みとのまぐはひせむ。【父韻】

≪みとのまぐはひせむ。【父韻】≫

みとのまぐはひせむ。【父韻1】≫

主体側は働き行為でそれ自体としては自らを現せませんから、「塩」の中から自らに似たものと組んで現そうとします。

主体側は働きですから、その作用する範囲や活動領域があり、自分の活動範囲を造ることは相手対象側の領域範囲を成すことでもあります。主体のこちら側の思いの中では幾らでも拡がるように感じますが、まさにその拡がった領域がそのひとの範囲です。

自らの働きに似たものを探すというのも【こをろ、こをろに、画き鳴(なら)して、】の比喩ですが、働きは物体ではありませんから似たものなどありません。

ではどうするのかというのが最大の謎です。ここで「指す」と言う 、働きの元となる形、あるいは、人間意志のリズム、あるいは音韻、あるいは律動が出て来るのです。

フトマニ言霊学では父韻といいます。父韻は韻であって音ではありません。

よく比較されますが、物質世界では父と母とで子供を作るで分かりやすく通用してしまいます。それを直接フトマニ言霊学の父韻と母音に当てはめると、父韻と母音の組み合わせが子音を生むとなってしまい、構造は分かったように思えます。

さらに音と韻を同列に扱ってしまうことに好都合な説明が、子音のローマ字表記で、「た」が「T+a=Ta」 になるというものです。

これを男女に配当すれば精子と卵子の結合、マグワイの生物的な結果を現し、子音現象を産むようにみえますが、心の表現ではありません。

人の創造行為は本人が本人に働きかけて本人が何かを本人に生むので、オスが働きかけてメスが産むこととは違います。

子音を産むのは主体である本人です。

これを解くには本人にギミの命の二柱のが内在していることを了解しなくてはなりません。

この段落の始めにある、

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」】

とあるのは、ギミの個別の二人の男女神ではなく、本人の二つの作用反作用陰陽裏表となったものです。

例えば机上の画面を見ている時、見るという意識行為の働きによって、見る主体側の主体と見られる客体側の客体に剖判します。

ここで注意しなくてはならないのは、見られる客体を物質実体としてそこにある物体自身とすることではありません。そこにある物体を見るという意識の客体にしたことを指します。見るという行為において意識内に客体が生じてくることをいいます。

この「見る」を意識の全活動に該当させ原理としたものが父韻です。

別々の「主体A」と「実体B」ではなく、私の中の「主体Aと客体A’」のことです。

思考なり意識行為なりが始まったときの頭脳内における主客のことでです。

画面を見て何かを納得するときに「客観画面実体B」と「主体内客体A’」ができるのです。

Bは物質世界のものですから、物質の法則、作用反作用移動破壊変化にたいおうしています。

A’は頭脳内に創造されたもので物質の法則に従うものではありません。

しかしそれを脳内物質として研究対象とすれば、脳内の物理的な変化過程は解明されるでしょうが、脳の働きが解明されたのではなく、働きに係わる物理面が明かされただけです。

そこで相変わらず父韻とは何かが未だに不明となりますが、頭脳内に意識されたものができるのは皆さん普通に納得していると思います。

それでは、頭脳内の意識にできたものは何かというと、まだ何だか分からない、名前も与えられていないので名付けようもない、得たいの知れないものだが、自分の意識の相手対象となっているものです。

これが天の御中主の神となります。

意識の対象として主体の相手となったとき、直ちに同時にそこに意識の客体側が生じます。

ここで肝心な事は、それにはまだ名前が無いという事です。名前が無いので何という事もできませんが、主体意識の相手対象があるという事だけは分かっています。

(実際には瞬時に画面だ本だ鉛筆だとなりますが、そう言えるのはどうしてかの創造原理の話をしています。それは概念があるからだと早まったことは言わないで下さい。その概念はどのように出来ていくかの創造原理ですので。)

この時点では示された名前はなく、またあってはならないのです。名前は無いが在るという意識がある事が、物事の始まりです。

【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」】の始まりです。

みとのまぐはひせむ。【父韻 2】。≫

五感感覚によって与えられる感覚欲望意識、記憶知識によって与えられる概念意識、感情情緒によって与えられる全体統合意識、選択分別によって与えられる実践行為意識等、これらはそれぞれ異なった四つの次元層を成していきます。(言霊ウ、オ、ア、エの次元層)

それぞれの表現はそれぞれ異なった物質、物象の介在に直接にか間接にかに左右されていきます。机上のカップを見るとき、コーヒーを飲みたくなるのか、フランス語では何と言うのか、カップに描かれた図案に感心しているのか、カップを手にしてもう一杯いくかどうか、等々の意識の流れが起きます。

そこでチラッとああー何かがあるなと、あめつち・吾の眼が対象に付いてこれは何かという地盤が出来たとします。

ここで吾の眼は主体側の私の意識です。意識の向かって付く相手は物質的なもの客観物です。眼がカップを見てカップと言ったり、画面の文字を見てカップと言ったりで何でもないことのようですが、よく見ると意識が物質、物象と向かい合っている不思議なことが起きています。

眼がカップを見ていてもその全過程は物理光学的、生理学的な作用反作用で説明できてしまいます。物質には物質の通過する過程があって、物質は物質同士で関係し合うからですが、ところが見ているものをカップと言うとことについては説明が出来ません。

カップというのは言葉で物質ではないからです。物質に付けられた名前です。

もちろん名前も物質化出来ます。画面の光点になり、インクのシミになり、空気の振動になり、物質として固定され保存もできます。ところが今度はそうなったものをいくら整理分析しても、物質の変化過程しか出てこないのです。言葉の意味内容など理解できず無視して表現コピーが可能です。

ですのでここには言葉として、物質次元とはまったく違う言葉の次元があることになります。

ところがその言葉の相手は、精神意識でこれまた、言葉とはまったく別の次元の存在です。

この異次元同士を結び付けるのが問題となっています。

そして、この、物質と意識と言葉の異次元同士を結びつけるものが 「父韻」 です。

【天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。】

・(吾の眼が付いて地になる初発の時、タとカの先天の原に成りませる精神意識の御名は、先天の今中の主という精神意識実体です。)

冒頭のここで言っていることは、私の吾の眼という精神が、相手対象の地に付いた時、精神意識に出来てくるものがあり、その名を始まりとなる主と言う、となります。

ですので、父韻の原初の姿が高天原です。

吾の眼が付くと、まず、始まりとなる主は実体も機能働きも、母音も父韻も全部ひっくるめた全体統合された今中の天の御中主となります。

そして、父韻は対になった四組ですから、まず対になるものが示されます。

【 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 神産巣日(かみむすび)の神。】 です。

読みは「た」が付く以外同じです。(漢字表記に囚われないこと)原初の父韻の主体側四種と客体側四種を現しています。

冒頭は原理構造の実体を現していますから、次にはそれを体現する働きが述べられます。とはいっても先天の原理の中では、実体と働きは切っても切れない世界です。

冒頭三神は先天の実体神として出てくるだけでなく、高天原に成るという働きとしても同時に述べられているものです。

あめつち(吾の眼が付いて地に成る)時の父韻はまず、天の御中主(みなかぬし)の神(言霊ウ)の姿をとり、次に、 高御産巣日(たかみむすび)の神(言霊ア)、の主体能動側と、次の 神産巣日(かみむすび)の神(言霊ワ)の客体受動側に分かれます。

剖判しつつ、精神意識界の五感感覚からする欲望次元を創造し、ついで、感情情緒次元を父韻の内容としていきます。

≪「知」≫

ここでおもしろいことに気付きました。

今まで天地(あめつち)を吾(私)の眼が付いて地になるとして、「地」に成って子供現象が出来ると思っていました。

ところが「地」を「知」にしても同様に成り立つことが分かりました。

言霊ウ次元、五感感覚からする欲望実現の次元で身体感覚による知覚了解。

言霊オ次元、記憶概念による過去を実現する次元で、概念による知識了解。

言霊ア次元、感情情感による全体的な感情知識了解。

言霊エ次元、選択按配による未来選択を目指す実践行為による選択知識了解。これには先を読む「智」という字が当てられることもある。

「知」は「矢+口」で矢の口です。矢は攻撃殺傷用武器で口から出てくるところなどまさに、知者によくあることです。知識の効用などは全く喋りたくてしょうがなくなるものだし、自分の知識以外を攻撃するものでしょう。これは知識量の多少とか比較とかに関係なく起きることもあります。

何故なら自分に知っていることは自分が知ってることで自分の所有物となっているからです。それを突つかれ反対されることには我慢がなりません。道徳家でも高尚な志の持ち主でも同じで、メダルと賞金という金の矢の前にはころってまいってしまいます。

「知」を「チ」として知識の意味で使用していくとそうなりますが、大和の日本語の「シル」知るで使用しますと、全然語感が変わります。大和の日本語では口から矢が出てくるのではなく、矢の飛び行く経過の上に口が乗っていく感じで、それぞれの経過上の各時点が口になります。

ヒフミ神示には、「神の動きは、アヤワ」「アとヤとワざぞ、 三つあるから道(三知)ざぞ、」の言葉があり、「ヤ」がア(吾)とワ(相手)を結ぶヤとして示されています。おそらく「知」という漢字は古代大和が中華国に与えた漢字か、中国の知者が大和から学んだものでしょう。

