こころの原論。天照大御神の誕生。7

031 こころの原論。天照大御神の誕生。客観とは何か。。天の岩戸開き。 ◎

客観とは。

若干SFを混じえて。

巷に流布している意見は唯物論とか観念論とかウィキとか脳内科学とかを見ていけば賛成なり反対なりができるでしょう。古事記の場合はそれらをすべて掬い上げ、それぞれをあるべき場所に位置付けていくものですから、いちいち取り上げることはしません。何の力もないわたしがこんなことをいうのも、現代においてウズメがちらほらとあちこちで誕生してきているからでしょう。すべて安万侶さんの見通した範囲内のことらしいです。

古事記の思想によって考察されたものの子孫が未だにその権威によって外見だけは生きているのが現代の状況です。平民に成るべく平成の世を完遂すべく下へ下へと下っていきます。家系的にも崖っぷちに追い詰められています。そんな中で男系とか女系とかいっていますが古事記に依る世界運用の本来の使命からすればどうでもよいことです。世界の人々を豊で楽しい生活に導くことが第一です。

スメラミコトは岩戸の中に隠れています。現在は世界は一つという考えは普及しています。世界がひとつである分野は日夜拡大して行って、もし世界を統率する頭脳の持ち主が出て来れば世界は反対しません。たとえそれが帝国の独裁皇帝でであっても世界はひとつの方向へ向かうように思えます。しかし軍事による世界帝国はできません。帝国には常に対立する勢力が必要で廻りを刈り取った後に残るのは自国内の反対勢力だけです。つまり帝国は自滅していきます。

経済世界においても世界経済の統一はもうすぐそこまできています。どの国の基本的な経済運用も既に資本欲望の論理によって例外なく運用されています。後は資本欲望の論理を天の児屋の命が太詔戸(ふとのりと)を唱えることで勝利宣言をすればよいだけです。それと同時に何故彼ら自身が資本欲望の論理に踊らされ当然のこととしていたか自覚させる機会を与えなくてはなりません。

彼らは既に物を作って壊して金を儲けるなどという昔のやり方などには関心を示していません。彼らの後についてきた雑魚達が戦争を継続しておこぼれをもらおうとしているだけです。金で金を儲ける経験も終わりました。信用を交換して儲けてみようという段階も大方の経験は楽しんだようです。自然そのものを価値とする実験を経て、今度は人間の存在そのものを交換価値にするようになるでしょう。例えば世界の酸素量が減少しているから呼吸することに税金を掛けようとするとか、人口増加を制限するためセックスできる能力に応じて課税するとかです。

このような基本的な生存に関するにはやはり基本的な準備が必要で、現代のように富の分配の不公平な状態からは始められず、まず公平に富を分配しておくこと、何とか手当てとか報奨金だとかをやたらと配っておくことになるかもしれません。実際に起きることかどうか分かりませんが、欲望による世界帝国の支配者の意志によることでしょう。

しかし彼らによるといっても彼らがより高度な平和で豊で幸せな世界を目指すことはなく、福祉行為チャリティショー止まりでしょう。何故なら彼らには人間はもともと差異があって差別していくのが当然であると思われているからです。近づきたかったら勉強して昇ってこいというわけです。この当然と考えられている差異差別思想を充分に了解しなくてはなりません。

了解といってもわれわれは彼らとは違いますから同じ立場にはいません。

ところで、彼らとは誰のことでしょう。

モーゼを戦略指導者とし旧約聖書を戦略原理とし、カバラを戦術指南とするユダヤの人達です。

このモーゼと聖書とカバラをそれらが元ある場所に戻すことによって世界の新時代、闘争競争による金儲けがない、が全地球規模で訪れます。

まずモーゼの出所を明かす事です。実証考古学史学的には難しいのではないでしょうか。また聖書と十戒の真意も開かされなくてはなりませんが、今までの繰返しになるでしょう。ユダヤの失われた三種の神宝の実体を明かす事です。何を象徴したもので何故それらが考えられたかです。カバラはまだ勉強していないので知りませんが、現実と直に接するものですのでそちらの方面からかかわれるでしょうが、その成立を見ていかないと踊らされることになりそうです。

そこで唯一の方法として、モーゼその他をあるべき場所へ戻すのは、全体として一挙にかたを付けて落ち着かせることです。相手はそれらによって統一されています。バラバラに解読しても効果がありません。それは当然モーゼと古代スメラミコトとの関係もあかすことになります。

そこでできればユダヤの地から大和までの間で何かが発見されればよりよいでしょう。ユダヤと大和の関係を研究している方はかなりいるようです。しかし全て、矢印の方向は日本へ向かっていて日本への影響としてしかみていません。

そこで矢印の向きを変える、古代世界文明は大和発であったことを説明するために、古代文明と主なる世界宗教を解説しなくてはならなくなります。その後に古代大和日本へ影響するようになっていく過程を示さなければならないでしょう。彼らが大和日本へ影響を及ぼすようになったいわれと、彼らの持ち寄ってきたものの起源を示さなければならないでしょう。

取り敢えずはユダヤに対して、何を持って明かすのか。

それはアイウエオの五十音図です。

アイウエオ五十音図こそがユダヤのモーゼにスメラミコトから与えられた秘密です。

しかし、モーゼ関係に関しては言霊ウの欲望次元世界の産業経済での条件造りに関する事だけです。モーゼを動かした宗教思想と、世界に散らばる緒宗教も同じように落ち着かせねばなりません。何時までも力のないままに教理を宣伝させる事を留めなければなりません。

