02章-1 主体と客体・わたしとあなた

一生二

造化三神

ウ・ア・ワの元

言霊ウ・ア・ワ

主体側の「ウ」と客体側の「ウ」と御中主の「ウ」

「イ」から「ウ」へ

生(イ)きているものが動(ウ)き、私・吾(ア)が分(ワ)かる

意識のウと言霊のウと発音のウ

分けの分からないその次の動き

タカミムスビの「タ」

主体と意識された言霊ア

「ア」の発音

ワ、ア-ワの世界

言霊ワ カミムスビ(咬み結び)の神

ア・ワ。 淡島・淡路島。

和、輪、環、倭、我、されど、大和では「わ」

「わ」は世界語になるか

やまと 八間留

「わ」から和へ、そして、和から「わ」へ

アワに予め秘められているもの

この三柱の神はみな独り神に成りまして、身を隠したまいき

一生二。

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【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、

天の御中主(みなかぬし)の神。 次に、

高御産巣日(たかみむすび)の神。次に、

神産巣日(かみむすび)の神。

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。】

始まったばかりだというのに、何べんも元に戻りまた戻ります。

上の引用は神道で、造化三神といわれているものです。

聖書では、 「太初(はじめ)に言(ことば・ロゴス)あり。言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。

この言は太初に神とともに在り、 萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。」

となっており、

儒学では「道生一、一生二、二生三、三生萬物。道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる」となっています。

仏教では、「色不異空、空不異色。 色即是空、空即是色。」です。

同じことを表現したものですが、キリスト教では抽象論理で、老子は数理で、仏教では暗喩で説いています。古事記と古事記の思想であるフトマニ言霊学だけは、神名を借りた実体内容で解説しています。ヨハネの言葉も老子のそれも実体内容を指すことは出来ていないということは、両者共に言霊フトマニ学の教えの抽象化であるということです。ということは古代にフトマニ学の教えを受けていたか、各聖人が独自に実体内容には手が付かずに一般的な表現に到達していたかでしょう。

同じであるというからには同じ所を示せということになるでしょうが、この論考全体の進行で示されればいいと思います。なぜなら、このことは、造化の三神がそれぞれいたということではなく、世界中の私たちの意識が同じような冒頭三神の形と働きを持っているという所から来るので、それが示されればいいわけです。

造化三神

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古事記冒頭の老子側現代語訳。

「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる」

意識の活動が始まるとき心の内に起きることは、意識の中心となる全体が現れ、道生一。

次いで意識の中で、意識する側と意識される側の二者に(噛み合わす主体側と噛み合わされる客体側)に剖判(二)します。ここに全体が剖判して二者になると同時に、全体と主客という二者になり、一生二。

剖判した二者(主と客)と元の全体で三要素ができます。二生三。

そしてこの三要素のもとで主体と客体が噛み結び合い新たなものが生じていきます。三生万物。

古事記冒頭のヨハネ側現代語訳。

「太初(はじめ)に言(ことば・ロゴス)あり。言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。 この言は太初に神とともに在り、 萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。」

ヨハネは四八音・ネで、言霊五十音から重複したウとンを引いた数を象徴している。又は、言(ロゴス)の動因となるイ・ヰの二つの言霊を別格として脇に置いて四十八としたものです。

人の生命活動が始まろうとするとき、活動以前に生命原理のロゴス(言)があった。道生一。

生命原理は神と共にあろうとする側と、神となった側の二者のあり方を作った。一生二。

この二者は太初の原理(ロゴス)と伴にあり、二生三。

萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。三生万物。

造化三神と言霊は次のように対応しています。

天の御中主(みなかぬし)の神。 言霊ウ。 三生万物。 道生一。 一生二。

高御産巣日(たかみむすび)の神。 言霊ア。 二生三。三生万物。

神産巣日(かみむすび)の神。 言霊ワ。 二生三。 三生万物。

古事記の冒頭と般若心経。「色不異空、空不異色。 色即是空、空即是色。」

意識の中心の関心事は「色不異空、空不異色。 色即是空、空即是色。」の統合された全体であって、色といえば現象となり、空といえば無いものとなってしまうが、その実相を心としておく。

ついで、心は色と空に最初の剖判が起こります。

さらに心の色世界は色世界で剖判し、色と空になり、 心の空世界は空世界で剖判し、空と色になります。

かくて、色は色不異空、 色即是空となり、空は空不異色、空即是色となる。

いずれも古代において不足していた語彙不足のために、同じ言葉を用いたことから来る現代人の混同です。程度の違うもの次元の違うものでありながら、螺旋循環をして常に同じ位置に来るので、その時はお成し言葉で説明されます。二三歩歩くだけでも前後は歩いている場所も時間も環境も違いますが、同じ歩くという言葉で表現しているようなものです。

今語彙不足と言いましたが、それはげんだいの我々が物事を静止した姿に一つ一つ名をつけていくことからするもので、古代人たちのようにイマココの瞬間に生きていくことができていれば、静止はなく動きの瞬間の連続となり、それに名付けられた名前は貴重なものとなっていきます。

同じ言葉になり、重なるところは螺旋循環のためです。象徴や数霊で語ると内容が出てきませんが、形式を語るには都合のよい時もあります。また自証したことを他者において他証できないことを隠すことにも使われやすい。せっかく古事記の神名で実体内容示しているのに、わざわざまた隠すこともないのですが、古事記の外にいる方たちには新しい視点が見つかることもあります。

一つの単語、段落や文章を発声するときには、初めの言葉が直線的に発展延びていくのではありません。「ありません」なら、「あ」を発音して「あ」が正しく了解できて次の「り」につながり、「あり」になることが確認され、「あり」が持ち越されて「ありま」に噛み結ばれ、「あ」から「ありま」まで正確に確認されていき、次いで「せ」に結ばれる準備ができて、というように常に前前に戻って、前者をすくい上げ確認していきます。そして最後に「ありません」と全部発音され正しいと確認されます。

では一通り発音され確認される「ありません」は何に対して確認されその正当性が保障されているのかといえば、「ありません」という先天の言葉に対してです。ところが、発声以前には「ありません」は現象となっていませんし、存在していません。つまり直線的な理解、「あ」「り」「ま」「せ」「ん」が「ありません」になるのではありません。「あ」と発音する以前に先天の意識内に「ありません」があって、それが確認されて現象してきた形をとります。

記憶を主体にしていきますと一つ一つの単語が記憶されそれに新しいものが付け加わり単語、文章になるように見えます。しかしそれぞれの繋がりには、前承するものを受けて確認して受け入れる過程があり、常に元に戻ってすくい上げていく螺旋循環があります。

ここで注意することは螺旋上昇循環は、前段に後段が加わり付加され太っていく姿と、先天の意識内にある現象となって明かされるものが一緒になっていることです。先天の頭の中を駆けめぐっていた「ありません」は分解分析整理されて、ア の発音として生理的に相手に伝わるものの形を与えられ、そのようなものに分解され準備されてでてきます。続いてア に何を足したらいいのかが分析されリ が加わり、以下が繰り返されます。何処で終りの言葉にするかが分析され、その実行確認と伴に終了します。

こうして炎が見えるようになって現れるのが言葉です。これが頭脳内にある先天の動きです。

一方現象となったものには続くものが加わり太っていかないと、形が見えてきません。こうして分析と付加が同時に起きていきます。

それを説明したのがの造化三神です。

「次に、次に」と原文にあります。この「次々」が前承する言霊上昇螺旋循環です。

吾の眼が付いて地になりと、まず最初に、心の主(中主)がいますから、そこから外れるわけにはいきません。中主は常に元に戻り柱の重心となって付いてまわります。

中主は同時に実・身(御)中主ですから、実体側の過程(分析成長)にあります。こうして一つの名前に螺旋上昇循環が備わっています。

天の御中主(みなかぬし)の神。 言霊ウ。 三生万物。 道生一として先天の初めであり、 一生二として成長進展のための剖判分裂となり、二生三として自身と剖判した二者の計三者において、三生万物として全てを生成します。

卵子が細胞分裂していくように、最初の 天の御中主(みなかぬし)の神 が剖判し、主体側の高御産巣日(たかみむすび)の神が生まれ、言霊アとなります。

その客体側が、神産巣日(かみむすび)の神。 言霊ワ になります。分裂した細胞の二つが同じように、この二神も同じ名前で 、タ・カミムスビとカミムスビなっています。一から始まった陰陽裏表主客の関係で、タの一字は全体的な動きの初めを現わすタで、立つ、足す、試す、等の始めに立ち上げられた意識を現わしています。