というのは「矢、ヤ」は「ア、ワ」を結ぶ、「口」を持つ主体の吾を相手対象に結ぶ、父韻であるからです。未だかつて中華の国にはフトマニ学の父韻はありませんが、古代において学んだ人はいたでしょう。

心の各次元にも「知」は当てはまります。身体感覚による了解、概念知識による了解、感情情念による了解、選択実践による了解、それらはそれぞれの了解の仕方を持ち、それを各次元による「知」の創造とすることができます。

そうすると、「あめつち(天地)」は吾の眼が付いて知に成る、となります。

古事記の冒頭の天地(あめつち)は吾の眼が付いて知に成るとなり、古事記全体は心の原論であり、知識とは何かになっていきます。確かに知識は人にとって生きていく上で最も重要な性能の一つと成っています。

またフトマニ言霊学の総結論である三貴子の役目を示す場面では

【 この時伊耶那岐の命大(いた)く歓喜(よろこ)ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三はしらの貴子(うずみこ)を得たり」と詔りたまひて、、、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝(な)が命(みこと)は高天の原を知らせ、、、次に月読の命に詔りたまはく、「汝が命は夜(よ)の食国(おすくに)を知らせ、、、次に建速須佐の男の命に詔りたまはく、「汝が命は海原(よなばら)を知らせ」と、】と述べられています。

現代語訳では「知らせ」を治めるとしています。治めるにしても内外のいざこざを持ったままの漂える国の統治ではありません。自他共に「大(いた)く歓喜(よろこ)ばして」という確証を持ったものです。

吾の眼が付いて知になる創造の喜びが宣言されています。漂える国を修め固めることが、創造知識の喜びとなりました。

私たちの疑問である父韻とは何かは、漂える国を固める、創造知識の喜びとなって来るでしょうか。

では元に戻りましょう。

みとのまぐはひせむ。【父韻 3】。≫

自然の過程と父韻。

あめつちの「ち」を知としても地としても、まだ父韻の秘密が解けたわけではありません。 矛を「人間意志のリズム」としても、「働きの元となる形」としても、よく分かりません。聞き苦しいのを承知で続けます。

前に、物質と意識と言葉の異次元同士を結びつけるものが 「父韻」 ですと、書きましたが父韻は頭脳内で働くものです。とはいっても意識の働きは物質界の働きの上に載っていますから、自然界から役立つイメージが借りられるかも知れません。

単純な視覚を得る、机上の画面を見ることにしても、生理的、光学的な物理過程が脳髄に載って来る訳ですが、古代には今のような科学的知識は無いなりに父韻を形容していました。

眼を開けてああー画面があると納得する最初の場面は、現在ならば光学的に眼の機能で説明されるでしょう。古代ならば、

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき】を、見ることに当てはめたことでしょう。

まず、見る以前に見る側と見られる側の全体世界が揃っていて、眼を開けたときに私の心と見られるものが同時に頭脳内に載り、何を見ているのか何が見られているのか不明瞭なものを明らかにするため、それを表現表明するための矛である舌を使用した言語活動を、同様に先天から得て、納得できる形に現す、となります。

ここまでは客観物が視覚に与えられて、それは何であるというまでのことですが、科学的な知識があろうと無かろうと、比喩暗喩を使おうと誰でも同じことを喋ります。比喩の仕方が上手下手があるように、知識量にものを謂わすこともできます。

しかしいずれにしても、頭脳内に載った視覚像をそれは画面であると言葉で言うことを説明できません。科学知識では画面なるものを幾ら分析しても「がめん」という言葉はでてこないのです。

もちろん私もそれが「がめん」だと言っているのは、過去知識の継承でしかないので、単なる記憶上のことです。画面と言うものを知っているからというだけです。古代には画面など無いけれどそれに類したものとして、ツラとかオモとかがあるので、古代人ならそう言ったことでしょう。

画面をオモに言い換えればそれでうまくいくというわけではないのですが、いつまでも同じ処を廻っていないで古事記に頼りましょう。

【かれ二柱の神】と、見る側と見られる側が出てきます。眼は外物を見ていますが、その同じ構造が頭脳内に在るということです。眼を持つ私がいるだけ、外物があるだけでは何も起きませんので、その両者を取り持つものが必要です。

【天の浮き橋に立たして】と、先天の父韻の全体が紹介され場面が設定されます。両者を取り持ち仲介するのは、総合的な言い方ですれば、意志となります。眼を開けただけで物が見えるのが何故意志なのかと言う疑問もでますが、ここでは全体を現す言葉として使用します。

意志というのが気に入らなければ、律動、動因、弾み、創造力、天手力男(あめのたぢからを)の神、イザ、根本智性、等お好きなのをどうぞ。

自然界なら作用因となるもので、力(チカラ)そのものではなく、作用の因子となるでしょう。

木の葉が揺れるのは、風が吹いたからでは済ませられないのです。

風は気圧の高低の差から出て、木の葉が揺れる現象を起こしますが、それは自然界の現象を見てしまった記憶から始まっていることで、意識の介入があるように読み込んでいるから、自然の過程を以て意識を説明できるように感じているのです。

また実際、頭脳内に生理光学的な視像ができるところまでは、自然科学で説明できるでしょうが、人が言葉を生んで「木の葉が揺れた」「光を見た」「画面がある」と言い出すことまでは説明できません。それらの生理的な反応物理作用があるというところまででしょう。

自然界で木の葉が揺れるのは、風の力ではなく、まず風があって、木があって、木の葉が出ていて、風を受けて、木の葉が柔らかくて、風を遮るものが無くて、等々と風と木の葉の双方の条件が揃うことがなければ木の葉一枚も揺れません。このように、風の力の因子と木の葉の因子が共に共感というか、共時性というか、力の場所移動での一致があるというか、そう言ったものが働くからです。

ところが自然対象を見ていることでも、その過程を自然に沿って説明をしているその言葉そのものがどこから来ているのか、全く明らかでありません。

「木の葉」を使って説明しているとき、説明者の「木の葉」に同調しているように感じているときには分かるように感じますが、別の「木の葉」をイメージしている時にはなかなか同意できません。

というのもそこでは自然過程での木の葉の動きを見ているのではなく、「木の葉」という言葉の現象から入っているからです。科学者なら自然過程をみんなで共有することはうまくいくでしょう。しかし、聞いた現象となった言葉である「木の葉」から入ると、聞いた人の過去経験で獲得した言葉の内容が前提となりますから、共有するものは概念だけになります。

もちろんその為にも言葉はありますからそれはそれで必要なことですが、ではその始めの言葉ができたときはどうなるのかとなると、自然科学の理解、概念の理解では手が出ません。

そこで言葉ができる因子を、人の心の中では父韻として見ていこうとするものです。

うまく行くかどうか、自分に納得できるかどうか分かりません。ここでも既に先天の父韻が出てきてしまっています。先天にあるものを設定することになりますが、先天は説明できません。説明できれば後天現象になってしまうし、古代大和のスメラミコト達は人に有るものを発見したのだからそれでよいのだ、ということ以上はできないでしょう。

みとのまぐはひせむ。【父韻 4】。≫

頭脳に反映された客体、頭脳に反映する主体。

さて、五感感覚、感情情緒、知識概念等が各人の頭脳内に昇ってそれぞれを占有していることは生理的に証明できるでしょうが、古代にはそんな知識など無くても心の原理を発見造ってしまったのですから、知識を解明の鍵にするのではなく、他のもっと重要なものがあるのでしょう。

【 ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき。】

眼をふと開くと机上に画面があり、キーボードがあるのを納得了解するほんの瞬間の出来事の話です。例が詰まらなければ好きな人の顔があるでもいいです。

ただし眼を開けた瞬間には物があるか何があるか、ある物をどうするのか等々、何も分からない時間経過があります。そこに流れる瞬間のことです。

眼を開ければ光が入りますが、光が入ったという全体的なものがあるだけです。【ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて】の状態です。その光を見るのか、遮るのか、どうするのか、【伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、】です。眼を開けたのだから光は入るね、光があるね、光を見ている自分がいるのだから。

ここに、心において頭脳内で光を見ている自分と、心において頭脳内で見られている光の自分(伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神)ができます。これは各人の心の内にできます。場所としては高天原と呼ばれる頭脳内のどこかです。

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≪私の心、あなたの心の内に「伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神」が成立していくということです。≫

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(注。 間違えないで下さい。普通に説明されている客体は次のようにウィキペディアにあります。

「見るもの、知るもの(主体)と見られるもの、知られるもの(客体)」の2種類の存在を認めて、客体とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物で、意識から独立して存在する外界の事物、客観で、主体とは感覚を受け取るものであり、意識である。」

これは外物である物を客体と言い換えているだけのもので、古事記の言霊学は物の研究をしているのではありません。心に載っている客体です。)

見られている光の自分はどんなものかはまだ何も規定されていません。単に光があるねというだけのものです。色が付いていて形があって大きさがあって何か区切りがあって隣とは違うものがあって等々、差異を比較する以前の状態です。光が最初に眼に入ったときはこんな状態でしょう。

もちろん他の生理的な受容器官を刺激するものは全部同じです。それぞれの受容器官は始めの状態では「漂える国」です。当初の状態は差異、比較など無く、感覚受容器官のどれが働くかも分からない状態です。

