00 先天とは

00 先天とは

00 先天 心の始まる前

心の先天構造

天地・あめつち

天地をテンチと読んではいけない

あめ 吾の眼

つち 付いて智に成る

初発(はじめ)の時 ・端芽の十気

とき・時・十気、戸気、十機、戸機 ところ・十こころ・十心

今とは何か ・ 今の三態

今と言霊神との対応

高天原・たかあま・タとカの「アの間」の原

成りませる神(かみ・カッと明らかに見られた火の実)の名(みな)は

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00 先天 心の始まる前

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心の先天構造

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古事記は、

【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は】

で始まり、次いで心の原理を暗示呪示した十七の神名を挙げています。

【 1/ 天の御中主(みなかぬし)の神。次に (言霊ウ)

2/ 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に (言霊ア)

3/ 神産巣日(かみむすび)の神。 (言霊ワ)

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。

次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、

4/ 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。 (言霊ヲ)

5/ 天の常立(とこたち)の神。 (言霊オ)

この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。 次に成りませる神の名は、

6/ 国の常立(とこたち)の神。次に (言霊エ)

7/ 豊雲野(とよくも)の神。 (言霊ヱ)

この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。

次に成りませる神の名は、

8/ 宇比地邇(うひぢに)の神。次に (言霊イのチ

9/ 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に (言霊イのイ)

10/ 角杙(つのぐひ)の神。次に (言霊イのキ)

11/ 妹活杙(いくぐひ)の神。次に (言霊イのミ)

12/ 意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に (言霊イのシ)

13/ 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に (言霊イのリ)

14/ 於母陀流(おもだる)の神。次に (言霊イのヒ)

15/ 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 (言霊イのニ)

次に

16/ 伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に (言霊イ)

17/ 妹伊耶那美(み)の神。】 (言霊ヰ )

以上が心の先天原理で、日本人に限らず全ての心の始まりの、心の実体と心の働きのおおもとです。

これらの神々十七神の羅列ではなく、実体としては共通の地盤に立った重層的なもので、働きとしては前承する上昇循環をしていき、全体で重層的な螺旋上昇循環をします。

全てのもともとは 天の御中主(みなかぬし)の神で、心の始まりのもとであり、ここから意識は始まります。

ところがさらにその元があり、それが「天地」です。これをテンチと読むと物質物理宇宙世界の元を訪ねることになり、これを「アメツチ」と読むと心、精神意識の宇宙世界を訪ねていくようになります。

古事記は心の原理書ですからもちろん後者で、神を実体として扱っているように見えますが、心の実体の暗喩呪示としていわゆる指月の指ですので、古事記で示されたような神がいるということではありません。

心の原理としては数千(八から一万)年以前に完成していて、スメラミコト集団が保持していたものを、太安万侶が千三百年前に書き記したものです。スメラミコトの歴史創造の原理によって、心の原理の暗喩呪示として千年は解読できないが、千年したら明らかにされるものとして書かれたものです。

それは原理として既に完成していますから、有り難く頂戴するだけです。しかし、後年の我々には解釈解説が必要となります。

それにしても、心の始まる前に解説解釈があるというのはおかしな事です。

ないのにあるもの、しかも十七の構造を持っているものの発見、これが古代スメラミコトの成した事で、人類の至宝として伝承されてきたものです。

それは心の原理ですから万人のためですが、現代語による理解が必要とされので、そこにばらばらなまずい解説が生まれてきます。また翻訳しようにも外国語には大和語の構造が欠如させられていますから、大和の日本語でしか通じません。

ユダヤ民族は神より選ばれた民族といわれますが、大和は神孫民族つまり神の孫なのです。その実体内容が大和の日本語、五十音なのです。(五十音以上でもなく以下でもありませんが、後に実感されるでしょう)

しかし、個々まちまち、各人の思い思いはそれぞれであるのに、それらが相互に通じるというのはそこに、心の働きが皆同じである法則があるから可能になり、通じ、自由になるのです。

それが古事記による言霊先天原理である十七神の構造です。

その護持保存が今までの大和日本の存在理由でしたが、敗戦による皇室による古事記の放棄を契機にして、古事記の言霊原理の適応発展が今後の大和日本の使命となりました。

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天地・あめつち

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【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、】

古事記は冒頭の【天地】を【あめつち】と読ませるところからはじまります。

あめつちの言霊現象学では古事記の冒頭は次のように読まれます。

【あめつち】とは、

吾(あ)の

眼(め)を

付(つ)けて

智(ち)と成す

を省略したものです。太安万侶は、それを物事の初めである天地宇宙世界と結び付けられるようにして、この世の初めとし、千三百年間はわざと間違うようにしておいたものです。その理由は世界の歴史編で扱われます。現代は太安万侶の意図が現れてもいい時代になりましたので、まずは元の意味内容を取り戻すようにしなければなりません。

吾(あ)は自分自身、わたしの事で、

眼(め)は意識・心、

吾 (あ)の眼(め)でわたしの意識・わたしの心です。

ですが、わたしの意識とはいっても具体的な思いを持った意識でのことではなく、私の意識となる、吾の芽、ということです。

地はつちと読まれ、相手対象に向き合い付(つ)いていき、またそれを取り込み、

そのことで智(ち)を形成し、付いたところ(地)で智慧と成ります。

私の意識が相手対象に向かい、付いて現れ、付いた先の地でそのことを知り、それをどうするかの智が生まれ、智慧となります。ここに既に意識と相手対象との間に先駆的な一循環が形成されています。

古事記の上巻はこころの世界とその動きを、吾の眼(芽)・わたしの意識の初めから、その先天構造、単位要素の生成、その運用法を説明し、起きる間違いの構造とそれの禊祓という訂正法を示し、理想的な精神規範を造ってもって、どのように運用し人間社会を建設していくかを、つまりわたしの意識とその創造とは何かを説明したものです。

神名、地名、事物の名等を使用しそれを指し月として、呪示暗喩で人間の心とは何かを原理的に明かしたものですから、語句に捕らわれることなく、語句の先に示されているものを見て了解することで統一されています。それを昔はフトマニといい、現代は言霊学といい換えられ、その原理を学んで実践しようとするものです。

