3-1 実在のいま

「あ・め」

「あ」の眼(め)とは私(吾)の意識のことで、ここでは「今とは何か」という疑問を持った私の意識を取り上げています。

ところが「今」に関して何も知らないとしても「今」という言葉を使用している以上、「今」に関する何らかの意識があるのです。

当初の始まりはそれ以上でも以下でもなく、その時に持っていた「今」と言った時の私の意識が全てです。

その状態を続けていきますと、集められた概念や勉強した知識が取捨選択され当初の意識が豊に肉付けされたように感じていきます。

外形を比較していけばその変化が自他ともに確認されますから、豊に進化したように思えています。

しかしこれは外からベタベタと貼り付けて太らしたもので、自らの意識を運用して内容を充実させたものとは違います。

種を蒔き芽が出て成長したのではなく、出た芽に接ぎ木し添え木し挿し木して外部から来たものだけが太ったものです。

その為当初の芽は都合次第、お気に入り次第で変化変形し当人の芽の成長はありません。それでも外観外形は変化していますからその分だけは、自分の成長としていきます。

自分の数十年間に得た知識もそういったものです。現在の自分から教えられたものを削ぎ落していったら残りはなんでしょうか。

知識なんかは全て他から仕入れたものでしかありませんので、全て身禊(みそぎ)します。そうすると誰にも何にも残らないでしょう。

それでも人は愛し合い、戦争し合って歴史文明を築いてきました。主義主張などといい本人は真剣に熱を上げて主張していきますが、他人が自分に乗り移って他人のために非難し殺し合うようなものです。

勿論そういったことを知ってしまうと活力を失いますから、意気消沈を鼓舞するために宗教や霊魂などが口を出してきます。

ですがそれらは社会的にも道徳的にも政治的にも無力です。ですので個人的な敬神や祈りの範囲に埋没していきます。

それでも歴史文明は続き、豊かな社会や悲惨な社会を出現させてきました。そして多くの問題を解決し困難を越えてきました。

そこで問題はこれらのことは人の本性であるので、このまま進みつつ豊かになるように紛争を回避していくが、弱肉強食と自己主張は変わらないとするのか、神の元へ往くとか、次元上昇をするとかいうお伽噺に乗るかです。

変わらないとするなら、問題解決のために新たな精神世界や宗教権威や独創家等がまたまた主張を展開していく事でしょう。

あるいは、期待する次元上昇をいつものように待ちわびるかです。

しかしこれらの態度は人の変わらない本性を受け取っただけのもので、お気に入りの対処法を宗教だとか次元上昇だとか祈りだとか

言霊の霊力だとかにすりかえているだけのことです。

赤ん坊がおしっこうんちを垂れ流しするのは人の変わらない本性ですし、鼻が顔の中央に在るのは本然先天です。次元上昇しようと神に願い拝もうと変わりません。

そんなまやかしの心持ちに囚われることはありません。

そして古事記の真実は次のように告げます。

古事記には無数の神と名の付くものが出てきますが、そんなものはどこにもいないのです。

古事記の冒頭は、

【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の

(みな)は】

で始まり、

【あめつち】は、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となると読み、私の意識活動が始まって、その後に私に神が成ると言っているので、人が神に支配されるのではありません。しかし人は逆に取る癖を付けてしまったという経緯と、それを元に戻す方法が古事記には記載されているのです。

ですので神がいるも弱肉強食も我よしの自我も本性となってしまっていると取るのは、それ以前があることを言っていることにもなるのです。

作られた本性、させられた本性、本意ではない本性、の創生過程を突き止めればいいのです。そしてそれが人の本性として逸脱して当然であるとなった経過を示し、元に戻る道を示せればいいことになります。

古事記はその為の心の原理論教科書です。世界の至宝となっているものです。

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「今」と言わずに「今」と言え

「今」とは何かを始めるのに、「今」と言ってしまえば既にそこに「今」があります。ですのでこの同義反復のような矛盾を解かねばなりません。

しかしこれは言霊循環の前後の違う次元を併置したものを同じ言葉で語ったものでしかありません。

禅問答などでよく使われる手口です。

言葉の成立までには同じ言葉が一貫していきますが、その過程経過上それぞれの次元があり、始めに統一する言葉を産んでいるため次元の違いを越えて同じ言葉を使うということです。

これは古事記では蛭子というイザナギとイザナミの子生みの段落で説明されています。蛭子を産んだといっていますが、蛭は「ヒル」で、霊(ヒ)流(ル)のこと。霊、心の意識内容、実質、実相が流れていて無いけれどもぬけの殻の外形だけは世間一般に流布されて残っていくので、それを指してワイワイ言い合うことができるというとです。

