07章 現象へ。

現象へ。

古事記の冒頭の百神が出てくるまでの神話の世界は「子」事記で、心が子現象(言葉)を生んでいく思惟規範の創造過程を記して実践の智恵としたものです。それは心の現象の起こりを私の意識、吾(あ)の眼(め)、が付(つ)く事から始まるとし、相手対象の地(ち)に成り、心に智(ち)となる世界(アメツチ・天地)創造を成就することを記したものです。

6章までは先天世界を扱ってきました。この7章から後天現象になります。

意識、心の産む現象を語る番ですが、普通にいわれているように現象とは「人間が知覚することのできるすべての物事」という説明にはなりません。

見れば見る、聞けば聞く、叩けば痛いという現象を得ますが、本当は生理物理反応があるだけで「知覚」があるわけではないのです。可視光線と可聴周波数と痛覚の受容器官が反応しているだけで、その受容可能性の範囲内にあった場合だけ人間としての反応があるのです。蝙蝠のように超音波も象の足裏のように超低周波を感じる力能は人にはありません。

また反応は生理上の物理化学反応で、見たからといって画面を見たわけでも、音を聞いたからといってバッハを聴いたわけでもありません。「光を見た、音を聞いた」という、その表現は言葉となった世界です。生理上の光や音の反応世界とは違います。知覚することができるのはそれが可能な作用反作用があるというだけで、知覚があるというのはまだ先の話です。

生理物理からする現象は科学が扱いその相互関係と反応を明らかにしますが、心の現象は言葉という仲介物があるのが特徴です。言葉が無ければ心、意識上の現象は生めないのです。生物界では言葉など無くとも作用反作用は普通に起きていることです。

意識の上では「光を見た」と言うことは身体的には可視光線の受容ですが、その受容反応している世界を現しているのは言葉で、言葉が無ければ意識には光はありません。生理的物理的な作用反作用としての光の戯れがあるだけで、意識のあずかり知らないことです。生物身体世界にはそれに相当する作用反作用世界がありますが、言葉で表現する意識の世界には何が作用反作用を起こすのでしょうか。

それは言葉です。知覚の相手は知覚が、物には物が作用するように、言葉が言葉に作用します。つまり、現象と言う言葉には現象という言葉が相手をします。

ところが、ことの始めには言葉はありません。瞑っていた目を開いて知覚を受け取りますが、言葉はありません。

現象とは何かというのはここから始まります。そこには現象という言葉はまだありません。つまり物、生物、物理化学としては幾らでも作用反作用がありますが、そして意識には生理反応としては反作用はありますが、言葉で現象が出来てこないのです。この何も無いのが現象の初めの姿です。心と意識には無い現象を、そして現象という言葉も無いのに、何故現象と言えるのか、これを解決したのが約一万年前に完成されたフトマニ言霊学で、古事記の冒頭に記載されたものです。

こうしたことは言葉遊びみたいに見えますが、仏教用語で語れば一生をかける問題となります。叩かれれば「痛い」といいますが、仏教では是諸法空相ですから、そんなものは存在しないとなります。

仏陀はそのトリックを知っていましたから、形があると言っても無いと言っても空相だと教えました。弟子たちは先生の教えを聞いてしまいますからこんがらがります。言葉にならないほど深遠な教えがあると二番煎じ達が教えを拡げてしまいました。

眼を開いたとき見たものを言葉は無いのに言葉で語り、言葉で有ると言ったのに空だよと言われる、この二者の現象を解明すればいいのです。

実は、6章までが言葉は無いのに言葉で語ってきた世界でした。それを先天の世界といいます。7章以降に出てくる三十二神で示される現象世界が言葉で語られるのに、こんどは空といわれる世界になります。その後、完全な現象を産むまでに五十神の経過をえることになります。

とはいいましても、古代スメラミコトのお蔭で我々には完璧な規範が与えられていますから、三十二のどの一つをとっても、全体を渡り終えなければ完成された言葉とならないにも係わらず、それぞれが独自の位置を与えられています。一粒の種は未だ葉もつけず幹にならず花を咲かせていなくとも、実をつけ地に落ちて子を産む全体を秘めている種です。 I am that I am.

