ブログ045。『言葉の発声・言葉の発生・母音』 ~49

ブログ045。『言葉の発声・言葉の発生・母音』

さて、この個別性を創造していくのが泣き沢女の役割りです。

イザナギは地を這いずり廻って自分に泣き沢女がいることを発見しました。

これは古代スメラミコト達の大和の日本語を創造した時の超人的な努力の姿を指したものであると同時に、腹や胸の振幅呼気の流れの変化が心の状態に反映することをいったものでしょう。実際に心の変化を見るのに腹を膨らましたり胸の圧力や呼気の流通を研究したりしたのでしょう。

心の状態変化が、腹や胸に現れることは知られています。そこでは顔もそれに連動して変化しますが、口と口から発する声にも変化はあります。そこで古代大和のスメラミコト達は心の状態を心が反映し、心が与える身体的な変化をみたり、身体と発声とこころの同一を探したものと思われます。心の現れを身体に見て、その同じ現れを発声に見つけ、もって発声と心の同一を得たのかもしれません。

言葉の発声が心と同じ状態を再現できるようにと数百年間の世代を次いだ努力があったと思われます。これは心の表出を約束事の指示によってものを指し示すことではなく、心の現れと発音とが同一である道を探したのです。ですのでエーでもビーでもシーでも何かをもって指示言葉を発すればいいというものではなく、心の動きと心の身体への伝達と心の発声表現が同一となり、言葉を発したとき言葉の心が事物の実相を表し、身体に違和感を与えないような発生音を探したと思われます。

こうして諸外国語と違って大和の日本語においてのみ意識的な自覚した言語体系を創造しようとしました。諸言語学のように自然発生的な叫びとか指示とか、権威権力とかの介在で体系を作ろうとするものではありません。

ある心を持ったときの腹や胸の動きと同じになるような、発声を探しました。「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。(吉本隆明)」というような偶然の契機は大和語の創造にはないのです。

初めて出会うのは自分の意識です。どの対象であろうと自分が最初に出会うのは自分の意識ですから、海であろうと山であろうと初めての出会いの意識の言語での表現を探しました。

外的対象の意識への反映は物理上の作用反作用で身体上に反映します。それを反映して指示して名を付けるなら、これはこうだこうしようとすればいいのですが、その付けられた名前が事物の実相を表すかといえば全然話が違います。問題は名をつけてその名を発すればそのものの実相を示している名の付け方を探すことです。そのためには指示表出する言葉が、心と物との作用反作用と同じ感触を得ていることが必要なのです。

そこでは心の動きと同じ事を繰り返して心に似せた発音を探していけばいいことになります。

ではどうすればいいのか、まずい例をあげてみます。

心の始まりはまず何も無いことから出発します。

もちろん何も無ければ出発できませんから何かがあります。

始まりは心の意識が発動することから始まります。

心は何かについての心ですから心以前に何かのものがあります。

こういうあるといったり無いといったりする書き方をしていくと堂々巡りで自己矛盾を抜け出せません。

日常はそんなことを問題とせずどんどん時間が流れていきます。ですのでここでは流れに沿った意識の表現を見つけなければなりません。

そうすると時間の流れの構成要素となっている瞬間を見直すと、瞬間とは実は五つに分けられるものの統一した言い方であることに気づきます。瞬間が五つあるなんて夢のような事を言っていると思うでしょう。ところが、スメラミコトは実際にそれを発見してスメラミコトになれたのだし、世界歴史の源動因となっているのです。

