アメツチ 『古事記神代の巻 の読み方』  5。

アメツチ 『古事記神代の巻 の読み方』 5。

13-0。言霊ウの発生。

いよいよ言霊ウが天の御中主の神であることを確認するときになりました。

よく他の言霊の研究や言及で言霊ウを言うのに、「ウ」から来るイメージ、思念想念、閃きを受け取って、あるいは漢字の意味を敷衍したり参考にしたりして、言霊ウとはこういうものだというやり方があります。まず「ウ」があって、そこから既知の意識が掘り起こされ、イメージ連関を起こしてくるものです。

ではその「ウ」は何処からきたのかといえば、元々あるか神が与えたとしか言えません。たしかに現代のわたしたちにとって元々あるし、与えられたものとしてあります。それに言語学がいくら進歩しても言語の発生を説明できませんので、やはり神の出番としての場所がとってあるような感じです。

フトマニコトタマ学は全く反対に、意識によってウを発生させようとします。「ウ」から来るイメージや思念想念や閃きをウに結び付けようとするのではなく、意識の向かう先を現そうとして、発音発語に結んで言ったら「ウ」になったという道筋を探します。ウという表現は結果ですから、ウから得たものをウに返すのでは同義反復のようなものです。

この同義反復をうまく使ってきたのが今までの言霊学で、江戸時代を通して現代まで同じことを繰り返しています。

どの言霊学の解説も非常によくできています。例えば言霊ウの解説にしろ何にしろ、なるほどこれがウだ、ウとはこういうものだと納得できます。そしてそこから繰り出す解説には迷いがありませんし、事物が非常によく説明できています。

ところがよく見ると誰一人として「ウ」を創造した人がいません。そこにある「ウ」、「ウ」で説明されてきたものは非常によく整理されていますが、「ウ」がそれだけの意味内容を持っていたからその「ウ」を集めだけなのです。誰一人として「あ(吾)の目が付いて地に成る(あめつち)」を実行しないで、地に成っている実だけを広いあつめたものです。

先祖が創った元々素晴らしいおいしい実ですから、集めて食すれば当然素晴らしいものになります。「ウ」には古代大和からの宝石の輝きが詰め込まれていて、それを磨き出したので、解説すれば当然素晴らしいものになります。

古代大和の聖人たちがつくりあげたけれど隠れてしまったものを、みちびきだした功績はありますが、逢ったものに尾ひれをつけ自分のアイデアを加えるだけです。どこにも言霊ウを創造した形跡がありません。そこにはいつも言霊ウがありますから、それをウとしてしまうわけです。

大和の聖人が発見輝きの素晴らしさを、美しさを、霊妙さを、当然理解していきますが、それらは最初からウの中に大和の聖人たちが押し込めておいたものなのに、解説者が発見したように言います。

ウという発音表記を古代に固定しておいたことをすっかり無視しているわけです。ですので同じウを使用しても、U、UH、OU等の「う」という発音の外国の言葉を幾ら集めても、霊妙さが見いだせません。

大和言葉は「う」という発音発語表記に、ウで示される実体内容霊気を「ウ」と名づけたから、「う」の言葉のさきわい、幸わい、を見ることができるのです。今までの伝統的な言霊論では、そこに結びついて言葉「う」を発見した人あるいは追体験した人がいません。

成った言葉を説明しても、言葉を成すことがありません。

もちろん命名するということあり、新規発見物にも名が与えられます。しかしこれらは、出来上がった言葉の体系の上に都合のいいように付け加えられただけのものです。言葉の要素(言葉の元素)の生成から出てきたものではありません。

では、言葉を成すという、本当にそんなことができるのかと言えば実際には誰でも考え込みます。不可能じゃないか。

が、引っ込み怖じ気づく意識があれば、その感情なり思いを表明することになります。誰でも感情があり、感じを持つのですから、そこから始まるものがあります。それを取り上げ、どうなるか、どの発語となるかということを探すことができます。意識にまず始めの意識が起き、なんにもないところに、ありゃりゃ、あれはと意識が向かう端緒の意識を保持しつつその表明を探して「表現します」。

ところが、実のところ、そんなことは無理です。

今はきちっと五十音図で与えられていて、意識と言葉の要素の連関が分かっていますが、それを何にも無しから追体験などできません。まず追体験に必要な頭脳を動かす言葉が既にできあがっていて、それを使用してしか表現できないのですから、いくら頑張ってもゼロからは始めることはできません。有り難いことに五十の単音が用意されているのですからそれを利用するしかありません。

しかし、発見すべき言葉がまずあって、そこから来る思いを語るのではなく、その逆になるように心掛けるだけです。また、世界最強のあんちょことして、言葉を説明してくれている神名を残してくれましたから、神名の解読は強力な助っ人になるでしょう。

例えば、天の御中主の神は言霊ウと分かっていますが、当面は「う」は隠しておいて、自分が中央の主人公であるときの意識を負って、その荷物を背負ったままの意識を言葉にしてみることを努力目標にしてみればいいのです。幸いに指針は「う」の方向を指しているのでそちらへ向かえばいいのです。

次回からしばらくの間、言語の発生の元を辿りたく思います。

ついで言霊ウに戻りたいと思いますが戻ってくる保証はありません。

13-1-1。言霊ウの発生。母音以前。はじめに。

心とその現れを捕らえようとするものですが、歴史を生きてきた人の数だけ心があるのに、どうするつもりかというと次のようになります。

物質界にはやはり無数の形態の物質があります。しかしその元素の数は固定していて放射性元素を除けば百弱しかありません。これが全物質界の元です。

古代において心の元素、心の要素を探した大和の聖人たちが見つけたのは、あいうえお五十音の五十個の心の形でした。日本には多くの文字が残されていますが、その全てが48~50の様々な字体で表現されています。五十音図、いろは、日文(ヒフミ)、カタカムナ、蜂の比礼等そのどれもこれもが五十の言葉の表記に納まっています。

大和の聖人による心を分析して分かったこの心の要素は五十個という発見があるため、古代文字の数がどこで発見されも同じとなっているのです。たったの五十の心の要素の組み合わせで億兆八百万の心の現れとなっています。

そして古事記というあんちょこによれば、心の表記を冒頭の五十神で現しました。これの意味するところは、心の表現はどの文字表記を使用しても五十(神)あれば足りるという事で、心は五十(神)の要素しかないということです。無数の物質の形があってもその元素数は固定されているのと同じです。

以上のことは数千年前に発見され継承されてきたことをオウム返しにいっているだけです。実際に各人が自分の心を分析して心の五十個を見つければいいのですが、不可能ですし、その為の助っ人として神代の巻が用意されていますから、これを頼ることしかできません。

こころを見て、心の元となるものがある、要素があると思うことは普通でしょう。何億と増える人間、動物の元が男と女の二要素しかないのが見つかりますし、目前の八百万の事象を見聞きしても、その元素の数は知れたものじゃないかと思われたことでしょう。

物事を示すのに息を出して声帯を震わすことを覚え、いろんな音を出してみることができます。しかし、出てくる音を出す前に、バリヤー(子音頭)を作って子音となるか、バリヤー無しでそのまま音が出てくる母音かの、二つしかないことも分かったでしょう。バリヤーとなる口の構造からしてもその変化の数も知れたものです。( と、今だからこんなことも言えますが、当時のことは想像もできませんし、現在の音韻学はもっと細かいです。)

しかし問題は重箱の隅をつつけば幾らでも出てきますが、要素が少ないとか多いとかではありません。重要なことは次のことです。

それは、心の要素が五十あるとか元が二つとかでもなく、何ということでしょう、たった一つのことから始まるという真実を発見したことです。それが「吾の目が付いて地に成る(あめつち)」で、意識が事象に向かってそれを意識して名指ししようという、全ての言葉の活動に共通なことがあることの発見です。

何ということはありません。ものに意識が向かない限り言葉も無いし、意識がものに向くためにものの意識を表現するということでした。

この始めの一つのことが全ての始まりです。日本書紀は卵の比喩から始め、古事記はあめ(天、吾の目)の呪示から始められています。

この始めの一つのことは一見すると、ものを見聞き感じる始めのことと同じですが、意図的な吾の目が活動しないかぎり言葉とは成りません。それでも感情は喚起されるじゃないかというでしょうが、言葉にならない感情は幕の向こうで劇が進行しているようなもので、何が何だか分かりません。

古事記を解説することが主眼のひつく(ひふみ)神示というのがありますが、そこでは○チョンといっています。実態的には○チョンで、主体活動からは○にチョンを入れるといっています。しかし、シンボルを使った比喩は分かってしまえば無能無力です。 実体内容を表明しきれません。

この一つの意識が向くか向かないかで世界があるか無いかになります。

人が生きることは心の活動から見ていくことが主要な関心事で、宇宙世界はその線に沿って生まれその線から人と関係していきます。客観物となった動きは科学が解明する役目で、生きている世界は心によって動きます。

13-1-2。言霊ウの発生。母音以前。腹映え。

言霊ウ(天の御中主の神)を見る上で、大事なものは主体の意識の動きです。ウは母音として発音されますが、それは現象となったものですから、口腔による空気振動と耳の生理的な鼓膜の振動等の物質の作用反作用です。生理生物的な物質関係を見るなら、その前に、あいうえおになる材料、成立事情、環境、生理条件等があります。

物理的となったもの、ウと発音されたものは、物質現象ですが、そのあったものを指してそれは何かと問うと、答えは時と場所と回答者の心持ちに応じて無数にでてきます。通常の世界では意見考え主張とかいう形で、その中で仲よくなったり喧嘩したりしてますが、要するに誰もが元素を見いだしていないからできる、猿芝居なのです。悪い言い回しをしましたが、それこそが現代を形成してきた大本でもあります。

私たちは物質的な形を作りそれを介在させないと、自分と他との関係を築けません。その最も強力な仲介者が言葉です。従って言葉を了解しなくてはならないのですが、その現れは空気振動やインクや光点の集合した点滅等の物理現象です。当然音声が分析されますが幾ら整理分析したところで、音(おん)の分析でしかありません。

言葉の心を見ようとするときには、そこに意味や精神、心を見いだすために内容というものを見つけて心を載せていきます。しかしそれでは、船に荷物を積むのと変わりがありません。荷物を変えたり到着地を変えたりするだけで、単なる物質の移動というだけのことですが、意味内容というものを最初に設定してありますから、意味内容と心とが一緒に伝わっているように解釈してしまいます。

これでは、船でも飛行機でも小包でも手渡しでも、英語でも仏語でもよいことになって、心の内容とそれを運ぶ物とが別々のものとなります。

今は日本語で書いて読んでいますから内容と書き手の心とが近い物と感じることができますが、翻訳物で読むことになれば一旦内容を酌み取りに行ってから、日本語の意味内容から作者の心を窺うようになります。要するに表現をもたらし媒介してくれた物質の形は何でもいいことになってしまいます。

しかし、世界で唯一の大和言葉においてだけはそのようなことはありません。例えば食べる前のみかんを手にして、御中主の神のみなかぬしをゆっくり、み・な・か・ぬ・し・というように発音してみると、みかんの実の中身の主の味とか甘さおいしさが、自分とつながっていいるのが感じられるでしょう。繋がりをさらに言えばみかんと自分がヌーっと縫い合わされたものが、静かに手のひらに鎮座しているみかんを感じるでしょ。

わたしたちもあったものとしての古事記とその隠されている真実である内容がここに与えられています。これをそのまま解説しますと、通常世界での喧々諤々に参加していくことになります。古事記の神は言葉の元素だなどといっても、分かっている人たちには内々で通じ合えますが、その人たちにおいてもそれぞれの解説は別別になっていきます。

言葉は共通して使用しているのに、その言葉に与えた自分の説明しか通用させようとしません。結局、知っていることの世界、勉強して得た知識の世界にいる限り、世界戦争に加担しているのです。ここはでんぐり返ししていかねばなりません。

そのでんぐり返しの顕著な例が空観を掴む悟りの修行です。ふとまにコトタマ学では悟りを掴むことは単なる始めの条件に過ぎません。一生かけて悟りごっこなどしている暇はありません。

では悟りを得られなければ始められないのかといえば、もちろんそうもいえるでしょうが、それでは悟れば言葉が理解できたのかといえは全くゼロです。どの聖人開祖教祖も言葉の一つも創造した人はいません。逆に神の心持ちを伝えるだけです。

悟るだけでも大変なことですが、古代大和の聖人は心の内容を解明して、言葉の体系を創って人間に与え歴史を創らせました。今までの宗教者は誰も歴史を創った人はいませんというより、古代大和の聖人の命をうけて精神的な支えになるようにされていました(竹内文献)。

つまりそこから始めるように後々の暗示としておいたのです。宗教の構造にある、アッラー、阿弥陀、アーメン、あまてらす、太陽神ラー等の「ア」にヒミツを閉じ込めておいたのです。そこで古事記も「あめつち」の「あ」から始まっています。

生理的な自然発声のアを、意識的意図的な人間的な発声である「あ」に作り替えたことが、古代大和の聖人達がなし遂げた人類の遺産です。そして「あ」を発声することは誰にでもでき、つまり誰にでも悟れる種を蒔いておきました。「あ」は世界語として流布させたのです。

13-1-3。言霊ウの発生。母音以前。腹映え。

【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、

御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は

(8) 泣沢女(なきさわめ)の神。

かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲(いずも)の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。】

この段落にある「腹這いて泣く」を、母音の発音を腹に持ち越した時の、腹との関係としてそれを観ることから始めます。

ここでいう伊耶那岐の命(各人一人一人の人間の主体的な精神行為をすること)は、葡匐(はらび)=腹這いてまでして大和の心の言葉を探求していったことです。自分の心の表記表現を探していくといっても、その材料は自分の意識しかありません。心の中を腹這いしたということになります。

頭のてっぺんから爪先までと記してあります。宗教的なおまじないのような行為にうけとることではなく、また、仏像のお顔と言いますがそういった顔だけ選択されたものではなく、爪先までの全部が相手対象です。

今「全部が相手対象」といいましたが、始めにあたって「全部が相手対象」になることはないのです。まだ分かっていないもの知らないものの固まりなのにどうして、全部などと言えるのでしょうか。御枕(みまくら)から御足(みあと)、最初から最後までなどという見当もつかないのが普通です。

ところがそれが普通の場面で普通に可能で、普通に行っているというのが、古事記で示されているのです。誰でもか普通に日常的にです。もし概念知識、記憶によって相手対象を見ていけば、分からないことだらけ、知りたいことだらけ、知ってもきりがない知った後にまた出てくる疑問だらけです。曰く科学の進歩、知識の進歩です。がしかし、人には誰でも相手対象を難なくその場でピンから錐まで見通す力があります。