子現象。

古事記は子現象の生成の秘密を隠している冒頭部分があるため子(現象)の事を記した子事記となっています。しかしそれは子現象となった物の世界の発展経過を分析したものではなく、子現象の生成そのものを扱ったものです。哲学思想界もその発生以来、現象とは何かを探索してきました。

現象学という自覚的な用語に行き着くまでには、イデア、ロゴス、絶対精神、物自体、主観、客観等として、認識論本質論の形で追及してきて、近代において現象学という用語を使用するようになりました。私は哲学者でも現象学の研究家でもありませんが、全世界のどの思想家も現象学を完成出来ないことは分かっています。

というのは現象を表現する言語構造が、古代大和のスメラミコトが創造した大和言葉の日本語五十音図による以外にないからです。世界の言語でのアルファベットは大和の日本語五十音図のように人間の意識の構造図ではありません。

現象を語る場合には、人の意識から出てきて現象となっていくものですから、意識が現象を創造する先天の構造的な言語体系がなければ、現象を語れません。世界の言語は単なる指標言語であるのに対して、古代のスメラミコトの創造した大和の日本語五十音図は、意識の実相を表現したものです。

しかし、現代に生きているわれわれも既に崩れた五十音図しか手にしていないので、日本語を使用していても不完全でしかありません。

意識を説明するには意識の構造(実体と働きの総体)をその言語が実装していなければ的を撃ち抜けません。

そして、子供が父母から生まれるように、言葉という子現象も父母(父韻母音)から生まれる構造を持っています。子が両親から生まれても第三者であるように、言葉もその単位要素は父母から独立しています。

しかしここに大変な問題があります。現象を語るのに現象である言葉をもって何故語れるのかということです。 重さを語るのにも同じ物体でも場所を移動すれば重さが変わりますが質量は変わりません。言葉も地域によって表現は変わりますが、表現される(質量としての)内容意識は変わりません。赤い光、高い音、自分が持っているという意識等の表現はそれぞれですが、人の受容する内容が変化しているのではありません。赤い光は世界中の人に赤い光として受け入れるのは、人間の生物生理上の反作用に変わりがないからです。

ですのでそこには人間としての赤い光への共通した反作用の意識があります。旧約聖書にはもともと言葉はひとつであったと述べられています。この共通した意識の反作用を自覚的に意識的に述べていけば世界共通語としての言語の体系ができあがります。それが古代大和の日本語でした。日本語によく似た言葉が世界中に散らばっている理由です。これには考証が必要ですが、意識と心を研究してその表現との整合性を見出していき、言語の体系にまで仕上げたのはスメラミコト(聖・霊知り)集団で必ずしも日本人(大和人)ということではありません。しかし、仕上げた成果を残し発展させた場所はこの日本の地です。

古事記は子事記、子事記は新事記、古事記ではありません。

心とは何か、心はどう働くか、働けば結果現象である子を産む。千三百年前に太安麻侶さんが書き残した古事記の冒頭が、実は心とは何かを解明し、その運用原理論でした。

何故分かるように知らせなかったか。理由は簡単です。子供に心とは何か、人生とは何か、創造の原理とは何かを言い聞かせることはできません。精神身体物質条件が揃っていないからです。何も知らない赤子が生まれ、自立した行動ができるまでに人生の三分の一が消費されます。

それを歴史に当てはめれば、この世は未だに生存競争で相手を叩くことが正義と平和であるとする世の中です。充分な生活物質の生産分配の世になるには千年単位が必要と古代のスメラミコトは見たからです。

衣食足りて世界平和の基礎ができるまでは、原理を教えたところで意味はありません。そこで宗教や神の形を借りて隠し、いずれ宗教や神の形をとって語ることに限界が来る頃に、その衣をめくり捨てる日が来ることを宗教そのものの中に隠しました。予言とか破局とかを宗教は得意としていますが、これはどの宗教ということではなく、世界のどの宗教でも行き詰まるように創られているためです。時がくれば世界規模、同時多発的に起きるものです。物質文明に起因する欲望が芯となっていますので、その種は世界中にばら蒔かれています。

