三) 国津罪

一、生膚いきはだ断たち、 国津罪 ( 伊予の二名(ふたな)の島) ・生きた気を断つ、実体側しか見ない

国津罪 ・ 規範適用上の運用領域での逸脱

逸脱論目次 http://blogs.yahoo.co.jp/ieuoa324/9818863.html

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零、問題の提起 ( 淡路の穂の狭別の島、ウ ・問題提起の間違い、提起しない

一、生膚いきはだ断たち、 ( 伊予の二名の島、アワ ・生きた気を断つ、実体側しか見ない

生膚いきはだ断たち、死膚しにはだ断たち――

生きている人の肉体を傷つける事の罪と解されます。モーゼの十戒に「汝、殺すなかれ」と書かれています。(出エジプト記)

二名とはアとワの二音言霊のこと 宇宙剖判で主体アと客体ワに分れます この主と客に分かれることが全ての自覚の始まりです イとヰの現象を創造する働きの予めの区分

伊豫の二名島(いよのふたなしま)

言霊ア・ワの区分、高御産巣日(たかむすび)の神、神(かみ)産巣日の神の宝座。伊豫(いよ)とは言霊イ(ヰ)のあらかじめと意味がとれます。何物もない広い宇宙から主客未剖である意識の芽が現出します。言霊ウです。それが人間の思惟が加わりますと瞬間的に言霊アとワ(主と客)の二枚に分れます。人間は物を考える時には必ず考える主体と考えられる客体に分れます。これが人間の思考性能の持つ業であります。「分(わ)ける」から「分(わか)る」、日本語の持つ妙とも言えます。

この主と客に別れることがすべての人間の自覚・認識の始まりです。言霊ウの宇宙が言霊アワの宇宙に剖判し、次々とオヲ、エヱの宇宙剖判となり、終にイ・ヰの宇宙に剖判する事によって「いざ」と立上り、現象子音の創生が始まります。言霊イヰによる子音創生が始まりますのも、その予めに言霊アワに分かれたからでありますから、伊豫の二名(アワ)の島と呼ぶわけであります。

この島は身一つにして面四つあり。面(おも)ごとに島あり。

身一つ、とは一枚(言霊ウ)から二枚(言霊アワ)に分れることから、身とは言霊ウを指します。言霊アワから言霊オヲ、エヱが剖判します。そこで「面四つ」と言っています。

面ごとに名あり。かれ伊予(いよ)の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐(さぬき)の国を飯依比古(いひよりひこ)といひ、粟(あは)の国を、大宜都比売(おほげつひめ)といひ、土左(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ。

面四つのそれぞれを言霊に置換えますと、愛比売とは、言霊エを秘めているの意で、言霊エは言霊オから選ばれる事から、愛比売とは言霊オであります。飯依比古の飯(いひ)は言霊イの霊(ひ)で言霊のこと、比古とは男性で主体を意味します。言霊を選ぶ主体は言霊エ、即ち讃岐の国は言霊エです。大宜都比売(おほげつひめ)とは「大いによろしい都を秘めている」の謎で、都とは宮子(みやこ)で言霊の組織体の意でありますので、粟の国とは言霊ヲの事を指します。建依別(たけよりわけ)とは建(たけ)は田気(たけ)で言霊のこと、依(より)は選(より)で選ぶの意で、土左の国は言霊ヱを指します。伊豫・讃岐・粟・土左の四国は「面四つあり」の四に掛けたもので、それ以外の意味はないように思われます。

(以上は島田正路氏による。)

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天津罪には生き剥ぎ、逆剥ぎがあり、さらに国津罪には、 生膚いきはだ断たち、死膚しにはだ断たち、がある。なんとも恐ろしいかぎりです。とはいっても解釈しだいですから、現在では傷害の意味になって通用させているようです。

(今までの解では、天津罪、全て農耕を妨害する人為的な行為といわれwiki、国津罪、病気、災害、性的関係、薬師如来信仰wiki。)

古事記の言霊学ではいずれもこころの運用あり方に関するものですから、二者はこころの持つ元々の逸脱の性能(天津罪)と、こころの現実運用に関する逸脱(国津罪)のことで、古事記の構成の通り先天的に起こり得る逸脱、間違え(罪)と、後天的な運用によって起こる逸脱、間違え(罪)とにすればいいのです。

それにしても非常に抽象度の高い表徴的な言葉使いで、神社側がこわがって使いたくない様子ですので、今後のスメラミコトの出現を待つしかありませんが、ウズメの騒ぎを起こしておかないと連鎖も起きてこないので、勝手なことをやってみます。

生膚いきはだ断たちと死膚しにはだ断たちは、対になっているように書かれていますが、伊予の二名(ふたな)の島・隠岐(おき)の三子(みつご)の島、別々の次元領域での思惟運用上の間違えとします。

「生きはだ」は例によって、「イ」の気の言葉の田で伊予の二名(ふたな)の島、

「死にはだ」は「四、二」の言葉の田で隠岐(おき)の三子(みつご)の島、三段目の四つの主客を隠し構成する二つの言霊オとエに相当します。

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精神の先天から始まり後天現象を創造して、表現を介して相手(あるいは自己)に了解され、一旦消え去り記憶となりそれがまた先天に戻って、前承する言霊循環宇宙が用意されます。

この精神の一循環に十四の精神運用領域があることが古事記には示されています。

簡単に言うと「あ」と思って「あ」と発音して「あ」と聞いて「あ」と了解して、その「あ」を先天の前提とする、「あ」といって「あ」と分かるほんの数分の一秒の世界に、意識の十四の領域を形成してそれを順次通過することで、人の意識活動があらわされます。

数分の一秒の世界をほじくり云々してどうするのか、と取らないでください。時間の長さが問題ではありません。 「あ」といってから「あ」と了解されるまでに古事記は百の過程で説明しています。(言霊百神)この数分の一秒の百神の世界が人間の生きる原理として示されているのです。

数分の一秒で既に原理ですから、そのあらわれの一分、一時間、一生、社会世界の歴史も、自分も他人もその原理に従っているということです。原理は科学数学物理世界では普及した概念ですが、精神界では未だに、あの世があったり神や創造主がいたり心霊界、奇跡の世界などのわけの分からないものがまかり通っていて、心の原理などといえば笑われるくらいです。

そういったわけの分からない世界に参加して行く人間側にあるのは心です。心を持ってわけの分からない世界に入って行ったところで、人の心では分からないのに、心を持ち込みねじり込むのは、全く心側の問題であっち側とは関係ありません。こころがあるからといってあっち側に入る入り口は分からないのです。

そこで分かったようなことが起きたりあったりするのは、全部こちら側の心内でのできごとです。

こころにはその動き運用の原理がありますから、冷静に心の中に留まっていれば、あっち側に行かなくても、自分の心をわけの分からないあっち側に預けることもないのです。こころがあっち側について思い考えることは全部こっち側の心の問題です。

国津罪このブログでは十三の違いになっています。古事記にある十四島に一つ足りません。それが淡路の穂の狭別(あわじのほのさわけ)の島です。

この心の島・領域の現れは有るか無いか、提供するかしないかで、天津罪の「畦あ放はなち」の逸脱と同じ内容を持つものなので、記載がありません。

参照。 淡路の穂の狭別の島(あわじのほのさわけ)

先天構造の最初に出て来る言霊ウの区分を示す島名です。神話形式で言えば天の御中主の神の宝座ということになります。アとワ(淡)の言霊(穂)が別れ出て来る(別)狭い(狭)道(道)の区分(島)という意味であります。この島の名の意味・内容は古事記解説の冒頭にあります天の御中主の神(言霊ウ)の項の全部と引き比べてお考え下さるとよく御理解頂けるものと思います。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神……」の古事記冒頭の文章自体がこの島名の意味を端的に表わしているとも言えましょう。

生膚いきはだ断たち、国津罪。伊予の二名(ふたな)の島、

生き・イキ・イの気・五気

肌・ハタ・葉田・言葉の田・畦に囲まれた田

伊予の二名(ふたな)の島、この島は身一つにして面四つあり。面(おも)ごとに島あり。

身一つ、とは一枚(言霊ウ)から二枚(言霊アワ)に分れることから、身とは言霊ウを指します。言霊アワから言霊オヲ、エヱが剖判します。そこで「面四つ」と言っています。

生き肌断ちは、「身一つ」である生きている全体である気を断ち、破壊し、逸脱間違うことです。精神の始めの領域での逸脱です。(前承する言霊循環上昇循環では常にここの始めに戻ります。)

生きている全体というのは、例えば、このブログの文章を読み最初の印象が出てくるところで、断つために、その後のイの気(五気)の言葉の田が形成されないことです。

つまり、くだらない文章だとして打ち捨てられます。意識の対象に昇ってこない、昇らせないことです。

意識に昇りこの段階が通過されますと、次の隠岐の三子島の領域に行き、伊豫の二名島の内容、「身一つにして面四つあり。面(おも)ごとに島あり。身一つ、とは一枚(言霊ウ)から二枚(言霊アワ)に分れることから、身とは言霊ウを指します。言霊アワから言霊オヲ、エヱが剖判します。」が生きてきます。

次いで、死に肌断ち、隠岐の三子島。

「死にはだ」は「四、二」の言葉の田で隠岐(おき)の三子(みつご)の島、三段目の四つの主客を隠し構成する二つの言霊オとエに相当します。

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二、死膚しにはだ断たち、 国津罪 ( 隠岐(おき)の三子(みつご)の島、ヲオエヱ ・過去-今-未来を繋がない

生膚いきはだ断たち、死膚しにはだ断たち――

生きている人、また死んだ人の肉体を傷つける事の罪と解されます。モーゼの十戒に「汝、殺すなかれ」と書かれています。(出エジプト記)

隠岐とは隠り神、三つ子とは三段目に現われる言霊という意味

言霊オ・ヲ(経験知)、エ・ヱ(実践智)は文明創造上最も重要な精神性能です

次に隠岐の三(み)つ子の島を生みたまひき。またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)。

言霊オヲ・エヱの宇宙に於ける区分の事です。隠岐(おき)は隠気で隠り神の意。三つ子とは天津磐境の三段目に位する言霊を意味します。またの名の天の忍許呂別(おしころわけ)とは先天の(天)大いなる(忍)心(許呂)の区分の意。言霊オ(経験知)と言霊エ(実践智)は人間の生の営み、人類文明創造に於ては最も重要な心の性能であります。

(以上は島田正路氏による。)

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死に肌断ち、隠岐の三子島。ヲオエヱ ・過去-今-未来を繋がない。

「死にはだ」は四二葉田、「四、二」の言葉の田で隠岐(おき)の三子(みつご)の島、三段目の四つの主客を隠し構成する二つの言霊オとエに相当します。(四二は伊予の二名島参照)

身一つで面四つ(伊予の二名島)の内容である「二」のアワから、オヲエヱ「四」があらわれてきました。隠れていたのが起き(隠岐)てきました。概念記憶知識と実践按配の智慧を司る人における重要な精神次元です。

ここの次元は、ものの存在を、あったものから-あり-あるだろう、とする精神分野です。過去から今、未来へと流れるところでその流れを断ち切ると四二(死に)肌断ちとなります。