脳内科学がもっと発達して、意識と思惟の物理的構造が解明され、不思議現象や宗教感情や意識に関する脳内構造がはっきりしてきて、脳から宗教の居場所が無くなることになるでしょう。その時宗教は自らの存立を求める立場を必要としてきます。その立場をスメラミコトは用意しなければなりません。宗教感情と哲学道徳思想の全てを各分野において主張させる実体を明かしてあげることです。

世界の岩戸開きを前にして、客観と銘打って少し述べてみました。

・ここに天照大御神あやしとおもほして、

・天の岩屋戸を細めに平きて、

・内より告(の)りたまわく、

・「吾が隠(こも)りますによりて、天の原自ずから闇(くら)く、また葦原中国も皆闇(くら)からむとおもふを、

・何の由(ゆえ)にか天宇受売は楽(あそび)をし、また八百万の神諸々笑へる」とのりたまひき。

・ここに天宇受売白言(まを)さく、

・ここに天照大御神あやしとおもほして、

岩戸内であやしと思うのでまだ戸を開けてません。ではこの暗闇内であやしと思う精神的な内容は何でしょうか。それにこの時点での天照とは何でしょうか。

・天の岩屋戸を細めに平きて、

怪しいと思って少し開けてみます。天照の精神意識の次元が動いたということです。

・内より告(の)りたまわく、

怪しいと思うことを告りたまわく、自分の意識の次元が動いた、気が付いた、感じた、思った等々自己意識の次元に変化をきたしたのが了解されたということ、

・「吾が隠(こも)りますによりて、天の原自ずから闇(くら)く、また葦原中国も皆闇(くら)からむとおもふを、・何の由(ゆえ)にか天宇受売は楽(あそび)をし、また八百万の神諸々笑へる」とのりたまひき。

彼らは何をしているのだろうか。ここは気の付いた内容です。

全部で通して、そとの世界でのアとワ、天照の世界でのアとワの両者の世界に感応が起こり、相思相愛なり、つーかーなりの状態が始まった。精神世界の動きのその始まりがおきたことになります。勉強しているのに隣のテレビがうるさいとその気にしだした始め、同じものを注文したのに向こうの方が量が多いと思い出した瞬間、同じ古事記なのにまるっきり違う解釈という疑問を持ち始めたこと、等々日常の始めの始めに相当する部分です。

天照に対しては外部から来たものですが天照る側には受容する力動が備わっていたからで、外部にあるものに対しては天照側が働きかける相手になっていたからです。

この両者における相互の感応が物事の、精神活動の始まりですが、主体側客体側として相互に独立した存在です。それらの独立した存在が意識内で、精神世界で感応するとそこに「意識されたもの、言葉で示されるもの」が生じてきます。

これが岩戸開きの秘密ですが、実はここでは天照が自らの関心を自分に感じただけで詳細は未だ岩戸の暗黒中にあります。つまり天照は引きださられなくてはなりません。

外部世界の状況はどんどん進展しているのに、精神世界は何一つ変わりなく停滞したままです。新規のアイデア、発見があっても、運用法に何の進展もありません。そのため現状に埋もれないようにと戦いの準備などもしなくてはなりません。学校で古事記の思想が教えられるようになれば、直ちに豊かな平和な世界運用は日本の手に任されるようになるでしょう。

◎032 こころの原論。天照大御神の誕生。あやし。笑い。天の岩戸開き。 ◎

・ここに天照大御神あやしとおもほして、・天の岩屋戸を細めに平きて、・内より告(の)りたまわく、・「吾が隠(こも)りますによりて、天の原自ずから闇(くら)く、また葦原中国も皆闇(くら)からむとおもふを、・何の由(ゆえ)にか天宇受売は楽(あそび)をし、また八百万の神諸々笑へる」とのりたまひき。

暗黒の不動静寂な世界であったのに外部世界の騒ぎが伝わってきます。内容はまだ判断されていませんので、実体は分かりません。では何が伝わったのでしょうか。

ここでは単なる物質と物質の物理現象としてです。声や音としてなら、空気振動と鼓膜の受容する物理構造です。意識そのものを扱うのなら脳内でのイオン交換とか電位の差とか化学物質分泌での物理現象です。これらの物理現象をもって意識とは物質だから意識は物質の必然運動に過ぎないというテーゼなども出てきます。

五千年以上も前にそれらの思想は既に解明されていて、古事記に依れば物理現象と物理表象の両者が同時に受容感覚器官に訪れて、感覚器官をたち起こしその内容と体部分を同時に了解していくことになります。

例えば音を聴いた時には何の音であるという前に空気振動の鼓膜での反作用であるものを「音」と名付けた脳内の言葉による活動がありました。、もしこの活動がなければ、空気振動を認識せず、香りといったり光といったりかゆい痒いと言ったりしているかもしれないのです。まず他の五感感覚との差異の認識が前提されなくては「音」という感覚も出てきません。

