古事記の秘密

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2013年に追加。

あめつちの原理

・心の始めは二つあり、どちらか側が優先される。

意識が相手対象に付いて智恵となる初めの時に、心の精神世界にわき出てくる二つものがある。

一つは過去が今に燃え上がり加わるもので、

一つは今を組み合わせて未来に似せようとするものである。

精神・心の世界はこのどちらかを源泉として、心の意識宇宙の中心の主人公とする。

この原理表現は古事記の冒頭となっている。

【天地(アメツチ・吾の眼が付いて智恵と成る)の初発(はじめ・端始芽)の時、

高天(たかあま・タとカのアの間)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、

高御産巣日(たかみむすび)の神、次に

神産巣日(かみむすび)の神。

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。】

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古事記の秘密。

≪次元≫の話。 1。

≪次元≫

ふとまに言霊学でも「次元」という言葉を使用していますが、普通世間の中に入ると全然通用しません。

心の次元、言霊ウの次元、オの次元、アの次元、エ次元、言霊イ次元などといいます。

言霊ウ・欲望本能の次元。

言霊オ・記憶や知識の次元。

言霊ア・感情の世界の次元。

言霊エ・選択機能の次元。

言霊イ・創造意志の次元。

先生の説明は上手ですから当方はそのまま信じてそのまま使用しています。

疑問などが起きても、説明の方向に沿うように解していきます。

それでもって結構理解できているなといい気持ちなど持ってしまう始末です。

ところが最近コトタマのブログで、

「知らないから知りたいそれはオの次元、本当に知りたければアに行かないと。」

というのを読んで、では、「知りたい」はどの次元なのかと疑問になりました。

結構勉強しているつもりなのに、全くの始めの初歩で躓いてしまいました。

ウなのかオなのか、自分にはっきりしません。

情け無いことです。

ブログ主にコメントを送りました。

「ブログを拝見していて「知らないから知りたいそれはオの次元」で、また行き止まってしまった。「知りたい、したい」は欲望次元じゃなかったっけ、、。

内容はオの知識を求めるだけど、欲望欲求が活動している。

ではピカソの絵画に感動したい、神と話してみたいとかはどうなるのか、とか、。」

返事をもらいました。

「欲望次元は五官感覚(眼・耳・鼻・舌・身)に基づくものだから、「知りたい」は経験知識の獲得でオ次元で良いのではないでしょうか。」

「「ピカソの絵に感動したい」「神と話したい」はどの次元でしょう。「~したい」は欲望ですが、内容は五官感覚に当てはまりませんね。どちらかというとア次元の内容ですが、主体の人格に左右されるように思います。難しいですが考える材料が出来ました。」

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わたしも最初からやり直しです。

知ってるようで知らない、知っていることなんてホントにあやふや。

次元なんて言う言葉の響きが嫌いになった。

▼▼▼ここから▼▼▼。

≪島≫次元2。

古事記の冒頭で島というのは、海に浮かぶ島とか国ではなくて、「心の締まり」「心の領域」の事を指します。

ここは俺のシマ・島だとやくざが使うのと同じ意味です。なわばり。

古事記の冒頭では「次に」「次に」と「次」という言葉がよく使われます。よく見たら次元の「次」でした。

次に次には連続した前後関係を指している感じが強い。

ところがそれに「島・締まり」も一緒にすると、事情が変わる。

というのもオノゴロ島の段落には次のようになっているからです。

【 かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、

その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、

塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、

引き上げたまひし時に、

その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、

これ淤能碁呂島(おのろご)なり。】

ここで言われているように、

【垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島】は

前後の繋がりではなく、上下の積もれる重なりです。

これはまさに「次元」のことでしょう。

重なり積もって出来上がる、何が積もる、というと、

【塩・しほ】

です。

引用文と塩は次のように解読されます。

塩⇒しほ⇒四穂⇒四霊⇒四つの心。五感感情(ウ)、記憶知識(オ)、感情情念(ア)、選択按配(エ)

天の浮橋(うきはし)⇒先天のまだ固定されていない天地(吾の芽が付いて地に成る)を結ぶ道(八通り)

沼矛を(ぬぼこ)⇒縫(ぬ)う矛⇒あめつちを縫い結ぶ喋る舌(矛は舌の形をしている)

画きたまひ、⇒掻き寄せる

塩(四霊)こをろこをろ⇒こをろ⇒子降ろす子降ろす⇒子現象を生む

画き鳴(なら)して、⇒発音する表現する

上記段落の現代語訳を講談社学術文庫版から借りると

「そこで二柱の神は、天地の間に架かった梯子の上に立たれ、その矛をさしおろしてかき廻されたが、潮をごろごろとかき鳴らして引き上げられる時、その矛の先からしたたり落ちる潮水が、積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。」

言霊学訳では、人の心の働きとして読みます。

イザナギ・ミの二神である言霊イ・ヰの創造意志がその実際の働きである八つの父韻となって活動して、舌先を使って音をだしてみて、種々の現象言葉を現し、四つの母音言霊次元を掻き回し発音すると、現象子音が発現してくる。

それを引き上げていくと、一つ一つの締まりを持った言葉が出てくる。

それが積もり形成されたのがオノゴロ・己の心の島である。

▼▼▼ここまで▼▼▼▼

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≪四穂、塩≫次元3。

さて、塩(しほ・四穂・四霊)が出てきましたが、何処からでしょうか。

自然にある海水を掻き回して固まった塩から国土を造ると言われるとそれなりに筋道を感じて、神話も上手いことを言うと思えます。

それならフトマニ言霊学もそれ以上に上手い手を見付けなければなりません。

国土を取り巻く海水から塩を取り出すなら、こちらは心を取り巻く海水から塩を取り出したいところです。

心を取り巻いているのは、感情とか思いとか欲しいしたいやりたいといったことで、それらの表現を通用させている言葉です。こころの外側には物質世界がありますが、それらを何だかんだ言うのは普通の科学学問思想ですから、ここでは直接手を出しません。

言葉は事の葉でその表現は言の葉です。葉はとりもなおさず葉が出る穂が出るで穂のことです。こころを取り巻いているのは言の穂です。

これで心を心の穂が取り巻くと言うコジツケはできましたが、では四はどこからきたのでしょうか。これが問題です。

誰かが四穂(塩)といったから四を受けいれればいいだけです。それじゃ七といったら七か、十二といったら十二かということになりそこに疑問が起きます。

しかしいずれにしても言われた数を受け取ることに変わりはありません。

四といわれたか、五か七か十か、歴史を振り返り数万年の人間精神史の発展を調べようとしてもそう簡単にできるものではありません。

だいたいが、四とか七とか十二とか言う前に、われわれは知らぬ間に日本語を知ってしまっています。もしかしたら英語国民になっていたかもしれなけれど、何も知らず端から端まで受けいれて自然の日本語言葉の海水の中を泳いでいます。

