12 今現在論

今現在論

はじめに。

限りなく変転し動いていく時間を相手に、書き記し固定するのは矛盾したことです。動いていく世界を固定した言語表現で示そうというのですから、これ以上おかしなことはありません。人間は考える葦であるというのは、弱いながらも考えることが出来るのが人間ということではなく、風に逆らわず簡単に折れるならそのように考えるのが人間には出来るということでしょう。時間が動くというのなら、当然動くその通りに書き記さねばならないでしょう。

今現在論も時間論の中の一つとなるものですが、無限から無限への時間が今現在の中に現れるところに、何を主張したところでちっぽけなものです。今散る桜があるのなら、その舞い散る桜のようにここはひとつ風に乗ってしまいましょう。

今現在論の構成目次

①ア・ウアワオヲエヱイヰ、先天構造

一)先天構造。 【天地の初発の時 ~ 伊耶那岐・美の命】

ア・ウアワオヲエヱイヰ、先天構造

アワ・ウオヲエヱ、在り様実体後天現象

イヰ・チイキミシリヒニ、生き様働き

二)おのれの心の領域。 【ここに天津神諸々の命もちて ~ 両児島を生み気き】

②アワ・ウオヲエヱ、 あり様実体後天現象

一)後天現象要素。 【更に神を生みき ~ 火之迦具土の神】

津島タトヨツテヤユエケメ (おのれのこころの先天からイメージ形成へ。こころのイメージ形成)

佐渡島―クムスルソセホヘ( こころのイメージ形成からイメージの物象化へ。イメージ造形化へ)

大倭豊秋津島―フモハヌ・ラサロレノネカマナコ(こころの対象化から客体化へ。こころの客体化)

③イヰ・チイキミシリヒニ、いき様働き

一)チ・整理。初期規範。 【金山毘古 ~ 豊宇気毘売】

二)イ・父韻。主体活動。 【泣沢女(なきさわめ)の神。】

三)キ・主体的規範の模索とその表現。 【比婆(ひば)の山 ~ 天の尾羽張】

四)ミ・主体の創造した客観世界。 【黄泉国 ~ 伊賦夜坂】

五)シ・主客の統一止揚準備。 【伊耶那岐の大神 ~ 飽咋の大人の神】

六)リ・主客の統一止揚。 【奥疎の神 ~ 辺津甲斐弁羅の神】

七)ヒ・禊ぎ祓え、理想的な規範の創造。 【上つ瀬は速し ~ 墨江の三前の大神】

八)ニ・吾の眼の三権分立。 【左の御目を洗ひたまふ ~ 建速須佐之男の命】

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①の一)(先天規範)

「今」があると感じるなら「今」を感じる予兆があるからです。まず初めに「今」の先天の構造を明かします。

①の二)(おのれの心の島・オノコロ島)

「今」の予兆の構造働きがあっても「今」を感じる主体が無ければ何も起こりません。そこで「今」を感じる主体側の構造を明らかにします。

②の津島、佐渡島、大倭豊秋津島(言霊現象要素)

その上で「今」の予兆と主体の働きが加わり一連の「今」が主体内で形成されていきます。その様子を明かすと同時に、そこの主体に「今」の現象要素が創造されますのでその過程を明かします。

③のチ)。(主観規範と客観一般規範の成立)

主体の「今」の現象要素は要素として創造されましたが、整理運用活用されねばなりません。それに関わる主体の整理や演繹帰納等の運用適用の過程が明かされます。 ここに初期の一般的主観的な規範が成立すると同時に客観一般的な世界も成立していきます。(一般的にしか言わない蛭子淡島に対応)

③のイ)。(父韻。主体活動)

二)イ・父韻。主体活動。 【泣沢女(なきさわめ)の神。】

③のキ。(主体的規範の模索とその表現9。 【比婆(ひば)の山 ~ 天の尾羽張】

③のミ。(主体の創造した客観世界)。 【黄泉国 ~ 伊賦夜坂】

③のシ。(主客の統一止揚)。 【伊耶那岐の大神 ~ 飽咋の大人の神】

③のリ。(主客の統一止揚)。 【奥疎の神 ~ 辺津甲斐弁羅の神】

③のヒ。(禊ぎ祓え、理想的な規範の創造)。 【上つ瀬は速し ~ 墨江の三前の大神】

③のニ。(吾の眼の三権分立)。 【左の御目を洗ひたまふ ~ 建速須佐之男の命】

(黄泉国・客体世界への主体規範の客体への適用)

運用されるものは客観的に「今」自身を主張しますから、どのように主体側の態度で関われるものかその構造を問います。

6。(主体規範を用いた精神の禊ぎの準備)

主観的な「今」の規範をもってしては主客の溝を超えられないので、主体規範の運用を放棄し止揚する方法を探ります。

7。(三貴子)

ここに心の禊ぎ祓えを完成し理想の「今」とは何かの自覚的な思惟規範が創造され、「今」という規範の客体側の一般性規範が主客の統一された姿になり止揚されます。こうして「今」の実現に向けて「今」の歴史創造、自己創造に向かいます。