これが細めに開けて五感感覚の何であるかを了解した場面になります。頭脳内での超スピードでの展開ですが、何時かはその速さも公表されるでしょう。今のところは瞬時にというだけですが、古代大和はその瞬時を解明して古事記に現しているのですから、現代の科学者哲学者が一万人でかかってきても倒せる相手ではありません。

古事記の神名を使用すれば、天の狭土の神(あめのさつちのかみ)と 国の狭土の神(くにのさつちのかみ)になり、ひらがな表記部の「つち」を槌と読み替えると鼓膜を叩く槌となります。当然その前後も鼓膜に到達する音と音を聴いて脳内で了解していく一連の過程となっています。(一言メッセージから本物の解説HPへ飛ぶかこのブログの過去を探ってみてください。)

・内より告(の)りたまわく、

さて、五感による物理的な覚醒の後・内より告(の)りたまわく、となります。

これは物理刺激が脳内での意識活動との連絡を付けることになります。古事記でよく使われる言葉では「つ、津」で渡し場、こちらを、このものを向こうに渡すことです。実際前記の「つち、槌」の前後は大山津見の「つ」とおおげつひめの「つ」に囲まれそれぞれの次元での通過していく状況の違いを示しています。

ですのでここは物理刺激を脳内で了解することになります。

その際、自己反省の形をとっていますが、自らに用意されている選択部位の確認のためです。疑問という知識な次元ではその内部に自分に相当する部位を発見するための反省を元として疑問がでてきます。自分に結び付ける反省部分が見つからないと、無知を承認するか全否定をするかになります。

・「吾が隠(こも)りますによりて、天の原自ずから闇(くら)く、また葦原中国も皆闇(くら)からむとおもふを、

・何の由(ゆえ)にか天宇受売は楽(あそび)をし、また八百万の神諸々笑へる」とのりたまひき。

ここでは隠れたものが現れる構造、現象がどうして現れるかを扱っているので天照はそのようなものとして反省しています。暗いから暗いはずだ、暗い中でまだ動き騒ぐものがある、暗さを超えた笑い声がある、そういったものがわたし天照自身にあるのだろうかというわけです。

・笑い声

天照に笑いが聞こえていなければ、天気を気にして雷鳴が聞こえているのではないか、ならば外は大雨だろうかと疑問を持つこともあるでしょう。あるいは地震地鳴りだ岩戸は大丈夫かなともなります。つまり物理的刺激を脳内へ渡す過程にあります。ここが正確でないと、とんでない間違いとか、ちょっとした手違いとかが起きることになります。

しかしここでは、もっぱら笑い声が聞こえます。この笑い声が他の声や、音でないところが肝心です。猫の鳴き声犬の遠吠えならばそれを了解して終りです。誰かが自分の考えをづらづら述べていたり、主張を繰り返していたりしているのなら、聞き流して終りです。笑いというのはそれらの全てを超えていて人の生命を高みに持っていくものです。

そもそもが五十音図の枠組みをスサノオが壊したことからはじまっています、言葉宇宙の全体が破壊されました。宇宙全体と匹敵するものは言葉ですが今は使い物になりません。使用可能であっても、知的な概念主張が岩戸の外で聞こえても、そうですねと了解してあげ、でもそれは真理ではありませんと告げ、聞き流して終りです。暗い宇宙を取り戻すことには匹敵しません。

欲望世界は非常に大きなものです。固執された欲望に勝てるものはありません。しかし、不足しているものそれだけが彼の世界全体です。腹を空かす子には食事を与えれば済むことです。

ところが感情はそうはいきません。その感情は受け取る相手を特定できませんが、受け取れないといってもその出所まで否定はできません。感情の出所は各自で自覚していて分かっているところだからです。

受け取られるかどうかは相手次第ですが、その発露においては自他と世界全体への関係は自覚されています。まずは人の感情です。特に笑いは人を引きつけ和を拡げ、同じ生きていることへの共感の波長を同調し合います。お互いにお互いの知らない生命の(楽しみの)源へ連れ戻されます。あなたとわたしは同じです。

笑いといっても知的な範囲での笑いと欲望次元での笑いは精々その人が選んだ範囲内での笑いでしかありません。ところがここでは八百万の神が笑うとありますから、全ての次元での笑いが引き出されています。

実際にはわれわれの次元では笑いの後ろにはいろいろな限定された感情がくっつけられていますのでその範囲内でのことになるでしょうけど、天照に対しては文字通り八百万の笑いに、つまり存在全体への安心平和愛とありがたさへの歓喜(よろこび)の笑いとなっています。即ち天照がいる岩戸は言霊アの感情の居間、アの間、アマですから、これ全体に対応した照らされ方が次の段落です。

天照は完全な精神規範ですが外界がそれに応じているとは限りません。しかし笑いは天照を動かし和の流動の中へ誘います。もちろん天照なりのあやしという思いは消えてはいないし持続したままです。そうこうしている戸惑いが実在しています。ものを納得する直前の迷いです。面白いですね。古事記はこんなことまで一連の必然の中に位置付けています。この戸惑いを通過しないとものを納得創造現象の形態を与えられないのです。大戸或子の神(おほとまどひこのかみ)と大戸或女の神(おほとまどひめのかみ)の出番となります。