それにもかかわらずそこに何かがあるということを知ると、それではどうするのかという別の性能がはたきます。眼を開けてそこに光があると知るだけでも、人間の全感覚受容器官から視覚が選択されているからで、他の動物なら光を圧感覚としてとらえたり、温度、触覚として捕らえたりしているかもしれません。動物たちの人間をはるかに超える能力の出所になっているかもしれませんが、その反対に、人間にはあの世のこと霊界のことに出入りする性能があるのかもしれません。

主体も客体も心の内のできごとですから、「外界の事物」の心に載った姿を扱いますということで、続けます。

みとのまぐはひせむ。【父韻 5】。≫

実際に自分の心に自分の主客が載っていることを見るのは大変なことです。

概念ばかり扱っているようなこのブログではどこに主客があるのか、知識や観念の羅列のように見えます。

それでもそれなりに、【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、】言われてますので続けざるをえません。

頭脳内に主客が載りました。見るもの側と見られる側と簡単に言いますが、どんな形で載っているのかは分かりません。主体というのもどこのどこに主体があるのか分からないと共に、客体もどこにあるのか分かりません。いつか脳内科学で以て分かるときが来るかもしれませんが、いまのところは古代の大和の聖人達と同じ条件下でしょう。

この頭脳内での分からないものをどうするのでしょうか。

古事記は【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依さしたまひき】で、主客を沼矛でどうにかしろというわけです。

第三の要素というか、主客ではない、【天の沼矛(ぬぼこ)】の登場です。

普通ならば主客、わたしとあなたがいてそれだけで何かが出てくる、と思えているのですが、古事記の考察は非常に細かく本質を突く連続となっているようです。

矛については既に説明しています。確かに舌の形をしています。それを使えというのです。ここまでは【天津神諸(もろもろ)の】お膳立てです。見る主体などといいますが、ここでは自分が選択をしてどうするかの決定をして、物を見ることの自分の決定以前に【天津神諸(もろもろ)の】お膳立てがあり、それを受けいれる形をとらざるを得ません。

眼を開いて視覚像が入ったことは入りました。それを受け取ることにしました。ここまでは生理的な光学的な作用反作用の過程が、頭脳に反映されて、電気信号か化学物質の分泌とかが起こっているのでしょう。そしてそれは記憶され後に利用されることになるでしょう。この過程の上に出てきた矛とは何でしょう。

もちろんこれが父韻の象徴で、光が入って視像ができているのを整理分析して運用できるようにして、主体と客体とが関係できるように同じ土俵上に載せるものです。父韻は音(おと)ではないので、頭脳内の音が何かの働きをするわけではありません。

【かれ二柱の神】、 そこで心の中にある主体と客体は矛を(口、舌、発音、発声)をもって、【天の浮き橋に立たして】 、心の働きの橋渡しの両端に立ちて、となります。

【かれ二柱の神】というのは頭脳内の自分の見る見られる働きの相対的な表現ですから、橋の両端にそれぞれ立つイメージを得ますが、私の心という一つのものの相対的表現ですから、このあとにはやはり私の心の統体絶対表現となった「天の御柱」(物象となって伊勢の心柱)とも表現されています。後者の場合は橋を渡るではなく、柱を左右に巡るになります。

矛は舌で発音する器官で、主客を結ぶのは言葉であるという暗示をしています。

どうしてここでは、光が入って来たり、鐘の音を聞いたりする主客の関係が何故言葉を発することになるのでしょうか。

光が目に入ってそこにあるものは実は生理的な光学の作用反作用で、鐘の音を聞いているようですが鐘からは空気振動が伝わってきているだけのことです。

眼に入った光がこういうものだパソコンの画面だとか、鐘の音がゴーンと聞こえたということではないのです。光が視覚細胞の幾つかに刺激を与え色形を現し、鼓膜を振動させる周波数帯にあるため音が聞こえたので、最初から鐘がゴーンと鳴ったのでも、パソコンの画面が現れたのでもありません。

ここの始めの出来事では未だ主客の双方が相手が分からないままの状態です。

そこで私の心の主体側と私の心の客体側はそれぞれの位置を占めるように【言依さしたまひき】されるのです。

主体だ自我だ自己だと、私が考えるとか私が見たとか、言って勝手にやっているようですが、【天津神諸(もろもろ)の】お膳立ての範囲にいるのです。実際机上にはパソコンだけでなく様々なものがあります。またパソコンしかない場合でもそれには量的な大きさがあり、眼の行く場所は無数にあります。当初には自我が決定していることなど何もないのです。鐘が鳴った、画面があるというのはもっと後のことです。(瞬間内の後のこと、今現在の瞬間にはまだ含まれていない。)

ですので私の心に光が入っても、それが何であるか指し示せないことが重要なことです。空気の濃淡が鼓膜を打っても鐘が鳴ったのではなく空気振動の作用反作用が起きているだけです。

光が何であるのか視神経をどんな形の物として刺激しているのか、物理生物的な科学上の過程はあっても、それは何だとはまだ言えないし、分からない状態がなければなりません。当初の瞬間では認知了解までは行かないのです。

眼をつぶっている眼前は八百万の世界です。暗黒の八百万世界を前にして眼を開いた瞬間も同様です。パソコンがあるというのは八百万世界から選択されたものの一つです。奇跡のような出会いがこれから起きるのです。

今は不明な八百万世界の対象はそれが全部心の対象となるもので、やはり心も八百万も同じくどれになるか何になるか不明な状態です。主客の二神はこうした世界に立たされたのでした。

そこで何がどうなるのかの検索が始まります。

その為には、主体側は何を見て、客体側は何を見られて主客が同じものを指しているということを示さねばなりません。

そこで、【その沼矛を指し下して】 、先天実在に、働きの元となる形を投入して【画きたまひ】 、主体側が、主客に調和するように掻き回して 両者の共通項を探すことになります。

八百万世界を掻き回して画面なら画面が選ばれて見ていることになります。今度はこの画面がどのように選ばれているのかの働きがきます。心の対象は宇宙世界全体で、それを探し掻き回して何かを得るその対象全体があるわけですから、その全体を【画きたまひ】 となります。

その全体をここでは

【塩(・鹽・潮・うしほ・しほ)】 で表現します。

【塩】は客体側、実在母音世界・シホ・四霊(しほ)・アオウエの言霊世界、心の対象世界全体のことです。

眼を開けて最初の瞬間に飛び込んできた何かの光の形をもったもの以前の、全体世界のことです。眼を開ければ何かが飛び込むと言われますが、古事記はそのさらに一瞬以前の話をしています。確かにそういった世界があることは分かると思います。

見たものなり聞いたものを後で何々と言うことになりますが、まだ何も言わないときはこの世界全体を指します。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色は仏陀の教えですが、これを先天と後天から見ると分かるのではないかと思います。

しかしこの仏陀の教えでは実体があっちとこっちにある事を示しているだけで、この両者をどうしてどうするか、子を生み現象を生み子音を産むという何でもない普通のことが説明できません。

古事記はこの父韻の働きを説明して、

【こをろこをろに画き鳴】らせといいます。【こをろこをろ】、は子を下ろす、子を降ろすで、子音、現象である子を産むということです。先天実在母音世界を掻き回せ、というわけです。

【塩】がこをろこをろと鳴る訳がないのですが、(ある時は語呂合わせ、こじつけを取り、ある時は事実ではないと取る柔軟さが必要。)、シホという言霊先天世界のウオアエを鳴らすという、鳴ることの方に注目します。また母音世界との交渉で子音が凝固するという比喩でもあります。

目前の先天世界を掻き回し、その中からパソコンの画面があったとか鐘の音を聞いたとかを選ぶことです。選ぶ対象はウオアエの心の世界全体からですから、そこから何か一つが出てくるのは凄いことです。

その時の矛の動きが、

【引き上げたまひし時に】、で上下のイメージなのは、橋の上に立っているからではなく、心の在り方が御柱状態であるからです。

柱はウの欲望、オの知識、アの感情、エの選択、それら全部を支えるイの意志の重層構造で成り立っていて、意志の働きがそこを自由に上下していきます。

ですので眼を開けたときに目前にあるものがおせんべいに見えて食べたくなったとか、埃の付いたのを見て嫌気が差したとか、出てくる現象は画面を見ることだけではありません。それらをまとめて【塩(しほ)こをろこをろに画き鳴して】、と言っています。

そこで引き上げてしまえば結果現象があらわてくるのですが、矛を舌、言葉としても、どのように釣り針が付いているのか、どこに釣り針を投げ込むのか、どういう時に釣り上げるのか等々全く分かりません。ただここに父韻の働きがあるというだけです。

みとのまぐはひせむ。【父韻 6】。≫

父韻が働くにはその実体がなければなりません。

頭脳に載った父韻の実体がどこかにあるわけです。古事記には冒頭に父韻が妹背の四組八神として既に出ています。

父韻とは何か分からないけれどこういうものだと複写しておくだけなら簡単なことですが、やはり自分で知り納得したいものです。

眼を開けて何かの光景が飛び込んできますが、何故それを受けいれるか何故見るのか自分でも知りません。眼を凝らして何者か確かめたいという意思でもあるのでしょうか。 見ることなく目移りしていくことや、見て確かめることなく、また眼を瞑っても構わないわけです。