歴史に該当させれば、約一万年前のスメラミコトによって起こされた人類の心とは何かという問いの解明から始まっているもので、古事記の書かれた七百十二年や、歴史上の人物である神武天皇から始まるものではありません。

既に人間の全歴史上の行為の原理として適用されていましたから、およそ一万年前に完成されて適用されていたところから始まります。

古事記はそんな古い心の実践の歴史そのもので、七百十二年に記載されたものとはいえその時に初めて発表されたもではありません。大昔に解明されていて、それに従って世界を創ってきたのなら、負の要因を背負いつつ歴史を創ることもなく平和で幸せな社会が出来ていたのではないかと思われます。

しかし目標や意志や正しい思惟規範があるとしても、それらの適応実践とはまた別のことです。人類(人)の成長段階では目標や意志を直截対象に向ければそのまま、成り出ずるものはありません。必ず他者他物への変換変態を通して発展するようになっています。平和で豊かな楽しい生活もそれだけの全社会的な物象が伴わなければ実現しません。

何も社会的な基盤の無いところで言霊原理を振りかざしても何も生みません。そこで古代スメラミコト達は当面全社会的な条件を作り出すために、そのための言霊原理を運用させるように、今までの社会を仕組んできました。

そして向かえたのが世界交通網にのった大量生産の時代です。

ここでは既に県境も国境もなく、自動車会社の社長が自分のために一台の車も造ったことがないのに何十万台という車をつくるように、個人が自分個人のために生産する形は止揚されてしまっています。電力会社の社長さんも食品会社の社長さんも、自分のために発電、製造したことはなく、社会のためと公言しています。

物理的富の世界は日々世界共同化していきますが、他のどの分野においても世界化を制御できていません。現代の世界では世界化された富を別の意味で、特に個人化された数値にしていこうとしています。

こうして古代スメラミコトの予測した通り、社会富の発達を促す五十音図の適用は成功して、その代わり心の欠如した心の荒れた豊饒の世界が出現しました。

人々は、ことに豊饒な富を手にした人達は、個人の使用できる限界を越えた富の前に為す術がなく、数霊に憑かれたような扱いしかできなくなってしまいました。何故なら人々には数千年前に与えられた、豊饒を目指す五十音図しか知らないからです。

そこでいま必要なのは精神と物質を統括できる五十音図です。古代スメラミコトが秘密裏に隠すことを決定し、後の世で開示できるように呪示で書き示された原理が甦る時となりました。

そしてそれこそが、古事記の冒頭を借りた神々の誕生物語なのです。

安万侶が千年後の復活を願って呪示し、隠没しておいた古事記の冒頭なのです。

天地をテンチと読めば心の無い世界がまだ続きます。しかし、アメツチと読むようにされた意味を考えることが出来るようになりました。

「吾の眼を付けて智と成す」「あめつち」の秘密は徐々に明かされていきますが、単なる知的な好奇心を満たす時代は早々に通過しなくてはなりません。物質の分析生産のための五十音図が暴走を開始する前に、調和のとれる五十音図によって組み込まれなければなりません。世界で唯一調和の取れる言語体系を持つのは、神から選ばれたとされるところからは出てこず、神の孫である言葉を持った大和からしか出てこない運命にあります。

方や、調和を目指しながらその為の表現、実現の言語を持たず闘争を繰り返してしまう一方、調和の言語体系の上にありながら見ることのできない状況があります。後者は大和の日本ですが、未だに自覚されず、かえって前者に飲み込まれようとしています。古事記の呪示が早く解かれることが必要です。そうしなければ至宝の持ち腐れです。

神道、皇室関係者、宗教家、哲学者等、及び科学者は二千年に及ぶ今までの解釈に捕らわれず、言霊学で取り扱い直すことになるでしょう。

さて、せかいの至宝である古事記の冒頭はこういう具合になっています。その部分は、神代の巻でも建速須佐之男の命までの心の原理を語り終えたところまでです。

このスサノオまでが丁度百神目に当たります。

これが、前半五十の言霊要素と後半運用要素に分かれています。

前半五十の神々がいわゆるアイウエオ五十音図の一音一音に配当されていて、それを記した書物が皇室の賢所に秘蔵されています。前半五十神とは実はアイウエオ五十神の暗喩呪示で、言葉による人間活動の単位要素になっています。

そして後半五十の神々がそれらの言霊要素を整理運用して、理想の思惟規範に仕上げるまでの道のりを記したものとなっています。

ですので吾の眼を付けて智と成すの「成す」は後半五十神に相当します。

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天地をテンチと読んではいけない

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古事記は『天地』を「あめつち」と読むところから始まります。

あ 吾の

め 眼を

つ 付けて

ち 智と成す

天地をテンチと読まない理由。

吾の眼を付けて地に成すことが智慧の始まりで、その始まりがとりもなおさず事の始まり、つまり天地(てんち)の始まりです。テンチというのは、吾の眼の私の意識の付いた範囲内にある、世界宇宙を指し、その概念の延長された指示相手を指します。

わたしが意識しているというその世界自体が抜け落ちています。天地・テンチというのは指された相手が主となりますから、客観的に対象を見ていく科学的な思惟となっていきます。それは客観的な成果を得るには重要なことです。しかし、テンを空だ宇宙だ世界だとしてそれらとは何かと進んでいくことはできますが、自分がテンを空だと言ってしまったこと、宇宙だと言ってしまったこと等の自分の心の世界については手が付けられていません。

ですので、事の始まりを最初に置いてしまい「てんち(天地)」から始めてしまうと、出来上がった現象をその他の現象で説明することしかできません。現象の解明分析分類は多大な進歩をもたらしますが、その本質原理には踏み込めません。

「てんち」と読めば、この世のお日様お月さま世界のことになり、「あめつち」と読めば、心の運用原理、理想社会の創造原理となっていくものです。

現代は「てんち」と読んで生まれた豊饒な物質文明社会をもたらすことが可能となっていますが、「あめつち」と読んで全人類のために世界を作ることが滞っています。物はあっても精神的な変態脱皮を得る方法が分からないまま放置されています。