ウ・ア・ワの元

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造化三神には言霊ウ・ア・ワがそれぞれ配当されています。これは意識の出来ていく動きに対応して配当されたもので、その対応を示す原本の言霊五十音と五十神との対応は皇室の賢処に秘蔵されているといいます。既に民間に流出していてここでもそれを解説しているわけです。これは今後言霊五十音による世界の治世の元となるもので、スメラミコトが修得して、実践運用者として実力を得たときに、世界朝廷のスメラミコトになれるというのです。

現在日本にはフトマニ言霊学による世界朝廷を運用するだけの者はまだいませんが、それの原理教科書は千三百年間護持されてきていますから、さらに普及されなければなりません。フトマニは人の意識の運用を直接扱っているものですから、日本の五十音図が理解できる者なら、世界朝廷の運用のお手伝いができます。外国には五十音図が無く、完全なワ行が無いので全体を運用するだけのワの意識が欠けています。現在の日本語でも学校では言霊ワ行は教えられていないので、日本人の意識も外国人並ですが、残っている「ワ」があるだけでもその効用効果は世界の驚嘆を得ています。ましてや完成した言霊ワ行が揃ったときには、世界の日・ひの本となるでしょう。しかし、発音上のワ行を得るのではなく、日・ひの本「言霊のワ行」の五段全部を自覚的に得ることはそう簡単ではありません。

意識の始まりです。何もないポケッーとしたあるいは空の世界に何かの始まりの予兆ができました。何も無いのに何故予兆があるのか、空の世界に何故始まりがあるのかと疑問や文句がでてくると思います。

これは私の書き方が悪く間違っていて、同時に質問の仕方も悪く間違っているからです。それは全く普通に出てくる知的な疑問のように見えます。が、実は、出来ていたものへの過去概念を問うだけで、いま動いている意識の動きを問うものではありません。

天地の初発のとき高天原に成りませる神の御名はではなく、初めに神は天地を創造されたというように、神の持っている力が発揮されてくることへの知識疑問となっています。神の力は人には分からないものですが、疑問の丈に合わした思いや理性の丈に合わせて神が語られるだけです。一方の成りませる神の方は最初から成りませるものを語るだけです。

いずれにしてもここに始まりの意識があります。無いところから出てきました。無いなら出てきようがないのですが、出てきてしまうというのが、「色不異空、空不異色。 色即是空、空即是色。」で、この全体がそもそも秘められていたということです。先天にあったということになります。

しかし注意しなければならないのは、古代の偉人達の教えはもっぱら物事の実在実体、その実相を捕らえる説明であって、それらをもたらす動き働きは明言していないということです。無いところから出てきて、出てきたものはこうなってといいますが、どうしてどのようにかということは創造主の出番にしてしまいます。

それは出どころにものを見るだけで働きを見ないことが原因ですが、古代スメラミコトはこの問題を完璧に解決していました。古事記はそれを学ぶためのものです。

生まれる動き初めのウ、うごめくウ、ウと名の付く全ての様相の言霊ウが生まれます。「太初(はじめ)に言(ことば)あり。 言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。」

「ウ」に関していえば、この聖書のいう「太初に言(ことば)ありき」は発音され聞かれた言葉のウではなく、言霊のウです。言霊(コトタマ)のウ、そして意識のウが明かされ、現象、発音上のウとなるもので、発音上のウが太初にあるのではありません。ですので発音上の分類をこととするのでは言霊学ではありません。

それは音韻学となるもので、意識が発声にまで成る過程には手が届きません。

しかし、古事記の言霊学にしても意識と身体から出る発声とが結ばれる過程を理解することは至難の技です。

一方、意識の物象化、神代文字の生成の過程は後段姫島の領域の山津見八神で示されていますので、これを意識と発音されたものとの同一性の生成についての参考となるものにできるかもしれません。

言霊ウ・ア・ワ

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ウと発音され、ウと名の付くものの内奥に隠れている共通者が言霊ウです。ただし勝手にウをもって名付けられたり、漢語から借りてこられた言葉でできたウの付く言葉ではありません。意識のウが言霊のウとなり、表現として物象化(発音、文字等)できるウになるものです。

始まりは意識のウが言霊のウになりますが、常に出てくる問題となっている両者の前後関係についての、どっちが先かに答えなければなりません。意識の ウというときにはそのウが前提されてしまいますから、そのウはどこからきたのかと突っ込まれることになります。前記の太初にことばありきや、初めに神は天地を創造されたというときの天地ということばは、神が知る以前にあったのかというように突っ込まれます。

そういった意識の全面的な構造を解明したのが古事記の冒頭の十七神で、それをさらに縮めて示したのが造化三神です。

構造は次のようです。

【吾の眼が付いて地に成る(あめつち)】初めの動きがあると直ちに

【言霊ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神 ○ が成りでてきます。

次いで動きの予兆を得ると初めの動きの剖判が起こります。

【言霊ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神 <

すると、

【言霊ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神 < 【言霊ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神。 主体側。

【言霊ワ】 神産巣日(かみむすび)の神。 客体側。

【言霊ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神と【言霊ワ】 神産巣日(かみむすび)の神はそれぞれ、働きいきさまと実体のありさま、に剖判します。

次いで主体側のいきさま・ありさまとなり、

【言霊ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神< 【言霊オ】 天の常立(とこたち)の神。

【言霊エ】 国の常立(とこたち)の神。

同様に客体側のありさま・いきさまになります。

【言霊ワ】 神産巣日(かみむすび)の神< 【言霊ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。

【言霊ヱ】 豊雲野(とよくも)の神。

主体側のいきさまは、以下を含み秘め、

【言霊ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神< 【言霊ヒ】 於母陀流(おもだる)の神。

【言霊チ】 宇比地邇(うひぢに)の神。

【言霊シ】 意富斗能地(おほとのぢ)の神。

【言霊キ】 角杙(つのぐひ)の神。

客体側のいきさまは、以下を含み秘めます。

【言霊ワ】 神産巣日(かみむすび)の神< 【言霊ミ】 妹活杙(いくぐひ)の神。

【言霊リ】 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。

【言霊イ】 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。

【言霊ニ】 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

そして吾の眼が付いて地に成るそれぞれの神の創造原動因となるものが次の

> 主体側【言霊イ】 伊耶那岐(いざなぎ)の神。

> 客体側【言霊ヰ】 妹伊耶那美(み)の神。

あめつち(吾の眼が付いて地になる・天地)の御親の内容としてのイヰ の言霊です。「言・ことばは神なりき」となります。

上記八神(ヒチシキミリイニ)のいきさまは動き働きとしては自らを自身を表明できませんので、言霊ウ・オ・エ・アの寄り添う身体物象を借りることになります。

そこで主体側の現れが、言霊ウオエアで客体側の現れが言霊ウヲヱワとして現れます。

これは先天構造図で天津イワサカとよばれるものですが、構造を見る視点により変化し、ここでは剖判から見ています。

こうして、イザナギの先天原動因の働きで各自の吾の眼が動き出し太初のウの言霊を産んできます。

後は、自証して意識の初めに出てくるものが「ウ」であることを感じ取り、その源泉に「イ」を見つければいいわけです。

「言霊イヰ 」は純粋働きの次元にいますから、働きとしては形を伴わないと目に見えません。

そこで始めての形として現れるものが「言霊ウ」なので、御中主から始まるというわけです。

ただし御中主の特徴は形そのものとして現れるまでの途中の段階と取れます。いわばイメージ物象の次元です。形として現れてしまえば手に取れるようになってきますがそれ以前のものです。それは形として現れる以前ですから、主客がありませんし、記憶概念以前であり、選択の対象になっていません。

現在の五十音図を見ればワ行にはウがありませんが、発音上同じなので省略したようです。しかしワ行は主体側ア行に対する客体側のことを示し、目標の到達を示しています。あ行とわ行の発音が同じだからといって、到達目標を消滅させてしまってはなりません。主客があります。

言霊ウが表記のウとなり主客に剖判してもウで同じなのは、天の御中主の特殊性によります。御中主は後ほど感覚、欲望へと世界を形成していきますが、例えば欲望世界の主体側と客体側、欲するものの意識と欲されるものの意識は同一なのです。カレーを喰いたいという主体の思いはそのまま客体の思いです。これがカレーってなんだという知識になりますと、知識を得る側と知識の内容では時と処により得られる概念が変わります。(言霊オと言霊ヲ)そしてそれに応じて思い込み選択することと選択されたもの(言霊エと言霊ヱ)がなされてしまいます。しかしそういった状況においても、御中主の言霊ウは、欲しているカレーは欲さられているカレーと同じ意識でいます。