それが感情情感の目(あ・吾の目)で、霊能でもなんでもない普通の普遍的な力能です。さらにこの感じの目は後生大事にされ、増えも減りもせず、知識の増減に関わらず判断の基礎ともなることができます。その吾の目を得ることを古事記は哭(な、鳴)くで示しました。

神名で言えば、「次に投げ棄つる御冠(みかかぶり)に成りませる神の名は、

(30) 飽咋の大人(あき・く・ひ・のうし)の神」です。明らかに組まれているひ(こころ)のことで、その時点でのその人によって明らかに組み込まれているその人の心の全体が現れるということです。

知識があろうと無かろうとその時の吾がでてくるのです。知識は後から付け加えて変身していきますが、感情はそうはいきません。その時の全体が示されます。第一印象にその後の知識が加えられても、第一印象からまるで逃れられないというのはよくあります。

その成り成りていく己の心の姿を神名を借りて、理想的な心の完成までを暗に託したのが古事記です。当初の始まり状態では古事記と聞いても感情の起こらない無機質な「天地の初発の時」という表現です。そこに書かれたものとしてしか見なければ、神話として読んでも皇統紀として読んでも冷たいお話に過ぎません。

そこに一度自分の目を持ち込みわけの分からない卵を抱き抱えると、たちまち生きた胎動を持った卵=吾の目になります。どこまで行くかどこまでできるか誰も分かりませんが、最後に到達した時の卵=吾の目がどうなるかは本人だけが知ることになるでしょう。

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葡匐(はらび)=はらぱい=腹映えで、倒れて腹這いになったのではなく、心と腹の反映関係を追求していたことを示しています。 腹具合と心の関係を這いつくばって研究したということです。腹這いはこころの探求の様子をべつの方面から明かしたものです。

昔から腹を心の在り処としてきました。現代の科学知識はそういったことを笑いますが経験知識は普遍です。感情の変化と鼓動、胃の変調、胸の痛み等日常感じるものもあれば、見えない内臓の変化もあり病気になることもあります。

腹から声を出すという譬喩はありますが、腹に声帯はありませんから音声はでません。声は出ませんが、横隔膜-声帯の動きと通じて、腹斜筋、腹直筋、丹田、みぞおち、腹部位、さらには背骨、背中の筋肉、足の踏ん張り等々、が互いに連絡関連していてそれらは腹の動きに現れてでてきます。

古代人は心の動きと連動するこのことを見逃しませんでした。

そこで前大和語の雑多な言葉を、おそらく他の民族の言葉もかき集めて、分類していきましたが、音と表現を前にしてそれらの整理の原則としたものは、現代の言語学者のように客観的に説明することではなく、その規則や制約でも無く、音素の比較や音韻律動でも無く、心のあり方でした。

大和言葉以外の全世界の言語は、心を音を借りて表現したものですが、大和言葉は心が音であり音が心である、そのようなぴったり不離な関係を持った唯一の言語です。

まずは、前時代の大和での言葉も他の言葉と同様に音を借りてこころを示していったことでしょう。

ところがここに古代大和の聖人が出現して、こころを言葉で直接表現する方法はないかと、探し始めたのです。音を借りた表現では、音に意味を込める人の数だけ、言葉の解釈ができてしまいます。また権力をもって言葉の内容を定めることもできます。

古代大和の聖人はそこから起きる幾多の問題を解決して、全人類が言葉を直接表明してそれが直接こころの表明となる、そうした言語体系を目指しました。そして、その研究が明らかになりました。

ものを見て聞いて感じてそのものに名を付けた時、心に感じたことがそのままものの実体内容を示している、つまり、「こと」がそのまま「たましい(こころ)」の表現である言語体系を創ったのです。それをコトタマといいます。言霊のように魂に濁点を付けず濁りがない、コトを現すと同時に心を現すコトとタマが和した言葉となりました。

ところが、その研究の成果は、単なる言語創造に留まらず、こころそのものの構造までも解明してしまったのです。そのことによってこころの動きが分かってしまうということは、こころによって行動することが分かるということです。

行動が分かり、その行動の現れは文化文明歴史創造となり、世界史の行方までもが、明かされてしまったのです。

こんなことを言うと笑われますが、われわれが笑った後に口にする言葉は、古代大和の聖人たちが創った人造の言語に沿って笑いの内容を喋っているのです。だから各人は喋ったことに意味を感じていられ他の人たちに通じていると思うことができるのです。われわれの異議の唱え方の次元もその方法も古代の聖人にはお見通しなのです。

これは単にこころの動きを見てこうだと何かを定めたのではなく、こころそのものを言葉で定めることを創造したのです。そうすると、こころの動きがこころそのもので定められていき、こころの表明である歴史もこころの動きそのもので定められることが分かってきました。

歴史分野はここでは検討されませんが、こころの動きを敷衍していくと、こうこうこうなると、古代の聖人たちは分かっていました。

こころの動きと、こころの現れである言語の動き、言語による創造行為、人の創造行為である生活社会、文明歴史、これらが全て同じ原理原則でもって動いていることが分かったのです。

こんなことは現代までのどんな偉人も哲学者も神でさえも教えてくれない事柄です。古代大和の聖人はその秘密をスメラミコトが継承するようにしました。しかし、継承は内容が時と共に形骸化し忘れ混ぜられ混乱無化していきます。

歴史のこころの動きが分かっていたといっても、数千年単位で考えられることです。主体である人間のすることに個々の場面からする逸脱はいつでもあり、崩壊消滅は常のことです。

それに対して古代大和は万全の措置を施していました。

そして、意識的な世界史はここから始まるのです。物質社会の豊かさのためユダヤの役目を定めたり、精神安定の為にあちこちで宗教を創造させたり、大元の指導精神原理が失われないように、大和言葉を一民族にのみ与えておきいつでも比較できるようにさせ、その民に原理の象徴暗喩を与え、数千年後に解明させるようにしておきました。古事記はその流れの中で書かれたもので、皇統紀を伝えるためだけに抜き出して書いたものではありません。

全部が一つの和の世界に向かうように作られています。ということで、われわれは自覚しようとしまいと、その古代の大和の聖人の決めた意識的に作られた流れの中にいます。

さて、 この古事記の腹這いの段落は古事記の中では現象子音が発生した後のことですが、ここでは母音の発生に該当させます。

ここで【葡匐(はらば)ひて】といっています。

謎解きをすれば、腹-映えのことで、腹の緊張が心に映えてくるということです。

哭(な)きたまふは勿論鳴く、発声発音することで、腹の内部の緊張に合った心の同調を求めて心と腹の映えてくる音との関係を研究検討をしたということです。

発音が起きるためには、身体的生理的な条件と意識的な条件が必要です。ここで生理的な条件の方からだけ見ていくと、母音とはなにかの生理条件とそこからくる発音の流れが出てきます。

科学的な経験的な実験によって検証できる知識の集積と、今まで持っていた過去知識の出番となります。母音となにかという疑問は母音について知っていることを出すということです。

しかしここでは意識の始め、母音の始めを問うているのですから、始めを問う意識しか持っていないはずです。確かに既に母音についての何らかの概念知識はあります。しかし、その概念知識によって問いが引き起こされているのかもしれませんが、ここでは問いの中にある知識を明らかにしようというのではありません。

わたしたちの始めは「あめつちの初発の時高天原に成りませる神の名は」でした。つまりここでいう母音という名前しか知らないものが「成る」ことを問うているのです。

13-1-4。言霊ウの発生。母音以前。腹映え。

何も知らないのに、あるいは言葉だけしか知らないのに、人は問い疑問を持つことができます。「古事記の言霊学」なんて言われても、当初は言われた言葉だけからしかイメージが浮かびません。古事記・言霊・学・等の知っているものからイメージを形成して関心があれば疑問を持つし、共感反感できる言葉となっていればそれなりの対応があります。

普通はそこで直ちに個人的な反応が出てきて、その個人なりの言葉が出てきますが、ここで行うことは、その言葉の出所を探すということです。現象となった言葉があればその前の直感閃き、イメージもありますが、それらを形作る言葉の元が何処にあるかを探しているところです。

伊耶那岐は、古代の大和の聖人は、自分の腹の動きに注意を向けました。

そこで、古代人はどのような言葉が使われようと、

・ 感情を現す時には感情の腹、

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、

・ 困ったことどうするかの選択を使用としている時には選択の腹、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、

この五つの腹の違いを認めたのです。

現象としては腹筋、腹圧-反圧、胸中の呼気と声帯への反応が様々になることでしょう。

その収集整理分類は一代限りでは不可能でしょう。さらに帰納演繹を通して取捨選択し形を付けるまでには数世代が必要でしょう。

ここでの導きの糸は各人が持ち寄った各人の心です。心の世界で処理されていきました。「心の世界で処理」なんて言うとどういうことかと思うでしょう。それに対して、こうだこうだこういうことじゃないのかというような、現象を分析するような回答は一切しないことが重要であったと思われます。

心の世界で処理とは何だというとき、その時の心に持った疑問に回答することではなく、疑問が起きている腹の状態を見たのです。そこで、いろいろな疑問が集められました。疑問の内容ではなく、疑問を持ったときの腹を検討したのです。

そうすると面白いことに、どのような疑問があろうと疑問の内容に関係なく、疑問を持つという腹具合が共通していることに気付いたのでした。

おそらくそこから疑問の腹が固定され、それに応じた声帯の運用が生まれ、そして発声が生まれていきました。

そこで、疑問を持つことと同じ腹状態を作る発声を探ると、疑問を持つということは「オ」の発声をしている時と同じ腹具合であることが発見されました。

こうしてついに主体的に「オ」を発声をしてみると、「オ」の腹具合と疑問を持つことの腹具合の一致が分かり、意識を「オ」の発声に向けると、疑問を出すことにもなることを見いだしたのです。詳細は後ほど。

自分の廻り、宇宙世界の全事象と発音される音との関係を探していくと、心の状態と五つの母音が対応していることも発見しました。ここで母音と心の事象との対応が見つかった時、同時にその両者を介在させるものも発見したのです。

心の感情事象の腹での腹筋の変化が、アの母音の発音事象と同じであることと同時に、両者はアからア(ワ)へ結ばれていく過程が見えたのです。疑問の心はオからヲへ。

この結ぶ働きを父韻といいます。それが泣沢女(なきさわめ)のことで、そこで見いだされた腹の緊張を起こし同時に心を同調させ心の発声に映えを起こすものが有るということで、橋渡しというようなものを見つけました。

パソコンの画面を見ている時には、光点と視覚の関係ではなく光点と視覚を隔てる空間を結ぶ何ものかがあります。この何ものかによって、誰にとっても同じドットの集合でしかないのに、異なった意味合いをもたらせる何ものかです。これは現象ではなく現象の喚起動因といったものでしょう。

それを、泣沢女(なきさわめ)といいます。泣沢女は普通言われる悲しみを現す女ではありません。腹と心の同調反映具合を起こす為に鳴き発声して音と心の一致を求めている父韻のことです。(男神か女神か気にしたければ男です。主体側のこころの動きを男、毘古などとしていますので。女の方に泣くことが多いので泣く-鳴くにかこつけて「女」という字で現しただけです。古事記の男女神の区別は枝葉末節な関心事で、主体側か客体側かをいいます。)

こうして、母音の発声と心の事象は母音の次元で一致していくことが確認されたのです。その為には腹這いというほどの激しい研究訓練、数世代何百年の時間が費やされたことでしょう。その成果が我々の日本語で、言葉は神が与えたのではなく、超超努力した血の結晶です。

心の母音事象は全て一般的、無限性、全体的、等が特徴です。母音の発音と同じ鳴きやまないことです。

例えばパソコンの画面を見て字を読んでいますが、字を読んで納得する一瞬手前の文字と対面したその瞬間瞬間の連続を構成している始まりの時間があります。

字は瞬時に読まれ納得されてしまいますが、この視覚でさえも数秒の何十分の一単位での時間の流れがあって、その初発を形成しているのは全体性です。古代人はここに言語の発生の根拠を見いだしたのです。疑問の「お」で見た通り、疑問の内容に関係なく、疑問を持つ心が「お」と同じ全体性を持っています。

前大和の言語や外国の言葉では、心の事象と発音の関係が検討されず、たんに指示事象と意味内容事象とが当てはめられただけものとしてそのまま発展してしまいました。

古代大和人はここで、心の事象に対応する発音事象の対応を追求していったのです。

心の事象は全世界が五次元になっていることを見抜き、それに全く丁度五母音だけが対応していることを見い出したのです。

そこから他の外国語のようにものを指示する言葉ができていったのではなく、指示する言葉が内容実体となっている、世界唯一の言語の基礎ができていきました。、

そんなことが可能かどうか不安と期待に満ちた日々を過ごしてきたことでしょう。

そんな一端が

(3) 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。

(4) 次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。

という名前で残されています。

ハニ=言葉の粘土板、ヤス=安らかに安定正確で安心できる、音と文字。

ここから全く新しい体系で、心を表現できる言葉が全人類の為に用意されていったのです。

こころの次元が五次元だというと、現代はいろいろと次元に関して知識があるのでああだこうだと言われますが、日本語を創った大和の聖人が心は五次元だと言っているのですから間違いがありません。霊界、宇宙神の何次元というのは、同じ言葉使いになっているというだけで、人の心を現したものではありません。

もし、次元世界に文句を付けたい方は、まず自分の話している大和-日本語を捨てて自分の言語体系を創ってからにしてもらいましょう。ただし人間の心を超えて宇宙は十次元だ、その霊界は十二次元だというような荒唐無稽な次元話には付き合えません。

意識は進歩発展していき、間違いは訂正されると言う時も同じです。現象を現象で説明しようとしてもきりがないのです。人のこころを解明し、言語を創造し、歴史を創造できた人は古代大和のスメラミコトを以外にどこにもいません。

人の意図と意志が関わらない歴史は生物的な作用反作用、物質的な自然な変化です。古代大和の聖人の歴史意志を現すその為に、ユダヤはスメラミコトから選ばれた神選民族とし指定され、スメラミコトは天孫となっているのです。

この元となる原理がフトマニといわれます。心の創造と言葉の創造と社会歴史の創造とは同じフトマニ原理が適応されているのです。この十三章は言葉の発生を扱います。まずは一般的なことを記しました。

13-2-1。腹母音。呼気とこころ。母音と宇宙世界。

赤ちゃんが最初に発する言葉は何かと、『こども語辞書』 ( http://baby.goo.ne.jp/kodomogo/index.php )を見たら思っていた以上に多数の語が上がっている。どちらかというと母親の教え込む言葉の順位みたいでもあるし、親の希望の現れかもしれない。一番関心を引いた項目は「話した順番で傾向をしらべる」で、全体という欄にある平均発話順序が、言葉の意味不明ながら、一番「うー」、二番「あわわわ」、三番「ばばば」になっていることでした。