自分で考えたことなく、考えようと考えを巡らすと日本語しか知りません。誰のせいでも無く、無自覚に受けいれて形成、成長しました。

そういった中で、疑問を持つことも余計な贅沢か間違った真理追求心のようにも思えます。もともと与えられたものの上に立っているのに、与えれたものをあれこれ言うのですから。

超古代の誰かが心の次元層を解析して、暗喩象徴表現で古事記に残しました。日本語の全構造も創造してくれ、数千年も前から提供してくれています。数十年の内、数年数日数分考えただけで文句を言える筋合いにはないでしょう。

どんなものにせよまずは与えられてことが始まります。自分から始めたものなどなにもありません。自我も自己もそんなものは無く、無いところから始め、始めたと言いだす言葉は自分で造ったものなど一つもありません。

「言霊学の書の内容を心の鏡として、その鏡に自らの心の構造を映して行く事です。勿論初心者は言霊学の内容が真理であるか、否か、を確かめた訳ではありません。けれどそれが真か偽かかは別に、假に真実だとした上で、それを鏡として自らの心を顧みる事とするのです。」

各人確かめて、四どころじゃない百だ二千だとなれば、そうなったのですからその線で行ってください。誰も確かめたものに文句を言う筋合いはありません。違いが出たらどうするのかなどと心配無用です。各人は各人なりに確かめているじゅゃないですか。

それでも確かめるとはいうものの、時の運その時の条件によることもあります。何しろ自分で考えている積もりでも、そんなものは全部どこかからきたものです。その時の今ここの条件次第でできちゃうものですから、全部を背負い込むことはできません。

そんないい加減なことじゃ困るといわれても、どうしろというのですか。フトマニ言霊学と古事記を鏡としてしたことです。「いい加減だ」と言いだすあなたの言葉の出所を説明させてもらい言霊学に沿って造り直す以外に道はありますか。

でも違いを見付けると言いたいことがあるという心は収まりません。何か言わないと安心できない心持ちがあります。何とかは死んでも直らないというやつです。そういう風に自分がなったらどうしましょう。

古事記はなんと言っているでしょうか。

でっかい岩を持ち出して「事戸を渡す」、離婚だよ言っています。

そして最後の捨て台詞を受け取ります。「千人ちょん切ったるぞ」

相手がそういうのですから了解せざるを得ません。

そして言います。「そんなことするなら、千五百人生んでいく」

古事記は全てお見通しです。凄いの一言。

言霊学の内容を鏡としつつ確かめつつ、その積もりでやっちゃいましょう。

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≪四≫次元4。

心の大海は言葉で四方八方取り囲まれている。

言葉は穂である。

どこから四が来たか何故四なのか分からないなりに受けいれる、ということで四を見ていきます。

四は止、死、静か等のシーッ静かに!!です。(シーッは世界語でどこでも通用します。聖書の昔言葉は一つであった、というのは実際にそうであった可能性があります。)

四のシを動かないと見ると、確かにそう思えます。しかし今度は動くシはどうかというと、これまた動いていないのに動くシがあります。

始動の始、思想の思、視覚の視等などこれから幾らでも動き幾らでも無限に発展して動いていくのに、静かに動かないものを秘めています。(漢語をシと読み替えたということでしょうか。)

塩は嘗めればしょっぱく身が縮こまるもので、しょっぱさは身が自己の中心に丸まっていくように感じます。シーッ、と。

塩のシと言う時の精神内容は、自己の内部に静まり縮こまっていくものを感じるでしょう。

止、死、始、思、視等内部に縮こまるか、縮こまった内部の状態か、縮こまっているものが動く始めという、同じシでも違いがあります。

内に向かうか外に向かうかの違いはありますが、それをシの動きあるいは働きとしてまとめ、それに対して、縮こまった内部状態のシがあります。

そこで、シーッと言う動きを内部に実体として捕らえるとシが客観化の方向へ向かい、実体の代わりに働きそのものとして捕らえるとシが主体化されたものとなります。

この間の事情を小林秀雄は、こう文学評論で述べています。

「<生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例があったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな>(無常という事)」

今回の次元の話は「知りたい」はウかオかどちらだで始まりました。

ここで今出てきたのは「何か(知りたい)」を実体化した場合と「(何か)知りたい」を働きで見る場合があるということです。

この「知りたい」の「知」の内容を実体化すると、

今日のカレーは辛いか甘いか「知りたい」という五感感覚次元、ウ

今日のカレーの甘さは何から出てきたものか「知りたい」という味覚知識次元、オ

今日のカレーは箸で食べるかスプーンにするか「知りたい」と言う選択按配次元、エ

今日のカレーの配色は綺麗か「知りたい」という情感感情次元、ア

とがあるように思えます。

またここには言葉だけを聞いて判断する社会性もあります。「知りたい」はどの次元かと言葉だけから判断することです。あるいは自分はこう言ったつもりだが、相手は別のことで解しているというように、言葉の集団共通性のこともあるでしょう。

言葉の社会集団共通性は詰まるところ、上記の四つに収まるものですが、言葉の交流話し合いとあるとまた別の出来事となっています。

では今度は、「知りたい」をその動き働き通りに捕らえるとどうなるか。

≪働き≫次元5。

「知りたい」は知識を得たいで、言霊学での経験知識のオと何何したいの欲望次元のウが直接くっついた表現のようでした。

しかし前回見たように各次元においても可能なようです。

ということはどうやら「知りたい」という表現の元へ戻って探り直しをしないといけないようです。

知りたいを実体化してみたらウオアエの各次元での捕らえ方が可能になってしまいました。何故そんなことが起きたのかといえば、主体の活動が無く、社会性共通性だけでしゃべっているからです。これを蛭子を生むといいます。霊(ひ)流(る)子、主体側の霊が流れ去ったまま語るということです。