つまり前承して生まれたものの未来への流れを断つことと、在るものへの執着から立ち止まることが四二葉田断ちになります。

葉田は言葉の田で五十音図のこと。

何故いつもいつも「田(五十音図)」が出てくるのかというと、例えば、「たとえば」と四音発音するときでも「た」と言って「た」を確定して、その次に「た」につづく「と」に至るまでには、他の言葉でなく「た」であることが了解されなくてはなりません。その了解を得るのは五十音全部を通過して「た」しかないと分かったからで、それが自他共に了解されている「た」であるときに「た」と正しく発音します。

そして、その後で「と」を取り上げ、「と」しかないとやはり五十音を通過していきつつ了解して、「たと、、」とつながることが五十音の中で確かめられ、それが繰り返されて一つの単語に到達します。

頭の中ではこのような超超スピードの回転が起きています。

「たとえば」の「たと、、、」と続くこと自体に過去-今-未来が全体的に包含されていることに気づくでしょう。過去-今から「た」が出てきて、「た」が今となって未来への連結動力因があるので、「た」の今-未来を続けることができ、「と」と結ばれます。その各々の過去-今・今-今・今-未来へと渡る度に五十音を意識しなくても通過しています。

五十音を通過するたびに各音の実体化が起きますが、ここに囚われると前に進めせん。実体化されたものは客観物としては出来上がって終わった「死に肌」というわけです。

それを死体損壊にしたり、呪的行為に結びつけるのもどうかと思いますが、表現された言葉に留まるならば当然そうなるでしょう。あの呪的行為が悪くてこちらの呪的行為は罪にならないなんて、おかしいと言ったところで、そのような思いに導く言葉が死に肌断ちの罪として残されていて、言葉の解釈の五十音図の一つ所に留まり引っ掛かっているわけです。

これを越えるには次のシラヒトコクミの次元へ渡らねばなりません。

神社の方では話すのも嫌だということになっていて抹消しています。もちろんその理解と利益の範囲内では正当な対応となっていますが、世の中というのはそれだけではないのがおもしろいところです。

死に肌を四二離れる田というのもあるかなという思い付きがでてきました。(コジツケし過ぎるという声も。)

いずれにしても知識智慧の運用に関する重要なところです。知識智慧をどうすると罪になるのかというところです。死に肌断ちなど無いと抹消するのも智慧のなす技ですが、時の流れと共に忘れ去られるようなものではないことは、千年以上の継承された歴史の上に自分が立っていることを、当面だけは忘れているということでしょうか。

知識なんていうものは過去の数十億年の全体のことですから幾らでも出てくる。あしかびのように(言霊ヲ)。これがおおいなる心の区分なのにそれを使用すると罪になるというのですから、解釈に困ります。

しかし何十億年の全体が知識だといっても共通していることは、それらの全ては単なる過去で、過去知識と過去概念でしかありません。一ミリたりとも未来に入ることはできません。過去をあらわすのは死に肌・死に葉田という言葉です。過去のどの時点を扱っても死者の言葉です。((言霊ヲ) その死に葉田をもって今-未来に入ることはできません。

それを扱わざるを得ず、扱って当然であるが、扱うことで罪になる方向を持つようになる、これが死に肌断ちの罪です。

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三、白人しらひと胡こ久美くみ、国津罪 ( 筑紫(つくし)の島 ・途中で任意に留まり滞留する

白人しらひと――

辞書にしろなまずのある人。一説に今の白子の類、とあり、通説はないようであります。それが旧約聖書の十三章を見ると、その説明が詳しく乗っていて、癩病患者であることが分かります。大祓とモーゼの五書の関係を知る上で参考となりますので、此処で引用します。

「エホバ、モーゼとアロンに告つげて言ひたまはく 人その身の皮に腫あるひは癬できものあるひは光る処あらんにもし之がその身の皮にあること癩病の患処のごとくならばその人を祭司アロンまたは祭司たるアロンの子等に携へいたるべし また祭司は肉の皮のその患処を観るべしその患処の毛もしく白くなり且その患処身の皮よりも深く見えなば是癩病の患処なり祭司かれを見て汚けがれたる者となすべし…」(利未記十三章一~三)

胡こ久美くみ――

贅肉あまじしの意で「いぼ」または「瘤」の意、と辞書にあります。聖書に「エホバ汚れたる者」と定めています。

次に竺紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ竺紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久志比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別(たけひわけ)といふ。

父韻チイキミシリヒニの八言霊の精神宇宙内の区分。宇比地邇の神・妹須比智邇の神、以下妹阿夜訶志古泥の神計八神の宝座のことであります。これ等八父韻言霊、八神は母音宇宙言霊に働きかけて子音言霊を生む人間の創造意志の智性の原律をすべて尽くしている、即ち竺紫(つくし)の島である、という事です。この島も身一つにして面四つあり、とあります。八父韻すべては言霊イ(親音)の働きであります。身一つといわれます。その働きは二言霊一組の四組から成っています。面四つあり、の意です。この面四つ、四組の区別を左に並べます。

竺紫の国

白日別 言霊シリ

豊の国 豊日別 言霊チイ

肥の国 建日向日豊久志比泥別 言霊ヒニ

熊曽の国 建日別 言霊キミ

右の如く並べて書きますと、三列目の肥の国を除く三行は白日別と言霊シリ、豊日別と言霊チイ、熊曽の国と言霊キミとしてそれぞれ五十音図表のサ行とラ行、タ行とヤ行、カ行とマ行と同じ行である事が分ります。また白日、豊日、建日と日の文字があり、日即ち霊(父韻)を意味します。以上の事から容易に古事記の編者太安万侶の意図を察する事が出来ます。然も編者は容易に謎を解かれるのを嫌ってか、三行目の肥の国だけは長い別の名を用いました。しかしこの長い名前も、八父韻解説の章で述べました如く、於母陀流(面足)が言霊ヒ、妹阿夜訶志古泥が言霊ニと解けてしまっている今では、建日向(面足)と日豊久志比泥(阿夜訶志古泥)は容易にその類似を知る事が出来ます。父韻ヒが心の表面に表現の言葉が完成する韻であり、その反作用として父韻ニが心の中心にすべての思いの内容が煮詰まる韻と分ってしまっているからであります。

竺紫は尽くしの謎 八つの父韻は言霊イ(伊耶那岐神)の実際活動のリズム 「身一つにして面四つ」の意味は作用・反作用の陰陽一対四組の知性の律の島です

(以上は島田正路氏による。)

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三、白人しらひと胡こ久美くみ、 ( 筑紫(つくし)の島 ) ・・途中で任意に留まり滞留する

オニペディアには、白人胡久美(しらひとこくみ)のよみの区切りを変えて、「白昼姦淫すること。白日床組(しらひ・とこくみ)といふ醜穢文字を避け、わざと当字を用いた。」と言っています。

電気のない昔には日のある内にに交わらないと相手の顔が見えない、現代でも昼間の姦通は普通に在るし、白日床組(しらひ・とこくみ)それ自体を罪とするのは考えものです。

原文の竺紫(つくし)の島の説明に在る 「この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ竺紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、、、、、」の部分に注目してください。

白人と白日のシラヒトとシラヒ「シラヒ」が共通で、「シラ」のラはラ行で「リ」に変換して、

意富斗能地神・言霊シと妹大斗乃弁神・言霊リが配当できます。

シラヒトコクミを子音頭で書くと、

しら ・ ひと ・ こくみ

(SR) ・(HT) ・(KKM) (Kのダブリを省略して)

父韻の流れチイキミシリヒニの八父韻に配当すると、

しらひとこくみ

SRHTKKM

が、

チイ・キミ・シリ・ヒニ

T○・KM・SR・H○

と○・こみ・しら・ひ○

になって、ところどころに空白ができ、全体が通じません。

シラヒトを皮膚の色素がところどころ抜けて一様でない、全体が通じない状態が出現します。

さらにそこで、

シラヒトコクミは、

シラが意富斗能地神・言霊シと妹大斗乃弁神・言霊リで父韻を代表させ、シとリは静止と流れの対になっていて、

ヒは、父韻全体の働きで、霊(ヒ)の流れのことで、

ト・コは、床に止まりで、床は四角く五十音図の表徴で

クミは、組みで、父韻の働きが五十音図の床に組めないということになります。

コクミを瘤とするなら瘤に邪魔され流通できないとなるでしょう。

霊(ヒ)の流れを飛ばしたり抜かしたり突っかかったりダブったりさせて流れを不良にする、精神性能上の罪(逸脱)のことです。(罪、ツミ・津実・実を渡す、意識の内容を相手対象に渡す(ワタツミ)上での障害。)

主から客へ渡らずに(父韻不全)、途中が抜け落ちている、留まる、途中で任意に留まり滞留する、になります。

正常に父韻の流れがなく、逸脱した五十音図の通過でもって、子現象を生んでいくことでしょう。

父韻の働きは父韻全体を通じて渡っていく(津)ことで、正常な現象創造となります。意識の次元によって父韻の配列が変わります。

ウ次元の意識--キシチニヒミイリ

オ次元の意識--キチミヒシニイリ

ア次元の意識--チキリヒシニイミ

エ次元の意識--チキミヒリニイシ

次回は、四、己が母犯せる罪、 ( 伊岐(いき)の島) ・ 父韻によって母音から子音が生まれるのを、逆にして現象から母音を見る

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四、己が母犯せる罪、 国津罪 ( 伊岐(いき)の島 ) ・ 父韻によって母音から子音が生まれるのを、逆にして現象から母音を見る

己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪――

この様な近親相姦の罪について大祓はただ四つの事柄を続けて挙げているに過ぎませんが、旧約聖書には詳しく説明されています。その一部を載せます。

「汝等凡すべてその骨肉の親に近づきて之と淫するなかれ我はヱホバなり 汝の母と淫するなかれ是汝の父を辱はじかしむるなればなり彼は汝の母なれば汝これと淫するなかれ 汝の父の妻と淫するなかれ是汝の父を辱はじかしむるなればなり……」(利未記十八章六~八)この説明から直ちにギリシャ神話のエヂプス・コンプレックスを思い出す方もありましょう。

伊岐とは伊の気でイ言霊のこと

心のすべての現象はここから現われ出て、また此処に帰っていくのです

伊岐(いき)の島またの名は天比登都柱(あめひとつはしら)。

言霊イヰの精神宇宙に於いての区分。伊耶那岐の神・伊耶那美の神の宝座。伊岐の島とは伊の気の島の意でイ(ヰ)言霊のこと。天比登都柱とは先天構造の一つ柱の意であります。絶対観の立場から見ると、言霊イとヰは一つとなり、母音の縦の並びアオウエイと半母音の並びワヲウヱヰの五段階の宇宙を縦の一本の柱として統一しています。この統一した一本の柱を天之御柱と呼びます。伊勢神宮内外宮の本殿の床中央の床下にこの柱を斎き立て、これを心柱・忌柱または御量柱と呼び神宮の最奥の秘儀とされています。この心の御柱は人間に自覚された五次元界層の姿として、人間の精神宇宙の時は今、場所は此処の中今に天地を貫いてスックと立っています。一切の心の現象は此処から発現し、また此処へ帰って行きます。天比登都柱の荘厳この上ない意義を推察する事が出来るでありましょう。

以上で心の先天構造を構成する五段階の言霊の位置を示す五つの島名の説明を終わります。これ等島の名によってその区分に属す言霊の占める精神宇宙の位置ばかりでなく、言霊それぞれの内容を理解するよすがとなることをお分り頂けたことと思います。島の名はこれより創生される言霊子音並びに言霊五十音の整理・運用に関係する島名となります

(以上は島田正路氏による。)

