古事記の神は科学で言う元素のこと。五十の意識元素。

以下の引用は何の気負いも無い普通に書かれた文章です。

新興宗教というとあの辺りに建てる、魂が同じですから。日本には本来新興宗教というのはないのです。何故なら信仰そのものがない。日本人の血の中には神様の前で頭を下げることはない国家、民族です。何故なら自分が神であるということを知っていたから。

自分以外に神はいないということを知っていたから。だから「拝む」は愚がむ、それは「愚か」が語源です。愚かと申しますのは、頭が良い人を愚かとは申しません。拝むべきじゃないものを拝む。自分を拝むのですから拝む必要はない。神を拝む行為は日本人の根本的な習性としてはないのです。

二千年前に言霊の学問を伊勢神宮の本殿の八咫鏡に隠して、それ以来拝むようになった。だから西行が「何事がおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」、誰もあそこに何事があったのかを忘れてしまった。

八咫鏡の何処に神様がいるのか、もうそろそろ日本人は目が醒めていい頃。神様は自分であるということ、この神様は腹が減ると「腹減ったー」、満腹になると瞼が重くなって「一寝入りするか」という神様ですが、その人の中に宿る神性のウオアエイの四つの母音で表される天之御柱。

太安万侶が書いた言霊百神の天の御中主の神から須佐之男命まで、ちょうど百の神様が出て来ます、百神以外の神はいない。やってみればその通りだなと分かる。大昔の霊知り達はそのことを発見して、三千年後どのような世の中になっているかを見通した上で経綸をなさっている。

---------- ここまで引用 -----------

神さんの話をしている古事記を相手にして、そんな神さんはいないというのは、目茶苦茶な違和感があります。しかしその違和感とは、自分の、あるいは各人の思い考えている神さんがいると思っていることに対して、そんな神さんはいないといわれることに対する違和感であることが多い。実際古事記に記載のある神さんを指して、そんなものはいないと言われも、そうかもしれないと気を許してしまう。

神さんの科学的客観的な定義はないが、それぞれの思いで神とはこうだということはできます。そこには肯定も否定も疑問も、知っている分かっているという範囲での選択も、自由勝手に相手対象として名指しされた神名と照らし合わされることができます。名前が分かれば推量し、聞いたこともない名前ならカミという名前だけで推測します。更には集団に属したり暗示を受けたりしていれば、前提が割りかしはっきりしています。

科学知識による発明発見は実に多くのチマタの神を殺してきました。神の存在はどんどん後退していきとうとう有るという抽象語に留まるようになりました。と同時に有るという抽象語のその一般規定を与える力を借りて、あるいは隠れ蓑として、全て有るものには神が有ると開き直りを見せています。

では古事記でいう神とはなんでしょうか。

古事記は作られたものですからその作者の思想を持っていますが、そこに出てくる作者のいう神は何時のものでしょうか。何時からのものであっても理解し表記するのはその時の作者の力量です。作者によって変わることもあります。

しかし、それだけのことでしたら、十人十色の見解や、各人の思い考える新しい神さんがにょきにょき出てくることでしょう。そして神さん同士の生存競争が弱肉強食が始まります。世界の大宗教などといってわざわざ「大」と付けることまでしています。

考え思想は変わります。科学思想も同様です。納得了解され再確認が行き渡りある時まで殺し合いまでしていたものが確定し、科学思想の原理となることもあります。

神とは何かという疑問も、相手となっている神の居場所はどんどん後退して言って、現代ではとうとう存在・有という抽象語・抽象存在の中に閉じ込められました。後もう一歩下れば無の中へ転落です。

八百万の神というのも、山川の自然そのものが神あったものから、それらに神が宿っているという風に変化しています。では宿り主はというと単なる抽象神になってしまっています。

科学思想において諸元素は発見され既に確定しています。物質世界は元素から成り立っていることを誰でもが知っています。

では意識世界にはどのような意識元素があるのでしょうか。意識の成り立ちを何故意識元素で説明できないのでしょうか。

脳髄は物質で出来ているのです。その脳髄は太陽系の中で公転し自転し、銀河宇宙を循環しています。

脳髄の作りものたる意識も回転循環していないはずはありません。それなのに意識の産物はみな孤立し循環しているようには見えず、各自が勝手に離れ離れに林立しているように見えます。またそのように仕向けられているように見えます。

はたしてそうでしょうか。

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意識元素・精神元素 (人類の秘密)

物質の元素に辿り着くまでには 測定機器の進化が必要でした。物質の元素を解明するのは二十世紀を待たねばならず、それに続くよる分析による創造の仕事は今世紀の仕事です。それ以前は空想仮定でした。