では、「知りたい」をその動き働き通りに捕らえるとどうなるか。

四穂(四霊、しほ)を通して、こをろこをろ子を降ろす現象を生むようにしていけばいいのです。

どんな小さな一言も、どんな表現も発言者の心の、霊(ひ)が流(る)して現象言葉表現(子)となっています。

それは社会の中に流れていきますと共通言語の中で泳がされてしまいますので、作者発言者の心と共通概念とが同居を始めます。そこで理解する人の取る立場に応じて、その関心興味に応じて切り取り方が違ってきます。

古事記ではこうなっています。

【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、】と言う形でチョッカイを出します。

イザナギが君の身体はどうなっているのと聞いています。つまり相手のある部分をギの命の興味関心気付きに応じて選択しています。百人のギの命がいれば百通りの質問となるでしょう。

これが心のどれかの次元に該当してそれぞれの仕方で表現されます。そこで、イザナギの心の本心を無視・霊(ひ)流(る)・して、該当している実体実在が勝手に答えることもあるでしょう。ミの命が答えるということ。

「知りたい」の言葉を使用すれば、主体側の霊(ひ)が無いのですから、それの理解は受け取り方次第感じ方次第になります。「知りたい」とここに複写したのは、いい加減なことを書いて相手を煙に巻いてやろう、という魂胆から出た「知りたい」かも知れず、普通に通用している「知りたい」など全然考慮されていないかもしれません。

さて、ここで問題にしてきた「知りたい」は実際にどの文脈で言われたものかというと。

「だってそうでしょ、横浜ってどんなとこって、行ってみないと分からないじゃないですか。写真を見せられても港はこんなとこ、中華街はこんなとこ、って言われても、住んでみないと分からないじゃないですか。

知らないから知りたい、それはオの次元、本当に知りたければアに行かないと。やる気さえあれば何年もかからない。だって、言霊によって生きて、生かされているのですから、他から仕入れるわけじゃない。」です。

ここからすると、知らないから知りたい。それはオの次元。

本当に知りたい。それはアの次元。という構図になっています。

いよいよこんがらがってきました。

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≪父韻≫次元6。

コトタマ学では、先天の十七の構造をまず設定しています。

「知りたい」と言うのはこの先天の十七の構造からでてきます。先天というのですから分けの分からないということで、どのように顕現するのかは後の話です。

「知りたい」と言うのは、この先天の何らかの後天表現となったものです。

そして先天の構造は元々全体として実在しているという設定です。

つまり「知りたい」をオ次元とするのもウ次元とするのも、その他とするのも先天からとってきたものです。

どの次元層から取られたものかを示すのが、父韻の母音への働きかけですが、その働きをないがしろにしてイザナミが先に口を開くように、実在次元層のあれやこれやを先に喋るとヒル子になります。

主体側の意図を考慮しないで、あるもののどれかを選んでしまい、ああだこうだということになります。確かに頭の中では、「知りたい」と言うのは学問知識を知ると言うときの言葉だからオ次元の言葉だと、そういう観念の流れを経験しています。

しかしそれは「知りたい」を発言した側のことではなく、共通の社会的な言語の「知りたい」を受け取った側の勝手な思い込みです。

ですのでそこには、学問知識の知りたいだけでなく、味を知りたいも、技をかける身体の動きを知りたい、とかの知識ではない次元層からの「知りたい」も出てくることに成ります。

イザナギが「お前の身体はどうなっているのか」と問いかけるは正当なことですが、問いの内容はその時点ではまだ明かされていません。

それなのにイザナミが直ちに、問いに答えて、「いい男だね」と言うのはイザナミ1。の思いつきで、イザナミ2。3。4。、、、が出てきてそれぞれああだこうだになります。

個人間社会世間での会話はそんな調子で進みますが、問いを発したイザナギの真意は見向きもされないということも起きてしまいます。(それにもかかわらず、ミの命側は真剣懸命に問いに向き合う事もあります。)

ではどうするかといえば、先天の十七があるのですから、それを受けいれなくてはなりません。私の考えはこうだ、あなたの考えはこう取れます、ですので違いはこうです、では困るのです。

【ここに伊耶那岐の命、まづ「あなにやし、えをとめを」とのりたまひ、後に妹伊耶那美の命、「あなにやし、えをとこを」とのりたまひき。】

というように、父韻側の真意をまず確かめる事にすればいいわけです。

イザナギが言うのはここでは「いい女だね」で「いい」の内容は感情です。どんなものかは分かりませんが、彼の言う「いい」の中に彼の全てが含まれ、それを本として彼の話は大きくも小さくも、以上にも以下にもなっていきます。

しかし、彼の言うことの真実は「いい女だね」の内容を出ることは無いです。彼の言うことは嘘も本当も記憶も概念も推測も理論だとか理性だとかも、「いい女だね」と言った彼の真実以上には出ないのです。

全ての彼の表現は「いい女だね」という彼の真実に含まれ、「いい」ということで彼の全てを現しているものでしょう。そこで「いい」で多かれ少なかれ表現されたものから、多かれ少なかれ「いい」に沿ったものか逸れたものかが出てきます。

そこは彼が喋るのですから、全ては彼のもので彼の所有しているもので、彼は自覚するし無いに係わらず、自分を表現していると思い込みます。

「知りたい」はオかウと言う前に、自分なりに勝手に理解できている言葉して了解してしまわないで、発言者側の父韻を感情意識情緒次元で確かめることです。

感情情緒次元意識を自分で越えようとしても越えられないし、その範囲内で知的な意識も記述されていきます。

彼にとってはその範囲内での知的な記述が真ですので、それ以上のことは概念操作のすっ飛んだ姿で、彼のことではなく概念記憶知識での「いい」となります。

ところが普通の会話ではそんなことはやってられません。

相手の言うところは何か、と一応考えますが、耳に入った言葉、見た言葉から自分の反応したものを出していきます。

そして自分の中にあるウオアエイの実在次元に対応したお気に入りを口にします。対話の交流流通を心掛けていますから、共通の言語が使用され共通の規範に収まっているようにしていきます。