瞬間というのは以下の五つのまとまった姿を一言で言ったものです。

瞬間が、今現在ある世界があります、これが後に言霊ウとなります。

瞬間が、過去から今現在へ来る世界があります、これが後に言霊オとなります。

瞬間が、今現在から未来へいく世界があります、これが後に言霊エとなります。

瞬間が、過去現在未来全体としてある世界があります、これが後に言霊アとなります。

瞬間が、上記四態となって動かす世界があります、これが後に言霊イとなります。

こうして瞬間という一点は、現在あるものが、過去から現在へ、現在から未来へ、それらを全体として、それらの原動因にいざなわれて、時の流れとなっていきます。

全ては瞬間ですから、全てには五種の要素がもとと備わっています。

そこでこの五種の心と身体的特徴と発声の三種が同一となるように工夫されたのがアイウエオの母音世界です。

上にまずい例をあげましたが、これを瞬間には五種あるということで解説し直すとこうなります。

ここでは瞬間に今の過現未の全体と動く動因が内包されていますから、止まることを知りません。

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ブログ046。『言葉の発声・言葉の発生・子音』 ここから子音の発声。

しかし発音発声とは表現行為ですから一つの静止した形をもたらすことです。どのような表現も静止を内包しています。

静止しているようには見えない特徴的な分野に音楽と言葉があります。両者とも一つのフレーズが終了するまで持続がありますから、瞬間などは無いように思えます。しかしフレーズが短くなれば単音になります。ブー、残念賞。

ではフレーズが一つの単位要素のようになりいわばそれを瞬間の位置にしているものは何でしょうか。

ここに泣き騒ぐ泣き沢女が出てきます。泣き騒いで涙を落とすまでの持続が瞬間の替わりをします。つまり「畝尾(うねを)の木のもと」の地に涙が落ちて源動因が働くところまでが瞬間と同等な役割をしているというわけです。もう秋か、と人生五十年も瞬間となります。

瞬間を五つに分類しましたが、この五つの有り方が同様に五次元の実体世界の意識につながっていきます。

瞬間が、今現在ある世界があります、この実体世界の意識は欲望になり、これを言霊ウと呼びます。

瞬間が、過去から今現在へ来る世界があります、この実体世界の意識は知識になり、これを言霊オと呼びます。

瞬間が、今現在から未来へいく世界があります、この実体世界の意識は選択になり、これを言霊エと呼びます。

瞬間が、過去現在未来全体としてある世界があります、この実体世界の意識は感情になり、これを言霊アと呼びます。

瞬間が、上記四態となって動かす世界があります、この実体世界の意識は意志になり、これを言霊イと呼びます。

竹内文書によれば古代多くの宗教や思想の開祖が大和のスメラミコトを訪れています。スメラミコトはそれぞれに言霊フトマニ学のさわりを与え、各教祖は自国で自分の思想宗教を開陳するようになりました。

今話している瞬間の五分類はそれぞれ五大とか五行、五天使、五蘊、等々の五を基数とする分類の基を提供しています。(古事記も後に謎の言葉となって五百津(いほつ)、湯津(ゆず)=五母音を基調とした五十音となります。)

瞬間が五つに分類できれるなら人の世界と人の意識もそうなるしかありません。次元という言葉を使えば、人は五次元に息=五気をして、生きる=五きるのです。それが命=五の道です。その命を持ったものがいる=五る、これが人ですが、人=ヒト・霊止・霊十には五がありません。というのはこういうわけです。十は五+五のことで、五次元の実体世界とその働きの五つを各五次元で表すことができるのが人間であり、その実体五と働き五で、(十=実体の霊五と働きの霊五で、)霊十・ヒトということです。

働きの霊五で実体の霊五を止め留めて形に現す、現象を創造する、形象を留めつつ社会を創造していくのが人です。この両者が人の中で揃わないと霊十といえなくなります。人の実体側と働き側は見られるものと見るもの、客観と主観として意識に反映していきます。

ここに客体があるということは客体を見ている主体があるということです。

そうすると母音側実在があるというのはそれを見ている主体側が付いているということになり、統一されている両者を客体として見ると実体が浮かび上がり、主体として見ると働きが見えてくることになります。

母音側と言っていたのは実は見られる実体側と見る働き側をまとめてみている時に言っていたことになります。ですのでここに母音の二者、見る側の母音と見られる側の母音があります。