言語の一般性による表現を示しています。「今」という全員同じ言葉を使用しても各自勝手な事を思っているということです。イザナギとイザナミがまず最初に産んだのが、言語の一般性(規範)という暗喩のことです。

会話には言語の一般規範が無いと共通の意思疎通ができませんが、古事記の原理論ではこの一般性を生成する過程が述べられ、そして現象を創造していくようになっています。一般規範があってもそれの使用運用規範を知らないのでは流通できません。「今」とはこういうものだと言えるのも、運用規範を知っているからのことですが、そもそもそれを正しく保障している原理が自他、私と貴方の双方に備わっていなければ馬耳東風です。

これは教育等によって訓練されるものもありますが、ではその訓練されるものが何処からきているのかといえば、それ以前の教育のそれ以前の教育のそれ以前となって、悪しき反復を繰り返すことになってしまいます。この無益な反復を断ち、しかし反復によって歴史文明を築けるようにされたのが人類ですから、そこには誰か創造主がいました。

この創造主が動物状態を抜け出させた古代の誰かであり、人類に伝搬させた誰かであり、それを引き継ぐことを見出していた誰かなのです。

この創造主とは勿論人間で、古代ではスメラミコトと云われ、仮の創造主としてのあっちの世にいる神さんはその後に作られたものです。

遠い古代のことなので分かりませんが、現在にある分裂した多数の言語はなぜ何故あるのかを思えば、推測はできます。

古代において言語は一つであったと旧約聖書にあります。所有して物事の発展を承諾して幸福感を得るにの欲望の充足の本性から来ます。そこで、より多くの充足を得て、発展していることの充実を得る方法が、古代において全人類を単位とした研究が「高天原」で始まりました。一つの物を一つの者(集団)が所有しているのは平等で仲間割れがありませんが、豊かさへの道が非常に狭いものです。

そこで分ければ多数者へ行き渡り範囲が拡がります。しかし物が小さくなりますから、増やそうとしていきます。こうして各個別の状況に合った適応を見つけていき、そのより豊かなものをより創造できるということになります。言語も一つであったという共通性は失われますが、個別化によって豊かさが産まれそれを共通性に戻すようにさせていったのです。これは物質の生産にも同じことです。こうして数千年が経ち、現在では物質の豊かさは計り知れないものとなりました。

ところが余りにも長い歴史のことなので、一つの方向へ戻す方法が忘れ去られていきました。持つものと持たないものとの乖離は本性として扱われ、競争闘争は自然の原理となってしまいました。それでも物質方面の進化発展は素晴らしく、言語に関してなら手に持った翻訳機で世界の言語が統一されようとしています。

実際に喋る言葉は違っていても、器械の中では意思疎通を流通させる世界統一の玉手箱ができているということになります。技術、情報、運輸、物の生産、科学知識、等も同様で、分けられ細分化した御蔭で返って世界は一つになりました。

とはいっても物質の扱いに関するものだけの世界ですから、常に心の世界が忘れられています。

さて、物を分けまた組み立てられるなら、それを意識する心も同様です。ここで扱う「今」も分けられます。そして世界にある now.maintenant.jetzt 等の「今」は各民族の心の持ち方の違いを現わしたものでしょう。民族伝統の違いによるので、その民族にとっては一塊の言葉となっていて分けられないものでしょう。それでは、心の一般性に対応する「今」、人の心持ちに対応していて、心の表現の一般性となっている「今」は何と言ったでしょうか。言葉は一つであったという古代に「今」は何と言っていたでしょうか。

それは「イ・マ」でしょう。日本において現代も古代も「いま」ですが、旧約で云われる時代でも世界共通語として「いま」だったでしょう。

世界の各地には日本語の意味を持った日本語に似た言葉があちこちに残っています。古代日本語が共通語として広められていたからでしょう。

今後の検証の話になりますのでここまでにしておきます。

世界各国語となってしまった個別の「今」はそれぞれの民族の心に対応しているもので、世界の人の普遍の「今」に対する心持ちとは違います。

旧約では一つの言葉があったといいますから、その当時には人の心に心の「今」を感じる心持ちを伝える言葉がありました。それは心が言葉となったものでした。

言葉を発すれば心が皆に伝わるものでした。つまり心の全体を表現していました。そういった一つの言葉と成ったものでした。

ですので、「今」と言わずに「今」と言えというのは、本性に「今」というものがあるのを見出せということになります。手短な現象に、思い付き考えられた「今」の概念等はその人のためだけのものですから一先ず置いておきます。考えつき思いついた当人にしてみれば貴重な閃きでこれこそが「今」であるということですが、その意見を保障する後ろ楯基盤がありません。