最初から無味乾燥した共通言語規範を投げ合うだけで、そのなかで双方ともが共通規範に対するお気に入りを提出し合い、認め合おうとしているようです。

しかしそれを高度な次元で実行してしまうのが禅問答です。禅問答では少し考えて一分後に解答するなんてことはゆるされません。ビンタが飛びます。

共通な言語規範もへったくりもありません。それでいて通じなくてはなりません。

同じ知的な概念次元で応対しますと判定の規範が相対化されてしまいます。それもそうだという変わりに、これもあれもありとか無いとかになります。

そうするとどうしても最初にあった自分の「いい女だね」の感情意識次元に戻らざるを得ません。

ところがその表現は全面的にその人個人となってしまいますから、共通規範言語と相いれない表現となります。それを敢えて実践するのが禅問答でしょう。

ですので当初から経験概念知次元ではやりとりしていないということでしょう。

先天十七の構造がまずある。

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先天十七の構造がまずある。

あれれ、、、となると、 【 天の御中主(みなかぬし)の神】がまずあるのじゃなかったっけ。

あれれそうかい、、、【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原】はどうなるんだい。

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≪先天=天与≫次元7。

こんな事を思っています。

自分の考えを述べてしまうという欠点は全ての人間に備わっている。

自分の考えを述べるのが欠点だと言われると、何言っているのだお前は、となるでしょう。

自分の頭で考えましょう、なんて言うのは小学生でも正しいことだと知っているぞと怒られそうです。

しかし、そこがまさに人間の欠点なのです。

まさに心の駄目なところですが、人間に普遍的なこと普通のことです。

普遍的に備わっている駄目なところをでんぐり変えししようというのが古事記のフトマニコトタマ学です。普遍的に駄目ということはいくらやっても駄目ということで、いくら直そうと頑張っても駄目ということですから、普通にやっていればいいことです。

ということでこの駄目なブログも続きます。

と、普通ならばそれでいいのですが、人の心にはある日ある時でんぐり返しがくることもあります。でんぐり返しには昆虫よろしく変身変態が伴うこともあり、自覚的にもたらすこともあります。ただし苦行を継続して行っても何にもならないというのは行者全員に共通しているようです。

今回は言葉の遊びか観念のコジツケか、軽薄にすべってしまうのか分かりません。

心の精神宇宙には先天構造が誰にでも備わっている、と前回言い放ったところから何かが変化しつつあります。

コトタマノマナビからの引用。

この最初に現われる十七神が古事記で「天津神諸(もろもろ)の命」という、人間の心の先天構造、即ち人間の天与の判断力の実体である十七個の言霊(天名=あな)である。

言霊 言葉として出す前

要するに、どんな小さなつまらないことであっても、「喉が渇いたな」とか「夜が明けたな」とか、そういう意識が出るまでには、言葉として出す前に、心の先天構造がフル回転しまして、そのように人間の心に思わせるように働く。

その働きを先天構造と申します。先天構造とは未だ全然意識には捉えられないけれど、言葉として感じられる前に、言葉にする前に働いている人間の心の構造。物理学でいいますと、物理学で申しますと物質を作り出す原子核内の構造、絶対に人間の意識で捉えることは出来ないけれど、それがなければ、物質とか心とかも決して現われることがない原動力。

そのことを大昔の日本人は一万年前から数千年の時間をかけて、考えて考えた末に人間の心の先天構造というものは、こういう構造をしているということを突き止めてしまって、先天構造の一つ一つに指月の指にあたる神様の名前を十七並べたことになります。

これから申し上げる古事記のお話は、その十七の神様は実際には何であるか、どんな状態をしていて、どんな働きをするかということを克明にお話を申し上げることになります。

以上、引用でした。

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≪知・り・た・い≫次元8。終わり。

コトタマ学での表現単位は単音ですから、「知・り・た・い」四つの独立した単音からなります。それぞれの単音が独立した位相をもっていて、それぞれ十七の先天を含み、それによって生じた「知りたい」という現象表現となっています。

アイウエオ五十音図からみれば「sイ・rイ・tア・yイ」を内包した「知りたい」で、どこにも「オ」はありません。何か邪道な因縁を付けているような感じですね。「オ」が無いからオ次元じゃないと取られそうです。

実際、母音にオが無いのにどうして知識のオ次元の言葉になるのか、疑問を起すこともできます。しかし、事の違いは次のようなことと思えます。

一。) 知るとは何か、というよう疑問を実体的に捕らえる普通の場合は、1。のようになり、

二。) 知るとは何か、を自分の疑問としてその時に得られた働きとして見る場合には、2。のようになります。

1。の場合は知るという実体を捕らえようとするのですから、その実体内容であるオ次元の中を駆け巡ります。例えば、「知る」に関する知識内容が全て疑問の対象で、概念知識記憶の寄せ集めから、観念構築までいきます。

「知る」から導かれる事を記すと。

知る・認識する、認める、気付く、感じとる、見て分かる、把握する。知らす、知れ、知り、知ろう。

シを取り上げて、汁。しる(薄い酒)。記す。しろしめす(支配する)、天の下知らしめす大御神 。領る (土地などを占有する)等。

こんなのもあります。知(ち、これは中華の言葉ですが、多分倭言葉が元となっている。) 。白を切る(しらをきる)。

等の調べられるだけのもの全部を用いて表現していくことです。それに対して2。があります。

2。「知る、知りたい」というその時の自分の疑問を見るのですから、疑問の実体内容を見ることも、その時の自分への疑問の出方として見ます。自分の出てきた疑問の働きそのものを求めますから、左右上下過去今未来ウオエア次元の何処の動きを捕らえたものかを反省します。

あるいは時処位の動きが全体として出てきていますから、その全体を忘れないように保持してほぐしていきます。1。のように、実体内容を得るために何かを付け加えるのではなく、自分が既に持っているものを後を向いて探していきます。

ここでは「知る、知りたい」とは何かの知識理解を求めるのではなく、その実体を探しているのでもなく、「知る、知りたい」という心を起こした自分の動きを求めています。ですので、心の動きがオの次元であったなら、オの次元とそれにまつわる自分の心を表現し、もしかしてウの次元のこと、アの次元のこと、エの次元の事などであったらそれぞれそのことがでてきます。

つまり、先天十七の構造が先在していますから、自分の心の内からどの次元のこととしても出てくることができます。

古事記の冒頭で「高天原」といっていますが、高天原は各人の心の十七の精神原理のありどころを指します。十七の内どれか一つがあるということでなく、一つの全体構造として高天原になっていますから、どの次元の言葉となっても自分の疑問になることもできるわけです。

1。での違い、1。同士内での違いは元々各人の中の先天構造にあります。「知る、知りたい」を突出させて知識内容としてオ次元を知りたいのとか、ウアエ次元の知識内容として知りたいのかとかの、違いが出てきて概念を扱うことになりそれぞれの主張がなされます。

