三種の神器の使用法。4

三種の神器の使用法。4

三種の神器の使用法。その17。言霊循環。

「たかまはら」と、「た、か、ま、は、ら」と、「高天原」とでは何が違うでしょうか。「高天原」は漢語で後からできたものですから、ここでは考慮しません。

「たかまはら」と「た、か、ま、は、ら」とのちがいは、視覚上は点々の有る無しかもしれなし、聴覚上は同じかもしれないし、文字では同じで、意味は???というとろです。言葉に区切りを入れて、「た、かまは、ら」などとすれば、そんなものは意味無し、とはっきり言われてしまうかもしれません。

こういう問題もあります。たかまはらの意味をとりあげて、たかまはらとその意味ではどちらが先に出来たか、です。皆さんはパソコンの画面を見てるわけですが、「画面」という言葉と画面と言う意味ではどちらが先に了解されるでしょうか。

画面は三語(が、め、ん)ですから、一つの言葉、「目」の場合ならどうなるでしょうか。

これが文章となるともっと長くなります。話を聞いている途中で、意味が分かってしまい、「なにをくだらんことを長々と喋っているのだ」、「いくら聞いても分からない、もっ詳しくしてもらえないか」とかになります。

単語単位で言霊を考えている人には、文章の中で意味の変化に遭遇しびっくりすることもあるでしょう。

以上のわけの分からない事柄に対しては、言霊をどう考えたらいいのでしょうか。ここにいろいろな言葉単語文章が書かれていますが、本人が分かっていないことを書いているのですから、読む方は一言でも分かったなどと言ったらおかしいです。

それにも係わらず上記を読んでいろいろな、感覚、考え、感情、思い、道徳心だとか、書き手の人格とかが読者側から出てきます。読み手の方が数が上ですから、この数が物を言い出すと、出所を作った書き手のほうは一人でたじたじです。(こうして民主主義は自由の名のもとに個人を抹殺していきます。)

さて、元へ戻りましょう。「たかまはら」でも、「た、か、ま、は、ら」でも、「た」でも、原理は皆同じです。

単音が何故繋がるのか、繋がる単音を待たないと意味が通じなかったり、既に分かって行ったり、時々刻々と聞きつつ読みつつ分っていくなりするのはどうしてでしょうか。

「わたし」と言う時、わたし、というのはある時間の経過があります。三語を聞いてからあるいは見てから、「わたし」と分かる時も、始めの「わ」だけで既に「わたし」と言いたいとわかる時も、その途中で、あるいは聞いても分からないこともあります。

この秘密を探ってみましょう。連想ゲームやしり取りではありません。

単音のことばが自分につながっていることについてです。単音が自分とつながっていなければ、単語も文章もつながらないでしょう。

鏡よ、鏡よ、やたの鏡さん、どうかこの秘密を語ってください。

たかまはらのた、と発音する時のことを思ってみましょう。「た」という発音のたったの一秒以下の世界のことを書きます。

といっても古事記冒頭の百神を書き写せばいいだけのことで、格好だけはそれでつきますが、理解していないわれわれには内容となりません。

言霊循環。

先天構造内。

「た」を発音する側はそれを聞く側があることを前提としています(ひとりごとも含めて)。そこで両者間に共通の基盤がなければ通じ合えないので、このための先天構造があります。

例え単音であっても、単音の位置づけがなければやはり通じませんから、結局全体規範が両者間に存在していることが必要です。

この潜在構造は「た」と発音される以前のことです。

そこで発音側の心は「た」を発音したい意図を持ちます。

広く深く巨大な先天構造内に「た」を探します。その人の記憶全体が対象です。そんなところから出てくる「た」は意思されというだけで、形もどんなものかもはっきりしていません。

イメージ内。

そこで不定形な意図をイメージして先天内の「た」であることを抜き出さねばなりません。頭脳内では物凄い勢いでイメージが形成されます。その不正確な現れが夢です。夢を見ている時間は非常に短いのですが、その物語は長大なものとなることができます。

音を結び付ける。

うまい具合にイメージが形成されればイメージのの物象化が行なわれます。先天からきたイメージに形が与えられないと夢のようにふわふわで固定していません。ここで物象としての感覚機能が係わってきます。言葉になることを目指しているのなら音が探され、イメージと結ばれます。