母音についてです。古事記の「まぐあい」の段落を利用します。

「 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、

「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。

ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、

「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。」

1-母音以前。

古事記にある通り、伊耶那岐の命の主体的な問いかけ行為がまずあって、美の命が応答します。美はそこにありますが自分が何であるかは、知らずにいて、知ることのできる範囲は伊耶那岐の命の問いかけの範囲内で答えるのです。

そこで、問いかけがあっても問いかけられる相手対象が無いときと、問いかけられても答えるものが無いときがあります。

それを問いかけがある以前の姿として見ているのが母音です。発声音韻学で声となったものを整理分析するのではなく、心の持ち方の分析が問題です。この段階では比喩のように聞こえますが、吾(あ)の目という先天的な全体の始まりがあるわけです。

問いかける主体側の母音側と受け取る客体側の半母音があることになります。

母音は子音頭によるTYKMSRHNその他による遮るものがありませんので、息の続く限り同じ音がでてきます。

古事記に、『 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。』とあります。成りは鳴りのことで、鳴り発音することですが、

伊耶那岐の場合は、意思主体意識が成り、発動して鳴り鳴りて終わり無く発音し続けることで、

伊耶那美の場合は、受け入れ受動態勢が成り、待ちっ放しの終わり無い状態が成り成りです。

岐はどこかで主体側の鳴り続けを止めなければならず、美はどこかで開けっ放しを閉めなければなりません。

それまでは両者とも、成り鳴り止まないのです。これがまぐあいの前提です。

2-客体側の母音の世界。

鳴り止まない母音の世界は、出たものは出てくる、有るものは有りつづける、選んだもの、禁止されたものはそのままの状態が続くというものです。それらは力が弱まり、無くなり、外力、作用を受けたりして形が変わったりするまで同じことが続きます。

客体側の母音の世界は主体の活動がつづく限り同じ世界がつづきます。

最近では毎年毎月新発見があるような星空宇宙世界も、一つ一つの発見が続いて、その発見によって宇宙が進化しているわけではありません。

対象相手となっている純粋な客体宇宙は、それ自身の運動をしていきますが、人の目の関心事に応じて一つ一つ姿を現していくのです。関心事が閉じられた範囲内でその時の宇宙の姿となっていきます。同じことは好きな人にも好きな食べ物にも、主体側のかかわり伊耶那岐のかかわり全体に当てはまります。

主体の関わりが与えられるために相手対象が出てくるのです。主体側は能動の側に立っていますが、客体側は能動側の手が加わるまでは、未知未定の世界です。それでも客観世界があるじゃないかといわれますが、誰かが手をいれてくれるのを待っているだけの世界で、古事記の言葉で言えば「子の一木(このひとつけ)」で、一連の現象となっている世界です。吾(あ)の目が付いて地に成る以前のことで、心を扱う以前のことです。

しかし、主体側の能動的な動きは、意図的意志の現れとなって発動しますが、実は主体側自身には何も手持ちが無いのです。各人は誰もが自分で自分の意志のもと、行動をして考えていると思っていますが、その元を正すと自我も無く自分のものというものも無いのです。有るように思われているのは記憶概念、経験概念で、それらの過去知識をあれこれしているのです。

つまり主体というのはそういったことを無限に受けいれることができる宇宙と同等な客体なのです。これが私という元の姿で、その宇宙全体性を持っているのが人間なのです。別の言葉で言えば人間とはまず母音なのです。

3-母音の発語。

宇宙が客観母音であり、人間が母音であるなら、人間はそれを真似て発語しようとします。

世界中で母音の種類は多くありますが、赤ちゃんの最初に発する言葉以前の発音は動物の唸りみたいで分けの分からないものです。その始めは単音のうーとかあーですが、発語と一緒に手足や表情をみていると何らかの意志と伝達と創造と自己了解とかがあるようにみえます。そのにこやかな顔を見ていたりすると、つまりここに心があるようにみえます。わたしたちは確かにここに心の世界が動いていることを感じますが、分けが分かりません。

手足の運動を発語の用に見ることもあるようですが、言葉以前の位置づけでしょう。赤ちゃんの行為は全く自分勝手で自発的です。赤ちゃん自身で心身共に丸く収まっていて自分自身で完結しています。そこが可愛い赤ちゃんの全世界に対する強みです。しかしそこには宇宙と同等な客体という性格は無く、その自己完結性を躾けや教育で、過去概念を植えつけつつ宇宙の全体性を持つ人に変化させてゆきます。

そのためには赤ちゃんは共通の母音性を持つ人として、自己完結性を全分野で否定されていきます。つまり発声発語、手足の動き身体の動きに名前が与えられ、まるまる自分を現すものからの脱皮を迫られます。当初の手足のバタバタとウアアーババは赤ちゃんの自己表現でしたが、大人はそれらを一つ一つ否定していきます。

それによって赤ちゃん側も単なる自己表現だけだったものから、相手に通用する自己他者、自他表現にでんぐり返しをしていきます。大人は赤ちゃんを笑わしているつもりですが、赤ちゃん内では自己完結した手足の生理運動だったものから、でんぐり返しをして、大人の反応を引き出し自分を満足させるように仕向けているのです。こうして赤ちゃんも主体性を持って、大人をもてあそぶことを覚え、自他との社会的な運動へと変換脱皮していることになります。

4-母音世界の心での反映。

ですので母音の世界が心に反映するときには、こういった母音世界がそのまま映ります。赤ん坊をあやす母親は子の話すわけの分からない言葉を受け取りくりかえしています。当初は赤ん坊が母親に言葉を教えています。

それらを反映した言葉も、母音世界、母音世界の心への反映、心の母音世界の言葉での表現というように元の母音世界を反映、表現したものとなります。大人はまるまる自分である赤んぼうにはかないません。

例えばここで言うことは赤ちゃんの笑いの、その様子を分析して、少し笑っているとか声を出しているとか何が嬉しいのかといって概念を探すことではありません。喜怒哀楽様々ありますけれど、それらの相違を挙げるのではなく、そこから受け取る持続を自分が持つことに関することです。

しかし、音楽で言われる基底音、トーン、主題を赤ちゃんに任すことはできません。社会生活の個別分野がそこに乗ってきます。子音分野の強制です。

子音の場合は気道が塞がれますので塞がれた分だけの反圧が腹にきます。そこから子音特有の反圧の意識が発生しますが、母音は出っぱなし出しっぱなしです。腹に蓄えるものが無く子音が産まれることがありません。あるだけあるありっぱなしの世界になり母音とはそのような心持ちになります。

13-2-2。腹母音。今とは。母音と宇宙世界。

5-母音世界の産まれる様子。主体側。今とは。

一言で母音世界といっても観点の移動によって様々ですのでここでは発生時を取り上げます。言語学は発生してしまった発音現象となった発音とか発語を整理分析していきますが、ここではそれらになる以前の母音世界です。単音の発生の段階にまで戻ります。変化変形を分析することではありません。

この世に産まれる母音世界をよく見て、自分の意識がかかわっている「今ここ」、という時点を設定しその観点からすると、次のようなことが見えます。

「今」というのは、持続の一点を切り取っただけですのでスナップ写真としては止まっていますが、現実は流れの中にいます。そこで、流れと今との関係があり、それぞれが母音と対応していきます。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、(後にオ)

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、(後にア)

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、(後にエ)、の四態があります。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。(後にイ)

このそれぞれ次元の違う五つの主体側から見られた今があるのです。それに応じた客体側から見られた今があり、それは次項で。

「今」というのはこの五つの主体側の実相の変化をいいます。

単に今という時にはこの五つの全体を指しますが、時場所好みによってどれかの次元をむしりとって、他のことを忘れ観念となった今としているのです。

そこで前述の腹を付き合わせてみます。

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、 今-今の腹、(後にウ)

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、過去-今の腹、(後にオ)

・ 感情を現す時には感情の腹、今-全体の腹、(後にア)

・ これからどうするかの選択をしようとしている時には選択の腹、今-未来の腹、(後にエ)、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、今の持続。(後にイ)

この五つの腹の違いがありました。それぞれの心の持ちかたで、腹に来る腹圧、反圧が違ってきますが、同一次元にあるときは、深刻な疑問と軽い疑問を持つときとは同じ反圧で、強く決意するときと軽く決めたというときもその重要さにかかわらず同じ腹圧です。

そして後に、これらの腹の反圧が作用しての声帯の開き方も、八百万の事象があるにもかかわらず、原理要素は八つしかないのが発見されました。母音だけでは子音ができず、子音によって現象が起きます。父韻の項で後述。

例えば今と言った途端に今でなくなるとか、時間などなく今があるだけとか、言われますが、今というものがあってその観念のことをいっています。それぞれ全部正解ですが、言うことが観念ですから現実の心の動きからすると大いに忘れ物があります。

今と言った途端に今でなくなるというのは、子供のわがままを忘れています。欲望の実現は、今頂戴、すぐ頂戴ですが、それをいっている間を通して常に今です。腹減った腹減ったと言い続けている間中今です。欲望に対して今と今言ったからもう今じゃないなどとは通じないのです。

時間など無く永遠の今がある、などというのは、自分の使う記憶概念の言葉が過去から出てきた未来のない不毛な言葉ということを見れば、時間はあることも分かると思います。

またこういうのもありました。「今を、個人の意志とは無関係に変化する事態と定義」したひとがいます。これはそこに書いてある通り創造意志が無いというのですから、それでは今も無いことになります。

さて、以上は主体側から見たものですが、ここに母音世界は産む側の世界の主体側、見る側、動く側の世界ができてきます。つまり、鳴るという行為、動き、動詞の働きに対して、その現れができます。

古事記では「神」という言葉の後に「命」が出てきますがその関係と同じです。別に言えば、働きとその現れということになります。「神」という時には、必ずその前に命の働きがきます。「男の命」も同じ表現です。

ですので、神だ神だと言っても、その実体を捕らえただけでは何の働きも無い絵空事になり、何も示せないのです。これは神を主語として神が何何したと言い直さなけばならないはめになります。言い替えれば神はなんだこうだと勝手に神の属性を当てはめてもよいことになり、解釈も勝手気ままになってもよいことになります。なぜなら実体内容を捕らえても、働きかける動因がないからです。

古事記はこういった人間精神の構造からくる間違いを最初から指摘していますが、気付く人が少ないです。「天地の初発の時高天原に・成りませる・」といって、どの文章も同じ構造です。主体側の意識の働きかけによる成るなのです。

そして、その後で、成る側、鳴りを受ける側が現われます。

6-母音世界が産まれたことが収まる様子。客体側。

前項の産まれる様子はそのまま産まれたことが収まる様態となります。

前項の母音世界の産む側の世界、主体側、見る側、動く側の世界はそのまま産まれる側、客体側、見られる側、の世界となって現れます。

客体側の「今」の様相は今の固定された関係として現れ、関係を受けるものとして待ち受け、待ちぼうけの中断を客体側の「今」といいます。「成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)」がれることが客体側の今となっていきます。

ですので、「今がある」というのは上記の五態に応じて、「今があった」五態がでてきます。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが(今ある)今あった、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、いわば、 (今あるあった)今-全体となった関係、(後にア)

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 (今ある今あるだろう)今-未来となった関係、(後にエ)

の四態があり、

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)

まぐあい。

このように5と6の今の主体側客体側の一二三四五はそれぞれ対応しています。この両者が合わないと主体側の意図の実現はありません。鳴り鳴り鳴り・・・で、何がどのようになっているのかが、客体側の形として現われないと成り余れるというわけです。

7-前記の対応した母音世界は心に昇ってきます。

前記の対応した世界がまぐあい(和すること)に成功すればそこに成果、子、が産まれます。出来ごととして内容が確定します。やはり同様に上記の対応に沿います。

一、産まれようとしているものが今産まれる、この世界は後に言霊ウ、五感感覚による欲望充足、となって後に産業経済の世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。

二、産まれようとしてあったものが今ある、この世界は後に言霊オ、経験記憶概念知識、となって科学技術の経験の蓄積の世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態とがあります。この世界は後に言霊ア、感情の世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。芸術宗教となり、前記を超えた悟りなどになります。

四、そしてそれらの上にさらに今あるものがこれから動こうとしている、この世界は後に言霊エ、按配選択となり、道徳、政治、実践行為へと向かう世界となっていく事象を生みます。そしてその事象を反映する心の世界が産まれていきます。

五、ここは後に言霊イとなる意思の世界、そしてその事象を反映する心の世界になりますが、意思は前記四項とは違って自らの形を作りません。前記四項を借りてそれのベースとなって縁の下の力持ちになります。

ここの項目が後から出てくる蛭子、淡島の実体です。人の意識と意識の対象を前もって一般に流布しておくわけです。

8-対応する半母音。

以上のそれぞれ収まる四つの世界が言霊ウ-ウ、言霊オ-ヲ、言霊ア-ワ、言霊エ-ヱとなって対応象徴されます。ウオアエイに対応した半母音ウオアヱヰの世界となります。

ここでは言霊ウは共通です。産まれようとしているものが今産まれるのですから、産まれようとしている欲望は産まれるものと同じです。五感感覚からする欲望、今欲している欲望をそのまま実現し生むのですから母音も半母音もウとなります。

言霊オ-ヲの場合は知識概念記憶の世界ですから、産まれようとしてあったものが今産まれますが過去の経験概念記憶に今という形が載っかかっていますので、一応、別の、新しい、自分のという形をとった、今の知識という形で産まれます。

全体を見渡す言霊アは感情情緒の世界で一挙に事情を識別でき、ウオの次元を率いることはできても、エの次元での選択を知らないので未来までは決定できません。ア-ワは一般的抽象的、全体的、心眼、という形になります。

言霊エ-ヱの場合はもっぱら今が按配され選択されて未来へ向かう形になります。エはウオアの次元を全て超えて了解可能で、指針となります。エの選択次元では、その決定にはウオアの次元の程度段階が反映しますので、知識があればあるだけ、無ければないなりの判断しか出てきません。また逆に言えば、各人の判断選択はそれぞれが最上最高を主張しますが、もともと持っていた知識次元の表明に過ぎませんから、当然のことです。

そこで、最後に登場するのが言霊イ-ヰの意思、霊の世界です。後の伊耶那岐の神の段で述べられます。

13-2-3。腹母音。母音が現われる為に。

9-母音世界と心の架け橋。

さて母音世界が心に昇ってくるといいましても、その実在の根拠がいります。

それが呼気を感じる心、意、気です。呼気は肺、口から息となって出ていくだけのものではありません。呼気の流通のコントロールはそれぞれの民族のそれぞれの言葉の違いとなっているものです。

多くの場合は単に生理的な吸気と排気が声帯を震わすというだけの理解です。

ここに古代大和の聖人は驚異的な全世界的な全人類的な大発見をしたのです。五千年前以上のことでした。

呼気の流れを心に合わし、心の内容を呼気を発声し発音するという形で表現することを見つけました。それが呼気と心の一致になり、そしてこの心と呼気による発音の一致を実現したのです。