2。での違いは、自分の心の動き働き出所そのものを見ていきますから、概念による実体内容の違いに還元されません。

≪高天原≫

高天原というのはこういう読み方もあります。

高天原は心の精神宇宙世界のことですが、どういう世界かというと「タの間とカの間を合わせ持ったタカ間の宇宙」ということです。

古事記、あめつち、働き。 ≪古事記の読み方≫

古事記という書名表題の読み方もいろいろあるようです。

古事記

コジキ

古事記を子事記とも書けます。

子の事を記した書き物と取ると、

父と母による子供を産むという意味内容を取り入れ、

父韻と母音による子音の創造という方向ができます。

上巻の内容です。

中下巻は人間の子の話です。

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≪天地(あめつち)≫

子の事を記した書物の冒頭の

天地(あめつち)をとりますと、

天の父と大地の母との二人による創造を、

人の意識の働きと、相手との関わりと読み替え、

高天原という精神世界に言葉による客観対象が創造されます。

意識とその対象との創造物現象、子供は言葉です。

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≪天地(あめつち)の読み方≫

天地も読み方考え方がいろいろあります。

ですが、人間の外にある天地か、人間の内にある天地か、

のどちらかしかありません。

ここ古事記では、

あめつちを、

吾(あ)の目(め)が付(つ)いて地(ち)になる、と読みます。

吾というのは古語の一人称、私のことです。(あ)

吾という一人称である私の意識の目が、(め)

動き働いて、付いて、つるんで、(つ)

相手対象である母なる大地に成ったのが、創造され現象となった子供達です。(ち)

現象となる子の事を記した古事記の始まりです。子事記。

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≪働き≫

働きを働きとして、作用を作用として、機能を機能として、記述するのは至難の業です。

それらに限らず動くものなら何でも、時間も、電車も、何でもかんでも、動きを動きとして示すことに成功した人はいないと言ってもいいくらいです。

動きを説明しようとすると、みんな部分、部品、物体、実体、物の場所移動になってしまいます。それでもって動きそのものを説明したつもりなってしまいます。

古事記も注意しないとそのように読んでしまいます。

神を産んだ神を産んだと実体を連続して生んでいく書き方になっています。

注意しないと働きを示す言葉を実体として読み過ごしてしまいます。

十七の先天実体神を示した後すぐに出てくるのは、命(みこと)です。

イザナギの神と言った後、すぐに、イザナギの命がでてきます。

先天実在とその働きを示しています。

古事記には、吾の目が付いて地に成る、現象を生む、その、成る生む、そのものを説明しようと、上巻が書かれています。

天の父、コトタマ学では父韻という、の働きも、実体内容が無ければ働きを示せません。

ボールも無いのにバットは振れません。空振りアウトです。

宗教では人がいる御蔭で、神さんもそこにいられます。

父親も母親無しでは子は出来ません。

吾の目(私の意識)も相手対象(地)が無ければ何処にも付けようがありません。

バットもボールもその実体を見れば別別なものです。

しかし、ボールを打った私の行為の中では、わたしとボールとバットは一つのものです。このホームランをかっ飛ばしたものが古事記というわけです。

ところが、母も、ボールも、相手対象も、地も、それだけで実在していけます。

母は父よりも強し、・・♪・・??

これが曲者になります。

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≪働きと実在≫

吾の目を付けて地に成る事を言い換えると、私がバット持ってボールを打つとなります。この三者は冒頭の造化三神のことで、百回ぐるっと廻ったところで、三貴子に変身へんたいします。

動きと実在と創造、時間と空間と創造、吾の目が付くと地と成る創造、精神と身体と行為、父と母と子、父韻と母音と子音、意志と材料と作品、というような関係にもなります。

古事記は子の事を記したものですが、子の実在を記しているのは中下巻で上巻では、子がどのような働きによって生まれたかを記していきます。

古事記はそれらの説明を言葉の発生、運用によって説明していきます。

実在は一度現象してしまうと場所空間を占めるようになりますから、後から幾らでも分解分析が可能となります。

ですのでそれぞれの実在の仕方においてそれぞれの働きを持つことになります。

天(あめ・吾・私の意識)も実在しますが、ボール(地・つち)が無ければ、自らを示せません。

ボールは言葉の全体、言霊、です。

言霊の解釈を霊があるとかないとか、実現する言葉の力とか、思えば叶うとかいいますが、古事記のコトタマ学はそういうものとは違います。

コトタマは単音それだけであります。

働きと実在はそれぞれ別次元の位相を持ったものですが、働きを持つときに実在が内容となって現れます。

それ以前は名無しの実在です。

それを先在といいます。未だ顕在していないということです。

そのことを別の言葉で簡明にいえば、

何々○○というものはない、ということです。何々○○は自分で造るものです。

この何々○○にどんな言葉を入れても通じます。自我でも、神でも、悪でも、

宗教でも、考えるでも、時間でも、もともとそんなものはないのです。

しかし、あるし、あってしまうし、造ってしまう、この謎を解いたのがこじきです。

そして、この働きと実在の位相の不即不離を象徴しているのが、高天原という言葉です。

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≪高天原(たかあまのはら)≫

古事記冒頭には「訓高下天云阿麻下效此」とあり、天は「アマ」と読むように指定があります。

タカアマと読むにしろ、タカマと読むにしろ古事記の上巻は精神の運用原理論教科書ですから、空の上の原ではなく、心のタカアマの原のことです。

子を生む精神の吾の目が高天原にあるということで、精神意識の特徴である心の働きと実在意識を「タカ」に象徴的に配当暗喩したものです。

高天原

タカアマの原

タの間(た)、とカの間(か)、の先天(あま)の原(五十音精神原理)、と言う読みになります。

一) 心は先天的に「タの間(マ)とカの間(マ)を合わせ持ったタカ間(マ)の宇宙」ということです。

「タ」と「カ」は最初から最後まで心の動きに付随している精神構造で、心の動きの始めの二種を現していますが、それぞれ独神となります。

直ぐ次に出てくる天の高御産巣日、神産巣日の神の読み始めの「タ」と「カ」であり、思うと考えると言う言葉の違いでもあります。

この二神の系列が、働きと実体になり、時間と空間となり、言葉の内容と文字となり、高天原世界と黄泉世界になり、というように展開していきます。

最終的には理想的な精神規範となる天照す大御神の運用法の中で統一されていきます。

高天原にはその他にも、

二) 何の出来事も起こっていない清浄無垢な心の宇宙、

三) 心の構造を理解した人たちが集まる政治朝廷の場、

四) そして、理想的な創造精神の音図のア段がタカマハラと並ぶというような、精神的側面にも使用されています。

何処かの地名とか、何々県にあるとか、天上にあるとかは論外です。古事記に出てくる地名とか固有名詞とかの実際の所在を探ることはまったくと言っていいほど不要なことです。

