⑬-3 こちら側とあちら側。あちら側の取り込みへ。

次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、

奥疎(おきさかる)の神。次に

奥津那芸佐毘古(なぎさびこ)の神。次に

奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。

次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、

辺疎(へさかる)の神。次に

辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。次に

辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。

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左と右、正と反、主と客、自覚無自覚等、対になっているものを両者共に合一する事に関してです。ここでは霊と体、自覚と無自覚の二者がより高次な段階で現象化することになるでしょう。自覚規範の自分側にとっての意識を保持してその案内を乞えるようになりました。本章はその対極にある客体側をどう扱うかになります。

既に事の始めに成る剖判を経験してきました。ここでは逆に相手側を取り込み合一に戻ることに関してです。合一に戻すにはとても難儀なことです。

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本章に鎮座する六神の概要です。

以前の無自覚であった自身の「いな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国」の穢れを祓う段階から始まります。主体側には自らに「穢(きた)なき国」をいだき、客体側では「穢(きた)なき国」が待ち受けています。

こちら側から発するのは次の三つ。立ち上がって、投げて、届かすことです。

0 次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、

「たまき」は田(取り上げられた意識主体の能動・霊側の自覚した内容実相)をまき散らし、まき取る。

1 奥疎(おきさかる)の神。次に

主体側から明瞭に起こってくる自覚意識を、自身の内なる無自覚に対して再生甦りに向けて分け隔て立ち上げる

2 奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神。次に、

主体意識の内容を無自覚意識の内容側に渡して潜らせつなぎ取り入れ

3 奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。

主体意識側を無自覚意識側に渡して両者の意識の隔たりを減らし止揚する

あちら側が受け取るのは次の三つ。構えて、受けて、事の確認することです。

0' 次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、

「たまき」は田(取り上げられた意識主体の受動・体側の無自覚な(無)内容実相)をまかれる、まき取られる

1' 辺疎(へさかる)の神。次に

客体側に実在している無自覚な受動的な自身の内なる実在と働きを(再生甦りに向けて)識別して

2' 辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。次に、

客体意識の内容を自覚意識の実在側に渡して潜らせつなぎ取り入れさせて

3' 辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。

客体意識側を自覚意識側から渡されて両者の意識の隔たりを減らされ、止揚する

注)止揚には通常、掬い上げ保持、否定、別のものになる、より高次ものになる等の意味で使われていますが、ここでは否定破棄されるものはなく上位次元との差異を減らされ、再び可能なものとなっていきます。再生甦り。

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こうして次段へ渡されます。次段では意識の実在といってもどの次元の実在なのかをみます。

ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、に、成りませる神の名は、(感情、意志で処理することを避ける)

これらの自覚の内容を通過した後、「初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時」、かしづく実践行為と共に始まります。(意識の実質的な運用場であるウオエを見出す)

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大祓の祝詞を元に再考します。

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天津金木を、本打切り、末打断ちて、

天津菅麻(すがそ)を、本刈断ち、末刈切りて、

千座(ちくら)の置座(おきくら)に置足らはして、

八針に取辟(さ)きて、

天津祝詞の太祝詞事を宣れ。(大祓の祝詞より。配置を変えてあります。)

天津金木 天津菅麻(すがそ) 天津太祝詞

ア・カサタナハマヤラ・ワ ア・12345678・ワ ア・タカマハラナヤサ・ワ

イ・キシチニヒミイリ・ヰ オ・--------・ヲ イ・--------・ヰ

ウ・クスツヌフムユル・ウ ウ・--------・ウ エ・--------・ヱ

エ・ケセテネヘメエレ・ヱ エ・--------・ヱ オ・--------・ヲ

オ・コソトノホモヨロ・ヲ イ・チキシヒイミリニ・ヰ ウ・--------・ウ

祝詞の意味は、

金木のあ行主観側(本)を切り離し、わ行客観側(末)を結合せず、

菅麻もあ行主観側(本)を切り離し、わ行客観側(末)を結合せず同様にして、

両者共に修祓の対象となし(天津菅麻は無自覚のため、金木は我良しの無規範のため)、

理想の思惟規範(千座、ちくら、道の倉、生命の道理を収めた意識規範)に宣(の)り直すため、

八つの時処位をバラバラにして、それぞれの持ち来らせられ、持ち来らす処へと、

天津太祝詞による事物の実相を明らかにしたうえ、歴史の命となって創造出来るように配置転換をせよ、

となります。

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身禊五神から振り返ると。

自覚の当初は突如と一挙に与えられるので、そのままを主張していくと単なる主観(自分には明白な主観的な真理)でしかありません。船戸の神はその後の観点の全てを秘めていますがそのまま表出していいという訳にはいきません。

しかし、0)自分に自覚をもたらした衝動として、その内容は自分だけには明らかです。

次に、1)無自覚から自覚と通じている道を経て来ているため事物との連絡は付いています。

次に、2)そこには自覚に到った道の時処位があるので、自分の自覚もその上に載っています。

次に、3)となればその時処位に曖昧さがなく、煩わされることなく自己主張の覚悟ができてきます。

次に、4)以前の無自覚さを反省し受け継ぎ、自己主張の種を抱いているところから、行為の選択を決めます。

次に、5)明らかに(自覚前の)自身が組まれていることの確認をしていいるので、自身の指針となっていきます。

ここからは自分には明らかなので、他者にも当然だろうというお仕着せが生まれていきます。

せっかくの自覚が自証するだけに終わっていて、他証ができていません。

そこで、自証の内容が他証され、他者の意見が自身の中に位置付けられた、自覚の内容が明かされなくてはなりません。その自他ともに明かされる内容の位置づけを得る前の手順があります。