「今」という言葉が発音できる主客の根拠がなければ、同じ根拠無しの批評にさらされなくてはなりません。

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実在の「今」

十七神で表現された心の先天原理は全てに貫徹していきますから、自分は「今」についてこう思う考えている等の見解はいわば無効であるというか、それぞれが逸脱の形を現したものととれます。自分の頭で考える以前の先天の原理を承知しない限り前に進めません。

勿論先天原理を承知するのは個人の頭ですからこれまた原理のように一様ではありません。私の理解は他の方とは違うというこれまた、言語の一般性と個別性のような関係があります。心の原理を発見した古代のスメラミコトにすれば、千年単位の歴史を見ていたので、十人十色みたいなものは折り込み済みです。

それに先天の原理というのは先天にあるものですから、先天にあるものをどうこうすることはできません。解説するとか分類するとかいっていますが、そういったことができないから先天なので、つまり先天といっているのは先天という言葉を使用してだけのその人の後天的な理解です。先天には手が出せないものですが、心の原理として先天の十七の形で古代のスメラミコトどのようにして出したのでしょうか。

何百年かかったか分かりませんが、心を真似たのです。

顔の正中線上に鼻があるという原理を崩そうとピカソは奮闘しました。できたのは感情感覚の上で鼻の位置を自在に置き換えることでした。でも、顔から鼻を消すことはできず、変なとこにあるものを鼻と指さされる意識を消すこともできなかったのでした。結局絵画上の鼻は正中線上にあるという原理は崩せても、鼻があるという言葉の原理には拝跪してしまいました。形を消しても後が残り、色は消せず、何よりも感情を受けることには抵抗できなかったのです。こうして心はあることが確認されました。

古代のスメラミコト達はさらに進んでその実相を明かし内実を開示することに成功しました。

しかし、何を、どうすればいいのかは書き残されていません。ヒントが残されています。多分、言霊百神が完成する直前にある、「阿曇の連(あづみのむらじ)」が我々に与えられた指示でしょう。むらじは大和朝廷から与えられた姓の一つで官職なども現わしたものでしょうが、要するに現在の我々のことでしょう。

「あづみ」は「明らかに続いて現れ見る」で、そのようなことをする我々、つまり、懸命に続けて真似をして続き連なることで、百神目の天照す大御神・三貴子に至ることをしなさい、ということでしょう。できるだけ明かに続いて連なり見なさい、出来る限り真似しなさいとなるでしょう。

自分の頭で考えるということには、なんらの後ろ楯となる規範がなく、閃きと思い付きを受け取る普段の練習や偶然によるもので、正しい方向を目指したものかどうかは分かりません。ノーベル賞を取った方たちの話を聞いても、夢の中の話や偶然に出会ったものを受け入れる話がほとんどです。ですので当初は自分の頭で考えたものではなく、その後の試行錯誤に集中したという話が多い。

古事記でも、自分の頭で考え始めるということはいいません。自我は元々無いものですし与えられたものです。そこにあるのは先天の構造です。それは原理として動かしがたいものですから、そういうものだと自覚してしまえば後は真似るだけです。「明(あ)かに続(づ)いて見(み)なさい」、「あづみ」ですよ、というわけです。鼻が顔の正中線上にあるということが原理となって人の行動活動を制御していきます。鼻の位置を決めるのに自分の頭で考えたり閃きを受け付けることはできません。心の原理も同様です。

扱う対象が多岐に渡るように見えているので、各自の提出する思慮がものを言うように思えているだけです。吾の眼を付けて、自分の意識を付けて、智恵と成す「あ・め・つ・ち」から始めること、鼻は顔の中央にあることを認めそれを真似る考え方を受け入れることが必要となります。古事記はその為の原理教科書というわけです。

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真似ることは自主独立をすること。

か弱い子供たちが大人に隷属しないのは何故でしょう。国家、民族間の関係ならか弱い方は従属し属国になったり奴隷となったりします。力の差は歴然としているのに子供たちはのびのびとしています。それは子供たちは自己主張をして大人たちの真似をして学ぶからです。真似をする間に大人たち