それは宗教道徳思想が単に神の前に平等であることを解くことしか知らされていなかったからで、物質と神のその前では両者への隷属を当たり前のこととしていました。

しかし豊かな物質文明があるからこそ、物質を神とすることなく、全人類のための生産物とする道も開けてきました。

古事記の原理は丁度百神目にあたる建速須佐之男の命に当てられ、

【「汝は海原を知らせ」】

で終了しています。

海原(うなばら)は言霊ウの名の領域で、五感に基づく、産業経済、欲望達成のための物を生産する物質文明の社会、それらの意識活動のことで、丁度現在が花開いた時代に相当するでしょう。

このように人類は「あめつち」から「うなはら」へ向うように、古代のスメラミコトによって仕向けられていたのです。海原とは、うなはら・ウの名の付いた世界のことで、欲望や五感本能に根ざした世界、経済産業の社会のこと。

あめ・吾の眼

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わたしのこころ、私の意識のことです。

先天とは、 「前もって、あるものは無いけれど、無いものがある」 ことで、経験に先立って経験に現れる現象の元となるものです。「ア」という言葉を発声する時にも、物理現象となる物質面と、物質面に乗っている物象イメージ面と、イメージを持ち来った精神面と、精神面を形成していく言語規範というように、一段づつ前に存在しているものです。前段と後段では同じ言葉を使うことが多く、後段がより具体性を帯びていくので、同じ言葉で比較することはできないのですが、共通な一般概念から出てくるため、知的な遊びになる傾向がよくあります。

その前は何だ、ではまたその前は何だと、逆上りますと概念の操作だけになり、空虚なものになってしまいますが、どこまでいっても一般共通の言葉でくくれますので、まぜこぜになることが常にあります。しかし、私の意識があり、それをもたらす吾の眼の実体と働きまではあると、反省し感じ取られ自証他証出来るものまでが先天です。

それは具体的にこうこうこういうものであるということではないのですが、古事記は確認追体験できる最初のものとして「天地・あめつち・吾の眼を付けて智と成す」を冒頭の言葉にしました。

この反省し感じ取れる最初の意識と成る吾の眼のことです。何かの思いの兆しとでもいうものが動き始めました。それが無ければ私の意識とはならず、わたしの意識とはそれ以前の何ものかが成ったものです。

前提条件とか先天とか先験とか原理とか大宇宙の法則とかは「神も従わねばならん(ひふみ神示)」といわれるものですが、それらの形となる以前のものです。

古事記のおおもとの秘密とはアメツチを解読することであり、各人のアメツチを明らかに見ることです。

アメツチを吾の眼を付けて智と成すと読むことはいいとしても、先天である吾の眼の解説に成功するとは限りません。

文章を書いて発表すれば他とのあるいは自分との会話ができます。発表以前は主観的に意識内にあったものです。それは言葉の形をとってありましたが、それには自分が判断発表をするという主観が必要でした。

では主観を動かしたものは何かといえば、それに対応した自分を動かす基本的な規範があった為に可能と成ったものです。

その規範は何らかの要素で成り立っていて、大和の日本語では五十音図で示されるものです。この各要素がそれぞれ実体と働きを示さなければ言葉として機能していきません。

そこで言葉の実体と働きの機能はどこから来るかと言えば、実体と機能を持っている何者かからきます。

その何者かがあるなら、それがある為のあるだけの条件なり可能性なりを保証する、先天的なあるいは先験的なものがなければ、何者かは現れることができません。

こうしてそれを示すおおもとは何かと言うことになり、それは、吾の眼が付いて地になった時に出てくる【あめつち】という世界だということになります。

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以下引用。

今回の講座を通して、上の事以外に印象に残りましたのは、古事記神話の冒頭「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神。……」に始まる人間精神の先天構造を構成する十七個の言霊の解説の難しさであります。

先天とは先験ともいいます。経験に先立つ、の意です。哲学の辞書を引くと「認識論上、経験に先立ち、しかも経験の成立・構成の基礎となるの意、とあります。経験知識がそこによって成立しますが、逆に経験知識によってその先験構造を認識する事は不可能なものなのです。

先天領域にあるものは、人間の五官感覚によって捉える事が出来ません。その為に、論理的な解説の困難さがあります。

人間の心の先天構造と申しますのは、実は神道で神とか、仙と呼ばれる世界、仏教では仏、菩薩から阿羅漢と呼ばれる人の性能に関係しており、キリスト教で神、イエス・キリスト、聖母マリア、聖霊等と崇められている所のものであり、心霊科学で守護霊・背後霊または狐霊、狸霊などと呼ばれている諸霊が関係している心霊領域でもあるのです。

この様に書きますと、読者には信仰を強要する如く、または霊を弄(もてあそ)ぶが如く思われるかも知れません。そういう事を避けるために、言霊の会はそれ等のことを極力口にしない事にしております。

何故かと申しますと、その様な表現をしますと、人は自らの外にそれを考えてしまい勝ちになる危険があります。言霊学はそれ等すべてのものを一個の人間の内に見る学問だからであります。

神も仏も、救世主も、背後霊・守護霊等々も、すべては人の内なるものとして統一する世界で唯一の学問であるのです。

以上申し述べました事を心に留めて、人間精神の先天(先験)構造をどの様に理解したらよいのか、どの様にしたら理解出来るか、を考えてみましょう。

先にお話しました如く、先天構造とは「認識論上、経験に先立ち、しかも経験の成立・構成の基礎となる領域」のことです。ですから人間の五官感覚(眼耳鼻舌身)では捉えることは出来ません。

見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触ること、即ち性能の中の言霊ウでは歯が立たないのです。

では人間の心の次の性能、言霊オではどうか。言霊オの認識は言霊ウの感覚で捉えた現象と現象との間の関係を求める経験知の世界ですから、経験に先立つ領域の認識は不可能です。言霊オを以てしても歯が立ちません。

人が言霊学に出合う以前に積み上げて来た豊かな経験知識を如何程に働かせても先天構造を理解し、自覚することは出来ません。

言霊ウ・オの次元の方法で求めることが出来ないとすれば、どんな方法・手段があるのでしょうか。

古事記神話の初めの所を見ましょう。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は……」とあります。その「天地の初発」に帰ることです。天地の初発とはどんな時なのでしょうか。