さて、意識内には見る側と見られる側ができてしまいました。そこでこの両者を関連づけ繋げるものが必要です。

もちろん母音は実在世界側ですから繋げるといっても勝手に動きません。

母音世界はありてあるだけの世界ですから自らは動けず、これを動かすのは父韻で、母音に内在する父韻が父韻のリズムを母音に種を植えつけると、母音が主体的な母音と客体的な母音に剖判します。(受精卵の細胞分裂)そして見る側の母音と見られる側の母音を繋げると、見ていた母音側と見られていた母音が現象として出てきます。(造化三神の構造)

母音母音と同じ言葉が続いていますが、前承する螺旋上昇循環をしていますから、前段と後段では次元が違うことに注意してください。(道は一を生じ 一は二を生じ 二は三を生じ 三は万物を生ず。造化三神のこと。)

ここにできた見られる側の母音を言霊半母音といいます。

前にお寺の鐘は鳴っていないと言う話をしました(43・44)。鐘を実在で言い換えれば言霊母音など実在しないということです。

では実在しないものが何故取り上げられるかといえば、何だろう何かなという私の意識の眼が働くからです。ここにも意識の循環が働きますので、同じ言葉を使用していても次元の前後があります。

ここは何べん書いても何回説明しても経験意識で理解しようとすれば自己撞着に陥るところで、意識的に理性的に概念的に読んでもらうとなにも理解できないところです。

古事記は単に『あめつち(吾の目を付けて智と成す)』と言ったり、『御中主』と言ったり、他の文献では『中今』といったり、『天ゆずる国ゆずる』といったりで、そんなことは分かりはしないのだよ『みな独神と成りまして身を隠したまいき』、一人で隠れているものは探しようがない、と言っています。

私も何べんも繰り返して探してみようと挑戦していますが、書く度に何か新しいことが分かったように感じているのをいいことのように思っていました。しかし落ち着いて思ってみれば幾らやっても分かっていないから、分かることはないから、分かったと思われるものが出てくるのです。全体を知っていないのに知ったと手を叩いているだけでした。

何も分かっていないと言うことをベースにして今回見つけたことは、母音が「あめつち」を受けると剖判して母音と半母音になる、また半母音も「あめつち」を受けて母音側の実体と働きに答えるようになるということでした。

見られる側の半母音も剖判することで主体側母音にに対応する。主体側母音の動きに対応するには客体側母音にも主体側と同じ実体働きが在るためとなります。

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ブログ047。『半母音』

フトマニ言霊学で言う半母音は発音上は言語学でいう接近音の形をとっていますが、発音上の分類である以前に精神意識に関するものです。

半母音言霊を説明するために配当されている神名は「カミムスビ」で、噛み、加味、咬み、加実して結ばれる相手をいいます。

一方結びにやっくる神は「タカミムスビ」で「カミムスビ」に対して「タ」が加味される相手となります。

現在の発音の分類上はヤ行ワ行に半母音がありますが、フトマニ言霊学ではワ行だけです。弱い有声の「ウ・w」を伴わなければならない意識の表出がア行母音の行き着く先です。「半母音」を存在させるという意識の動きがあるためです。

ア行母音は主体的な自らの表出意識を相手となるワ行母音の内に見いだすことで、自身を確認します。

「あ」と言えばそれがそのまま「あ」と了解されるのではありません。「あ」を言おうとして、「あ」をイメージして、「あ」という物象と結びついて、「あ」という物象を造ってそれを表出して、相手に投げかけ、「あ」と聞いて、「あ」を解読して確認し、「あ」と了解するので、その「あ」という瞬間の過程に五十工程あります。そのどれか一つでもが障害を起こしても「あ」の了解には達しません。これが古事記の冒頭五十神の真意でした。

これは、他人に聞かせる場合だけでなく、自分につぶやくときでも発音しないで考えている時でもことは同じで五十の工程があります。

この工程の橋をうまく渡れれば半母音行(ワ行)に達したということです。

主体側がイメージし始め主体の内容であるあ行を、相手側わ行において成就することです。つまり子音現象としてこの世に創造することです。

それは瞬時に頭脳内で起きることですが、ここにはそれなりの時間差があります。

始めの「あ」と言おうとして形成される言霊はミナカヌシといわれ、現在ある世界の提起ですが、それが「わ」行半母音に達すると、現在ある世界が了解され現在ある世界が出現するのです。そしてこの了解された現在ある世界が定置されます。頭脳内の世界が実在世界となります。

