ブログ052~054。先天から後天へ。

ブログ052。 『先天の○○から後天の○○に成る』 タ。

『 子音と申しますのは‘出来事’です。ここに「ある」というのではない。瞬間に現われては消えますので捉えどころがない。その‘出来事’が起こるまで人間の心はどういうように働いているか。先天の言霊がピカッピカッと稲光しますと言葉がゴロゴロッと鳴る、これが人間の言葉です。』

『 人間の顔の真ん中に鼻があるのは何故だのお答が出来る人はまずいらっしゃらない。これはそうなっているということだけであって、先天構造はこういうことになっているんだなとだけ受け止められて、次から考えを巡らしますと出来事から先天が分かってまいります。』

先天から現象への一瞬の動きをとらえようとします。現象はできてしまえば物となって固定され、物理的な作用反作用に身を任せていますが、意識状での現象が起こることはそれこそぴかぴかゴロゴロと騒々しい過程があります。ほんの一瞬の物語ですが大和のスメラたちの創造苦心した後を追ってみたいと思います。

古代のスメラミコトたちと違うところは、我々はスメラ達が苦労して創造した心の原理と大和の日本語体系をあるものとして使用していきます。無いところからつくったスメラたちとは根本的に違います。

今まで世界のどんな聖者も思想家も成し遂げられなかったことが、心の現象の出来上がるまでの過程を書き残した人類史上至高の宝物として、日本に残されています。その超理性の持ち主たちの創造結果が、古事記の神代の巻きです。これが本文で天皇家の歴史部分はおまけなのです。

原理教科書として暗喩表象で書かれていますので、解釈はこちらの勝手になってしまいます。しかし、その我々が勝手にしている解釈できる根拠も体系だって綴られているものです。山の彼方の遥かにそびえ立っていて、また、全人類の原理としてある以上何処でも誰にでもそこらいらへんに転がっているものとしてあります。

一つ転がっている石につまずいて気をとられてみましょう。

表題にある「○○」には何が入ってもいいので、ここでは 「た」 という言葉につまずいてみます。

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先天《タ》から現象子音言霊タが生まれるまでの一瞬の動きを最初の一周目の言霊循環で示す。

(前注。次元という言葉がよくでてきますが、一般的に言う点線面の三次元に心を加えて四次元にし、さらに超感覚や精神世界を加え神や創造主とかが高い次元にいるという様な、物質肉体も精神もごちゃ混ぜの次元段階を作ることとは違って、言霊学では各人の心・意識内での次元の違いです。言霊学の次元は心の要素の原理的な違いです。また心の次元は上下の一連の階段状ではなく、底面のイ次元で繋がったあるいは、心柱で繋がった五層の重層状のものです。ついでに、心のある場を家・五重いえと言います。息、生きる、祈る、今等々のイは五・イのありかた働きからきた言葉達です。)

心の要素は五十個で、それが物質世界と同様にこれ以上は分けられない心の元素となっています。

一人一人各人がいて、個人がいて心はそれぞれ違うから心の要素が五十個というのはなかなか受け入れられません。物質の元素なら納得しても、心の元素では承知できないようです。

大和の日本語を使用している我々は辞典に何万語あろうと、アイウエオ五十音が全てです。どんな心も五十音で現し、表現できなければ心も現象となりません。古代スメラミコトは心を分析して五十の違いを発見しました。つまり、心とは五十の単位要素からなり、五十の心の要素に五十の清音の違いを見つけました。それを五十音図表にまとめたのでした。一万年前のことです。(最古の音図が平安時代とか、中国の影響とかは関係ありません。)

心を分析して五十にしたのなら当然心は五十で現すことになります。世界唯一の日本語では言葉の五十の単音要素と発音が意味で繋がっていることです。中国語も英語も言葉の単音要素には意味がありません。漢字に意味があってもその発音には心の意味はありません。アルファベットも同様です。

そこで五十の単音の意味を神名で示したのが古事記の神代の巻きの冒頭五十神ですが、肝心な五十の発音は知らされていません。この対応は宮中の賢所にある書物から漏れたものです。もちろん漏れたといっても現代の我々にとってで、日常普通に発音会話しているのですから気のつかない我々の怠慢でしょう。

とはいっても神名を残してくれてはいても、その五十音の発音との対応はそう簡単に見つかるものではありません。現代の学者が何人かかろうと無理です。一万年前のスメラミコト達の超知性の賜物です。