・ここに天宇受売白言(まを)さく、

・「汝じ命に益して貴き神座(いま)す故に、歓喜(よろこび)笑ひ楽(あそ)ぶ。」とまをしき。

ここの文章のこころは客観世界において天照のカバーしている範囲と同様の範囲が存在していると告げていることです。

ウズメのウの次元世界の性格として比較による量に価値判断を置くところから天照より貴い神がいるという言い方になっています。ウズメにとっては当然の言い方ですが天照には価値のない言い方で、天照より貴い神がいるとだまされたという解説は不正です。天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)に天照に匹敵する判断規範が逆さに引っかけてあるところからする、あやしい思いです。

多くの神がいる中で何故ウズメが応答しているのでしょうか。また他の神ならどのように返答してるでしょうか。思い金が役割を分担したというだけでは何にも明らかになりません。

第一この間に速須佐之男の命はどこへ行ったのでしょうか。

天照の岩戸隠れの始まりはスサノオの狼藉でした。つまり、スサノオの物凄い世界への創造欲求による探究心が人間性能の五つの差異を混同したことにあります。そしてとうとう天照の最高規範である思惟構造まで手を付けたのでした。

スサノオもウズメも同じ言霊ウですが、彼は原則と海(ウの世界)全体を統括するのに対して、ウズメは個別的なウの運用規範を統括しています。岩戸の前ではウズメは他の人間性能の原則規範には手を触れていません。自分の統括範囲内の言霊ウの次元を好き勝手に運用しています。

つまりここはスサノオが他の人間性能へ口出し手出しすることを控えて自らの統括範囲内に戻ったということです。戻ったとはいえ、彼の探求研究心は衰えませんので自分の気の付くままにことを起こしていきました。

スサノオは(=ウズメは)得意になって自分の成果を訴えます。どうだ、姉さんのやり方よりも凄いやり方でより素晴らしいものが出来ている、見てくださいというわけです。みんな満足して笑ってるじゃないか。

スサノオは自分の次元に戻っただけなのですが、後ろにはイシコリドメ達が用意した他の人間性能次元も用意され見られるようになっています。それらのことは取り上げず自分の成果だけを掲げます。

さらに、

・かく言(まを)す間に、

・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・・布刀玉の命(ふとたまのみこと)

・その鏡をさし出だし、

と、言霊アと言霊オの次元に語りかけさせ、スサノオ(ウズメ)は自分の創造した結果を見せて皆歓んでいますよと結果論を吹っ掛けていきます。

よくあることですが、原理原則まで口を出して拒否されても、それでも自分の主張を自分の範囲内でなら絶対正しいものだと繰り返すことと似ています。科学知的な分野でも感情宗教の分野でもそういった欲望を持っている場合は同じことが起きています。

◎033 こころの原論。天照大御神の誕生。鏡。神苦しいぞ、。天の岩戸開き。 ◎

・かく言(まを)す間に、

天照が反省して間に、

この反省は時間をかける場合でも瞬時の場合でも同様の構造です。自分の意識が立ち上がってしまった場合当然次の行為に進んでいきますが、当面はまず全体がワッと与えられる形になるので、選択へ至るまでの逡巡がくるわけです。ここでいう全体とは五つの性能がまとめてくるということだけを指すのではなく、選択分類される以前のものが来るということです。

・天の児屋の命(あめのこやねのみこと)・・布刀玉の命(ふとたまのみこと)

この二神が突っ込みます。

特定の狭い範囲でのものがワッと全体的に来るという場合でも、それが・特定の・狭い・範囲のもの・という判断基準が働いています。その要領となる言霊ア、全体的な判断智慧と言霊オ、実際的な分析知識がもともとあるということを示しています。

・その鏡をさし出だし、

・天照大御神に示(み)せまつる時、

ウの次元天宇受売は直接物理的な刺激、欲望達成の成果を差し出しました。

天の児屋の命は自覚された感情の上に乗ったものを鏡に映して見せます。

布刀玉の命は知的な判断規範を鏡に映して見せます。

ここにある鏡は一つですが写されているものはそれぞれ違います。もっと言えば八百万のウ、オ、アの次元の世界を写して見せます。

ここは言い換えて、各次元のそれぞれ八百万の鏡があるとしても同じです。というのは天照は八百万に対応してはいますが現象として生ずるのは一つの要素が単位となるからです。

ところで実在世界はイエウオアの五次元で成り立っているので実際には八百万÷五です。さらに今現在という時間の働きからすると、この時間の働きかけは八種類ですから八百万÷八を単位としていきます。

結局最終的にできて来る結果は要素単位では四十になります。これは五十音図の両側母音列を除いたものです。ここの文章は天の手力の男が出てきてから再説されます。

・鏡

八咫鏡(やたのかがみ)は上記の構造を円形をしたものを平面的に解決したものです。円を八分して同心円の中に五十音が配当されています。中心部に伊耶那岐、伊耶那美のイ、ヰが記されてその廻りを父韻が囲み、古事記冒頭の五十神が記されています。(実際に見たことはありませんが)

四角の形でしめしたのが五十音図です。

実際の使用法は古事記が指し示し教えていますが、わたしはここまで書いてきてもまだ分かりません。スメラミコトの素養がないからだめです。皇室の誰かに早く気付いてもらいたいところです。