世界の宗教教義の不十分さそのものが行き詰まりの発火点そのものですが、その内にいる者達には気付かれません。ただ神道が受け継いでいる古事記(子事記)の原理を運用できる者のみが、再び世界のスメラミコトとなります。つまり、世界中で起きている子現象の創造を制御できるからです。

今ある世界という言葉は、部分的に統一世界があるように見えますが、生存競争弱肉強食の基礎の上で創られているだけです。

それは神道でいう世界の弥栄ではありません。

ところが残念なことに神道からスメラミコトが出てくる兆しがまだ見えません。古事記を子事記と読み見直して新事記にしようとする者がいません。

これは大和の日本語を知る者しかできない事業です。何故なら、世界に和を創る意識規範である言語構造にワ行があるのは日本語だけだからです。意識を表出する言語構造が完全でなければ、完全な意識も表出できません。もちろん考え方とか目標とかを設定はできますが、意識構造に無いものを設定することですから、その実体は過去の経験の焼き直しです。温故知新という言葉もありますが、新しきを知るのであって新しき事を敷くのではありません。

日本語の意識構造は、ワ(わ、和、輪)を目指すのではありません。他の言語意識ではそこまでしかできませんが、スメラミコトの創造した大和語は最初からワを積み重ね重層的に構築していく言語構造となっている世界唯一のものです。

この最初からワを積み重ねることができるということは、そこに最初からワがあることです。

現象としてワが最初からある唯一の方法は、ワの体系構造が先天的にあるということです。

先天的というのは生まれつきに備わっていることですが、神仏も地球も存在しない超時間的にあるものということではなく、ひとたび創造されて以来、意識の働きが言葉に係わるときには先天的に存在するということです。その制作創造者がスメラミコト集団であったということです。

そして私達は一万年以来、その軌跡の上で動いているわけです。つまり、世界の歴史はスメラミコト集団の意図によって始まったのです。

子事記の意識(言語)規範。

人が語ることができるのはその人の持っているものだけですが、全体的に見ればその人の使用している言語規範で表現できるものに限られます。民族による言語規範の違いが出てきます。つまり日本人は意識を表現できる(真似できる)規範を完璧な姿で持っているので、世界の民との違いがあるのです。それを神孫(神の孫)と言っています。とはいっても現在は不完全な五十音図しか教えられていませんから、遺伝子が残っているというだけですが、五十音図を理解できるのはその遺伝子が花開く時で、日本語を理解できる人だけです。今後の理解とそれを用いた実践は我々の責任です。ここではどのように我々に意識規範を残していたのかをみなければなりません。

子現象を語るのに持ってする言葉の成立を探す番です。それはワを目標としたりワを目指したりするものではなく、先天的にあるワの積み重ねを創ることです。

6章までがその積み重ねられるワの先天的な中身でした。今後はその上に乗ってうごきます。

先天的な意識(言語)規範は、心が働き始めるや否や、つまり吾(あ)の眼(め)が付(つ)いて地(ち)に成るや否や、そこに(先天的に)現れます。先天的といっても神が創ったものではなく古代のスメラミコトの集団が創ったものを子供のうちから受け入れているものです。

古代スメラミコトは心とは何かを研究し、どのように動き働くのかを検討し、そこで創られる現象とは何かを明かしました。出発点は自分の心で心に浮かんだ何者かではありません。ところが世界の言語活動とそれに乗っている哲学者たちの思考は、主体側から発する現象創造されたものに疑問を持ちました(エポケー・判断停止)が、主体の働きそのものの存在を疑う言語構造を持っていません。そのため主体の思考そのものの働きは停止することはできないのです。

車座に集まったスメラ達の心に浮かんだものの最初は、意識の受容器官に与えられた感覚があるとかないとかではありません。主体に与えられた実体から出発することは既にあるとかないとかの現象を指してしまっています。

