[運用 24] 伊耶那岐の大神

伊耶那岐の大神

ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。

ここを以ちて、とは伊耶那岐の命が妻神伊耶那美の命が主宰する黄泉国の文化を体験し、その内容と、黄泉国の文化を摂取して世界人類の文明創造に組み入れる方法をも確認し、その結果、高天原の精神文明と黄泉国の物質科学文明とでは同一の場で語り合う事は出来ないという決定的相違を知り、岐の命と美の命とは高天原と黄泉国との境に置かれた千引の石を挟んで向き合い、離婚宣言をした事を受けての言葉であります。

伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、……

この文章を読んで奇異に感じる方もいらっしゃるかと思います。今までの古事記の文章では伊耶那岐の命または伊耶那岐の神といわれて来ました。ここに来て初めて伊耶那岐の大神と大の字が附けられたのは、ただ単に尊称として大の字を附したのではありません。そこには重大な意味が含まれています。この事について説明して参ります。古事記の神話が始まって間もない時、主体である伊耶那岐の命と客体である伊耶那美の命との関係として、相対的立場と絶対的立場という事をお話した事があったのを御記憶の方もいらっしゃると思います。相対的立場とは主体と客体が相対立した場合の立場であり、絶対的立場とは一体となった場合の事であります。正(まさ)しく伊耶那岐の大神という呼び名は伊耶那岐の命と伊耶那美の命とが一体となった呼名であります。二人の命が一体となる、とはどういう事なのでありましょうか。この事を理解しませんと、これより説明をします古事記の総結論に導く「禊祓」の法というものの理解が難かしくなってしまう事が考えられます。そこで、この大神という名の意味を詳しく説明いたします。

客体と一体となった主体の心とはどんな心なのでしょう。卑近な例で言えば、お母さんが赤ちゃんに対する心と言う事が出来ます。赤ちゃんが普段と違う泣き声をしている。掌を頭に当てて見て「あっ、熱があるみたい」と思う時は、赤ちゃんとお母さんはまだ主体と客体が対立した相対的立場に立っている、という事です。熱を計り、「三十八度近くある」と知り、「どうしてだろう」と考えている時もお母さんは赤ちゃんの事を客体として観察しています。けれど「昨夜、暖かいと思って薄着にさせたのがいけなかったに違いない」と知って、お母さんが反省した時からは、お母さんは自分が病気になった時以上に申訳なく思い、心配します。赤ちゃんを病気にさせたのは百パーセント自分のせいだ、という様に悔やみ、心配します。この時、お母さんと赤ちゃんは一体となっています。主体と客体が一体となる絶対の立場となります。

主体と客体の相対と絶対の立場をもう少し掘り下げて考えてみましょう。時々お話する事ですが、人間の心は五段階の進化を遂げます。人間は生まれた時から五段階の性能が備わっています。ウオアエイの五次元性能です。けれど人間はそれを知りません。言霊学に出合って初めてそれを知り、言霊学を学ぶ事によって一段々々とその自覚を確立させる事が出来ます。その自覚の進化の順序はウ(五官感覚による欲望)、オ(経験知)、ア(感情)、エ(実践智)、イ(創造意志)の順です。以上の五段階の進化の中で、人間の主体と客体との関係はどう変わっているか、を考えることにします。

先ずは言霊ウの欲望性能では、何々が欲しい、何々になりたい、という欲望行為は、その欲望の対象であるものを客体として、その獲得のために努力し、また手練手管を駆使してその対象である目的に近づきます。この段階の主体と客体は飽くまで相対関係にあります。次の言霊オの経験知識性能ではどうでしょう。研究したいものを客体とし、主体はその客体について観察、比較等を繰り返して、客体の動きを法則化して行きます。この次元の場合も主体と客体とは飽くまで対立し、相対の立場にあると言えます。

第三段階の言霊ア(感情)の性能に到って様相を異にして来ます。醜いもの、臭いもの、嫌なものを見聞きして、「いやだ、気持悪い、憎い」と思っている内は主体と客体は相対の立場をとっていますが、大層美しい物や事に遭遇しますと、自然感動し、我を忘れます。また気の毒な人に会うと同情します。美しいものに感動し、自分ならざる人に同情する心、それは純粋感情と呼ばれ、愛とか慈悲の心、滅私の心であり、主体(自我)と客体が同一化してしまった場合に見られます。先程述べた赤ちゃんに対するお母さんの心もその一例でしょう。この時、主体と客体は絶対の関係となります。

以上の言霊アの性能が社会の活動となって現われたものが芸術や宗教であります。芸術の美と宗教の愛の活動によって世の中に明るさ(光)と慈(いつく)しむ心(愛)が芽生え、楽しい社会がもたらされます。それは感動と同情の心の発露によりましょう。しかしながら愛や慈悲、同情や美的感情が客観としての社会に影響を及ぼすのは個人または家庭、更には区域社会に限られます。広く国家全体、ひいては世界人類に対してはほとんど何らの影響を与える事が出来ないのが現状です。何故なのでしょうか。芸術や宗教は人間のヒューマニズム的心情に光を与える事はあっても、人類全体の歴史をどう見るか、人類の明日よりの創造を如何に計画するか、の方策と理論を持ち合わせていない為であります。言霊学の教える人間の心の進化の三段目である言霊アの確認は出来ても、第四、第五の次元、言霊エとイへの進化の自覚が欠けているからであります。言霊アの感情性能は人対人、人対地域社会での主体と客体との絶対関係を立てる事は出来ても、人対人類の主体と客体の関係は相対的なものに終り、人即人類世界の絶対関係に立つ事が不可能だからです。それ故に人は宗教と芸術活動に於いて人類を愛する感情はあっても、人一人が世界と合一し、世界をわが事と思い、愛すると同時に世界歴史の今を合理的に認識し、それに光明を与えて、明日の世界創造の唯一無二の指針を生み出すことが出来ないのです。