物象との結合。 ことばの成立。

イメージは頭脳内の感覚機能と結ばれなと形をなしません。また、結ばれたとしてもイメージを形にしたものか、とんでもないものに乗り移ったのかも分かりません。うまくマッチしていかないと、とんでもない夢とか、夢遊病みたいなものとか、狐憑きとか、御告げをしゃべるとか、神がかりとかが起きます。「た」のイメージで発音するものが「こりゃこりゃ」なんていうことになります。

物象の移動。到達。

イメージと物象とのマッチがうまくいけば、物象とイメージが一体となって固定され、こんどは物質的なものとしての表出が始まります。既にイメージ内容が物象に乗っていますが、こんどは外見は物質の形となります。言葉ならば空気振動です。この物質をうまく使いこなせなければ相手に届きません。

復唱。

ここでも、発信側と受信側との両者間での共通の基盤が無いと相手に届かなかったり、届いているのに受信側に規範がないので受け付けられなかったりします。受動側に届いているのは物質の形をとっていますから、こんどはそれを解凍しなくては受け付けられません。

検討。

今度は相手側の頭脳内で物象をほぐして内容探しが始まります。発信側と同じ規範であることが納得されないと、物質部分だけが残ります。この物質世界に執着するのが黄泉の国に行くと言うことで、送受信側の主体性を働かせずに、物理的な側面に留まることになります。

煮詰める。

ここを乗り切ることが普通は全然自覚的に行なわれていかず、自動的に見過ごされていくところです。相手の送ったものを自分の規範で解して行ってしまいます。それでも一応相手のものを受け取ったのですか、それなりの検討結果を自分のものとしていきます。

それというのも、もともと送信側が相手の規範に沿って送ったものではないからで、物質的な形で送ったところで、手を離れてしまっています。相手の規範に沿ったどうしてもこう取らねばならないというものではないからです。

了解。

それでも、相手に届けば検討され相手なりに煮詰めて了解していきます。ここでは、無自覚な送り手側の、無自覚な受けて側の了解となります。送り手側が自覚的に発信していたのなら、送り手と受けての両者間には統一が産まれていきます。通常は欲望や知識概念などが介入していきますから、うまく了解ができません。

事実形成。

いずれにしてもそのような経過を踏まえて、受け手側と送り手側にそれぞれ事実結果と称するものが生じます。

こうして発音された「た」が聞かれた「た」となり、了承されて相手に所有されます。

先天へ 。

こうしてたかまはらの「た」は事実として出来上がりました。次いで同じ過程が繰り返されます。これが瞬時に脳内で起こることです。

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と、ここまではあんちょこに沿って書き下して行けばいいだけですので割と簡単なのですが、今回は言葉のつながりを知りたかったのです。

「た」といって「か」といって、「ま」といって、どうしてその間がつながっているのかという問題でした。

単音はできましたが、つながりが出てきません。

今回もまた失敗です。

どなたか助けてください。

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三種の神器の使用法。その18。「た」の闇を渡る。

「た、か、ま、は、ら」を「たかまはら」するには、点々で示された闇を渡らなければなりません。闇は頭脳内記憶の世界にあります。大脳生理学や脳内科学、心理学なら発声した前の言葉の記憶があるから、で済ますことができそうですが、どのように記憶が受け渡されるかは不明なままです。

それでも、記憶、と言っておけばそれで済むのですが、古事記の解にはなりません。記憶は蓄積、保持され運用されるものですから、そこに運用操作法が出てきます。

その観点から見ていくと、冒頭五十神は言霊要素で、続く五十神は運用要素ですので、この後半五十神が、言葉と言葉の間の闇を埋めていくものとなるでしょう。

たか・あま・のはら。

そこで前に書いた、「たかまはら」を「たか・あま・のはら」で読むと、「たか」の「あま(先天)」の「ま」を渡る原と読めます。つまり言葉と言葉の闇の原を渡るのが「たかまはら」ということになりそうです。言葉と言葉の闇をつなぐのは先天的な働きであると言う意味です。たかまはらの意味が一つ増えました。