原理の運用の歴史。

以上は文章となってしまった目次で、古事記の神代の巻冒頭の順序通りのものです。よくある温故知新式の既知の論考を紹介したり不備な点を指摘してから進んでいく段階は、5章の黄泉国にありますが、本稿では既存の主張は取り上げないつもりです。そのような一進一退を繰り返して進歩したような感じを得ることを目指しているのではなく、原理的に自覚された理想の規範を得ようとするものです。

「今」を時間的な長さでみると「今など無い」という意見から、「あっと言う間の瞬間」、「まだなのー」を経て無限に「今」が続くまで様々です。つまりここでは主体側が得る「今」を取り上げるので、時間の単位を客観的に計る「今」とか光速と比較計量する「今」とかを考察するのではありません。客観世界に出来上がる計量規範ではなく、主体側が持っている規範の原理を探ります。

「今に見ていろ私だって」と言いながら二十年が過ぎることなどざらにあり、その場合はこの二十年間の「今」は一瞬たりとも過ぎたことがありません。今か今かと待ちわびて、今が永遠に続くこともあります。

それらは主観的なことで人それぞれ相違するのは当然でと、他人事のように済まし客観的な「今」を探しまくるのではなく、ここにこそ「今」という心の原理を見いだそうとするものです。そして主観的な思いの中にしか今は無いし、実は客観的な今も人が作ったもので、逆にその今に縛られてしまうのも人の性(さが)であることを、原理的に的に明かそうというものです。

原理的などといいますが、それを含めた主張は各時代に無数に提出されていきます。切磋琢磨されてより真実に近づくのか、最初に原理を得て玉石混合の出所を了解するのかの違いがあるでしょう。古事記の神代の巻は八千年前以上に完成している完璧な心の運用原理論ですので、この論考は後者を選択します。(記載された時期と原理の完成とは別のことです。)

では何故人類に完璧と称する原理が残されていないばかりか、論争殺戮し合う状態なのでしょうか。それは人の成長を見ても赤ん坊には言葉が話せないし、欲望に任せて幼少年は動き回るだけだし、青年は理想を主張するだけで、誰もがその成長状態を経ていかねばならないからです。その流れは歴史にも当てはまり、現代の青年期を脱して成人する歴史の時代を待つためでした。

現代以前に心の運用原理を与えても豚に真珠であり馬の耳に念仏で、物質産業社会を制御できません。古事記の原理を創造した古代スメラミコト達の集団は人の社会と心の動きを観察して数千年の未来を見据えました。産業生産力のない古代の人類の精神の時代に原理を与えても使い切れません。主体側が自由に振る舞える客体側の条件を考慮出来るようになるには生産力の勃興する数千年の時間が必要でした。まずは産業経済を起こすことでした。

ついで豊かな社会を維持するための青年期の理想が出現してきますが、産業経済社会の上に乗ってしまっているその悪癖短所に捕らわれていますから、主体側の理想へ向かう意思はその奴隷として働かされています。そこでは主張だけがそれぞれ一人立ちし、相互に戦い合う現代の諸相が出現してきました。下部構造に乗ったままの主張ですから埒が開きません。その反対に精神世界だけで何とかなる思いなども出てきます。

こうして物質世界と精神世界の無自覚な準備が整っていきますが、われわれ人間主体側は主体的な意思を持って「どうしようかこうしようかこれはどうだろうか」という全世界全人間界に向けた方策は持ち合わせていません。精神世界からの主張提案も、物質世界からの提言もその場しのぎ以上を出ません。これは脱皮しないままで蝶に成って飛び立てると思っているからです。

物質産業世界の相互作用の動きをそのまま精神界に当てはめて、心の次元が上昇するように勘違いしています。現在この混沌とした世界を超えるには、主客の世界を共に脱皮して主客の統合された新しい蝶になることが必要です。古事記ではそれを禊ぎ祓えといいます。水行や精神修業のことではありません。

古代大和のスメラミコトには人類の理想世界、その動きは分かっていましたが、数千年先の「今」はそのときが来るまでは実現しないのでした。

その時が来るまでは人類にはどうせ使えない原理ですから、明かす必要もないものですが、かといって数千年後のために残しておかねば、せっかくの人類の秘宝が消えてなくなります。そこでとられた方策が文章としては謎々の形にして残しておくことでした。それに朝廷の各役所から異文書の形で現在では偽書としてとられるような多くの分野にまたがる文書を残させました。神代時代の記載された文書と神代文字はびっくりするほどまだいたるところに残されています。それらのすべては「心の原理規範」として共通していますから今後その一点から見直されものです。

さらに用意周到なことには、一般大衆には祭りや祀りや政事(まつりごと)をしていく日常が心の原理(古事記の原理)を実行している事であることが、来るときには分かるように作られました。それらを補完するものとして、行事や季節の変化毎に行う文化活動にその原理は古事記の原理と同じものを使用していることが後にわかるように仕組みました。神道と皇室には意味内容を明かすことなく、多くの表徴を直接残させるようにしました。

そして何よりも最大最高の謎々の仕組みは、大和の日本語の言語体系を心の運用原理に沿って作り上げてしまい、誰もが知らず知らずのうちに通用する言語としたことです。数千年間の言語の変化は凄いものですが、日本語のみが世界の言語と共通共有性と異質独自性を持ち他言語との比較研究が出来ません。その理由は簡単で、心の生成発展運用通りに大和の日本語が自覚的にスメラミコトによって完璧に人工的に造られた自然発生でない人造語だからです。

