3・ウオエアの使用法

第三の和。ウオエア。

意志(イ㐄)の発動発展した第二の輪(チイキミシリヒニ)を囲む第三の輪です。

意志は目に見えず、その働きも見えません。感知するには何らかの物象の動きが必要です。鏡の第三の和はこの物象を創ることになります。

意志は現れなくてはならず、現れるには物質の姿を取らねばなりませんが、意志は物質ではないので物質に働きかけることはできません。一見、意志は直接的に物質に働きかけているように見えます。テレビを見たければスイッチを入れるというように、直接的な関係のように思えます。しかし、腕が延びて指先がボタンを押すまでには長い長い道のりがあります。

注意しなくてはならないのは、意識が物質にはたらきかけて意識が物質の上に載って現れることではありません。物質の動きやお中元の品物から心持ちを受け取ったり、あるいは心を言葉に載せて言霊とするというようなことではありません。それらは規則性や約束事や恣意性の個人的なあるいは共同の規範を持たせられたものです。

それらは意志の主体側と物質を恣意の意図で直接結んだだけのもので、規則や習慣習俗などが加わって直接的な物質と意識の結び目が隠されたものです。ですのでその関係は、宿るとか神秘的な力とか、魂精霊とかが乗り移ったものとしてとらえられています。こころと物質(言葉)を結ぼうと努力した結果でしょうが、古事記のいう心と物質(言葉)の関係とは全然違います。

巷でいう言霊は、言葉の魂で、コトダマですが、

古事記の言霊は、言葉が魂で、コトタマです。

意志は物質ではないし、物質は意志ではないので、相互に働き掛け合うことはできません。イの働きの世界はウオエアの実在の世界に働きかけるには次元が全く違うのです。そこで両者を繋ぐ、半分意志側で半分物質側の仲介者が出てきます。

今までイ・チイキミシリヒニ・㐄の十のイ段がありました。これが神社の鳥居・とりい・十理イ・のことで、十のことわりのイのことです。ですので鳥居は橋ですから、くぐるのではなく渡る・ワ足る・といいます。

さて、半物質半意識に近い現代での呼び名はイメージ・想念印象・ですが、問題はその構造です。イメージの始めの方と終わりでは相当な違いがあり、それぞれの途中経過がイメージ論、想像論として語られていますが全体のイ~㐄へ渡る構造は手がつかないようです。

ヤタの鏡は第三の和にウオエアの主体側を持ってくることで、橋・鳥居を渡ることを教えています。

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ウオエアの世界になるまで。

ウオエアの世界は、ウの欲望、オの知識、エの選択、アの感情の世界となって表出されます。

在るものの実在世界ですが、物質の世界のことではなく、意識に現れる世界です。

鏡の巣には、何も無いけれどこれからを創っていくエネルギーが充満しています。

このエネルギーの構成は第一の和の説明ではイ・㐄としてありました。第二ではチイキミシリヒニと発展した形でありました。

ここでは、イの働きには実はウオエアの働きを隠し持っていたとなります。ですので、次の第四では、ウオエアの働きを受け取る動因を隠していたとなります。

こうしてイの動因と実在世界の動因が結ばれます。

と同時に、働きがあり、働きかけと働きかけられる側があるということは、そこに物ではないが物の形を取れる物象が、実は隠されていたとなります。

それがウヲヱワの世界です。

ウヲヱワは物質の方へ動かされる世界ですが、まだ物質の世界ではありません。

ここで鏡の前承する上昇循環によって、一二三四の和が一塊になって物象が形作られます。つまり物象という一般性によって流布されたものによって、物質となるものが確認されることが必要なのです。