人類世界という自らの外の存在を自らの内に引き寄せ、人類世界と自らが主客絶対の境地に入る為には、言霊学の所謂第四の言霊エ(実践智)と第五の言霊イ(創造意志)の人間性能の自覚が不可欠となります。言霊五十音の原理は人間進化の第五段階、言霊イの次元に存在し、その原理に基づく世界の明日を築く実践智は第四段階の言霊エから発現します。この第四と第五の進化の自覚の下に人は「我は人類であり、人類とは我の事である」の我と人類との絶対関係が成立し、その活動は人間の心の今・此処(中今)に於て行われ、人類が歩むべき道が絶対至上命令として発動されます。

長々とお話をして参りましたが、古事記の禊祓に登場する伊耶那岐の大神とは、右の如き立場に立った伊耶那岐の命の事をいうのであります。それは主体である伊耶那岐の命が客体である伊耶那美の命を包含した主体の事であり、それはまた高天原の建御雷の男の神なる精神構造を心とし、黄泉国の次々と生産される文化の総体を体とするところの世界身、宇宙身としての伊耶那岐の命のことでもあります。以上伊耶那岐の大神の意味・内容について解説いたしました。

「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、……

いな醜め醜めき穢なき国とは黄泉国の事であります。そこでは人各自の経験知による客観世界の研究の成果を自分勝手に自己主張して、乱雑で整理されていない大層みにくい、汚(きた)ない国だ、という事です。穢なきとは生田無(きたな)いの意。生々した整理された五十音図表の如き整然さを欠いている文化の国といった意味であります。そういう汚ない国へ行って来たので自分の身体の禊祓(みそぎはらひ)をしよう、と言った訳であります。但し、禊祓とは現在の神社神道が言う様な滝や川の水を浴びたりして、個人の罪穢れを払拭するという個人救済の業ではありません。そのために「身体」と言わず「御身」(おほみま)という言葉が使われています。伊耶那岐の大神で説明いたしましたように、御身とは単なる伊耶那岐の命の身体という事ではなく、黄泉国の主宰者である伊耶那美の命という客体を中に取り込んだ主体としての伊耶那岐の命、高天原の言霊原理を心とし、黄泉国の全文化を身体とした意味での我(われ)である伊耶那岐の命、即ち伊耶那岐の大神の身体を御身(おほみま)と呼びます。

でありますから、「御身の禊(はらひ)せむ」とは、単に「自身の穢れを払おう」というのではなく、「黄泉国へ行って、乱雑極まりない自己主張の文化を体験して来た今までの自分自身の過去の姿をよく見極め、それを五十音言霊図上にてそれぞれの時所位を決定し、それに新しい生命の光を与えて、世界人類の文明を創造する糧に生かして行こう」という行為なのであります。何故「御身の禊せむ」がこの様な意味となるかは、これより始まる古事記の禊祓の行法の詳細がそれを教えてくれます。

右の事に関して挿話を一つ申上げます。この古事記の文章の「御身」に対して、岩波書店版は「みみ」とルビを振り、角川書店版は「おほみま」とルビしておりますが、右の一連の解説から推察して「おほみま」の方が正しいように思われます。

竺紫(つくし)の日向(ひむか)の 橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。

竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原は地図上に見られる地名を言っているのではありません。たとえそういう地名が存在していたとしても、其処と古事記の文章とは関係ありません。古事記の編者太安万侶が禊祓を行う精神上の場に対して附ける名前に、それにふさわしい地名を何処からか捜して持って来たに過ぎないからです。岩波・角川両版の古事記共「所在不明」と注釈があります。竺紫(つくし)とは尽(つ)くしの意です。日向(ひむか)とは日に向うという意で、日(ひ)は霊(ひ)で言霊、日向で言霊原理に基づく、の意となります。橘(たちばな)は性(たち)の名(な)の葉(は)で言霊の意。小門(おど)は音。阿波岐原(あはぎはら)とは図に示されますように、天津菅麻音図の四隅はアワイヰの四音が入ります。その中でイヰは音が詰まってギと発音され、結局アワギとなります。そこで竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原の全部で言霊の原理に基づいてすべてが言霊の音によって埋められた天津菅麻音図という事になります。原とは五十音図上の場(ば)の意味であります。

伊耶那岐の大神は高天原精神界に、黄泉国に於て生産される諸文化のすべてを取り込み、その上で伊耶那岐の大神の持つ建御雷の男の神という鏡に照合して黄泉国の文化を摂取し、それを糧として世界人類の文明を築き上げる人類最高の精神原理を樹立する作業を、自らの音図である天津菅麻音図上に於て点検しながら始めようとしたのであります。此処に古事記神話の総結論である天津太祝詞音図、即ち八咫の鏡の自覚完成に向う作業、即ち禊祓が開始されます。