・天照大御神いよいよ奇しと思ほして、

・やくやく(やや)戸より出でて臨みます時に、

始めは細めに開きて、でした。ここではやや(「稍自レ戸出而(やや戸から出て)」)戸より出でてとなります。

始めのは天照が岩戸を細めに開いたように思われますが、もっとはっきり言えばウズメによる物理現象の働きかけによる反作用で、その内容の意識的な表現です。

今度の場合では「臨み」とあるように空間的に方向性を持った自律的な主体の現れを示しています。ただし天照自らが主体的行為を持って臨み進んでいくのではありません。霧や雲が晴れ目前の視界が広がっていくように、それに連れて主体側の現れも拡がるというものです。そしてここでは全分野全宇宙を見渡せる自分の状況が出来たことになります。

これは言い変えると五次元世界の判定の主体側の条件が立ち上がったことに成ります。外部世界のどの次元世界がやかましいのかその判定の規範の準備が出来たことです。あるいは自分の部署に戻ったスサノオを天照の世界から見直してあげることができるようになったということです。

人間の各性能次元がそれぞれの場所にあればこの世を暗いままにしておく理由はありません。

そのまま天照が出て来ればいいのですが、ここに全人類の秘密、それを記した古事記の秘密、秘密を保持するよう命じられた皇室と神道の秘密があり、その秘密によって世界を運用するように依頼されているスサノオとその末裔(モーゼ)の秘密があります。

何か怪しい書き方になってしまい申し訳ない。ボロ隠しだから気にしないでください。毎日世界一の書物を勉強していますが、簡単ではないです。何しろ数千年の世界史を短時間でここまで来たというだけでも大したものだと自負しているくらいですから。毎日毎日発見や追加することが出て来るので忙しいし、また同時にこんなにいい加減でいいのかとも思います。問題は扱う対象の凄さに対して内容の理解がないので、全然情感が沸き上がってこないことです。要するに全然ダメだという思いでいっぱいです。

・その隠れ立てりし天手力男の神、

・その御手を取りて引き出しまつりき。

とうとう世界文明史の秘密を解明するところにまできました。これが人間精神の秘密です。といっても何も未だに分かりません。誰でも知的には分かることになるでしょうが、実体を伴わないから駄目です。情けない。

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ひふみ神示に次のように述べられています。

「 岩戸開く仕組み知らしてやりたいなれど、 この仕組み言ふてはならず、 言うわねば臣民には分からんし、神苦しいぞ、早う神心になりて呉れと申すのぞ、

身霊の洗濯いそぐのぞ。二三三二二(アイカギ)・ひふみを実としてフトマニとせよ)・、ゝ○○にゝ、

コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ(この鍵は石屋としか、手握ることぞ)」

「 ナル(成る、鳴る)には内の陰陽合せ、

ウム(産む)にはソトの陰陽合せよ。

成ると生むは同じ であるぞ。

違ふのぢゃぞ。

~このこと判れば石屋の仕組判る。」

「 口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ」

神さんがまだ言えないよといっているのですから、その分だけ勝手にやって見ろというわけです。

二二は鍵ではなく、二十二、フトマニのこと。

ここでいう石屋は意(五)思の家屋で五重の家、つまり人の心のことです。人間の実在性能次元の母音行を指します。母音行のア行は半母音行ワ行へ渡って始めて自分を現します。

この天の浮橋を渡るには父韻の助けが必要で、八個ある父韻の「内・チキシヒ(タカサハ)」を渡り始めに選択し、「外・イミリニ(ヤヨナラ)」をもって産み成せということです。この二つの違いは濁音になるかならないかです。五十音図を見てください。

石屋の石の陰陽は安河の賢石であり、鹿の肩骨でもあります。ここでの「かた」は片方の意味で陰陽の半分片方ということです。ですので父韻の片方ということになります。

(追加。父韻を陰陽の半々に分けましたが、間違っているかもしれません。やはり、母音行を陽、半母音行を陰とした方がいいかもしれません。成ると生むは同じといって、違うと言っていますので。向こうへ行くのはこっちから離れることになる。)

とここまでは分かるのですが、その後がどうするのかが分かりません。神様はよっぼと苦しんでいるようです。

心、口、行というのはついでに見つけたものですが、ひふみの内容を言ったもので古事記冒頭三神、御中主、高御産巣日、神産巣日のことです。同様に三種の神器、鏡、剣、勾玉に対応しています。

命・みことは完全な三つの言の葉の全体、そしてその全体の所有者、つまり三種の神器、冒頭三神、心口行の完全な体現者のことで、チョンまるまるチョンです。

これは石屋にも対応させると、石は意思、五の思、いわ、五の言葉、人の心の五段階の

ア行、御中主、鏡、心、となって、

ワ行、神産巣日、勾玉、行へ、それを取り持つ、

父韻、高御産巣日、剣、口となるでしょう。

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◎034 こころの原論。天照大御神の誕生。秘密。神苦しいぞ、。天の岩戸開き。 ◎

「 ナル(成る、鳴る)には内の陰陽合せ、

ウム(産む)にはソトの陰陽合せよ。

成ると生むは同じ であるぞ。

違ふのぢゃぞ。

~このこと判れば石屋の仕組判る。」(ひふみ)

ここの石屋は全体的には天照の石屋戸での開かれる秘密のことで、個別的には石屋は安の河原の河上の天の賢石(かたしは)のことになります。賢石のカタ(片方)を内外の陰陽のこととして言っています。