しかしここでも、ウが有ること有らしめることと、ウがあり続けることは別々のことですので、ア行のウとワ行のウは両方なければなりません。

主体側の「ウ」と客体側の「ウ」と御中主の「ウ」

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言霊ウの御中主は意識の位相次元としては欲望をあらわし、処としては分けの分からない萌芽としての段階であり、時の流れとしては剖判以前の太初を示します。剖判していないといっても、言霊「ウ」次元の時の流れの中で剖判していないということで、御中主であることの実在の初めと一巡した後の御中主では、時の初めの御中主と時の終りの御中主としての相違があります。

御中主と言っても、時の初めの御中主は未剖判寄りで、終りに近い御中主は剖判直前になります。つまり御中主自身の中に他との位相の変化を現わさない範囲での時の流れがあります。もっと言えば、御中主自身に五十の言霊循環が実在しているのです。これは「ウ」であることは五十の「ウ」の総体を「う」と言っていることになりす。そうしないと「ウ」は「う」であることと、前から繋がることと、後へ繋げること等のどのような働きでも持っていることを示せません。

これはどのような言葉も同じで、前と繋がり後と繋がりそしてそれ自身であり等々ということの先天の働きの現れです。

御中主は全体として剖判していないので御中主と言われますが、その内にアワへの剖判を秘めていて最後の瞬間に昆虫の変態のような別の実体へとなります。ウからア・ワへのことですが、ここの話は細胞分裂に比すことができるでしょう。しかし分裂してしまったら他の次元への移行ですから、それ以前の姿のことです。しかし、それ以前であっても常に剖判・分裂への誘いがあります。

このように一者でありながら、その後の生涯の全てが含まれています。

しかしそのように言えるのは、後者の状態を知っている為にそういえるだけです。後期の有り様を知らなければ何も分からないことです。御中主に後期後世が、赤ちゃんに老後が含まれているというのは、老後があることを知っているからです。御中主自身には未来へ誘われる思いはありますが、未来のその姿は見えません。

ところが不思議なことに人間は言葉による表記に関しては、喋る以前に喋ることを知っているようです。しかしここには現象となる程度問題があるので、主客の言霊ウだけ注視してみましょう。主・客の「ウ」が同じであることを証明しなくてはなりませんから。

知識概念を取り扱い例えば、寿司とは何かの疑問を解く場合などは、問う主体側の疑問に対して、その客体側の回答は、その人の記憶によって掘り起こされた記憶概念の色々で仕入れた知識によって変化していきます。寿司を説明できる寿司の代用された言葉で現わされます。では言霊ウの欲望で寿司を食べたいという場合はどうなるでしょうか。

知識の場合は得られる記憶概念とその運用によって、今日と昨日、今とさっきでも答えの内容は変わります。ところが寿司を食べたいという欲望に対しては、昨日は存在せず今食べたいことの表明です。さらに寿司を今食べたいのでカレー、ラーメンなどの代用品は受け入れられません。

子供が駄々をこねる時はとても強力です。自分と欲しているものとは一心同体となっています。

御中主は何も無かったところから、吾の眼--御中主--タカミムスビ・カミムスビへ進行する途中にできたもので、御中主としては実在の主となっているものです。子供の駄々は今現在の主を司っているのですから、ちょっとやそっとでは手に負えません。解決は三つです。前段の吾の眼の何も無いことにするか、当の御中主を出現させ与えるか、次の次元に持ち込み比較客観視させるかです。

つまり欲望の実現はこの御中主の次元にしかありませんから、御中主をあるかないかにしてしまえばいいことになります。子供の態度はころっと変化します。

これは狙いを定めてそこだけを追う動物活動の意識上での表現でしょう。

五感の働きによる欲望実現はそのように働きます。そしてその発展した姿は産業経済となって現れ、大臣になりたい社長になりたい金品が欲しいとなります。

このように欲望は常に今-今の関係を実現しようとします。

「イ」から「ウ」へ

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他の宗教で最初から神を前提してことを始めるのとは違って、神道の神は成り出てくる神です。【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。次に・・・】

前提とした神とはどういうものか説明に説明を重ね、果ては信仰や到達目標や体験へ導くのではなく、成り出たもの思い至ったものがその人の神についての全てに成るものです。

日本書紀の冒頭は、 「古(いにしえ)は天地未だ剖れず、陰陽(めを)分れざりし時、渾沌(まろが)れたること鶏子(とりのこ)の如くして、ほのかにして牙(きざし)を含めり。……時に、天地の中に一物生(ひとつのものな)れり。伏葦牙(かたちあしかひ)の如し。すなわち神と成る。」なっています。

日本書紀は宇宙を鶏の卵に譬えて心の宇宙から初めて神(言霊)が現われて来る様子を説明しています。聖書や古事記日本書紀、公式見解、権威者が示したものだから従うのではなく、自分に当てはめてみればいいのです。神がいるとすればそれを説明する言葉が神以前になければ説明できませんし、そうなれば太初の神さんの存在と合い違えます。

ヨハネ伝では、

「太初(はじめ)に言(ことば・ロゴス)あり。言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。」

となりますが、神が先にいたのか言葉が先に在ったのか、相変わらず自分で証明することは不可能です。自分で説明できるということは、神や言葉の前に自分がいることになるからで、自己矛盾しています。

そこで簡単に見方を変えればいいのです。自分の思うこと見方を得ることが「成り出てくる」ものと一致し、それを心、神、言霊と名付ければいいのです。

ですので、初めは何もない広い心の宇宙です。

何かをしようとするものがあるのでもなく、何か思い出すものがあるわけでもなく、何かあるというものがあるのでもありません。寝ていて目覚めた時の、おや、朝かと感じ眼に部屋の様子が写り判別する以前の朦朧とした状態にある時でしょうか。確かに心にはそういった初めの初めがあります。

しかし、ある、という形をとったものではなく、何であるのか分からないけれど、あるもののうごきです。動きがあるというのに形とならず、あるものを感じるのに動きは見えない、そういった初めのものです。

そしそれがやがては、あるいは、直ちに、私の心として意識できるものに成っていきます。ここにできたものが、天の御中主の神で、心の実(み)の内容(なか)となる主(ぬし)です。

もちろんここでも概念は、実体か動きか分からないものを作り与えたのは誰かというように、疑問としてでてきます。

しかし、それは自分の意識の経験を超えた疑問ですから、概念を好みにした回答として単なる概念だけのものとしての解明の形は作れ発展されます。

そこに有るものを、自分に省みて思えば、出てくる概念は全部どこかで仕入れた過去知識でしかありませんので、全て捨て去るものです。あくまでそこに残っているものは、何故か分からないが、その内容以前の概念を働かされた、働くように仕向けられた自分です。ここにも成り出てきたものがあるということです。

概念による回答は自分が知る限りのことが出尽くすまで、そして学べる限り出てくるものですが、それを動かす大本が心にはあるというところまでは、各人が確認できます。古事記の言霊学ではここに誘い合う先天の原初の意識、言霊イ(イザナギ、イザナミ)を見出しています。

御中主は心の実の中身の主で、心をみて、その心の実をみて、実の中身をみて、そして中身の主をみるところにいるというわけで、世界宇宙を探してもそんなものはいません。いないのに書いてあるからというので概念の字句探し、文献探しになり、表記に至った創話機能を取り上げ比較して古代人の世界観としています。そういった思い至ったものに取りついて思いを寄せ考えて概念の世界を作ることも、元々の人の本性です。あったものや思い付きから作り上げ大いなる成果を挙げてきました。しかしそれと同時に仮構されたものにも苦しめられています。

御中主はいないといって投獄され首をはねられることは無くなってきましたが、それに類したこと同じ論理構造同じ実践規範による被害と加害が無くなったわけではありません。また将来、古事記は心の原理論だということが通用しても、理解されそのようになることが保障される分けではありません。そもそもこの段落の最後にあるように、「 この三柱の神はみな独り神に成りまして、身を隠したまいき」 となって隠れてしまうのです。

人の意識の元に成りながら、後に産業経済を発展させていくものとなりながら、そして人生に生活に重要な五感感覚による欲望を満足させる喜びを皆が得ようとしていくのに、隠れるとはどういうことでしょうか。

生(イ)きているものが動(ウ)き、私・吾(ア)が分(ワ)かる

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般若心経には次のようにあります。

しきふいくう・色不異空 (後天は先天に異ならず、)

くうふいしき・空不異色 (先天は後天に異ならず、)

しきそくぜくう・色即是空 (後天は即ち是れ先天であり、)

くうそくぜしき・空即是色 (先天は即ち是れ後天である。)

先天と後天に置き換えてみました。親と子、前と後、宇宙と地球等々陰陽の概念に該当すれば何にでも変換可能です。過去と未来とでもいいでしょう。

しかし、何か変です。

何故おかしいのかといえば、形あるものの時間差を同一時点でに扱うことと、あるとかないとかいう実体を働き・動きと比較してしまうからです。

仏教の教祖が日常では既に間違え混同している思惟意識の運用法を、より際立てるために空と色を用いて説教したものです。解説すればするほど間違えの泥沼に嵌まるように作ったものです。