そこで現在ある世界が客体側から見られてある世界として定置されますと、半母音になってその現在の位置を得、また現在ある世界が主体側によって見る世界として定置されますと、母音になりその現在位置を得ます。

こうして半母音側は主体の介在によって同じく現在となりますが、それは現在となってしまった(過去になってしまった)のではなく、過去になる性質を併せ持った現在ということです。頭脳内のイメージから物象を伴い発声して相手に渡って了解されて最初のイメージが現れますが、常に現在-現在の表出という形をとります。ですので時間の流れはあるが、母音側の働きによって現れる性質を持つため、いわば半過去の現在を半母音といいます。

見る側と見られる側は一心同体ですが、それでも主体側の関わりの無いところには相手側も無いというところで、半母音ということになります。

それを無理に記号で表せば、「う」の母音が「wウ」の半母音になります。

「w」を使うのはイメージし易いからですが、古代大和ではそうはいきません。

古代大和では面白いことに、半母音を表す「カミムスビ」に「タ」を付けて主体側を作り区別しました(タカミムスビ・漢語表記は後からのこじつけですからひとまず置いといてください。)。

主体側のタカミムスビに、咬み合わされた「タ」を外すと客体側のカミムスビが含まれています。主体側に「タ」が一言多いのは主体には「タ」という働き全体があることを示しています。

一言多い「タ」によって主体側は客体側に行き着くことができ、自らを表明できます。これをさらに言うと主体側が表明するのは、自らに既に持っている「カミムスビ・客体側」ということです。この主体側が直接現れるのが、一般性となった言葉(ヒルコ、淡島)や、人は思っている事知っている事考えている事しか話せないという大本になるものです。

ところが半母音は各次元に起きます。つまり「今」は五つに分類できましたから半母音も五つあることになります。また一般性を創造すると同時に主体独自の個別性も創造していきます。

今度はこの個別性がどこから来たかを問う番です。

その前に半母音の五つの精神世界を列記しておきます。

言霊ウの半母音、「う」。

瞬間には今現在ある世界があります、この実体世界の意識は欲望になり、

主体側は与えられた実体客観世界を全体的に反映して主観世界を形成しようと客体半母音側へ向かいますが、欲望意識の相手半母音側とは実は自身の事です。自分の欲望があっち側にあるという事は無く、自分自身のうちにある欲望を自分が欲しているだけです。

ですのであ行とわ行の「う」は同一なのですが、主客から言えば、主観世界に形成されたものが心を推進していく半母音となります。この世界にはいつどこでどうしてこうなったかの自覚は無く、五感感覚上の自然発生性に任されています。

言霊オの半母音、「を」。

瞬間には過去から今現在へ来る世界があります、この実体世界の意識は知識、記憶になり、

主体側は過去から来るものを自分の精神宇宙の方向へ掻き寄せようと客体世界に向かいますが、そこにあるものは全て過去のもの達だけです。

ですので、主体側からする過去を掻き寄せることは、客体側からすると己に既にある内容に引き寄せ結びつこうとする世界になり、半母音は後ろを向いて尾が長くなるように見えます。

よく新しい知識を得て豊かになるといいますが、知識が増えたり新規にできたのではなく、知識のある場所が移動しただけです。主体側母音側も半母音側も既にある自己の精神宇宙に結びつけたり結ばれたりしますが、それらの出所も行き先も既得の自我宇宙のお気に入りや恣意によるので、自覚的なものではありません。