「同じ」、と言って、直ぐに、「違う」、というのは、アからワへ渡ること、主体から客体へ行くことで、客体の内容は主体となる、主観は客観を反映しているということです。主体の内容は客体にあり、客体の内容は主体に表現されるということです。

主体側から客体側へ渡り行くことの中に秘密があるわけで、岩戸(石屋戸)開きはその構造を記したものですが、人間の発見した唯一最高の秘密だけあって簡単ではない。知的に学問的には、ここまでは間違いないと思いますが、「カタ」の片方を父陰の片方と取るか、母音行か半母音行かで、前回行き詰まりました。

また、ナルとウムというのは島生み、国生みのみとのまぐ合いに関したことです。陰と陽とその間を取り持つものとの三者が秘密の元となるようですが、記述はいつも主と客、主と取り持ち役というように、二者しか出てきません。心、口、行と三者あるものをわざと二者でしか記されていないような感じです。

古代大和で老子も一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ずと教えられましたが、抽象的な数霊でしか解いていないので、ひふみや古事記の実体的な解説とはほど遠い(とは言ってもまだまだですから同じムジナ)。

もしこの延長上に父陰か母音かで書いていけば何となく知的には了解納得していけます。そこで放ってもおけないので結論を出さねばなりませんが、どちらか片方にしてしまうのは駄目となりました。

父陰は横列全体を通過しなくてはならず、それを通して、母音行は半母音行へ渡らなくてはならないからです。ここには一つの全体の流れしかないので分けることは出来ませんが、流れに河上とか始めとかがあるような分類をすればひふみ神示の言い方になるわけです。

これで石屋の仕組みは分かりました。「天地の初発の時高天原に成りませる」の「天・地・高天原」、この三者のことです。古事記のイシコリドメの鏡に照らして現象があらわれることです。

知的にはこれでいいと思いますが、感情が伴わず歓びがありません。つまりどこかにまだ欠陥があるわけです。

探しにいきます。

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天照は自分で自分の顔を見て奇しく思いました。これは自分が自分の意識を表明するときの心理によくあることです。幾らでも自分に疑いを持てるからです。それというのも、天照は自分で戸を開けたのは自分の手が出るだけの隙間でした。手というのは選択行為の象徴です。目前にあるのは暗闇の全世界です。その反対に岩戸の中は光です。

潜在意識の中で(岩戸の中で)五つの 次元の意識世界のどれかが選ばれ、どれかが捨てられていました。自分で全的に自分の五つの次元を選択しえないため、自ら歓んで飛び出すことができません。結局は天手力男の神に引きずり出されます。この部分などは自分の最善の主張をしているつもりなのに、よく後から他人に異を指摘されることがあり、反省させれられるところです。

・手力男

手を「タ」と読ませて、「田」の暗示となっています。田はもちろん五十音図の縦横整然とした言霊の並びを指します。

力は力動の現れその力動の原因となるもの。

男はその行為を果たす者。

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いいですか。

岩屋戸の中は天照自身の光で輝いているのです。

眩い限りの光の世界なのです。

天照とは自分でありあなたであり全てのあなた方の意識のことですから、

私たちは岩戸(石屋)の中では光の子として生きています。

しかし、外へ出て客観、現象世界の中では闇夜を手さぐりで歩くようなものです。

そして、実際はどす黒い精神でしか人と人とは向かい合っていません。

それは何故かといえば、天照が(わたしが、あなたが)岩戸から出る時「御手」を差し出して出て来るからです。

「手」は選択取捨の象徴ですからもともと対象相手を分類してしまう意識に捕らわれていることになります。

自分の輝いている手をしか提供せず、それだけの関係世界を作ります。

手力の男もその手を引っ張ってしまいました。

もし手力の男が天照に抱きついて身体全体を引き寄せたらどうなるでしょうか。

それを示すのが八またのオロチを八拳の剣でなく十拳の剣で切り取ることとなる次段の話です。

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父陰はわたし達の隠れている意識を現象となる客観世界に結び付けるはたらきを受け持ちます。この働きが無ければ永久に外は外、内は内で何の結び付きもありません。

しかし、父韻といえども暗闇にいるわたしの意識(客観世界)と直接手を結ぶことはできません。私自身にとっては自分が奮い立ち関心を示し、身震いして動き出す切っ掛けが必要です。要するにわたしは自分で立ち上がらなくてはならないが、闇を突き破るものが必要なのです。

そしてその役目を負うのが、天宇受売の命です。この神は五感の欲望欲求そして後に産業経済へと発展していく欲を導く初動の神様です。言霊のウ次元です。闇夜のわたしに原初の関心を与えてわたしに何だろうという思いを与えて導き引き出す役目です。

ウズメもいろいろとこった準備をします。闇夜(外から見てのことで、岩戸の中は光の世界)にいるわたしの意識へと下がってくるためです。そして、この方法しかわたし(天照)を起こす事はできないのですが、ここが不明でまだ分かりません。

人間精神の変容変態次元を通過することがなければ上の次元にはいけない。逆に言えば必ずウの次元から始めなければならない。

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物語の始めは天照のアマ、アの間にスサノオの管轄する馬、うま、ウの間をぶち込まれ頂(あ・たかまはらなやさ・わ)を壊されあ・かさたなはまやら・わにされたことにあります。簡単な例を使えば古事記の勉強をしている人の疑問に答えるのにカレーと寿司とどちらが食べたいですかとか、腹を空かして飢えている人に岩戸開きの秘密とはの講義をしてあげましょうというようなものです。(昔、飢えた子にとって文学とは何ていうのがありました)