これをヒントにやってみましょう。(51) 金山毘古(かなやまびこ)の神から(100) 建速須佐の男の命までです。

「た」から「か」へ行くのに「か」はまだ存在していません。「た」→闇→「か」→闇→「ま」→闇、、、、どうしましょう。

では「た」の次にある闇は存在しているでしょうか。

書いて現象しているものとしてしまうと、その後の「かまは、、、」まで全部が存在してしまいます。時間経過において「た」の後はまだ今の時間は来ていないのですから、闇も存在していません。

では何故、存在しない闇を渡って「か」へ行けるのでしょうか。無意識でやっていることですが、考えると超難しい、しかもまた愚かな問題です。ボヤーっと時間の流れに載っているだけの無自覚さが全てを解決してくれているものです。

無自覚なボヤーっとしたままで、あんちょこを使用しますので後は皆さんでよろしくどうぞ。

まず、「たかまはら」の「た」を発した時に「た」に持続する意図が隠されていないと後は続きません。「た」を発して終わりならそこまでです。

前に「今」形態を五様に分析して見せましたが、完成された「た」が未来に向かう「た」となっているのは、今あるものがこれから動こうとして産まれる、いわば、今-未来の関係、按配選択の智恵の次元、そして後に言霊え、次元の「た」だけです。

「た」といってそれが完了完結したものなら、その後は続きません。

例えば、物を喰いたいとして、「く」う、といった時には物が自分に喰らわれて、喰うことが完了しますから「く」というだけで了解されます。

た行ならば駅に行きたいといって、駅に「つ」くで「つ」に続く言葉を必要としません。

「た」を話しているのに、「く」「つ」とかいうのはどうしてかといえば、「たかまはら」は「い」次元の原理上の言葉なので、現象となる時は現象次元の言葉とくっつく為です。

そこで今において終了せず持続を内包している時には、今-未来の関係にある「え」の段階の言葉となります。

た行の「え」ならば「て」ですから、手を出す、手伝う、か行なら消す、煙る等、その時点で完結しないで未来への持続が含まれています。

そうすると、「え」段の言葉しか、今-未来ができないと思えますがそんなことはありません。ここに出てくるのが、言霊循環で最後に出てくる、三貴子が成立している御蔭です。

天照らす大御神は過去現在未来を照らす全方位時間性を持っています。「左の目」は、ひたり、霊(ひ)足りの芽、で、全方位時間次元への芽ということで、どの言葉の終了も天照すとなっているということは、どの言葉も先天的に持続を内包しているということです。

そして、原理として天照すを補佐するのが、月読(つくよみ)の命、建速須佐の男の命

になります。

天照すに付いて(つく)読み説明する(読み)、つまり感情、知識世界と、天照すを建速(竹のように凄まじい勢いで)須佐(すさ、主を助(佐)ける)の男の命、創造欲望の世界の三位一体です。

言葉の成立において、この三神(三貴子)が成立している為に、未来方向が常に開いています。

「た」が成立した次元で開かれた世界が内包されているのですから、そこに創造意思の持続があり次第、次の「か」に移れるわけです。

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三種の神器の使用法。その19。「た」→闇→「か」の闇を渡る。

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三種の神器の使用法。その19。た行の「え」。

たかまはらの「た」が、「か」に渡るには「闇」を通過しなくてはなりません。

しかし、「た」が求める「か」はまだ存在していません。それでも「か」を求めると言うのですから、この矛盾を処理しなければなりません。

しかも、「た」の次にあるのは、「か」ではなく「闇」です。

わたしは闇と言いますが、何でも構いません。空でも、無でも、全体でも、神でも、先天でも、絶対実在でも、存在主でも、母音でも、世界でも、有でも、構いません。

「た」にはまだ実在しない「か」を求める能動主体があるということです。○にチョンを入れるとも言います。

文章にするとまだ無い「か」なのに「か」と言いますので、おかしく聞こえます。それを先天的な「か」といったり、生成前の「か」といったり、空における「か」といったりしますが、何も無いのにそこに新しい「か」をつくるのではなく、「か」を作れるところに「か」をつくるのです。