ここでは心には「タ」の間の心使いと「カ」の間のこころ使いが先天的にあるということを取り上げます。

「タ」の心は「思う」になり、「カ」の心は「考える」になっていき、両者の根本的に相反する方向性を見ようとします。

とはいってもタとカ、思と考、は先天としてあるのですから、切っても切れない妹背の関係にあります。

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≪高天原の現象≫

古事記は精神の原理教科書として、何処から始めても何処をとっても一貫性があります。高天原も、実体としてどこかの原っぱを見立てるのではなく、動き働きとして見ていけばこうなるでしょう。(相変わらず下手な説明になりますが。)

子という現象創造は、吾の目(私の意識)が付いて地に成ることからはじまります。そこで吾の目(私の意識)は当初は、剖判されないで吾(あ)という統一体としてあります。

ついでそれが私と相手意識に剖判したのが「タ」の間と「カ」の間です。

それを実体化して示したのが冒頭の造化三神ですが、造化三神の居場所となるのが高天原ということになります。

古事記は常に前承-前承と続き、実体・働き-実体・働きと続きます。働きの実体が前に出てきて、その実体は何らかしらの働きを螺旋上昇状に前提しています。

ですので造化三神は高天原に成り、高天原はあまつちに成ります。つまり、「タ・カ」は「ア」から出てきました。

こういった循環を前へ前へ繰り返していきますが、それじゃ元々の始めは何かという観念的な考えが当然出てきます。

この疑問の作り方を見てもらえば分かる通り、「元々の始め」という実体を問うものです。その答えは数千年の歴史を経てもまだゴタゴタとなったこたえしかありません。

古事記の冒頭をよく見てください。

【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。】

天地のアメツチから始めれば、

吾の目が付くという働き、高天原に成るという働きの次に地、神という実体が出現してきます。働きの実体が現れてくるのです。

それじゃ、吾の目の吾(私)という実体がまずあるのでおかしいじゃないかと思われることでしょう。

この堂々巡りを古事記は「先天」の構造として打ち立てて解決しました。その構造は【みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。 】というように、他には依存せず、人の意識とは独立したものでそれ自体で存在しているものとしています。

存在しているなら現象しているだろうし、子現象を記述していくのが古事記だろうというかもしれませんが、【身(み)を隠したまひき。 】というように実体となる身は現象としては現れない構造といっています。

そのような先天がまずあるということです。その上で子の事、吾の意識が現象して来るというわけです。

例えば私が幾ら書いても文字が羅列されていくだけですが、そういった現象を生み成す「私」は電話回線の向こう側のどこかに居るにしても、私自身そのものとしては現れることは無いのです。同様なことは読む側にも言えることで、読むという現象を掴んでも、読んでいるあなた自身は現象として現れません。

そのような先天構造があって全てはそこから始まります。

≪高天原のタとカ≫

高天原からタとカを取り出して見ていきます。

そんなことをすると観念の言葉遊びのように見えるかもしれません。しかし一続きのあるいは、一塊の言葉もそれの要素からなっています。小学校から今まで単音要素の言葉の意味を習っていないからといって、単音の言葉を捨て去ることは出来ません。

「タ」と「カ」は天の高御産巣日、神産巣日の神の読み始めのタとカに対応していて、その両神の意味内容をづっと引き続いていき、最後には天照大御神において、両神の統一が完成します。

天照大御神は「アマ照らす」「アの間を照らす」で「ア」の間、「タ」と「カ」の「ア」の間を統一統合して照らす神さんで、高御産巣日「タ」と神産巣日の「カ」の合一ということになります。高天原を治めるように言われます。

アメツチの「ア」から高天原の「タカアマ」そして天照らすの「アの間」へと、一貫して精神世界での心の運用法を低次元の位相から高次元の位相へと述べています。そして、天照らすの三貴子において冒頭のアメツチの「ア」に戻って循環上昇していくわけです。

先に発音された単音は次に発音される単音の先天になって、繋がっていきます。要するに現在の中に全過去が包含されている関係です。次に続く言葉がその人の全過去を継承しているから、その上に「次に」を立てられるのです。

ここで、全過去があるということは「タ」の間の心と「カ」の間の心も先天にあるということを指しています。現在という今此処での心の取り方が「タ」と「カ」の二方向に分かれる運命原理にあることが高天原のタカで示されます。

参照。

実体的な見方。

「カはうらぞ、 タはおもてぞ」(ひふみ神示。地つ巻 第29帖)

働きから。

「 集団(まどゐ)のアは神示ぢゃ、ヤとワとは左と右ぢゃ、教左と教右じゃ、 ○ヤとまるワ はその補(たすけ)ぢゃ、教左補、教右補ぢゃ、ヤの補(たすけ)は ○ワ ぢゃ、ワの補(たすけ)は まるヤぢゃ、ア、ヤ、ワ、○ヤ 、○ワ 、が元ぢゃ、。」(マツリの巻 第十七帖)

≪古事記の秘密、高天原≫ ≪古事記の秘密、高天原≫

この数回高天原のことについてかいています。それは何処にあるとか、それは何かとかで喧々諤々とやっていますが、古事記の場合はもっと本質的というか原理の次元での話をしています。

奇妙に聞こえるかもしれませんが、高天原を知る知らないの多少にかかわらず、なぜ高天原といえるのかと言う問題があります。高天原という一言によって見る人も聞く人も書く人も、その知識の多少に関係なく思い込みの大小に関係なく、高天原といって高天原についてのことだと了解しています。

高天原という名前を知って、後から勉強したり聞いたり調べたり勝手に思い込んだりして、概念を増やしたりしていきますが、高天原という言葉同じです。見たことも無いのに他人と比較したり、時がたつと正反対の意味で使うこともおきたりします。

意味内容が増えたり減ったり反対になったりしますが、与えられた名前は変わりません。この固定された名前の絶大姓(実は高天原と言っても赤い花と言っても同じことですが)も古事記の原理から来ているものでしょうか。

それは誰にも有無を言わさず賛成側に廻ろうと反対側に廻ろうとどらも同じ言葉を使い、その柱の廻りを廻ります。高天原に言及する人の数だけ、赤い花と言う人の数だけ柱があるのではなく、高天原という柱は一本しかないのです。(この比喩はオノゴロ島、マグワイの段落から取りました。)