天照はアの間による田を管理しているので、そのア段から見ている限りは何をされても大目に理解してあげることができます。スサノオの畔を離ち(音図の段を変え、行を変える事)、糞(組む要素の事で言葉の組み合わせを変える事) 撒き、などスサノオの研究熱心な姿(新しい事業への取り組みの事)として当然おこるだろうと理解しています。母の子に対する態度を見れば同じですが、子供が母親の眼を目指して突つこうとすれ(ア段の並び、たかまはらなやさ)ば止めなければなりません。

天照は完全無欠な意識規範の持ち主で岩戸の中は光の世界ですが、外部はそれに対応していません。そこで天照次元に対応する準備を整え天照に匹敵する世界を見せるため鏡による反転を考慮して逆さの世界を造り騒いだわけです。

天照にとっては自身を超える世界は伊耶那岐の大神の世界ですが、ウズメの起こす騒ぎに大神の声を聴きます。桶を逆さにして音を出す事に相当します。桶はばらばらにならないようにタガで締められています。このタガとは多賀に鎮座している大神の象徴です。そこで怪しいとは思いながら自分の全身像が外部にあるだろうかと思いまず手を出しました。手は選択実践行為取捨分別の象徴です。

それをそのまま手力の男に取られて出てきてしまいました。身体も頂きのア段も出てきたので世の中は明るくなりましたが、この時布刀玉の命に、今後は記憶概念知識の要素が世界運用の主流となりますと告げられます。

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今までは岩戸の中の天照と外の世界との感応を起こすために、つまり、主体と客体とが同列であること同じ土俵上にあることを強調してきました。同じ地平に立って同等な話ができるというわけでした。

しかし、ここに手力の男の命が出て来ると場面はがらりと一転するようです。天照と手力の男の関係が示されなければなりません。

道は一を生じ、

心(一)言霊ウ、御中主、鏡、あ行、天、、、、、岩戸の内(手力男の神)

一は二を生じ、

口(二)言霊ア、高御産巣日、剣、父陰、高天原、、、手力の男(天石門別の神)

三は万物を生じる、

行(三)言霊ワ、神産巣日、勾玉、わ行、地、、、岩戸の外(常世の思金の神)括弧内は天孫降臨での対応。

万物、へ。

このような書き方はある程度分類に対し有効ですが、次元の、場面の、時間の相違等を無視しているので混乱も起きてきます。特に数の順を辿っていくとわけの分からないことになります。

◎035 こころの原論。天照大御神の誕生。道は一を生じ。天の岩戸開き。 ◎

・その隠れ立てりし天手力男の神、

・その御手を取りて引き出しまつりき。

前回の終りに次のように書きました。

道は一を生じ、

心(一)言霊ウ、御中主、鏡、あ行、天、、、、、岩戸の内(手力男の神)

一は二を生じ、

口(二)言霊ア、高御産巣日、剣、父陰、高天原、、、手力の男(天石門別の神)

三は万物を生じる、

行(三)言霊ワ、神産巣日、勾玉、わ行、地、、、岩戸の外(常世の思金の神)。括弧内は天孫降臨での対応。

万物、へ。

分かったようで分からない、二千年間変わらない思いを起こさせるものです。一が二を生じ、それを主体、客体としますが、では一から主体へ、または客体へはどうやって生じていくのか説明できません。老子自身がスメラミコトから教えてもらっていないからでしょう。単に結果としてそうなると結果だけを伝授され後学に伝搬したものでしょう。

何か老子よりも偉そうなことを言っているようです。実際古事記の言霊学は老子の先生ですから当然なことですが、言霊学はわたしみたいな者でもちょっと勉強すれば老子ぐらい突つけてしまいます。といっても今のところは大風呂敷を拡げた嘘つき次元だというのは分かっていますが。

分かっている範囲で多少は喋らないとアホ扱いになりますからやってみましょう。

一から二へ行くのは、一があって、その途中があって、一の行き着く先が、あるからです。そのどれかが欠けても成立しません。

一があることとは時間空間次元としてありますが、当然のことでそれに関する全てが対象となります。それは、古事記では、

1。かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。

・自己主張の拠り所

2。次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。

・文化の内容の他との関連性を調べる働き

3。次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。

・現象の変化から時間を決定する働き、処位。

4。次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。

・アイマイで意味不明瞭な言葉を整理・検討して、その言葉の内容をしっかり確認する働き

5。次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。

・言霊図に照合して物事の分岐点を明らかに確認する働き

6。次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

・ア段と照らし合わせて、物事の実相を言霊で明らかに組んで行く働き

という考察の対象となることが述べられています。一があることは同時に一が行き着く先の時空次元も考慮されるということです。

しかし上記はもっぱら、あるあった無い無かったの静的な状態を考察するものです。

一は時空の中を移動しますから、動きの始めとその動きに関する考察が加わります。それが下記六項目となりますが、次の下記六項目のそれぞれの時点に上記が重なっていきます。

そして、中間に関する上記六項がまた考慮されます。中間なり途中のことはそれなりの独自性を持っていますから、上記にその独自性の考慮が加わります。始めの動きには終りの動きがありますからそれも考慮されます。