つまり発音することがそのまま心の内容を現すことになったのです。

前項で「今」の五次元を紹介しました。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)=五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、 今-今の腹、

二、産まれようとしてあったものが(今ある)今あった、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)=知識を経験を問題としている時には知識の腹、過去-今の腹、

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、いわば、 (今あるあった)今-全体となった関係、(後にア)=感情を現す時には感情の腹、今-全体の腹、

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 (今ある今あるだろう)今-未来となった関係、(後にエ)=これからどうするかの選択をしようとしている時には選択の腹、今-未来の腹、

の四態があり、

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)=意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、今の持続。

ここで五十音図を思い浮かべてもらいますが、母音の並び方は、上に書いた五次元の欲望-知識-感情-選択-意思に沿って下からウオアエイになります。これは人の性能の自覚的な向上を現しています。

しかしこれは人間性能の時間的な成長を自然な流れとして見たものではありません。時間の流れにコミットする主体的な意識の過程ですので、欲望と知識次元の世界は普遍的に持つことができていますが、欲望と知識を統括して経験感情を持って人と対応するのは余程の悟りの心が要ります(ア)。

さらには全体を見通す感情の目を持ってしても、未来の選択按配はできません。悟ったという者たちはいつでもたった一人での経験感情の中から出られません。ここから先は言霊エの次元世界になります。わたしも教科書を丸写しするくらいしかできません。

さて、この五次元の今が、主体側(うおあえい)あ行、客体側(ウヲワヱヰ)わ行の母音行に対応していきます。

そして主客の間のあ行わ行(あわ路)の両者を結ぶこころの架け橋があります。主体側が客体側を訪ねて橋を渡っていくのです。

例えば、われわれは画面を見ていますが、見る主体と、見られる客体画面と、その両者を結ぶ視覚とか空間距離とか眼鏡とか頭脳内了解とかが仲介しています。この三者が揃うと見る見たという現象結果がでてきます。

ただしこの説明は物象となっている物の形で説明しています。主体側とは私の心で、客体側は心の相手対象で、橋を渡るは心の動きです。心の態度です。

それらの心の現れが物象となり、物理的な作用反作用の科学現象になっていくというだけで、このような客観世界を扱おうとするものではありません。

この橋を渡り訪ね見る心の態度の仕方に古代大和は八種類の違いを発見したのです。あ(主)-わ(客)の両端の中間に八種があり、あ行わ行の意識の実在世界と実在世界の対象が5+5で10、中間の渡る橋板が8×5で40、の全部で五十音、アイウエオ五十音図ということになります。

こころの動きは無数にあるように見えますが、突き詰めると八つ、心のあり方は五つしかありません。古事記の神代の巻きにはしょっちゅう「八」がでてきますが、全てこころの動きの八種を指します。ひふみ神示、その他の古文献にも八の象徴がよく出てきます。

この八種は母音の実在世界に対応するものではなく、こころの、動き、かかわりに関するものですが、大雑把にどういうものか示しておきます。詳細は父韻の項です。

例えば、テレビ画面を見るときならば、画面を見る見方、考え方、了解等の仕方の八種ということになります。普通、テレビを見ると一言で言いますが実は以下の八種をごちゃごちゃにしていっているだけです。

テレビを見るといっても見ている現象でなく、見ている現象を生む、見るに至らせる自分の心の宇宙が主語です。つまり自分が見るというのは、心の宇宙が自分に課した現象ですので、その元となるものを見るとして探していきます。

1(チ)。スイッチを入れたり画面を変えたりする時の初動を見る時みたいに、全体を見ているだけで個別的なものの判別以前の時。トォーッと全体を見る。自分の心の宇宙が自分をしてテレビの画面全体をみさせている。

2(イ)。全体的な画面が持続して眺められているだけで、個別的な判別をしていない時。シィーッと見る。自分の心の宇宙が持続する全体を見させている。

3(キ)。画面の存在を認識するが、その内容のなんたるかを自分に引き寄せる時。コココココレコレと見る。自分の心の宇宙の関心事に従わさせられて、画面の関心のある部分を見ている。画面の大小に関係なく画面の全体は視覚内にあっても焦点の合ってるのは関心のある部分だけ。

4(ミ)。自分の心の宇宙に引き寄せるように、心の宇宙に実が結ばれるように見る。モリモリメキメキのその端緒の自己充実していく感じを得る韻(響き)。

5(シ)。自分心の宇宙世界の中に静め込もうとする時。サッサセッセと見る。静かな状態を作りだそうして心の宇宙に取り入れるようにして見る。

6(リ)。自分の内部が拡がっていくように見る時。リャリャリャリャッーと見る。5(シ)が内部に静まる方向を取るのに対して、6(リ)は渦や水面の同心円や竜巻の中心が全体に拡がる力動因となるように見る。

7(ヒ)。自分の外部輪郭が輝くように見る。ホッホーと見る。自分の意識内容の周辺だけが明るくなり分かるときがあり、そのように見ます。

8(ニ)。自分が煮詰まり何かが抽出されるように見る。何々ヌヌッーと見る。自分の中心に閃くというような、自分の中核が形成されるような見る。

この八種が実在の五次元の今と結ばれると「見る」というそれぞれの現象になるのです。見たい見たいは見ることで実現しますが、どのように見るかどのように見ているが、この八種になります。寝ころんで見ていてもその内実は上記八種のどれかになっていきます。

面白いことに、「今」の五次元に関しては、次元をわざと混ぜ込んだ、質問集として禅問答がありますが、この八種を扱う問答集は仏教、宗教、の教えを超えているのでありません。(昔、仏陀が大和に勉強に来ましたが、教えを受けられませんでした。竹内文書。)

古代の世界の思想や中国の考え方に、五大、五行、五要素、五元素、五大天使等があります。これらは実在世界の表徴となっていて、どれを使っても上手い具合に実在世界を五つの内に分類して説明できるようになっています。

フトマニ言霊学の五次元は、古代の五つに分ける思想の原理となっていたものですが、個々の八百万の現象が起きる原理は大和に来た諸聖人たちにも教えませんでした。というのも後の世界歴史の運用を考えてのことで、例えば小学生に相対性理論の運用法を教えるようなものでしょう。

古代において歴史の成り行きを解明してしまっていたといっても、心の、人間の、歴史のヒミツを全部白状して書き残しておくことはないのです。しかし、せっかくの宝物を忘れてもらい無化してもらっても困ります。

((以下は、括弧内のこと。その大本は古代大和の聖人が世界にばらまいたものですが、いつか証明されるでしょう。

さらに凄いことにはこの原理を用いて大和の言語体系を創造して、そこから社会を創造していきました。心の動きと一致した社会は政治の動きとなって旧約にも言葉は一つであったとある通り大和言葉による世界語の地位を得、世界の統治もスメラミコトによって行われていました。

これらのことはどの人類も成し得ず未だに手付けられずにいます。

これが全世界に散らばる各種分野での日本文化、日本語との関連性共通性です。今までは日本が世界から学んだものとして扱われてきましたが、歴史的に時間的に疑問をもたれている関連共通事項があり解決できませんでした。実は歴史をさらに遡ることにより古代大和からの逆輸入であることがわかるようになりました。そして歴史の始めの動きに関しては大和日(霊)の本が発信地となっています。ことにユダヤとの関係も大和から発進したとする立場で全ては解決されていくでしょう。

そこでわれわれ大和の日本語を話す人たちは元々が、世界歴史のなかで特別な次元にいることになりますが、世界歴史の運用はスメラミコトの経綸の手元にあるとだけ言っておき、詳細はそれぞれの分野の方が実証されるでしょう。

さて世界との架け橋が発見されたことをわれわれは追体験しなければなりません。

全分野においてなされなければなりませんが、大和の日本語を知らないと理解できません。単なる学問知識なら翻訳で伝えられますが、こころの運用も含まれる全世界を運用理解するには言霊学が必要となります。

大和の日本語以外の構造では、母音-半母音を結んでの輪、環、和を創る構造がありません。そのため経験知識を利用することが得意と成りました。しかし現代では経験の整理では追いつかないことだらけです。

これを導くには三種の神器の使用法が公開されなければなりません。三種の神器はその精神機能を発揮すれば世界を運用していくものとなるのですが、理解者がまだ出現しません。その為の二千年間も寝かされた秘密が古事記の神代の巻きの内容です。))

古代ではたったの五要素でこの世界を説明してしまいました。易、占いの世界では今でも必死で固執し続けています。

古事記にもとりあえず一般世界の説明の仕方は五つにして世界に流布したとありますから、その当時までは古代世界の記憶は伝承されていたのでしょう。(蛭子の段落。)

13-2-4。腹母音。母音が現われる為に。

10-呼気と心。

心と母音の世界に架け橋を見いだしました。それはこころの運用ともなり、言葉の発音ともなり、政治の運用ともなり、世界の運用ともなるものであります。

それは主体側の意思、自らをいざない、相手側をいざなわせる、実在の呼気とその圧力、ひびき(韻)となる律動です。

古代大和において目前の精神と物質の実在世界をみたときに、実在世界が心に反映されることを知りました。視覚が自動的に視覚像を眼に結ぶという生理現象次元を超えて、自覚的な意識現象の解明を目指したのです。

腹減った何か喰いたいと感じたときとか、日の出日の入りの場所が毎日どうしてずれていくのかと疑問を持つときとか、太陽の輝きの有り難さを感嘆するときとか、今日はどこに行こうかとか、様々な実在世界に関与しようとするときそれぞれの呼気があり、それぞれの発音があることに気づいたのです。

日の出の輝きの素晴らしさ、夕焼けの美しさを見る時どの民族も、ウーーーだとか、エーーーだとか言って見ません。ここが解明できれば世界は一つの言語で話し合える基礎があることになります。旧約聖書には単一言語であったと述べています。

そこで古代の聖人たちは寄り集まり研究を続けました。一代二代どころか数世紀に渡った追求だったでしょう。

その後のそれを数千年間言い伝えられた様子と思われるものが古事記に残っています。

天の岩屋戸の章です。ここでは八百万の事物と精神の収拾をして、聖人が集まり、その整理をまず、常世の長鳴鳥(常なる世界の鳴き止まない母音)を集めて鳴かしめてとあるように、まず母音を分析整理していきました。常世の四つの心の世界、長鳴は母音がいつまでも鳴り合わないこと、鳥は十の理で四つの母音世界を十の理(父韻のこと)で解することです。

事物と発音の関係を究理していくうちに、まずイシコリドメの命に鏡を造らせます。イシコリドメは意思を凝り留めるということで、意思精神意識がものに関わり合うときの形を見る為の規範(鏡)を造ったということです。(堅石と金山)

この規範(鏡)が心(意思)の発現と一致するまでに何べんも何べんも研究し直されたことでしょう。(鋳鉄の譬喩で)

そして少しずつ形を整えていきました。玉祖の命は物事経験記憶事物の連続連関(言霊オとなる)、天の児屋の命は感情情緒喜怒哀楽の心(言霊アとなる)、天の手力の男は実践行為の選択按配(言霊エとなる)、そして天の宇受売の命は五感感覚からする欲望(言霊ウとなる)の整理が成り、最後に完璧な創造原理となる鏡である天照ができました。

古事記の神代の巻は精神の原理を扱ったものですから、実を言うと、岩屋戸でこうこうこう言っているというのは、呼気と心の関係だけでなくすべてのことに当てはまるのです。このネタをばらす前に上を読んでいくと本当のように感じてしまったことと思われます。このように神代の巻の適用はすばらしいものなのです。

後は皆さん各自でどんな問題にでも神代の巻を開いて該当させればいいだけです。

人は今のかかわりによって世界と関係を持ちます。世界の有り様が五態あるということは、私の世界へのかかわりも五態あることになります。私はここの世界にいるという時、朝日を見ようとするときも、その五態において見ています。日の出の燭光を見ようとする意識の始めだけを取り上げているで、爆発があってコロナが発生して携帯が通じなくなるというような、連関する知識を考えようとするものではありません。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)=五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、 今-今の腹。燭光が現れようとしています、この人の今は、陽の光を早くみたい、あるいは始めの一条の光線が見たいからゆっくり超ゆっくり光を放って欲しいというように、自分の欲望の実現を暗い山の端に向けて、じっとその場所を見ているでしょう。

二、産まれようとしてあったものが(今ある)今あった、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)=知識を経験を問題としている時には知識の腹、過去-今の腹。昨日はあそこからだった、今の季節はあの辺から昇るはず、陽光が顔に射す時には何度くらいの変化があるだろうかとかの、過去概念から来る知的疑問の解消や知識の獲得が主要なことで、光を見たいという思いや欲望とはまた違う別の意識を持っている。これはしたいやりたいとは別の次元にある。

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、いわば、 (今あるあった)今-全体となった関係、(後にア)=感情を現す時には感情の腹、今-全体の腹。今この場にいて自分の存在を自分に納得させる現にいる意識を保持している。燭光の見える瞬間を待っているという自己存在を自分に保証しているもので、その内容になる見たい等の欲望や疑問の観念を持つこととも違う、存在感情次元を形成している。

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 (今ある今あるだろう)今-未来となった関係、(後にエ)=これからどうするかの選択をしようとしている時には選択の腹、今-未来の腹。前記の自分の存在感情のあり方が納得できていると、見たいという欲望をどうするか、疑問の持ち方解決の方向はこれで良いのか、等が見えてきて、ここで燭光を見るという選択肢の中に自分がいることが了解できる。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)=意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、今の持続。上記の意識を発動させ、それぞれの次元を形成するベースとなります。

このように心の実体は実は五つのうちのどれかから始まり、変化複雑化していきます。

ここでは心の五つの次元といっています。次元が違うと立場が違うので、同じ朝日を見ても次元の違う人同士では話が通じません。同じ土俵に立っているならば、こんどは量的な違いや、視角の違いが強調されていきますが、次元の違いの場合には根本的な相違が生じます。

13-3-1。腹母音。五次元世界の成立。666。

ここで無謀なことに五次元世界を生んでみたい。

人は五次元世界で息をして生きています。ということを言われるとウソなのか本当なのか、何故五次元なのかの説明されない限り分かりません。次元という言葉を使ってあらわす世界は様々で、どの世界のことを言われてもウソか本当かが分かりません。

次元という言葉そのものが概念の説明には便利です。が、何を示すのかがはっきりしていないし、ことに次元間はどうなっているのかの、聞いても分かりません。古事記では「累積(つも)りて」というように、層を作るもので示されています。現代では次元というのが一般的なのでそのまま使用します。

次元の示すものは、古事記で言う「累積(つも)りて」からすれば、重なりとか層とかの意味に近くなります。生きる=五(い)きる、息=五気のように、五層の積もり重なった世界に息して生きるということになるでしょう。