とするとやはりここに主体側の何らかの意思、見ないよりは見た方が、聞かないよりは聞いた方が楽しいような、生きていることを確かめるような、そんな意識があるのでしょうか。見ないよりは見れば【益して貴き(神)】ものに会えるものに会えるということでしょうか。

注。【益して貴き神】は天の岩屋戸の段落での言葉。

主体と客体が頭脳内に載ったからといってその通りにすることもないのですから、やはりここには何かを受容するというのは、五感感覚であれ知識であれ自分を【益して貴き(神)】に会えるという根源的な人間の欲望がありそうです。(見たくも聞きたくもないのに注意を傾けてしまうという形で現れることもあります。)

こういったことも人間精神の原動因から来るものなのでしょう。よく、どうでもいいことだがしてしまう、なんでも構わないのにやってしまうと言います。おそらくやってしまった人は自分を現すのにそうとしか言えないものなのでしょう。そこにある根源的な意思表示の言葉を見つけられないからのようです。

そこで前に進むには頭脳内に載った主客が【益して貴き(神)】ものに会えるということが、頭脳内に起きているので、主客を結んで現象化させたいとなるのでしょう。

脳内科学でドパーミンとか快の感情伝達物質とかいわれますが、古代大和では既にそういったことに気付いていたのでしょう。

頭脳内の主客と矛の関係を説明する順番になりますが、生理的に主客が頭脳内に載ること以上に、【汝が命に益して貴き神座すが故に】ということの方が為になるよという何ものかが必要となります。頭脳内に主客が載っても載っただけのことなら何も生みませんし、見開いた眼に光が反射しているだけです。

主客があるというだけなら何でもありません。生物的な作用反作用があるというだけですので、ここに主客を生かし益するには主体側の動き関わりが必要です。古事記ではそれを、

【「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、】と、

主体側である伊耶那岐の命に言わせています。

「君のからだはどうやって出来たの、」というのです。

【身(からだ)】を他の言葉に置き換えてみてください。君はいるの、神はあるの、等ではなく、【「汝が身は、君は、神は、何々は、○○は、いかに成れる」と問ひたまへば、】です。

いるの?あるの?ではなく、【いかに成れる】?、です。

主客の載った頭脳内でこの問いが発せられるのです。

この問いが発せられなければ何も起きません。私たちはどの場面のどの時々刻々の瞬間に無数のものを見て聞いて、それこそ受容しきれないほどの外界の刺激をうけていますが、その大半は生理的な作用反作用を示すだけで心に残すことをしません。

何故なら、【「汝が身は、いかに成れる」と問ひたまへば、】ということがないからです。主体側が興味感心を持ち相手側に問いかけをしない限り時と共に流れさるだけです。とはいっても記憶と印象は意思に関わりなく生物的にも作用をもたらしているでしょうがここでは触れません。

【「汝が身は、いかに成れる」?】の代わりに、「汝が身は、いるの?あるの?」では、いるのあるの、そうなので終わりです。これはいわゆる蛭子(霊流・ヒル・子)で、主体側の霊が何も実らないものとなります。

また、「問ひ」というのは説明の都合上そのような過程の一場面が設定されているので、一瞬で過ぎ去る日常生活上の瞬時ごとに意識的に問うているのでもありません。しかし、これは非常に有効な説明の手段となっていることでしょう。

見るものは見て見っぱなし、聞こえるものは聞いて聞きっぱなし等々で大部分のものはその時の場面から去って行きますが、時には思い出や印象が突然ぶり返すようなこともあり、頭脳内では消去されて白紙になるのではないようです。八百万の記憶として誕生時から保存されているのでしょう。

ですので、眼を開いて目前の光を見るときには、その人の全過去世界の光を見ていることになるでしょう。特殊な場合には臨終の折にそれを見るなどともいわれています。そうでなくても、各人はその人の生きてきた全過去は瞬間の光の中にふくまれているとも言えるでしょう。眼を開ける瞬間などはそれこそ無限回数、常にありますから、ヒョンな事からアクセスしてしまうことなどが起きているかもしれません。

その為にというか、我々は先天から【天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、】いるし、【その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、】います。

頭脳内で「君の身体はどうやって出来たのかい」とギの命が聞きました。

眼を開いたときには八百万の全体的な光がやってきました。八百万は現代の言葉で言えば無限無数ということです。寝ぼけている時にはかなり長い間、といっても一秒ぐらい、光のもやもや状態なこともありますが、直ちに、光を意識している自分と自分が感じている光という対象がある分裂剖判状態に成ります。

無限の世界が自分とひかりの二大世界に剖判します。有限の始まりです。それでも光を見る主体側は主体の動きに関する主体の無限の動きがあり、見られる光の客体側には見られることに関する無限の客体があります。それぞれが元の無限が剖判されているものの、主客の無限を現しています。

ですので、【「汝が身は、いかに成れる」】というのは、主体側の無限が客体側の無限に問う形でもあり、その無限の中から興味感心を引いた事を問うことでもあります。

ここで問題なのは問いの中身が受動側に受けいれられることです。

ギの命の一般的な問いならミも一般的に、特殊個別的ならそのように応答可能な共通性を持っていなければなりません。

この場面では眼を開いた当初のことですから、ギの命の相手の客体・ミ・は無限であり、無限対無限の関係です。ミの命の方にも色も香りも無く、無地無名です。ミの命の方に何か名前のあるものであった場合には、ギの命はその名前の付いた問いしか発することができません。

次に、

まぐはひの段落を引用しつつ続く。

みとのまぐはひせむ。【父韻 7】。≫

【 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのごろ)なり。その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。】

【淤能碁呂島(おのごろ)】は、おのれのこころ島で、島は締まり領域です。おのれの心の足が地に着く領域を造ったということですので、家が建つ土地が自ら固まったのではありません。どこかにある小島を探す解釈が多いようですが、世界宇宙と同等な大きさを持った心の領域締まりのことです。

ただし宇宙世界の過去知識概念の実体方面を指します。

冒頭にある天地を「アメツチ・吾の眼が付いて地に成る」と読みますが、「付いて地に成る」の「ツチ」がここではオノゴロ島です。「アのメ(吾の眼)」の主体に対する客体側の付く相手の地が「オノゴロ島」というわけです。

心の五層での「オ」は過去知識記憶概念の世界を指しますから、吾の眼が現れるにはちょうどその上に載ることにならねばなりません。

五十音図ア段は、主体側の吾・私のアで始まり、コソトノホモヨロと通過して、ロをを最後に客体側のヲに渡されています。アの霊の実体となっている私であるオのこころがロを渡って客体側になることです。おのころ。

ですのでここでは、己の心の島であり、吾の対象となりそこに現れる、「オ」の(おの)凝(こ)り固まった心の拠り所(ろ)の島でもあります。

こうして先天吾の意識主体が現れる地盤が確保されます。

【その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて】

先天客体実在を掻き回して、得た【垂(したた)り落つる塩】は自分(おのごろ)内の客体実在です。掻き回すを、自分で経験して、勉強して、あるいは習慣で遺伝で得たものとすれば、自分の心も考えも思いもそれだけのものとして得られた【塩・(四霊・欲望、知識、感情、智慧)】となります。

つまり既にあるもの(言霊オの世界)のオコソトノホモヨロヲを自分の心に移動転写したことになるでしょう。先天の大宇宙は常にあるものの、その無限性を自分という有限で締めくくるりその締まりを(島)造り出しているということです。

ではその締まりは、どのような地盤の島であるかというと、オノゴロ島全体が、【天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき】となっていてので、島のどこか一角に御殿を建てるのではありません。

【淤能碁呂島(おのごろ)】はおのれの心の島なのですから、当然島全体に【天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき】となり、「オ」の(おの)凝(こ)り固まった心の拠り所(ろ)の島となり、島と自分とは一体同一です。

【天の御柱、八尋殿(やひろどの)】は、冒頭の十七神全体です。自分の心に自分が働くための神々の地盤を用意して、その上に載って自分の神々を働かそうというのです。

おかしな言い方ですが、先天と後天、主体と客体を一文の中にまとめるとこうなってしまいます。先天十七から、自分の先天十七に【言依さ】れ、その十七を用いて自分の十七の上に、自分の十七を造ったのがオノゴロ島です。

言葉の辻褄合わせをしているわけではないのですが、古事記の冒頭百神そのものがもともと一秒にも満たない言葉の発声を百の過程に分析しているものですから、このくらいの真似事もしてみたくなりました。

さてこうして、【天の御柱、八尋殿(やひろどの)】を見立て心の準備ができました。

【天の御柱、八尋殿】は、自分のこころに載ったこの世の、この宇宙の、この歴史の全て自分の全てと、これから働き動き出す未来に向かう瞬間の全てです。

【天の御柱、八尋殿】は簡単に言うとアイウエオ五十音図のことです。私たちはこの五十音図で以てこの世界宇宙と自分と未来を全部言い現すことが出来てしまうのです。

みとのまぐはひせむ。【父韻 8】。≫

いよいよ父韻が動き出します。

もちろん父韻は元々動いているものですが、動くものを記述するには、まず動くものがあることを紹介しないと、動きの現れる場面が出てきません。

しかし紹介説明した後に、それらが、まず在る、としてしまうと間違えます。

まず在るとするのではなく、そう成るのです。成る実在として先天に在るのです。

例えば、「太初(はじめ)に言葉ありき、言葉は神と偕にあり、言葉は神なりき」(ヨハネによる福音書第一章一節)で言葉をまず在るものとしますと、すぐ壁にぶつかります。

まず何国語としてあったのですか、神国語が、各国語になったというならおとぎ話になるでしょう。

続く次の言葉において、成るのです。

「太初(はじめ)には先天に言葉となるものがありき」、「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」