こうして、必ず元の地を踏みしめていく螺旋階段を上っていきます。この動きが考慮されて、、

7。次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、奥疎(おきさかる)の神。

・動く物を出発点へ寄せていく働き

8。次に奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神。

・動くものの内容を出発点に関係付けをもたらせることを助ける働きの力

9。次に奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。

・動くものの表現を端初からみて終端に落着させる創造的な働きの力

10。次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、辺疎(へさかる)の神。

・動く物を終着点へ寄せていく働き

11。次に辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。

・動くものの内容を終着点に関係付けをもららせることを助ける働きの力

12。次に辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。

・動くものの表現を終端からみて端初に落着させる創造的な働きの力

と書かれています。

というように一つのことに新しいことが重なって、一つの動きが新しい動きになっていきます。前段は後段の芽で前から後への途中を「間、ま」といって、それを渡る事を「津、つ」と言います。ですのでマとツが一緒に述べられたり、別々になったり、移動していったりする述べ方になります。安河の河原にまずアマツまらが出現しますが、主体、母音実在を成立させる動きの根元因としています。

ところが、これらは途中にある実体に関するものです。状態はこうでこうだからこうなるだろうというだけのものです。

それらをもらたす働きそのものはまた別のところにあります。

これを働きとして見ていく全体の統括者が天の手力の男です。上記全体を働きとして見た時の命名です。別の言い方では父韻となり、個別的には、

(8)宇比地邇神・ 言霊チ (ウ)全体性

(9)妹須比地邇神 ・言霊イ (ウ) 全体性

(10)角杙神・ 言霊 キ (オ)拡がる動き

(11) 妹生杙神 ・ 言霊 ミ (ヲ) 拡がる動き

(12) 意富斗能地神・ 言霊シ (エ) 拡がりの保存収縮

(13)妹大斗乃弁神 ・言霊リ (ヱ)拡がりの保存収縮

(14)於母陀流神・ 言霊ヒ (ア)火花の先端にて、表面生

(15) 妹阿夜訶志古泥神・言霊ニ (ワ)火花の先端にて、表面生

の八種に命名された神になります。天の手力男の八種の性格です。

一升瓶の中に半分酒が入っています。この酒を巡って八百万の意見がでてきます。半分空だ半分満ちている、無くなったのではなく場所を移動したのだ、酔いに連れて幸せをもたらすものだ不幸をうむ物だとか、百薬の長だ交通事故を起こす物だ、とにかく八百万です。

静的にか動的には、途中を強調したのか、始めから見た眺めか終りから見た眺めか、五感感覚からか、感情からか、学問知識からか、とにかく八百万のそれぞれの気付いたお気に入りが意見となっていきます。

日常の思考はあるとか無いとか言って受け渡しをすればいいことですが、思考原論としての古事記はここにそのあり方を見せてくれます。といっても、古事記冒頭の百神全体のことですので、ここでは上記だけを抜き出してやってみましょう。

一升瓶に入った半分の酒とか、マラソン競技を例にっとってみましょう。

マラソンの出発点も到達点も移動していません。酒瓶の口も底も動きません。天照で言えば天照の岩戸内での状態は同じです。外の闇で用意された世界もそのままです。動くのはランナーで酒の量で天照の現象への意思です。

1。かれ投げ棄(う)つる御杖に成りませる神の名は、衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。

・酒がもう半分しかないとかまだ半分もあるとか場所を移動しただけとかは基準が無ければ八百万です。ランナーは現時点で走っているだけで酒はそこにある量があるだけです。

天照は何もせず受けるだけ与えるだけの全てです。

2。次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りませる神の名は、道の長乳歯(みちのながちは)の神。

・現存する量が他との関連を持たなければ量の移動変化はなくそこで終りです。

ランナーがそこで倒れ走ることとの関係を立てば終了です。

天照に関連があること関連を与えられること、その持続への思いが無ければ無です。

3。次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神。

・したがって時間の流れと空間の場所と性能次元での位置が計られます。酒の残量の現存している理由はなにか。

ランナーの現在位置の時空系列が計られます。

天照の出現のタイミングでしょうか。

4。次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、煩累の大人(わずらひのうし)の神。

・いる、やっている、現存しているといっても何に対するものかの明確化が必要です。酒の残量が、消費量が何に対するものか。

現在位置が到達への目標に変更は無いことそれを疑わないことへの確認。

天照がでてきても自他ともに耐えられるか自他共に共有できるかの疑問がないこと。

5。次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りませる神の名は、道俣(ちまた)の神。

・明確になれば自己のその時処次元での存在の一貫性が出現します。酒の残量があることの理由が見つかれば締めたものです。

ランナーは終着まで行く行かない、行ける行けないの選択をクリアしつつ進むでしょう。

天照は出現するかしないかの二つに一つ。

6。次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。

・そうして間違いの無い全体性を得ます。残量を消費する気持ちがはっきりしていきます。

自己統制に成功して完走できそうです。

天照が出ることになるなら物事は明らかに、出ないとなれば駄目でしょう。

ここまではある地点での反省考慮が主でした。切り取られた場面、抜き出された状況をいうもので、今の状況を伝えるものではありません。現実は今という場所で動いています。

それが7以下になります。