言霊エの半母音、「ヱ」。

瞬間には今現在から未来へいく世界があります、この実体世界の意識は選択になり、

主体側は己にあるものを心の中心に向かって静まり納め、今現在を治めようとします。ここにおいてのみ新しいことが追加されます。

ですのでそれを客体側から見ると、自分の精神宇宙の核や周辺に追加拡大拡散するように見えます。半母音は次々に外郭・枝を拡げ蕾を開くように見えます。

このエの次元において現在あるものが地に置かれ、半母音の世界から次々に絵が描かれるようにカンバスに継ぎ足されていきます。ここでのみ現在あるという自覚が現在選択するという介在によって現在置かれるという自覚になります。半母音側ヱに渡るのが意志行為となります。

言霊アの半母音、「わ」。

瞬間には過去現在未来全体として鳥瞰する世界があります、この実体世界の意識は感情になり、

主体側は自分の心が、自分の精神内容を過去から出てきて現在にあり未来に向かうものという自覚があり、自分の心の表面に現れてきたものと了解しています。

ところが自分の出所は分かっていてもその行き着く先の半母音側を確定することを知りません。そこで半母音側としてはいつか収まり煮詰まるものとして成るに任せることになりますが、主体側の自覚はその相手である半母音側において完成成就を求め和・輪を構成しようとします。

世界で唯一、大和語において半母音の「わ」が独立して意味のある音を形成している言語体系を日本語と日本人が引き継いでいるため、今後この「わ」の自覚が世界を決していくことになります。(天孫民族)

言霊イの半母音、「㐄」。

瞬間には上記四態となって動かす世界があります。上記四態は実体世界ですから自分からは動けません。物理的な外力による作用反作用に反応する意識は動物と同じです。しかしこの実体世界は人の意志によって動きます。この意識は意志になり、上記四態を統轄しそれぞれをいざなぎいざないます。また主体側が客体側(母音が半母音)に渡る原動因となりその架け橋となります。そして半母音側に渡った現象を産みそれを子音として名付けていきます。

母音側イは起動韻(の原動因)として、半母音側ヰは受動韻(原動因)となります。

起動にしろ受動にしろ動く動くというだけでは動けないので、自らを「いざ」と表出しなければなりません。この動く型に八種があり父韻と呼ばれます。

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ブログ048。 『 見られる側 』

「モーゼは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。

「神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。出エジプト記3:13~14(口語訳)」

「And God said to Moses, "I AM WHO I AM." And He said, "Thus you shall say to the children of Israel, 'I AM has sent me to you.' "(New King James Version)」

神さんの言葉ということで事を大きくし過ぎです。同じ構文でいうならば、天地創造の神さんの話ですから神さんが造った、みみずやモグラに「あなたのお名前はなんと言うのですか」と質問してもいいわけです。当然同じ答えになります。モグラいわく、 "I AM WHO I AM."。 モーゼが自分に問うても、 "I AM WHO I AM."です。

始めの I は問われたヒトが答えるのですから答えるそのヒトのこと(神が答えているから神)です。二番目の I は質問した方のヒトです。モグラに質問したのならその答えは、モグラとは質問者が質問者であるところのもの(モーゼがモーゼたらしめているもの)である、となります。質問者がモグラはこうで神はこうで自分はこうでと規定しているところのものが私です、となります。

質問者が神を絶対者としたのならそれだけのもので、創造主としたらそれだけのもので、価値のないものとしたらやはりそれだけのものということです。アブラハム、イサク、ヤコブの神である唯一神ですから質問者は誰でも同じように神といいますが、質問者がそれぞれに自分の神を語ると、各質問者にあるだけの神を個別的に語るだけになってしまいます。神という言葉は一つですが、各人は思い思い勝手なことを語ることになります。

神という名が一つなら各人が勝手なことを語るのを止めさせて一つのことを語らせなければなりません。そこで次にはこうなります。モーゼが神に質問するのではなく、神が神に質問すれば、勝手に付け加えられるものが一掃されます。神は自他に対していつも同じことを語るようになります。

神さんの場合はそれでいいのですが、この同じ構文を人間自身において実現しないと、人間界ではいつまで経っても対立や抗争がなくなりません。それも単に意見が違うという詰まらない勝手に決めた理由からです。つまり人は自分に問い、I AM WHO I AM と誰もが答えなければなりません。