いわば鬼ごっこの「か」が隠れているというところでしょうか。見つけて引っ張りだして「た」にくっつければいいわけです。

ということは、古事記の物語にある岩戸隠れがこれに相当します。岩戸に隠れているのは天照らすですが、天照らすに象徴されるもの全部ということですから、「か」しても、「か」に続く全体としても同じことになります。

岩戸を開ける仕掛けは非常に複雑です。簡単に言えば記憶にあるものが出てくるということですが、書き下すと千年経ってもまだ誰も書き切れない状態です。

こうして考えていくと、私自身なかなか一貫して書けるようになっと思えます。(自己宣伝)。

前回には、金山から三貴子までに言及し、最終段階で三貴子が成立して、た行の「え」に注意を向けました。「え」の心は今-未来を内包していることです。

そのため、岩戸から天照らすが「御手(t+e=te )」を取られて出てくる意味が少し分かるようになりました。天照らすは自分一人では出てこないのです。「引き出し」という書きざままでされています。

-----古事記伝。宣長。----------------------

○取2其御手1(そのみてをとり)。この「取」を古くは「たまわり」と読んでいた。書紀では「奉承」とあって、やはりそう読む。だがこの読みは後代の言葉遣いなので、やはり字のままに「とりて」と読むべきである。○引出(ひきいだしまつる)。書紀には「引出奉レ出」とある。その一書には「天手力男神は磐戸の蔭にいて、戸を引き開けたので云々」【古語拾遺もそう書いている。】とある。ここでこの神の名の意味がはっきりする。戸を引き開けるにはもちろんだが、御手を取って引き出すにも、手の力が優れた神に担当させるのが当然だ。

----以上。----------------------------------

身体の「手」のこととしている以上の解釈はなかなか見つかりませんが、古事記はもともと精神、心の言霊学の物語なのですから、「手」は精神上の「テ」のことで、た行の「テ」でなくてはなりません。

ついでに。

----古事記伝。宣長。----------------------

○御後方は「みしりえ」と読む。書紀の斉明の巻【蝦夷の地名】に「後方羊蹄、これを『しりえし』と言う」とあり、万葉巻二十【十六丁】(4326)に「等能々志利弊(とののしりえ)」などの例がある。つまり前(目方)に対して後方(尻方)を言う。

----以上。----------------------------------

ご丁寧にも、後方は「しりえ」、しり・え、知り・エで、言霊エを知れ、とまで書かれています。場所を指す後方のことではありません。天照らすの「え」を引き出すことの呪示です。天照らすにはそもそも「T+E=TE」(て)が含まれているが、自分では引き出せないということです。

つまり、闇の中に隠れている天照らすである「た」の意図した「か」、および「まはら、、、」を引きずり出すということになります。

ところが、天照らすが自分では出てこないというところが、重要なこととなります。天照らすを餌で釣らないと動かせないのです。

それを見せつけきっかけを作るのが、ウズメであり、ミクビタマ、トヨウケ、です。( 餌で釣る、はあまりうまい表現ではありませんが、我慢してください。人類史上最高の秘密に向かいあっていますので、今のところは観念の流れるままにさせて下さい。)

天照らす自体が言霊エですが、エを手引きする、手を替える、手を出す、手を取る、等の主体動作をさせるものが必要なのです。「た」を「か」へ向わせるものです。「た」に「て」の自覚能動因を与えて「て」を出させるものです。

これが「闇」を超える、渡る、となります。目前のケーキを食べるには、食べる準備と、食べる意思を起こさせる能動因が必要なのです。「どうぞ」の一言は本人のものではありません。

つまり、その前に、天照らすの前に、天照らすが手を出すものを準備しなくては、その行為を起こさせることができません。(岩戸前の大袈裟な準備が全て必要事となります。これが「闇」の前提。

その後に天照らすが動くのです。それが天照らすに内包するタヂカラの男です。「天照らすに内包する」という言い方は普通では理解されませんが、解釈ではなく、精神運用の実在を言っています。