受けた感覚を実体化するには非常に不安定で、見た見ない聞いた聞いていない見れない聞けない等のことは普通にあります。ですが有る無しが事の始まりではありません。

物事を否定し絶対無が始まりとする意見も、絶対無という現象を実体として立てるために、それを動かすことに苦労します。

唯一の始まりは、統一された実体と働きの主客を自己領域にして、自己領域と先天領域が統一されたまま、先天領域が自己領域をいざない、統一されている自己領域が働き先天の領域からのいざないを受け入れることです。

ここでいう先天の領域とは意識規範としての五十音図のことで、心に対応した五十音図を先天とするということになります。図形のように描かれた五十音図のことではありません。

それでは結局現象となった五十音図があるとなりますが、今言った通り図形の五十音図ではなく、意識規範としての心に対応している五十音図です。意識は意識の領域で対応していますから、そう言った五十音図のことです。

ところがそんなものは無いじゃないかとなります。そうです。ですのでこの7章からが音図の空白を埋めていく子現象を生んでいくこととなります。

例えばアイウエオ五十音図を見てもらえれば、6章まではウ(ウ)アワヲオエヱチイキミシリヒニイ㐄がそれぞれ枡目を埋めています。形を見てもらうとコを伏せた格好になっています。これが鳥居の原型で、結界を示すものではなくこれから子を生もうとするものです。残り三十二の単音の枡目が空白です。ここからはそれを埋めていこうというわけです。

そこでその埋め方が、現象のできあがっていく順序通りの埋め方になります。その手順の一つ一つが独立した領域を形成しつつ現象の単位となり、三十二を通り終わったときに現象が完成するものとなっています。

枡目は三十二しかありません。つまり現象は三十二通りしかないということです。それが心の産む全てです。もちろん枡目という現象の単位の話で、その連結結合によってできる事柄はまだ後の話です。当座は心にある先天が物象化されつつ、最初の単音を発音して聞いて了解されて先天の座を得ることが明かされます。

現象が先天の座を得ることによって、我々は言葉を自在に使うことができるようになります。

現象が先天の座を得た総体が五十音図と呼ばれるものになります。

そしてこれが先天として定着すると、まず始めにあるものとなり、これによってあるとかないとかの判定を表明するものとなります。

車座になったスメラミコト達が数百年の年月をかけて創造完成したものです。

それらは現象として創造されながら、先天の原理となって、フトマニ(二十真似)、イワサカ(五言葉坂)、五十音図などの名が付いています。

現象創造までの概略。

大和の日本語の言語規範が出来上がったため、私達は通じ合える言葉を話せることができます。

アと言えばアの心での領域が何処にあるのかが互いに分かっています。心の領域は6-4章で十四あることが示されています。言葉はこの領域を渡り歩くことで、その始めの意図や具体的な意図や、どのような物象化(発音等)に向かうのかどう相手に向かうのか、どう受容され処理され結論に行き着くのか、後天現象として現れ、そしてまた次に続く場合のどう先天の位置を取るのか、が決まっていきます。

先天の実体領域。

1 子淡路の穂の狭別の島運用 意識の始まる前の意識の全体構造。 言霊領域ウ。(1)。

2 伊予の二名(ふたな)の島 前もって現れてくる全体。 言霊領域アワ。(2)。

3 隠岐(おき)の三子(みつご)の島 知識と智恵、概念と選択の領域。 言霊領域ヲオエヱ。(4)。

先天の働き領域。

4 筑紫(つくし)の島 意識の働きの領域。 言霊領域チイキミシリヒニ。(8)

5 伊岐(いき)の島 ここから始まってここへ戻ってくる原動韻。 言霊領域イ㐄。(2)

そして、 意識の後天現象要素領域。

6 津(つ)島 先天からイメージ物象化へ。 言霊領域タトヨツテヤユエケメ。(10)。

7 佐渡(さど)の島 物象が言葉表徴と結ばれる。 言霊領域クムスルソセホヘ。(8)。

8 大倭豊秋津(おほやまととよあきつ)島 言葉が移動し相手対象内で了解される。単位要素の完了。 言霊領域フモハヌ・ラサロレノネカマナコ。(14)

言霊領域ン。表現表象・文字となる(1)。(合計50)。

この後に、運用要素が百神目になるまでつづきます。