しかし神を設定してしまった人間の作った聖書ではそういう具合には行きません。ヒトの理想的な到達目標としてあちら側に置いてしまったからです。

「鵜葺不合皇朝[うがやふきあえず(神倭朝以前の皇朝)]第三十八代神足別豊鋤天皇(かんたるわけとよすき)の御宇(みよ)、イスラエルの王モーゼ来る。天皇親しくこれを教う。帰るに臨み天皇モーゼに勅して曰く『汝モーゼ、汝一人より他に神なしと知れ』と……」「汝人間モーゼ、汝一人がそのまま神なのであり、それ以外に神はないのだ」という話が竹内文書にあります。

さて、神という言葉を使うと必ず混乱が起きるしかないのが現代までの知性の段階です。そしてまた、神がヒトに問うても、ヒトに I AM WHO I AM と答えるようにすることができません。言霊学を学ぶことで少しは何かを得るでしょうか。『汝モーゼ、汝一人より他に神なしと知れ』という教えはどこに行ったのでしょうか。

半母音の理解はそう簡単にうまくいきません。発音上の分析ではなく意識の上での主体母音に対するもので、発音のように現象を扱うものではないからです。

見るものと見られるもののことをいうと繰り返していますが、ここで見るものを見る自分に取り、見られるものを相手側として、例えば自分は画面を見ているとした時、見られる側は画面でありそれが半母音側であるとしやすい。わたしも長い間その積もりでいました。見られているものが半母音側で、見られている画面、見られている相手対象が半母音側という感覚でした。

ところが画面を見る相手を見るという前提はとんでもない間違いの元なのです。もちろんそんなことは当たり前の意識行為で普通のことですが、見られる画面、相手を半母音側にするというのはあべこべなのです。

画面を見るといいますが、画面は現象結果となったからそれを指して画面というので、画面が始めからあるのではありません。何か分からないもの、何か分からない主体の動きがあって、後に画面と了解するので、当初には画面であるのか見る私がいるのかも分からない未剖判状態なのでした。

ここの時点は意識のある一点が動き出す時で、主体側も客体側も無く母音側も半母音側も無いのです。画面があるというのはその後のことで、そもそも見るに関してならば視界を遮って眼をつぶったまま事を思ってみれば、そこには見る画面も相手もいません。眼をつむったままの状態で主客を見つけるのは大変なことです。

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ブログ049。『 現象・子 』

母音側から半母音側へ渡って子音を創造すると言霊学ではいいますが、実際はどのようなものでしょうか。

大事忍男の神から大宣都比売の神までで先天構造内から現象子音となるまでが解説されています。

津島 、佐渡の島 、大倭豊秋津の島で、先天構造内の活動がイメージにまとめられ、イメージが言葉物象と結ばれ、言葉という物象が実際に移動して相手に到達し了解されて子音現象となります。

各領域・島で父韻の働きがあるのですが、母音側から半母音へ渡る父韻の働きがよく分かりませんので、現象子音が生まれるとはどういうことか追求してみたいとおもいます。母音が主体側だといっても母音が自分で動くのではありません。父韻が係わらねばならないことです。

母体内で受精した卵子が成長発展変態していくように、実体側の変化にどう父韻が係わるのか見たいと思います。

子音現象が発生してくる過程は大事忍男からを読み直せばいいのですが、その一つ一つにどう父韻が係わって、半母音側へ渡るのかをみたいわけです。古事記は前承する上昇循環方式の説明ですからそれが解ければいい。

現象子音の発生までには先天構造を通過し、次の三領域を通過します。

○、先天

一、津島。先天構造内に起った活動が津島という十言霊の現象を経て、頭脳内で実際のイメージにまとめられ行く過程です

二、佐渡。先天の活動が一つのイメージ化され、そのイメージを誰にどのような表現で伝えたらよいか、が検討されて言葉として表現・発生される処の区分

三、大倭豊秋津島。音声が空中を飛び、声は耳により入って聞いた人の頭脳内で「ああこういうことか」と了解され行動になります。 その後、言葉は先天宇宙に帰り、記憶として印画されて言葉の循環はここで終ります。 耳から入って了解されるまで。