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四、己が母犯せる罪、 国津罪 伊岐(いき)の島 ・ 父韻によって母音から子音が生まれるのを、逆にして現象から母音を見る

近親相姦の言葉が続きます。

四、己が母犯せる罪、 五、己が子犯せる罪、 六、母と子と犯せる罪、 七、子と母と犯せる罪、これらを五十音図の構成要素とその運用に適応していけばいいのです。

五十音図は、父韻、母音、半母音、子音の各要素で構成されており、父母の両親で働きと実体側をあらわし、母音と半母音で実体側の働きを受ける側と働きがあらわれる側をあらわし、子音で創造結果としての子現象を生み、子(古)事記となります。

此処までが先天の関係で、そこでの逸脱が天津罪です。

天津は元々ある先天のということですから、誰々のせいで何のせいで間違うということではなく当然ある間違えということで、大別して「蛭子(霊流子)、淡島(ア・ワ)」として紹介されています。

さて、先天の働きによって要素現象が創出されてくるところから、国津罪が始まります。ここからは人為的な逸脱になりますが、常に天津(先天)の上に乗っているものですから、よく自分のことを棚に上げ一般化したり他人のせいにしたりすることとなります。

近親相姦の言葉を並べていますが、四、己が母犯せる罪が基本となる逸脱です。

伊岐(いき)の島から出てくる逸脱で、伊耶那岐の神、伊耶那美の神の領域、つまり「母」というのはこの二神のこと、あるいは伊耶那岐の大神のことをさします。

このようにいうと男神である伊耶那岐の神が「母」であるわけがないと、言葉の上では矛盾したことをいうようにとられますが、それは伊耶那岐の神が男神であるという解釈から出ている立派な逸脱の一つですので、元をただす立場に戻ってもらえればいいことです。

併置して比較してみます。

四、己が母犯せる罪、 ( 伊岐(いき)の島 ・ 父韻によって母音から子音が生まれるのを、逆にして現象から母音を見る

五、己が子犯せる罪、 ( 津(つ)島 ・ 現象子音の配列を崩したり取り違える、夢を見る

六、母と子と犯せる罪、 ( 佐渡(さど)の島 ・ イメージを言葉に渡さない。物象化しない。

七、子と母と犯せる罪、 ( 大倭豊秋津(おほやまと)島 ・ 先天(母)から現象(子)が現れたことを見ずに現象の客体化を固定する

四の己が母犯せる罪は、子現象とその元となる関係を見ていきます。精神世界、精神現象の元、大本というのは伊耶那岐の大神のことですから、その大本に対する逸脱です。

原因から結果が、母から自分が、何々から現象が、先天から後天が、言霊ウから言霊アワが、種から双葉が出てくるのに、それを逆にすると間違いになるというものです。後から来たのにそこを退け俺の席だというわけです。これは分かりやすいと思います。

それを「己が母」といっています。伊岐(いき)の島・天比登都柱(あめひとつはしら)・の領域にあって、先天の活動を締めくくっているのが、どうして己が母犯せるになるのでしょうか。

それはまさにこの領域(伊岐の島)が古事記のこころの十四島の中で、ここまでとこれから先との丁度境目にあるからです。零、一、二、三、四の島々の領域が天津イワサカトという精神の先天領域で、五から先は後天現象の領域です。

すでに天津罪として先天領域の罪は八父韻の領域として記述されているのに、何故ここでまたダブるのかというと、言霊循環をした後の先天となっているからです。原理的な先天と前承する言霊循環上での先天ということです。

前者は人として逸脱して当たり前の性能としてあり、後者では自覚無自覚な要素を抱えた上での逸脱になります。

国津・クニツは、組んで似せて渡すことで、人の意識の介入に左右されます。

全ての人間の創造動力因である伊耶那岐の大神の領域である伊岐の島です。

伊岐の島、「イ」の気の締まりで言霊イの創造意思を己が母としたものです。またの名を天比登都柱(あめひとつはしら)と言っています。オノゴロ島の段では天の御柱と八尋殿となっていて、先天原理のアメヒトツハシラで、ここでは言霊循環での先天です。

古事記冒頭の十七神の精神原理図。天津磐境(あまついわさか)。

チ・宇比地邇 イ・ 伊

オ・天の常立< キ・角杙 耶

ア・高御産巣日 シ・意富斗能地 那

エ・国の常立< ヒ・於母陀流 岐

ウ・天の御中主<

ヱ・豊雲野 < イ・妹須比智邇 ヰ・ 伊

ワ・神産巣日 ミ・妹活杙 耶

ヲ・宇摩志阿斯訶備比古遅< リ・妹大斗乃弁 那

ニ・妹阿夜訶志古泥 美

先天にあるものを犯すというのですから、そのあらわれ方を見るとまず全体性が立ち上がるようにあらわれます。己が母犯せる罪はこの立ち上がる時点で問題を起こし逸脱していくことを言うので、以降の細かいことは別次元の話となります。

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五、己が子犯せる罪、 国津罪 ( 津(つ)島)

・ 現象子音の配列を崩したり取り違える、夢を見る

己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪――

この様な近親相姦の罪について大祓はただ四つの事柄を続けて挙げているに過ぎませんが、旧約聖書には詳しく説明されています。その一部を載せます。

「汝等凡すべてその骨肉の親に近づきて之と淫するなかれ我はヱホバなり 汝の母と淫するなかれ是汝の父を辱はじかしむるなればなり彼は汝の母なれば汝これと淫するなかれ 汝の父の妻と淫するなかれ是汝の父を辱はじかしむるなればなり……」(利未記十八章六~八)この説明から直ちにギリシャ神話のエヂプス・コンプレックスを思い出す方もありましょう。

津島の津とは渡し場の意 未だ言葉として名のつかない、秘められている区分 先天構造内に起った活動が津島という十言霊の現象を経て、頭脳内で実際のイメージにまとめられ行く過程です

まだ言葉として表現されていない内は全く個人的な恣意であって人間社会に通じることのないものです 先天の活動が言葉の社会、即ち一般社会に出て行く船の発着場という意味で、先天の何か分らない働きが表現された言葉の世界へ出て行く港の意です

未鳴、真名とも言います まだ言葉として発せられていない、考えがまとまっていく段階です

別名 天の狭手依比売(あまのさでよりひめ) とは先天の天名(あな)が狭い津島という区分(狭)を通って一つのイメージにまとまるよう手で探ることが秘められている(比売)区分ということです

津島

以上、大事忍男の神より妹速秋津比売の神までの十神、タトヨツテヤユエケメの十言霊の説明を終えます。これ等十神、十言霊が精神宇宙に占める位置を津島と呼びます。津とは渡すの意。意識では捉えることが出来ない心の先天構造の働きが実際にどんな内容、どんな意図があるかを一つのイメージにまとめる過程の働き、現象であります。この十個の言霊の働きによって、先天の活動を言葉として表現する次の段階に渡す、即ち津島であります。またの名を天の狭手依比売(さでよりひめ)といいます。先天の活動が狭い処を通り、手さぐりするように一つのイメージにまとまって行きますが、まだ言葉にはなっていない、すなわち秘められている(比売)の段階という意味であります。子音創生の話しはこれより佐渡の島と呼ばれる段階に入ります。

(以上は島田正路氏による。)

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五、己が子犯せる罪、 国津罪 ( 津(つ)島) ・現象子音の配列を崩したり取り違える、夢を見る

四、己が母犯せる罪は、自分を創造した元を犯すですが、五は自分の創造した現象を犯すことです。

自分という場合の自分の位置づけを決める時、異なる時間差がいろいろです。親が子を作り、子が親となりという鶏と卵に似てきます。時間の流れの中ではどこからが自分の創造した子現象かということははっきりしませんが、古事記では非常に細かく分析されています。(コジキを子事記と書けば子の事を記したものとなります。)

実際、思いが出てきたとき閃いたときそれを既に「子」という人もいれば、思いが形を取ったときという人いるし、形が表現されて自分の手を離れたとき、相手に到達したとき、相手が理解したとき、等々時の区切り方によっていろいろになります。時は流れて出来た子が今度親になりますから、原理的な規範を必要とします。

「子」という客体側の物象もそう簡単に此処からは自分は子であるということもできません。

拷問などで権力者側の主張を通すには相手がそうだったと言うときまで「子」は創造されませんが、ノーベル賞受賞者の話によくある寝ているときに閃いたというときなどは、もう夢の中で既に「子」となっています。

己が子の世界でも、二人で「子」を作ろうと未来を話し合うときに既に「子」現象を設定することが始まっていて、実際に生んでも自分の「子」扱いをしないで、虐待し死に至らしめた後に「子」と認めることまで、様々です。

古事記ではどの時期のどの領域に「子」を設定するのかというと、全体を先天と後天の二つに分け、

・先天の領域で子ができる準備が完了することと、

・後天の領域で子の要素が出来ていき子が誕生し名付けられることに大別されています。

そして、通して見られた場合の各領域の次元の違いを、意識の一連の流れとして十四に区切っています。

誕生した子の養育の準備、整理研究、経験分析を経て、客観化することで固定してしまい一度は失敗し、反省しつつ自覚的な理想に近づいていきます。

後天現象になって始めて「子」の実体内容があらわれてきます。その始めに津島をあてています。意図イメージが始まり最初の現象要素が出始め、そこに吾の眼(意識)が付き次第、己が「子」の存在を認めていきます。

客観的な形をとり物象として形成されていても、自分の意識の着く範囲外のものには「子」という思いは出てきません。しかし意識だけが先行すると、他人のあの子は自分の子だ自分のものだということも出てきます。

「己が子」というときの「己が」とは生物的には父母の両親ですが、言霊学でも父韻と母音です。(言語学音韻学で言う子音(頭)と母音で子音が出来るのではありません。)父韻と母音が揃わないと子音は生まれないのですが、先天、意識内では現象子音を得る前に意思意図イメージ等として「子」は創造されていきます。

その「子」はまだ物理的な形を取ってはいなくて、イメージが出てくる段階ですが「子」になるものとしての内容を持ってるため、その内容を「犯す」ことがあります。

津島の津は港・渡し場や相手に渡す通す(通知)のツで、自分の手の内にはあるものの、相手に了解される現象までにはなっていません。ですのでこの段階での罪は、物象的な形ある表現になる以前に、己が手の内を犯すことです。

例えば、夢のようなことをわめき散らすなんていうこともそうなるでしょう。

正当な物象表現に渡されなければなりません。

表現に至る逸脱混乱間違えがあるといっても、表現そのものに逸脱を見出すと、その次の佐渡の島の意識領域の話になります。ですのでここでは手の内にある「己が子を犯す」までの段階で、「子」が表現されてしまいますと、言霊循環によってその「子」は実体次元、つまり母の位置に来ますので、次の罪の「母と子を犯せる罪」(佐渡の島の意識領域・イメージを言葉に渡さない。物象化しない。 )に移動します。

ここでちょっと、古事記という精神世界での世界最高のあんちょこを利用して遊んでみましょう。これは古事記を下敷きにすれば誰でもができることです。もちろん今のところは各人の勝手な理解の元にありますから、それはお前の妄想だデマだと誰かが言い出すかもしれないものです。

しかし例えそうであっても、表現現象は気に入らなくても根は古事記の津島の領域を真面目に真似ているものですから、その根っこの意図はすくい上げて欲しいと思います。それでも最初から納得できず、いい加減なことをしている、古事記などと口にするなという方もいるかと思いますが、そうなると始めの出だしから駄目ということになります。その大それた大事(おおごと)に古事記は何と名付けているかというと、