それは人の心の中に今、何かが始まろうとする時の意です。心に何も起っていない時、それが心の先天構造なのです。心の宇宙という事になります。その宇宙に帰るとはどういうことなのでしょうか。

そこでちょっと考えてみて下さい。人は母親の腹から生れて来ます。世の中に生れます。これをもっと大きな眼で見て下さい。人は宇宙の中から宇宙の中の一点に生れて来たとも言えます。

そして宇宙の中で育ち、働き、時が来れば宇宙に帰って行きます。こう考えると、人間は宇宙の中にズッポリ浸り切っている事に気付きます。としますと、人が生れた赤ん坊の時、目が見え始めても、それが何であるか分らず、体に触れるものを感じても、それも何か分らない時、その赤ん坊こそ大自然宇宙の子というに相応わしい存在と言う事が出来ます。

人が言霊ウ・オの立場に立ち、更にアの次元の自覚を得ようとするならば、元の赤ん坊の心に帰らねばなりません。そこに帰るにはどうしたらよいのか。

言霊ウの五官感覚に基づく欲望は、何歳になっても赤ん坊の時と性能に本質的な違いはありません。年を経ると共に変わって来たのは、言霊オ次元の経験知識です。

人は生長するに従い、次々と経験知識を身につけて行きます。それだけではありません。その集積された知識の集合体を自我と感違いして自我意識を強固に形成します。本来は無いはずのもの、虚妄であり、影とも言うべき自我の存在を信じて疑わなくなってしまいます。

この自我意識が、本来の宇宙から生れ、宇宙に育った宇宙の「申し子」である自分の実相を完全なまでに包み隠してしまいます。お日様は常に天空に輝いています。それが見えないのは雲がかかっているからです。

同様に人は生れながらに大自然宇宙の子として救われているのです。その自覚が持てないのは、心にかかった雲である経験知識で構成された自我意識があるからなのです。

人が自らの心の故郷である大自然宇宙を自覚しようとするなら、自分の心の中に入り込み、「我こそ自我だ」と猛威を振い、本物の自分自身を思うように動かしている経験知識で構成されている「自我意識」を、自分本来の心の「衣」であり、道具として心の中で整理して行く事です。

整理の手段はこの世の中に既に昔から整備され、用意されています。それは皇祖皇宗が、二千年以前、言霊布斗麻邇をこの世の表面から隠してしまう前後に、布斗麻邇の原理が隠れる二千年間の人類の心の平安を保つ為に、また言霊原理復活の時に際しては、言霊学への門に入る魂の修行のために、その用を務めるべく皇祖皇宗が世界各地に創立させた儒仏耶の正式な教義を持つ宗教なのであります。

(注。本論考は故島田正路氏のホームページ、 http://www.futomani.jp/ よりの無断の抜粋が多々あります。正確無比な論調を好む方はそちらを参照してください。)

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つち・付いて智に成る

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わたしの意識の始まりが「あめ・つち」の吾の芽からはじまり、「私」から始まる以前があることに気付かれたことと思います。

私の意識があり、私の意識の先天があるというだけなら実体が、物が、有るというだけのもので、意識の活動があることになりません。そこで意識が付く、着く、就く等々という働きが出てきます。

働きは働く場がなければ自身を現わせませんが、ここでは先天を語る時点での話ですので、働く場という具体的なものはありません。あめ・吾の眼が反省意識と共に出てくるように、つくという働きも反省の内に意識され、その働きが確認されるものです。ここでもツクという働きを意識・確認するのはツクを確認できるだけのツク以前の思惟規範です。ということは先天の働きを見るためにそれ以前の先天の働きを設定しているという、無限に逆上るような自己矛盾です。

こうしてここに先天の実体を語るにも働きを語るにも際限の無いそのもとは何か、それが出てくる以前は何かという自己撞着が起きてきます。

そこでこの連鎖を断ち切らないと概念だけの空虚な世界に突入してしまいます。

どうするのかという理性的な方策はありません。

ただ単に、あめつち・吾の眼を付けて智と成す初発のとき、高天原に成りませる神の名は、を実行するするだけが解決に導きます。

しかしここには既に、あめつちに秘められた主客の関係があります。ここで言う秘められたは、後に毘売、姫、女(ヒメ)と名付けられた神名が出てくることで、神の性別の議論となっていますが、全然そういったことではなく、事が秘められている働きが秘められているという秘めのことです。つまり、あめつちに今後の展開の全てがヒメられています。

吾の眼が秘められた実体側であり、つちが付いて智になるという秘められた働き側です。

また同様に、あめつちを秘められた五十音図とする場合には、吾が母音側アイウエオ、眼・芽が半母音側ワイウエヲ、付くがイ段イキシチニヒミイリヰとなり、残り三十二の子音が地に成るものが秘められているとなります。

言い換えればアメツチとは秘められた五十音図ということになります。

ここで、世界が秘められているのか、五十音図が秘められているのか、どっちなんだという意見があると思います。それは同じことです。世界は五十音図の言葉以外を使って表現できませんから、世界とは五十音図のことです。世界を説明する単音要素とその構成されたものという次元の相違になったものです。

初発(はじめ)の時・端芽の十気

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【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、】

【初発(はじめ)の時】とは、端(はし)の芽・眼(め)が現れた時です。

古事記は心の世界の話ですから、心の世界に意識が現れた初めの時ということです。

吾の眼が付いて智となる、その端の芽の時です。

おや、何かなと意識が向った瞬間の時のことになります。古事記とはこの瞬間をスサノオの命まで百の神名を使って解説し、心の原理に仕上げたものです。百の瞬間の物語です。瞬間に百あるというのは信じられないことですが、誰でもが反省意識による確認できることへと導くのが古事記の役割です。

瞬間を百通りに、瞬間の発生していく通りに説明したのが古事記というわけで、あめつち・吾の眼が付いて智となる・天地はその百の行程を一言で言い表したものです。百の瞬間は同時に百の行程となっていて、瞬間の重層的な前承する螺旋上昇していく形で、意識や物が形成されています。