そこでわれわれはありがたく受け取って真似をしていくことです。五十の言葉とは発音を文字にしたのではなく、心を五十にした時のその一つ一つの心の音の現れで、数多くある日本の神代文字はこころの形を表記したものです。漢字を崩して平仮名を作った以前に、古代では心を真似て神代文字を各スメラミコトの印として作っていたようで、そのために多数あるようです。

先天の原理構造があるというところから始まります。

「タ」と発音する以前に「タ」の先天があります。

先天などと言いますが書き表せないから先天と言うのに言霊学では平気な顔して先天の構造を書いていきます。しかし、これは現代的に言う主客の条件が潜在的に揃うとか、可能性があるとかと言うのとは違います。潜在的とか可能性とかはあくまで材料が揃う潜在性とか可能性で、埋蔵されている石油が見つかるとか、父母と言う材料が組み合わされて子が生まれると言うような具合にとられます。言霊学では子現象は父母とは独立した第三者ですから、父母が幾ら合わさっても子は生まれません。そこでは意志と働きが加味されなくてはなりません。

しかし形に現れない先天を形の無い働きで示すなどということは手の施しようがないのです。それを解明したスメラミコト達はやはり超知性の持ち主だったのでしょう。できる限り真似るように、書いてみましょう。

「タ」と言おうとして「タ」と言って「タ」と了解するには「タ」と言おうとする以前に、「タ」の可能性がなければなりません(現代的に言えば)。

潜在的・先天に「タ」があって見つけたのではなく、「タ」として成り出てきたもので、そこにある卵子と精子の結合がそのまま出てきたのではありません。長い長いほんの一瞬の経過があります。変態に継ぐ変態を経て現象の「タ」となります。

では古事記を真似てみましょう。ついでに。ひふみ神示の冒頭は「ふじははれたりにほんばれ」となっていて、天気予報を聞いて心が晴れる様な感じですが、実は「不似は霊(は)流(れ)たり、日本(にほん・ひのもと)霊(は)流(れ)」で、父母という似てもいない二つ(父韻母音・イザナギイザナミ)の霊が交流して霊の元(子音現象)が出てくるという古事記の冒頭を述べたものです。最初のは先天のハレで次のは後天のハレです。

--始めに先天構造。---------

先天。

「天地」というのは「アメツチ」と読み、「吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す」の隠喩暗号です。天地を外界の宇宙世界や国土とすると全く古事記は理解できません。また、現代で言う認識論上のこととしても、客体と主体の関係とするのも不十分です。言霊現象学は主体の外の現象を扱うのではなく、主体内の主客を扱います。

「タ」と言おうとして「タ」と言ってといいましたが、「タ」と言うのは既に現象結果ですから、この結果をうんぬんするのでもありません。

たちつてとなにぬねのはひふへ・・・・と言った片っ端から前の言葉は消えていくのが現象です。認識論の対象となる客観客体ではありません。

そんなものがあるのかと言えば、主体内のイマココにしかありません。認識対象を主客で意識するという主客の認識論が通常こびりついています。

説明する方もそのように説明しないと理解してもらえないほどです。もちろん説明する方も客体側の在り処を客観実在としてしまう癖から抜けられません。本来なら禊ぎ(身削ぎ)をしてから書く方がいいのかとも思えますが、そこに至る過程も誰かが書き残しておかないといけない気もするので、こうして綴っています。

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ブログ053。 『先天のタ。先天の構造があるので先天の「タ」があるのではない。』 タ。

「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神」

「タ」と言おうとした始まりの時、天(あめ・吾の眼)には全体があった。「タ」と言った時それは成った。

「タ」の全体は次のごとくであった。

(あ)として、ウ・アワの言霊であった、

(め)として、ウアワヲオエヱの言霊であった、

(つ)として、ウ・アワヲオエヱ・チイキミシリヒニの言霊であった、

(ち)として、ウ・アワヲオエヱ・チイキミシリヒニ・イ㐄の言霊であった。

以上がイマココの瞬間の初めにある先天構造である。

以上の全体は言霊ウとして今後「タ」となるべくものの主である。

言霊ウはそれ自体に二者を含み、あめのウアワヲオエヱは実体の宇宙世界であり、つちのチイキミシリヒニ・イ㐄は働きの宇宙世界である。

そしてあめの実体側の宇宙世界にも主体と客体の二者、および、つちの働き側の宇宙世界も主客(イ㐄)の二者を含む。

これらは後段現象の「タ」となるための欠くことのできない先天の主であるので、そこに「タ」を直接には見いだせない。

こうして何か始まろうとする時、「タ」を言おうとする時に、現象の「タ」のどんなものにも対応できる内因が揃う。

この先天の内因はそれぞれが独立した人の心に対応していて、

人の実在世界の在り方として、

母音側実在世界。

ウ・ 欲望、そこから発する世界、産業、経済、等、(主客同一)