【18 言霊 タ 】大事忍男(おおことおしを)の神、です。

では、己が子を犯せる罪、津島の領域での始めの出だしからいきましょう。

津島の精神領域は頭脳内にイメージ作り言葉に渡すまでで、原理上は言葉として表現されたものではないのですが、説明の都合上言葉は当然使用されます。

先天構造内のものが頭脳内に生まれていきます。

先天の己が子として生まれた【18 言霊 タ 】大事忍男(おおことおしを)の神全体があらわれます。

18の己が子として【19 言霊 ト 】石土昆古(いはつちひこ)の神と

【20 言霊 ヨ 】石巣(いはす)比売の神に剖判します。

19と20内には働きかける動因(ツチのつちかう)と働きかけられる動因実体(棲家のス)が秘められていて、両者の己が子として【21 言霊 ツ 】大戸日別(おおとひわけ)の神の働きがあらわれます。

21は当初の大事を引き継いでいますから、自らの働きとして両者を結び着けるべく吹き寄せる働きの【22 言霊 テ】天の吹男(あめのふきを)の神を己が子として産みます。

22はその働きを示し、己が子としてと【23 言霊 ヤ】大屋昆古(おおやひこ)の神を生み、先天から受け継いだイメージを真似て選択した物象へと向かわせます。

23の選択されたイメージは18~22の全性質を前承していますから、物象化にあたり物象側の霊と体、主観と客観、働き側と働きかけられる側に対応している【24 言霊 ユ】風木津別(かぜもつわけ)の忍男(おしを)の神、風(霊・気・働き)と木(体・客体・実体)を押し出すことの出来る己が子を産みます。

24の押し出す働きは相手側物象に渡され到達(津)しなければならず、またその働きである【25 言霊 エ】海(わた)の神名は大綿津見(わたつみ)の神を己が子として産みます。先天から受け継いだイメージの大事は、大屋でイメージ内家屋としてあらわすべく外縁を構築しています。

25はすみやかに自己の構築した家屋の外縁を表出すべく出港する港(ミナト)を、【26 言霊 ケ】水戸(みなと)の神名は速秋津日子(はやあきつひこ)の神、己が子として産みます。ここには表出されべきイメージ表現の創造物が集積されていきます。

26の出港する場所は言葉いえば口、口腔です。口から言葉が出てきますが、口は言葉でも発音でもありませんが、ここに言葉の空気震動に渡される霊と体があり、26自身は出荷される霊側、そして27の体側、【27 言霊 メ】妹(いも)速秋津比売の神、が25の己が子として生まれます。26、27は25から剖判して出てきたもので、今度はそれ自身の子物象を生み出していきます。

これらの過程を通過する上での間違えが己が子犯せる罪となります。

24、27を繋げるとユメ(夢)です。言葉にならない奇妙な前後脈絡のないものとして出てきます。

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六、母と子と犯せる罪、 国津罪 ( 佐渡(さど)の島

・ イメージを言葉に渡さない。物象化しない。

己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪――

この様な近親相姦の罪について大祓はただ四つの事柄を続けて挙げているに過ぎませんが、旧約聖書には詳しく説明されています。その一部を載せます。

「汝等凡すべてその骨肉の親に近づきて之と淫するなかれ我はヱホバなり 汝の母と淫するなかれ是汝の父を辱はじかしむるなればなり彼は汝の母なれば汝これと淫するなかれ 汝の父の妻と淫するなかれ是汝の父を辱はじかしむるなればなり……」(利未記十八章六~八)この説明から直ちにギリシャ神話のエヂプス・コンプレックスを思い出す方もありましょう。

佐渡とは助け(佐)渡す(渡)の意 何を助け何を渡すのかといいますと先天の活動が一つのイメージ化され、そのイメージを誰にどのような表現で伝えたらよいか、が検討されて言葉として表現・発生される処の区分

どんなに立派な心中のイメージであっても言葉として、または絵や記号、詩などに表現しなければ人に伝わることがない心中の発想で終ってしまいます 宗教上の悟りや哲学上の発見も、それが人間の頭脳内のイメージとして捉えられただけでは、表現しない限り真理とはなりません 言葉となって此岸から彼岸に渡されます

真名とも言います

佐渡の島

以上沫那芸の神より国の久比奢母の神までの八神、クムスルソセホヘの八言霊が属す宇宙区分を佐渡の島と呼びます。この区分の八言霊の現象によって先天の意図のイメージが音声と結ばれ言葉となり、口腔より空中へ飛び出して行きます。佐渡の島とは心を佐けて言葉として渡すという意です。この八言霊の作用により未鳴が真名となり、更に発声されて神名となって空中に飛び出します。

古神道言霊学の佐渡の島の「心を言に乗せて渡す」という事が佛教でも使われ、八苦の娑婆の此岸から極楽の彼岸に渡すことを度(ど)と言い、また得度(とくど)なる言葉もあります。佛の教えでは、人は生れながら佛の子であり、救われた存在なのであるが、救われているという自覚を持ちません。それが佛の教えを実行して救われてある事を自覚出来ます。けれどその自覚だけでは不充分であり、その救われの心を言葉に表わし、または詩にまとめて初めて自覚は完成する、と説きます。言葉によって渡す事となります。その詩を頌(しょう)または偈(げ)と呼びます。

古事記の文章が子音創生の第三番目の島である大倭豊秋津島と呼ばれる宇宙区分に移ります。

(以上は島田正路氏による。)

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六、母と子と犯せる罪、 ( 佐渡(さど)の島

・ イメージを言葉に渡さない。物象化しない。

自分を中心としてその前後を犯すということです。時間の流れの中では自分は常に中心にいますから、過去-今-未来への両方向に対する逸脱となるようです。

佐渡の島の心はイメージを物象化していくわけですが、言葉としては発音に向かい、イメージとしては概念の形成に向かい、思考としては考えがまとまるところでしょう。

天津罪の樋ひ放ちで引用した母と子と犯せる罪の説明では、樋の性質から過程全体を見ています。佐渡の島の子現象へとなっていく物象化したものとなりますが、イメージから現象への途中に立つ上での通過上の逸脱にすると、ここではそれの前後ができます。自分は母から生まれ、自分の子を生んでいき、この自分の前後を犯すことになります。

母-自分-子の流れを一遍で犯すには、自分をどうにかして流れを消すとか邪魔するとか変形するとかすれば、母から子につながりが出来ないで犯したと言えることになるでしょう。

佐渡の島の心の領域は、 クムスルソセホヘのこの八言霊が現象によって先天の意図のイメージが音声と結ばれ(クム)言葉となり(スル)、口腔より(ソセ)空中へ飛び出して(ホヘ)行きます。ですのでここでの罪は、イメージを言葉に渡さない、物象化しないということになるでしょう。

【28 言霊 ク】沫那芸(あわなぎ)の神は、先天のイメージのア・吾という名の気(ナギ)と後天の物象のワ・言葉という名の気(ナギ)をつナギ合わします。そのつなぎ合わす主体側の気(ギ)です。

【29 言霊 ム】沫那美の神もどうように、先天のイメージのア・吾という名の気(ナギ)と後天の物象のワ・言葉という名の気(ナギ)をつナギ合わされる、そのつなぎ合わされる体側、音(言)の客体でです。

ク・ムで先天のイメージが物象と組まれると同時に、28と29とをも組むわけです。頭脳内の過程から口腔内のことに移動してきます。言葉を発生するための頬骨だったり、唾液のエネルギーとかの比喩が用いられます。イメージ観念が口腔内の物理的生物的な物象を揺すり動かしイメージの形を物象の形や動きに擦り込んでいきます。

【30 言霊 ス】頬那芸(つらなぎ)の神・ 【31 言霊 ル】頬那美の神は、外面的に外形的にここでは頬で代表表徴させています。言葉の発生に合わせて頬骨も動きますから、イメージが頬につらなうということでしょう。その動きと動きの形、霊と体が連動して出てきます。

【32 言霊 ソ】天の水分(みくまり)の神。次に 【33 言霊 セ】国の水分の神、ついで、生物的物理的な物象を動かすには外部からの何らかのエネルギーの供給が必要です。これは唾液に限らず、手足身体の動き、顔面の表情、口の動きなども含めての霊と体のエネルギー源が頬の動きにあらわれます。

霊のエネルギーが頬(骨)に注がれ、天の水分(みくまり)の神【 言霊 ソ】、頬に堰を作り音声を出す形を作っていきます、国の水分の神【言霊 セ】。

こうして、音声となる形ができますが、それは相手に飛ばされ理解されなければなりません。

水分(みくまり)で水配り(みずくばり)になり、配分し配達することになります。

イメージを物象に配り、エネルギー(水)によってイメージの物象と結ばれた内容(ミ・実)を、的確な相手対象に向けて配ることになります。

そのためには、音声として飛んでいる途中にも、頭脳内のイメージの意図が口から出ても持続していることが必要です。

【34 言霊 ホ】天の久比奢母智(くひざもち)の神、次に 【35 言霊 ヘ】国の久比奢母智の神』とでもって、内容と形の持続を形成します。

ここにイメージの組まれたもの(クム)が揺すりすり合わされ(スル)、エネルギーの供給を注ぎ受けて(ソセ)発音音声物象化の先端に乗ります(ホヘ)。イメージの意味内容と形が佐(たす)け渡され(佐渡)て、発生器官空気振動にのっかかりました。

こうして佐渡の島の母と子を犯せる罪は、イメージから物象へ渡す部分で、自分のせいで母と子、前と後、過去と未来へのつながりに支障をきたすこと、になります。どのような支障があるのかについては、各段階、クムスルソセホヘ、での逸脱になります。

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七、子と母と犯せる罪、 国津罪 大倭(おほやまと)豊秋津島

・ 先天(母)から現象(子)が現れたことを見ずに現象の客体化を固定する

己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪――

この様な近親相姦の罪について大祓はただ四つの事柄を続けて挙げているに過ぎませんが、旧約聖書には詳しく説明されています。その一部を載せます。

「汝等凡すべてその骨肉の親に近づきて之と淫するなかれ我はヱホバなり 汝の母と淫するなかれ是汝の父を辱はじかしむるなればなり彼は汝の母なれば汝これと淫するなかれ 汝の父の妻と淫するなかれ是汝の父を辱はじかしむるなればなり……」(利未記十八章六~八)この説明から直ちにギリシャ神話のエヂプス・コンプレックスを思い出す方もありましょう。

大倭は大和とも書きます すべてが共存調和するという意 三十二個の言霊がこの区分の言霊の誕生によって全部で揃い、それが豊かに明らかに現われる(津)区分(島)という意味となります

音声が空中を飛ぶ言霊フモハヌは「神名」ともいいます 電波、光波でも同じです

声は耳により入って聞いた人の頭脳内で「ああこういうことか」と了解され行動になります その後、言葉は先天宇宙に帰り、記憶として印画されて言葉の循環はここで終ります 耳から入って了解されるまでの言霊は真名です

別名 天津御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)といい先天の活動(天津御虚空)が豊かに明らかな音(根-ね)となって現われる(津)区分

火の夜芸速男の神 ン

神名の火とは言霊のこと、夜芸の夜は夜の国、夜見または読みとなります 芸は芸術のことで火の夜芸速男の神とは、言霊を読む芸術(業-わざ)が早く示されている働きということになり 明瞭に文字の事を指しています 真言に「言霊即実相、文字即涅槃」とあり、文字とは言葉が眠っているものという意味で、生きた人間がそれを読むと直ちにその文字の事が実相となって蘇ってきます