五十音図は既に八千年以上前に心を表現する運用規範として完成していたものですが、現代の国語学はそれを認めようとしませんがそんな主張も今しばらくの命です。その時がくれば、中華思想の原理が古代の大和から出てきたものであることも一緒に分かるようになります。同時に物質産業文明の牽引役としてスメラミコトはユダヤのモーゼに命じておいたことも分かるようになります。

いよいよ諸方面の精神物質文化文明が一時に花咲く世界が用意されつつあります。あちこちの分野でその先駆けの感情が表出されつつあり、世界的に浸透しつつあります。その表現は未だに無自覚未文明的な表明方法しか知りませんが、それは改善されず混乱は続きます。何故なら自覚的な禊ぎ祓えを通過しなくてはならないからです。

そして現代、最後の一線を超える直前に近づいています。古事記の冒頭五十神(言霊五十神)の終わりごろにある名前を見てください。狭霧、闇戸、と惑い、と神の名前が続きます。誰でもの自分がすることが終わりに近づき最後の一線を超える直前のそこで得る心理を省みたときが述べられています。そして丁重にも、鳥の心持ちで飛び越える現実界を引きずった船という比喩が用いられています。それが無事通過すると、輝きという名の神=自分の誕生になります。そこが五十番目です。

現代は精神的に物質的に巨大な船舶が鳥となって飛び立つ直前にあります。

ところが面白いことにこの船には船長がいません。鳥には眼がありません。古代にはスメラミコトがいましたが、現代に眼となり船長となるスメラミコトがいません。実はスメラミコト自身によっていないようにされてきました。古代スメラの血統と古事記の秘密の伝承を保持した方はいますが、古事記の秘密(謎々)の内容を知っている様子が見えません。つまり古事記の冒頭に示された通り物質的要件、大量に荷物を積んだ船舶は先に用意されつつありますが、精神側の準備ができていません。

対象となるのは世界全体です。多くの分野で地球全体世界全体が一つの物理的な関係を持っているようになりましたが、精神界では未だに一国の中で狭霧、闇戸、と惑いを繰り返していて、国単位を出ようとしません。現代では、空飛ぶ巨大な船舶とは世界のことですから、船長も眼もないままで済ますことは出来ません。理想の世界を語るだけの現実の力を持つのはスメラミコトしかいませんが、世界にはその方は未だに姿を表していないことも確かです。各宗教界の長たちの無力を確信しているやつれた顔、事件の後をフウフウいいながら追い掛ける国連総長、一つになっている世界なのに自国一国しかないという無理した論理を押しつけ苦労する各国の指導者たち、これらは全て脱ぎ捨て投げ捨てられる者たちです。

スメラは一人で世界を裁量するのですからたやすいことではありませんが、現実界では既に一人で(一物で、一概念で、一欲望で、等々)世界を領導している分野がありますし、またそのように全体となる一に向かって進んでいきつつあります。例えば誰もが情報を得たいという一つの概念を描くようになっています。そして現実的には情報を得たいという観念がスメラミコトの代わりになってしまっています。ところが実態的には自由競争の名の元に複数が覇権を競いあい、そこには一国単位などという古めかしいことなど言っていられる暇はないほどです。その実体分野の頂上にいるのがお金という名のスメラミコトです。

では精神分野の頂上にいるのはなんでしょうか。それは世界を領導治める概念です。その実態的な現れは軍事となり、軍事概念を保証するのが一国主義です。誰もが戦争で人を殺し合うのは馬鹿らしいことと分かっていますが、ある一国に住んで他国との違いがある以上戦争はなくなりません。世界が地球国になれば軍隊も戦争も無くなり、国連などと言う余計な組織も要りません。スメラミコトは地球国を治めねばなりませんが、その前に地球国を一つに導かねばなりません。

この傾向は物質世界、科学情報知識、交通通信分野に顕著です。その世界ではすでに世界は一つですが、世界を治める精神指導規範がありません。その時その場の発見発明思いつき夢の実現の偶然に任せきりで、ヒットすれば一時の勝者となるだけです。持続安定した発展となるものではなく、心の望みがひっくり返ったり裏切られたりすることもあります。

こうして世界の脱皮は近づいていますが、精神事業は自然の進行とは違うので自動的に精神次元が上昇するとか脱皮となる禊ぎ祓えが誰にでも起こるというわけにはいきません。

「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」と、大いなる決断決心が要ります。

今何かをしようとするときには、常に何かしらの決断が伴います。

「古池や蛙飛び込む水の音」で静寂が破られたのではありません。静寂を破る現象を得る方向ではなく、蛙が飛び込む以前に小石の上にたたずむ姿を自分に置き換えた時、世界は一変したのです。水に濡れたから決断が実行されたのではありません。決断の姿は既に見えたのです。蛙は飛び込む前に大音響を奏でていたのです。芭蕉はこのようにたたずみ水面を見つめたときに先天の音を聞いて先天の実在を確信したのでした。この歌には多くの解説がありますが、それらのどれでもが生まれるのは先天の力動因が読者を突き動かしていたからです。