この産む働きにおいてまず在るので、最初からまずあるのではないのです。言葉なるものがまずあってそれが母親みたいに子を産むことではなく、言葉となることがそのものが生まれたということです。

言葉は生命なんです、言葉は命の内容であるからそれが現れてきます。

この現れの原動因が父韻です。父韻は次のような経過を取ります。

【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、

【「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、

【答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。

【故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、

【伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。

【 かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ

ここに現れる男と女の動きの目に見えない動因となっているものが父韻と呼ばれるものです。ですので男の身体そのものとは違います。父のイメージから男のイメージだけを取り上げていきますと父韻はでてきません。見えない動因を追うようにしてみましょう。

この段は前にも既に書きましたが、書いたからと言って分かっているわけでもないし、読んだからと言って分かったわけではないでしょう。繰り返しても分かることもないでしょうが、当面のオノゴロ島の範囲は示されるでしょう。(情けないですね。でも一万年の歴史を造ってくれたスメラミコト、古代大和の超知性のお裾分けもいつかあるでしょう。)

【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、】

見られる相手にきみの身体はどのように造られているの、と問います。

ここでは問う方も問われる方も、わたしの心の主客、自分の何であるも相手の何であるかをも知らない状態です。無色透明無地無名の自他の状態です。(先天の十七神、空不異色空即是色。)

それでも両者間には違いがあり、一方は能動側他方は受動側です。両者が無地無名であるからここに共通の土俵が出来てきます。相手が赤い水玉だったらそれ以外の質問は受け付けられません。

では無地無名にどのような質問が出来るかといえば、主体側が考え思い感じ識別したものなら何でも質問できます。それでは赤い水玉にも質問できるじゃないかということになりそうですが、当初の双方が無地無名の時点ではそこにある違いは、無地無名に包まれた、主体側の意思、質問する意思、何々したい意思があるかないかだけです。相手を何であるとするのはまだ早すぎます。

両者に共通に無色透明無地無名、先天の十七神、空不異色空即是色はありますが、両者に唯一の違いが主体側に意思があるかないかで、その意思が相手に通じなければ何も産みません。赤だ青だといってしまっては、何よ三角よと叱られます。

まずは【問ひたまひしく、】という意思(意の思い)の世界が通用しなくては成りません。そこでの唯一の質問形式が「いかに成れるか?」です。相手がどんな状態であろうと、「いかに成れるか?、どのように成ったのか」は相手側に通じる質問となっています。

「在るか無いか」ではなく、「いかに成るか成らないか」です。

この質問の内容が冒頭十七神の内の妹背の四組八神です。

色も形もない自分が色も形もない相手に質問するのですから、実体を以て当たることが出来ません。それでも両者に共通なものを探すことによって関わりが成り立ちます。

そこで父韻(音でない)の因律が「君の身体はどうなっているの」となります。先天実体を引き出す因がまず問われます。「君の」といったとき相手がそれを了解していなければなりません。

その実体は頭脳内のイメージがまとまり言葉と組み合わされて、名付けられ発音されることを待っているので、それに続く働きによって現れてきます。

頭脳内の主客がどのように関わり合うのかの橋渡しが父韻ですが、能動側は相手の何を、受動側は相手の何から、意の思いの因子を受けとりするのでしょうか。「君の」のどこが橋渡しになるのかいうことです。

みとのまぐはひせむ。【父韻 9】。≫

この律動リズムは【汝が命に益して貴き神座す】という、雰囲気をつくりだすものです。天の岩屋戸でウズメの裸踊りがあり八百万の神もろもろ笑えるを引き出す雰囲気リズム因のことです。

わたしはここで雰囲気といいますが、ヒフミ神示では「だました岩戸からはだました神が出て、ウソの世となったのぢゃ、」と「だまし」と言っています。悪い意味の言葉ではなく、「ウソ」相似形が出てくることを言っています。主体側の心・霊の相似形の現れです。

主体側の意思が相似形となって客体側から出てくることを言い、またわたしのいう雰囲気は雰囲気に合って載せられたものが出てくるということで、現象を呼び覚ます因を指します。。

マグアイの段落では会話の形で、主体側には問うという「成り余れるところ一処」があり、客体側には問われるという「成り合わぬところ一処」があるというふうに示されています。

ここでは主客の因の一致を得ようとするので、内容を問うのではなく、内容になる両者の、両者間の因子を問うています。

よく言われることですが、いざなぎ・いざなみの誘う、誘い合うそのマッチするところを探しています。

【答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。】

主体側は能動的ですから無地無名の中から「身」の成り方を選択できますが、受動側は勝手に「身」を選んだのではありません。主体からの問いかけがない限り何も動けないのです。

ギの命は「身」の事を問いましたが、身体のことではなく、相手対象の実体内容のことを問いました。ですので「実・み」のことです。

「実」がそこにあると見えるのは主体側の何らかの働きかけの現れとしてでてきます。イザナミの命は先天的に世界宇宙の全体としてそこに先天実在していますが、生まれ出て実在しているのではありません。後天実在現象ではないということです。

先天実在としてはこの世のある限りいつでもどこでもミの命の中にあり続けています。これが在るけれど合わない、【「成り成りて、成り合はぬところ」】、というわけです。

前段でいう【「この漂(ただよ)へる国」】になるでしょう。【「修理(おさ)め固め成せ」】でない状態が、成り合わぬです。

例えばどのような知識の対象も【「成り成りて、成り合はぬところ」】、として幾らでもあるわけです。主体側のお目当ての対象として【「成り成りて、」】宇宙世界全体を提供できるのに、【「成り合はぬ」】ということでしょう。

その幾らでもあるのに【一処(ひとところ)あり】というのは、ギの命の対象となっている【一処(ひとところ)】のものがということです。ギの命が指したものは何でも【一処(ひとところ)】のものです。ミの命にとっては全てが「成り合わぬところ」ですが、ギの命の相手になるところも今のところは「成り合わぬ」ということです。

【「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。」】

これは主体、伊耶那岐の命側です。意思(意の思い)を示して相手に問うことが唯一の違いなのに、相手のどこに到達していいのか分からず【「この漂(ただよ)へる国」】にいます。意志は合目的性を持っていますが、意思(意の思い)の段階では全体的な漂いの中にいます。

意の当初はまだ行き着く先を知りません。「よーし」と踏ん張りますが何が「よーし」でどうしようという先に、意思の全体としてまず顔を出すものがあります。

そこでイザナギは自らを【修理(おさ)め固め成】すことが必要です。ところが意思の思いを鳴り鳴らして騒ぐことしか知らないのです。意思の全体がまず立ち上がるのです。これが【「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり」】です。無地無名の世界に鳴り騒ぐ一処を持ち余しているところです。

【「成り余れるところ一処あり」】といってもそれが相手側に受けいれられることを当初は知らないのです。自分自身が漂えるなのですし、マグワイの初体験の取っつきの時もそうです。

【成り余れるところ一処」】は、君の身体はどうなっているのかいと聞いて、どうなっているかの返答を得て、了解を得ると共に物理的物象的に了解できるもきでなければなりません。ここの比喩は岩屋戸では高天原が動く、泣き沢女の段では頭から爪先まで腹這いして泣き騒ぐという凄い比喩です。

この「騒ぐ」ほどの凄さが一瞬一瞬ごとにおきているということです。各人の頭の中でそんなことが起きていたらきちがいになってしまいますが、各一瞬一瞬の宇宙世界から、常に自分の意図するものが出てくるのですから物凄いことです。

この過程が言霊音韻から上手に説明されているのでそこを引用します。

---引用開始( http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/lecture/no168/no168.htm )-----

吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり

子音創生の話を、古事記は人間の男女間の生殖作用の形という謎で示して行きます。男女の交合とか、言葉の成り立ちとかは人間生命の営みの根元とも言える事柄に属しますので、その内容が共に似ている事を利用して、子音創生を男女交合の謎で上手に指し示そうとする訳です。

伊耶那岐の命が伊耶那美の命に「汝が身はいかに成れる」と問うたのに対し、美の命が「吾が身は成り成りて、成り合わぬところ一処あり」と答えました。「成る」は「鳴る」と謎を解くと言霊学の意味が解ります。アオウエ四母音はそれを発音してみると、息の続く限り声を出してもアはアーーであり、オはオーーと同じ音が続き、母音・半母音以外の音の如く成り合うことがありません。その事を生殖作用に於ける女陰の形「成り合はぬ」に譬えたのであります。

我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。

「我が身」とは伊耶那岐の命の身体という事で言霊イを意味するように思われますが、実際にはその言霊イの働きである父韻チイキミシリヒニのことを指すのであります。この八つの父韻を発音しますと、チの言葉の余韻としてイの音が残ります。即ちチーイイイと続きます。これが鳴り余れる音という訳です。この事を人間の男根が身体から成り余っていることに譬えたのであります。