では、精神の元素はいつ明かされるのでしょうか。

しかし、精神の元素を明かすにはどのような器械も必要ありません。つまり今すぐ私達が、あるいは一万年前に先人たちが明かそうと同じことで、頭を動かし、意識と頭の中の相手対象との関係を明かすだけです。

これに対して思想の進化があればこそ精神の元素も明かになるというのもあるでしょう。単純幼稚から複雑正確へと進化していくと思っていることです。でしたら、精神元素が明らかになる以前の精神意識とは何ですか。大昔の民話が神話になり、宗教になってきたのでしょうか。それは人の進化を現わし、今、神といわれているものもいつか何かに進化していくのでしょうか。

記憶量の変化やそれに応じた対応の仕方の複雑化を進化というのでしょうか。それ以前は原始人の幼稚な意識とでも言うつもりでしょうか。千年前の古典を読み、二千年前の宗教書に感化されるとはどういうことでしょうか。

実はこういうことです。

最新の測定器も進歩した思想とかも無かった一万年前に、精神の元素となる要素とそれの運用要素は解明し尽くされてしまっていたのです。

その時に得られた正当な思考の規範が全人類の頭脳内にうっすらと印画されているために、今までに得られた知識の助けを借りる形を取って、判定できるのです。

各地域民族に残されているうっすらとした判定の規範が歴史の流れと共に変化しているために、表面上は十人十色になっています。生まれながらの先天の判断規範があるので、いまここでの推測や選択判定ができます。そうでなければ赤の他人には何も伝わりません。そこには内容は伝わらないこともありますが、内容があるという形式は共有されます。

その判定の規範とは、古事記の冒頭の百神が、前半五十神と後半五十神の丁度よい区切りを造っていて、それぞれが精神意識の五十の要素と意識要素運用の五十の手順となっているものです。それが古代において人類のために流布されていたものです。

それが人類の秘密として古事記の冒頭に隠されているのです。ですのでその後の意識の産物は、世界の宗教とか進歩してきた思想等は、古事記の隠された秘宝の上に知らず知らず砂上の楼閣を築いてきたものたちです。

ここで注意することは、それらの世界思想が空想空理としてこの世に流布されるように、古事記の冒頭の思想原理によって起こされたものということです。ですので砂上の楼閣といっても無闇と無駄になったものではなく、千数百年後に冒頭が再起復活するための前提となっています。

千三百年前に書かれた古事記が何故一万年前のことを語れるのかは、頭脳内での意識の現れのときの昆虫で言う変態変身と言霊学による歴史編を見てもらいたいと思います。

つまり、一万年前に完成していた言霊原理からすれば、その後の世界思想宗教に限らず各個人が抱く思いやその思考法も、身の内容はないが、形式上内容が保存されている蛭子と淡島というわけです。(後述)

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意識の元素=言霊(コトタマ)

物質の最小単位となる要素を元素というと、意識に於ける最小単位は言霊(コトタマ)といえます。現代の問題は物質に元素を見つけておきながら、意識には見つけられない、夢にも思われていないということではありません。

既に一万年前に解決済みであり、その証拠に古事記が書かれているということではなく、言霊元素によって組み立てられた言葉とその文化文明があるからです。

神道、皇室祭祈、しもじもの風俗習慣、そして何よりも大和の日本語に中身は流布していないが、言霊、言霊学の形式は自覚無自覚的に貫かれています。その特徴は何でもないちょっとしたこと、ちょっとした行為にも現われていて、言葉で表現すればわ行の『ワ』を実践しているといえます。

例えば道を歩く時でも日本以外のわ行の無い国では、歩くというのは目的地に到達するための直進です。

日本人(日本語を知っている)の行動は円環循環状です。勿論声には出しませんが、まっすぐ歩く時にも前方の人や物との対話が歩く人との間に絶えず循環しています。これは頭脳内で超速で発語されないまま処理されています。見ることも歩を進めることも、常に自他との無言で超速での意識の流れによる言葉の循環活動が行なわれています。

わ行の無い人々では、和や輪や環の形が無いため一時的な、直進の変形として現われます。

わ行を持つ人々には、その都度、相手や事物とのワの完遂のために直進していきます。

ここにある『ワ』は日本人だけが持つ生物的な民族的な属性ではありません。

太古においてスメラミコトが発見創造した大和の五十音図に刻印した単音のワの結果なのです。

その言霊ワは古事記ではカミムスビ(冒頭から三番目の神)として描かれています。

何故カミムスビが言霊ワなのかは、一つには非公開の皇室の賢所に秘蔵されている書物に書いてあること、一つには古事記の冒頭の解明によって明らかになったこと、そして、誰でも日本語が分かるものには自覚的な反省意識によってカミムスビは言霊ワあることが体験され自得できることです。