さて、第一章です。

1。(先天規範)

「今」があると感じるなら「今」を感じる予兆があるからです。まず初めに「今」の先天の構造を明かします。

古事記は面白い謎の言い方でこのことの初めを述べています。「天地(あめつち)」のことです。これを「てんち」と読ませません。伝統的に、古代大和時代からこう読むと決まっていたからではありません。

ちょっと想像もつかない述べ方ですが、八千年前には決まっていました。何がといえば、古事記は千三百年前に書かれたのですが、その思想原理は八千年ぐらい前に遡りますので、表記とその思想とは別のものです。その古事記の思想に関わるものです。

「あめつち(天地)」を読みくだすと、

吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す

になります。意訳しますと、

自分(吾・あ)の意識(め)を持って相手対象と共に(つ)智恵の行為(ち)をしていく、

となります。蛙が飛び込む前に秘めていた思想です。

この論考は古事記の心の原理としての思想に沿って「今現在論」を扱いますから、古事記解釈の常識となっていることとは大いに異なるものです。このような角度からこんな新しい解釈も出来るということを提出するものではなく、心の原理上こうでしかないというものを記すものです。こころや考え方がいろいろなのに何故そんなことができるのかは、誰も彼もが知らず知らずのうちに一つの原理の上に乗っているから、相手の相違や同一さが理解できるのです。

結果現象として意見を提出していくのも結構なことですが、それが可能なのは誰にも同じ原理があるからだということを示すためです。その原理教科書は古事記の神代の巻の冒頭百神です。百神を語り終えると「今」も語り終えるという構成です。「今」はこの百カ条を語り終えないと、瞬間と感じる今もまだ来ないと感じる今も共にまともな「今」とはなってこないのです。

古事記は抽象的象徴的な用語使いだということは序文で断られています。うまく現代語に直し、意訳ができればいいのですが、出だしの一語からしてこんな調子です。安万侶さんとにらめっこをしながら進めましょう。

原理次元で理解できれば、解釈のし放題の方向も、理解のし勝手放題の心持ちが分かり、証拠があるとか、文献がある、知識がある、伝統がある、多数がある、とかいっても、どこでどのように変換して使用されているのかが、つまり一連の百神の経過のどこからはみ出したものかも分かる筈です。

古事記の百神というと大変なことのように思えますが、「今」の一瞬を百カ条で語るわけですが実は、吾の意識(あめ)を百にして語ったもので、百のそれぞれの間隔を埋めていくことを指しています。その最後にくるのが吾の間を照らす神、吾の間を全部照らし終わったあまてらす、天照す大御神というわけです。古事記はこのように吾(あ)で始まって我(あ)で終わる一循環を述べたものとなっています。

「あめつち・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す」、この一語で古事記は全部語り尽くされていますが、それでは解説になりません。しかしこの一語は常にいつでもどこでも貫徹していく一語です。この論考で原理だといって書いていますが、実は原理を出汁にした私の吾の眼を語っているわけです。それが単なる主観的な思い付きでないことは原理が保証してくれていますが、語り口は個人に任されていますからそこには不備や出鱈目いい加減なものが混じることもあります。しかしそれでさえも一般原理となったものがあるお蔭で、どういったものであるかの判定を自由に受けることができます。原理とは離れたところからやってきた新見解とか新発見に基づく新しい推測だとかに心を奪われることはないのです。

「あめつち」を銀河宇宙としても、各人の意識としても、それらを言う人の吾の眼の事を言っていることに変わりはありません。各人はそれなりに自分の限界まで吾の意識で語ります。片や銀河宇宙で片や自分のことです。しかし、この両者を通して吾の眼があり働いていることに変わりがないから原理となることができます。宇宙であろうと自分であろうと吾の眼を付けることで始まることです。

一方はでっかい宇宙を思い、一方はちっぽけな自分を思っているというのではありません。「思っている」という吾の眼の行為は宇宙にもなれるし極微にもなれるのです。これが吾の眼の正体です。宇宙にしろ自分にしろそこにあるのは考えや思いが吾の眼となったものです。それぞれの心の宇宙が吾の眼となって現れました。ある人はそれを神話で語り、ある人は宇宙学で語り、ある人は想像で語り、ある人は古事記を読み解く形で語るということになります。そこにあるのは全て吾の眼を付けることです。

語られる現象が各人それぞれ違ってきますが、そこにある吾の眼(自分の意識)を語るということは原理として不変です。そこで普通は、語られた事をやりとりするので、取り違いすれ違いの誤解が起きます。人には主張する欲や主張を所有する欲があり、それらは現象となったものに関わる形をとりますから、自分の持つ現象(言葉)の縄張りを主張します。みんなすっかり原理としての吾の眼を忘れて無視していくからです。古事記の冒頭はその原理だけをつづったもので、誰にでも共通です。ですからここから、古事記から出発すれば何も間違えは起きません。ただし、持ち合わせてしまった意見考えを放棄することが前提です。古事記は意見主張というものは黄泉国を潜ってきた汚いもので、禊ぎ祓えをしないと使えないと言って、その原理方法を提供しているだけです。

