシヒイミリニの言霊ですが、何時でも剖判運用の用意は出来ています。
1。