五層が次元のことだというのなら、その五層しかないところを作って見せる必要があります。霊界は十次元だ十二次元だと幾らでも勝手なことが言えますが、誰も十の次元を見せてくれた人はいません。

心は五次元だというのなら、古代で五を使用した思想のように、何でもかんでも五に押し込め当てはめてみることが全く正しく当然にならなくてはなりません。

そんなことができるでしょうか。

吾の目が付いて地に成ることが人間の全てです。フトマニ学では、言霊ウとされた五感感覚からする欲望実現世界、言霊オとされた記憶からする記憶知識の過去概念を扱う理性実現世界、言霊アとされた感情情感からする情緒感情の世界、言霊エとされた選択按配の智慧からする実行按配の実践智慧の世界、言霊イとされた意思の発現からする意志意図の創造世界、の五つの総体とその動きを人としています。

人間には五次元世界しかないというと、人間世界の材料を集めてを整理分析して五次元を探すことになりますが、五次元と言われて五を探すのでは元ある五を五だというだけのことです。そのように精神を運用してもあったものをあったというだけ、パズルのように出来上がっていた絵をばらして元通りにしただけのことですので、精神によって創造的な仕事をしたわけではありません。この思想を666と黙示録やひふみ神示では述べています。

666は人の思考行為の形を象徴的に言ってます。スフィンクスが朝に四本足で歩き、昼には二本足、夕方には三本足で歩くのは何んだと謎々をしかけましたが、足も朝昼晩も象徴表現であるようなものです。スフィンクスは人間の肉体の形を言いましたが、666は人間の精神の形を言っています。その形を見たときには6と言えますが、象徴内容を知らずに6を探しても何もありません。

666の出所は『新約聖書』の『ヨハネの黙示録(13章18節)』に記述されています。以下に引用すると、「ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である」。

人間を指したものですから、人間の精神の運用が「獣」となることを解けば良いのです。ひふみ神示でばこれを肉(にく、似せて組む)を食べるといったり、汚い(きたない、気の田が無い)北から攻められるといっています。また別の箇所(白銀の巻き-1)には八つの世界前半の三角で示された図形文字として載っています。これらは全く同じことを言っていて、モーゼから伝承されたものか、キリストが古代大和で教わったものでしょう。

五次元世界を成立させ、そのまま流通させる思考法が666ですから、それを取り入れつつ止揚できるかやってみましょう。

これも実は古事記の記述に沿って書いていけばそのまま666になっていき、でんぐり返しして自覚的に続ければ666の不備を止揚するということになります。ということで冒頭に無謀なことになどと書きましたが、実を言うと上手に真似できるかどうかというだけです。

666の実体は各人の思考の運用法です。6の使用は象徴比喩ですから、5の次、7の前という意味も6個の何かの固体ということでもありません。

まず帰納演繹法を見てみます。

演繹法は一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法です。

代表的な手法に、大前提・小前提・結論による三段論法があります。

(例)

大前提(一般的原理)「人間は死ぬ」

小前提(事実など)「Aは人間である」

結論(個々の事象)「Aは死ぬ」

帰納法は個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一般的原理を導く方法です。

(例)

事例収集(個々の事象)「人間Aは死んだ。人間Bも死んだ。人間Cも死んだ」

因果関係(本質的結合関係):「人間だから死んだ」

結論(一般的原理):「人間は死ぬ」

ここに各々三段論法と言われるものができています。3と3で6です。また、帰納演繹ともそれそれに形而上、形而下を扱いますから、それぞれが3×2で6、行って帰って6です。3は象徴的に△▽になり、人の思考法となると両方を合わせて、カゴメマーク(ユダヤマーク)の6になります。弁証法の言葉を使えばそれぞれに正反合を持った意識の仕方になります。

カゴメの頂点は6ありますが、自らを反省して自らを導き出すには、自らの帰納演繹を使用しますから、形而上形而下の正反合の各頂点に対して6つ、全体で6×6の36です。これが一番目と二番目の6の意味で、6を使用して6で結果を出すと36個の6になるということです。

別の言い方では、帰納演繹ともあった現象の世界を捕らえて構成されていますので、あった現象の捕らえたが正反合の帰納演繹で最初の6、その運用が6に対して6個づつあるのが二番目の6で、36個の運用法がでてきます。

そして運用後に出てくる形而上形而下の成果となるものが6の結果で、三番目の6のことになります。こうして三つの6の成果ということで、みっつの(三)ろく、ミロク、666、弥勒となりました。

黙示録では弥勒ではなく、獣の数字、それは人間だといっていますから、人間が人間である所以は知性を持つことですが、実はそれが動物的な運用法だということになります。自覚的な理想的な思惟活動ではないが、当然のものということです。

帰納演繹法には欠点がありと、どの解説にもありますが、要するに、あったものを、あってしまった現象をそのままに取り上げることが、欠点といっています。

これは欠点というより思考法の本姓に根ざしているもので、生物的に物を見れば物を見たとするメカニズム、目を開ければ物が見えるというような、そこにあるものをあったとする思いから来ています。簡単に言えば始めの選択が恣意的であり、終わりの結論が時空の流れに基づかないというものです。

この生物的な本性をもった思考法を、人間的な意識的な思考法に変換するのが古事記の神代の巻きの記述です。いわはカゴメ思想、666(弥勒)思想から、人間思想へ禊ぎを経て転換脱皮 するわけです。それにはあったものを扱う世界から、成るもの生きて成る物の世界にいくことなります。

そこで今回のテーマはまず、ここにある-あった世界をつくることです。それが五つの層となっていて心は五次元で成り立っていることを追体験することです。その後成る-生きて成る世界へ向かいます。

666法でいきますと、あったものの世界から始まります。あったものを意識する人間主体側もあったもので対応していきます。欲望であるか知識であるか感情であるか、何にしろその人が持っているものが、応対に出てきます。当然そうでなければ相手を認識できません。

そうするとここに既にあったもので応対している心があることになります。色眼鏡を通しているのがわかります。色眼鏡は悪い意味で用いられていますが、日常茶飯事のことです。この無意識的に出てきてしまう応対する心に待ったをかける手法が古事記です。

しかし、待ったをかけて応対するにしろ、無意識的に反応、作用反作用して応対するにしろ、いずれにしても事は成就していきます。そしてここにまずできるのが五次元世界というわけです。

666か、かごめ法なら材料を集め資料をため判断素材の量が物をいいます。コンピュータのようにどんどん物を詰め込める方が勝ちに早く近づいていきます。ところが古事記法では素材を直接前にして事が始まりません。どうするかというと、オンかオフにするだけです。ですのでオフにされたコンピュータなんてゴミにもできないものになりますが、オンにする使い方を知ればいいのです。

あったものの世界では成るものの世界は扱えません。

13-3-2。腹母音。今と五次元世界の成立。母音の並び。

成る世界、成って行く世界を辿るため続けます。

論考が細かすぎるので所々に整理を入れておきます。

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、

・ 感情を現す時には感情の腹、

・ 困ったことどうするかの選択を使用としている時には選択の腹、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、

この五つの腹の違いがありました。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、(後にオ)

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、(後にア)

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、(後にエ)、の四態があります。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。(後にイ)

現実に流れている今のスナップショットはやはりこの五つに分かれました。

このそれぞれ次元の違う五つの主体側から見られた今に成っている、今に成っていく今があるのです。それに対して、受動側の客体側から見られた今があります。今そこにある世界で、今そこにあったことが了解される世界です。

一、産まれようとしているものが(今産まれる)今産まれた、いわば、 今-今となった関係、(後にウ)

二、産まれようとしてあったものが(今あった)今ある、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)

三、それら二態が一挙に俯瞰された状態、今あるあったいわば、今-全体となった関係、(後にア)

四、そして、今あるものがこれから動こうとして産まれる、今ある今あるだろういわば、 今-未来となった関係、(後にエ)

の四態があり、

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造受動意志が今の全てを貫いています。(能動受動の)今の持続。(後にイ)

問題はこれらの一つ一つを成立させていくことで、心とは五次元世界のことであることを示したいのですが、ここでは今とか世界とかの実在世界しか示すことができません。心は創造的に動いていくのに、その動く心の方面は、実在世界として示すことはできず、また別の項目になります。それは後に父韻と呼ばれる項で説明されます。

ですのでここでは心があるという実在世界を扱いますが、心が動いていく世界の話ではありません。つまり動く心の実在できる世界のことになります。心が動ける実体となっているせかいです。

心の五次元世界が五つ(欲望、知識、感情、選択、意志)あるということは、それぞれが個別の次元層でありながら、各次元はそれぞれ五次元を内包というか重層構造を持っています。そうでないと欲望次元は欲望しかないことになってしまい、欲望に付随する他の次元世界が行方不明となります。

欲望の世界ならその次元内で他の次元の関心の程度度合いが違った形で現れます。欲望を中心とすれば、経験知識判断内容よりも、直接に欲望に応じた選択の方が重要になるようなものです。子供が欲しい欲しいというときなど、欲している物の知識など関係無く、自分の選択を主張するようなものです。また、欲望が中心となるときには、自分の意思の発露が重大な関心事になって、感情的なこと芸術的な価値とか宗教的な畏怖感とかは考慮されません。これはどれを中心とした次元を構成するかで、他の次元の位置が変化していくことを示しています。

これを各次元での母音の並びとして記しておきましょう。

欲望の次元はウを中心として、アイウエオ、(これが学校で教わる順位)

知識の次元はオを中心として、アイオウエ、

感情の次元はアを中心として、ウオアエイ、

選択の次元はエを中心として、ウオエイア、

意思の次元は自由自在に現れるので固定できない。

次に、例として、カゴメ(666の正反合)の世界ではあったものから出発しますが、あったものをあらしめる主体の自覚した関わりと、客体の受けいれの統合された、ある-あった世界の五次元を見てみましょう。これは言霊で言えばエの選択按配の智慧次元で見られたものです。

ここでは、エを中心としたウオエイアの次元を重層的に内包しています。従ってここでは、選択のエを中心とするのでその為のよりよい選択には、欲望の有る無しよりも、経験知識がより近く選択のそばに置かれ、より確実な選択を実行するには、感情情緒よりも意思の有る無しが選択により近い位置を与えられることになります。

次に、今ある意識をエの選択を中心とした場合を見てみます。

エ(選択)を中心とした今-あるの各次元層とのかかわり方ですが、母音の記載はエを中心に冒頭の順位を入れ換え、アイエオウになります。

解説中心のエから始めます。

エ。 今あるものがこれから動こうとして産まれる、今ある-今あるだろう、いわば、 今-未来となった関係、後にエの世界ですが、主体側の自覚のあり方によって同じ今の様相が違います。

自覚のある場合には、自分の今あることがどちらに転がるか分かってますので、今ある-今あるだろうの関係は明るく肯定的です。

自覚の無い場合には、不明不安定となります。というのも出てくる結論が肯定的に見通せないからです。

選択はあっても、自覚がないときには経験の応援を求めます。またあるいは経験知識に関わらず突進する意志を求めることもあります。意思の肯定によって選択が肯定されたように思えるようになることあります。

ところが、選択に対する感情の世界はあまり重要視されません。肯定的否定的に感慨をもようされても選択に変化はでにくいのです。同様に選択したい欲望は、未来に向かう選択からすると後を追っているように見えて、いちいち構ってもいられなくなります。

今を成そうとして、例えばパソコンのスイッチを入れるときでも同じです。電源を入れるにはなにも考えないで入れていますが、新品に初めてオンするときなど、うまくいくか不安で不明なときがあります。

オについて。その他は省略します。

今あるものが産まれようとしてあった。今あった-今ある、といういわば、 過去-今となった関係、(後にオ)で、自覚のある場合には、過去と結ばれた概念知識であることが分かっています。そこに自覚が無いと、頭の中にある事を何でもかんでも喋りだすということが起きます。そんな場合でも思いついたことや時間的な経過がありますから、自分で考えたことを喋っているつもりになっていきます。

アイオウエのオが中心で、オの発現は上に書いた通りですが、今あったことを出す世界ですから、まずそれを出したくてしょうがない、欲望や意志がすぐ隣に控えています。自覚が無いと覚えていると知っていることがどんどん出っぱなしになります。感情も選択もひったくりもありません。自覚があれば直ちにストップがかかるので、選択、感情方面へも気遣いができます。

このように自覚の有る無しでは様相が違っていますが、ここまででの話は母音世界と呼ばれるものが出てくるというだけです。実際の時の流れに沿った、どのように出てくるかは、後の父韻の項目になります。

ここで重要なことは、どのような出方をしようと、パチリとスイッチを押してスナップ写真の世界ができてしまうことです。それはそのまま記憶され概念化されてリサイクルさていきますから、その次にまた出てきたときには新しい今のような顔が出きるというわけです。

さてそろそろ腹と母音を結びつけなくては成りません。

五つの腹の違いがありました。上記の各母音世界でのスナップ写真を発声にまで導こうというものです。

母音世界はそれぞれが違った次元にいることがおぼろげに分かると思います。それの腹との対応を探そうとするものです。

それぞれの心の持ちかたで、腹に来る腹圧、反圧が違ってきますが、深刻な疑問と軽い疑問を持つときとは疑問ということでは同じです。非常に深刻な表情をして考え込んでも、軽い冗談のような疑問でも知的な疑問を発するときには、同じだけの腹圧反圧しか見いだせません。同様に、強く決意するときと、軽くホイホイ決めたというときも、その重要さにかかわらず同じ腹圧反圧を感じます。ココ見ていきます。

圧は強弱の概念で、言葉の発声の上では強い弱いが出てきますが、そこでの強弱に捕らわれますと、意識の反映している腹圧反圧での強弱にとって変わられてしまいます。現象上の強弱の中にある、基調音基底音(母音世界の音)と意識の関係ですので、充分注意して腹の反応を見てください。

そして後に、これらの腹の反圧の呼気を介しての声帯での開き方も、八百万の事象があるにもかかわらず、原理要素は八つしかないのが発見されました。母音だけでは子音ができず、子音によって現象が起きます。父韻の項で後述。

13-4。腹母音。呼気とこころ。母音の成立。

言霊をチャクラに結びつけたり、松果体や太陽神経叢、丹田、経絡に響かしたり、音霊と称して姓名判断に利用したりしているようです。それらを援護擁護する為に科学的な理論や機器なども利用されています。感じる人が感じるだけでなく事実としてもあると言いたいのでしょう。

母音は子音と違って塞がれる気道がないので、腹への反圧が直接現れます。脳腹丹田に響くと言うのは声帯の響きから来るのでしょう。気道を伝って肺や内臓が震え、大小の違いを感じる感じないはあっても身体全体が発音された世界に同調していると言えるでしょう。その母音の響きを腹部へ誘導して腹から声を出しているようにすることはできますが、腹から声を出していると言えるでしょうか。子音の場合には気道が一旦閉塞状態になりますから、閉塞閉塞子音頭(KaSaNa等の頭KSN)の腹への反圧がかかり、腹から子音の心持ちが産まれるように見えるかもしれません。