これは世界人類の秘宝です。それがために、神道、皇室に少なくとも形だけの秘儀を残させておきました。当然、形は形として受取られ理解され、形の整理分析に向かってしまいます。しかも内容はわざと分からないようにしてしまったのですからなおさら形にこだわることになってしまいました。

そこで取られた数千年後を見通した方策がまたもの凄いことです。

つまり、形を見れば内容が分かるようにしてしまったのです。

こんな物の創造の方法は大和日本にしかありません。

それは、大和の日本語の言語規範が内容を表すように造られているからです。言霊、ことだまではなくコトタマであるからです。

われわれの手にしている五十音図そのものが、大和であり、神道であり、天皇皇室であり、日本の行事祭儀であり、生き方考え方であり、感じ方、等々生きることそのものなのです。これは説明されてそうかと納得してもらうだけでは面白くありません。そうした同意は相対的な流れさるだけのものです。各人の追求の果てにたどり着かねば、黄泉の坂をまた転げ落ちていきます。

さて、この五十音図を一言で表したものが「あ」です。「あ」を使用する主体側が吾(あ)で、その関わる相手側が「わ(我・あとも読みます)」です。その両者を生きる営みの「い」で結びます。あいいとしい思いで第三者となる創造された現象である子ができます。それが形として固定しますと「ん」と納得されます。

どのような主張考えもこの五十音図から出ることはありません。音図の両側の柱となっているあ行わ行をい段が飛び交い両者を結ぶと、鳥居の形になります。古事記の冒頭から勘定して四十八番目に鳥之石楠船の神がきて、狭霧、闇戸、と惑いと続いた後に鳥居をくぐると、自分で思っていたことに名前が付いて、事物がはっきりして子(音)現象ができます。生まれた子音を抱えて拝殿に進みます。横から見ると口を開いた鈴を振り音を出して子音の運用が正確に行われるように手を打ちます。神様を拝んではいけません。祈る、いに乗る、のです。鳥居の両柱を「い」が鳥結ぶように、いに付くのです。手は十本の指を二回打ち二十になります。二十は五十音図の濁音の付けられる音の数です。濁音は過去から持ち来らされる今現在の姿を表します。過去から現在への言葉の運用生き方に間違いが無いように祈る象徴です。無事に済めばあうんの獅子と一緒に出ます。獅子は四四で十六、自分を含めると十七、口の中に玉(言霊)を持っています。十七は古事記の冒頭の十七神のことで、これが心の先天、人間の秘密を秘めた神々の総数です。

(菊の紋章も各人が中央に入って自分を含めて十七になり、人の先天構造を示しています。神武以降物象となり表徴を負わされた皇室は、先の敗戦を契機に、古事記の神話とは関係ないといってしまいました。神話と縁を切れたのは結構なことですが、神話の内実とも手を切っているようにみえることは実に残念なことです。皇室では昭和天皇においては意味が分からなくても伝統秘儀が継承されていたのは確かですが、現在においてはニュースが少なく伝わって来るものがないようです。皇室の秘儀は全て五十音図を運用する(世界を運用する)ための暗示であるはずです。世界朝廷のスメラミコトが出現するまでは続けて欲しいものです。)

この《今現在論》の第一章は「先天規範」としてこの十七神をまず扱います。

古事記の冒頭です。

【天地の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、

【言霊ウ】天の御中主(みなかぬし)の神。】

神々が次々に生まれてきますが、話の一段落する三貴子までを数えるとちょうど百神です。次々に生まれる神を勘定すると前半の五十番目に区切りがあります。づらづらと神名が記され五十で途切れます。

五十一番目からは神々の働きいきさまや実体ありさまを示す象徴の言葉が付け加わっています。その働きにけりが着いたところが三貴子の天照すで、やはり五十をもって終了し、別の話に移ります。ここまでが心の精神原理です。

そしてこの前半五十神がアイウエオの五十に相当します。各五十の語感音感とそこから探られる実体物象像とを古事記の神名と比較しますと、神名が各単音を説明象徴暗示していることが分かります。それが可能となったのは明治天皇時代に皇室の賢所で見つかった古文献によります。(公表はされていませんが古事記の言霊学において知ることができます。)

例えば先程引用したと惑いという名の神様がいます。「大戸惑子(おおとまどひこ)の神。次に大戸惑女(め)の神。」です。八百万の神でどこにでも神がいて道に迷う神がいてもおかしくありませんが、心の原理から解くと驚くほどぴったりかんかんに命名された神さんです。名前を付けられた子音が創造される直前に出てきます。これを心の運びで見ますと、何か事を決めてこうだこうしよう、それはこういったことだ、こういった名前を付けようとする直前に出てくる心の動きです。

心的にはこうだと決心していますが、体的に自分を表す時その直前に起きる戸惑いを指します。これはどの次元どの場面にも起きることで道に迷うことを指すのではありません。この二神を言霊で表しますと、言霊 カ】と【言霊 マ】で、二つで混ぜかき回す釜です。心の中を釜の中でかき・まわすようにして、心を表明する時に現れます。精神的にはなんであるかどうするかは復唱されていますが、その心が物象に宣(乗)るかどうかというほんの瞬時によぎる不安です。決心時の心に必ず着いて回るものです。心の側では何をどうするかははっきり明らかにカッカと照らされているカッと明るい言霊カで、体側では心に光と霊があれば、物象側には必ず影、後ろ、闇側ができますから、カッと明るい言霊カで物象側の間を照らして明かすことができるかどうかという、不安が出てきます。それが間・マです。幾部屋もあるお寺の居間を通過するときによくおきる不安があるでしょう。駐車するとき間・マの取り方でも戸惑いがあるでしょう。