先天十七言霊(天名)(あな)の活動の内容が津島と呼ばれる区分に属す十言霊(未鳴)(まな)の現象を経て一つのイメージにまとめられ、次に佐渡島という区分の八言霊(真名)(まな)の現象で言葉と結ばれ、口腔にて発声され(神名)空中を飛びます。空中を飛んでいる音声も心を乗せています。その音声の心はフモハヌ(神名)(かな)の四言霊であり、やがて人の耳に達します。この空中を飛び、人の耳に入り、聞いた人が復誦、検討して終に発言した人の言葉の内容を了解して、言葉の循環は終り(真名)、記憶として遺り、元の先天に帰ります。発声されて空中を飛ぶ内容の四言霊、それが耳で聞かれ、了解されるまでの十言霊ラサロレノネカマナコを加えた計十四言霊の宇宙区分を大倭豊秋津(おおやまととよあきつ)島、またの名は天つ虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)と呼びます。この区分の現象で言霊子音が出揃い、調和して(大倭)豊かに明らかに(豊秋)現われる(津)区分(島)の意です。

(以上は島田正路氏による。)

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七、子と母と犯せる罪、 ( 大倭(おほやまと)豊秋津島

・ 先天(母)から現象(子)が現れたことを見ずに現象の客体化を固定する

我が、大倭(おほやまと)豊秋津島は子(結果)と母(原因)と犯せる罪を作りやすいのでは大変なことです。

前段でイメージ(母)が言葉の発声要素と組み結ばれ言葉(子)が口をついて出ました。

この段でまた別次元の精神意識の領域(島)に移動(言霊循環)しましたので、現象子音が(子)ができたので、母と子の内容次元が六の母と子とは異なってきます。

今度は、発声した言葉が母になり、その言葉を聞いて了解することが子となります。

つまり、ここでの罪は現象了解(子)とその了解を産むことのできない(母)との問題となります。前段との違いは現象として自分の手を離れているか、頭脳内で手持ちの状態であるかの違いです。

ここで起きる疑問は、自分を相手にする独り言や手紙やブログなどには、他者の相手対象による了解が無いではないか、ということが出てきます。ところがその場合でも、自分という他者が自分の表現した言葉を自他に通じるものとして扱っているので、了解する相手が自分か他者かという違いがあるだけで、流通している精神意識の構造に変化はなく同じことです。

この豊秋津島は風の神名は志那都比古(しなつひこ)の神、言霊フ、から始まります。言葉がフッと出てきて風に乗って、相手に聞かれ、何を聞いたのかと迷い了解するまでの過程があり、自分の手を離れて物象化した形で相手(あるいは自分)の脳髄を訪れ、解凍されて了解され、宇宙空間に戻り記憶されます。

この記憶され戻った形が次の先天の母となるものです。この全過程経過を全うできないことが逸脱のいろいろな形であらわれます。

言霊学は常に持続する一連の流れの中にありますから、固定された母とか子とかの位置を言うときには、流れを分断するものです。

この分断された形が客体となり、分断されたまま客体化さた形で扱うようになると、黄泉国(よもつくに)に落ち込むことになります。

その落ち込む以前の客観言霊要素はどういうものでどう扱うのかが、次の段階となります。

大倭豊秋津の島を言霊と神名であらわすと次のようになります。

【36 言霊 フ】風の神名は志那都比古(しなつひこ)の神。 (音声のフッという風に乗って発声伝達)

【37 言霊 モ】木の神名は久久能智(くくのち)の神。(音声には気(木)が久しくどこまでも乗っていく)

【38 言霊 ハ】山の神名は大山津見(おおやまつみ)の神。森越え山越え木(気)の霊と体は言の葉として進む)

【39 言霊 ヌ】野の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神。またの名は野槌(のづち)の神。(聞かれる相手対象に到達して、相手の耳に縫い込まれるべく槌を打つ)

といふ。』

『 この大山津見の神、野槌(のづち)の神の二柱(ふたはしら)、山野によりて持ち別けて生みたまふ神の名は、

野山を越えて相手の耳に達した音声は相手側で物象を精神に解凍していきます。

まず、

【40 言霊 ラ】天の狭土(さづち)の神、次に、【41 言霊 サ】国の狭土の神。 (受け入れ側のこころの了解形成に端するために、物象として到達したものをさ槌で叩き分析します。)

【42 言霊 ロ】天の狭霧(さぎり)の神、次に 【43 言霊 レ】国の狭霧の神。(物象、ここでは空気振動の音声、として入ってきた発信側に霊と体があるのを確認して、それを頭内に意識の狭い霧の中を歩くような通路を通って導きます。耳孔です。

【44 言霊 ノ】天の闇戸(くらど)の神、次に 【45 言霊 ネ】国の闇戸の神 (耳孔の奥にある暗い戸、鼓膜、を叩き、頭脳内の意識に入り込む暗闇の戸を叩きます。発信側の霊と体を意識に乗せ、音を与えます。

そこで、

【46 言霊 カ】大戸惑子(おおとまどひこ)の神、次に 【47 言霊 マ】大戸惑女(め)の神 (ようやく意識に到達したものを解凍解読します。意識内で戸惑いながら掻き混ぜ、何者であるかを求めます。

こうして 『次に生みたまふ神の名は、

【48 言霊 ナ】鳥の石楠船(いわくすふね)の神、またの名は天(あめ)の鳥船(とりふね)。 (カマの中で煮詰められて到達した音声の内容が了解されその了解の内容に名が付きます。十の父韻の原理(十理・トリ)で五十の言葉(五十葉・イハ)を組んで澄ました(クス)発信側の意思の表明が明らかとなります。

【49 言霊 コ】大宜都比売(おほげつひめ)の神。 (ここに、先天の構造内あったものがイメージとなり言葉と組まれ、物的な変態を経て相手に到達し、逆の過程を通って、物象を精神に変換して了解が完了します。子としての存在が確認され先天回帰となって、記憶又は物理的な表現となります。)

【50 言霊 ン】火(ほ)の夜芸速男(やぎはやお)の神。(文字、表現、意識の客体化等、こころの現象表現。)

コジキは子事記で子の事を記したもので、人間の文明創造の原理です。いずれの人も現象創造におもむきその結果を得ようとしていきます。言霊コとは現象創造の結果ですが、その途中で出会う逸脱が子と母と犯せる罪となります。

以上で言霊学では意識の要素が全部揃いました。後半は意識の運用そのものの逸脱となっていきます。

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八、畜けもの犯せる罪、 国津罪 吉備(きび)の児島

・幼稚な規範(気もの)だけで処理する

畜けもの犯せる罪――

大祓のこの罪を利未記には「汝獣畜けものと交合して之によりて己が身を汚すこと勿れまた女たる者は獣畜の前に立たちて之と接まじはること勿れ是憎しむべき事なり」(十八章二三)

「男をと子こもし獣畜と交合しなばかならず誅ころさるべし汝らまたその獣畜を殺すべし婦人をんなもし獣畜けものに近づきこれと交まじはらばその婦人と獣畜を殺すべし是等はともに必ず誅さるべしその血は自己に帰せん」(二十章十五~十六)

吉く備(吉備)わった初期(児)の締まり(島)と言った意 五十個の言霊を集めて形だけは五十音図としてまとめたけれど、その内容はまだ詳細には確認されていない段階ということです

初歩的では有りますが豊宇気として先天の性質を受け持っているこの五十音の枠結びを天津菅麻(音図)と呼びます 菅曽(すがそ)は菅麻とも書き先天・大自然そのままの性質の音図(すがすがしい衣の意)のことです 例えばこの世に生れたままの赤ちゃんの心の性能の構造といえるでしょう

吉備(きび)の児島(こじま)

五十音言霊の全部が出揃い、次にその五十音言霊の整理・活用法の検討が始まります。以上金山毘古の神より和久産巣日の神までの六神が精神宇宙内に占める区分を吉備の児島と呼びます。「吉(よ)く備(そな)わった小さい締(しま)り」の意です。児島と児の字が附きますのは、弥都波能売(みつはのめ)という上にア、下にイ、その間にオウエの三音が入った事の確認を基準として五十音言霊を整理し、枠で結びました。吉(よ)く備(そな)わっている事は確認されましたが、その様に並んだ事の内容についてはまだ何も分っていません。極めて初歩的な整理である事の意を「児」という字によって表わしたのであります。

(以上は島田正路氏による。)

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八、畜けもの犯せる罪、 ( 吉備(きび)の児島

・幼稚な規範(気もの)だけで処理する

ここまでの話は、先天から後天の現象が生まれ、言葉の要素が出来揃ったところです。吉備の児島の領域からは直接意識の運用になります。幼稚(児島)な運用領域ですが、不完全不十分ながら通用できるのは、基本(元素)要素が全部揃っているからです。

お互いに共通の元素が全部揃っているので、組み合わせは不十分であってもそれなりに分かってもらえる基本は揃っています。蓄、ケモノ、は気もので、人としての要素はよく備わっていても児島(幼稚な子供)段階というようなものです。

子供が小憎らしいことをいうように、ここでは原理的に何にでも対応できる精神構造が出てきます。

[運用 01] 金山毘古(かなやまびこ)の神 (五十音神名文字の音。整理内容。)

[運用 02] 金山毘売(びめ)の神 (五十音神名文字の文字。整理材料。)

精神を表現する要素は五十しかありません。五十音図。

『 次に屎(くそ・組む素)に成りませる神の名は

[運用 03] 波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神 (正確で安定している音。分類組み合わせ内容。)

[運用 04] 波邇夜須毘売(ひめ)の神 (正確で安定している文字。分類組み合わせ材料)

世界で大和の日本語だけが心の全表現に対応しています。

『 次に尿(ゆまり、イウマリ、五埋まり)に成りませる神の名は

[運用 05] 弥都波能売(みつはのめ)の神 (実在母音オウエの定在。次元立場の確定)

人間精神の五次元層を全て満たしている。

[運用 06] 和久産巣日(わくむすび)の神 (五十音全部の定在・惑い状態。提起する問題の全体像)

人間の精神要素たる五十の言霊が全て枠の中に秩序立っている。

以上が吉備の児島の領域。

畜けもの犯せる罪、( 吉備(きび)の児島 ・幼稚な規範(気もの)だけで処理する。) ここからは実在現象要素が既にある事が前提です。実在要素の扱い運用あるいは運用そのものの逸脱になっていきます。

畜はけもの、気モノで霊、心、意思、霊、意図、思惟等の事です。

畜はケモノで気モノとしますが、どの次元どの時点でも「気モノ」でないものはないのですから、どの時点にも当てはまってしまいます。気モノ、それだけで済ますことはできない気がします。

吉備の児島は良く備わった子供のしまりで、既に一人前です。逆に一人前の大人なのにケモノのようだということもあります。人としては不充分な精神の成長による逸脱とすることもできるでしょう。しかし常に一人前の規範ができていますが、日本書紀では吉備の児島の領域の和久産巣日神を稚産霊と表記され、幼く恰好だけは一人前と強調されています。

それでも全ては通じている受け入れられるものをもっています。

金山(仮名山、神名、神音)で集められた五十音要素、波邇夜須(ハニは埴輪のハニで、文字を記した粘土板で五十音の各要素は正確で安らかに安定(ヤ・ス)しているので、充分使用に耐える、父韻母音子音の三つ葉の整合性があり、規範となる枠を得ているのが、吉備の児島です。