まず神社の鳥居を思ってもらい、左右の柱に母音半母音を当てはめ、上部に父韻を配当します。松葉の葉が開いて中央の結ばれた部分が開き父韻となって拡大された形です。

鳥居の形、または五十音図のあ行わ行と上の一段を抜き出した形をシェーマとします。

そこで、≪汝(な)が身はいかに成れるのか、高天原≫と問うてもらうのです。

両柱の中に空間ができます。中の空間を人が通り、現象が成るという構図です。

外枠部分は先天的に実在していて、母音と父韻の働きで中に子音現象ができます。

人が通るとき左右と上部の先天構造をくぐって自分という現象をつくります。その動く姿は赤い鳥居がずっと続くトンネルに見えます。

父韻が母音に働きかけるには、両者に共通項がなければ素通りになってしまいますので、ここに共通項が先天的に存在するということです。

五つの母音はそれぞれに父韻の四種の妹背で八つの働きを受けいれる様態を示しています。これは母音四種の能動様態が父韻の働きの御蔭で、父韻と交渉結合して父韻の働くという性質、韻律(注、音ではない。)と共に半母音行へ渡っていきます。

この半母音行でも同じ様態が受容されれば、そこに「まぐわい」が起きて子音現象がでてきます。

まぐわいというのは父韻の働きが母音行に現れて、その同じ父韻の働きと母音の能動性が結ばれ、半母音側に実相として父韻が受動されて現れてくることです。

父韻の母音での動きを左(霊足り)廻りとし、受動側半母音から出てくる父韻の動きを右(身切り)廻りとして、身を切り開いて出てくる、(出産、岩戸開き)、という表徴で語っています。

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≪古事記の秘密。八か四か。≫

吾の目が付いて地に成る(あめつち・天地)ということにおいて、冒頭十七神が成立します。

それは先天の構造として冒頭十七神が先天実在していると同時に、それぞれ各神が十七神を内包統合していながら独神(ひとりがみ)となっているものです。

例えば、光がプリズムを通過する働きにおいて七色の虹に成るようにです。

透明純粋な光線がプリズムを通すことによって各要素が分散独立して実在していきます。現れたのは名の付けられた各色となりますが、色の波長を通す働きを変えれば出てくる色も変化します。

人の行為、言葉においては、吾(わたし)の目が付くことから始まり、「吾(私)の目」が始めの光線に当たり、プリズムに向けられた白光線が当初の「ウ」です。そこでの当初の「ウ」が大本にあります。古事記はこの「ウ」を天の御中主の神としていきます。

言葉は人の主体側の行為によるものですから、光の分散のような単なる自然の屈折作用に、意志による作用が加わっています。その意志作用を通して自由な行き来や突発的な飛躍ができるのです。

吾の目が付いて地に成った当初の「ウ」の働きの内容が高天原というプリズムを通すと先天の十七神と後天の三十二神に成ります。

人の意志作用は自然界とは違う意思という原動因になっていますから、常に意思の働きが介在していき、先天十七神全体が働きであると同時に、その働きにおいて実体を成すものとなっています。

そこで先天十七の構造自体に働きと内容を含み、意志作用が働けると同時にその内容が現れることができるようになっています。古事記の冒頭では十七「神」を紹介した後、直ちに、 【 ここに天津神(十七神)諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて】というように、その働き(命)を語り、ギミの「神」から、ギミの「命」に説明の次元を変えています。

先天部はその吾の目が付くという意志による働きを反映して、主体能動側と客体受動側とその両者を取り結ぶ働きの三者に分散します。この三者で鳥居の形を現し、そこで現象を生んでいく姿を平面図に現したのが鳥居の中を子音現象で満たした五十音図です。(五十音図は古代からあります。)

父韻の方は、分散して色が独立するように、先天部の働きは働きそのものとしては現象しないが、父韻と呼ばれる八種の父韻が出来てきます。

この八種は、意志作用の働きとして、能動側の四種が母音側に働きかけ、受動側の他の四種が半母音側から同交感応を受け取ります。

注意してもらいたいのはこの四とか八とかを固定実体化しないことです。冒頭の高天原はまだ先天の高天原で、自分の心の領域であるオノゴロ島ができた次元でもまだ、【天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき】という、全体的な白色光線なのです。

(自分から書き出しておきながら実体化するなと言うのは、非常に説明の仕方が悪いからなのですが、その反面前もって次の段階へ踏み込む先を知らせるということにもなっていると思います。厳密に心の動きが追いたい場合には古事記の原文をそのまま受け取るしかありません。)

≪古事記の秘密。霊動。≫

元をただせば、純粋透明な吾の目が地に付いて白色光線の「ウ」となって導かれることから始まりました。一つの全体から分散成長してきたものですから、それぞれの根底に共通の接点があります。

ですので白色光線を語る以前に実体を語ると全てが恣意的になっていきます。プリズムを通過する以前には赤の光線も青の光線も無いのです。あるというのは概念記憶知識がそういうだけで、自分が了解したものではありません。

確かに科学的に、理性的に、知識として言葉として赤の光線と主張はできます。そのために私たちは共通の言葉を持っています。

しかし今一度考えてみると、古事記の冒頭では【天地・あめつち・の初発の時】といっています。このブログではアメツチを自分の意識(吾の目)が付(つ)いて地(ち)に成るという読み方で、それを古事記の真意としていますから、この冒頭部分の時点では、それこそ初発の初発で無色透明な光線しかないということになります。

初発の時はプリズムを通す以前の話ですから赤も青もなく、先を見越して空即是色空不異色と概念の記憶経験をする以前に色を付けただけです。逆にプリズムを通していないのですから、色不異空、色即是空というのも、どこからかきた概念だけになるでしょう。

ですので、それをどのような言葉に言い換えても同じことになるでしょう。人の考え、欲望、世界のでき方、歴史の流れ、神の存在、生物の発生進化、地球や宇宙の発生等々。それらを根底の共通点から見ていくと、世界は一つ、皆兄弟、自由平等、私とあなたと同じ、愛し合おう、神の子供、自我意識、等々の主張なども出てきますが、その元となるのは白光の状態です。また自分の白色透明な光から出てこないものは、ただの記憶概念です。

これを歴史に転用すれば、古事記の主張もスメラミコトの治める世界朝廷の運用までを視野に入れています。他の歴史的な見解などと違って、その時々の神秘体験とか修行をして得たものとか、考えに考えたものとか理想の追求から得られたものではなく、人間の精神原理のフトマニという白光から導かれています。