このように単音に実在する心の内容が言霊ですから、巷で言われる言葉の力というものではありません。つまり古事記で言えば、最初から記載されたそういった名の神がいるということ、ある単語の言葉の力、等を示してはいませんでした。古代スメラミコトの用いた方便として用いられた神を知ることが単音の言霊神を知ることであり、それは言葉を知ること、言葉を駆使する心を知ること、言葉を使って民を統治すること、創造された言葉という物質文明を豊かに運用することでした。

ですので「今」といえば今が出現するという言霊があるということでも、良い今と悪い今があるということでもありません。古事記の言霊では「今」というのは「イ」の「マ」のことで、中華の間という漢字を借用すればイメージし易くなりますが、中華の言葉には実体内容が欠如していますから、よく占いとか遊びでしているよう漢字の当てはめでは古事記で言う言霊にはなりません。イマのマは間を借用すれば五十音図のイ段、チイキミシリヒニのそれぞれの間を天の鳥船が行き交うということになります。

ここではまず、先天の「今」としてのイの間を扱います。

先天の「今」というと何か矛盾した響きがあります。今なのに先天とか後天とか言われると今の内容に相応しくない感じがします。

「今」に先天とか後天とか持ち出すと今とのギャップを感じますが、この違和感は「今」を既に何かある種の判断でこういうものだと主張しているところからきます。

結局、今と聞いて違和感を得るというのはそこに既存の今の判断が成り立っているからです。つまり違和感を伴った吾の目があるということです。そこで違和感をもってしまえば最後までそれが付いて回ります。なぜならそれがその人の先天となっているからです。要するに違和感にしろ同感にしろその人には「今」の先天がくっついて来るのです。

とはいいましても実はこれは先天ということではなく、既得の経験概念知識なのです。既知の概念が先天の場を占めて先天に取って代わっているのです。先天は経験できず、知覚できません。出来てしまっているものは後天ですから。

つまり、経験も出来ず知覚もできない先天を記そうというのです。そんなことはとうてい不可能なことですが、世界で唯一可能なのが古事記の冒頭を真似る事なのです。その原理教科書であるために古事記は人類の秘宝となっているのです。今では言霊学と言っていますが、昔はフトマニと呼ばれていました。こちらは今では占いを指すものとなっています。フトマニは二十真似(ふとまに)のことです。二十の意味は鳥居のところで少し書きました。こころの二十を真似て形に現す事がフトマニです。占いになってしまったのは、占いは裏合いで、裏とは心、心の中のことで、それを物象に合わせあてがって見るところから、転用されました。知覚できない先天世界を物象化するあの手この手です。

神秘経験、見神、交流等色々あるようです。神さんもいろいろ手助けをしてくれて自分を示しますが、神でさえ先天を示す事までは出来ないのです。神々は先天の前では無力です。先天は神々を超えたさらなる奥に控えています。古代大和の時代にこの先天を説明しきってしまった事は、人類の超える事の出来ない、神々を超えたスメラミコトの驚異なのです。その余韻があまりにも強烈なために、わけも分からず形だけを残していく事を強制された運命の家族さえいるのです。スメラミコトの系譜は非常に早くに成立していて、単なる武力権力では説明のつかないものです。

現代の私たちには真似する事だけしか出来ません。なるべく多くの真似事を大和日本のみなさんで作り上げましょう。

ところで今、先天を真似しようとそそのかしていますが、人は何故真似することが出来るのでしょうか。

そこに先天がありますといったら、先天は知覚されないから先天なので神でさえ示すことの出来ないものを示すことになります。つまり古代大和のスメラミコト達は神々を超え、それを我々に分け与えようとしています。われわれはそれを真似することで神々を超えてしまうのが誰でもの普通のこととなっていきます。とはいっても最近流行の次元が上昇するなどというような棚からぼた餅が落ちてくるわけではなく、良い言霊を使用すれば良くなくということでもありません。

古代スメラミコトが心の先天だといって古事記を残してくれたものだからこうして先天を考えていますが、もともと考えるものではないので埒があきません。そこで真似するしかないというわけです。しかし心の悪い癖で「先天」という言葉があるとそれに心が囚われ、どうしても探さないと気が済みません。それを黄泉国に落ちるといいますが、良いほうに解釈すれば科学的に発展するとか、客観的な視点が豊かになるとか言えますが、主体側を忘れることになります。

ここで一休みして反省すると面白いことが見えます。古事記の冒頭は心の原理として出来上がっていて、われわれ大和の日本語の運用原理となっています。物心付く前から聞かされ育ってきました。いまここで真似るのだといっていますが、その物真似の原理が先天の原理そのものなのです。真似ようとする頭脳に先天原理は乗(宣)り、それは同じ形でイメージとなり、そして代々教えられた大和の日本語に同じ形で表出され、同じ形で言葉として伝わり、同じ形で相手方に理解され、同じ形で了解されます。了解されたものはどこへ行くか? 先天に戻るのです。宇宙世界に戻って縁ある次回を待ちます。