ただここでの「枠」は「湧く」でもあって、子どものように統制がとれず、好き勝手にやりたいことしたいこと、喋りたいこと等が気ままに出てきてしまう「湧く」でもあります。

ここで人の基本的な精神構造はできていますが、児の段階ですから自覚的な使用法を知りません。ませたことを言ったり大人の真似事、権威者と同じことを繰り返したり、出来合いの知識を披露する程度の次元です。

気モノ(蓄)ですから人としての自覚はありません。分かっているのかと聞けば「ウン」と返事が返りますが、聞き覚えているというだけで、内容のことではありません。

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九、昆虫はふむしの災、 国津罪 小豆島(あづきしま)

・父韻の明らかな続きを恣意的に泣き騒ぐ

昆虫はふむしの災――

先師小笠原孝次氏は蝗の災であろうと解しました。利未記には「凡ての人を汚すところの匍は行ふ物ものに捫さはれる者……」(二十二章五)と記されています。匍行物が何であるか、今のところ分かっていません。

音図上で初めて確認された八つの父韻の締めくくりの区分 八父韻は音図上で小豆即ち明らかに続く気の区分のこと

泣沢女(なきさわめ)とは人間の創造知性の根本の響きのことです 音波、光波の大自然の無音の音(梵音)が視覚、聴覚のリズムとシンクロナイズする時、初めて現象が現われます 泣き沢め(なきさわめ)ぐのは父韻であり人間の創造知性の側の働きであり、その刺激により宇宙である五母音から現象が出て来るという意味であります

別名の大野手比売(おほのでひめ)とは大いなる横(野・貫)に並んだ働き(手)を秘めている(比売)の意 音図においては八父韻は横に一列に展開しています

小豆島(あづきじま)またの名は大野手比売(おおのでひめ)

泣沢女の神の座。また五十音言霊の音図上の整理・確認の作業の中で、八つの父韻の締めくくりの区分を小豆島(あづきじま)と言います。明らかに(あ)続いている(づ)言霊(き)の区分の意です。大野手比売(おおのでひめ)とは大いなる(大)横に平らに展開している(野)働き(手)を秘めている(比売)の意です。八父韻は横に一列に展開しています。

(以上は島田正路氏による。)

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九、昆虫はふむしの災、 国津罪 小豆島(あづきしま)

・父韻の明らかな続きを恣意的に泣き騒ぐ。

小豆島の領域での伊耶那岐の神は 「御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらび)ひ御足方(みあとへ)に葡匐ひて哭(な)きたまふ時に、」 泣沢女(なきさわめ)(大野手比売)の神を生んだとあります。腹這いして泣き叫んだといいます。

ここは耳元で唸る羽虫のブンブン飛び回る耳障りからの連想で、父韻を指した泣き沢女の神のことです。泣き沢女は女ではなく猛烈な働きをする父韻のことで、全てに唸り散らす様子を女のおしゃべりにあてたものです。

効能書きをうるさくのたまう、口八丁手八丁での繰り返し、洗脳宣伝のようなものでしょう。外国語の修得(に限らず)では繰り返しの洗脳が必要で誰もが自分に強制するものです。過ぎたるは何とかですが、小豆島の領域では父韻(こころ)の働きそのものを扱いますから災いなることはあっても、父韻の働きそのものは罪にはならないでしょう。

しかし、父韻の働きが全ての罪の元になります。

天津罪全体が八父韻に関することです。

三の「白人しらひと胡こ久美くみ、 ( 筑紫(つくし)の島 ) ・・途中で任意に留まり滞留する」も参考にしてください。

ここでハフムシの災いを作ってみましょう。

父韻の並び。

先天の配列は 「チイキミシリヒニ」で、

欲望次元での配列は 「キシチニヒミイリ」

知識次元での配列は 「キチミヒシニイリ」

感情次元での配列は 「チキリヒシニイミ」

です。

これを聞けば耳障りどころか、見るだけでも、眼が寄ってしまいそうです。

ということで災いができました。

この表でさらに災いを作りましょう。天津罪1~8のそれぞれの冒頭に父韻の解説があります。例えば昆虫はふむしの災は父韻の明らかな続きを恣意的に泣き騒ぐこと、と言ったところで何も分かりません。これから解説を加えるのですが、解説したところで分かるものではありません。書いている本人がそう言い、自分でも理解していないことをこうして白状しています。

チイキミがキシチヒで、キチミヒで、チキリヒで、全くうるさいやかましい、黙れ!ということですが、意識の自然な運行では何の差し障りもなく平然と行われているものです。羽虫だってそれで普通に飛んでいるのだし、たまたま人の耳に近づいただけです。自然の運命なのに受け入れられないこともあります。

例えば「昆虫はふむしの災」と聞いて何だそれはと疑問が起きます。それは知識に関する疑問ですが、何も知らなければ、どんな食い物だ一度食べてみたいということも起こります。

そこで、

知識次元での配列は 「キチミヒシニイリ」ですが、欲望次元での配列 「キシチニヒミイリ」にしてみます。

知識上の疑問として扱うなら、

①○-昆虫はふむしの災というのは、自覚的に自分が作り上げた疑問ではなく始めて聞く言葉です。

キ-昆虫はふむしの災とは何かの疑問にとりつかれます。

チ-手持ちの知識概念経験等の既知が総動員されます。

ミ-既知を越えるものと結び付き、考えたり整理したり思いついたりの実を結びます。

ヒ-実は言葉表現として提供されようとします。

シ-検討され理解も表現も正しいと心に決まれば、

ニ-考え整理検討表現が煮詰められ、実行表現の名目になり、

イ-その御旗を立て行動していきます。

リ-こうして一段落を終え次の自体へと備え発展していきます。

○-御旗という結論は、出発点において自覚されて得た疑問でないため、考え及んだ既知との相対的な結論でしかなく、それが次の疑問の端緒となってしまいます。

となるところが、

食べたい欲望とになっていますから、欲望の配列では、

②○-昆虫はふむしの災と聞いて何の事か分かりません。

キ-そこに丁度欲望が起こり食べてみたいと思うようになりました。

シ-そこで、昆虫はふむしの災という言葉と食べたいという欲望が結ばれますが、

チ-当初の他者の自覚が無いので、自分の全体自我から、

ニ-食べたいという名目が煮詰まり、

ヒ-その自己表現が生まれ、

ミ-その実を得ようと自他、社会に向かい、

イ-行動実践をしようとしていき、

リ-欲望獲得に発展していきます。

○-「リ」で配列を終えるということは、行動発展を最後とするので、際限のない欲望追求になっていきます。

となります。

知識次元での配列 「キチミヒシニイリ」 を

欲望次元での配列 「キシチニヒミイリ」 にして知識として得る方向にしてみます。

出だしと終わりは 「キ・・・・・・・イリ」 で同じです。

相違しているのは中央の五つの父韻の動きです。変換されると次のようになります。

キ-昆虫はふむしの災とは何かの疑問にとりつかれます。

・・

チ-ついで、手持ちの知識概念経験等の既知が総動員されますが、

「シ」がここに来て、知識を得たい目的が疑問として掻き寄せられたものに固定結ばれ静まります。

ミ-ついで、疑問を解決するため既知を越えるものと結び付き、考えたり整理したり思いついたりの実を結びますが、

「チ」がここに来て、既得の過去概念知識と固定された疑問との比較から、

ヒ-ついで、内容を言葉表現として得ようとしますが、

「ニ」がここに来て、気にしている得たい知識にだけ名目が煮詰められ、

シ-ついで、検討され理解も表現も正しいと心に決まれば、

「ヒ」がここに来て、期待している説明表現だけを得ようと、

ニ-ついで、考え整理検討表現が煮詰められ、実行表現の名目になるところが、

「ミ」がここに来て、最初にできた知識を知りたい目的に対する答えだけが実になるように、

・・

イ-その御旗を立て行動していきます。

リ-こうして一段落を終え次の自体へと備え発展していきます。

○-御旗という結論は、出発点において自覚されて得た疑問でないため、考え及んだ既知との相対的な結論でしかなく、それが次の疑問の端緒となってしまいます。

最初に取りついた疑問しか知りたくないになり、他の見方の説明を受けても、参考になる話をしても、回りくどいとして余計なものとしていきます。私の知りたいのはこれだけなのと、その答えしかない世界を創造していきます。

知識の問題を食欲にすればおかしな事になりますが、もともと分かっていないのですから、食べたく思っていた人は、知識上の御託を並べられたのでは、せっかくの説明も気の狂った奴だという事になります。

ところがこの両者ともにすくい上げる道があるのです。

昆虫はふむしの災とは何かの正しい知識を両者に授ける事ではありません。

「チキミヒリニイシ」にすることです。あ段に変換すれば「たかまはらなやさ」の配列にすることです。

欲望次元での配列は 「キシチニヒミイリ」であ段では「かさたなはまやら」でしたが、欲望をあらわす「たかまはらなやさ」のう段にすると「ツクムフルヌユス」となります。父韻なら「チキミヒリニイシ」にします。

同様に知識次元での配列の 「キチミヒシニイリ」を「チキミヒリニイシ」にして、知識次元のオ段「トコモホロノヨセ」で表現すればいいのです。

最終章 「大祓祝詞 ・ 逸脱罪穢(つみけがれ)の修祓(しゅうばつ)の方法」で述べられる予定です。

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参照。

一、天あま津つ宮みや事ごと以もちて ・理想的規範を据えて

二、大中なか臣とみ ・エ次元の未来選択の眼

三、天あま津つ金かな木ぎを、本打切り、末打断ちて、 ・天津金木音図の実体とはたらきを分かち

五、天あま津つ菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて ・天津菅麻音図の実体とはたらきを分かち

四、千ち座くらの置おき座ざに置き足たらはして ・生命の自由な発現の原点に戻り

六、八や針はりに取とり辟つきて ・父韻の連続を要素に分かち

(注。原文は三四五六、意味の流れは三五四六。)

七、天津祝詞の太祝詞事ふとのりとごとを宜れ ・あたかまはらなやさわの流れにせよ

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十、高津神の災、 国津罪 大島(おほしま)

・個別的な経験領域から出ようとしな

高津神の災――

高津神と言うと、直ぐに思いつくのは天津神の事であります。天津神とは先に述べましたが、清浄無垢な高天原神界にある神を、即ち五十音言霊の事を言いますが、高津神とはそういう清浄な神界ではない、種々の因縁によって常に流転して止むことのない、まだ浄化されない霊の世界の魂のことであります。

大きな価値・権威を持った心の締まりという意 別名の大多麻流別は大いなる(大)言霊(多麻)が流露・発揚(流)する心の区分、ということです

伊耶那岐の命(言霊の原理・法則)が活用する十拳の剣の力(物事を十段階に分けて判断する)を明らかにする作業区分であります

大島またの名は大多麻流別(おおたまるわけ)

以上、石柝の神、根柝の神、石筒の男の神、甕速日の神、桶速日の神、建御雷の男の神、闇淤加美の神、闇御津羽の神の八神の宇宙に占める区分を大島と呼びます。大いなる価値のある区分と言った意味です。人間の心を示す五十音言霊図を分析・検討して、終に自己主観内に於てではありますが、建御雷の男の神という理想構造に到達することが出来、その理想構造を活用する方法である闇淤加美・闇御津羽という真実の把握とその応用発揚の手順をも発見・自覚することが出来ました。言霊学上の大いなる価値を手にした区分と言えましょう。またの名は大いなる(大)言霊(多麻[たま])の力を発揚する(流[る])区分(別[わけ])という事になります。