母音の特徴は鳴りっぱなし有りっぱなしです。出しっぱなし出っぱなしの母音を心に結びつけるのは難しいことです。チャクラや気を鳴りっぱなしで有りっぱなしの状態を説明しなければなりません。ところが多くの書きものには経験的な気や響きの現象事が主になっていて、母音のようなあればあったで続いていく世界とは違います。

母音の発声は生理物理現象で、小さな声にしろ大きな声にしろ、あーー、と言うとその声は弱まり極微弱になるとはいえ、地球の裏まで宇宙の果てまで際限なく何億年も鳴り続いていきます。ですのでその逆もあります。宇宙から来る生命体からの何億何十億年前の微弱なサインを捕えようというのもあります。

このよう思えば、 数千年前に生きていた人を照らした太陽光線は今も宇宙を旅して今日明日にもあなたの視覚を叩くかもしれません。そこで共感同調し波長が合えば釈迦の顔やマリアの顔を見ることができます。あるいは現代では神と呼ばれている人の声を聴いたりすることもできるでしょう。動物には感覚として人間以上の受容力があります。人間には動物以上の感応同交力があり、精神現象として現れます。

(霊界に行くとか、神を見たり対話するとか、死者とまじわるというのは、そのようなあの世、あっち側の実在する構造世界があるのではなく、精神による感応同交による受容現象でしょう。端から見れば超能力超常現象ですが、人間の世界に元々備わっているもので、同交現象の結果をあちら側に作ってしまった結果、あちら側から来たようにしてしまったのでしょう。人間側に理解できるものとしてしか降りてこないようだし、常に人間に理解できるようなもののようですから、きっと元々人間にあったものなのでしょう。)(括弧内の発言です。)

ただしこれらのことは普通の経験談にあるような現象とするには人の五感は弱々し過ぎます。そこで言えることは母音世界の母韻(音ではない)との共感同交があるのではないかということになります。韻(響き)の共感同交があったことを元にして、後は経験者が勝手に頭の中で造り上げた話が多くなっているようです。

それにしてもそこからすれば、どのような人の廻りにも数千年数億年の地球、宇宙の歴史がまといついているということになります。そして不思議なことに人にはそのような韻(ひびき)と同調する性能があります。またその性能が発揮できないと人としての形を成しません。古事記は共感同交する性能を伊耶那岐の命といっています。イザナギ、誘う気いうことです。

みこと(命)というのは人の働き、性能、それらを表現した言葉ということで、その実践行為をしていく人のことです。命をもって行なうです。

神というのは人の行う行為の原理原則やそうしたものとしての実在、ひいてはそれらを奉り揚げたものです。ですので神は簡単に持ち上げられ拝む対象になり、拝む(おろがむ、愚か者がおろがむ)ものとなります。

命にしろ神にしろ、人間性能の外界への投影とその実在交流の実体験が元となってできたものでしょう。

奉り揚げられるものがまずあったとする設定にすると、あーーの世界は神の世界となり、地上の経験感情と結ばれれば立派な〇〇神の誕生ですが、話しが飛びすぎですので戻ります。

話が宇宙とか千億年とかで始まっていますが、もちろん日常の何の変哲もない今ここのできごとに生きていることと同じ意味合いです。

鳴りっ放しの母音はいつかどこかでそして今ここで、主体側の韻と協調できる出会いの状態にあります。アーーという声をここで聞くか、電話さきで聞くか、録音して明日聞くか、旅行先で聞くかいずれにしろアーーは宇宙に充満しているのです。

これが母音世界の特徴で、もしここに主体側の共感同交がなければ、宇宙に充満している母音アーーはいつまでも宇宙の迷子でいます。これから先も何十億年と彷徨していきます。出会いが無ければ設定された神さんも一人ぽっちです。

ですので母音世界とはこういったことが充満している宇宙全体と同じことになりますから、そこから母音の心を導き出すのは大変なことです。チャクラだとか丹田に結びつける人は宇宙世界と結ばれていることも説明しなければならないのです。今まで見聞きしてきた説明は単なる関心興味からでたもので恣意的なものばかりです。そこにある種の意図を繋げ、経験の因縁を全面に押し出して作られているようです。

そういったことは個人の意見主張ならお話として聞くことはできますが、わたしにはそれはちょっと無理にみえ、単なるちょっとした経験事実を拡大し過ぎた逸脱のように感じます。

わたしはもう少しつつましく行こうと思います。

母音世界が宇宙に充満していて宇宙と同じだけの大きさを持っていることが分かりました。今までは、発音された母音を見ていましたがこういうこともいえます。

一億年前に恐竜の歯をキラリと照らした太陽光線は微弱ではあるが、いまでも宇宙をさまよっています。この光に交感同調すれば、歯でもキリストの顔でもみられるのです。恒星だけが何億年かけて地球を訪れるのではありません。宇宙世界の全てが同じです。言い替えれば客観とは母音世界と同様であるということです。

耳で聞く母音は聴覚にかかわるものですが、母音の客観世界は人の性能の全部に対応しています。聴覚がなければ空気の濃淡しか存在せず、人の各種の性能がなければ宇宙世界も物質の作用反作用でしかありません。それを知る主体側の受容体制が整っていなければ何もないのと変わりません。

わたしの人生は宇宙地球の歴史何十億年に対して、日本の歴史の一万年に対して、たったの数十年で、地球の人々数十億人、日本の人口一億人に対してたったの一人です。それでも自分がいなければ何もないのです。わたしのいない相手は相手ではありません。

母音世界、客観世界はただ有る、有りっ放しの世界です。きりの無い大世界宇宙です。このことをそのまま受け取りますとこういうことになります。

母音世界、客観世界宇宙はそのものとしては決して現象にならないということで、そのままいつまでも続く先天性の普遍の実在ということです。わたしがいなければ世界宇宙はそのまま迷子となってさまよいます。

恐竜の朝日に輝いたキラリとした獰猛な恐ろしい歯は、わたしがここで見なければ存在せずさらに次の宇宙ヘと向かうでしょう。しかし通常は経験事実としても起こりません。三日前のことでも忘れてしまえば何も無いのです。それらがあるように思え、事実として有ると言わせるのは記憶概念です。

記憶は手に掴むことも匂いを嗅ぐこともできません。それなのに有る在ったと頑固に主張することができます。記憶違いにしろ本当であるにしろそれを保証するのが五感感覚と知識となったものを了解している自分の感情です。自己感情の了解が喜怒哀楽として表現されますがその大本は自分と相手対象が全体として了解納得し合っているということにあります。その為にいろいろな自分の中にも主張の違いからお気に入りを選択して頑固な主張と成るわけです。

前述の総体が宇宙であり、この世であることになります。人の世界には先天的にこうしたことがあります。そのことを人の誕生自分の誕生に該当させると、世界宇宙から新しい世界宇宙ができるということで、そのまま先天の普遍な実在となります。赤ちゃんであるわたしは最初から宇宙として産まれてくるのです。

各人が先天的に宇宙であることなしには、あるいは、各人がそれぞれ世界宇宙そのものであるので、この世とかかわることができるのです。わたしの生と宇宙の生とは同じ土俵に産まれたものなのです。

こうして私自身の生も本来ただ有る有りっ放しです。いろいろと偉い人たちが人生のあり方生きる目的とかを講釈していますが、まずはわたしたちは、全部の世界を持っているところから、全部の世界を持ったまま産まれてきたということに注意を向けるべきでしょう。

個人があるから世界があるといっているのはありません。世界は個人的な世界である言っているのではありません。誰もガンジス川の砂の一粒も生んだことはありません。全ては先天的にあります。その先天性とはわたしでありあなたであるのです。もしあなたに差し支えなければ、あなたを神といい、わたしを神もいいます。各人が世界創造の主なのですから。

アーーだとか母音だとか客観世界だとか先天だとか分けの分からないことを言っています。この分けの分からないことが人の活動基盤となります。最初から分けの分かったことから始めると、それはその人の恣意的な意図的な興味関心からでただけの、要するにそれだけの、あーそうかというだけのものとなってしまいます。論争に依って高みへ昇るのだというのもありますが、二つ三つの観点が増えるだけのものです。

そうではなく、わたしにあなたに、誰にでもあってしまった世界があって、人はそこからしか出てこないのです。

さて、わけの分からないわたしと相手の世界をどうしようというのでしょうか。わたしのこころはどこにあるのでしょうか。

13-5-1。腹母音。呼気とこころ。先天の半母音。腹と心。言語発生の根拠。

先天の半母音。

心を表す言葉づかいに腹や胸を用いたものが多くみられます。現代科学によって腹や胸じゃなく頭だよといわれても訂正される気配はありません。 何故でしょう。

参照。生理学的にも注目されている。

「記憶転移(きおくてんい)とは、臓器移植に伴って提供者(ドナー)の記憶の一部が受給者(レシピエント)に移る現象である(ウィキペディア)」

「食道から胃、腸まで一本につながっている消化管は独自の神経系を有し、脳とは独立して機能している。

この腸神経系は研究者の間で「腸の脳(gut brain)」として知られている。

腸の脳は神経の接続を通じてすい臓や胆のうなどの臓器をコントロールしている。消化管で分泌されるホルモンと神経伝達物質は肺や心臓といった臓器と相互作用する。

脳や脊髄(せきずい)と同じように、消化管にも無数の神経細胞がある。

コロンビア大学のマイケル・ガーション教授によると、小腸内だけでも100万個の神経細胞が存在しており、この数字は脊髄内とほぼ同数であるという。

脳と消化管をつなぐ主な導管の役割を果たしているのは、脳幹から下に伸びる迷走神経。

しかし、消化管は脳から指令を受けるだけではない。

ガーション教授は「脳はマイクロマネージメントを好まないCEO(最高経営責任者)のようなものだ」と語る。

脳が消化管に送り込む情報より、消化管が脳に伝達する情報のほうがはるかに多い。(病は胃腸から)、ウォール・ストリート・ジャーナル日本版(2012.01.18)」

言葉はどこから出てくるでしょうか。もちろん口からです。気道を通って呼気がでてきます。では呼気はどこからくるのでしょう。胸、肺からです。解剖の知識が無ければお腹からと答えることもできます。何故なら実際にお腹が動くからです。

腹や胸が動けばそれに沿って物理生理的な動きや肉体的な感じであらわされることができます。形になるもの、形になったものは、物理、生理的な作用反作用の世界からきてその世界で確認できます。

ではその時の言葉の内容はどこから来るのでしょうか。 言葉の意味は、言葉が示すものはどこからくるのでしょうか。 視覚等の五感感覚や概念記憶、精神感情の等の頭脳の働きからきます。

一方の呼気音声は胸、腹なのに片方の意味内容は頭脳の中からでは話が通じていないのではないかと思われます。もちろん、胸、腹、声帯に心の内容があるわげではありませんから、どこかで両者の接点があるはずです。

片や頭の中の働きで、片や生理肉体のはたらきで、どちらも片方だけでは何も現れません。

はたしてこの両者の関係はどのように結ばれているのかが問題です。

言葉が心を表すとしても、言葉は現象になれば空気振動の呼気であり、その内容は脳髄の中です。生理学によって脳髄が呼気を統制しているのが分かっていても、心の中にあるもの心の内容が呼気とどう関連しているのかは分かっていません。

ここは脳科学でも大脳生理学でもないことたま学の話です。ここまでのことをそのまま延長しますと、ことたま学にならず生理的な言語学、肉体の言語学みたいなものになっていきます。言葉の生理的な作用を見ていく科学的な見解が出てくるでしょう。

ここから先は心と言霊のことになりますから科学的な思考も納得させるように経験に逆らわずに行かなくてはなりません。しかし頭の中にある言葉の内容だけを独立させて頭脳の働きを示してしまうと、脳は物質だから意識も物理法則に従うとか、逆に、霊魂霊界神界を前提としてしまうようになります。ここではそのような、霊魂だとか言葉の魂だとかの、人の思いや考えでそれぞれに変わってしまう概念だけのものは出さないようにしていきます。

世界には多くの言葉があります。いずれも心の内容を現すものです。心を表す言葉がその呼気は胸と腹から、言葉の意図は頭脳からと二方面から出てきます。通常もっぱら頭の方面しか考えていないようですが、頭だけあっても言葉は出てきませんので、この両者がお互いに納得し合っている構造を通して働きあっていることを探さなくてはなりません。

もちろん沈思黙考で概念の運用だけということも可能ですが、そうなるとお話が出来なくなります。たとえ一言も喋らず頭の中だけで考えている積もりでも、頭の中では物凄い勢いで言葉という形を使って、頭の回転の中から自分に正当さを与えるものを選びだす動きをしています。この言葉という形をとることが既にもともとは腹胸から作られた現象を経たものとなっています。

その動きは純粋に頭の中だけでの抽象的な思惟行為のように見えますが、常に自分を満足させる、自分の感情に一致する喜びを生むものしか頭の中で生みません。抽象的な思惟行為といっても、自覚が有る無しに関わらず感情の喜びを得る性質の元にあります。この感情がきっと腹と繋がっていることでしょう。

沈思黙考独り言をしているのだから、腹胸等は関係ないという方もいますが、その頭の中で動き働いているのは言葉です。発音されてはいなくても自分を相手にした言葉の形をやりとりしています。それは既に出来上がった言語体系を借りています。頭の中を言葉が動けば心も動きそれに応じて腹も動いていきます。腹の方は、それを自分のものとしたい欲求があるはずです。

言葉の使い方をみても分かる通り腹、胸を借りた言葉使いと心に関する表現から、何かそこに重大なことが隠されています。そして実際に昔からいわれている通り心は胸と腹の中にあるのかもしれません。腸が煮えくり返るなんて言うことになれば心は腸にもあることになるかもしれません。

そこで大昔のように大脳生理学など知らず実際に感じられ確認できる心から出発してみましょう。腹に含み、胸に蓄えられる心があるとして、それを腹の心とします。

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何もしていない時何も感じない時考えていない時、こころは静かです。何も感じていないのですから静かで当然です。そこでは腹も動かず腹があるのかさえ気付きません。

心の活動が開始されました。その途端に多くのものが動き始めます。じっくり探ってみてください。

腹の腹圧が高まります。下腹部が硬くなり緊張しています。

気管支が緊張します。 声帯も閉じたような動きを見せます。つばを飲み込むような動作が産まれます。

五感感覚の何れかが何かを求め得ようとピーンと張り詰めます。耳目やきっと鼻もでしょう。

歯を噛みしめます。舌、口の動きが止まります。

感覚的に得ることは難しいですが、全身の肌、皮膚が緊張して一時収縮します。

これらを意識的な言葉で言えば、注意が集中されていきます。

するとここに、大脳がうごめくというか準備の為に待機しているのを知らせるのというか、大脳のある空間が意識されてきます。注意を向けるとそこに脳髄の中というか、脳髄を中心としてと言うか、あるいは脳の上方空間にある種の意識場が形成されていくように感じます。