この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土生み成さむ。

この一節も男女の交合(身体の結合)に譬えて言葉の発声について述べたものです。父韻を母音の中に刺し塞ぐようにして声を出しますと、父韻キと母音アの結合でキア=カとなり、父韻シと母音エでシエ=セとなります。このようにして子音の三十二言霊が生れます。

「国土生み成さむ」の国土とは「組んで似せる」または「区切って似せる」の意です。組んで似せるとは父韻と母音とを組み合わせて一つの子音言霊を生むことを言います。その子音、例えばカの一音を生むことによってカという内容の実相に近づける事です。区切って似せると言えば、カという音で表わされるべきものを他の音で表わされるべきものから区切って実相を表わす、の意となります。

人間智性の根本リズムである言霊父韻と、精神宇宙の実在である母音言霊との結合で生れた、現象の実相を表わす単位である子音言霊を組み合わせて作られた日本語は、その言葉そのものが物事のまぎれもない真実の姿を表わす事となるという、世界で唯一つの言葉なのであるという事を、その言語を今も尚話すことによって生活を営んでいる現代の日本人が一日も早く自覚して頂き度いと希望するものであります。

-----引用ここまで。-------

父韻を子音創造の時の音韻の子音頭に相当させたものです。

みとのまぐはひせむ。【父韻 10】。≫

【「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。」】

イザナミには【汝(な)が身は】、と問い、

ギ自身には【我が身は】、と言っています。

ここの【汝】と【我】を言霊学として解することが必要です。

冒頭の 【 天の御中主(みなかぬし)の神】が剖判して、 【 高御産巣日(たかみむすび)の神】と 【 神産巣日(かみむすび)の神】になります。両神の漢字表記は違いますが読みは「タ」が付く以外同じです。

おせんべいという物質が半分になるのではなく、人間という動き働くものが剖判するのです。人には頭脳の働きがあり、ここに作用する側と作用を受ける側、陰と陽、主と客で表象できる全てが現れます。「タ・かみ」と「かみ」で表現させています。まずはここを押さえておきます。

【汝】は、あなたイザナミ私の精神世界の客体側となる私の片割れで、言霊で現せばウオアエ世界です。

【我】イザナギは、私の能動世界の主体側で、言霊学でいう父韻のことです。

「汝・ナ」のイザナミはイザナギの働きかけを待っていてそれ自体としては先天実在で、イザナギの働きにおいて後天実在に成ります。

ですのでイザナミに【身】を問うときの「実」はイザナミ自身の先天実在を問うことになり、頭脳内での「漂へる」世界のことでしょう。(現代語ならイメージになるでしょう。)

一方、イザナギの方からの【身】を問う時の「実」は、問いの相手であるイザナミのことになります。

イザナミは問いを発する立ち場になく、問いを受け取るだけですから、プカプカ漂えるでプカプカ成り合わない状態を、ギの命によって固めてもらいます。

平面の五十音図を見ていくと、あ行を能動側イザナギの神として、わ行を受容側イザナミの神として、能動側イザナギがマグワイに動いていく感じを受けます。

しかし、あわ行は共に実在世界の主客を合わしていて、それ自体が動いていくのではありません。動けるような実体の能動側があるからその動因を受けて、能動側があ行の主体となって動くように見えるのです。

つまりあ行に父韻が載っていざなうのです。

とにかく古事記の冒頭は、「あ」と発音して「あ」と了解する一秒にも満たない世界を百の過程で説明するというとてつもないものですから、私の説明もくどくなり繰り返され訳がわからなくなっていきます。言い換えれば瞬間の今を百の過程で説明しています。

主客のあわ行は実在世界となるものですが、二つに割れたせんべいが自分で一つになることはありませんから、ここに父韻が現れます。こういった物質世界の比喩を使用すると直ちに固定したイメージで思考を束縛してきます。ここが常に自分でも足を踏み外していくところとなります。

言霊学でいうタカミ・カミ・むすびというむすびは、割れた二つのせんべいをくっつけることでもないし、くっ付けるのにせんべい以外のくっつける外からの力が要るということでもありません。

せんべいは二つに割れていようと丸いままであろうと、くっつけようと手を加えようとなんでもいいのです。二つに割れたせんべいが主体と客体に成るのではなく、どのような形であれそこにあるものを意識したときに、意識する側とされる側が出てくるという、全く頭脳内の過程を扱っています。

何だそれなら観念か、というその観念なるものが全く意識された対象と一致する不思議な経過を解きまた創造しようというものです。

◆◆◆ ここから ◆◆◆

冒頭十七神で先天の構造が示されました。続いてその先天を使用して己の心の客観領域を成立させ、その上に己の主体的活動が載ってきます。そしてここに客観現象たる子を産むことになります。普通の言葉で言えば、自分の思い考えを出して実践していくという何でもないことです。

ここからの主人公は父韻と呼ばれるものとなります。

古事記では君の身体はどのように出来ているのかい、という問いから始まります。君の身体【汝(な)が身】は、という具体性を持った問いで始まっているようですが、実は「身・身体」では「実・実体内容」のことであることは前回指摘しました。実が身という現象にに成る関係です。

身から実への変身変態を成す原動因が父韻の働きとなります。

そこで自分【我が身】にはというところまで来ました。

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。】

みとのまぐはひせむ。【父韻 11】。≫

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。】

【成り余れるところ一処】は男女のまぐあいなら男根で、言葉の話なら子音の頭ですが、では画面を見て読んで納得したりしなかったりする時はどうなるでしょうか。瞬間の今現在の話をしているといいますが、今とは何か、の【成り余れるところ一処】とは何ですか。

父陰となっている子音頭が成り余れるところ一処というのは言葉の話、男女のマグワイなら分かります。それなのにどうして他のことに適応すると分からないのでしょうか。分かっている方は読みとばすか、私に説明のコメントを入れてくだされば大いなる助けとなることでしょう。

実は男根のイメージを他のことに適応できないのは、男根は父韻の表象ではないからです。父韻は【刺(さ)し塞(ふた)ぎて】という働き行為に属しているので、男根という現象を指しているわけではありません。【刺(さ)し塞(ふた)ぎて】なら鍋蓋でも槍でも楊枝でもその種類を問うことは後の話になります。

では、【刺(さ)し塞(ふた)ぎて】という行為を成す【成り余れるところ一処】とはなんでしょうか。それは父韻という実体ではなく、父韻という働きです。

【故(かれ)この吾が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わぬ処に刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、】

【伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。と思ふはいかに」とのりたまへば、伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。】

【国土(くに)生みなさむ】、国土を産むというのに「刺し塞ぎ」なんていう全く変な比喩です。真相に気付かず古代大和の幼稚さとおおらかさの性になっていました。未だに安万侶さんの思う壺にはまりッ放しのようです。しかし、古事記の謎解きだなどといってせっせと解読などしているようでは、同じ壺に入っているだけでしょう。

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参考。

・書紀には「對曰、吾身有2一雌元之處1

(<女神が>こたえてイワク、アがミは、メのハジメのトコロあり)」とある。一書には

「對曰、吾身具成而、有B稱2陰元1者一處A

(<女神が>こたえてイワク、アがミはナリナリて、メのハジメとイウところヒトところアリ)」

・「陽神曰、吾身亦有2一雄元之處1

(オのカミいわく、アがミもマタ、オのハジメのトコロあり)」、また一書に

「陽神曰、吾身亦具成而、有B稱2陽元1者一處A

(アがミもマタ、ナリナリて、オのハジメとイウところヒトところアリ)」ともある。

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【成り余れる処と、成り合わぬ処】が出てくるのは【国土(くに)生みなさむ】という関係が出てくるとき、その働き方によって刺し塞ぐとか蓋をするとか置くとかの違いがでてきます。そこにあるだけのものは余ってもいないし合わないでもないのです。創造意思があることが常に余りなり合わないなりの形を造っていきます。

この意思の活動があるから物事がはじまります。父韻はその時の創造意思の形を造っていくものです。そこで生まれたものは客観事物となり、いわゆる黄泉の国という客観世界を形作っていきます。

ここまでの考察ではまだ客観物を創造していません。

ですので、なり余れるところをなんらの事物にしてしまうことはできません。意思はあってもその形として現れなければ意思が見えてきません。吾の眼が付いて地に成るという形が必要です。

【刺(さ)し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、】

刺し塞ぎはマグワイに見合った表現ですので、国を産もうというときに出てくるものですから、自分で考えやすいものにすればいいと思います。

【国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、】とまた問うことをしています。主体側を自認するならさっさと命令でも俺のやりたい通りにするぞでもいいのですが、そうはいきません。

意思を持ちながら、その形は相手側に現れてくるからです。主体側の一人相撲にならないためにはどうしても相手の同意が必要です。

ここに主体側の意思を相手側の中で真似て似せるものができてきます。【国】は組(く)んで似(に)せるを略したものだという所以です。また言霊学はフトマニとも言って、フトマニのマニは真似ということですから、真似ることに人間の秘密があるということにもなるでしょう。