それぞれの主体側の主観をそのまま主張しないで、また客観と称する結論を被せ立てないで、そして自覚で得られた内容は捨てることなく、そのあるべく位置を与えることが必要になります。この手順の後しかるべく内容が自証他証されるように立てられることになります。

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その為には一旦自らの姿を解き放ち変態しようというのです。

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そして、他証へ向う六神。

こちら側あ行の主観から。

0 次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りませる神の名は、

意識主体の能動・霊側の自覚した内容実相を取り上げるが、それが意識に昇った経過を検討する。ここからの六神も汚き・気田無きを身削ぐ、汚さの実在の有り様に続く、動きによる気田無きの由来を身削ぎしようというものです。

左の御手は音図の主体能動側、右は客体受動側で、手まきは手に巻き腕を縛るもの、タマキは田の間の気で、五十音図の八つの間(例、ア・カサタナハマヤラ・ワ)の父韻の気のことで、主体側の動きが始まる時にまといついてくるもの(意識規範)です。その意識規範を相手に投げ与え田の間の気で、田を巻き取ろうというものです。

1 奥疎(おきさかる)の神。オキは起き上がってそこから始まる主体列であるア行のことで、サカルは裂け引き離すで、明らかに得られた主体意識であるにも係わらずひとまず進行を止めること。ア行の実在意識をまず孤立してみること。

と同時に起き上がる主体側はカサタハの四行ありますから、こちらも連続する機能の一時運用を停止します。すると自動的に受動側のナマヤラ行も受け入れる相手がいませんから、止まり再生甦りを待つことになります。次いで。

2 奥津那芸佐毘古(おきつなぎさびこ)の神。オキツナギは能動主体側の機能(オキ)を太祝詞音図に渡しつなげて、その助け(佐)を大いに用いる(ヒコ)ことになります。太祝詞音図の配列を手本に、カサタハ行の能動主体側が配置転換されます。

では何故まだ出てきていない太祝詞音図が手本にできるかというと、意識の働く原図である天津菅麻と身禊される金木音図を本末切り裂くときの拠り所があり、それが太祝詞音図だからです。

それはまだ完成されたものではありませんが、既に完成されたものとして流布されているものとしてあるからです。矛盾した言い方のように聞こえますが、これも言霊循環の一つです。

そこで自証他証のできる正当な配置を決めていくため、身勝手な配列を止めます。

3 奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。オキツ、主体能動性のまず始めの理想的な配置(オキ)は、カイを減らす(カイベラ)ことです。カイとは言霊カの居間(イの間、カ行カキクケコ)を減らすことです。金木音図はカから始まっていますが、これを減らして冒頭に置かないようにして、気田無さの身削ぎされた位置を与えます。

意識における気田無さとは、競争原理を起こし弱肉強食を誘う身勝手な我良しの意識運用のことです。それは言霊カで始まる無自覚な意識運用にあります。

欲望の金木音図は、〇カサタナハマヤラ〇 で、この手順を通過するのに始めと終わりに自覚がありません。同様に、

知識の金木(赤玉)音図は、〇カタマハサナヤラ〇 で、この手順を通過するのに始めと終わりに自覚がありません。

五感感覚する欲望世界はいつどこで始まるのかまた終わるのか、いずれも自覚的に制御することができずにいます。

概念知識の修得も自ら創造した知識などはなく、他所の記憶がこちらへ移動しただけのもので、それを仮に自分のものとしているだけです。

こうしてカで始まる意識世界は「おほみまの祓いせむとのりたまう」ことなく、生存競争弱肉強食に釣られて勝手に進行してしまいます。

カによる始まりを切り離します。では何を持って始めるかですが、その前に受動側も準備をしておかねばなりません。

この後受動側の準備を整え、言霊カで始まらない他の運用法(言霊ア・イ)を検討してから理想の運用へ向います。

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あちら側わ行から。

0' 次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りませる神の名は、

一方、意識主体の受動・体側の無自覚な(無)内容実相を取り上げます。

受動側はまずそこで、金木音図のカで始まったことを受ける動きを止めます。

1' 辺疎(へさかる)の神。次に

客体側に実在している無自覚な受動的な自身の内なる実在と働きを(再生甦りに向けて)識別します。無自覚な客体側を受け入れることを、黄泉の国で「黄泉へ食い」するといいます。ここにある「へ(無自覚な意識の食物)」を遠ざけるわけです。

2' 辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。次に、

遠ざけっ放しでは救いようがありませんので、太祝詞音図に渡してその助けを借りて甦りのための用立てをします。

渡すといってもふと祝詞音図とは父韻の配置が異なりますので、そのまま重ねることができません。八つの父韻による配置をバラバラに裂いて配置し直します。

3' 辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。

太祝詞音図の配列に準じて、金木音図の無自覚意識を代表する言霊カで始まる配列を減らし、冒頭に受け入れないようにします。

その際に金木音図も意識の表出されたものであることを補償するのが、天津菅麻音図との摺り合わせです。金木も菅麻(すがそ)に投射されていて、天津菅麻から道引きだされたものであることを示さねばなりません。そうでないと無自覚から自覚へ連続の無い、道の長乳歯の神を無視した目茶苦茶な積み替えになります。

こうして再生甦りにまた近づき、次段へ渡されます。

ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、に、成りませる神の名は、

これらの自覚の内容を通過した後、「初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時」、かしづく実践行為と共に始まります。

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