その実在動因がタヂカラの男であり、父韻といわれるものです。これが「闇」を渡ることで、「どうぞ」の一言です。

タヂカラは天照らすではありませんが、タヂカラによって呼応しなくては自らを表しません。天照らす内にタヂカラがいるということです。

「た」「か」へ行くには、「た」の前に餌を並べ、これが先天の「か」で、「か」は無限の先天実在の一つです。後に現象の「か」となるものです。当初は最初から「か」を提供するのは無理なことで、(「か」はまだ無いのですから、)全世界実在のどこかの一つとして隠されているわけです。

その時点で、「た」に付与されたタヂカラ(父韻)の動力因が働きます。

ここから後は、金山以降の話となります。

・か

・ま

・は、、、、、

と、循環が繰り返されていきます。そしてそれぞれ自らが三貴子となるまで続きます。こうして「た」の次に「か」を得ます。そして次に、次にとなります。

ところで、次に、次に、はいつかとまり完了了解されなければなりません。循環が自己完了して止まり、「たかまはら」となるのは何故なのでしょうか。

それは、最初に「た」と語る以前に「たかまはら」があったからです。

またおかしなことを言い出しました。「たかまはら」をつくるのに最初に「たかまはら」があるとは、自己撞着ではないかということです。

これも、「た」が「か」へ行くのと同じで、全世界実在のどこかの一つとして隠されていた「たかまはら」を得れば終了するのです。この場合は「たかまはら」に続く心をもちあわせていないので、それを得て停止します。

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三種の神器の使用法。その20。「た」→闇→「か」の闇を渡る。

た行き「え」

考える主体。

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三種の神器の使用法。その20。天照らすの前にウズメがいる。

前回の終わりに、「た」から「か、、、」へ行くのに、最初に「た」と語る以前に「たかまはら」があったからと書きました。「た」以前に「たかまはら」があるのはおかしな話ですが、今回は岩戸の段落を参考にして、そこを巡ってみます。

「た」以前に「たかまはら」がある、という言い方はひふみ神示ばりのもったいぶったいいかたですが、種を明かせば簡単です。同じ言葉が二回繰り返されているところは、先天が後天現象になると読めばいいのです。ここでは「たかまはら」の先天の「た」が後天現象となって『た』としてあらわれるです。

書かれた〈た〉には変りがありませんが、次元内容が違います。岩戸の段落の天照らす大御神を〈た〉の先天としますと、岩屋戸の物語は、そのまた先天構造から話が始まっています。先天の先天から始まることは古事記では一貫していて、人間の、スメラの名前にまでなっています。

ににぎの何々、というのがそれで、ニニギは二の次、三番目ということで、元の元のギ、先天の先天のギとなり、この象徴呪示である「ギ」を入れ換えれば何にでも該当します。

現象の『た』は、先天の「た」を経て、先天の先天を「た」足らしめる原則規範となる〈た〉から来ているとなります。たかまはらも同じ構造で、原則規範の<たかまはら>が、頭脳内の言霊「たかまはら」に載って、言葉現象の『たかまはら』になります。こうして発せられた『たかまはら』のた以前に<たかまはら>が見つかりました。

以上は内容の無い形式だけの記述です。わかりたか、なんていう日月神示も内容を書かず形式だけのものですので、何も役に立ちそうもありませんが、形式の形のあれこれは教えてもらえます。しかし、神示には解説ファンが多いことを最近知りましたが、内容はありません。というより、形式が内容であるということを知らないようです。知ったら、ひっくり返るでしょう。もうその時代に入っています。話が逸れました。

そこで「た」-「か」---の連結についてです。

わたしたちは現在の位置から見れば出来上がった言語体系の中にいて、それを自由に使用しています。古代に誰かが作ったからです。自然発生や順次に発展したとしても、その規範がなければ、立ち行きませんから事情は同じです。つまり、自然発生的にか自覚的にかの違いになります。

上記では「こうして発せられた『たかまはら』のた以前に<たかまはら>が見つかりました。」なんて威張っていますが、時間を無視したトリックで、形式的に書いただけです。

そこで何とか現実の時間の流れの中で書きたいのですが、うまくいきません。

うまく行かないところは、発音された「た」の位置です。「た」は了解され頭脳内に治まりました。次の「か」へ行くのに、どのように「か」を見つけるかで、迷っています。

「た」は現在頭脳内に鎮まっています。鎮座しているものがどうして動きますか。拝んだところが動くわけがないのです。しかし神道にはもう一つ言葉があります。イツクです。

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この二三日そして今も、進まないので、2ちゃんで少し遊んできました。