古事記は冒頭百神で最初の一循環目を原理として提出しているものです。

最初の一順目は先天の一順目で、具体的にこれが廻っているというものではありません。何かがあるというその予兆を感じる段階でしょう。それ以上のものは何も規定されずに、しかし逸れなくして次に進めないものです。言葉を喋るには五十音図のお世話にならなければなりませんが、誰一人として秘められた五十音図に気付きません。しかし、実在しています。

古事記では、つまり私たちの意識は古事記でいう百神を通過したときに最初の瞬間を終えます。と同時に百の一つ一つがそれぞれ別の個別的な次元、性質を現わしています。今までの帰納演繹、弁証法では考えられないものですが、意識的な反省において各人が体験確認できるように仕組まれていますので、追求していきましょう。

この後瞬間が百の行程で説明されますが、それにもかかわらず、意識の現れた初めとはイマココの瞬間において現れます。

イマココの瞬間が百あるというのが古事記の主張です。現代の知性をもってしてもとうてい追いつけない内容ですが、真似が出来るように書かれていますので、できる限り古事記の真似をしていきましょう。

古事記が瞬間を解決しているということは、瞬間からなる世界も解明されているということです。とはいっても私が了解しているということではなく、できるかぎり真似ようとしているところです。

つまり「あめつちの言霊現象学」の記述が始まったばかりで、今後百神が出てきますが、その百神が出終わった時が、初発の時の瞬間の終了です。例えば「あ」と言って「あ」と了解する瞬間を百神をもって説明していくということです。

説明すれば数時間数日、あるいは一生かかっても終わらないこともありますが、人々の意識の瞬時の行為の中で普通に実行されているものです。

初発の時ははじめのときと読み、言霊学で読み替えれば、初めて端の芽が出た時になります。

私の意識が付いて智になる初めての芽が出た時の話として、その瞬間を説明するのにこれから百神が出てきます。

とき・時・十気、戸気、十機、戸機 ところ・十こころ・十心

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瞬間であっても、それは時間の流れの中にあります。それを示すのが【時(とき)】で、トキというのは分かり やすく言霊学風に書けば「十気(とき)」となります。

つまり、トキという瞬間の流れの中には十の気(心)が流れたときに最初の瞬間が過ぎたということになります。十気の内容は父韻の項目(筑紫・つくしの島)で述べられます。

前には百の神といったりここでは十の気といったりして言うことがちぐはぐとみられますが、吾という心を語るのにその生成発展から、そのあり方から、その働きから、その現れからというように見方が変わるからです。吾という一点の私の心の構成構造の違いを述べたもので、全て吾の眼に収束していきます。

時はまたところ(空間)とセットで述べられることが多いのですが、時を時の働き、ところを空間を占める在るものとすると、一つ足りないのが事の位相を示す次元です。時空は次元がなければ現れようがありません。ここに時処位の三位一体があります。

時は実相の変化として現れますが、時を十気と現わし、五十音図のイ段で現わしますと、実相の方にも十の流れに対応するものがなければなりません。それが十の心(トのココロ)でところです。五十音図ではイ段を除く横列の十個です。次元の十は主体側母音の五つと客体側半母音の五つで計十個です。このようにココロは縦にも横にもころころ転がり変わるものとしてこころでもあります。

時の当て漢字を少しこじつけ(古事記・つけ)ぎみに書き過ぎですが、戸は横段十個の一つ一つの戸を明けて心が出てくる、機は心の十の事がその機に応じて起こることを示しています。

古代スメラミコトは瞬間が十の気(心)として流れたときに瞬間となる、時の秘密を発見したばかりでなく、それを用いて世界史を形成しました。それが代々スメラミコトに受け継がれてきました。しかしその継承法が、二千年前に統治の実用から単なる形式へと、皇室制度、神道、行事、文化等に変化させました。しかし、どのようなことがあっても大和の読みだけは消失させる事はなかったのです。ここでいう言霊現象学はそれらの形式とは違い、それ以前のフトマニ学に関することを指します。ですので、現代の欠けた五十音図ではなく、本来の五十の音図を述べるものです。

「時・トキ」が流れなら、そのトキ(十気)が流れる場所があり、それが「処・トコロ(十こころ)で、十の時の流れに沿って十の心の形が位相次元として現れ、それが処(十こころ)になり、その場所の現れは心の現れとなります。このように時(十気)と処(十こころ)は対応していて、それがイマココの瞬間となります。

イマココの瞬間の要素はは古事記の冒頭五十神で余すところなく明かされています。

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では、先天とは、 「前もって、あるものは無いけれど、無いものがある」 ことで、あめつちのはじめで言えば、前もって吾の眼は無いが、吾の眼が無ければ吾になれないことで、そのような初めの時を、今として説明してみたい。

「今」とは何か ・今の三態

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今というのはイの間のことですが、イについてはイザナギの神の項目で述べられます。

時(十気)は今(イの間)の時処位として現れますのでその現れ方だけを通観しておきます。

「今」は時の流れのある状態を示しますが、「今」自身に、その在り方とその働きがあります。

「今」の在り方。

一 今そのものが現前しているという今の在り方

二 今そのものが過去から現在にきたという今の在り方

三 今そのものが現在から未来へいくという今の在り方

四 今そのものが上記全体としてあるという今の在り方

今はこれら四つの統合体を指します。

今そのものは上記全体を今の中に含んでいます。意識の切り取り方によってどれかに片寄っていくので、どれかを取り出す形を作ることが出きます。

「今」の働き。

一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今 の働きを作る関係で、今の持続していく働きがあります。

二、産まれようとしてあったものが今産まれる、といういわば、 過去-今 の働きを作る関係で、今が過去を掻き繰る働きがあります。

三、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来 の働きを作る関係で、未来に静まりあるいは拡散する働きがあります。