時間の観点を抜きにして経を作っているので、自由勝手に自分の感じを思い切り現わすものとして提供されていますが、それに乗った場合には全て、喝ッ、となります。ですので解説をしてしまうと間違えに引き込まれ、教祖の罠に嵌まってしまうので、経文全体を見て、それが作られた経緯を明かせばいいのです。

色不異空、空不異色、色即是空、空即是色となる以前の統合された一者を示して、それを四者に剖判してあげればいいのです。 それには時の中れを導入しなくてはなりませんが、時を出来上がったものとしてしまうと元の木阿弥です。時の流れをイマココの瞬間において示すことです。 イマココの一点に、過去から来た色が空となり同時に過去から来た空が色となり、現在において色と空を現わし、その今の色と空が未来の空と色にイマココに成ります。

統合された一者というのは御中主で、それが、実体と働きに剖判し、それぞれに主体側と客観側ができます。さらにその各々は先天構造を実現して後天現象となるようになります。しかし、御中主の段階では剖判はしていないから御中主であって、剖判したものの記憶を当てはめてはいけないのです。それは時間の異なった現れにある同じ言葉の別次元の話です。(言霊の螺旋循環)

車類でイメージすれば、車軸に載った部分はそのままの姿で直進し、輪部分は回転運動をして、回転と直進を同時に行なうようなものです。そして原動因はガソリンの爆発という全く別のものからきています。ガソリンの爆発が無ければ回転も直進も起きません。イザ!という爆発の立ち上がりが先在する事象を誘い現象を現わします。

欲望も手に負えない子供のように見えますが、このガソリンの供給が無ければ起きません。

そこで御中主自体の一循環においても、見えない爆発に結ばれている部分と、爆発を受けている部分とがあることになります。いつまでも物理現象に留まりその事象を検討してしまいますと、意識内での話であることを忘れてしまうので注意を要します。

意識のウと言霊のウと発音のウ

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じっとうつむいて、精神を統一して、動きを感じようとすると、そこに何かうごめくものが感じられ、私であるか相手であるかまだ分からないが、しかし後で私・吾という意識に発展していく何かしらの私・吾の眼(あめ・天)があるように感じられます。それは後の私と成るものの中心的存在の主(ぬし)のようですが、私が主であるのか相手が主であるのかもはっきりしない、意識の立ち上がる初めの実在実体とその動きの混じった判別不能な私の意識の姿があります。

精神統一をして静かな状態の内に心の始まりを得る時、その時に心に与えられる言霊があります。自分を見ることと他者を見分ける以前に、何か自分でもない他者でもない両者の混じり合った分離もできず判別もできないようなこころの状態があります。

その心を現わそうとして、その意識を表現する発音に心が向いた時、心に一致する発声が出てきます。

初めの何もない空とも言える何か分からないなかから、うづくものが感じられる瞬間の動きが浮かび上がってきます。それは心の始まりの「ウ」の意識です。ここに人間の原始的な意識が実在することを、古事記の編纂者である太安万侶は天の御中主の神という神名を借りて示しました。その実体が言霊ウとして固定されました。

考え思い意見を書き表して自分を自由に自分のものとして表出していますが、その元の初めの意識の実体は全て言霊ウに行き着き、そこから発展しています。発展といっても頭脳は超駿足な動きを示しますから、瞬間という言葉の中で事が運ばれます。ウの意識を持ったとたんに既にずらずらと自分の意見を述べる現象がおきていきます。現象は述べられた事柄聞き終わった事だけを指すのではなく、それらの始まった言霊ウを初発の時としています。

この初発の時の言霊ウの扱いを間違えなければ、その後に私の意見となるものも正しい方向に導かれるでしょう。

初動のウはどうなっていくのかといえば、空不異色空即是色から始まる後天現象が続きます。そして色の実体を示すのが色不異空色即是空となる先天構造です。般若心経の教えでは、空から色へ渡り往く様子、色が色へと発展する様子は出てきません。凡人が落ち込む色が色を呼び色に執着する構造が抜けています。教えには原因はこうだ原因の原因はこうだとありますが、そのように普通に結果を作ってしまう過程を説いていないので、訂正への手がかりを得ません。原因があるというだけで、それを修正乗り越える方法は修行とか悟りとかいうあやしいものを提起するだけです。

ウの実体は様々に説かれますが、因果因縁で出てくるというだけではなく、思惟運用の不正確さが不十分さがあるならその経過も示されなければならないでしょう。

分けの分からないその次の動き

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分けの分からない動きを感じたならその次に出てくるものは、その動きを感じている自分を感じることです。と同時にどこか相手になる動きが自分以外にあるように思えることに気付きます。こうして次に、太初の動きを感じている自分と感じられている相手側との両者があることに気付きます。ここで相手というのは現象となっている物質対象の相手ではなく、頭脳内の主体の相手で、物質対象の客観でなく頭脳内で意識の対象となる客観のことです。

ここの時点ではまだ客観を創造するところまでは行っていません。書き方がまずいので物質的な客観相手そのものを書いているように取れるところもありますが、頭脳に載った客観対象のことです。御中主の分けの分からない客観対象というのも、そういった不定形な物を指したのではなく、頭脳内の話です。

自分の頭脳の働きの中に働きの相手を頭脳内に見つけるというのが、とても難しいものです。思い考え独り言をしている時など、全く自分の意識の進行していく姿しか見えないように感じます。こうやって書いている時でも、主体的に主観が出てきて、客観というのは書かれた文字か、話された言葉かというように、音声なり光点なりインクなりのことのように思えます。

しかしその過程を独り言のように始めていることに気付きます。言葉は稲妻とよく言います。喋り書く前に稲妻のように脳内を駆けめぐり瞬時に現れる言葉を見出します。稲妻は稲・イネとツマで、雷のように頭脳内に瞬時に思いの元であるイの音(ネ)がイの名となって、ツッと意識と言葉の間(マ)から出てくることを示しています。

太初に動きを感じる時点では、動いていることそのことが感じられるので、まだ自分が感じているという主体意識の以前のことです。いわば主体が感じているのに主体意識にならない、自分も感じているが相手も感じているのかもしれないというような気を起こさせるところから、はっきりと感じる自分と感じられている対象の両者の違いを意識するようになります。

ここに細胞分裂のように言霊ウの言霊アワへの剖判が起こります。分離分裂と表現しますと上下左右が離ればなれになりますので、剖判といいます。判は判別で分かれ分けたことによって判るということです。

【言霊ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神 < 【言霊ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神。 主体側。

【言霊ワ】 神産巣日(かみむすび)の神。 客体側。

これは、ア・ワの二神がポツポツと続いて生まれたのではなく、そして続く神々がポツポツと一神一神新規に誕生していくのでもありせん。

【言霊ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神の主体側として了解された内容が【言霊ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神で、客体側として了解された内容が【言霊ワ】 神産巣日(かみむすび)の神になります。

そこで、

了解された内容がその人の心の内にある【言霊ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神の主体側になり、【言霊ア】の 高御産巣日(たかみむすび)の神で現わされ、

了解された形がその人の心の内にある 【言霊ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神の客体側になり、【言霊ワ】の 神産巣日(かみむすび)の神で現わされます。

天の御中主の神は螺旋上昇循環され次の神に引き継がれますが、螺旋上昇した分だけ新たな次元を獲得していきます。こうして自らを他者として新たな次元世界が生まれてきます。

意識の主が現れましたが、今ここで見ると今度は意識に見る側と見られる側ができていたという事になります。そこで見る主体を言霊ア、見られる客体を言霊ワとしました。

じっとうずくまって、うずくまっている自分に気付いた瞬間に、アッ自分はアル、アルのがワカル、アル自分がワカリ、ワカル自分が自分と伴にアルことがワカリます。

こうして言霊ウは剖判し、言霊アと言霊ワになります。数で言えば「 道生一、一生二、 」です。二は二番目であり、二者です。この二者になる事でウアワの三者、二は三を生ずとなります。数のニを生じたのではありません。

見ると見られるの主客になります。見る側の見た内容と、見られる側の見られた内容は同じですが、そこに主客の違いがあるのでタを用いて主体側を現わし、剖判の主体側をタ・カミムスビとし、客体側をカミムスビと同じ発音で現わしました。見られるものは見るものと同じで、噛み結ぶ同士は両者が同じ形をとっていますが、それでもやはり主体側の働きかけがある方と、受ける方があるということになります。

よく実物と映った像の関係とするものがありますが、ここではそのような後天現象の有る無しの相違を指していません。それはまだずっと後の事です。意識の行為では一瞬の出来事ですが、正確に出てくる順を書き示す場合にはまだまだ先の事です。