「日月神示関係の否定スレ」でみんなとワイワイしたわけですが、そこから、重要なことを得ました。

何故、ウズメが岩屋戸の前で騒いだかです。

その騒ぎの心の意味、精神上の意味が分かりかけてきました。

岩屋戸開きには、騒がなければならない必然性です。

つまり、「た」-「か」---の連結はウズメの騒ぎによるのではないかということです。

解決済みの方がいらっしゃれば、援助が欲しいところです。

がんばりますので、しばらくお待ちください。

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三種の神器の使用法。その21。ウズメが踊る。

「た-か-ま-は-ら」、「わ-た-し」、等々何故言葉が続くのかの続きです。

今回もどうなるか分かりませんが。

岩屋戸を参照にします。

天照す大御神を「た」とします。「た」と発音されその発音が了解され、頭脳内に鎮座しました。記憶の岩屋戸にて一休みしています。

しかし、実際にはたかまはらと発音されるのですから、休んで記憶の引き出しに鎮まったのではないのは明かです。暗闇にいるが、持続の胎動があり活動が続きます。

最初から「た」の一言を発音することが意図されていたのなら、「田」「他」「多」などの意図の元、それが言いたくて言い終わって、「た」でよしとなって、それで終わりです。後に続く言葉は無くていいわけです。そのまま暗闇内で安らってもらえます。

現象次元の「た」が岩屋戸にあります。「た」以下の -か-ま-は-ら、はまだ現われない先天の世界に実在しています。

しかし、-か-ま-は-ら、という記述は出来上がったものとしての記述ですから、-か-ま-は-ら、という順浮動、あるいは、有るかも無いかもしれないもの、として先天的に在ります。

た-か-ま-は-ら、わ-た-し、等々は一塊の全体が出てくるまで、まだ終わっていません。終わっていないのに、(た)-か-ま-は-ら、とか、(わ)-た-し、とかの、まだ来ないもの無いものを発音したいわけです。

ここに現象として確認していないのに後続の言葉があることが分かります。

正確に言えば言葉ではありません。言葉は現象になったものですから、ここではそれ以前、先天内の言葉になるだろうもののことです。

「言葉になるだろう」というものは未来へつながるものですが、どこにそんなものがあるか、ということになります。「た・かまはら」を発音するつもりで「た」と言いますが、「た」のどこに未来への連結、次の言葉になだろうもの、があるかです。

たかまはらという言葉を知っているから、それを表明するのでしょうか。記憶しているものを思いだしたからでしょうか。その前、前と戻って、始めた聞いたたかまはらはどこからきたか分からない馬の骨なのに、どうして受け入れたのでしょうか。

未来へ続く連結を示す言葉の要素が発音された言葉のうちにあります。「た」の内にあります。その次ぎの言葉内にも、またその次の言葉内にもあります。

あるいは後から来る言葉が前に有る言葉を探しにくるのでしょうか。未来が現在を探しにくるとか、未来は決まっているとか、、、、。

日本語は世界で唯一の言語構造で、一万年近い前に古代の大和の聖人が完璧に人工的に構築したとみられる、大和言葉を元にしています。日本語は現代もそれを正当に伝えているのです。

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さあ、行きましょう。

世界で始めて発表されることかもしれません。とはいいましても、古事記の神代の巻ですでに千年以上前に発表されているし、一万年前には当たり前だったし、フトマニ言霊学を知っている方達には、古くさいことを繰り返すななんていわれるかもしれませんが。

これも少しは分かったという歓びの表現です。わたしも普通の人なので、ノーベル賞百個分の価値があるように思い込んだものですので、許してください。

古事記の岩屋戸の場面です。

岩屋戸はイハヤトで、イ(五十)、ハ(葉、言葉、言霊五十音)、ヤ(屋、家屋、言霊の家屋、ここでは暗闇ですから寝る、記憶しているところ。)、ト(家から出てくる扉=口で、脳内記憶が口から出る。)