ア・ 感情、そこから発する世界、宗教、芸術、等の主体側、

ワ・ 感情、そこから発する世界、宗教、芸術、等の客体側、

ヲ・ 概念知識、そこから発する学問、概念運用の客体側、

オ・ 概念知識、そこから発する学問、概念運用の主体側、

エ・ 選択按配、そこから発する政治、道徳、分配の主体側、

ヱ・ 選択按配、そこから発する政治、道徳、分配の客体側、

父韻側働き世界。

チ・ 今現在を現出させる力動の主体側、言霊ウに対応。

イ・ 現出した今現在を持続をさせる力動、言霊ウに対応。

キ・ 今現在の体験内容を既にある自我の方向に掻き寄せようとする力動韻の主体側。言霊オに対応。

ミ・ 自己の体験内容に現出した今現在が結び付かせられる客体側の力動韻の客体側。言霊ヲに対応。

シ・ 今現在の精神内容が落ち着き静まるところを探す力動韻の主体側。言霊エに対応。

リ・ 今現在の精神内容が宇宙の拡がりに向かって螺旋状に発展拡大して来るのを待ち受ける客体側の力動韻。言霊ヱに対応。

ヒ・ 今現在の精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する主体側の韻。言霊アに対応。

ニ・ 今現在の現象の全体の種が精神宇宙の中核に煮詰まり成る客体側の韻。言霊ワに対応。

親韻側創造意志の世界。

イ・ 意志の発動側。

㐄・ 意志の帰還側。

を示す。

以上が主体的に係わることのできる人間世界の全てとなる。

そこには超能力世界とか神、霊魂世界は出てこないので不十分ではないのかと思われるが、神世界との関わりでは人間側に主体性は無く、主体的に係わっている部分では上記のどれかに属しているし、また、超能力世界では意志に係わることなく動物能力の発揮のように行われやはり人間の主体性は無く、あるように見える時には上記のどれかを示している。。

今。

実在世界に働きが加わることでイマココが動く。

ウは、今現在がある今今の世界を作り、

アは、今現在を全体としてみる世界を作り、

オは、今現在を過去から持ち来らす世界を作り、

エは、今現在を未来へ導く世界をつくる。

そして、

イは、上四相の原動因となって働いている。

こうして将来の「タ」は自らの出生の内容を包含することができる。将来の「タ」には上記の全体が先天的に備わっているので、どのような形となっても現れることができる。

「タ」と言った時にはその人の何らかの意識(吾の眼)の表出となりますから、先天的にそれらがあることになりますが、あるというものがその人の門戸を叩きに来るわけではありません。あくまで主体側の働きによります。

ところが今は先天構造までの話で、人間側の主体があるわけではありません。

主体側が無いのにそれを知る先天もありません。

ここに先天が載り動く主体側が創造されなくては成りません。

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ブログ054。 『先天の載る相手としての先天の自己領域。』 タ。

--次に己の心の先天領域

先天構造が己に乗らなければ己は何もできませんが、先天を知る己はまだいません。

そこでは先天と同じ構造になければ先天は主体に載れませんので、先天は先天主体を創造にかかります。

主体自我というのはこのように全く受動的につくられたもので、自己主張とか自我とかいうのはおこがましいものです。

しかし先天が主体側をつくるといってもその材料は自分自身しかありません。

つまり先天の剖判によって主体側をつくります。

先天構造には既に創造の力動因が含まれていますから、それが自らを打ち立てるべく主体を形成します。

自らにある創造動因となっているイザナギ・イザナミをいざなって独立することを薦めてきます。

ギミのミコトは創造意志の動因の主客ですので、自らは形である客観手段を持ちません。そこで先天の提供するものは自らの実体構造です。その形を提供して自由に使ってくれというわけです。それは象徴実体としては五層のアイウエオの柱で地に突き刺さっていて、屋上には天と結ばれる十のカツオギとなってチイキミシリヒニイ㐄の創造意志の働きを実体側に伝える構造になっています。