これが脳空間における現実の高天原でしょう。

感覚的に頭の上方に意識している空間が感じられます。「 天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)」が成ることです。

ここにできてくる「神々」は腹、胸を相手にして、言葉(声)を出すことになるでしょう。頭上の現実の意識空間(父)と腹、胸(母)がまぐあいをして言葉(子現象)を生ずるのです。

どのような流れか見てみましょう。注意、意を注ぐ、気を注ぐです。時の流れがあります。

そして注意の時が動き、流れるのを待つような気がしています。注意を向けたその始めの時です。

これらはどれがどうだと分離して分けられるものではなく一つの全体性を形作っています。始めの始めは何だか分かりません。全体の一塊のようです。薄ぼんやりと、自己の存在があると感じるだけのようです。

これらは生理的感覚的に確認できる事で、それぞれが後に現象となって明瞭化していきます。それら自体は心の世界ではなく生理的なものですが、形として分かるようになる以前の先天の現象世界にあります。先天生理とでも言いましょうか。この先天的な生理生物的な対応分野が無いと、発音発声にまでこぎ着けつけません。

そこで先天的な生理世界を発声された母音世界に対応させて先天の半母音世界とします。そして後にこの世界から半母音が出てきます。

それは心の力動因が動いて活動を始め自らを明らかにしようと、自己表現の為にうごめいているのです。そこで一たびこころの力動因が作用し始めますと、頭は頭で内容を受け持ち、腹は腹で発声に係わって形式を受け持つように分かれていきます。産まれる子供は言葉です。

何かを考え感じようとする意識は頭に向かい、何かを語り感じたものを知らせようとする意識は腹にむかいます。

この腹側の半母音の世界は、腹の腹圧が高まったり、気管支が緊張したり、声帯も閉じたような動きを見せたり、五感感覚の何れかが何かを求め得ようとピーンと張り詰めたりして、何処がどうなり何が区別されるのか分からないけれど、そこから何か浮力のようなもので押し出されてくる感じを受けます。

何かを発声発語しようとする時、薄らぼんやりある自己存在感のようなもの出来ていきます。そこでは、 腹は頭を招き、頭は腹を招いています。しかしこの両者の招き合いを実現する動因がいります。

そこで頭への方向が強調されると独り言をしているといわれ、腹への方向を強調されると喋りたいものがあるといわれることになります。腹に言うことを蓄えていると言うことになります。

実際はこの両者は結ばれてでてきます。

これが招き合いの形をとり、腹の緊張、腹圧と、脳髄の統制の元に呼気の肺活量から来る声帯の振動が一緒になり、発声の形になります。

声帯の振動は口腔を通して脳に伝えられ、あるいは耳で聞いて、こうして脳と腹を声帯の振動が往復します。

13-5-2。腹母音。呼気とこころ。先天の半母音。腹と心。言語発生の根拠。

では脳にあるこころ、脳の心の動きはどこに伝えられどのように分かるのでしょうか。

それは不思議なことに腹に伝えられます。父が母を求めるというわけです。

声帯の振動は腹と脳を往復しますが、その振動に乗って脳内のこころが腹に降りてきます。沈思黙考、脳内で思い考えているだから脳内で言葉を作用させ脳に心があるように見えます。しかしそれは脳内での形となって現れた言葉を使用しての、いわば脳内現象ですから、それが現れる以前の言葉を使用しない過程があります。

それがどんなものかは科学的にもはっきりしていませんが、物質的な介在がありますから、ここに声帯、呼気、臓器器官の物理的な運動作用反作用を感じ取る何ものかがあるはずです。

そこで脳内の心と腹の心が共感反応して交わりが成立して行けば、新しい現象として声が発声します。この声は脳側の父の遺伝子と腹側の母の遺伝子を併せ持ちますが、第三者の現象となります。

人は動物のように脳の心に関わりなく声だけを出すことができますから、その出された声だけを収集して体系化し、約束された意味内容をくっつけて言語の体系も作ることができます。これらが外国語の言語体系ですが、大和の言葉は脳の心と腹の心の一致を目指しています。

さて、そして脳内に起きた心の在り方は、腹との共感同交を起こし腹の緊張となるのです。ということは腹においてもそれを受けいれる下地があるというわけです。これが先天の半母音の世界です。

この場合は単なる動物的な発声のための緊張ではなく、言葉を発する為の緊張となります。頭脳内の情報伝達速度は腹内での情報伝達速度と釣りあっていることでしょう。(まだ証明されていません。)

生物科学的な情報伝達速度は例えばAをAと生理的に知覚するのが100m/秒とかいうものですが、

意識の上では、AはAと最初から分かっているわけではありませんから、Aの整理分類、分別を通して確認、自己了解し、相手側に投げ返して自他ともに共認する過程を経なければなりません。ですのでそれまでには上昇螺旋状の経過を通過していきますので、生理的な反応するだけの知覚速度をさらに超えた速度で回転していることでしょう。

生理的な知覚と違って、話される言葉はゴマンとありますから、その脳の動きは未だ謎ですが、古事記の神代の巻きによれば、心の在り方の次元段階を示すものとして腹に伝えられます。それは五つの腹の緊張によって表現されます。つまり脳内の全部のできごとは腹では五つの単純化した次元層で現されることになるでしょう。

腹の心は次の五つとして受け取ることでしょう。

・ 五感感覚での欲望を充足させる表現の時には欲望の腹、

・ 知識を経験を問題としている時には知識の腹、

・ 感情を現す時には感情の腹、

・ 困ったことどうするかの選択を使用としている時には選択の腹、

・ 意思決定し行為をしていこうとする時には創造意思の腹、

この五つの腹の違いがありました。

共感同交を求める相手が腹にあることになりますが、そのことは、頭脳内の言葉内容を司る部分が自らを現すのに、頭脳内に留まっていては何も示せないということです。そこで、言葉内容を示すための形、外在しているものを通して表現しようとします。

頭脳内の意識の流れは形を持たないため、それに似せた形を腹に探していきます。腹の反応は非常に様々な所から来ますから、頭脳内の心は容易に物象化することができます。ここでは意識を表明するための言葉の形成を助ける全領域が用いられますが、殊に発声に係わるものが重要視されることになります。

その時の頭脳内の立ち位置を示すことは、同様に「過去-今・現在-未来」を、物的な表徴として介在させることになります。

それが前に「今」の五次元を紹介したものになります。それをまた繰り返しましょう。

それぞれ頭脳内の心の内容は下記の五つに対応しています。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の関係、→これが欲望の腹に結ばれる。

二、産まれようとし てあったものが今ある、といういわば、 過去-今の関係、→これが知識の腹に結ばれる。

三、それら二態が一挙に俯瞰される状態、いわば、 今-全体の関係、→これが感情の腹に結ばれる。

四、そして今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の関係、の四態があります。→これが選択の腹に結ばれる。

五、そして上記の四つをそれぞれ足らしめる基底音となる持続する創造能動意志が今の全てを貫いています。今の持続。→これが意思の腹に結ばれる。

このそれぞれ次元の違う五つの今の御蔭で、頭脳内の言葉内容は「今」の表徴と結ばれ、概念から表徴・イメージを通して、腹胸の物象に結ばれていきます。

腹胸は物理生理的な現象を伴いますから、その結果が発声という形ででてきます。

ここに言語の発声の根拠が見つかることでしょう。

ただし、これはまだ発語される以前の頭の中に緊張が走った時の腹へ向かう関係です。ついで今度は、ここに意を受けた腹胸が、発声へ向かう気道の準備をしていきます。

腹の腹圧が高まり下腹部が硬くなったり、気管支が緊張し声帯も閉じたような動きを見せます。五感感覚の何れかが何かを求め得ようとピーンと張り詰め注意が集中されていきます。口腔内部や全身の皮膚も緊張して、注意の中に加わっていきます。

するとここに、大脳がうごめくというか準備の為に待機しているのを知らせるのというか、大脳のある空間が意識されてき、各人の高天原と呼ばれる現実の精神空間が産まれます。

腹胸、気管支声帯等、発声に伴う全身全体が共に準備されてきます。

ついでそこに、発音器官の介在によって言葉が出来て、脳内のできごとは全て言葉で表現されることができるようになるのです。ですので、言葉の創造に達しないところや失敗した部分は、腹胸を通して身体そのものによって身振り手振り等の形になることでしょう。

ここで脳内の出来事内容をうけた腹と発音器官が一致していかないと、脳内の心と発音とがバラバラになってしまいます。

古代大和の聖人たちはこれを繋ぎ止める世界最深奥の秘密を発見したのでした。それがみとのまぐあいというものです。何ということはないセックスすることと同じ構造であることを発見したのです。

印刷紙幣の零の数を変えれば価値が変わりますが、それは単なる物証との約束事で内容の実体はなく、零の数を内容としているだけのことです。大和の言葉以外の外国語ではそれと同じようなことが起きていて、新発見の科学の数値によってそれを新しい内容としたり、権威教育によって強制的に内容はこうであるとされていきます。

大和の言葉は世界唯一の例外で、内容と表徴表現が一致した作りになっていました。少しづつ絡んだ紐を解いていきます。

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脳が働き心が活動をするとは要するに日常生活をすることですが、大和の聖人たちはごちゃごちゃ無限に分類できる人の感情と実在行為を腹の緊張に対応させて整理しました。( 全く考えもつかない必殺技です。)

そうすると、人とはどのようなことをしていても、全てが五つの腹の緊張に還元できる生き物であることを見つけました。

その五つとは、脳内の心が送ってくる信号をまとめると、

五感感覚の次元、これは、今-今の関係へ。そして後に言霊う。

知識記憶概念の次元、これは、 過去-今の関係へ。そして後に言霊お。

感情情緒の次元、これは、今-全体の関係へ。そして後に言霊あ。

按配選択の智恵の次元、これは、今-未来の関係へ。そして後に言霊え。

意思創造力発現の次元、これは、今の持続の関係へ。そして後に言霊い。

の五つになりました。

見たい、食べたい、聞きたい、知りたい等欲望の充足を求める心は、何時でも頭の中のこころの動因が、同じ腹の緊張位置にあり、同じ声帯の緊張を伴っていました。カレーを食べたいラーメンを食べたいとお金が欲しいということの、外見上の相違はあっても、したい欲しいやりたいという欲望の心を持ったときの腹の緊張が同じであることを発見しました。

知識記憶に関すること、情緒喜怒哀楽に関すること、選択按配に関すること等、同じ緊張内におさまっていったのです。単語の意味は何か、空即是色とは何か、存在とは何か等の概念に対する疑問も、その概念の多様さにもかかわらず腹の緊張位置は同じであるが、欲望とはまた違う緊張にあることを発見しました。

こうして整理分類した結果、世界を反映した腹の世界は五つしかないこと、人間の世界とは五つであることを発見したのでした。

もちろんこの整理研究当時はまだ大和の言葉はできていません。雑多な混じり合った状態だったでしょう。しかし、長年の自分の腹と意識をを見つめる結果を突き合わすと一定の枠内に収まってきました。

と同時に雑多な発音も安定した五つの枠内に落着かすことができたのです。そこで見つけた、発音も五つしかありませんでした。そしてその対応も完成させて行きました。それが母音で、腹によって受け取られる側が半母音となりました。

古代大和の聖人たちの研究が進み、とうとう実在世界とその反映、頭脳内の世界が現れるには、身体・腹の物象世界の反映が必然であることから、

五感感覚の次元、それに対応する発音は、ウ、であることを見つけ、

知識記憶概念の次元、それに対応する発音は、オ、であることを見つけ、

感情情緒の次元、それに対応する発音は、ア、であることを見つけ、

按配選択の智恵の次元、それに対応する発音は、エ、であることを見つけ、

意思創造力発現の次元、それに対応する発音は、イ、であることを見つけ、

ここに人間の世界は五次元であることを確定したのでした。

こうして、心の全事象世界が五つであることが分かりました。生きていく世界とはこの五つの世界であることが分かりました。ですが、これは内的外的な人間の全世界をいうもので、言霊イの意思の世界は人間自身が受け持っていてそれ自体は外在化しません。意思の世界は人間の頭脳内に常に留まっています。

そこで意思の世界を除いて、外在化した世界を見ると四つあることになり、これが四、世となり、現実娑婆世界を指すこととなりました。

ここに人間が生きる=五きる世界が成立し、この五つの上に全ての人の心が乗っていくようになりました。この五つの世界に誰でもが乗っていれば全員が通じあえるわけですが、ここに心の個別化がまだできていません。

つまりここまでなら、心の次元層の分類ができて、どの次元の話になるのかはわかるようになりましたが、まだ現実の個別的な事象に対応して声にはなっていません。自分が生きる次元世界が分類されただけです。

こころのうごめきが腹の心に伝えられ、心の腹圧が高まります。こうして、心にあるものは心の腹圧となって腹や胸に蓄えられ、感じられていきますが、心が動いているというだけで、どのようなものかははっきりしません。

そこで、心は心の腹圧が気道を通して上がって動因となり、一方舌口蓋を変化させて声、言葉となって現れる道筋を見いだしました。ところが心は物質でなく目に見えませんし、自分の心を確かめ相互に確認了解するには物質の形になり、現象となった形をとらねばなりません

それを確認し合うのが言葉です。言葉の出所が物質と結びついていることはその表現は物質の条件運動に従うということです。

13-6-1。腹母音。母音と半母音。「ウ」の発生。

母音は呼気の流れが邪魔されずそのまま出てきて鳴りっ放しですが、その母音が実在世界の何に対応しているかです。あるいは実在世界のどこから母音が出てきたのかです。

母音は沢山ありますが、沢山の母音を実際に一音で現すことができませんが象徴的に現すことはできます。それが象徴として現された天の御中主の神(言霊ウ)です。布斗麻邇御璽(ふとまにのみたま) という図に示されている〇に・(ちょん)が入っている図です。同じ天の御中主でも言霊ウの働きをしてる時は四重まる(ウオアエのこと)に・(ちょん)が入っています。

しかしそれは表徴として語られた場合のことですので、まずは実在との関連をさがしてみます。そこで前回は腹と腹の緊張や声帯とか皮膚とかの生理的な結びつきがあるということを示しました。一つ一つの事例は各人の追体験で実証してもらうわけですが、例えば、わぁー楽しい、というときの、わぁーと、わぁー哀しいわぁー寂しいというときのわぁーは、全く別の感情を現しているようですが、わぁーアアという感情表現があり、ここにある共通な一般性である「アー」を体験するということです。