この経過を古事記は、蛭子と淡島という呪示で記載しました。

鏡の第五以下は現象となりますが、この四から五への飛躍が隠されているのです。

話が進み過ぎましたが、道程を示したつもりです。

その前に、イという巣に巣くっていたウオエアと結ばれなければなりません。

そのためにはイの展開されたチイキミシリヒニのウオアエの性質と合致するところが両者に見出されなければなりません。

自然現象の卵の細胞分裂や種子の発芽とは違って、人の意志という異次元世界が加わり物質世界に作用しようというのです。意志は物質でもなく電気や重力でも無いけれど、能動的な動因を持ちます。しかし意志は物質ではないので直接に物質に働きかけることができず、物質は物質で物質との作用反作用を起こすだけです。

そんなことを言っていたら何も始まらず動きもしません。意志は物質に触れるため物質化されなくてはならず、物質は意志に触れるため意識化されなくてはなりません。

その接点にあるのが、鏡の中心にあるイが物質現象へ向かう方向と、現象がその動因が秘められている方向へ向かう途中にあるウオエアの第三の和の上で出会うことです。

意識に変換された物質と、意識に変換された意志が、脳髄において共通性をもたらせられるのです。

具体的には言葉(言霊)の発生になります。

ですのでこの言葉はちまたでいわれる言葉に宿る神秘な力宿らされた呪力とかいうように、外から付け加えられるものではなく、言葉(物質)が魂(意志)でなければならないのです。

その言霊言語構造を持つのが世界で唯一の五十音図を使う日本語というわけです。日本が唯一なのではなく日本語が唯一なので、五十音図をアルファベットの集まりとして扱うと大和の日本語である言霊の幸わう国でなくなります。五十の単音のそれぞれが心を現すのが日本語です。

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ウオエア世界の初発の時。

鏡は巣の形をしていて、中央に意志が発生しました。意志は何かについての意志ですからその対象となる実在世界があります。もちろん当初にははっきりしていませんが、実在対象が無いということではなく、意志の働きの中に隠され秘められていて、実在世界を語るまでには至らないだけです。

古事記の冒頭は天地と書いてアメツチと読みます。これは決してテンチとは読みません。テンチと読んでしまえば単なる天と地の宇宙世界のことです。実は、アメツチは吾(ア)の眼(メ)を付(ツ)けて智(チ)と成すことで、吾の眼、私の意識を付けて智恵となったものがとりも直さず私の宇宙世界となります。(序文でわざわざ読み方に注意があるくらいです。)

つまり意志には意志の対象となるものがあり、働きには働きかけられる対象があり、誘うには誘われる相手があります。

こうしてウオエアの世界がここにでてきますが、それは同時にまた中心に秘められてもいました。

秘められている分には語るものはまだありません。そこで語り出すことができるように成るには、働きかける主体側に十全な準備が整ってからのことです。

経過途中というものがありますが、主客の完了した姿が見えないままでは、起点と終点もはっきりしていません。

そこで働きかける起点側の、働きと働きを受ける実在側を明瞭にすることから始め、起点側の実在に働きを受け、それを持って主体側となれるものができるかどうかを探します。

これは主体側が物質に働きかけるということではなく、その前提の話です。鉛筆を持っているのは意志ではなく腕が動いて手が持つのです。その結果を導く準備です。

ウオエアの実在世界と言っていますが、実在物質世界を扱っているのではありません。鉛筆のことを考えられるには鉛筆と納得している自分の脳髄をまず前提していないとできないことです。ここではイからウオエアの実在世界の脳髄内での橋渡しを扱っているところです。

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ウ-ウ・オ-ヲ・エ-ヱ・ア-ワのウについて。

この項目の表題を書き直しますと、ウオエアとウヲヱワになり、鏡の第三第四の輪を現しています。

第三第四は起点終点、主体客体、私とあなた等の始め側と終わり側を示しています。

そこで始めのウと終わりのウが共通であるのは、実在世界に始めと終わりが同じであるようなそのような世界があることを示しています。

それは今あるものが今あるものとして持続している世界のことで、欲望から発する意識世界となっているものです。例えば寿司が喰いたいという欲望世界の始まりは寿司が喰いたいで、喰いたいが持続していき、寿司を喰いたい対象に行き着きます。始めの寿司を喰いたい思いとと終わりの寿司を喰いたい思いとは同じものです。