四、そしてこれら三態が一挙に俯瞰されるように生まれる状態、いわば、 今-全体 の働きを作る関係で、その状態に開くか煮詰まるかする働きがあります。

今という瞬間は上記のように四つの動きをもっていますが、動きの方向の取り方によって上記のそれぞれは受動側と能動側に分かれます。

「今」の意識次元。

「今」の在り方と働きの能動受動側の全部が揃いますと、その働き組み合わせで心に意識の位相がでてきます。(これがまぐわいです)

一 今そのものが現前しているという今の在り方に、産まれようとしているものが今産まれて、今-今の意識を作り、それは五感感覚による欲望次元の世界を形成していき、心の内に主客同一の関係を打ち立てる。

二 今そのものが過去から現在にきたという今の在り方に、産まれようとしてあったものが今産まれて、 過去-今の意識を作り、過去記憶概念による知識概念の世界を形成していき、 心の内に過去を打ち立てる次元相を作る。

三 今そのものが現在から未来へいくという今の在り方に、今あるものがこれから動こうとして産まれる、 今-未来の働きを作る関係で、未来を選択して静まりあるいは拡散する働きの心の次元相を作る。

四 今そのものが上記全体としてあるという今の在り方に、これら三態が一挙に俯瞰されるように生まれる状態、 今-全体の働きを作る関係で、その状態に開くか煮詰まるかする働きの心の次元相をつくる。

今はイマココの一点にこのように分析される内容を先天的に持っていますが、その現れは吾の眼が付くということにおいて現れるので、普段は意識にとってもヒメられているということになります。何々かくかくの意識があってこういうことになるのではありません。それは二番目の過去が立ち上がったところに成り立つので、後天の意識のことです。ここでは後天の意識が導かれる大本を話しています。

そこで時間とは何かと問う場合にも、時間と言ってしまっている後天の時間意識とそれを導く先天の時間の原理とがあることになります。

上記と時(とき・十気)として現れる現れ方を記したもので、現わすことをうながす本体を記したものではありません。十気は十の心のことで、十の心の気が誘われでてくるというイザナギの神の綱目で解説されます。

トキには、その在り方と働きとがあるため、「初発の時」というときの「吾の眼」の内容は上記の在り方と働きの掛け合わされたものが出てくることになります。

そして、さらに、意識の初めには自覚的であるか、反射的であるかの違いによってもその有り様は変化します。

【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時】、つまり、人が意識する当初のことと言ってもその現れを現象として見てしまいますと、無限無数の時空を形成していくことになってしまいます。これでは原理として成立しません。

古事記はそれを避けるために、まず初めの神が出現してくる前に、それの先天とも言える「吾の眼(天・あめ)」を提出して、ことの初めとしました。

そのことによって古事記の初めである、 【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、】とは、私の意識が動き始めて活動を開始する時いうことで、心の始まる時には自覚的無自覚的、条件反射的創造的に係わりなく、吾の眼(私の意識)となるものがあるということができるようになります。

ですので、この吾の眼はまだかくかくしかじかの内容を持ったものではなく、単に始まりというに過ぎません。

ですがこの始まりという動きによって心の宇宙が開き、発展していきます。

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今と言霊神との対応

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在り方。

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今を過去現在未来の在り方働きで見たのが上の記述ですが、それはそのまま、言霊原理となっている冒頭の十七神に配当されています。詳しくは別稿の今現在論を創る予定ですが、対応だけ記しておきます。

一 今そのものが現前しているという今の在り方、主客未剖判 【 言霊 ウ】 天の御中主(みなかぬし)の神。

二 今そのものが過去から現在にきたという今の在り方の客体側 【 言霊 ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。

二 今そのものが過去から現在にきたという今の在り方の主体側 【 言霊 オ】 天の常立(とこたち)の神 。

三 今そのものが現在から未来へいくという今の在り方の主体側 【 言霊 エ】 国の常立(とこたち)の神 。

三 今そのものが現在から未来へいくという今の在り方の客体側 【 言霊 ヱ】 豊雲野(とよくも)の神

四 今そのものが上記全体としてあるという今の在り方の主体側 【 言霊 ア】 高御産巣日(たかみむすび)の神。

四 今そのものが上記全体としてあるという今の在り方の客体側 【 言霊 ワ】 神産巣日(かみむすび)の神 。

働き。

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一、産まれようとしているものが今産まれる、いわば、 今-今の働きを作る関係で、今の持続していく働きがあります。

能動側 【 言霊 チ】 宇比地邇(うひぢに)の神。 受動側 【 言霊 イ】 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。

二、産まれようとしてあったものが今産まれる、といういわば、 過去-今の働きを作る関係で、今が過去を掻き繰る働きがあります。

能動側 【 言霊 キ】 角杙(つのぐひ)の神。 受動側 【 言霊 ミ】 妹活杙(いくぐひ)の神。

三、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、 今-未来の働きを作る関係で、未来に静まりあるいは拡散する働きがあります。

能動側 【 言霊 シ】 意富斗能地(おほとのぢ)の神。 受動側 【 言霊 リ】 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。

四、そしてこれら三態が一挙に俯瞰されるように生まれる状態、いわば、 今-全体の働きを作る関係で、その状態に開くか煮詰まるかする働きがあります。

能動側 【 言霊 ヒ】 於母陀流(おもだる)の神。 受動側 【 言霊 ニ】 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

大本の統括者

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能動側 【 言霊 イ】 伊耶那岐(いざなぎ)の神

受動側 【 言霊 ヰ】 妹伊耶那美(み)の神、で全体を統括して、天地( あめつち)を創ります。

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高天原・たかあま・タとカの「アの間」の原

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【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、 高天(たかあま)の原(はら) に成りませる神の名(みな)は、】

天地(あめつち)が物質世界の天地(てんち)を指さないように、【高天(たかあま)の原(はら)】は心の世界を指し示したもので、天上にある神の住処でも、地名と結び付くどこかの場所でもありません。古事記の客観性を実在の地名探しに求めても、古事記の成立からしてもともと意味のないものです。 (スメラミコトの出生地を高原地帯、チベットを指すかも知れませんが)

高天原がどこにあるかどのような主張をするにしても、全ての人に肝心なことが抜け落ちています。考え主張するその意識場が誰にでもあるということです。灯台元暗しのその意識場が高天原です。言い換えれば五十音図のことで、殊にあ段がタカマハラナヤサと並ぶ五十音図のことを指します。別名天津太祝詞音図あるいはアマテラスの音図です。つまり古事記の目指す思惟規範です。