真似する意思の動因なるものが先天の力なのです。後天として形に現れた形そのものが先天となっていたのです。

赤子は乳に向かって探りを入れるしぐさをしてその後に吸い付きます。これは欲望のなせる技である以前に先天のお蔭です。欲望ならば乳房を食べたり噛み付いたり摘んで口にもっていったりするし、乳房を意識した後はそのようになります。朝眼を覚ました直後には自分の室内の様子も分からない一瞬の混沌を通過した後に覚醒します。視覚とか光とかの生理生物的な作用で物を判別しますが、それに到るのは先天のお蔭です。文章を読むときも読むことに気を取られていますが、読み始めの直前に文字と自分とを確認するようなほんの一瞬の流れがあります。文章を読むのだけど読むのとは違う意識の構造体を通過し、読むことが出来るような瞬間を経験していきます。

「今」と言うときも今を言った当人に解説させれば十人十色ですが、色付けを排して論理概念で今と言うにしてもその今にまといついた記憶してきた概念まで排することは出来ません。ここでも「今」というときに自分の言う今の所在を確定するための戸惑いが一瞬起きています。

どのような例をとっても同じです。例の取り方は現象となる直前のもので、これらが先天構造といわれるものと同一なら、現実を見て先天が見えるということに近付きます。狭霧、闇、と惑いの名前が連なることは既に見ました。これは現象子音の出てくる直前ですので、これと同じことが先天の神名に見つかればいいのです。

そうすると実に、十七の先天神の終わりに、子音の出てくる条件が全部揃う直前にやはり、【於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神】という対になっている神に出合います。

【言霊ヒ】於母陀流(おもだる)の神。次に

【言霊ニ】妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

おもだるを例によって書き直すと、面足るで、おもてをあげぃ、といわれて顔をあげてハッと気がつく「おも」があります。阿夜の見えない夜の内面に賢いあるいはかしこまる音(ね)が煮詰まるで、おもがたる以前の期待と不安があり、怪しい夜の暗闇に確かと思える音を聞きます。

要するに人の先天活動の性能の中に既に不安と闇は折り込まれていたのです。

古事記の冒頭に「今」をそのまま当てはめて見ます。

天地の初発(はじめ)の時、 「今」を思おうという意識が始めて起きるとき

高天(たかま)の原(はら)に成りませる 精神宇宙界に出来てくる

神の名(みな)は、 今の心の働きと実体(いきさまとありさま)は

天の御中主(みなかぬし)の神。 心の宇宙の今現在の主と成る神

高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 今の心の働きの全体を高見から司る主体の性能

神産巣日(かみむすび)の神。 働きを噛み合わしてその今の全体を結ぶ客体の性能

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に これらの性能は独自にあり

成りまして、身(み)を隠したまひき。 先天として実在している。

次に、国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の 今を考えようと心の組合せの働きが若く地につかず

如くして水母(くらげ)なす漂へる時に、 暗い気の漂う時に

葦牙(あしかび)のごと萌え騰(あが)る物に 葦の芽のように、次々と吹き出すようなものに

因りて成りませる神の名は、 よって成るり出てくる今は

宇摩志阿斯訶備(あしかび)比古遅の神。次に 今の知識概念、記憶、こころの客観実在そのもの

天の常立(とこたち)の神。 今の知識概念、記憶経験の主体側を司る働き、

この二柱の神もみな独神に成りまして、 記憶そのものも記憶しその連関を考えることも

身を隠したまひき。 それぞれ独自に存在している

国の常立(とこたち)の神。次に 今をどう扱うかの按配、選択の主体側の働き

豊雲野(とよくも)の神。 今をどう扱うかの按配、選択の客体側の実在

宇比地邇(うひぢに)の神。次に 今の全体が発出する能動韻があり

妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に 今の全体の発出を受ける受動韻があり

角杙(つのぐひ)の神。次に 今あるものを探りかき寄せ結ぼうとする能動韻側

妹活杙(いくぐひ)の神。次に 今あるものにかき寄せ集め結ばれようとする受動韻側

意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に 今の選択の働きが静まり落ち着く、拡がりの保存収縮

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に 今の選択の働きが大いに拡散展開していく

於母陀流(おもだる)の神。次に 今という火花の先端にて開く、表面に開く

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 今という火花花火の開いたところに煮詰まる

伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に 今という意思の発動、揺り動く側の創造韻があり

妹伊耶那美(み)の神。 今という意思の帰還、揺り動かされる側の創造韻がある

この十七の神が今という一瞬に先天として全部詰まっています。

前半が実体現象として現れるときのありさま、後半が働き現象として現れるときのいきさまです。

しかしここには私が存在しません。私がいない所に今を扱う実体も働きもありませんから、古事記では次の段落に主体と成る私の出現の仕方が述べられています。オノレノココロノ島、おのころ島の段落です。