に文句を言います。この真似をして文句をいう自主性が子供たちが大人の属国とならない理由です。

真似るというのは上にある権威と同一性を得ることです。しかし上と同一のことを成しただけならば、今あることと同じことをしただけのことです。子供たちはやすやすとあるいは困難をもって同じことをするでしょう。ところが子供たちは常に一言多いものです。こんなの簡単だよ、あるいはこんな難しいもの出来るわけがない、と無意識の自主性を主張します。大人たちはこれに驚怖して自らの固定した保守性に自主性の無さを見出して萎縮します。子供たちの無鉄砲さ無邪気さは大人たちが真似できない上部にある権威です。そこで大人は自分に所持していない、分けの分からない動因に動かされる子供を見て子供を尊重するようになります。

さて私たちが「今」という言葉を使用できるのは「今」という言葉に権威があり、その権威にすがり真似ようとするからです。

しかし、「今」を「今」というだけなら、それで停止して終りです。言葉は喋り終わっても、まだ続くことへの余韻は常に保持されています。例え自分は語り終えたとしたも、今度は語り終えた反応への「今」が出てきます。自分は語り終えたのに実は他者の反応の自分への「今」を待ち構えています。

これは時間的に語る側と聞く側に分けたときの書き方ですが、そのような次元の違う二者を併置するので、外から見ている意見です。実は語っている方に、語っている事を聞いているものが含まれている同時性がなければ、語り終えた後の心待ちの思いは出てきません。言い換えれば喋っていることが聞いていることなのです。この構造を明かさなければなりません。

「今」は「今」終わることはありません。

なぜこれらのことが起きるのか、古事記に沿ってできるだけ真似ていきましょう。

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「今」の四態とか、「今」の四つの次元とか。

四という数字で表現しているため「今」に四つあるようですが、実は「今」には十七の原理的な姿があります。つまり全て心の事象には十七の姿があります。それを「今」にかこつけて「今」には十七あると言い換えているだけです。時間も空間も心とは何かもイザナギとは何かも、その大本の意識は十七の姿があります。自分の意見を見出しそれを述べることは、その全ての場合に多かれ少なかれ十七の欠如した形で不完全な各自の主題を述べているだけです。提起提出の仕方、取り組み方は人それぞれとなって、十人十色の結果となります。

しかし冒頭の原理に沿えば誰が考えても書いても同じです。実際にはそういうことにはなりませんが、五十音図と十七神の原理に則らなければ自分の言葉は話せないのですから、全ての人の考え喋ることの(先天の)内実は同一ということです。

その同一性を私たちはそれぞれの視点から述べるだけで、私たちの誰の視点も元々片輪なのです。これぞと思って発表しても先天十七神の強制力の恩恵を被っている思いがなければ、独りよがりです。それが影響力を持ったり、公式見解常識になったり、教育の原点になったりすることもありますが、現象と原理とは別の話しです。

一円の硬貨というアルミ板も一万円の紙幣という紙切れも、同じ強制通用力を持ちそれぞれの価値があります。

言葉も同じで、諸外国語という違いはあっても、それぞれが先天十七神のそれぞれの不完全な現れとなっています。(五十音図を使用する大和の日本語を除いて。)

分類が詳細微細になっていく事を見たとしても、元にあるものは何ら変わっていません。

四態とか、三態とか言いますが所詮それらも十七を見る切り口の一つです。しかも循環していることに注意してください。ですので、

十七とは一のこと、であり、

十七とは二のこと、であり、

十七とは三のこと、であり、

・・・・・

十七とは十のこと、であると、予言書風の古人の好んだ言い方も可能になります。

ここの項目は「実在の今」ですが、解説を始めるとどうしても分け分類することをするので、それに心が奪われますが、始めは一(零)から始まっています。

「実在」というのもあるとかないとかの分類が既に始まっていますから、それ以前の一(零)を忘れているものは全て不十分不完全な見解となります。

十七は一のこととは始めの全体であり、

十七は二のこととは全体の主客、裏表であり、

十七は三のこととは全体の内実(み)創出であり、

十七は四のこととは全体の在ったものの有り方(よ・世)であり、

十七は五のこととは全体の有り方と中心であり、

十七は六のこととは全体の結ばれ方であり

十七は七のこととは全体の実相の現れ方であったり、

十七は八のこととは全体の成り方の働きであったり、

十七は九のこととは全体の実在と働きの組まれ方でであったり、

十七は十のこととは全体が現象となることであったり、

というように、分類ができます。これは単に数字を好んだ象徴表現です。

ですので古事記を応用した「今」を分類解説しますと、上記のようになります。

これは各人なりに古事記を真似していけば、私の場合はこうなるというものです。後は十七の原理から離れないようにさらにより近く真似をしていけばいいのです。

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サブページへ続く

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