高天原に関して原文は次のようになっています。

原本「天地初發之時。於2高天原1成神名。天之御中主神。<訓2高下天1云2阿麻1下效此>」

訓読:アメツチのハジメのとき、タカアマノハラになりませるカミのミナは、アメのみなかぬしのカミ、<高の下の天をヨミテ「あま」という。しもコレニならえ。>

高天(たかあま)の原にはこのように「天」の読みに特別な注意書きが付いています。後世の我々のために昔の読み方を遺しておいたのではありません。

天地をアメ・ツチと読み、吾(ア)の眼(メ)を付(ツ)けて智(チ)と成す意味を汲むように、

高天原をタカ・アマと読み、「タ」と「カ」の「ア」の間(ま)の原の意味を悟らせようとするものです。

前項はイの間でしたが、今回はアの間です。

「タ」と「カ」の「ア」の間(ま)の原ではなにも分かりませんが、古事記は千三百年間はなにも開示されないように 工夫して書かれたもので、それまでは多くのこじつけを許してきました。記は付け帳(記帳)に「記(つけ)」と記載されるごとく「つけ」と読めば、古事記は「こじつけ」ということになります。安万侶は序文においても色々な読み方をわざわざことわっているくらいです。

タカアマのハラは「タ」と「カ」の五十音図全体あるいは「あ段」を示したものであり、また、古代スメラ集団がチベットか天竺かどこかの高原の出身(?)であることも示しており、さらに人の意識の領域場を肉体に対して高天原という精神領域があることも示しています。

そして重要なことは、古代スメラ達が追及した理想の完成された思惟規範を得たとき、その構造を書き記すとき、そのあ段の並びが「タカマハラナヤサ」になることを発見していることです。

冒頭の天の御中主(みなかぬし)の神が剖判しますと、高御産巣日(たかみむすび)の神と神産巣日(かみむすび)の神になり、タとカで始まる神名です。この二神に配当された言霊五十音は「タカマハラナヤサ」を挟んで「ア」と「ワ」で、「ア・タカマハラナヤサ・ワ」を創造するものとなるものです。

あめつち(天地)に関連づけますと、アのメが付いて(タカマハラナヤサという付き方)智恵の和・輪(ワ)となることでもあります。

さて、 【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、 高天(たかあま)の原(はら) に成りませる神の名(みな)は、】で、あめつちを私の意識としますと、高天原はどこにあるのかということが問題です。

高天原が吾の頭脳内にあるのか、吾の頭脳を広く飛び出して人間の精神原理として世界中にあるのかです。実際個人としても世界の誰かとしても、理想的な精神規範であるたかまはらなやさを体得している方はいません。

では高天原はどこにあるのでしょうか。せっかく世界の至宝としてスメラミコトが作り出したものなのにその行方が知れません。

それはこういう訳です。

乳房を吸う赤子を見てください。乳をほうばっていないときには、手の施しようのない 泣き放題大小便垂れ流しの赤子ですが、一度乳を吸い始めるや否やどこで覚えた芸当かと思うくらい見事に乳を吸います。ここに高天原があります。

この完全完璧な生きざまは、自覚され追求され理想の形をとるようになるでしょうが、無自覚的にも先天的に備わっているものでもあります。

この先天的に備わっているものであり、同時に理想として目指すものでもあるのが高天原です。

古代スメラミコトはその全過程経過を発見して、古事記の記述となるような準備をしていたのでした。

赤ちゃんに理想の先天規範が備わっているといっても、大小便の垂れ流しが理想的であるのではなく、誰にでも平等に平和的に共感されて受け入れられる動きを作っているところが、理想的というわけです。赤ちゃんは無自覚ですが、われわれは自覚的に追求していけるということです。

ですので高天原は、我々に先天的に備わっていると同時に理想となる追求目標であります。吾の眼とは全く別のものでありながら、それ自身吾の眼であるのが、高天原です。

ここで注意してもらわなければならないのは、赤子が乳を求めようとするときにその神秘な姿が現前してくるように、我々の意識も吾の眼を付けるということにおいて現れてくることです。

【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時】とあるように、その時において出てきます。そうではない時には単なる物理的存在の「天地(てんち)」であって、【あめつち(天地)】ではありません。

ここで、「てんち」と「あめつち」の客観と主観の混乱がでてきます。

「てんち」は、意識から独立して存在する外界の事物で、物理的な作用反作用の世界で、意識作用に関心の無い客観物理作用の世界で、その意識への反映が客観となり、イザナミの世界へとなっていきます。

「あめつち」は、意識に載(宣)った物理作用の世界で、意識に載せられた物理作用の世界とそれを載せた世界とを同時に含んでいる意識上の心的世界で、イザナギの主体となっていきます。

「あめつち」の一つ扉の向こうは単なる物理客観世界で、古事記では黄泉(よもつ)国と呼ばれます。

古事記はこの意識において作られた客観世界(黄泉国)についても詳細にのべられています。

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【成りませる神(かみ・カッと明らかに見られた火の実)の名(みな)は

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【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、】

私の心を相手対象に向けて意識する初めの心の動きの時に、精神意識界にできてくる実体があります。

【成りませる】というのは、現象的には色々な形があります。意識の切り取り方で様々な様態が出現してきますが、ここではその原理です。色々な形の成り方、現象の元です。

【成りませる】はその在り方有り様と、働き生きざまの両者を持った言葉です。ありさまは客観・客体となっていき、働きは主観・主体となっていきますが、そのように両者に分かれたのは「成った」後のことです。しかし、いきさま側とありさま側に分かれて現れたということですから、それ以前があります。

記述の上では分かれて現れた以前というように、別の場所があり別の時間があるような書き方ですが、そのような隔たった時空を扱うのではなく、今ここの瞬間のことです。記述は出来上がった時空の形をとりますから、今ここと言っても、言った瞬間から別の瞬間に成りますので、瞬間そのものを記述はできません。