ここまで来て現象として第三者の立場に立つ子音が現れます。各過程各段階で同じ原理が繰り返されますからどこか一点を突破すればいいのですが、簡単ではありません。後で先天~イメージへ行く原理構造を取り上げます。

ところで、現象を知覚の相手とするのはそれで構わないのですが、そうすると現象とは何かとなれば、無数のあれこれとなって締まりがつかなくなります。辞書でいう現象なら知覚意識の相手でいいのですが、知覚上の現象の発生を示していません。物理世界ならば作用反作用や原因結果で現象も説明できその発生をたどれます。

では意識の上で現象の発生とはどういうことでしょうか。

物理世界であろうと意識世界であろうと現象であると相手・自分に知らせて初めて現象と了解できます。現象を表明するのは言葉で、それでもって無数の現象のあれやこれやを示します。注意してみると現象と言われるものはそれこそ無数にあるのですが、それを表明する言葉が無数にあるのではありません。言葉の数などたかが知れたものです。基本要素の三十前後のアルファベットや、五十のアイウエオ等々、それだけしかしありません。たったそれだけのもので無限の世界を指示しているのです。

では現象要素となっているAとかBとかは何の現象でしょうか。そして、「あ」「い」「う」等々は何の現象でしょうか。意識の相手を現象としていくのですから、AもBもあいうも何らかの意識です。言葉のできた大昔にはAもBもCも人の意識を反映していたかもしれません。しかし現代では言葉とは意識だといってもその痕跡を見いだすのは至難の技です。ことに単位要素として見ていけば何にも見つからないくらいです。

ここに世界でたった一つの例外があります。

それが大和の日本語です。

古代大和(チベット?)において人の意識が研究され、人の意識とは五十から成り立った要素の統一体で、その一つ一つの意識に音を見立てて、音と意識の同一性を探し、それに発声音を配当して言葉とし、人間=五十の意識=五十の音=五十の意識単位要素=アイウエオ五十音を作りました。

例えば朝日の昇るのを見ているときには、イーとかエーとか言いません。アーーと全身全霊が敬虔さに奮えます。その意識を言語表現のアとした、といった具合です。それは心の感情全体と他の相手対象が完全に結び合わされたようです。そこで古事記は感情の意識を「あ」として、タ噛み結び(高御産巣日)の神としました。

大和語以外の場合には、アルファベットその他のABCも元々は意識の在り方と発声とに関連があったかもしれませんが、その痕跡を追うことは難しいです。 「C」の場合などその発音からして種々でcocoa:chicken:cycle:等とk.t.sの音変化を引き連れています。「C」が意識の表明となっているとすることは無理です。

ところが大和の日本語においてのみ、人間とは五十の意識を持った統合体でありそれを五十の発声として発音している体系的な言語構造を持っていので、五十の一つ一つの意識と発音が対応しています。

物質世界の現象が無数にあっても現象の単位は百ちょっとあるように、同様に精神世界の無数無限の現象にも最小単位があります。

それを秘密裏に書き示したのが古事記(子(こ)現象(事)を記したもの)です。古事記の本文は本来上巻の神代の巻きで精神世界の言霊の働きを説明していて、天皇家の歴史部分は付け足しです。世界思想界では未だに現象の生成を説明した人がいません。五大五行五天使等で実体世界の構成は説明されていますが、そこから出てくる現象を説明した思想は、古事記の神代の形を借りたフトマニ言霊思想以外にありません。

それはまた安万侶によって千三百年前に作られた思想ではなく、一万年前にはスメラミコトによって完成し実践されていた思想で、時の事情によって暗喩表現されて、隠したものです。古代においては既に完成していて、その思想の効力は絶大な権威を得ていました。その実行者たちは古代においてスメラミコトと名乗り、その現実的な実践統率力において世界の社会政治を治めていたのです。

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