宗教家や道徳家などが言うような未来の目標、努力実践行為を歌い、来るか来ないかはその人次第だというのとは違いますが、それらのような主張が出るのもプリズムを通した後の一色として当然のことと見れます。

要は白光の状態とその動きを知ることのように思えます。その為には色の着いた部分は知的な運用に必要ですが、出来上がったものを自分のお気に入りとしていただくようなもので、自分の白光状態から動きだしたものではないでしょう。

ではさて、色付き光線の実体現象から語り始めるのは恣意的な混乱を招くだけだといっても、では無色透明をどうやって語るのでしょうか。

無色透明な空気も、呼吸し、風を受け、台風で破壊され、飛行機を浮かすというような働きを得ることでその存在を知ります。

人の世界では話し合い行為して自分を表現、生活していきますが、その大本となるのが、無色透明な意志です。そのものとしては現象していません。自分が今ここに「いる」思いです。

この、イマココに「いる」という自分から出ている何かしらの霊動がいのちの元です。これがプリズムを通して十七神になっていきます。

「イマココにいる」という存在理由も何の為も何にも分からないものですが、イマココの自分から世界宇宙に向けて霊動波長が出て、またそれを受け取っています。古事記では誘(いざな)い誘われる心の気と心の身(イザナギ・イザナミ)、まねぎ合い嫁ぎ(十つぎ)合う「まぐはひ・まぐあい」として現されています。

各人はこの宇宙に向けての霊動を発してるがため、世界を知り自分を知り交流可能なのです。(霊動、この表現は固定したものではなく比喩です。古事記ではイザナ(誘)ギと言っています。)

こうして各人に霊動を送受信するこころがあるため、父韻、母音、半母音の関わりが可能となります。要するに各人の中に十七神が実在機能していることになります。

先天はそれ自身に父韻と呼ばれる働きを持ち、その作用反作用による母音への働きかけの違いが、実体の違いとしてでてきます。

ですので、母音-父韻-半母音にそれぞれ元の働きの韻の共通項が実在していることが要です。

父韻が母音に働きかけるのは、母音にある父韻の要素が共通であるからです。

宇宙実在である母音側に働きかけを受けることができなければ交流はおきません。

トンカチはそこにあるだけなら無用の長物です。腕があってもトンカチを握れなければ何にも成りません。

ここに世界最速とも言うべき精神の働きがあります。このトンカチを持てば釘を打てるという判断が瞬時に出てくることです。そしてこの判断過程の内容が百過程あり、それを解明したのが古事記というわけです。

≪古事記の秘密。韻。≫

韻といっても音声音韻学でいう韻のことではなく、主体と客体を結ばせる働きであるコトタマ学でいう父韻のことです。

実体であるトンカチと機能である手の働きが結ばれるとどうなるかというものです。

実際生活では探し出したトンカチを持つということが何でもなく起きていきますが、その現象を生む父韻の働きを見てみるというものです。

コトタマ学上の現象では「トンカチを持つ」という現象を取り上げます。

詩歌の押韻のように同じ箇所に同じ韻を持つことから、父韻となったようです。韻は同じところに同じ韻を踏むわけですから、実体である物の世界と人の心と働きの世界とでは全然同じ世界ではないので同列にしては語れません。

そこに韻(韻律、動因)が登場して物質と機能を結ぶある仕掛けを創造するのです。その創造する同じ土俵に導き登って招きあってマグアイして満足して子現象を生みます。

精神、心を生む話である古事記もそれに沿わねばなりません。

古事記の説明ではオノゴロ島の段落になります。おのれのこころの島。オノゴロ島での段落では男女(ギとミの命)のまぐわいで子ができるという当然の書き方ですが、これを当初は男性側イザナギの命を父韻として、女性側イザナミの命を母音として配当し、その父韻と母音の交わりというふうに理解してしまいます。

私も父韻と母音の交わりだからということでそう思っていました。実はそうではありません。ギミの神は男は男、女は女がそこにいるだけで、男女の実在があるだけでは何も起きません。

両者間の行為の介在、橋渡しが必要です。男が行為するのではないかと思いがちですが、男側には主体的な働き機能があるというだけではやはり何も起きません。女側の受けいれる機能だけがあっても何も出てきません。

実在を取り上げるだけ、あるいは働きを取り上げるだけでは、子現象はおきないのです。主客の実在があることに、両者に共通する韻を吹き込まねば両者は見合うことはできません。そして見合いは同じところを見なければならず、男は手を見て女は空を見みているのでは成立しません。

ここにある、主体と客体と結ぶ働きの三者、天と地と高天原、ウ-ア-ワ、造化三神等にそれぞれ共通の韻を見つけることになります。このじげんでは先天の共通韻ということです。

そして、主体と客体と結ぶ働きの三者、天と地と高天原、ウ-ア-ワ、造化三神等において子現象を得たときに韻が生まれます。この韻は三者に共通のもので、主体であり客体であり働きである共通者、つまり、子供となった韻です。

先天の韻を顕在化させることになります。三者の先天の働きによってそこで父韻母音の交わりで子音を生じれば、完成創造したとなります。

例によって、父韻というから父韻なるものがあってそれが捜し物の中心になってしまうから、幾ら探しても見つからないのです。

古事記では、

【 ここにその妹(いも)伊耶那美の命に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾が身は成り成りて、成り合はぬところ一処(ひとところ)あり」とまをしたまひき。】となっています。

読み方は、ギの命が問うたところを、ミの命が答えるということです。「身」はどうなっているのかいと問うのに、今日はいい天気ね、ではマグワイになりません。韻を踏むというのですから、「身」の問いには、答えも「身」でなくてはなりません。

これは別の角度から見ますと、客体側(ミ側)は主体の質問にのみ答えることで子現象を生むということになります。そうすることで韻を踏むわけです。

さらにいえば、相手客体側は実体(物質・形)となる側にあって、問いかける主体側の能動的な働きはありません。答えるだけですが、答えの成否も分からないのです。答える用意は充分できています。成り成りてというように、全宇宙世界を手元に置いています。

それにもかかわらず問いへの答えを成り合わすというかたちで提供できません。何故なら問いかけと同じ韻の代わりに全世界を提供する準備だけは常にできているだけです。(これが後に韻が合わずにヒル子淡島という形の子供になります。)

客体側に主体側に対応する韻を生んだ後、主体側がそれを了解して、両者が同意してから、新たにマグアイをします。両者に同じ韻がありますから応答が可能となります。