そして私が創造されても私が扱うものがなければならないので、それが先天十七の働きと実在です。が、先天であって現象ではないので、私の創造された姿は先天次元で創造された私です。その先天内で私は私の十七の先天を扱います。その段落がマグアイです。

マグアイで最初の子を生みますが、私も私の材料も先天次元にあるので、現象次元へ降りてこなければなりません。その先天と現象を繋げるものが、蛭子と淡島です。(霊流子とア・ワ島、一般共通性)

こうして主体側とその扱う材料と材料の実在が一般的に用意できました。今度は現象次元へおりることですが私と材料の実在次元が確定していません。そこで島(精神領域)生みが始まります(国生みではありません)。

現象と成るときのそれぞれの置かれる領域が確定していき、その領域(島)ごとに、先天から現象へと渡っていきます。先天の私はまずイメージに渡されます。(津島) ついで物象と結びつけられ表現される形ができていきます。そして第三者という表現(物象化した蛭子淡島)となります(佐渡の島)。

表現となっても相手側に到達しなければならず、そのあとに了解されなければなりません(倭島)。

了解されたものは私と相手との間に共通性がありますから、今度はこれが先天となって宇宙空間に放たれ次の出現の機会を待ちます。こうして先天から先天へと循環していきます。

単位要素としての「今」が生れます。「今」が生れましたが、「今」というだけでどういうものかどうするものかがありません。

そこでここからは、単位要素の整理操作運用になります。単位要素は五十で構成されています。今度はこの全体が実体ありさまとなって操作運用の材料として扱われます。

要素の発生に五十神、運用に五十神の計百神を配当して呪示したのが、心の原理である古事記です。

その要素の発生に沿って五十神に五十音を配当して、あいうえおの五十音図ができました。各次元の実在世界は【独神】とある通りそれぞれ独立してますので、そのアイウエオ次元の各実在世界に沿って五つの五十音図表があります。学校で教わる五十音図がその一つで他に四つあります。

「今」を考えるのは、過去知識概念を扱う五十音図で、五感感情からする「今」を扱うのは欲望を扱う五十音図で、というようにそれぞれに対応した音図があります。私たちはこれらの音図を先天的に持っているので各次元での話や混同誤解ができるのです。しかし意識することは非常に稀ですから五つの五十音図を使い分けているなどと気付くことはありませんが、それに動かされてるのです。

今を考えるといっても、まだ子音が出揃っていませんから、ここまでの段階では五十音図は完成していませんが、実在世界の順列が、言霊ウアオエイと示されています(冒頭十七神の順位となっています。)。これは何を意味するのかといえば、吾の眼が付いて智恵となる順位です。

吾という何だか分からないものが相手対象に取りつきます。欲望です。どこから出てくるのが各自知らないのにそれに突き動かされます。生理生物学的なところまで戻っても腹が減って食をもとめるということの答えはありません。(メカニズムは欲望の内容を現しません。) ウ。

ついで欲望が形を作るとそれがその人の全体意識となります。幼い子供があれと決めたら他の物を振り向きもせずどんな説得も受け付けないようなものです。大人も同じです。それは感情的な自分の全体となってしまいますので、自分でも収拾を付けることができなくなることもあります。ア。

自分に在るものができてしまうとそれを知識や概念、記憶と結びつけようとするようになります。あるいは記憶や概念が勝手に出てきて勝手に結び付くようになり、それを考えていると称することもあります。オ。

こうして手持ちの材料が膨らんでくるとそれらをどう扱うかの選択を迫られてきます。書く上で膨らむと時間の経過があるようにしてありますが、量が増えてきたからこうなるということでありません。言霊学は単音単位ですから、ある一つが成るときにはそれが選択されるということになります。というのも複数となったからと見えるものも、その先天に複数次元を含んでいるからです。反対に一つであるものも先天の複数の現象した一つであるからです。

ということは白状すれば順列順位というものも本当は無いのです。それにもかかわらず次元の相違があります。古事記はこれを「柱」で表徴しています。伊勢の御柱がその典型として謎をかけられたまま二千年経ちました。柱というのは神霊の依代とされる神聖な柱ではなく、われわれ各自のことです。神霊の依代として理解するようにされられているだけです。忘れないで下さい。古事記は我々の普通の心の話をしているのですから。

この共通の底辺を持った五次元を現す柱、五つの磁力線を出す一本の棒磁石、一つの頂点からできた五つの逆さ円錐等、イメージ化も大変です。柱を五つに切って積み木式にするなら中心に五つを支えるものが必要です。ちょうど五重の塔のように中心に生命の流れとなる心柱がいるでしょう。

ところでこの中心となるもの、共通の底辺となるものが言霊イの創造意志の発動韻です。

今の欲望となって現れ、今の概念知識となって現れ、今の感情となって現れ、今の選択となって現るその根源にその人が持っている共通の意思があります。この創造意志が各次元に働きかけて現象となります。

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①ア・ウアワオヲエヱイヰ、先天構造

一)先天構造。 【天地の初発の時 ~ 伊耶那岐・美の命】

ア・ウアワオヲエヱイヰ、先天構造

アワ・ウオヲエヱ、在り様実体後天現象

イヰ・チイキミシリヒニ、生き様働き

二)おのれの心の領域。