母音世界は客観世界と同様に鳴りっ放し在りっ放しの時空共に無限の世界です。しかしここに人が出てきますと人の肉体上の制約制限から有限界が生じてきます。あーーの発生が無限に続くといっても身体の受容限界を越えればそこまでどまりです。その後は機器のお世話、科学技術のお世話にならなくてはなりません。

ここに人間の機器を使ってでも無限に到達しようとする意志と常なる制限を受けいれる精神世界があります。結局母音世界の心にも片や無限、片や有限のこころもちがこもってきます。言い替えれば人も自分も外の世界も無限であることに気が付いたということは、無限という限界を納得したということです。

無限という有限に行き着くことは日常生活上でも普通のことです。感じ考え思い付くだけのことをして無限のことをした、もっと上手にいえばあらゆることあらゆる手だてを尽くしたといいますが、その人の有限をしめすものです。

おそらく、ここに母音が発生します。

実在客観世界は無限の物理的な力の作用反作用の世界でそれ自体独自なものですが、ここに人がかかわり始めるやいなや、物質世界の無限の自然な世界が人の性能によってそれぞれ有限のかかわりとなります。

しかしこれは有限な人がかかわり合うからというだけではありません。無限持続の時空にかかわる人間側に、相手と同じ無限の時空が実在していなければ何のかかわりもできないのです。人が無限でなければ客観無限世界にかかわれない、同じ土俵に立てないと言うことです。

この土俵が母音なのです。では実際に母音のなにがどのようにかを見てみたい。

最初は母音世界全体です。何々の母音という判別できる以前の総体としての一塊です。まだアとかイとかウとかに分別できていません。朝目覚めた時の、目を開けるその一瞬の前にある世界といったらいいでしょうか。その一瞬前の世界には宇宙世界の全時空と本人が詰まっています。

古事記ではその全体を象徴して全母音世界である天の御中主の神、言霊ウと名付けました。(続日本紀では「中今」)

これはウオアエイと分離された母音の一つのウではありません。全世界の象徴である言霊ウです。人のように成長する上昇循環重層構造体なので、ウで始まり五母音になりウで統合されていくように、五母音の内の一つとなったウの発生はまだ後々のことになります。世界の無限を象徴する言霊ウのことで、

ひふみ神示では、チョンであったり○であったり、○チョンであったりとその時その場でいろいろ変化しています。

その無限を有限とする言霊ウの天の御中主の神で、後を振り向いて自分を見る、立っている所から前を見る、上方から鳥瞰して見る、今の立っているところを見る、等の取り方の相違からどの母音もそれぞれの位置づけが始まります。

世界の無限を象徴する言霊ウが産まれました。とはいってもそさだけでは、象徴を話しているだけで勝手ないい加減なことを言っていることとなんら変わりません。問題は人間側に実在する無限の実在を示すことです。

象徴がウだからといってもこれは「う」という発音をまだ示していません。言霊ウはこの世の世界宇宙に意識の兆しというか、人がかかわることを始めるや否や人の精神宇宙に目覚める無限への感情です。実際の場面に注意していくと、まず物事の意識の始めの兆しに現れるものです。

例えば実験してみれば、一秒の何十分の一秒以下の時間に視覚ならば視覚に現れ固定される以前の世界のことです。視覚を移動して次のものを見る時の見たという以前のできごとになります。そのときにはそこに有るものは何であるのか判断を下し与える以前の世界があります。ぞれを引き延ばすと、そこに何々がどういう状態で何故あってそのあるものの性質はこういうものでという後からつけ加わる固定され規定される全ての時空が含まれている状態です。

朝日の昇るのを見てその感動の瞬間に発声される声の直前に、確かにある母音世界のことです。この状態は後に人の性能の五つの次元に対応していきすが、当面の今は一塊の全体世界です。古代大和ではそれを言霊ウと名付けたのでした。

今までの始まりは、アメツチの「ア」だったのに突然「ウ」になったりして話が違うと思われるかもしれませんが、「ア」は意識の始めで、「ウ」は始まる意識の前提です。ところが「ウ」にはまだその始めがあります。

それが「ス」です。いずれも象徴表現ですが実体を現した象徴表現です。

例えばを示しておきます。

充電された電池があります。繋がれていなければ何もありませんが、エネルギーは充満しています。静かに済んだ動かない「ス」の状態です。それが繋がれれば動くか動かないかそのうごめきがある「ウ」を経て、そこで動きか不動か、こっちとあっちの違いが明かされる「ア」となります。

この一連の過程は常に何ものかの動因の下地による支えがなければ、どの時点においても不可能となるものです。その動因を始めから全過程を通していざなっているのが「イ」です。

13-6-2。腹母音。無限。

さて、何故これが母音のウになっているのか。実際に発音される「う」になるのかが証明されなければなりません。

在りっぱなしの世界が心の在りっぱなしの世界と同調共感した様子を、兆しとか兆しの始めとか言いましたが、実際の流れは兆しの連続持続です。兆しだけがあるのならその後に出るものはありません。それだけのものです。

兆しだけでそれだけのものというのは、単に概念で言われているだけです。何故ならそのものとして現象になって現れていないのですから、五感の対象でも無く経験知識の対象でもなく記憶としてあったものでもなく、ただの観念です。

しかしそのような兆しをもたらしその後に意識の対象となって、現象して五感、感覚の対象となるものです。現象としては無いけれどその元となってあるあるもの、観念だけど観念を生み成した元の上に出来たもの、記憶ではないけれど記憶となってでてくるもの、そういった心の前世界の姿があります。

これを先天の実在といいます。

意識の対象となったものではないけれどその始めの兆しを示しているもの、生まれ出てくるうごめきの動く動因として実在しているものです。

母音の響きをチャクラや丹田に伝えるのは発音された音声の現象したものの世界ですから、ここではその逆に母音を発生させる方向を取らねばなりません。あるいは最初から発声があってそれに自己表出とか指示表出とかをくっつけるのがありますが、母音の発生の根拠を示していませんので、実在の根拠を探す必要があります。

探すものは、この実在の根拠となるものが鳴りっ放し在りっ放しの無限、きりがないこと、いくらでもあることの人間性能への反映です。実在とは言っても実体現象となる以前のもので、自己表出され指示表出されるもの以前のことです。表出されるものが有るということになるとそれは既に現象となったものです。現象から始めると混乱しか起こりません。

自分の感じる心、思う心を両端に開いた松葉の根元に戻さねばなりません。このなになにしっ放しの無限となっている根元が母音です。全ての産まれる元となるものです。

しかしこれを発声に取ると声帯や胸や横隔膜からは母音はでてきません。確かに出てくるのは声で母音となって発声されますが声は肺活量によって途切れます。

ではどこに鳴りっ放しがあるのかというと、腹に在ります。

声は声帯と横隔膜だけで発声させるのではなく腹が働いています。この腹を注意して見てください。肺の呼気は直ぐに終りがきて、発声ができなくなります。そのときの腹を見てください。

声が終わっても腹の緊張は続き腹圧に変化がありません。声はと切れ肺ははあはあ言って大きく胸が動いているのに腹は静かなものです。同じ緊張が持続しています。それどころかこの腹の緊張の持続によって同じ母音の継続が可能となっています。あるいは声を出さずとも腹の緊張腹圧は緊張させっ放しにすることができます。

もしかすると全身の皮膚とか毛穴の開閉だとかも関与しているかもしれませんが、確認できません。

この腹から母音が産まれます。

腹の重要性は全ての分野で言われていますが、結果現象を産むことは経験的に分かってはいても、先天のこころの動因がここにあることを明確に示すことが必要です。胸横隔膜を使って発声となる以前の人間側の実在世界がここにあります。ぜひ腹の緊張持続する無限世界を味わってみてください。

呼吸に応じて腹は上下し、声を出そうが出すまいが、腹に緊張が産まれない時には人は何もしていません。そしてひとたびこころの緊張が腹に生じたならば、腹は世界を相手に世界に向かい世界を受けいれる腹となっていきます。

こころの先天の領域は腹に在り、この腹のうごめきが揺すり揺すられその動きがいざなわれると心の兆しが産まれます。

古事記をみてみます。

【かれここに伊耶那岐の命の詔(の)りたまはく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易(か)えつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。】

この段落は直接には現象子音が発生した後のことですがここでは母音の発生に該当させます。ここで【葡匐(はらば)ひて】といっています。腹-這いで謎解きをすれば、腹-映えのことで、腹の緊張が心に映えてくるということです。哭(な)きたまふは勿論鳴く、発音することで、腹の内部の緊張に合った心の同調を求めて心と腹の映えてくる音との関係を研究検討をしたということです。

そこで見いだしたのは腹の緊張を起こし心の同調映えを起こすものが有るということで、それを泣沢女(なきさわめ)といいますが、不通に言われている悲しみを現す女ではありません。腹と心の同調反映具合を起こす為に鳴き発声して音と心の一致を求めている父韻のことです。(男か女か気にしたければ男ですよ。女の方に泣くことが多いので泣く-鳴くにかこつけて「女」という字で現しただけです。)

さて母音の発声を求めて実際の発声器官を越えて腹にまできました。腹の緊張にみられる無限性が母音の無限性に対応しているのです。

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無限。

母音が無限だとか腹の緊張が無限に対応しているとか、おかしなことを言っていると感じているかもしれません。人の寿命が有限で有限の世界しか認識できないのに、どこに無限があるのでしょうか。観念だけの遊びのようです。

無限とは今現在のそれぞれの方向への可動性のことで、過去に目を向ければ知識記憶の範囲内で幾らでも遡行できる範囲の可動性をいい、未来に目を向ければ今の立場を可能にする範囲内で前進できることをいいます。

またそれには今に留まったままの無限といういい方もあり、その時は水面に波うつ輪の広がりのようにその中心には波の広がり全体があるという感じになります。

「神を絶対無限の存在者」のようにすれば、過去現在未来全部をカバーしてしまうことになるでしょう。

過去方向へ無限を見ると、幾ら頑張ってもその人の知識の範囲内に留まり、そこから飛び出たものは意識の向こう側に概念として形成されます。神とか霊とか宇宙の次元だとか、意識の外に行ってしまった言葉は幾らでもあります。そういった言葉も記憶として返ってきますから、何の経験の裏付けもなく何々は無限であると主張できるようになります。

そこで言われる外のことは、無限の向こうにいるあるいは在ると、何ものかが分かったようなことをいいますが、単なる過去概念の記憶をこすっただけのものです。各人の確認できる範囲を超えた向こう側の無限の世界のことですから、正直にわからないと言えばいいのですが、そこには、拝むとか信仰とか安心とか感じるとかの心の要素がまた重なってくるのでそう簡単に断定できなくなっていきます。

未来の方向に向いた無限も同じことで、過去の繰り返しの該当延長できる範囲までは分かるけれど、そこから先は、何かの存在がいるとかいないとか、あるとかないとかについては、全然わからないくせに、繰り返しの該当する範囲を超えて一般概念化していきます。在るか無いか分からないところなのに、感知できないところは過去経験で補ってしまっていきます。

これらは経験の裏付けの在る無しから言っていることですが、実はこの接点を超越して過去方向にも未来方向にも無限が実在しているのを知ることがあります。今までは知識記憶を元として時間軸を設定して過去未来の無限をみてきました。そこではワイワイ騒ぎながら自分の考え主張を言う世界でした。

論理の緻密さとか知識量とかがものを言い相手を喰う世界でしたが、全てが過去の記憶の借り物を密輸して成り立たしてたものだけです。構成された文章を読んでいくと何か個性的な主張のようなものがありそうに感じますが、どこにもその人が独自に打ち立てたものはありません。このブログも同じこと。

さてところが、それらのドングリを超える立場が、誰にでも普通にあります。その始めが感情です。情緒感動情感等々です。前もって言っておけば、それらはその最高段階になれば宗教の愛となりますが、宗教人になってしまうとそこで終わりです。愛の心持ちが単なる始めの一歩にしか過ぎないことを忘れてしまい、慈愛をかざすという逆立ちが起きます。後に言及されるでしょうから元に戻ります。

感情は普通の人間性能ですが、一度それを掴もうとすると、とてつもなく次元のひっくり返った様相を見せます。例えば今この文章を読んで何らかの感情が起きていると思います。何も感じないよ、また法螺か、確かにそうだ、感情は大切にしましょうとかの思いにそれぞれの何がしかの感情がこびりついています。その時の感情を一度知ろうとしてみてください。つまり借り物ではなく自分の感情であることを確かめようとしてください。

と、こんな事を書き読んでいる内に、先程の感情はもう消えているでしょう。ぼやけているか、新しいものに取って代わられたか、思い出せもしないかもしれません。感情というものは今現在から先には生きられないからです。

自分の感情を捕らえてみてください。いつでも先程の感情はと、過去のことを言い出すはずです。感情は今現在に生きたとたんに過去となります。そこでどうしてもつかまえようとすると過去へ過去へと幾らでも後退していくことになります。知識概念が過去を扱っているにも係わらず常に今を今を捕らえようと努力しているのは真反対です。

感情を捕らえようとすれば過去に赴くだけでなく、その感情の起承転結を捕らえようとすればさらに過去以前へと後退していかねばなりません。もちろんたまには新鮮なまま感情を保つこともあります。深く大きな情動などがそうで、愛や見神もそうなるでしょう。

しかしそうよくよくあるものではないし、また続けるにはある種のテクニックがいるようです。つまり常に自分が起きている、起こされていることを自覚しなくてはならないので、過去へ後退することと今起きていることが同時に在る世界になりますか。

この過去と今が同時にある世界に注意を促すのを宗教は得意としています。超越者が今ここにいるかのように扱います。そのために使用されるに適した言葉が「あ」で、「アーメン」とか「アミダ」とか「アッラー」とかの、「ア」を使用していきます。「あ」は今現在の全体を示し、あるあった、ありがたい、あっ空を見ろ、あっ痛い等々の現実在に常に連れ戻してくれます。

そこで「あ」を自覚していきますと、その「あ」には過去の全体も含まれ、未来に向かう全体をも含んでいることを感じられます。つまり「あ」という母音には、その「あ」が示す現象とその現象以前以降の全体、つまり無限を示すことが出来ているようです。

「あ」で示された現象はいずれ消え消滅し、何も無いと言える状態を想定しざるを得なくなります。現象は見失っても、不思議なことにそこには「あ」の何ものかが残っています。捜し物を見付け「あった」と叫んだり、神を見て頭を垂れたが二度と神とは会えなかったり、あっ車が来る危ない、というようなとき、現象としては全て過ぎ去ってしまいますが、記憶として残るものの他に、あの時の「あ」であったが今でも「あ」であるものが、実在していきます。

「あ」の無限性の一端を示しましたが、まだ他にも母音はあるのでそれも示さなければならないのですが、別の機会があることでしょう。母音「う」から始まっているのに、何時の間にか「あ」になってしまいました。