タカミムスビの「タ」

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主体的な行為には背中が付いてきます。

ここで出てくるのが、カミムスビに「タ」が付くのは何故かです。

意識と意識の対象が噛み合わされて言霊アワの剖判ができましたが、分けの分からないもの、ただあるだけの言霊ウ次元世界がどうして次の段階へ行ったかという事になります。

意識の動きを探していますから、常に自分の心の中の何かの動きからくるものです。

カミムスビとタカミムスビは御中主から出てきたもので、同じことの「タ」付きと「タ」無しです。表現されていけば、陰陽主客表裏等の現象になる違いを生じてきますが、その差を作る根底が「タ」です。「タ」はどこから来るかといえば御中主の内容からで、御中主の内容はどこからきたかといえば、吾の眼を付けることからです。分からないものがあり、その分からないものを感じる主体がある、というところまでは戻れます。しかし、それ以上に前に逆上ると単なる概念に落ち込みます。

例えばいま、画面を見ているわけですが、画面に引きつけられ見させられていながら、見ているとも言えます。ここでは噛み合う意識内でのできごとである、画面を見ている・見させられている、その内容はカミムスビ(からみ結び合う)として同じ主客の内容を意識の中で持っています。この見る・見られるものというのが、御中主の循環上昇して出来た新たな(次の)御中主というわけです。(二三を生じ、色即是空)

見るという主体的な動きは実は、受動的に強制された動きの表明でもあります。

主体的に考え意見を言い行動し創造していく自我なるものがあるように思い込んで、そうして個性を発揮していくように思いますが、実は、そんなものはないのです。

自我や個性など無いと言いながら、自分とか個人的とかの考え行為が出来ていくところに、タカミムスビの「タ」が出てきます。「タ」の出現がなければ一切は成り立ちません。

「タ」とは何かを分析しても答えはでません。赤子が乳を吸うようなものです。先天の働きです。ですが「タ」の内容は古代スメラミコトが残してくれているので追体験して自証は出来ます。

「タ」というのは田んぼの田(天皇もしている田んぼ作りの田)のことです。田は言霊五十音図の物象化暗喩されたもので、現在は五穀豊饒の方向で理解されていますが、それ以前の本来の真意は人の意識の全容を示したものです。人の意識はアイウエオ五十音で成り立っていてそれを育て育み創造行為をしていくというもので、その原理を「田、タ」で示しました。

何が原理なのかは現在一つ一つ進行中です。言霊ウ、そして言霊ア、ワと言霊ンになるまで進行していきます。言霊が五十あります。

意識されるものがあって、それを意識するのに「タ・田」をもってする。その一番初めの現れが「タ」という現れになり、同時に「タ」の働きになるので、意識内での噛み合いにタを用いて現わしました。タ+カミムスビです。

ですのでタは単音のタとして現象していますが、この時点のタカミムスビの「タ」では全体を現わす田、五十音言霊を現わす全体の先天のタということです。何か分けの分からない何かが生まれてきてそれを言霊ウとしました。その言霊ウが意識の主体側に載るには、どのような形においても載れるような主体でなければならず、それが田の全体、言霊五十音図、タ、ということです。そしてその「タ」を持って主体にしていく意識がタカミムスビです。(高御産巣日という漢字に惑わされないでください)

では意識の初めの「タ」はどのように働くのかといえば次のようになります。

言霊ウの御中主が生まれ、それの剖判された主体側がタカミムスビで、タカミムスビの特徴を「タ・田」において説明しました。しかしそれは先天の次元での説明ですので、初めにうづくまっているものが生まれる御中主の言霊ウに続いて、後天現象子音のタが生まれるのではありません。ウッと生まれた全体が主体となって自身に載ったときには、意識の全体が引き継がれます。

ここに主体の全体を現わすものが生まれ、たたずんでいたものが意識に達して立ち上がり主体として建ちます。その始めての主体側の全体意識を言霊アと名付けます。それと同時に客体側の全体も分かれて出てきて分かるようになり、それを言霊ワと名付けます。

主体と意識された言霊ア

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主体側の「タ」の性質を持ったものが言霊アとして言霊ウから生まれます。

自然過程の細胞分裂ならば自然の条件下に放っておいても二分四分と自然が作用します。しかし意識の世界ではそういうわけにはいきません。確かに瞬間にことが成り立っていくものですが、立ち上げるにはそこに意思の介入が必要です。意思(意と思い)。

意思・意と思いは何を目指しているのでしょうか。つまり私たちの心は何をしようとしているのでしょうか。

腹が減って何か食べたいと言います、何を言っているのか分からないのでもっと説明してくれと言います、等々の希望目的意志の実現をしようとします。

ではそれらの中身を反省していくと何が出てきて、本来は何が明かされるようになっているのでしょうか。

腹が減って寿司を喰いたい水でもいいから胃を満たしたいというとき、その人の心に何が起きているのでしょうか。

寿司を食べたいというときにその人の意識には、寿司という食べ物が意識されているのではなく、その人の今までの全生涯をかけて取得した寿司に関する関する記憶と感情の意と思い(意思、意志ではない)を形成して表出しようとしているのです。その表出された表現が実物である寿司と咬み結ばれ、味と感触を持った実際のものを思うようになっています。

ですのでここの意識の過程で起きていることは、その人だけが表明できる主体的な働きかけを、一般的な自分の心として通用させるあるものを創造しようとすることです。意識の御中主を自分側の主体タカミムスビと形になる客体側カミムスビに剖判していくことです。自分の主体側の心に幾らこういうものがあるといっても、意識の形として表明されなければ伝わりません。要するにここでは寿司という言葉を表現しようとしています。

寿司という象形を持ったものが頭脳内の意識に出てくるにはそれなりの瞬時に過ぎない事ではあるが、書けばその人のこれまでの一生をかけた歴史を背負って出来てきたその人だけの寿司になります。その人の過去全体の寿司が頭脳内では物凄い勢いで巡り廻り、何ものかとなってそれが寿司という表象と結ばれて言葉になってきます。

寿司を食べたいという言葉を発するとたんに、その言葉の回りにその人生が絡みつき結ばれその人の言葉としてでてきます。これも言霊のウ・ア・ワの創造過程として出てきて、寿司という後天現象の言葉となったものです。

この意識の過程での主体側が高御産巣日・タカミムスビの言霊アです。吾・私という主体全体がまず現れ、主体の過去のどのような場面における自分の表明にも対応できる基盤を提出していきます。吾の眼が立ち上がるところです。

「ア」の発音

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意識の全体が主体側として立ち上がるときの発音は「あ」です。

同様に意識の全体が客体側として意識のあちら側に立ち上がる時の発音は「わ」です。

自分を見出すことの出来る最初の心を表現する意識は「ア」となります。日の出や紅葉や画面をパッと見た初めの時には、吸いよせられ見ている自分の全体感があります。それは驚嘆や動物的な唸りのようでいて、自身の主体の表明です。そこでは言葉にならない言葉の「あ」を発声しますが、それは既に自己の感情の表現としての「あ」で、相手対象を意識している自分の全体感を現わします。

そこで「あ」は心を現わす単音の言葉で、何も無いが何かある「う」に気付くその人の過去からの経験記憶を伴ったものですが、こうこうこういうものという詳細を指摘するものとしてではなく、目前の相手対象に対する全体感情を現わすものです。その全体が自分であり吾・アです。心の主体的な全体を現わす初めに立つ意識が言霊アと呼ばれます。

心のアが立つとそれは自分の全体ですから、何に対しても何であってもそのものを自分とすることが出来ます。自分のものとするといっても、自分の気付く任意の点で自分の既得の生命意思をそこに現わすもので、あたかも自分の全体が相手対象の全体であるように、自分は世界を全部現わしているように取り違えるようにして対象をとらえていきます。

ここでの意識は自分の全体が載ったものですから、それが対応したものとして相手側の全体が載ったものとなってあらわれます。それには自分の発声できる限り発音できる母音として表出されなくてはなりません。息が途切れても最初の意識の出会いは全体感を保持していきますから、それに応じた母音になります。

こうした人の意識は母音世界となってあらわれ、仏教では仏の声とか無音の弦とかでいわれる梵音になります。それを実体的にみればアイウエオの母音世界のことで主体側から見ればアオエイの母音側、客体側から見ればワヲヱヰの半母音側です。ウは主客剖判以前の姿で、アは感情面からの見方で主体側として取ればアオエの全体でありその初めで、オは記憶概念世界の主体側で、エは選択按配世界の主体側、ワヲヱはそれぞれ客体側を現わす。そしてそれらの根源音がイヰで、神名で示せばイザナギ・イザナミです。