同じ寿司でも寿司の知識世界では、始まりの寿司の知識と途中の勉強中の寿司の知識と終わりに出てきた知識とでは、その時々の条件で変化します。

喰いたいの場合では途中で喰いたいが変化して、見たいとか聞きたいとかになっては、終わりに喰いたい欲望を充足できません。

知識の場合では、途中で変わろうと知らんてる間にどうなろうと出てきた知識を得ることになります。

というわけで始めのウ(主体側のウ)と終点のウ(客体側のウ)が同じ表記のウで示されています。

五十音図でも忠実にア行のウとワ行のウがありましたが、アイウエオをアルファベットのように扱い始めてしまい、共通のウということでワ行を省略してしまいました。五十音図はアルファベット表ではなく、私の意識と意識の対象の関係を現しているものですから、ワ行の省略は不可能なはずのものです。

五十音図はアルファベットの発音(清音)を並べたものではなく、発音(濁音、拗音等)が他にもあるので不完全であるというのではありません。いわば意識の元素で、それ以上の元素は無いことを示しています。

五十音図は人の意識の姿をかたどったものです。物質世界が複雑であってもその元素は百しかないようなものです。変幻自在理解不能な意識の世界にあってもそれを構成する単位要素は五十しかないということです。それをスメラミコトは一万年前に発見してしまったということです。その発見を歴史に適用したために大いに変形してしまいました。あるいは変形することでスメラミコトが世界歴史を創造してきました。

みんなで豊かで楽しい生活をしたいというウの欲望世界の発展のために、ウの発展の仕方を示しておいたのです。もしそうでなければ、動物と同じように日々の獲物を追う一万年が続くだけです。実際そのような人類も平行しています。欲望があっても欲望の運用意識が無いため、有る欲望を直接得るか得ないかの世界で暮らしています。アイウエオの五十音図でいえば、ウ段のウから始まって途中の(う)・クスツヌフムユル・(う)を端折っている意識と生活をしているわけです。

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ウオエア相互の関係。

ウオエアはその発展した姿を取れば、ウオエアの階層とか次元とか世界とか呼ばれ、それぞれが独自の姿となります。他の階層とは交わらず別々の世界となりますが、取り違えたり混同したりして意識に載ることはあります。

ウオエア相互の関係は、働きや動きが無いからウオエアの世界も無いという段階から、種の中には枝葉も花も含まれるという全体の過程を見る場合や、分化してしまえば別々の方向へ成長していくとする場合や、種が種を産む段階まで様々に取れます。

それらのそれぞれの視点からの見解が、ウオエアを階層とか次元とか世界とか呼ぶことになります。

今ある種の存在の持続を見つめれば言霊ウとなり、種の中に将来の全体が含まれている関係は言霊アとなって開き、成長を過去が現在に変化していく方向へ見ていくと言霊オの過去を呼び寄せる方向になり、また、種がこれからどうなのるのかという将来の方向をとれば言霊エとなります。

それらの全てに共通しているのは今あるイの働きと存在です。

その言霊イの発展がチイ・キミ・シリ・ヒニとなり、チイ-ウ、キミ-オ、シリ-エ、ヒニ-アという対応になります。

イの次元では全てが秘められていて、次いでイにおいて主客の意識が芽生えればチイ・キミ・シリ・ヒニの働きへの剖判と共に、ウオエアの実在への対応も始まります。

イの剖判があるように、剖判以前のウオエアは「ア」で代用しています。未だ詳細にならずされていない意識の始まり段階に相当しています。つまり天地(あめつち)のアメ、吾の眼(私の意識)ということになります。

こうしてアが意識されるようになると、アの間が出来てくるので、それぞれの吾の眼が発生してそれぞれのアの間を照らすことが必要となり、ア間照らす(天照らす)が出てくるようになります。(まだ隠れている。)

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