伊勢神宮はその構造自体が精神意識の構造を示すように造られていて、そのため唯一つ神の在り方を明かすための作り方として継承されています。つまり、頭脳の機能を模写して型取った、こころ・精神意識界(たかあまのはら)の物象化で、頭脳中枢に意識の運用法を記した鏡があります。高床式倉庫の建築様式にしてしまっては何の神(心)道の意味もありません。

こうして先天は各人に載り・宣り移りそれぞれの主体を形成していきます。子が父母から生まれるといっても第三者として独立した存在になるように、ここで生まれた主体側は自分の領域という第三者をつくるという形となって現れます。(オノコロ島・領域)

良くも悪くも主体の誕生です。

先天が己の心の領域(オノコロ島)を産み、今度は己の心という領域内で活動を始めます。先天の活動場が各人おのれの心に成りました。

しかし己の心の活動が各人各様に勝手に働くのではありません。外見だけを見ていくと勝手な自己だけの主張をしているようですが、全ての言葉の表現は一般共通性の上でしか話されていません。これは古事記ではヒルコとアワ島でしめしています。ヒルコの一般共通性が通用しないと言うことは他言語間同士の会話みたいなものです。

主体の活動の拠点(心の御柱)ができたので、主体の活動が始まり、一般性共通項目を共有させるヒルコを創造して心と事の普遍性領域ができる(淡島)ができました。そうすると今度はこのヒルコ・アワ島の上に載った自己領域の個別性を主張できる十四島ができます。

前半八島は心の要素の個別領域で、後半は運用領域です。

島は締まりのことで、十四の締まりはそれぞれ独立していきます。こうして先天構造は進化変態を繰り返して、心の十四の領域になりました。

つまり「タ」と言おうとした心はここでは十四の独立した領域を持つということです。(十四島は「神々の宝座」参照)

先天に「タ」と言おうとする構造があっても、言う人間がいないことには言葉が発声されません。そこで主体の先天とそれが活動できる自己領域ができ、そこで今度は活動の中身が出てきます。

ここから、先天が主体で自己が客体であった関係ことから転換が起きます。

先天から見て客体側にいた自己に活動領域与えられましたので、そこに立って自己を主張します。こうして主体が出てきます。

--次に〈アワ〉-----------------------

ここに主体ができるということは同時に相手側客体も現れたことになります。心の先天の自他ができて、頭の中で何かが始まった・瞬間が始まった・力動が起きた等々の先天が、自己主体(己の心)の領域に載ったことになります。

こうして「タ」と言おうとした心は「タ」のいつのどんな何を「タ」にして言い表すのかに、その地盤ができたことになります。己の心に先天の構造に対応する領域として、一般性と自他性が主体内にでき、客体世界を反映できるようになりました。

こうして現象となる「タ」を発声したときに含まれている実体内容の出所ができたことになります。

--次に実体要素を扱う---------------------------

まずは実体内容の要素です。冒頭の十七の神名で示されていて、実体世界の主客(母音半母音)と精神働き世界の主客(父韻)です。

「タ」と発音したときにはそれがどの次元のどういう気持ちのものであるかとして出てきますから、それらの全てが予め備わっているものとしてあります。

【あ】先天実体母音半母音側として。

ウ・五感感覚からする心(タ)の次元。

ア・感情情緒からする心(タ)の次元と、ワ・その受容する側。

オ・知識記憶からする心(タ)の次元と、ヲ・その受容する側。

エ・選択按配からする心(タ)の次元と、ヱ・その受容する側。

イ・創造意志からする心(タ)の次元と、㐄・その受容する側。

先天働きの父韻側として。

チ・心(タ)がそのまま今現在に現れる働き。

イ・現れた心(タ)がそのまま持続する働き。

キ・心(タ)を既得の自我に掻き寄せようとする働き。

ミ・既得の自我に心(タ)を結ばせようとする働き。

シ・自我(タ)の内容を判別して選んで収め静めようとする働き。

リ・自我の判別した内容(タ)を拡げ発展させるような働き。

ヒ・内容表現(タ)が自我の表面宇宙に完成していく働き。

ニ・物事の現象の種(タ)が煮詰まり成る働き。

先天の親韻として。

イ・父母の能動韻となってタの意志の発動の原動因。

㐄・父母の受動韻となってタの意志の帰還の原動因。

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