注意。古事記の岩屋戸の原理原則を今回のテーマに適応しているので、その他諸々の適応の一つというだけですので、岩屋戸とはこうだということではない。

言葉の連結に関してはことに次の部分を参考にします。

引用はウズメの段落からです。

『アメノウズメのミコト(天宇受賣命)、あめのイワヤド(天之石屋戸)にうけふせて、ふみトドロコシ、かむがかりして、ムナヂ(胸乳)をかきいでモヒモ(裳緒)をホトにおしたれき。かれタカマノハラゆすり(動)てヤオヨロズのカミともにわらいき。』

ウズメは初代ストリッパーにされていますが、興味本位なことを言えば男神です。元々神代の巻では男神か、女神かなどということは、どうでもいいことで、前にナキサワメというのが出てきますが、ついでに興味本位で言ってしまえばこれも男神です。

男神か女神かなどというのは内容に触れるものではないので、気にしないで下さい。もうやめておきます。要は能動主体側か受動客体側かです。

しかしそこで当然、気になるのが、

『ムナヂ(胸乳)をかきいでモヒモ(裳緒)をホトにおしたれき。』です。

解説してみます。

ウズメ・・欲しい知りたいしたい次元の欲望を実地に移す暗喩象徴で、いわゆる気を引くことの現われ。相手が居ようと居まいとまず躍り出て自己主張する代表。このウズメが足跡を残さなければだれも気付かない。ウの次元(ウ-ス、ス-ウの循環、渦)を代表するもので、今-今にいること。

ムナヂ(胸乳)・・女性の胸ではない。無名地のこと、名の無い地。色柄の刺繍のない無地のような地のこと。言葉となる以前の何も規定されていない先天の生地。

乳房(むなぢ)をかき出し、・・名の無い地、地を出す。まだ名を付けられてなくこうだという規定を受けない全体を示す無地の地をかき集める。ウズメは欲望次元ですから、何何したいという決まったことではなくその前に有る意欲全体をだすこと。その後に細部が出てくる。

モヒモ(裳緒)・・襞襞(ヒダ)スカート(前掛け)を縛るひも。ヒダは言霊五十音図を縦方向の連続したヒダによせた象徴表現で、言霊要素の言霊をつなぐ紐、「八」と同じ象徴。つまり父韻の実在。

ホト・・女陰ですが、子供が産まれるところから、現象子音が出てくるところ、言霊現象が出てくるところは口になります。口は霊止(ほと)=霊(ほ)が留まり、これから出てくるところ。

おし(忍)たれき(垂)・・紐を口に入れて、出番を待っている言霊要素を繋げること。 出てくるのは言葉、言霊ですが、繋がっていない言葉は言葉になってきませんので、紐を飲み込んでつなげ、口から紐を垂らして(舌を出して)連結し合った言葉を出すということです。

ここの段は、口から出てくる繋がった言葉の、その前段階の様子です。

口から言葉が出てくるのは、岩戸から天照す大御神が引っ張りだされる段落になります。

全体では、「言葉になるだろう」先天条件を整えることです。先天条件とはその人の経験知っている全宇宙世界の歴史と自分のことですから、それを全部まずは無地として「かき出し集めて」、モヒモの主体側の意図に沿った条件に合うようにして、発声の準備をする、となります。

ウズメは言葉要素を繋げる紐を飲み込むことがなければ、連結した言葉を発せないのです。

ところが言葉の発声の本体は、岩戸の中に隠れているのです。ウズメが発声するのではありません。ですのでウズメのすることは騒ぎ立てることで、それを本体に知らせることです。後に鏡を見せて「天照らすさんより凄いもの持ってるよ」という根拠です。

このように本体(天照す大御神)に一撃が来ないと、心は動かないということです。ウズメは契機とかキッカケとかです。それを作ったのが紐を飲むことです。紐はヒダヒダスカート(前掛け)の縦ヒダにあわせたもので、言霊学では父韻とのことで、この紐で縛って一連の、一塊の言葉を出す準備ができます。

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では、「た」から「か」へ行ってみましょう。

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