ですので主体が立ち上がる意識の初発の時に、アという母音世界の梵音を聞き自証できればいいのです。

ワ、ア-ワの世界

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世界に誇れる日本民族の相手を思い整合性を求める心は、言霊ワ行を所持していることからきます。いつの間にやらわ行は同じ発音があるということで不完全なものになってしまいましたが、まもなく再興される言霊学によって元に戻ります。世界にワ音はあってもわ行のワ音は大和日本にしかありません。このわ行のワ音が世界との違いを生む元です。

現在に残ったのはワとヲだけですが、ワを主体の動きとしてとらえ、私・わたし・われわれ・あたしが和と輪の整合性(言霊ヲ)を求めてケリ(気理)をつける(言霊ン)、古代スメラミコトの創造した五十音図による、意識の運用に支配されています。日本語を音声学でとらえても言霊学にはなりませんので。

しかしワは主体の働きを受ける客体側を受け持つものです。いつの間にか主体側の働きを持つようになったのは、主体側母音でエの行き着く先であるワ行のヱを失ったからです。や行のエとも発音上の類似がありますが、言霊音図上ではや行のエは選択されたものの行動を持続させるエで、わ行のヱ、選択を起こす実践智慧の世界、と同様同じ発音ということですがそれぞれ次元の違うものです。

あ行のエは選択を起こす主体側、

わ行のヱ選択を起こす実践智の世界、

や行のエはアワ行のエによってできた、選択の実践智が持続している世界。

あ行のエだけになりそれだけ残っても、意識の働きは言霊五十音図通りに動いていきますから、あ行のエに、や行わ行のエも含まれたというわけです。

ついでにウの省略についても、母音行半母音行や行とそれぞれウがあります。

ウは初めの全体のウで御中主が配当され主として収まっていて剖判していません。それでも動きの初めを意識したとたんに主体側と客体側に剖判していきますからア・ワ行のウが必要です。そしてその両者による現象としてウの持続するものが出てきますが、ユで湯水の持続して出てくるユになっています。

言霊ワ カミムスビ(咬み結び)の神

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和を結び輪を作るといいますが実はワには主体性はないのです。和を作ると言えば穏やかにやわらぎ和を立てて一緒になるように思われていますが、言霊アの主体側に対する客体側のワです。カミムスビという客体に主体側が立つタが付いて、タカミムスビの働きが始まって始めてカミムスビの実体が現れます。和というものがあちら側にあってそれが何かしてくれるのではありません。和の働きといわれるものはあくまで、主体側の働き掛けに応じて現れるものです。

これを漢字で書き分けると、

田噛み産す霊・タカミムスビと噛み産す霊・カミムスビで、言霊ワのカミムスビの方には田がありません。田は人の意識を示す言霊五十音図のことですから、意識による働き掛けによる田が耕されていないことになります。田となる用地はあって受け入れる準備はできていても、手を加える人がまだいないということです。

一方のタカミムスビの方は五十音言霊の田を持っていますので、この田に合わせてカミムスビに手を入れます。人の意識の現れは五十音言霊以上でも以下でもないので、蟹は甲羅に似せて穴を掘るように主体に合わせてカミムスビをつくります。つまりカミムスビも五十音言霊以上にも以下にもなりません。

主体側の持っているものでしか答えないし、働き掛ける内容でしか返事しません。

ですので、主体側の働きかけが無ければ客体側はそのまま動かないのです。問いの中に答えが含まれているとか、正しい答えより正しい問いをとかいわれる場合も、田の持ちようによって相手の用地を耕していくということになります。

犬に仏性はあるかという公案がありますが、どの方面からどう答えようと、答えられるだけの答えしか出てきません。十人寄れば十人、禅坊主なら禅坊主式に、牧師なら牧師式に答えることになります。それぞれがそれぞれの田をもって答えるだけです。そういった答えは幾らでも先が膨らみきりがありません。

つまり田の部分を持って答え、田を継ぎ足して答え、開発中として答えるやり方です。

しかし、別の答えがあります。どのような聖人凡人を問わず答えることに共通した答えがあります。

それは、相手の言うことを聞いて答えている自分がいて自分の言うことを聞いている相手がいる、その和を見出し感得する答えです。

犬の仏性は犬に聞けば答えるでしょう。犬の答えを聞いたとする人間の聞き方の大小がその答えになります。それは犬という幽霊が話すことを人が言いふらすだけのことです。ですので、犬の仏性有る無しの答えを探ることではありません。そのような質問に心を奪われている仏性を忘れた自分を見出し直すことです。

質問を聞いている私、考えている私、喋っている私、それらの一切合切を出してくる私があります。私がどのように感じどのように考えようと、それ以上のことはしてくれない私の主体というのがあります。その意と思いを持つ自分を忘れてしまった自分を探し出し答えることです。

ここには答えの正否、深浅、長短など無く、答えている自分の本当の意思があるだけです。アワで答えられる以前のウで答えることですので、同じウの次元に立ってもらわないと心の田を交換し合うことができません。

ア・ワ。 淡島・淡路島。

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古事記はよく古代史愛好家に読まれているので、その史実を地名や実在に求めたりして事実の判定としています。しかし上巻の神代の巻は最初の一言目からから史実を扱ったのでもなく想像話を扱ったものでもありません。心の原理を述べているものですから、史実を探す無駄な努力をする必要はありません。史実にではなく誰にでも何でもなくそこにある、自分で自証する心の事実を求めているものです。漢字からくる意味に引っかかるように仕組まれて、心の事実を隠すようにされていますから、どうぞ注意してください。

心の事実が心の表現と一致していればいいのですが、それを追跡するのは簡単ではありません。

心の宇宙世界は何もないところから始まります。しかし何も無いところから始まったらそこには始まったものがあることになるので、始まる現象以前に先天があるとします。

先天はその後の現象の芽となるものですから、でてくる後天現象の全ての芽を含んでいなければなりません。と同時に芽は成長しますから成長の動因も含んでいなければなりません。古事記はその経過過程を神名で説明している心の原理論教科書というわけです。

未だに冒頭の一文をやっているところで、如何に冒頭の一文が大きい意味を持つかというわけです。何しろ人間の心の全部、世界歴史の全部が含まれているのですから大変なことです。

もう史実としてのアワ島は地理上の場所に探すことはないといっても、宝探しのような面白さはまた別にあります。宝探しの面白さを得ている方たちに心の原理の話をしても関心のないことですが、心の宝探しも面白いものだと言っておきましょう。

ここではアワの宝物です。

アワ島は後にオノコロ(おのれのこころの)島の段落で出てきますが、ここでは先天の芽としてのアワです。ですので島といっても領域のことで、心の締まりの先天の姿のことです。とはいってもこれはタカミムスビとカミムスビが言霊アワであることを知らないと分かりにくい話です。

何もない心の宇宙世界から何かの一点が動き始めます。何もない何かという無責任な言い方になっていますが、それでもよくよく自分を反省してみればそうとしか言いようがありません。「何か」というときには直ちにある相手対象が意識にのっているとこから始まりますが、意識に載る以前があってそれ以前があることにきづきます。

分かります。

何もなく言葉もなく沈黙もないところにある一点が動き出します。「うっ」という一般的な一体感を持つ全体を現わす意識が生まれます。

そこに人の意識の何らかの働きが感覚なり感情なり疑問なりしようとすることなりとして加わると、自分という主体が発生していることに気付き「あっ」とします。

そして「あっ」としている自分の存在に気付くと同時に気付いている自分が「わ(Ua)」と分かります。

こうして「ウ」という意識が、「あ」と「わ」、気付く自分と気付かれている自分、主体と客体とに分かれます。

つまり、実の中身の主(御中主のウ)は、主体の意識の田において相手対象に噛み結び(タカミムスビのア)、それを客体側として噛み結ばれたもの(カミムスビのワ)を創出します。

このウ・ア・ワは一般的全体的なものでまだ個別的な具体性を持つものではありませんが、精神の最も重要な原理であって、最も重要な間違えの出発点となるものです。

和、輪、環、倭、我、されど、大和では「わ」

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漢字の漢語(おん)読み、漢字の表記では本質は見えません。漢字は現象の個別化差別化は得意ですが、本質的な共通性を見出せない意識を作りそれに支配されるわ行のない言語です。大和日本でも漢字を使用しています。昔は訓読みの補助でしたが、昨今は表記を主としてその意味に従うようになっていきました。

しかし、大和の訓読みはすたることはなく、危ういながらも漢字表記を主としていても音読みに改宗することはありません。

これはひとえに言霊五十音図わ行のある御蔭です。(他言語にも不完全なわ行を持つのがありますが、表記のわ行で意味内容(身内容主)を備えていません。)