(以上は島田正路氏による。)

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高津神の災、 国津罪 大島(おほしま)

・個別的な経験領域から出ようとしない。

十、高津神と、次の十一、高津鳥を比較してみます。

もっぱら漢字の読みを取り、区切り読み位置を変え書き直します。

表記、高津神・たかつかみ。読み。→タカ+つかみ→「タ」を「カ」で掴・つかむ、把握する理解。たか掴み。

表記、高津鳥・たかつとり。読み。→タカ+つと+(と)り→「タ」を「カ」の「つと」に包み取り込んで、取り入れ表現。たか苞取り。

又は →タカ+つ+とり→「タ」を「カ」に渡して、取り上げ取り込み表現。たか津取り。

高津神・たか・つかみ。→大島の精神領域。精神の大いなる了解機能を司る区分。

高津鳥・たか・つと・とり。→姫島の精神領域。表現の構成原理が人間の心の宇宙の中に占める区分。

参照。つと。

つと【×苞/苞=苴】

《「包(つつ)む」と同語源》

1 わらなどを束ねて、その中に食品を包んだもの。わらづと。

2 その土地の産物。また、旅のみやげ。

「冥途(よみじ)の―と齎(もたら)し去らしめんこと思えば」〈露伴・五重塔〉

「宮この―にいざといはましを」〈古今・東歌〉

高津神の区分である大島は、大いなる道理が現れ出てくる領域です。しかし無自覚なウオエ次元の意識の大なる働きを受け持っているため、その成果には理想的な整合性はなく、完成された結論結果を得るものではありません。

それが続いて表現となっていくのが姫島の領域です。

大島の精神領域は、なになにの思考、何々学、弁証法、帰納法演繹法等、出来上がり固定した客体客観に対する心の整理分析表現ですが、動かない心を相手にしたものです。しかしその限りでは非常に有効有用な意識の運用ができます。大いなる(大)言霊(多麻[たま])の力を発揚する(流[る])というわけです。

これは幾らでも大いに活用してもらっていいものですので、罪、逸脱にはならないものですが、出だしを「た」の宇宙全体から自覚的に始めるものではなく、「か」の各人の思い付きお気に入りを掻き寄せることから始めていきますので、個人の主張として出てきてしまいます。

つまり「た」の位置を「か」で通過してしまうことです。その出来上がりの姿が個人の主張となってきます。

前回の各意識次元での父韻の配列を見てもらうと、その始めは「チ」と「キ」です。始まりの意識が「チ」につくか、「キ」につくかでことは全く変わります。チキはあ段で言えば「た・か」になります。

自覚なく事の始まる始めの言霊は「キ」です。自他との宇宙意識の自由な自我(言霊タの意識)が成り立っていないので、勝手な思い付きや気付き、閃きを自我として出してしまいます。自覚なく受け取ったものを自己所有とし自我とし自己の主張にしてしまいます。一度その循環が動き出せば、既得のものの上に乗っかかりますから、まるで自分が創造したようになっていきます。

そのような思い付き、気づきではあっても、精神の大なる性能を発揮します。今までの文明文化が思想哲学がこの次元で大いにつくられたものです。

次の十一には高津鳥の姫島があって、同じ高津を示しています。上記の性能によって形表現していく精神原理の領域が高津鳥になります。高津神を表現していきますので、同じ「タ」を「カ」とする、思惟構造と表現構造ということになります。

高津神は、「た」を「か」に噛み結ぶ働き(「つ」のことで、「た」を「か」でツカミ(掴み)取ることになるでしょう。ここでは大いなる精神構造とその発露が創造されるところで、罪というかその行き過ぎを災いということになりました。

高津神の災、 ( 大島(おほしま) ・個別的な経験領域から出ようとしない。

大いに有効な利用価値のある精神領域なのに、利用範囲を制限し固執し、応用可能臨機応変を排除していく。あるいは逆に制限された思惟行為を押し広げすぎることになりますが、個人の思い付きや気づきの行き過ぎは災いとなるものです。

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十一、高津鳥の災、 国津罪 ( 女島(ひめしま)

・個別的特別な表現表出に執着する

黄泉国(よもつくに) ・客観表現

高津鳥の災――

鳥とは人と人との間を行き来して飛ぶ言霊のことであります。古事記の「天の鳥船」といえば、人の言葉を構成している五十音言霊のそれぞれの内容の事であります。高津鳥とは清浄な言霊の自覚の裏付けのない、偏頗へんぱな経験知識に基づいた主張・主義の言葉を指します。

この言葉も人と人との間を飛び交って人を迷わせ、世間を騒がせる原因となります。偽宗教者、狂信者、政治的煽動等の言動はすべてこの類のものであります。

言葉を文字で表したものを比礼(ひれ)または霊顯(ひら)といいます 枚(ひら)の字を当てることもあります 大山津見の神(言霊ハ)は言葉のことです 山津見の山は八間でこの間に言霊父韻が入り、それが津見(渡して現れる)で言葉が出来ます

女(おんな)は音名で、文字のこと 文字には言葉が秘め(女)られています 人によって文字を読むと直ちに心の中に言葉となって甦ります また神代文字は全部 火の迦具土の神(言霊ン)から現われますから、別名、天の一根と言われます

女島(ひめしま)又の名は天一根(あめひとつね)

以上の八つの神代表音文字の構成原理が人間の心の宇宙の中に占める区分を女島(ひめしま)と言います。女島の女(ひめ)は女(おんな)と呼び、即ち音名であり、それは文字の事となります。また文字には言葉が秘められています。即ち女(ひめ)島であります。またの名、天一根(あめひとつね)とは、神代文字はすべて火の迦具土の神という言霊ンから現われ出たものでありますので言霊(天)の一つの音でそう呼ばれます。

(以上は島田正路氏による。)

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高津鳥の災、 ( 女島(ひめしま) ・個別的特別な表現表出に執着する。

高津鳥の災を、大殿祭(おおとのほがい)の祝詞には「飛ぶ鳥の災」とあるから、空を飛ぶ鳥による災難としていますが、「やぁ、こんにちは」と言葉が空を飛べば、「こんにちは」とまた言葉が空を飛んで返ってきます。飛び交うのは言霊で、言霊を「つと(苞・言葉)」にくるんだ「鳥(言霊)」です。

高津鳥の災いは姫島に対応していて、言霊を秘め(姫・ひめ)ている領域と上手い具合に一致しています。言語表現にする上での災いとなるものです。

高津鳥・たかつとりの読み方は、タカ+つと+(と)りで、「タ」を「カ」の「つと」に包み取り込んで、取り入れ表現する、たか苞取りをあらわしています。「つと」のお弁当箱にお母さんの愛情が包まれているということです。

又は →タカ+つ+とり→「タ」を「カ」に渡して、取り上げ取り込み表現。たか津取りもあるでしょう。

高津神・たか・つかみ。→大島の精神領域。精神の大いなる了解機能を司る区分。

高津鳥・たか・つと・とり。→姫島の精神領域。表現の構成原理が人間の心の宇宙の中に占める区分。

参照。つと。

つと【×苞/苞=苴】

《「包(つつ)む」と同語源》

1 わらなどを束ねて、その中に食品を包んだもの。わらづと。

2 その土地の産物。また、旅のみやげ。

「冥途(よみじ)の―と齎(もたら)し去らしめんこと思えば」〈露伴・五重塔〉

「宮この―にいざといはましを」〈古今・東歌〉

こうして見れば「つと」、として表現され言霊が相手に渡っていく上での精神機能に、いろいろな災いが発生していくことが分かるでしょう。

表現創造する精神構造は例によって常に八つです。

【 殺さえたまひし迦具土(表現された物象)の神の頭(全体)に成りませる神の名は、

(運用16) 【 正鹿山津見(まさかやまつみ・正しく全体をあらわす)の神。

表現された物象が正しく全体をあらわす。そうならない災い。

【 次に胸(呼気・心音)に成りませる神の名は、

(17) 【 淤縢(おど・音)山津見の神。

表現された全体が常に音を出している、持続している。そうならない災い。

【 次に腹(空腹、食物を容れるところ)に成りませる神の名は、

(18) 【 奥(おく)山津見の神。

表現を掻き寄せて置く(奥)、定置すること。そうならない災い。

【 次に陰(子を産むところ)に成りませる神の名は、

(19) 【 闇(くら)山津見の神。

表現を生み蔵(闇)に蓄えるようにすること。そうならない災い。

【 次に左(霊足り)の手に成りませる神の名は、

(20) 【 志芸(しぎ)山津見の神。

選択(手)された表現が静まるようにすること。そうならない災い。

【 次に右(身切り)の手(選択)に成りませる神の名は、

(21) 【 羽(は)山津見の神。

選択された内容が羽ばたき躍動するような表現。そうならない災い。

【 次に左の足(太祝詞音図あ~し)に成りませる神の名は、

(22) 【 原(はら)山津見の神。

個々の葉(葉の連なり)と全体(原)が見渡されるような表現。そうならない災い。

【 次に右の足に成りませる神の名は、

(23) 【 戸(と)山津見の神。

身を切り出し個々の主題、次元を煮詰めるような表現。そうならない災い。

【 かれ斬りたまへる刀の名は、天の尾羽張(おはばり)といひ、またの名は伊都(いつ)の尾羽張といふ。】

こうして意識の判断表現は鳥の尾羽が末広がりなりその役目をよく果たすように、天与の御威陵(みいづ、伊都(いつ))の権威を持った表現となる。そうならない災い。

高津鳥の災、 ( 女島(ひめしま) ・個別的特別な表現表出に執着することでしょう。

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十二、畜けもの仆たほし、 国津罪 知珂(ちか)の島

・気ものの反省を主張する

畜仆けものたはし――

牛馬豚等の四足動物を殺し、食用とすることを言うのでしょう。太古日本人は獣肉は食さないと聞いています。古書「ウエツフミ」には獣肉を食べると血が粘ねばる、と書いてあるそうです。

これよりは言霊学奥義である禊祓の区分となります

知とは知識の事、訶とは叱り、たしなめるの意です

外国の文化の知識をこの段階で言葉の意味がよく分るように内容を整理し、次の人類文明へ吸収する為の準備作業となる段階の働きの区分

知訶(ちか)島またの名は天の忍男(あまのおしを)

以上お話申上げました衝立つ船戸の神より辺津甲斐弁羅の神までの十二神が人類精神宇宙に占める区分を知訶島または天の忍男と言います。知訶島の知(ち)とは言霊オ次元の知識のこと、訶(か)とは叱り、たしなめるという事。黄泉国で発想・提起された経験知識である学問や諸文化を、人間の文明創造の最高の鏡に照合して、人類文明の中に処を得しめ、時処位を決定し、新しい生命を吹き込める働きの宇宙区分という意味であります。またの名、天の忍男とは、人間精神の中(天)の最も大きな(忍[おし])働き(男)という事です。世界各地で製産される諸種の文化を摂取して、世界人類の文明を創造して行くこの精神能力は人間精神の最も偉大な働きであります。

(以上は島田正路氏による。)

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畜仆けものたほ(お)し、 国津罪 知訶(ちか)の島・天の忍男(おしを)