しかしそういった逃げ口上では進むことができないので、古事記には進行する瞬間つまり、現在から未来へ切り込む神名が出てきます。同様に過去から常に現在に流れ込む神名もでてきます。こうして過去から未来へ今ここにおける進行がありますが、今が今としてなくては成りません。すると、それらの全体があることを保障保全する神様もいなくてはならなくなります。

後の父韻の項目でそれらは詳細されます。

さて、古事記の意識の「成る」、言霊の「成る」、こころの「成る」は、吾の眼が付いて高天原に成ることですが、初発の時の原理において「成る」ことを解説しています。百神目(建速須佐之男)が終了するまでは常に循環の一順目の原理上の説明であると同時に意識の経過でもありますが、百神に達する以前に横道に逸れると正確さを失います。

「成る」は吾の芽しかなかったものから何かが成るで、その成る場所が高天の原です。現象として起きていたものは何も無いのが吾の芽の世界で、何も無い世界から何かが起こります。

同時にもう一つの世界があります。こちらは、あるものが「成りませる」世界です。

あるとかないとか、言葉の遊びのようですが、実際、言葉になった時が成るで、その言葉が流通していることです。名(な)が流れている状態が成るです。

例えば、人参キャベツや発電所が具体的物理的に成ったときには、言葉として成立します。出来る以前は、思いの中の、予定計画アイデアの、主観の、自分だけの、あるいは理解されない流通していないものとしての人参キャベツ発電所です。

原文にある通り「高天原(たかあまのはら)」という精神領域に現れるものですので、人参キャベツが物質として現れることではありません。

ですので成るを分類して、「一つはそれまでなかったものが生まれ出ることである。【人の誕生もこれである。】神が「成坐(なります)」というのは、この意味だ。二つには、あるものが変わって他のものに変化する。豊玉比賣命が「産坐時化2八尋和邇1(みこウミマスときにヤヒロのワニにナリ)」のたぐいである。三つには、何かの事業をなし終えたときに「成る」と言う。「国難成(クニなりガタケン)」の「成る」である。(宣長)」ということではありません。

成るは物の変化ではなく、頭の中に、心の中に成るものです。心の中の主体が心の中の客体に向って成ります。心の主体側は客体と結ばれなければ現れようがなく、それが現れたときには主体の意図が同時に現れる「歓喜」を得ますから、その喜びに従って相手たる物質物象まで手に入れたと勘違いし、客観物と概念の混同を起こします。

五感によって人に引き起こされるのは作用反作用の感覚で、受容回路を遮られると中断しますが、頭脳内の概念と概念の相手には、物理的な仲介者は無く、それに相当するのが概念を運用する論理です。

この各人の運用する論理(記憶に得られた知識)が、頭の中に在る概念と整合しない時には、概念が破棄されます。それでも自分に在る記憶から得られた論理知識が、新たな概念と手を組めれば、自分の持っている判断規範に照らしてそのまま口から言葉となって出てきます。

何も無い心の中に何かが始まります。しかし、何も無いのに始まるはずがありません。時間があり空間があり、始まるものが納まる受容する何かがあります。始まるときには言葉で表現されますから、表現される言葉の元々の時処位があります。

これは始まりとなったもの以前の世界ですから、分析することも言葉で表現することもできません。それを概念を持ってあるとして分析していきますと、先代旧事本紀の、天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊( あまゆずるひあまのさぎりくにゆずるひくにのさぎりのみこと)を設定したり、竹内文書の古代スメラミコトの名で示されるような潜在前意識の羅列のようになります。

しかし、古事記は、

【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、】 として、

【天の御中主(みなかぬし)の神】を紹介するところから始まります。

心の中にできて来る誰でも確認できる初めのできごとで、実際にそのような神がいるわけではありません。以下同様、古事記の神々全てに相当します。

心の中の先天を表現できませんが、古事記はそれを突破するようにわれわれをいざないます。

仏教では方便として使われる指し月で悟りへ導くものです。

古事記は神々の名前を、指し月としてだけではなく、そのまま意識の動きと実体として究明するように導きます。

次に次にと成りませる神々となりますが、単に無かったものから出てくるというものではなく、

「成りませる」を「成り増せる」と書き加えますと、「成りませる」の意味内容は

前承する螺旋上昇階段となります。

次に次にと神々が出てきて、それぞれ独自に成り立っていきますが、前出の神は次の神に止揚された形で独立していきます。

これをまた成長発展とみる場合には、後出の神は既出の神に含まれ芽生えていたものが発芽成長開花したしたもののように扱います。

ですので、これを逆に遡りますと、完成品は既に初めの段階に芽を持っていたということになります。

それらを宗教的に表現しますと衆生は本来仏となります。

ですがここに人は、人としての性能において生きていくわけですから、自然の生物のように肉体は変化していくままではなく、精神意識も自然に連れて変化するということではありません。人が自然の一部という部分ではそうなりますが、精神領域で生きて行く場合には、昆虫の変態脱皮に相当するものを、意志行為による変態脱皮として経験しなくてはなりません。

それが禊ぎとなります。水行とは関係ありません。

変態脱皮では明らかに自然の形態が変化しますが、精神意識界においてのそれは変化をみることはできません。その人の行為や人格の現れに変化があるしもしれませんが、そこにある精神意識は見ることができません。

しかし一応の推測はできそうです。

人生の初めの赤子時代では、欲望の塊で欲しい欲しいのしたいやりたい放題です。一生を通して欲望次元の世界があるでしょう。

数年もすると何故何故どうしてなのと疑問を連発する時代があり、青年期には疑問のための疑問に囚われていきます。欲望とは違うので知って満足して終わることがありません。

また、感情が大きな場を占めるようになって、欲望でも知識でもない感情が一人歩きをするようになります。

そして行為を決断するようになると、欲望も知識も感情も全部含んではいるけれどそのどれでもなく、自分の行為を按配し選択に腐心することが起きてきます。

それらは全て成りまするという形で現存してきます。

自分のこころはここに一つの塊のようにあると思えるのに、その現れを見ていると幾つかの全く異なる次元の集まりのように見えます。

そこにどのような内容があるのでしょうか。