日本語は単音に意味があるといわれますが、漢字表記を取り入れて字の違いから単音の意味合いをあれやこれやと追加していくことがあります。共通の単音の読みを並べそこにある意味の違いもついでに並べたものになっています。五十音を漢字で参照した解説ならいいでしょうが、大和の言霊五十音とは違ったものです。大和の言霊五十音とは意識、心の五十のあり方働き方を読むので、漢字表記を読むのではありません。

ですので、和、輪、我と異なった漢字の異なった意味を解説していくのではなく、共通している「わ」と読まれる心を追求していくものです。心の「わ」と読まれるものが見つかれば、そこから出てくる「わ」と付くものは全て共通の心を持ったものです。

その共通性だけで話す日本人を外国人が見ると、自己主張がないとかはっきり物を言わないしないとかになります。実際に言霊五十音を使いこなせる日本人はいませんから当然なことですが、先天的に言霊五十音があるものとして育っていますから、外国のように他者との違いは契約で共通点を作るということはなく、わ行を終了させるべく和を求めます。

求めたところで大和の日本語以外の意識ではわ行を得るということがありませんから、自己主張を満足させる事を逆に求められます。頓智の一休さんでいう橋と端を折り合えるようにすることができません。古事記のハイライトである禊祓とはこの折り合えない他者とうまくいける技法を公開したものですが、そう簡単ではありません。その第一歩がウアワの意識の原理を修得することです。

和は輪で我と個別になっていますが、そこにあることを心の「わ」で確認することが大和の「わ」です。意味のない音の「わ」を集めることではありません。

大和の日本語は心の底から意識の働きから出てきて「わ」となった言葉ですから、心の世界に共通性を確認できるものです。

「わ」は世界語になるか

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大和の日本語は心の現れを言葉にしたもので、心のあり方といき方から発していけば当然世界中が大和語を喋っているはずです。旧約聖書には世界は一つの言葉を話していた時代があったと書かれていますが、古代大和のスメラミコトが広めた大和語であったに違いありません。これは史実として証明されることを待てばいいことですが、日本語は世界で唯一独自でありまた、世界のあちこちの言語との共通点を持つという報告からすれば、旧約で言う共通の言葉は大和語であった可能性はあります。

ここでいう世界語はどこかの言語を皆が勉強して共通の言葉にしてそれを喋るということではありません。心のあり方の表明としての言語を喋るということですから、人には自然の過程として世界中が大和語になるというものです。古代の精神の黄金時代にあったと思われる言葉の共通性の元には、古神道大和語の影響があるように見えるものがあります。

この論考で使用しているフトマニ言霊学で言うフトマニ、二十のマニは、メラニシア方面での超自然力のマナ、モーゼに与えられた神からの食物マナ、仏教での功徳を得るマニ、ヒンズーのマヌ教典、ペルシア地域でのマニ教等に変化しているようです。

現に「あ」は世界語として黄金の精神面を共通して現わしているようです。アッラー、アーメン、阿弥陀、阿羅漢、阿闍梨、アマテラス、吾、I、等、言霊アを知っていて、アから作られたようにも見えます。富士山や夕焼けを見て、イー綺麗とも、エー綺麗ともいわず、「あー」綺麗といいます。

そして「あー」の向う相手は「わー」綺麗といって相手を取り込む自他の和を作る動きです。こうしたことは人の心の動きに世界共通です。旧約時代に一つの言語であったのですから、今後もまた一つになることもあるでしょう。その時は心の動きを表出した言語である言霊五十音を元として大和語が大いに参考とされるでしょう。どこを見回しても、日本以外の言語体系に和を「わ」で表現する言霊の体系はないのです。

やまと 八間留

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漢字の和から出発しますと、漢字特有の個別的な意味を固定させるため、「和には敵対する者同士を仲直りさせる意味を持」たせられてしまいます。最初から敵対し乱れる相手、不一致を設定しているので、平和のために戦う、などと意味の通らない言葉を平気で(兵器で)受け入れるようになっています。歴史の事実としてそのようなことが積み重ねられていますが、心の事実ではありません。

日本は大和といわれ、大いなる和の国ですが、大和を大きな和と取る以外の理解がありません。大きな和のために戦うことをよしとするようになっていきます。

本来の意味の大和は、心に大和が留まっている、そのように行動しているということです。漢字を用いてイメージを呼ぶように書き記せば、

八間留 やまとです。

心が八つの間に留まり、全てが和を持って意思し、言葉を発し行為をしていくことです。

八つの間とは、八父韻と八つの意識領域のことで、それらについては母音世界の解説の後に出てきます。

八つの間の内に言霊五十音の世界が揃い、その全てが主客において調和することが「わ」です。言霊五十音の世界が噛み合い結び合うことが「わ」となります。

最初から不和不一致があり、それを調和しようとするものではありません。

「わ」から和へ、そして、和から「わ」へ

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「わ」とは何かと問われて、現在は「わ」は音としてだけ理解されていて、その意味は漢字で示される意味を通して得ています。「わ」と言われて和や輪をイメージし、和や輪の知識から「わ」の意味を類推していきます。蓄えられている知識、過去に得た記憶概念が出所になっています。その出来上がった知識に自分の意思を重ね拡げていきます。

あるいは初めから、「わ」とは生命と宇宙の法則の現れというように神さんの位置にまつり上げられ、超人的な力を発揮するものとされているのもあります。チームの調和によって一足す一は三にも五にもなるというものや、ミクロの受精卵が億の調和の取れた成体になるというものです。

確かにそれらは通常の意識の運用に見られるものですが、「わ」の驚異の現象、効用等を説明してはいても「わ」そのものを了解するように説明されていません。また、ほぼ常に都合の良い方向に知識を誘導することを目指していますから、見解の違いを越えることができません。

つまり、タカミムスビのタとタが噛み合わないのです。それを田田交う・戦うといいます。田の噛み結び合うことなく、噛み結びだけになります。

現代人の頭脳運用は、田田交うことで進歩を遂げるように設定されています。戦うことで平和を勝ち取るなどという言い種に何も疑問が起きなくなっています。二千年以上も続くそのような意識の運用に戦わず勝とうというのが古事記の言霊学です。

その武器が八間留・やまと・です。武器は剣で、つるぎといい、ツルギ・連(つる)む気(言霊)を用います。ツルギは思惟規範(鏡、八咫の鏡)に沿って用いられ、用いる要素が勾玉(五十音言霊)でそれを連ねます。

これらのどの一つも欠くことのできないものですが、運用の途中では、自覚的無自覚的に間違えも起きるというわけです。古事記は心の原理論ですから、心の運用のイロハから、正しい導き方と各時点での間違え方、間違えない方法と乗り越え方等が記されているものです。その初めの原理がウアワの何も無いところから先天が始まり、主客に分かれ全ての自覚が始まるというものです。それぞれの逆の方向が間違えとなります。

古事記の記述は理想の思惟規範を得る方向に向い、その前段階に戻る方向が間違えを修正する道になっています。詳しくは禊祓の段落での話になります。ここまででは剖判の間違えが出来ることがあるということになりますから、その間違えの修正は、剖判以前に戻ること、つまり言霊ウ御中主のまだ一つ丸のままの段階から出発し直すということになります。

それには、輪とか和とか環とかをいじくりまわすのではなく、「わ」に戻ればいいのです。

アワに予め秘められているもの

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さて、剖判がうまくいくとはどういうことでしょうか。それは八つの意識領域である八間留(やまと・大和)が順調に動くことに現れてきます。それは同時に一瞬を形成する五十音言霊が滞りなく事を成就していくことですが、ここではまだ初めの三神しかでてきませんから、この三神が順調に現れることになります。言霊五十神の循環が必要なのに、たったの三神の解説をしているところでうまくいくかいかないかを言うのはおかしなことのように見えます。そこで出て来るのがヒメ(毘売、姫、比売)です。女性神のことではなく、先天を秘めている、隠没したものを隠し秘めている、という意味のヒメで漢字のお姫様の意味をとると間違えます。

ですのでそこには、ヒメ(秘め)られた先天の存在が三神それぞれにあり、それをみいだしていかなければ先を間違うことになります。既に示した通り私たちは大変しばしば意思の初めに既にあるものを自分のものとして設定しています。例えば、自我や自分の考えることを自分が始め自分が作り未来へ築いていくように思っています。

しかし現在持っている自分の考えも考えていく思惟も、自分のものであった試しはないもので、そもそも言葉は教え込まれたもので、他人の歴史の総体として各自にあるものです。自分で作った言葉など一つもありません。日本に生まれて日本語を喋らされており、そこからすれば自我など元々は無いものです。自我は元々は無いということを他の言葉に該当させますと、日本という国は元々は無い、所属する政党とか理想の党とかは元々はない、偉大な指導者だとか建国の父だとかは元々はいない、というようになります。