・気ものの反省を主張する。

畜けものは前出(八)同様家畜ではなく、獣姦とか屠殺とかではありません。

知訶(ちか)の領域は、知・知識を叱りたしなめる領域で、人が精神の禊ぎ祓え以前に到達できる大いなる働きを発揮できるところです。ここで人が発揮するのは理想的な人間となる以前の、自覚以前の蓄・ケモノ・気モノ状態を扱う段階ですが、その範囲内では人の持つ大いなる精神性能です。

人は「気モノ」で天与の偉大な精神性能を持つ者ですが、悟ったところで神と対話したところで「獣(けもの)」で、知訶(ちか)島の領域を出ていないのです。「気もの」の悟りを超えたまだ次の段階があります。

この領域では精神の反省から始まって原理原則を立てて、禊ぎ祓えに到達する以前の最高の精神性能で活動できるところです。

ですので、ここでの災いは通常の考えられる最良の状態での指針を立て実行できるものを、遠慮して打ち倒してしまうことです。禊ぎへ向かう方向を無化していくことになります。「気もの」であることを自覚しないまま、自らの最良の精神機能を発揮していくからです。

例えば悟りとか云われるものがこの段階(知訶(ちか)の島)での上位にありますが、それは穢れの一つになりますから、次の段階では悟りを禊ぐことになります。(悟ってもいない者がこんなことをいうと悟ったという人から文句が出るでしょうが、古事記はお釈迦様でもびっくりするほど、悟りを越えていくものです。)

高度な考えに考えた哲学思想や、崇高な体験に裏打ちされた宗教的な思想や、芸術的美的な神秘的な実在体験も、この次元領域であらわれます。口では世界を持ち出しこの世の事を言いますが、誰もが個人の体験を他者他人への基本的な要求にしてしまっていて、今ここで得ている疑問や苦悩や災いのあることを解決できず、未来の目標として時の経過や個人の自覚や神霊への没入に委ねています。

畜仆けものたほ(お)しは、知的に納得了解していても感情的に受け入れられない時とか、作品が完成しているのに打ち捨てる心持ちとかになるでしょう

また高度な段階では、悟ったとか見神交流とかをいう坊さん宗教家芸術家達も、実際には現実的なことができない災いとなっていることもいうでしょう。

知訶(ちか)の島の精神領域は[運用 24] 伊耶那岐の大神から始まり、[運用 36] 辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神までで、その途中に悟りをあらわす、[運用 30] 飽咋の大人(あきぐひのうし)の神がきています。理想の精神意識の[運用 48]天照らす大御神まではまだまだあります。

だからといって、「畜仆けものたほ(お)し」は、獣(けもの)を倒して成敗して、次元が上昇して、あるいは上昇を目指して、人となるということではありません。

「獣」の田を押して全面に押し出すことで、自らの「獣」性を主張してしまうことです。よくわたしは悟ったとか神の声を聞いたとか言いますが、自らの獣性(けもの)の意識(た・田)を押し(おし)出しているだけのものです。無自覚次元での最高の事を仕上げたのですから無理からぬところでもあります。

釈迦もキリストも、そして神と対話してきた、今もまた声が聞こえるという方々も、[運用 30] 飽咋の大人(あきぐひのうし)の神以降には手がでないということです。彼らの作ってきた現代社会という作品をみれば、至るところに獣が満ちて、自らを獣としています(ケモノの田を押し出す)。

最高の意識を持った人たちでさえこうです。宗教家達が神に魅せられる姿、芸術家達が形に魅せられる姿、思想家達が固執している姿、そして駄々をこねる子どもが物から離れられない姿、この世の金銭や名誉、権力、欲に執着する姿、誰もが自分が今ここに完結した姿として問題の解決を明示している人はいません。

彼らの主張が集まればそれらの集団で戦争さえ起こしてきましたし、今でも自らの主張の優位性を誇っています。教祖創始者はそうではないという人もいますが、もともと知訶(ちか)の島の精神領域に留まっているならば皆同じ精神構造の内にあります。

「おばあちゃん、わたしはどうしてもあれが欲しい。買ってくれたら末は大臣になるために一生懸命勉強するよ。買ってくれないとおばあちゃんに不幸が訪れるよ。」

それなら古事記はどうなのだ、そんな凄い一万年近い時代に完成していた古事記の思想がしたものは何かと、いわれそうです。

それには、言霊学による

「日本と世界の歴史編その一~十四」

http://www.futomani.jp/kototama_ver.1/

を参照してください。

次は、蠢まじ物ものせる罪、 国津罪 両児(ふたご)の島です。

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十三、蠢まじ物ものせる罪、 国津罪 両児(ふたご)の島

・ 両児島の領域の成立によって人であるのに、人以外の諸々によって判断をゆだねる。 人の意識行為を排除する

蠢まじ物ものせる罪――

蠢まじとは辞書に「あやしい術で人を呪い害を加えること。まじなって人を病ましめ、苦しめ、死なせること」とあります。一般に「まじない」の事であります。

利未記に「憑鬼くちよせ者または卜筮師うらないしも恃たかみこれに従う人あらば我わが面かほををその人にむけ之をその民の中に絶つべし」(二十章六)

また申命記には「汝らの中間うちにその男子むすこ女子むすめをして火の中を通らしむる者あるべからずまた卜筮うらないする者邪法を行なふ者禁厭まじないする者魔術を使ふ者 法印を結ぶ者憑鬼くちよせする者巫覡かんなぎの業をなす者死者に詢とふことをする者あるべからず 凡て是等の事を為す者はヱホバこれを憎みたまふ」(十八章十~十二)とあります。

言霊布斗麻邇の原理は心の要素である五十個の言霊とその運用法五十、計百の原理から成り立っています その要素五十言霊を上の五十音に、運用法五十を下の段にとりますと百音図ができます これを図の上と下が完成した原理として両児の島と名付けました

両児島(ふたご)またの名は天之両屋(あめのふたや)

以上、八十禍津日の神より建速須佐の男の命までの合計十四神が心の宇宙の中で占める区分(宝座)を両児島または天之両屋(ふたや)といいます。両児または両屋と両の字が附けられますのは、この言霊百神の原理の話の最終段階で、百音図の上段の人間の精神を構成する最終要素である言霊五十個と、下段の五十個の言霊を操作・運用して人間精神の最高の規範を作り出す方法との上下二段(両屋)それぞれの原理が確立され、文字通り言霊百神の道、即ち百道(もち)の学問が完成された事を示しております。先に古事記の神話の中で、言霊子音を生む前に、言霊それぞれが心の宇宙に占める区分として計十四の島を設定しました。今回の両児の島にてその宇宙区分の話も終った事になります。

(以上は島田正路氏による。)

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十三、蠢まじ物ものせる罪、 国津罪 両児(ふたご)の島またの名は天之両屋(ふたや)

・両児島の領域の成立によって人であるのに、人以外の諸々によって判断をゆだねる。人の意識行為を排除する逸脱。

両児(ふたご)の島またの名は天之両屋(ふたや) の精神領域は(運用37) 【 八十禍津日(やそまがつひ)の神】から、(50) 【 建速須佐の男の命】までです。

理想的な精神運用とその創造原理による現象(子・子事記の完了)を得ます。

なぜここが「二(両)」の領域なのでしょうか。両児と両屋と書かれています。

古事記の冒頭で、天の御中主(みなかぬし)の神が剖判し、 高御産巣日(たかみむすび)の神と 神産巣日(かみむすび)の神の二者(ア・ワ)に分かれました。

その後この二者の系列が百神で展開され、最後にここで合一することになります。

ですのでここでは両児、両屋という今までの全てを含んだ一体のことを指し、内実は両(二)の統一体であることを示しています。

「両」の取り方は様々です。

古事記では冒頭の前半五十神で言霊要素が示され、後半五十神でその運用が示されてア・ワの百神となります。「ア」という言葉が瞬間的に話されて聞かれて了解されるまでに、「ア」という言葉の瞬間の要素が運用されてその全体を通して、「ア」となりました。

一方、今に見ていろ今に見ていろと頑張っている内に二十年間が過ぎました。この場合には「今」が二十年となってあらわれ、まだ続いています。「今」は過去から未来へ動く瞬間のことだけではなく、意識に与えられた「今」という要素の二十年という運用になります。

よく「今」というのは光より早い瞬間で、イマという間に過去になり今は存在しないという言い方をします。それはカタツムリの時速を計るのと同じで、過去に決められた時間概念との比較です。

このように意識に直接与えられたものによって「今」の様相は変化していきます。

意識を持つ人間の世界では「今」は分析はできますが、計りきれません。二十年過ぎても常に今今だったり、過去の重要な思い出が今今だったり、感覚に与えられた表情が今今だったり、みるみる凝縮し煮詰まり行く姿、集中が今今だったりです。

両児の島の領域ではそれらの分析を全て含んでいますから、提起された要素とその分析の後をどうするかの段階です。

自覚的なコンタクトを常にもっている時には、そのコンタクトの内容は常に今ですが、時と共に始めて得たときの印象と違ってくるときには、思い出となります。宗教、芸術次元では最初のインパクトを忘れないよう忘れないようとして成り立ちます。またあらゆる作り話を用いてインパクトを保持しようとしていきます。

蠢まじ物ものせる罪は、上記の成立を目指すのに、人以外の諸々によって判断をゆだねることをしたり、人の意識行為を排除する逸脱となるでしょう。

さにわ、予言、霊感、幻聴幻覚妄想、占いに従うことや、神の声に従うことなどでしょう。

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大祓祝詞 修祓(しゅうばつ)の方法

・ 逸脱罪穢(つみけがれ)の修祓(しゅうばつ)の方法

一、天あま津つ宮みや事ごと以もちて ・理想的規範を据えて

二、大中なか臣とみ ・エ次元の未来選択の眼

三、天あま津つ金かな木ぎを、本打切り、末打断ちて、 ・天津金木音図の実体とはたらきを分かち

五、天あま津つ菅すが麻そを、本刈断ち、末刈切りて ・天津菅麻音図の実体とはたらきを分かち

四、千ち座くらの置おき座ざに置き足たらはして ・生命の自由な発現の原点に戻り

六、八や針はりに取とり辟つきて ・父韻の連続を要素に分かち

(注。原文は三四五六、意味の流れは三五四六。)

七、天津祝詞の太祝詞事ふとのりとごとを宜れ ・あたかまはらなやさわの流れにせよ

ア・タカマハラナヤサ・ワ

イ・チキミヒリニイシ・ヰ

エ・テケメヘレネエセ・ヱ

オ・トコモホロノヨソ・ヲ

ウ・ツクムフルヌユス・ウ

たかまはらなやさ

・あ 五十音図を心の戸として斎立て

伊耶那岐の大神

・た(チ) 主体と客体の実相を明らかにし

衝き立つ船戸の神

道の長乳歯の神

時量師の神

煩累の大人の神

道俣の神

飽昨の大人の神

・か(キ) キミを総合する言葉を

奥疎の神

奥津那芸佐毘古の神

奥津甲斐弁羅の神

・ま(ミ) キミを総合する言葉を

辺疎の神

辺津那芸佐毘古の神

辺津甲斐弁羅の神

・は(ヒ) 言霊の上で検討し

八十禍津日の神

・ら(リ) その言霊での言葉を拡大させて

大禍津日の神

・な(ニ) 行動の眼目ができあがり

神直日の神

大直日の神

伊豆能売

・や(イ) 行動として動き

底津綿津見の神

底筒の男の命

中津綿津見の神

中筒の男の命

上津綿津見の神

上筒の男の命

・さ(シ) 結論が確定する

天照大御神

月読の命

建速須佐男の命

・わ