みとのまぐはひせむ。【父韻 12】。≫

【国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、】

「クニを産もうと思っているのだけどどうだろうか」

と、半分情け無い調子のようでもあり、自問自答と相手側の許可を同時に求めているような気の弱い男の子みたいです。

この部分を心の原理にしますと、意思決定に内在する優柔不断、戸惑いの必然が出てきそうです。その反対を感じる人は、偉そうな顔をして決定する人を見るということもあります。

ここからすると「自立」を「何者にも左右されない確固たる信念と、独自の世界を持つ、他への従属から離れて独り立ちすること」などというのは、空威張りの勇者のように見えます。単に相手と一線をかいて離れているだけのようで、相手を取り入れ取り込んだものが見えません。

日本の国を生みなさんというのに古事記からは勇ましさを鼓舞されるのではなく、別の方面があるように見えます。そもそも日本の自立などと言いますと相手との相対的な関係でしかありません。

数千年前に予定されていた古事記の世界史は、世界朝廷のスメラミコトが大和のフトマニ原理の体得者から出ることですから、日本の自立だとか国連だとか政党だとか民主主義だとか軍隊だとかなどなど、そんな時代遅れなことは全て廃止昇華された姿を設定しています。

現代の産業経済、交通通信、情報知識等の生産運用の世界には既にその基盤を提供しつつあります。独自の世界を持つ自立した国など存在していません。敵国同士で互いに依存し合う経済交流をして、国際結婚をする時代です。相手国を占領し続ける軍隊などもう存続し続ける意義は無いのです。

世界は土台から変化してきています。そしてこの経済的な土台を踏まえて、単一世界政朝の精神の土台を産もうかどうしようかというのですから、当然戸惑いはあります。戸惑いがあるから船出をして鳥の導きが得られるのです。世界歴史の賽は古代スメラミコトにおいて投げられていたのです。

ユダヤに豊饒な物質社会の創造を命じたと古文献にあります。ユダヤは忠実に古代大和のスメラミコトの命令を順守しているのに、命令を下した本家本元がいません。血を引いた子孫がいるというだけで、どのように世界朝廷を運用していくかの原理を忘れているのです。ハゼのや鯰の研究からはフトマニ学は出てきません。

もちろんわれわれの知らない隠れたものが幾らでもあるでしょうから、時がくればアッと言う間に準備はできるかもしれません。民間から口出しするものが出てきたというのも下準備の内かもしれません。

この戸惑いの元は意思を持つからで、意思はあってもその実現は、意思自身では実現できず物質・物象世界で実現していくもので、その実現は意思の真似事を形にしようとするものです。その真似事の最たるものが言葉です。

意思は言葉で現されます。そして物質・物象で客観物となります。宗教や信念だけ理想だけでは意気消沈からの回避を保障することはありますが、豊かな人間社会の建設の原動力にはなりません。

言葉は事物の姿を示したものです。言葉は事物の姿を真実として現さないと、事物の真実を示した意思の現れとなりません。事物の真実を現せない言葉では心の原理も現せません。

では、言葉それ自身が対象事物を現す真実になるかといえばそんなことは不可能です。言葉は物象・物質となって表現されているだけです。ある一つのものを指し示す言葉は世界中に幾らでもあってまとまることはありません。

国を産む事を言葉を産むこととすると、マグワイをしようと詔りたまわおうと関係なく、事物に名前を配当していけばいいだけのこととなります。一つも共通な言葉が無いくらいに世界は目茶苦茶なのですから、弱気など出さずにどうだろうかなどと言わないでさっさと名付けて行けばいいのです。

しかしそこに出てくるのとは、ゼロの一つ付く紙は十円、二つ付くのは百円、三つで千円の紙といった内容とは関係ない約束事の世界となります。物事の真実の姿に似せたものではなく、きっちりと約束契約を覚えさせられる世界となりなります。

ですので産もうと思っているのだけど、なんていうことではなく、強制命令となり、内容など無いのにあるとする幻想をふりまき、違反すると刑罰や社会的に疎外されたりして、内容を保護しているという形を造っていきます。

そこでは意思の向かう対象は客体側だけで、客体側の生成発展だけが重要視されていきます。主体側は気が弱いなりに自分を実現しようというのではなく、積極的に客体側に拝跪していきます。ですので、真似ではあっても主体の真実を造ることと客体の真実を受け取ることとは全く違うことになり、創造の喜びの無い、幻想の蓄積を得ていくものとなります。

しかし精神活動はものの創造に喜びを得ることを知っています。

ですので古代の大和の聖人達は、国を産むこと、言葉を産むこと、考え思うこと、心の真実を得ることにも、おおいに喜びを得る道を探しました。

そしてその原理を整理完成させ、実施し応用してきました。

その集大成が大和の国です。大和の国は世界唯一の心の原理によって成り立った人間社会です。その原理が古事記の冒頭十七神を操ることです。拝み祀ることだけなら、そこら辺の国と同じになってしまいます。

原理のあることは分かるのですが理解する事とは別のことです。また運用するには時の条件も創造されていなければなりません。

現代は原理が開示されましたから勉強するもの達が寄り集まる時でしょう。

その後大いなる逡巡と共に、世界朝廷のスメラミコトとなるかの決定が下される事でしょう。

【国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまへば、】

「クニを産もうと思っているのだけどどうだろうか」

【伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。】

みとのまぐはひせむ。【父韻 13】。≫

【伊耶那美の命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。】

ミの命はやたら「いいよ」と返事するのではありません。

ミの命に問うことがあって、ミの命が聞いて了解して、共感同調して、返事の相手を確かめて、返事が相手に通じるように、相手に合った返答を準備して、何らかの返答というお返しをしなければ、問いに答える循環が完結しません。

この各過程で故障がおき事故がおき意図に反したことが起きるかもしれないのです。この問い・返答の行って返る循環が、次の文章の【美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)】となります。

ここではギの命の意思の表明に対してその意思を受け入れるかどうかで答えるだけです。理想には理想で、空想には空想で、冗談には冗談で、真面目な話には真面目に、精神的には精神的に、物質的には物質的に答えなければ通じ合えません。賛成といいながら口先だけで実際の行為は反対だったりしますから、精神次元でまず同意を与えています。次に当然実際の同意行為となるでしょう。

何故ここにワンテンポ置いた表現があるのか、そもそもの問い方の弱々しさ、【生みなさむと思ふはいかに】と関係があるのでしょうか。

父韻といえば、能動因とか力動とかで、天の手力男の神は相撲取りの元祖になっているし、何かと男性的で力強さをイメージします。

それなのに「成り余れる処」を無花果の葉で隠すような弱さを感じます。

個人的な感じで済ましてもいいのですが、手力男も岩戸の脇に隠れていたし、何か意思決定に内在する優柔不断、戸惑いや、事物の姿を真実とすることに躊躇する姿勢があるように感じられます。

少し探ってみましょう。

父韻は四組の妹背の八神として表出されますが、元の姿は伊耶那岐の神と、伊耶那美の神です。

いざなぎ・みのイザは「いざ、出陣じゃ」の「いざ」で、漢字表記では去来が宛てられ、過去と未来、去ることと来ること、行ったり来たりすることで、また、「こころ」のことも指します。

ナギとナミは静寂と高揚の対となるものでしょうが、イザナギがナギだからといっていつも凪であるのではなく、高揚した波となったイザナギのときもあります。ミの方はギに応じます。

また一方、イザを心として、心の名の気と心の名の実とすることもできます。

誘う、いざない合う切っても切れない両者の関係も現されています。いざないさそうので強制や命令でもなく、ここでも力強い男性のイメージはありません。

常に相手を探して、同意を求め、いわば「和・輪」を求める姿です。

これは大和言葉の日本語の根本にある律動でしょう。

他国語にはこのような仕組みはありませんし、このような仕組みは考えられていません。

日本以外の主体側の言葉は強制か命令、社会契約からの従属による一致を求められているだけでしょう。強く言った方が勝ちで、そのための腕力暴力装置を整えていた方が勝ちです。

また主体側の意思と実体、気と実、こころと身が相対的に自立していて、別々の方向へ自由として導く傾向があるようです。主張だけは留まるところを知らずに飛び交い、やっている事とは別の世界があると自負しているようです。

実と身は同じグループに属するのにこころと考えや意思が全く違っていても、普通に同席できてしまうし、その逆に考えることは同じなのに、身となる表現が違うと相容れなかったりしているようで、物質方面の進歩発展には好都合となります。

総じて、いざなぎ・みの両者が【天之御柱を行き廻り逢ひて】ということがないからでしょう。

こころの原理があるのなら、国や地方に関わりなく人間なら誰でも同じはずではないのかと、疑問がでるはずです。同時に大和の日本だけがという言い方にも眉唾の準備などもしているのではないかと思われます。何故世界の国々でこの原理が適応されないのか疑問になります。

これは人の生き方が物の相互作用ではないからです。意思において物を物質を物象を現象創造していくからに他ならないのです。

つまり歴史・世界史・において、われわれは歴史創造の意思において現象してしまっているからです。

つまり、古代において「和」を求める体系の言葉を造ってしまい、その上で社会生活をしていく民族と、物質方面との同調を求める言葉の体系を造ってしまい、その上にバベルの塔をつくってきた世界との違いです。