実際それらのものは元々はないので、国のため、党のため、主義主張のため自己を犠牲にし他人を粉砕するなどおかしなことです。同様に歴史経過として当然のことですが、いままで挙げてきた例のように既定の物として設定していることに問題があります。問題があるといっても現象をあげつらっている限り解決することはなく戦い(田田交い)が続行していきます。

しかし、歴史的に必ずあったものだから、人の心にも当然あるものだということではありません。意識の初めは何もない何だか分からないものから始まっています。党だとか主義主張だとか言い合う前に、それらを生み出す御中主の時代がありました。私たちの間違えを訂正する方法に元に戻るということも言いました。今こうだから、制度はこうだから民主的に事を運び、多数決で事を運び、あるいは独裁的に事を運ぶのが良いというわけではありません。

人の知性は過去を見ることが可能です。しかし、あった過去の現象を見ているだけでは意見の違いから戦いが繰り返されるだけです。

もう一つの過去の見方があります。元に戻って何も無かったところを確認し合うところから始めるやり方です。渾沌とした複雑怪奇に絡み合った現代からは非常に難しいことですが、得られている自我知識など自分の物でないと一旦脱ぎ捨ててみれば、得ている自我知識を得させた、元々の姿が出てくるというものです。

そこから自分の考えとし自分のものとすることができるのは、そこに自分のものとなる構造があるからです。それは当然ウ・アワに含まれていなければ出てきようがありません。吾の芽が無いところに芽はでません。この秘められたものがある、秘めているという意味が「ひめ・姫・毘売」です。

ウ・アワにおいて今後の意識のでどころとなる造化構造ができました。

言霊ウが剖判して言霊ア・ワとなりそのアワに含まれているものが出てくることによって世界が形成されて往きます。二は三を生じ三は万物を生じると言われている三に万物が含まれています。ここで言うのは螺旋上昇する循環です

間違えることの無いように固定してしまったウ・アワに陥らないようにするには、主客のアワにどんな先天のヒメを見出せばいいのでしょうか。

アワとは秘められた元の世界

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今現在のある世界が全て秘められていた世界がありました。過去です。日々剖判して現在を作る過去は、同時に日々新しい現在を作る過去でもあります。この過去に二つの相反する、過去の持続と過去からの創造させるものが、過去にありその過去が現在にあるという構造が隠されています。

初めの何かが現れて言霊ウとなり、現れ出たときにはまだそれが主体であるのか客体であるのか分からない状態でした。そこに意識の持続とともに意識している自分と意識されている自分との剖判が起き、何か相手があることを意識するようになりました。ここに主体側と客体側の言霊ア・ワの二者ができました。

ところがこの主体側とは何であるか、客体側とは何であるかはまだ分かりません。そこでそれぞれ言霊アワの剖判がはじまります。

つまり、言霊アが言霊ウの位置にきて剖判し、言霊ワが言霊ウの位置にきて剖判していきます。螺旋循環が繰り返されます。

こうして言霊アは言霊オ・エに言霊ワはヲ・ヱに剖判していきます。こうして新しい世界が創造され持続していきます。つまりアにはオエが含まれ、ワにはヲヱが含まれていたものが剖判したということになります。

しかし、蜜柑の種に実があるのではありません。種と実とはまったく違います。違うけれど連続したものです。それがイザ出陣じゃと出てきます。

古事記冒頭の神名を追ってけばそれがしばらく後にそれの正体が現れます。

物体の事物の世界では種から実というように実体の変化変態を辿りますが、人の心の世界では意識の変化変態の働きによります。

心の働きが現れるには心が載る実体が必要です。その初めは一つ身の言霊ウでした。ただ在るだけの言霊ウの世界に何が在るのだろうかという疑問が生じるや否や直ちに、主客の世界が現れます。またもやそれと同時に何だろうかと思うや否や、それを選んで疑問を持っている自分と選ばれた相手があることに気付きます。

この疑問を持つ心が言霊オで、疑問として持たれた相手が言霊ヲになり、疑問として言霊オを選んだ心が言霊エで、選ばれた相手が言霊ヱになります。

全ては瞬時に出現してくるものですが、在るもの(言霊ウ)を疑問概念として思い(言霊オ)、そういったものとして選んだ(言霊エ)という心の次元の違いとなって出てきます。というように言霊ウの身一つに四者、オヲエヱ、が秘められています。

この四者の主体能動側がタカミムスビで客体側がカミムスビというわけです。

この三柱の神はみな独り神に成りまして、身を隠したまいき

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人それぞれに疑問を持ちますがそこには既に多くの異なった心の次元層ができています。通常は瞬時のことですから一つのこととして現れてくるように扱っています。自分で整理して自分で考えて自分で発表している積もりです。もちろん私もその積もりでやっていて、伝統的に継承された学術的な見解は全て間違っているという思いさえもっていますが、私が考えたことはひとつもありません。とはいえ少なくとも自分の思ったことを書いているのだろうと言うことでしょうが、そんな勝手なことをしていることでもありません。

そもそも古事記の神など存在せず意識の動きを神の名で表現したものだというのも、学んで受け入れたものです。その構造は他の方たちと同じで、軍国主義の元で強制的に受け入れようと、自由思想の元に自在に考えて自分の話を作ろうと、知識概念の土俵の上で踊っているのは同じです。古事記の言霊学としての理解を批判しようと、古事記そのものを批判しようと受け入れようと、同じ土俵上で踊っているだけです。こういった騒ぎはウズメが桶をひっくり返して裸踊りをしている比喩で現わされています。しかし真実は岩の中にいます。

証拠が発見された史跡が出てきた史実が見つかったといっても、あくまで現象理解の手助けで、私たちが意識を運用しているその動きそのものを指したものではありません。それどころか、時代に関係なく事跡があろうと無かろうと、意識の動きの研究先、追求先は各自一人一人がもっているもので、史跡史実、今までの研究成果や公式見解やその権威など何も必要としません。「汚き国」を見ているか知らずにいるかの違いです。

知っていようと知らずにいようと、それが在るということに変わりはありません。つまりそこには在るという構造を各人が持っている全人類的な構造があります。古事記の冒頭はこの全ての人にある構造を記述しているところです。ですので史実を元として古事記を述べようと地名や比較神話を元として述べようといずれも結構なことです。それらの考えを述べることができる思惟運用の心の原理の内にいることに変わりはないのです。誰でもが考え意見を言うことかできる「神」がいるからこそ可能となったものです。

「独り神」というのはそのように個々に出てきた思いや考えを保障してくれる先天のそれ自体だけで存在している事柄となっています。

それ自体で存在していて他に依存しないあり方を言霊アの世界といいます。

これは全体として示された先天アの世界です。古事記では吾の眼(あめ・天)として現わされています。アメの有る無しをどうこう言える以前の世界です。

この言霊アの眼の世界は動いて付いて地に成ります。これがつち(地・ツチ・付いて地になる)といわれます。そうするとそこに動きが始まり言霊ウの世界が出来、次いで剖判し動きを持ったアの世界が出てきて動く主体側の世界全体をやはり言霊アといいます。

この主体側の言霊アの世界はそれはそれで剖判して、続く主体側の世界を形成していきます。(次の言霊オエの世界へ行きます)

続いて現象を創造する世界となっても主体側は主体側、客体側は客体側と一つ身に両者を包含しつつ発展していく分けです。しかし後段は前段から出てきたとはいえ、次元そうの違うものとなって出現してきますので、それぞれが「独り」というわけです。

またこの時点は冒頭の十七神が終わるまでは、十七全神が先天の構造を示す精神意識の原理を示すものという意味でも先天の「独り神」でもあります。主体というような言葉づかいをしていますが、出来事としての主体、現れた主体というように現象になったものではありません。主体そのもの自身は現象していません。

それなら単なる抽象観念なのかといえば、そうではなく、その抽象観念さえも表現として使用させる先天構造内の実在なのです。

この先天構造内の実在はさらに次の言霊オ・エまで続きます。そして次いで実在を行動させ、行動を実在に載せる先天の働きの解説までを終了して全先天構造となります。

さらに先天構造を実在としてそれを動かしそれに載る主体自我の構造が要ります。この主体自我構造が先天になければならないので、それが先天の自我(おのれのこころ)として語られます。

おのれのこころが出来、おのれのこころが扱う実在要素がそれぞれ先天に出来ると、さらに必要なのはこころの働きと実在要素を載せる土俵である働きの場所が無ければならなくなります。こうしてこころの領域が先天的に確保されます。この領域が島、十四の締まりとして現わされます。通常、国生みと呼ばれているものですが、そのように言うことの出来る心のシマのことで、国土創生の話とは関係ありません。

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