(個人の感想。)宗教以前の超古代の世界の民話では幸せな生活を以て始まりがあるのが普通です。その時に使用していた言葉の思い出が古事記に伝わっていると思います。古代のスメラミコトはその幸せな言葉使いの秘密を長期にわたって研究し、解明し、新しい大和の社会に適応してきたと思います。

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。】

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追加。【刺(さ)し塞(ふた)ぎて】

主客を相対的に見たり、五十音図のように左右に別けて見る場合には、まぐわいを男女間の性行為でイメージし易いですが、主客は自分の中の主客で、伊勢の御柱のように一本自分の中に立ち上がっているものです。

この場合には一本の柱内でのまぐわいのイメージはとてもしずらく困難です。

次の文章では柱の廻りを廻るという比喩ですが、半回転すると向こう側で合うことになり、一回りしないでいいのかななどと思ったり、一回転して二回顔を合わすのは何なのだろうと思ったりします。

注意。私のつまらない思いつきに引っかからないようにしてください。

みとのまぐはひせむ。【父韻 14】。≫

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。】

【 かく期(ちぎ)りて、すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、約(ちぎ)り竟(を)へて廻りたまふ時に、伊耶那美の命まづ、、、、、】

【刺し塞ぎて、】も、【廻る】も、【美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)】も、柱の中での出来事です。

マグワイの儀式用の杭が立っていてその廻りを廻るのではありません。

柱とは心のことで、心にある世界のことです。柱の中での出来事と言いましたが、フトマニ言霊学ではそのように取るしかないのでそういっただけです。といっても、説明の用意ができているわけではありません。

無責任に断定してしまって申し訳ないけれど、ここで引っかかっています。

言葉の誕生を説明しようというのに、既に誕生してしまった言葉を使用してしまう。「わたし」を説明しようというのに既にある「わたし」を持ってきてしまう。この矛盾を解消しなければなりません。

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【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。】

一本の柱の中で、つまり自分の心の中で、吾と汝がマグワイをします。書くだけで終わるのでなく、実行中の体験を進行させなければなりません。柱=心の中で主客の世界が進行していきます。

例えば画面を見て文字を読んでいたり見ていたりしているわけですが、それがマグワイとして解説されなければなりません。こんなことを書くと、何だそのマグワイは、マグワイではないわいと言われそうです。

【みとのまぐわい】を解いてみます。

【ミト】は、実十・実取る・でミトです。読みは実を十個取るです。

御所、寝室、床、としているのもあり、取るところのものを交合としてその場所から来たとしています。しかしこれでは十個の実がでてきません。十個の実とは父韻のことです。

【マグワイ】は、間・喰い合いでマグワイになるでしょう。また伊耶那岐の神・伊耶那美の神のいざなうをもらえば、いざなう・まねき合い、マグワイにもなるでしょう。

ギ・ミ神による間、父韻の間、八尋殿(やひろどの)の八つを尋ね、天の浮橋(うきはし)の橋板の一枚一枚を渡ること、高天原(タカアマ原・タとカのアの間の原)を歩くこと、等に通じるでしょう。

父韻の間を尋ね渡り歩き喰って納得消化し合うことになるでしょう。間の具合を合い尋ね合うことでしょう。

間だ間だと言っていますが、間とは選択をする為の相手とのあいだに出来た違いです。その内実は母音でしめされる実在世界の次元の違いを得ることで、それを得る働きとなる父韻が混ざり込み掻き回して、意図されたものの居間を探していくものです。

言葉においては単音単音に違いがあるのを掻き回して探し出すことでその差異が出てきます。父韻はギミを含めて十個ですから、子を産むにはその十個を喰い消化していくこととなります。実取る間喰い合い。

【みとのまぐはひ・せむ】で、主体側の意思表示による注意を喚起しました。

今は画面を見ているところですが、その初発の時は画面を見るのか読むのか、はたまた画面であるのかも分からないところから始まっています。あめつち、吾の眼が付いて画面という地に成ろうとするところです。

その初発の時何か分からないものに意識が向かい、何であるのかの実を取ることになります。

どういう風にしてか。

みとのまぐはひせむ。【父韻 15】。≫

【 ここに伊耶那岐の命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と、この天之御柱を行き廻り逢ひて、美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ」とのりたまひき。】

【美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)せむ】

マグワイを間の食い合いとしてそのイメージをつかみたい。

喰ってくと喰われる相手は形が崩れ無くなっていきますが、一方では腹に溜まり肉体が形成されていきます。減った部分の代わりに新たに、喰われた物をベースとした新しいものができていきます。

父韻が母音を喰い、母音は父韻に喰われて、それぞれ形を替え、両者とは別のものができます。それをギミは喰い合って、マクイアイして、現象を生んでいくとしました。古事記ではこの現象を産む過程に三十二神を宛てて説明しています。

ですので喰い合うイメージをつかむのは、【 大事忍男(おおことおしを)の神】から【大宜都比売(おほげつひめ)の神】までを説明して、現象として出てくる【 火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神を生みたまひき】まで待ってもらわなければなりません。

マグワイの段落は自己の精神領域を確保した後の自分の精神の先天的な働きを示したもので、これから出てくる現象に対しては先天の構造を形成している立場です。

ですのでこの構造とその働きが今後もずっと繰り返されます。

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あちこちからの引用。

【 かく期(ちぎ)りて、≪約束して・こう約束して≫

≪ち‐ぎ・る【千切る】。細かにバラバラにする。もぎとる。

ちぎ・る【契る】。固く約束する。夫婦の約束、肉体関係を結ぶ。≫

食い合う喰うということの形を【ちぎり】といっています。当初にパッと与えられた全体印象から意図された個別的なものへバラして移動集中注意していく過程です。

どの母音行になるか、どの父韻が介入していくのか、といったことでしょう。

【すなはち詔りたまひしく、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ」とのりたまひて、

【約(ちぎ)り竟(を)へて、≪約束の通り・互いに約束し終えて≫

≪○約竟以(ちぎりおえて)。ここの約(ちぎる)は、この前の三つのことを合わせて言う。つまり「此吾身成餘處~然善」、「吾與汝行迴逢云々」、「汝者自右云々」の三つのことである。「ちぎる」はこれからのことについて「こうしよう」と互いに言い固めることである。竟(おえる)は軽く言い添えただけと見ることもできる。また極め尽くす、という意味に取っても良い。(古事記伝)≫

【廻りたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。

【 おのもおのものりたまひ竟(を)へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。】

【 然れども隠処(くみど)に興(おこ)して、

≪しかし聖婚の場所で結婚して・それでも寝所に入り≫

【子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。

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マグワイは【「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」】と命を受けて、それを引き受けるため自分に領域を造り、【「国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」】といって行われてきます。

先天、自己領域、相手との合体が、先天の意思、自分の意思、相手との同意としておこなわれます。

この全体をマグワイと言ってもいいです。

マグワイしようねと約束してから、君は右から、ボクは左からとまた約束するというのですが、すっきりしません。そこでこうなります。

【期(ちぎ)りて。約(ちぎ)り竟(を)へて】の「ちぎる」が曲者のようです。

「チギリ」を、道(ち)切り、にしてみます。幾つもあるマグワイの道を食いちぎり切り離し選択することです。

双方が共に納得する父韻の道を選択しよう、ということになります。

【「汝は右より廻り逢へ。」】。右は実・身、切り、実体実在世界の中から意図に沿うものを切り離し選択しなさい。

【「我は左より廻り逢はむ」】。左は霊足り、選択された心を意図に合うように、能動意思世界を足していきます。

【約(ちぎ)り竟(を)へて、廻りたまふ時に、】

【廻り】は、間割りで、切り離した間、実在世界と父韻の間、を割り出し選択して。

気と体、霊と身、心と実との自己領域の責任範囲を双方で了解し合って、間違えないように約束しました。自分の心の二面の分担を決めました。

【伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、】、まず最初に「一般実在」世界が名乗りを揚げ、

【後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とのりたまひき。】、後から、「実際」世界を名指しした。

これは現実に沿わしたパソコンの画面を見ているという例では、ミでは、画面一般の概念を指し、ギでは、富士通のポータブルのオペラブラウザを使用した私の画面をみているとなるでしょう。

ミの場合はどこのどんな実際の画面ではなく、画面なら何にでも当てはまる画面という言葉概念を指します。

ですので、得たいの知れない、「画面」という一般的な概念だけの言葉に対して、

【その妹に告りたまひしく、「女人(おみな)先だち言へるはふさはず」とのりたまひき。】です。

ミの場合は自分の実体を指して画面と言っている積もりが、実の無い概念になっているので、【ふさはず】とうことになります。

ミが自分を指して自分を開示しているのに実の無いことをいうことになるのは、そレなりに必要があるからです。注意してもらわなければならないのは、実の無い一般概念的な言い方が無いと言葉の社会性、共通性も出てこないことです。

そこで当然、一般共通性を確保していくために、

【 然れども隠処(くみど)に興(おこ)して子水蛭子(みこひるこ)を生みたまひき。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(や)りつ。】になります。

【子水蛭子(みこひるこ)】、霊(ひ)は流(る)れて実は無い言葉(こ)だが、社会共通性を持たされた大切な概念世界だと言うことです。

ここではまだ、合わさろうと言っているのに、父韻とは合わさってはいません。

後に正式に繰り返されます。